北魏僧惠生使西域記
北魏の僧恵生による西域旅行記
魏神龜元年十一月冬。大后遣崇立寺比邱惠生與敦煌人宋雲。向西域取經。凡得百七十部。皆是大乘妙典。初發京師。西行四十日。至赤嶺。即國之西疆也。山無草木。有鳥鼠。同穴。又西行二十日。至吐谷渾國。又西行三千五百里。至鄯善城。又西行千六百里。至且末城。有呂光代胡時所作佛菩薩像。又西行千三百七十五里。至末城。又西行二十二里。至捍𡡉城。有于闐供佛之塔。其旁小塔數千。縣幡萬計。又西行八百七十八里。至于闐國。有國王所造覆盆浮圖一軀。有辟支佛靴。于今不爛。于闐境東西三千里。
魏の神亀元年(518年)十一月の冬、太后は崇立寺の比丘・恵生と敦煌の人・宋雲を西域へ経典を求めて派遣した。合わせて百七十部を得たが、いずれも大乗のすぐれた教えであった。初め都を出て、西へ四十日行くと赤嶺に至る。ここは国の西の果てである。山には草木がなく、鳥と鼠が同じ穴に住んでいる。さらに西へ二十日行くと吐谷渾国に至る。さらに西へ三千五百里行くと鄯善城に至る。さらに西へ千六百里行くと且末城に至る。呂光が胡を討った時に作った仏や菩薩の像がある。さらに西へ千三百七十五里行くと末城に至る。さらに西へ二十二里行くと捍城に至る。于闐が仏に供養した塔があり、そのそばに小さな塔が数千、幡は万と数えられるほど懸けられている。さらに西へ八百七十八里行くと于闐国に至る。国王が建てた覆盆浮図が一躯あり、辟支仏の靴がある。今に至るまで朽ちていない。于闐の国は東西三千里ある。
神龜二年七月二十九日。入朱駒波國。人民山居。不立屠殺。食自死肉。風俗語言。與于闐同。文學與婆羅門同。其國疆界。可五日行遍。八月入渴盤陀國界。西行六百里。登葱嶺山。復西行三日。至鉢孟城。三日至毒龍池。為昔盤陀王以婆羅門呪呪之。龍徙葱嶺西。去此地二千餘里。自發葱嶺步步漸高。如此四日。乃至嶺。依約中下。實天半矣。渴盤陀國。正在山頂。自葱嶺已西。水皆西流入西海。世人云。是天地之中。九月中旬。入鉢和國。高山深谷。險道如常。因山為城。氈服窟居。人畜相依。風雪勁切。有大雪山。望若玉峯。
神亀二年七月二十九日、朱駒波国に入る。人民は山に住み、屠殺をせず、自死した肉を食べる。風俗や言語は于闐と同じである。文学は婆羅門と同じである。その国の疆界は、五日で歩き遍ねることができる。八月、渴盤陀国の界に入る。西へ六百里行き、葱嶺山に登る。さらに西へ三日行き、鉢孟城に至る。三日で毒龍池に至る。昔、盤陀王が婆羅門の呪文で呪ったため、龍は葱嶺の西へ移った。この地を去ること二千余里。葱嶺を発ってからは、一歩ごとに次第に高くなる。このように四日にして、ついに嶺に至る。おおよそ中ほどから下は、実に天の半分である。渴盤陀国は、まさに山の頂にある。葱嶺より西は、水はみな西へ流れて西海に入る。世の人は言う、ここは天地の中心であると。九月中旬、鉢和国に入る。高山深谷、険しい道はいつものとおりである。山を利用して城とし、毛氈の服を着て洞穴に住む。人と家畜は互いに寄り添う。風雪は激しく厳しい。大きな雪山があり、玉の峰のように見える。
十月初旬入嚈噠國。居無城郭。隨逐水草。不識文字。年無盈𨳝。周十二月為一歲。受諸國貢獻。南至牒羅。北盡勅勒。東被于闐。西及波斯。四十餘國。皆來朝貢。最為強大。王帳周四十步。器用七寶。不信佛法。殺生血食。見魏使拜受詔書。去京師二萬餘里。十一月入波斯國。境土甚狹。七月行過。人居山谷。雪光耀日。十一月中旬入賒彌國。漸出葱嶺。磽角危峻。人馬僅通。鐵鎖懸度。下不見底。十二月初旬入烏場國。北接葱嶺。南連天竺。土氣和暖。原田膴膴。民物殷阜。國王菜食長齋。晨夜禮佛。日中以後。始治國事。鐘聲遍界。異花供養。聞魏使來。膜拜受詔。國中有如來晒衣履石之處。其餘佛跡。所至炳然每一佛跡。輒有寺塔履之。比丘戒行清苦。
