施品第五
布施の章 第五
「復次,長者!居家菩薩當布施、持戒、忍辱、精進,多為諸善。當作是念言:『所施者為是我所,在家者為非我所;施與者為要,在家者為無要;施與者為後世安,在家者為後世苦;施與者為無畏備,在家者為憂守備;施與者無復護,在家者為警護;施與者為愛欲盡,在家者為愛欲增;施與者為無所受,在家者為有所受;施與者無復恐懼,在家者為有恐懼;施與者為成佛道,在家者為益魔官屬;施與者為無盡,在家者為非常;施與者為守樂,在家者為守苦;施與者為斷欲塵,在家者為增欲塵;施與者為大富,在家者為大貧;施與者為上士行,在家者為下士行;意無所念、無所受,施與者諸佛所稱譽,在家者為強項人所嗟歎。』如是,長者!居家菩薩所施與如此為要行。
また、長者よ。在家の菩薩は布施を行い、戒律を守り、忍辱を実践し、精進に励み、多くの善行を積むべきである。そして、このように心の中で思うべきだ。
「施すものは、本来わたしのものではない。家に執着することは、真の我が物ではない。施すことは確かな道であり、家に留まることは確かでない。施すことは来世の安楽をもたらし、家に留まることは来世の苦しみを招く。施すことは畏れのない備えであり、家に留まることは憂いと守りの備えである。施すことはもはや護りを必要とせず、家に留まることは警戒と護りを要する。施すことは愛欲を尽くし、家に留まることは愛欲を増す。施すことは何も執着せず、家に留まることは執着を生む。施すことは恐れをなくし、家に留まることは恐れを抱く。施すことは仏道を成就し、家に留まることは魔の勢力を強める。施すことは尽きることがなく、家に留まることは無常である。施すことは楽を守り、家に留まることは苦を守る。施すことは欲の塵を断ち、家に留まることは欲の塵を増やす。施すことは大いなる富であり、家に留まることは大いなる貧しさである。施すことは優れた者の行いであり、家に留まることは劣った者の行いである。心に何も念じず、何も執着しない。施すことは諸仏の称賛するところであり、家に留まることは頑なな者の嘆くところである。」
このように、長者よ。在家の菩薩にとって、施しを行うことはこのように重要な行いなのである。
「若見乞者當起三念。何等為三?一者、以善知識想待,二者、令得佛道想,三者、令後世大富想,是為三。復有三念。何等為三?一者、除慳貪、嫉妬想,二者、所有念布施想,三者、不捨一切智想,是為三。復有三念。何等為三?一者、所作安詳為如來想,二者、降伏魔想,三者、不望報想,是為三。復有三念:一者、見貧乞窮匱者為開道化授想;二者、行四恩,不捨恩想;三者、終始無有邊幅,受生死想;是為三。復有三念:一者、離婬妷想,二者、離瞋恚想,三者、無愚癡想,是為三念。所以者何?長者!居家菩薩見乞匂者,婬、怒、癡即為薄。云何為薄?慈心布施,無所愛惜,婬即為薄;若於乞人無恚恨意,瞋怒即為薄;若布施願為一切智,愚癡即為薄。
もしも乞食(こつじき)の者を見たら、三つの心を起こすべきである。その三つとは何か。第一に、善き友人(善知識)として遇する心。第二に、その人を仏道へ導こうとする心。第三に、後の世に大いなる富を得させようとする心。これが三つである。
また、さらに三つの心がある。その三つとは何か。第一に、吝嗇(けち)や嫉妬の心を取り除こうとする心。第二に、持っているものをすべて布施しようとする心。第三に、一切智を捨てないという心。これが三つである。
また、さらに三つの心がある。その三つとは何か。第一に、落ち着いて行動し、如来の振る舞いを思い起こす心。第二に、悪魔を降伏させようとする心。第三に、報いを期待しない心。これが三つである。
