華嚴經釋題
清寒子 雪岑 撰
清寒子 雪岑 撰
大方廣佛華嚴經者。斯乃諸佛之密藏。如來之性海。視之者。莫識其旨歸。挹之者。罕測其涯際。添性海之波瀾。廓法界之疆域。大乘頓教。普被於無窮。方廣真詮。遐該於有識。豈謂後五百歲。忽奉金口之言。娑婆境中。俄啟珠函之秘。無得而稱者。其唯法界歟。法界者。一切眾生之身心本體也。從本以來。靈昭廓徹。廣大虛寂。唯一真境而已。無有相貌。而森羅大千。無有邊。而含容萬有。昭昭於心目之間。而相不可覩。晃晃於色塵之內。而理不可分。非徹法之慧目。離念之明智。不能見自心。如此之靈通也。故。世尊。初成正覺。歎曰。奇哉。我今普觀一切眾生。具有如來智慧德相。但以妄想執着。而不能證得。開示宗旨。三復竭愚。露滴天池。喜合百川之味。塵培華岳。無增萬仞之高。極虛空之可度。體無邊涯。大也。竭滄溟。而可飲。法門無盡。方也。碎塵剎而可數。用無能測。廣也。離覺所覺。朗萬法之幽邃。佛也。芬敷萬行。榮耀眾德。華也。圓兹行德。飾彼十身。嚴也。貫穿玄微。以成真光之彩。經也。大哉。真界。萬法資始歟。包空有而絕相。入言象而無跡。妙有。得之而不有。真空。得之而不空。生滅。得之而真常。緣起。得之而交映。我佛。得之而妙踐。真覺。廓淨塵習。寂寥於萬化之域。動用於一虛之中。融身剎而相含。流聲光而遐燭。我皇得之。靈鑑虛極。不有太虛。曷展無涯之照。不有真界。豈淨等空之心。諸佛心內。眾生。新新作佛。眾生心中。諸佛。念念證真。動千變而非多。事理。交徹而兩忘。性相。融通而無盡。一字法門。海墨書而不盡。一毫之善。空界盡而無窮。語其定也。冥一如於無心。即萬動而恒寂。海湛真智。光含性空。星羅法身。影落心水。圓音。非扣而長演。果海。離念而心傳。萬行。忘照而齊修。自晉譯微言。則雙童現瑞。唐翻至教。則甘露呈祥。冥衛昭然。親紆御筆。論成西域。則地震光流。志徹清凉。則感通玄悟。其書寫也。則經輝五色。楮香四達。冬葵發艷。瑞鳥啣花。讀誦。則渺然履空。煥若臨鏡。每含舍利。適會神僧。湧地。現金色之身。昇天。止修羅之陣。觀行。則無生入證。偈讚排空。海神𦗟。而時雨滂沱。天童迎。而大水溺漫。講說。則華梵通韻。人天共遵。洪水斷流。神光入宇。良以一文之妙。攝義無遺。一偈之功。能破地獄。盥掌之水。尚拯生靈。讀誦思修。功齊種智。宿生何幸。感遇斯文。其事跡昭彰。備於傳記。
「大方広仏華厳経」とは、諸仏の秘密の宝庫であり、如来の真実の世界(性海)である。これを観ようとしても、その趣旨を理解できる者はおらず、これを汲もうとしても、その果てを知る者はまれである。真実の世界の波をさらに広げ、真理の領域の境界を押し広げる。大乗の頓教は、限りなくすべてに及び、方広の真実の教えは、あらゆる知識あるものに広く届く。まさに、仏陀入滅後五百年を過ぎた時、忽然として金口の教えを受けることとなり、この娑婆世界において、たちまち玉箱の秘蔵が開かれたのである。比類なく称賛すべきもの、それはただ法界(真理の世界)のみであろう。
法界とは、一切の衆生の身心そのものの本体である。根本より、霊妙に明らかに広く澄み渡り、広大で虚ろにして静寂であり、ただ一つの真実の境地があるのみである。形相はないが、大千世界が森羅万象として現れ、限りはないが、あらゆるものを含み包む。心と目の間にはっきりと映るが、その姿を捉えることはできず、色や塵の中に明らかに輝くが、その理を分け隔てることはできない。
この法を徹底して見通す智慧の目、分別を離れた明晰な智慧なくしては、自らの心がこのように霊妙に通じていることを見ることはできない。それゆえ、世尊は初めて正覚を成就された時、感嘆して言われた。「なんと不思議なことか。我は今、あらゆる衆生がことごとく如来の智慧と功徳の相を具えているのを見る。ただ妄想と執着によって、それを証得できないだけである。」
宗旨を開示するに当たり、三度も尽く愚かなる思いを注ぐ。天池に滴る露のようなもので、百の川の味が一つに合わさるような喜びがある。華山の頂に積もる塵のようなもので、万仞の高さを増すことにはならない。虚空を極めようと測ることはできても、その本体は果てしない。これが「大」である。蒼海を汲み尽くして飲むことはできても、法門には限りがない。これが「方」である。塵のような無数の世界を砕いて数えることはできても、その働きは測り知れない。これが「広」である。覚えることと覚えられることを離れ、あらゆる現象の深遠な真理を明らかにする。これが「仏」である。様々な修行を芳香に咲き誇らせ、あらゆる功徳を栄え輝かせる。これが「華」である。これらの行いと功徳を円満に完成させ、十の身を飾る。これが「厳」である。微細で奥深い真理を貫き通し、真実の光の彩りを成す。これが「経」である。
素晴らしいかな、真実の世界。あらゆるものはここに始まるのである。空と有を包み込みながらも、その相を絶ち、言葉や形の中に入りながらも痕跡がない。妙有は、これを得ても「有」とはならず、真空は、これを得ても「空」とはならない。生滅は、これを得て真実の常恒となる。縁起は、これを得て互いに映り合う。我らが仏は、これを得て妙なる実践を為す。真の覚りは、塵のような煩悩の習慣を清め尽くし、万物の変化の世界において静寂を極め、一つの虚ろの中に働きを現す。身と世界を融け合わせて互いに含み合い、光と声を流して遠くまで照らす。
我らが皇帝は、これを得て、霊妙な鏡は虚無の極みを照らし、太虚を所有しなくとも、果てしない照らしをどうして広げられようか。真実の世界なくして、どうして虚空に等しい心を清められようか。諸仏の心の中において、衆生は新新として仏となる。衆生の心の中において、諸仏は念念に真理を証する。千の変化を動かしても多いとは言えず、事と理は互いに徹し合って両者を忘れる。性と相は融け通じて尽きることがない。
一字の法門は、海の墨をもってしても書き尽くせず、一毛の善行は、虚空の果てまで尽きることがない。その定(瞑想)について言えば、無心のうちに一如に冥合し、あらゆる動きの中で常に静寂である。海は真実の智慧を湛え、光は性空を含む。星のように点在する法身は、その影を心の水に落とす。円満な音声は、叩かずとも常に流れ、果海(悟りの境地)は、念を離れて心に伝わる。様々な行いは、忘れと照らしの両方を超えて共に修められる。