十月の初め頃、嚈噠国に入りました。城壁のない土地に住み、水と草を求めて移り住んでいます。文字を知らず、年を数えるにも暦がありません。十二か月で一年としています。周辺の国々からの貢ぎ物を受け取っていました。南は牒羅まで、北は勅勒まで、東は于闐まで、西は波斯に及び、四十余りの国々がすべて朝貢に来ていました。最も強大な国でした。王の帳幕は周囲四十歩もあり、器物には七宝を用いていました。しかし仏法を信じず、生き物を殺して血肉を食らっていました。魏の使者に会うと、拝して詔書を受け取りました。都から二万余里の距離があります。
十一月に波斯国に入りました。国土はたいへん狭く、七月をかけて通り過ぎました。人々は山あいの谷に住み、雪の光が日に輝いていました。
十一月の中頃に賒弥国に入りました。しだいに葱嶺を抜け出ます。岩角は険しく切り立ち、人馬がやっと通れるほどです。鉄の鎖を渡して吊り渡り、下を見れば底も見えません。
十二月の初め頃に烏場国に入りました。北は葱嶺に接し、南は天竺に連なっています。気候は温和で暖かく、田畑はよく肥え、民も物も豊かでした。国王は菜食して長く斎戒を守り、朝も夜も仏を礼拝していました。日の中過ぎになってから、ようやく国の政務を行いました。鐘の音は国中に響きわたり、珍しい花を供養していました。魏の使者が来たと聞くと、膜拜して詔書を受け取りました。国の中には、如来が衣を干し履を置いた石の跡があります。その他の仏跡も、訪れる先々ですぐれて明らかで、それぞれの仏跡には必ず寺や塔がありました。比丘たちの戒行は清く苦しみに耐えるものでした。
至正光元年四月中旬入乾陀羅國。土地與烏場國相似。本名業波羅。為嚈噠所滅。遂立勅勒為王。國中人民。悉是婆羅門。為嚈噠□典。而國王好殺。不信佛法。與罽賓爭境。連年戰鬪。師老民怨。坐受詔書。凶慢無禮。送使一寺。供給甚薄。西行至新頭大河。復西行十三日。至佛沙伏城。城郭端直。林泉茂盛。土饒珍寶。風俗淳善。名僧德泉道行高奇。石像莊嚴。通身金箔。有迦葉波佛跡。復西行一日。乘舟渡一深水。三百餘步。復西南行六十里。至乾陀羅城。有佛涅槃後二百年。國王迦尼迦所造雀離浮圖凡十二重。去地七百尺。基廣三百餘步。悉用文石為陛。塔內佛事。千變萬化。金盤晃朗。寶鐸和鳴。西域浮圖。最為第一。復西北行。渡一大水。至那迦邏國。有佛頂骨及佛手書梵字石塔銘。凡在烏場國二年。至正光二年還闕。
正光元年(520年)四月中旬、乾陀羅国に入りました。土地の様子は烏場国と似ています。もともとは業波羅と呼ばれていましたが、嚈噠に滅ぼされ、勅勒が王に立てられました。国の人々はすべて婆羅門で、嚈噠の支配を受けていました。しかし国王は殺すことを好み、仏法を信じませんでした。罽賓と国境を争い、何年も戦いが続きました。兵士は疲れ、民は怨みを抱いていました。国王は勅書を受け取っても、横暴で礼を知らず、使者を一つの寺に送り、もてなしはとても粗末なものでした。
西へ進み、新頭大河に至りました。さらに西へ十三日進み、仏沙伏城に着きました。城の囲みは整ってまっすぐで、林や泉が豊かで、土地は珍宝に恵まれ、風俗は素直で善良でした。徳泉という名高い僧がおり、その修行は高くすぐれていました。石像は荘厳で、全身に金箔が貼られていました。迦葉波仏の跡がありました。
さらに西へ一日進み、舟に乗って深い水を渡りました。三百歩あまりでした。さらに西南へ六十里進み、乾陀羅城に着きました。仏が涅槃に入られてから二百年後、国王迦尼迦が建てた雀離浮図は全部で十二重あり、地面からの高さは七百尺、基の広さは三百歩あまりで、すべて文石で階段が作られていました。塔内の仏事は千変万化し、金の盤はきらめき、宝の鐸は美しく鳴り響きました。西域の浮図の中で、最もすぐれたものでした。
さらに西北へ進み、大きな川を渡り、那迦邏国に着きました。仏の頂骨と、仏が手で書いた梵字の石塔の銘がありました。烏場国にいたこと、合わせて二年になり、正光二年(521年)に都へ戻りました。