さらに、三つの心がある。第一に、貧しく困っている者を、道を示して教え導こうとする心。第二に、四つの恩(四恩)を行い、恩を忘れない心。第三に、生死の輪廻に終わりがないことを受け入れる心。これが三つである。
さらに、また三つの心がある。第一に、欲望の汚れから離れる心。第二に、怒りから離れる心。第三に、無知の闇を持たない心。これが三つの心である。
なぜそうするのか。長者よ、在家の菩薩が乞食の者を見るとき、欲と怒りと無知はすでに薄らいでいる。どうして薄らいだと言えるのか。慈しみの心で布施し、惜しむことがなければ、欲はすでに薄らぐ。もし乞食の者に対して恨みや怒りの心がなければ、怒りはすでに薄らぐ。もし布施をするときに、すべての智恵を得たいと願えば、無知はすでに薄らぐのである。
「復次,長者!居家菩薩見乞匂者六度無極即為具足。云何具足?若布施與人,不念受者、有所取,是為布施度無極;心不憂佛道,是為持戒度無極;見乞匂者不恚怒、無害意,是為忍辱度無極;心不念:『若施人食,然自飢乏。』強割情與不違施心,是為精進度無極;若施乞者每無厭足,歡喜不悔,心意喜悅,是為一心度無極;施於一切法,無所著、亦不想報,是為智慧度無極。
「復次,長者!居家菩薩當遠離世八法,不慕世之財利及妻子、舍宅、奴婢、珍寶、諸利,意無所著,亦無歡喜、亦無愁憂,一切所有無所貪慕。當行法念,當作是觀:『父母、妻子、舍宅、奴婢、下使,從是欲者令我起苦樂因緣想,此非我類不為用,願常精進。用是等故,令益諸惡事,今現在世共會快樂之等,後世則為苦黨。我當疾求其輩類——謂布施、持戒、智慧、精進——無有放逸,懷來佛道,具足善本。此為是我之等類也,我所求索但求是願耳,寧失身命,不為妻子男女犯眾惡也。』
「さらに、長者よ。在家の菩薩は、世の八つの法から遠ざかるべきである。世の財産や利益、妻や子、家屋、奴婢、珍宝、さまざまな利得に心を奪われてはならない。心は何にも執着せず、喜びもなく、憂いもない。すべての所有物に貪り慕う心を持つことなく、法を念じるべきである。このように観じなさい。
『父母、妻、子、家屋、奴婢、召使い——これらへの欲望によって、私は苦楽の因縁の想いを起こす。これらは本来、我がものではなく、私のためにあるわけでもない。願わくば、常に精進せよ。これらのために、さらに諸々の悪事を増すことになる。今の世では共に集まって楽しむ仲間であっても、後の世には苦しみの仲間となる。私は速やかに、真の仲間を求めるべきである——すなわち、布施、持戒、智慧、精進である。放逸することなく、仏道を心に抱き、善の根を満たすこと。これこそが、私の真の仲間である。私が求めるのは、ただこの願いのみである。たとえ身命を失うことがあっても、妻や子のために諸々の悪を犯してはならない。』」
「長者!居家菩薩在家修道,見婦當有三念。何等為三?一者、非常想,二者、無所有想,三者、無所受想,是為三。復有三念。何等為三?一者、今諸歡樂之友非後世友;二者、常精進,奉行出入守意,是為等友;三者、此為安隱等,不為苦輩;是為三。復有三念。何等為三?一者、不淨潔想,二者、瑕穢想,三者、臭惡想,是為三。復有三。何等為三?一者、羅剎想,二者、反足却行安鬼神想,三者、但有色想,是為三。復有三。何等為三?一者、難飽足想,二者、墮落想,三者、無反復、無止足想,是為三。復有三。何等為三?一者、惡知識想,二者、貪著想,三者、妨廢梵行、清淨想,是為三。復有三。何等為三?一者、墮人於地獄想,二者、墮人畜生想,三者、令生餓鬼想,是為三。復有三。何等為三?一者、恐懼想,二者、有有想,三者、受取想,是為三。復有三。何等為三?一者、無我想,二者、無受想,三者、遠離亂想,是為三。