晋の時代にその微細な教えが翻訳されると、童子が現れて瑞兆を示し、唐の時代にこの至高の教えが翻訳されると、甘露が降って吉祥を現した。冥々のうちの守護は明らかであり、帝みずから筆を執られた。西域において論が完成されると、大地が震動し光が流れた。志が清凉山に徹すると、感通して玄妙な悟りを得た。
これを書き写す時には、経典は五色に輝き、紙の香りは四方に満ち、冬の葵は花を咲かせ、瑞鳥は花をくわえた。読誦する時には、はるかに虚空を歩むかのごとく、鏡に臨むかのように明らかであった。常に舎利を含み、神僧にちょうど出会い、大地から金色の身を現し、天に昇って阿修羅の陣を止めた。観行する時には、無生を証入し、偈頌の賛美は虚空に並んだ。海神が聴いて時雨が滂沱と降り、天童が迎えて大水が氾濫した。
講説する時には、中国とインドの音韻が通じ、人々と天人が共に遵った。洪水は途絶え、神光は室内に入った。まことに、一文の妙は義を余すことなく含み、一偈の功徳は地獄を破ることができる。手を洗った水すら、生きとし生けるものを救い、読誦し思惟し修行することの功徳は、すべての智慧と等しい。
過去世において何という幸運に恵まれ、この経典に出会うことができたのだろうか。その事跡は明らかであり、伝記に詳しく記されている。
山僧。升于此座。提唱華嚴大意。或有問。無邊剎境。自他。不隔於毫端。既有自他。因甚不隔。答云。懷州牛喫禾。益州馬腹脹。或問。十世古今。始終。不離於當念。既有始終。因甚不離。答云。天下覓醫人。灸猪左膊上。進云。此會。翻宣教典。[母-(、/、)+〡]勞說禪。且望禪師。直談教義。答云。山僧。何曾有兩個舌頭。或問。一真法界十種玄門。還有自他終始也無。答云。那得許多骨董來。進云。既無許多骨董。畢竟。華嚴所說。何義。答云。說華嚴。或問。離却法界玄門。華嚴經。還在甚處。答云。現在諸人手裡。進云。與麼。則見者。聞者。存者。亡者。皆得信受奉行去也。答云。贈汝三文。買草鞋。僧禮拜。山僧答云。禪客問禪。囑山僧。直談教義。山僧。只有一個舌頭。禪客。却有兩片耳朵。如今。曲順人情。擧此。且現成說話。大眾。一真法界。無邊世界以俱收。十種玄門。無量法門而總攝。即事即理。即性即相。即俗即真。即因即果。即主即伴。即凡即聖。即正即依。即多即一。如帝網珠。重重顯現。如香水海。處處含容。非神通使然。乃法爾如是。迷之者。觸途成滯。悟之者。當處全彰。這個。是華嚴圓頓稱性之談也。華嚴者。吾世尊。七處九會。所談之經也。七處九會者。最初菩提場。第二普光殿。第三忉利天。第四夜摩天。第五兜率天。第六他化天。第七、第八重會普光殿。第九逝多林也。第一會。說如來依報正報。第二會。說十信。第三會。說十住。第四會。說十行。第五會。說十回向。第六會。說十地。第七會。說等覺妙覺。如上七會。并是次第而說。謂之行布法門。第八第九兩會。普慧雲興二百問。普賢瓶寫二千酬。凡說一法。則一切法。總在裡許。謂之圓融法門。行布。如桃花李花。先花後果。圓融。如蓮花。花果同時。圓融又有二義。一因該果海。二果徹因源。因該果海者。擧十信時。十住。十行。十回向。十地。等覺妙覺。都在裡許。果徹因源者。擧等覺時。十地十回向。十行。十住。十信。亦都在裡許。所以道。行布。則教相差別。圓融。則性相無碍。相是即性之相。故行布。不碍圓融。性是即相之性。故圓融。不碍行布。故則一為無量。行布。不碍圓融。故則無量為一。圓融。不碍行布。無量為一。則融通隱隱。一為無量。則淺入重重。如是九會之經。共成八十卷也。然此八十卷經。分作四分。謂之信解行證也。最初有十一卷。為眾生開發信門。其次。有四十一卷。為眾生開發解門也。又其次。有七卷。為眾生開發行門。又其次。有二十一卷。為眾生開發證門。一部大經。不出信解行證四分。四分所詮之義。不出五周。六相。十玄門。四法界也。由信而解。由解而行。由行而證。斯一經本末之大旨也。一經大旨。既而。昭然。然則兹所謂迷之者。觸途成滯。此義何耶。此即當時二乘在座。有耳不聞圓頓之教。有眼不見舍那身者。是也。悟之者。當處全彰。此又何義耶。此即現前諸山大德。為某指示十種玄門。顯揚一真法界者。是也。豈不見道。華藏世界所有塵。一一塵中見法界。諸人還會麼。即今山僧。數珠頭上。十種玄門開分也。數珠下。一真法界現了也。恁麼見得。便見盡虛空徧法界。無盡光明功德藏身。現在這裡。佛剎微塵數菩薩海會。亦在這裡。佛剎微塵數諸善知識。天龍八部。亦在這裡。佛剎微塵數寶座寶床寶網寶帳。寶樹。寶蓮。寶華鬘纓絡。亦在這裡。佛剎微塵數香焰雲。花焰雲。燈焰雲。摩尼雲。獅子幢雲。亦在這裡。問也。在這裡。答也。在這裡。圓融也。在這裡。行布也。在這裡。信也。在這裡。解也。在這裡。行也。在這裡。證也。在這裡。彌勒彈指。開樓閣門也。在這裡。文殊伸手。摩善財頂也。在這裡。乃至五周。六相。十玄門。四法界。都在這裡。此。豈不是當處全彰者哉。我今更為某。向親切簡要處。總而收之。絕斷聖凡境界。世尊七處。我這裡只一處。世尊九會。我這裡只一會。世尊說經八十卷。我這裡只一句。且道。那個是一句。了了見無一物。亦無人亦無佛。大千沙界海中漚。一切賢聖如電拂。其了則了。畢竟。向何處。與某相見。聽取一偈。了心心了了無心。當處全彰義轉深。瀝瀆變為華藏海。覺花開徧雜花林。
私はこの座に登り、華厳の大意を説き明かそう。 ある人が問うた。「限りない世界も、自他の区別は毛先ほどの隔たりもないと言う。それなら自他があるのに、なぜ隔たりがないのか。」 答えて言う、「懐州の牛が稲を食い、益州の馬が腹を膨らませる。」
また問う、「十世の古今も、始終は現在の一瞬を離れないと言う。それなら始終があるのに、なぜ離れないのか。」 答えて言う、「天下に医者を探す人が、豚の左肩に灸を据える。」 さらに進んで言う、「この会では教典を翻訳し、説法に努めております。どうか禅師は、教えの義を直接語ってください。」 答えて言う、「私にどうして二つの舌があろうか。」
また問う、「一真法界と十種玄門には、自他や始終があるのですか。」 答えて言う、「そんな古道具をたくさん持ってくることはない。」 進んで言う、「古道具がないのなら、華厳の説くところは結局何ですか。」 答えて言う、「華厳を説く。」
また問う、「法界や玄門を離れて、華厳経はどこにあるのですか。」 答えて言う、「今、諸君の手の中にある。」 進んで言う、「それならば、見る者、聞く者、生きる者、亡くなる者、皆が信じ受け入れ実践するでしょう。」 答えて言う、「三文をやろう、草鞋を買いなさい。」 僧が礼拝する。私は答えて言う、「禅の修行者が禅を問い、私に教えの義を直接語れと求めた。私にはただ一つの舌しかなく、禅の修行者には二つの耳がある。今、人の情に沿って、この手近な話をしよう。 皆さん、一真法界は無限の世界を全て含み、十種玄門は無量の法門を全て収める。事即理、性即相、俗即真、因即果、主即伴、凡即聖、正即依、多即一。帝網の珠のように重なり合い現れ、香水海のようにあらゆる所を含み包む。神通がそうさせるのではなく、法が自然とそうなのである。迷う者は道に触れるごとに行き詰まり、悟る者はその場で全てが明らかになる。これこそ、華厳の円頓で法性を語る言葉である。
華厳とは、我が世尊が七つの場所と九つの会で説かれた経典である。七つの場所と九つの会とは、最初は菩提場、第二は普光殿、第三は忉利天、第四は夜摩天、第五は兜率天、第六は他化天、第七と第八は再び普光殿、第九は逝多林である。 第一会では如来の依報と正報を説き、第二会では十信を説き、第三会では十住を説き、第四会では十行を説き、第五会では十回向を説き、第六会では十地を説き、第七会では等覚と妙覚を説く。以上の七会は順序に従って説かれており、これを行布の法門という。第八と第九の二会では、普慧が二百の問いを起こし、普賢が二千の答えを瓶から注ぎ出すように示す。一つの法を説けば全ての法がその中に含まれる。これを円融の法門という。 行布は、桃や李の花のように、先に花が咲いて後に実がなる。円融は蓮の花のように、花と実が同時である。 円融にはさらに二つの意味がある。一つは因が果の大海を含むこと、二つは果が因の源に徹することである。因が果の大海を含むとは、十信を挙げれば、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚が全てその中にあること。果が因の源に徹するとは、等覚を挙げれば、十地、十回向、十行、十住、十信が全てその中にあることである。 だから言う、行布では教えの相に違いがあるが、円融では性と相が妨げ合わない。相は性に即した相であるから、行布は円融を妨げない。性は相に即した性であるから、円融は行布を妨げない。 ゆえに、一は無量となり、行布は円融を妨げない。また、無量は一となり、円融は行布を妨げない。無量が一となれば融通は隠れて見え、一が無量となれば浅いところに深く入り込む。 このように九会の経典は、合わせて八十巻となる。 また、この八十巻の経典は、四分に分けられる。信・解・行・証である。最初の十一巻は、衆生に信の門を開き示す。次の四十一巻は、衆生に解の門を開き示す。その次の七巻は、衆生に行の門を開き示す。またその次の二十一卷は、衆生に証の門を開き示す。一つの大経典は、信解行証の四分を出ない。四分が示す義は、五周・六相・十玄門・四法界を出ない。 信によって解し、解によって行じ、行によって証する。これが一経の根本から末に至る大要である。 一経の大要が既に明らかである。では、先に言った「迷う者は道に触れるごとに行き詰まる」とはどういう義か。これは、当時、二乗の者が座にいて、耳があっても円頓の教えを聞けず、眼があっても毘盧舎那仏の身を見なかったことである。 「悟る者はその場で全てが明らかになる」とはどういう義か。これは、現在ここにいる諸山の大徳方が、私にある者に十種玄門を示し、一真法界を明らかにすることである。 見えないだろうか、華蔵世界のあらゆる塵、一つ一つの塵の中に法界を見ると。皆さん、お分かりだろうか。今、私の数珠の先に十種玄門が開かれ、数珠の下に一真法界が現れている。 このように見極めれば、尽虚空遍法界の無尽光明功徳蔵の身が、ここに現れているのが分かる。仏剎の微塵の数の菩薩の海会もここにあり、仏剎の微塵の数の善知識、天龍八部もここにある。仏剎の微塵の数の宝座・宝床・宝網・宝帳・宝樹・宝蓮・宝華鬘瓔珞もここにある。仏剎の微塵の数の香焔雲・花焔雲・灯焔雲・摩尼雲・獅子幢雲もここにある。 問いもここにあり、答えもここにある。円融もここにあり、行布もここにある。信もここにあり、解もここにある。行もここにあり、証もここにある。弥勒が指を弾いて楼閣の門を開くのもここにあり、文殊が手を伸ばして善財の頂を撫でるのもここにある。 五周・六相・十玄門・四法界も、皆ここにある。 これが「その場で全てが明らかになる」ということでなければ何であろうか。 私は今、ある者のために、親切で簡要なところに全てを収めよう。聖凡の境地を絶ち切る。 世尊は七つの場所だったが、私はここでただ一つの場所とする。世尊は九つの会だったが、私はここでただ一つの会とする。世尊は八十巻の経を説いたが、私はここでただ一句とする。 さあ、その一句とは何か。 「はっきりと見れば、一物もない。人もなく、仏もない。大千の沙界は海の泡のごとく、一切の賢聖は電の払うがごとし。」 それで了(おわ)ったとしても、結局、どこで私とある者が相見えるのか。 偈を聞け。
心を了すれば 心心 了了 心無し 当処に全彰して 義 転って深し 瀝瀆 変じて 華蔵海となり 覚花 開き満つ 雑花林
毘盧華藏莊嚴海。遍在一切處。大方廣佛華嚴經。徧該一切法。華藏海。既遍一切處。且道。牛欄馬廄。酒肆婬坊。劒樹刀山、鑊湯爐炭等穢惡境界。又向何處安着。既無安着處。便將爐炭鑊湯刀山劒樹。喚作華藏海得麼。便將婬坊酒肆馬廐牛欄。喚作華藏海得麼。若不喚作華藏海。則不可謂之遍在一切處也。華嚴經。既該一切法。且道。神號鬼哭。水響風聲。犬吠雞啼。驢鳴馬叫等穢惡聲音。又向何處分別。既無分別處。便將馬叫驢鳴雞啼犬吠。喚作華嚴經得麼。便將風聲水響鬼哭神號。喚作華嚴經得麼。若不喚作華嚴經。則不可謂之遍該一切法也。靈利丈夫。英俊上士。向這裡指點不出。分踈不過。山僧。今日為某。指點去也。無量無數浮幢香水海。無量無數世界輪圍山。無量無數菩提解脫場。無量無數摩尼寶光聚。無量無數宮殿樓閣雲。無量無數蓮花獅子座。無量無數變化莊嚴身。無量無數國城善知識。即今山僧。數珠頭上。同時顯露了也。教主遮那金口所說。普賢願王菩薩所說。文殊大智菩薩所說。七處九會諸菩薩當會所說。四十一位法身大士一切大心眾生天龍阿修羅等眾會所說。地神說。水神說。火神說。風神說。山神說。林神說。樹神道場神等所說。乃至雲臺說寶網說。塵說。剎說。熾然說。今日山僧。數珠下。同時擧揚了也。且道。數珠。因甚如此奇特。若知他奇特處。便知他變現融通處。若知他變融通處。便知他變遍在一切處。徧該一切處。徧該一切法也。恁麼見得。方知神號鬼哭水響風聲犬吠雞啼驢鳴馬叫等。無一法。不是華嚴經也。牛欄馬廄酒肆婬坊劒樹刀山鑊湯爐炭等。無一處。不是華藏海也。此心未了。則各相萬殊。此心既了。則體用一致。了心三昧能如是。不是了心人不知。了了頓除佛祖見。明明絕斷聖凡情。靈臺不隱絲毫物。妙用玄微盡掃除。
毘盧遮那仏の華蔵荘厳海は、あらゆる場所に遍在している。 『大方広仏華厳経』は、あらゆる法をあまねく網羅している。 華蔵海はすでにあらゆる場所に遍在しているという。では、牛小屋や馬小屋、酒場や遊郭、剣の樹や刀の山、熱湯の釜や燃える炭などの汚れた恐ろしい境界は、いったいどこに置かれるというのか。置かれる場所がないのなら、燃える炭や熱湯の釜、刀の山や剣の樹を、そのまま華蔵海と呼んでよいのだろうか。また、遊郭や酒場、馬小屋や牛小屋を、そのまま華蔵海と呼んでよいのだろうか。もしこれらを華蔵海と呼ばないなら、それは「あらゆる場所に遍在している」とは言えないことになる。 『華厳経』は、あらゆる法を網羅しているという。では、神の叫びや鬼の泣き声、水の響きや風の音、犬の吠え声や鶏の鳴き声、ロバのいななきや馬の嘶きなど、汚れた恐ろしい声音は、いったいどこで区別されるというのか。区別される場所がないのなら、馬の嘶きやロバのいななき、鶏の鳴き声や犬の吠え声を、そのまま『華厳経』と呼んでよいのだろうか。また、風の音や水の響き、鬼の泣き声や神の叫びを、そのまま『華厳経』と呼んでよいのだろうか。もしこれらを『華厳経』と呼ばないなら、それは「あらゆる法をあまねく網羅している」とは言えないことになる。 機敏な男、優れた上士であっても、ここを指し示すことはできず、説明し尽くすこともできない。 そこで、山僧が今日、あなたのために指し示してみせよう。 無量無数の浮幢香水海、無量無数の世界を囲む輪囲山、無量無数の菩提の悟りの場、無量無数の摩尼宝の光の集まり、無量無数の宮殿楼閣の雲、無量無数の蓮華と獅子座、無量無数の変化する荘厳の身、無量無数の国や城の善知識――それらが、今まさに、山僧の数珠の先に、同時に現れ出でているのだ。 教祖である毘盧遮那仏の金口が説いたこと、普賢願王菩薩が説いたこと、文殊大智菩薩が説いたこと、七つの場所と九つの会における諸菩薩やその会の参加者たちが説いたこと、四十一位の法身大士や一切の大心の衆生、天・龍・阿修羅などの集まりが説いたこと。地神が説き、水神が説き、火神が説き、風神が説き、山神が説き、林神が説き、樹神や道場神などが説いたこと。さらには、雲の台が説き、宝の網が説き、塵が説き、仏国土が説き、盛んに説き続けていること――それらが、今日、山僧の数珠のもとで、同時に唱え上げられているのだ。 さて、数珠はなぜこれほどまでに奇特なのだろうか。もしその奇特なところを知れば、その変幻自在で融通無礙な働きを知ることができる。もしその変幻自在で融通無礙な働きを知れば、それがあらゆる場所に遍在し、あらゆる法をあまねく網羅していることを知ることができるのである。 このように見極めることができて初めて、神の叫びや鬼の泣き声、水の響きや風の音、犬の吠え声や鶏の鳴き声、ロバのいななきや馬の嘶きなど、一つとして『華厳経』でない法はなく、牛小屋や馬小屋、酒場や遊郭、剣の樹や刀の山、熱湯の釜や燃える炭など、一か所として華蔵海でない場所はないと知るのである。 この心が悟られていないうちは、それぞれが千差万別に異なって見える。しかし、この心がすでに悟られれば、体と用は一つとなる。 心を悟る三昧はかくのごとくであるが、心を悟った人でなければ知ることはできない。 悟り悟れば、たちまちに仏祖の見解も断ち去られ、 明々白々に、聖者や凡夫の情念も絶たれる。 心の台には、微細なものも隠れることはなく、 絶妙な働きや深遠な境地も、すべて掃き清められるのだ。
知識五十三員。在儞眉毛眼睫上。大經八十一卷。在儞鼻孔口唇邊。儞若要向眉毛眼睫上求。則千里萬里蹉過了也。儞若要向鼻孔口唇邊討。則千差萬差打失了也。豈不見道。有大經卷。在一塵中。有一智人。破此微塵。出大經卷。若見得這個大經。那八十一卷。都成閑故紙。又不見道。真善知識。不離自家。道在己求。不從他覓。若見得這個知識。那五十三員。總是路傍人。儞若未能恁麼承當。却又不許。等閑放過。八十一卷。有始有終。政好從頭讀去也。五十三員。有前有後。不妨逐位參來。所以經中道。善知識者。長諸善根。譬如雪山長諸藥草。善知識者。是功德處。譬如大海出生眾寶。善知識者。不染世法。譬如蓮花不着於水。善知識者。不受諸惡。譬如大海不宿死屍。善知識者。照明法界。譬如盛日照四天下。善知識者。長菩薩身。譬如父母養育兒子。又云。見善知識。心不散亂。見善知識。破障碍山。見善知識。入大悲海。救護眾生。見善知識。得智慧光。普照法界。見善知識。普能覩見十方佛海。見善知識。得見諸佛。轉於法輪。又云。由親近善知識。能勇猛勤修一切智道。由親近善知識。能速疾出生諸大願海。由親近善知識。能代一切眾生受無量苦。由親近善知識。能於一微塵中說法。聲遍法界。由親近善知識。於念念中。行菩薩究竟安住一切智地。由親近善知識。而能徧往十方國土。善哉善哉。善知識者。乃至如是之利益哉。雖然如是。要見善知識。須有大因緣。有因緣者。千里相逢。無因緣者。當面蹉過。優曇鉢花。容易見。大善知識。最難逢。此語。豈欺人哉。唯此某。宿有大因緣。多見善知識。且如山僧。固無長處。某也。曾納香問道。求語策進來。如今四大幻身。雖曰已死。向其求語問道之心。昭昭靈靈。明明了了。兩眼對兩眼。何曾有生死去來。所謂真善知識。不離自家。既見外邊知識來。參取自家知識去也。某。還會麼。茫茫煙水百餘城。誰肯隨人背後行。脚未跨門相見了。到家元不涉途程。解盡見除功已畢。更無玄妙可論量。若人欲識佛境界。當淨其意如虛空。遠離妄想及諸趣。令心所向皆無礙。何謂佛境界也。空有迭彰。理事無碍。一多相即。小大互容。夫是之謂佛境界也。由是觀之。一塵一毛。皆佛境界。一沙一滴。皆佛境界。一四天下。一大千世界。乃至佛剎微塵數華藏海。皆佛境界也。爭奈汝諸人。舉手所指。縱自所觀。高而盖者。謂之天。下而載者。謂之地。運而行者。謂之日月。列而布者。謂之星辰。靜而住者。謂之山。動而流者。謂之水。有情者。謂之人。無情者。謂之物。森羅者。謂之萬像。却將真佛境界。當面諱却。豈不大可憐哉。此無他。只是汝諸人意根下。不曾清淨。故有種種妄想。既有妄想。乃有分別。乃有名相。既有名相所拘。於是。見天。只是天。見地。只是地。見山水。只是山水。見人物。只是人物矣。又於名相之中。妄生種種取着。或取着山。或取着水。或取着人。或取着物。又於取着之中。妄生種種障碍。或被色碍。或被聲碍。或被山水人物萬像森羅之所障碍。既是所向皆碍。要見佛境界。驢年更驢年。雖然如是。汝若端的要見。也不難。但將種種妄想。種種取着。種種障碍。和盤掇轉。直教意根下。清淨如虛空。向頂門上。豁開正眼。洞照世間。然後。天也。是佛境界。地也。是佛境界。日月星辰也。是佛境界。 山川人物也。是佛境界一塵一毛一沙一滴。乃至佛剎微塵數世界海。無往而非佛境界也。當此之時。和個妄想取着障碍。直下。皆是佛境界。如是境界也。非有也非空也。非理也非事也。非一也非多也。非小也非大也。非迷也非悟也。非修也非證也。喚作佛境界。也得。不喚作佛境界。也得。如是微妙不可說。如是圓融不可說。如是自在不可說。如是無碍不可說。如是利益不可說。是名不可說又不可說之佛境界也。恁麼。則某平生所聞。是佛境界。平生所見。是佛境界。平生所樂。是佛境界。平生所參。是佛境界。某且道。於佛境界。還曾親到也無。若也未到。更𦗟從頭說破。若人欲識佛境界。頭上安頭。當淨其意如虛空。誰曾染污。遠離妄想及諸趣。撥波求水。令心所向皆無碍。滿目青山。林中孤坐大巍巍。六載方知苦行非。野鵲不樔黃面頂。雪山深處突雲飛。世尊昔日。摩竭陀國阿蘭若法菩提場中。初成正覺。智入三世。悉皆平等。其身充滿一切世間。其音普順十方國土。譬如虛空。具含眾像。於諸境界。無所分別。此是大開一口。吞盡十方世界了也。又復歎曰、奇哉。我今普觀一切眾生。具有如來智慧德相。但以妄想執看。而不證得。此又將菩提場中所證所得底。盡情分付諸人了也。汝諸人。現在菩提場中。人人頭戴虛空。個個脚踏實地。悟則妄想為菩提。梵語菩提。此翻曰覺。欲成正覺者。須發菩提心。故經云。菩提心者。猶如種子。能生一切諸佛法故。菩提心者。猶如大地。能持一切諸世間故。菩提心者。猶如淨水。能洗一切煩惱垢故。菩提心者。猶如大風。普於世間無所碍故。菩提心者。猶如大車。普能運載諸菩薩故。菩提心者。猶如大道。普令得入大智城故。菩提心者。猶如舍宅。安隱一切諸眾生故。菩提心者。猶如園林。於中遊戲受法樂故。菩提心者。猶如慈父。訓導一切諸菩薩故。菩提心者。猶如慈母。生長一切諸菩薩故。菩提心者。猶如蓮花。不染一切世間法故。菩提心者。猶如良藥。能治一切煩惱病故。菩提心者。如如意珠。周給一切諸貧乏故。菩提心者。如如意樹。能雨一切莊嚴具故。菩提心者。如大施會。能滿一切眾生心故。菩提心者。如佛支提。一切世間應供養故。善哉。菩提心。乃有如是之功德也。既發菩提心。當修菩薩行。行若不修。心成虛發。某。豈不見。善財童子。每參知識。必曰。我已先發阿耨多羅三藐三菩提心。而我未知。云何學菩薩行。修菩薩道。我問聖者。善能誘誨。願為我說。此。乃善財發心修行之樣子也。由是而知。雖有多聞。若不修行。與不聞等。如人說食。終不能飽。故經云。如人說美饍。自餓而不食。於法不修行。多聞亦如是。如人善方藥。自疾不能救。於法不修行。多聞亦如是。如人數他寶。自無半錢分。於法不修行。多聞亦如是。如聾奏音樂。悅彼不自聞。於法不修行。多聞亦如是。如盲繪眾像。示彼不自見。於法不修行。多聞亦如是。譬如海船師。而於海中死。於法不修行。多聞亦如是。恭惟。某則不然。一生所發。都是菩提心。一生所修。都是菩薩行。妄想執着。念念遠離。智慧德相。時時體究。其於當來世中。蒙佛授記。坐道場。成正覺。決定少他一分不得。且道。有何憑據。經云。初歡喜地。菩薩多劫修行。生於王宮。此其證也。滿散華嚴會。山僧升座。或問。一法若有。毘盧。墮在凡夫。萬法若無。普賢。失其境界。畢竟。如何和會。答云。儞在那裡。見他廝鬪來。進云。爭奈前話何。僧云。某甲。到這裏。有耳如聾。有眼如盲。山僧云。更要和會箇甚麼。有僧云。某甲會也。山僧云。你作麼生會。僧云。性空即是佛。不可得思量。山僧喝云。三十年後。思量者。一喝在。乃云。遮那淨法身。藏在一毛孔裡。普賢行願海。散在百草頭邊。雖在一毛孔。奈爭拄地撐天。雖在百草頭。畢竟掃蹤滅跡。低聲低聲。遮那與普賢來也。諸人。要見一毛孔麼。答云。橫亘十方。竪窮三際。諸人。要見百草頭麼。答云。石火電光。不容眨眼。有時。一毛孔。重重吞却百草頭。有時。百草頭。即是一毛孔。直得遮那普賢。輥作一片。使無邊開士大地眾生討頭不着。投身不入。用力不到。剳脚不牢。既無定體。亦無定名。有時。喚作一真法界。有時。喚作大光明藏。有時。喚作法菩提場。有時。喚作妙莊嚴域。有時。喚作六相義。有時喚作十玄門。有時。喚作一心三觀。有時。喚作直指單傳。有時喚作故家田地。有時。喚作向上牢関。或號金剛圈。或名鉄餕餡。或稱暗號子。或曰本來人。乃至用之為棒。變之為喝。放去收來。千差萬別。及乎盡底掀飜。從頭勘破。元來。只是一個自己。這個自己。在天同天。在地同地。在人同人。在物同物。於自分上。或說本具。或說本空。或說悟迷。或說修證。引起許多閑絡索。春色無高下。花枝自長短。只如某。宿有資薰。不肯昧却自己。所以一出母胎。便自靈利。雖現如類身。同行世間事。其不昧者。終自了然。指廩損金。不待勸而行矣。誦經解義。豈待教而通乎。又能痛念生死事大。力參禪門話頭。日用功夫。心心不間。自己面目。念念究明。壽至天年。臨終。端然而逝。既有賢父賢子。為之廣作佛事。又有孝女孝婿。為之飜閱大經。向普賢行願海中。滿注八功德水。就遮那淨法身上。莊嚴萬行因華。某自己一着。可謂美矣善矣。如今。滿世間人。皆不知有自己一着。以其不知故。不肯信。以其不信故。不能行。只有富貴功名中。酒色財氣上。乾弄一生。有何成就去。死日不遠。猶自不回頭。豈不哀哉痛哉。又有一等。雖信自己。雖曰參禪學道。而用心不切。不能勇猛精進也。要口頭胡說亂道。臘月三十日到來。十箇有五雙。虛生浪死。其視某得。無愧於心乎。山僧。只擧末會。將一抱龜毛拂子。攪飜華藏海。曲順教家之情。做箇座主模樣。牽經引教。忉忉怛怛。要與某。發揚自己一着。而今看來。發揚也。發揚不着。讚歎也。讚歎不及。徒爾閑言長語。弄成滿地葛藤。且請。大眾出來。自家收拾去也。諸人。還會麼。記得善財童子。徧參南方五十三員善和識。末後。遇普賢菩薩。教發十種願王。引導往生樂土。喚作一生參學事畢。大小善財。參方無眼目。走得脚生瘡。帶累後人。長年在途路。爭似不出門庭。遍參知識。不離華藏海。親見安養邦。不待往生。何煩引導。敢保善財童子。羨慕不及也。某。還會麼。
智慧ある善知識は五十三人、汝の眉毛と睫毛の上にいる。大経典は八十一巻、汝の鼻の孔と唇の辺りにある。もし汝が眉毛や睫毛の上に求めるなら、千里万里も過ぎ去ってしまう。もし汝が鼻の孔や唇の辺りに探すなら、千差万別も打ち失ってしまう。知らないのか。大いなる経巻が一つの塵の中にある。一人の智人がこの微塵を破って、大いなる経巻を取り出す。もしこの大経を見極めれば、あの八十一巻は全て無駄な古紙となる。また知らないのか。真の善知識は、自分の心から離れない。道は己に求めるものであり、他から探し求めるものではない。もしこの善知識を見極めれば、あの五十三人は皆、道端の人に過ぎない。もし汝がまだそのように受け入れられないなら、なおさら軽んじて見逃してはならない。八十一巻には始めと終わりがある。まさに最初から読み進めるがよい。五十三人には前後がある。順々に訪ねて参じるがよい。だから経典にこうある。善知識は、諸々の善根を育てる。例えば雪山が諸々の薬草を育てるように。善知識は、功徳の在り処である。例えば大海が無数の宝を生み出すように。善知識は、世間の法に染まらない。例えば蓮華が水に着かないように。善知識は、諸々の悪を受け入れない。例えば大海が死体を留めないように。善知識は、法界を照らし出す。例えば盛んなる太陽が四つの天下を照らすように。善知識は、菩薩の身を育てる。例えば父母が子を養い育てるように。またこうある。善知識に会えば心は散乱しない。善知識に会えば障碍の山を破る。善知識に会えば大悲の海に入り、衆生を救い護る。善知識に会えば智慧の光を得て、法界を普く照らす。善知識に会えば、十方の仏の海を普く見ることができる。善知識に会えば、諸仏を見て法輪を転じる。またこうある。善知識に親近することで、勇猛に一切の智慧の道を勤修できる。善知識に親近することで、速やかに諸々の大願の海を生み出せる。善知識に親近することで、一切の衆生に代わって無量の苦しみを受けられる。善知識に親近することで、一つの微塵の中で説法し、その声が法界に満ちる。善知識に親近することで、念念に菩薩の究竟なる安住である一切の智慧の地を行じる。善知識に親近することで、遍く十方の国土に往くことができる。善きかな、善きかな。善知識の利益は、このようなものである。しかし、善知識に会うには、大きな因縁が必要である。因縁のある者は千里で出会う。因縁のない者は正面で過ぎ去る。優曇鉢華は見やすいが、大善知識は最も会い難い。この言葉は、どうして人を欺くものか。ただこの某は、宿世からの大きな因縁があり、多くの善知識を見てきた。山僧の如きも、もとより長所はないが、某は香を納め道を問い、言葉を求め策を進めてきた。今や四大の幻の身は、すでに死したと言うものの、その言葉を求め道を問う心は、昭昭として霊霊とし、明明として了了としている。両眼は両眼に向かい、どうして生死や去来があろうか。まさに真の善知識は、自分から離れないということを、外の善知識を見ることで、自分の善知識を参じ取っているのだ。某よ、わかるか。茫々たる煙水、百余の城。誰が人の後ろについて行こうか。足を門に跨らぬうちに相見すれば、家に到るも元来、途程を渉らず。解き尽くし、見を除き、功すでに畢り、更に玄妙も論量すべきなし。もし人、仏の境界を知らんと欲すれば、当にその意を浄くして虚空の如くすべし。遠く妄想及び諸趣を離れ、心の向かう所をして皆、碍無からしむ。何をか仏の境界という。空と有は迭りに彰われ、理と事は碍無し。一と多は相即し、小と大は互いに容る。これを仏の境界という。これによって観れば、一塵一毛も皆仏の境界、一沙一滴も皆仏の境界、一四天下、一大千世界、乃至仏刹微塵数の華蔵海も、皆仏の境界である。汝ら諸人は、手を挙げて指すところ、縦に自ら観る所、高くして蓋うものを天といい、下に載せるものを地といい、運行するものを日月といい、列なり布くものを星辰といい、静かに住するものを山といい、動いて流れるものを水といい、有情なるものを人といい、無情なるものを物といい、森羅たるものを万象という。しかも真の仏の境界を、当面に避けてしまう。なんと憐れむべきではないか。これは他でもない、ただ汝ら諸人の意根の下が、いまだ清浄でないからである。故に種々の妄想がある。妄想があれば、分別があり、名相がある。名相に拘束されれば、天を見てただ天とし、地を見てただ地とし、山水を見てただ山水とし、人物を見てただ人物とする。また名相の中に、妄りに種々の取着を生じる。あるいは山に取着し、あるいは水に取着し、あるいは人に取着し、あるいは物に取着する。さらに取着の中に、妄りに種々の障碍を生じる。あるいは色に碍せられ、あるいは声に碍せられ、あるいは山水人物万象森羅に碍せられる。これらによって心の向かう所、皆碍あり。仏の境界を見ようとすれば、驢年さらに驢年である。けれども、汝が端的に見ようとするならば、難しくはない。ただ種々の妄想、種々の取着、種々の障碍を、そのままひっくり返し、意根の下を清浄にして虚空の如くせよ。頂門の上に正眼を開き、世間を洞然と照らせ。その後に、天も仏の境界、地も仏の境界、日月星辰も仏の境界、山川人物も仏の境界、一塵一毛一沙一滴、乃至仏刹微塵数の世界海、往くとして仏の境界ならざるはない。この時、その妄想、取着、障碍さえも、直下に皆、仏の境界である。このような境界は、有にあらず、空にあらず、理にあらず、事にあらず、一にあらず、多にあらず、小にあらず、大にあらず、迷にあらず、悟にあらず、修にあらず、証にあらず。これを仏の境界と呼んでもよい。仏の境界と呼ばなくてもよい。このように微妙にして説くべからず。このように円融にして説くべからず。このように自在にして説くべからず。このように無碍にして説くべからず。このように利益にして説くべからず。これを説くべからず、また説くべからざる仏の境界と名づける。それならば、某が平生に聞く所は仏の境界、平生に見る所は仏の境界、平生に楽しむ所は仏の境界、平生に参ずる所は仏の境界である。某に言う、仏の境界に、かつて親しく到ったか、到らざるか。もし到らざれば、さらに頭から説き明かそう。もし人、仏の境界を知らんと欲すれば、頭上に頭を安ずる。当にその意を浄くして虚空の如くすべし。誰か曾て染汚せし。遠く妄想及び諸趣を離れ、波を撥ねて水を求める。心の向かう所をして皆、碍無からしむ。満目の青山。林中に孤坐して大巍巍、六載にして方に知る、苦行は非なりと。野鵲は巣くわず、黄面の頂に、雪山の深処、雲を突いて飛ぶ。世尊は昔、摩竭陀国阿蘭若法菩提場において、初めて正覚を成じ、智は三世に入り、悉く皆平等なり。その身は一切の世間に充満し、その音は普く十方の国土に順う。例えば虚空の如く、あらゆる形を含み、諸々の境界において、何らの分別もなし。これは大いに一口を開いて、十方世界を呑み尽くしたのである。また嘆じて言う、奇なるかな。我、今、普く一切の衆生を観ずるに、如来の智慧徳相を具有す。ただ妄想執著を持するが故に、証得せず。これはまた、菩提場において証し得たる所を、ことごとく諸人に分け与えたのである。汝ら諸人は、現在、菩提場にいて、人人、頭に虚空を戴き、個個、足で実地を踏む。悟れば妄想が菩提となる。梵語の菩提は、これを翻訳して覚と曰う。正覚を成じようと欲する者は、必ず菩提心を発せねばならない。故に経に云う、菩提心は、なお種子の如く、能く一切の諸仏の法を生ず。菩提心は、なお大地の如く、能く一切の諸世間を持す。菩提心は、なお浄水の如く、能く一切の煩悩の垢を洗う。菩提心は、なお大風の如く、普く世間において碍無し。菩提心は、なお大車の如く、普く能く諸菩薩を運載す。菩提心は、なお大道の如く、普く能く大智の城に入らしむ。菩提心は、なお舎宅の如く、一切の諸衆生を安穏ならしむ。菩提心は、なお園林の如く、その中に遊戯して法楽を受く。菩提心は、なお慈父の如く、一切の諸菩薩を訓導す。菩提心は、なお慈母の如く、一切の諸菩薩を生長す。菩提心は、なお蓮華の如く、一切の世間の法に染まらず。菩提心は、なお良薬の如く、能く一切の煩悩の病を治す。菩提心は、如意珠の如く、一切の諸貧乏を周給す。菩提心は、如意樹の如く、能く一切の荘厳具を雨らす。菩提心は、大施会の如く、能く一切の衆生の心を満たす。菩提心は、仏支提の如く、一切世間の応供養なり。善きかな、菩提心には、このような功徳がある。菩提心を発したならば、当に菩薩行を修すべし。行をもし修せざれば、心は虚発となる。某よ、見ないか。善財童子は、知識を訪ねるごとに、必ず言う、我はすでに阿耨多羅三藐三菩提心を発したり。しかし我、いまだ知らず、云何が菩薩行を学び、菩薩道を修すべきか。我、聖者に問う。善く誘誨したまえ。願わくは我がために説きたまえ。と。これは、善財が発心修行の手本である。これによって知るべし、多聞ありといえども、もし修行せざれば、聞かざるに同じ。人の食物を説きながら、自ら飢えて食わざるが如し。故に経に云う、人の美食を説くも、自ら餓えて食わず。法において修行せざれば、多聞もまたかくの如し。人の方薬に善きも、自らの疾を救うこと能わず。法において修行せざれば、多聞もまたかくの如し。人の他宝を数うるも、自らに半銭の分もなし。法において修行せざれば、多聞もまたかくの如し。聾の音樂を奏するも、彼を悦ばせども、自ら聞かず。法において修行せざれば、多聞もまたかくの如し。盲の眾像を繪るも、彼に示せども、自ら見ず。法において修行せざれば、多聞もまたかくの如し。譬えば海の船師の、しかも海の中に死するが如し。法において修行せざれば、多聞もまたかくの如し。恭しく惟るに、某はそうではない。一生に発する所、すべて菩提心なり。一生に修する所、すべて菩薩行なり。妄想執着、念念に遠離し、智慧徳相、時時に体究す。その当来世の中において、仏の授記を蒙り、道場に坐し、正覚を成ずるは、決定して彼に一分も欠くることなし。しかも何を憑据と為す。経に云う、初歓喜地の菩薩は、多劫修行して、王宮に生ず。これその証なり。華厳会の満散に、山僧、升座す。ある人問う、一法あらば、毘盧は凡夫に堕ちる。万法なければ、普賢はその境界を失う。畢竟して、如何に和会すべき。答えて云う、汝、どこで彼の厮闘するを見たか。進みて云う、奈何せん、前の話を。僧云う、某甲、ここに到って、耳有れども聾の如く、眼有れども盲の如し。山僧云う、更に何を和会せん。僧有りて云う、某甲、会す。山僧云う、汝、如何にして会す。僧云う、性空すなわち是れ仏、思量すべからず。山僧、喝して云う、三十年后、思量する者、一喝在り。乃ち云う、遮那の浄法身は、一毛孔の中に蔵れたり。普賢の行願海は、百草頭の辺に散在す。一毛孔の中に在りといえども、奈何せん、抻地撐天することを。百草頭にありといえども、畢竟して、掃蹤滅跡す。低声、低声、遮那と普賢と来たれり。諸人、一毛孔を見んと要するか。答えて云う、横に十方を亘り、竪に三際を窮む。諸人、百草頭を見んと要するか。答えて云う、石火電光、眨眼を容れず。有時、一毛孔は、重重として百草頭を呑却す。有時、百草頭は、即ち是れ一毛孔。直下に、遮那普賢を輥作一片とし、無辺開士、大地衆生の、頭を討ね入るを得ず、投身して入るを得ず、力を用いて到らざる、脚を紮して牢ならざる。既に定体なし、亦た定名なし。有時、一真法界と喚ぶ。有時、大光明蔵と喚ぶ。有時、法菩提場と喚ぶ。有時、妙荘厳域と喚ぶ。有時、六相義と喚ぶ。有時、十玄門と喚ぶ。有時、一心三観と喚ぶ。有時、直指単伝と喚ぶ。有時、故家田地と喚ぶ。有時、向上牢関と喚ぶ。或いは金剛圈と号し、或いは鉄餕餡と名づけ、或いは暗号子と称し、或いは本来人と曰う。乃至之を用いて棒と為し、之を変じて喝と為す。放つこと去り、収むこと来たり、千差万別。及ぶこと尽底に掀飜し、頭より勘破せば、元来、ただ一つの自己のみ。この自己は、天に同じく天と同ず。地に同じく地と同ず。人に同じく人と同ず。物に同じく物と同ず。自らの分上に、或いは本具と説き、或いは本空と説き、或いは悟迷と説き、或いは修証と説く。かくの如く多くの閑なる絡索を引き起こす。春色に高下なし、花枝自ら長短あり。ただ某の如きは、宿の資薫あり。敢えて自己を昧さず。故に一出て母胎すれば、便ち自ずから霊利なり。現に類の身を現じ、同行して世間の事を行ずれども、その昧ざる者は、終に自ら了然たり。廩を指し金を損ずるも、勧めを待たずして行なう。誦経して義を解するも、教えを待たずして通ず。また能く痛切に生死の事の大いなることを念じ、力を参禅の話頭に注ぎ、日用の功夫、心心に間断せず。自己の面目、念念に究明す。寿、天年に至り、終に端然として逝く。賢父賢子あり、之がために広く佛事を作さしめ、また孝女孝婿あり、之がために大経を翻閲せしむ。普賢の行願海に向かって、八功徳水を満注し、遮那浄法身上に、万行の因華を荘厳す。某が自己の一着、美とし善とす。今や満世間の人、皆自己の一着のあることを知らず。その知らざるに因って、敢えて信ぜず。その信ぜざるに因って、行ずること能わず。ただ富貴功名の中、酒色財気の上に、乾弄して一生を送る。何の成就か有らん。死の日、遠からずといえども、なお自ら振り返らず。豈に哀しからずや、痛ましからずや。また一等あり、自ら信じ、禅を参り道を学ぶといえども、用心切ならず、勇猛精進すること能わず。口頭には胡乱に説き道う。臘月三十日到来せば、十の内、五双は虚生浪死す。その某に見るに、心に愧いること無からんや。山僧は、ただ挙げて会さず、一振の亀毛の拂子を抱えて、華蔵海を攪翻し、教家の情に曲順して、箇の座主の模樣を作り、経を牽き教を引き、忉忉怛怛として、某のために、自己の一着を発揚せんとす。今や見るに、発揚すれども発揚せられず、讚嘆すれども讚嘆及ばず。徒らに閑言長語、満地の葛藤を弄するのみ。且く大衆の出で来たって、自家收拾し去らんことを請う。諸人、会するか。善財童子が南方五十三員の善知識を徧く參じ、末後に普賢菩薩に遇い、十種の願王を発することを教えられ、楽土に往生することを引導され、一生參學の事畢れりと喚ぶを憶えているか。大小の善財、參方に眼目無く、脚を歩ましめて瘡を生ぜしめ、後人を連れて長年途路に在らしむ。如何ぞ、門庭を出でずして遍く知識を參じ、華蔵海を離れずして安養の邦を親見し、往生を待たずして何ぞ引導を煩わさん。敢えて善財童子の、羨慕して及ばざるを保証す。某よ、また会するか。
娑婆安養路無差。 了得心源共一家。
坐看重重香水海。 紫金光照白蓮花。
この世と極楽の道に、隔たりはない。 心の源を悟れば、もともと一体のもの。 静かに座って、幾重にも広がる香水海を眺めれば、 紫金色の光が、白い蓮の花を照らしている。
(佛紀二千九百五十三年四月。嶺北寺剎巡禮時。尚州佛教堂布教師。李雪翁和尚云。梅月堂金時習。即清寒子雪岑撰刊本。華嚴釋題。秘藏為寶。年前。法住寺。徐震河和尚借去。和尚借與宗教課渡邊彰。尚今不返還。榮州郡喜方寺住持。李震雲許。得雪岑撰華嚴釋題。蓮經別讚。靜明國師撰蓮經讚。寫本合部一冊而李雪翁許。借鈔云。梅月堂金時習。李朝端宗時。生六臣之一也。悲觀世事無常。入山為僧。住於江原道雪岳山五歲庵。華嚴法界圖註。十玄註。華嚴釋題。蓮經別讚。各一卷撰也。今讀此等書。皆以禪教兩宗義理解釋。理趣磊落。可謂義龍禪虎一場。同時躍動者也。)
<note>仏紀二千九百五十三年四月、嶺北の寺刹を巡礼した折、尚州仏教堂の布教師、李雪翁和尚がおっしゃった。梅月堂金時習、すなわち清寒子雪岑が撰し刊行した『華厳釈題』は、秘蔵されて宝とされている。数年前、法住寺の徐震河和尚が借りていった。和尚は宗教課の渡辺彰に貸し出し、いまだに返却されていない。榮州郡喜方寺の住持、李震雲のもとで、雪岑の撰した『華厳釈題』、『蓮経別讃』、静明国師の撰した『蓮経讃』の写本合冊一冊を得た。李雪翁のもとから借り出し、書き写したという。
梅月堂金時習は、李氏朝鮮の端宗の時代、生六臣の一人である。世の無常を悲しみ、山に入って僧となり、江原道雪岳山の五歳庵に住んだ。『華厳法界図註』、『十玄註』、『華厳釈題』、『蓮経別讃』、各一巻を撰した。今これらの書物を読むと、すべて禅と教の両宗の義理によって解釈されている。その趣旨は明快朗らかであり、まさしく義の龍と禅の虎とが同時に躍動しているかのようである。</note>
(佛紀二九五三五月望鄉晃震記。)
(仏紀二九五三年、五月の満月の日、望郷晃震が記す。)