「長者よ、家に住みながら修行する菩薩が、家にいて道を修める時、婦人を見たら三つの観想を持つべきです。何が三つか。第一に、無常という観想。第二に、何も所有しないという観想。第三に、何も執着して受けないという観想。これが三つです。また三つの観想があります。何が三つか。第一に、今の楽しみを共にする友は、後の世の友ではないということ。第二に、常に精進し、出入りの呼吸に心を守りながら修行を実践すること。これが真の友です。第三に、これは安らかで穏やかなことであって、苦しみの仲間ではないということ。これが三つです。また三つの観想があります。何が三つか。第一に、清らかでないという観想。第二に、汚れや傷があるという観想。第三に、臭くて悪いという観想。これが三つです。また三つあります。何が三つか。第一に、鬼のようなものだという観想。第二に、逆さまに足を向けて歩く恐ろしい鬼神のようなものだという観想。第三に、ただ色(姿)だけがあるという観想。これが三つです。また三つあります。何が三つか。第一に、満たされ難いという観想。第二に、堕落するという観想。第三に、恩を返さず、満足することを知らないという観想。これが三つです。また三つあります。何が三つか。第一に、悪い友だという観想。第二に、執着し貪るという観想。第三に、清らかな修行(梵行)を妨げ、損なうものだという観想。これが三つです。また三つあります。何が三つか。第一に、人を地獄に落とすという観想。第二に、人を畜生に落とすという観想。第三に、餓鬼の世界に生まれさせるという観想。これが三つです。また三つあります。何が三つか。第一に、恐れおののくという観想。第二に、存在があるという観想。第三に、受け取って執着するという観想。これが三つです。また三つあります。何が三つか。第一に、私(自我)がないという観想。第二に、受け取るものがないという観想。第三に、乱れた考えから遠ざかるという観想。これが三つです。」
「復次,長者!居家菩薩所念當作是想,觀其妻婦不當貪愛,於子若有重愛之心不重餘人。當以三事自呵諫其意。何等為三?一者、佛道為等意,無偏邪意;二者、佛道等行,無偏邪行;三者、佛道以一法行,無若干行。當以是三事自諫意。若見於子,計如仇怨,不為善知識。所以者何?用是故,令我離於佛種善知識益。當以好心念於如來,持諸所有愛子事用,起慈哀於一切人,以自愛身之德用哀愛一切。當作是念言:『一切是我子,我亦為一切作子。於是無有家室親里,往來周旋所生處反更為怨家。願令我所行所作無有善知識、亦無惡知識。所以者何?若有善知識,增益愛欲之想;若有惡知識,一切無復愛欲。我常欲自調其心令無所著,常行一切法,入一切行。作邪行者墮邪事、為正行者得正事。以是故,願我莫有邪行,於一切作等心行,我所學願願入一切智。』
また、長者よ。在家の菩薩が心に留めるべきは、こう考えなさい。妻や夫婦の関係について、むやみに愛着してはなりません。子どもに対しても、他の人より特別に深い愛情を注ぐべきではありません。次の三つのことで、自分の心を律しなさい。一つ目は、仏道はすべてに平等であり、偏った心がないこと。二つ目は、仏道はすべてに平等に実践され、偏った行いがないこと。三つ目は、仏道は一つの教えに基づいて歩むものであり、さまざまな行いを別々に立てるものではないこと。この三つの教えで、自分の心を正しなさい。
もし自分の子どもを見たら、それを仇敵のように考えなさい。子どもは善き教えの友(善知識)ではありません。なぜなら、子どもへの愛着によって、仏の教えという善き友から遠ざかってしまうからです。そこで、如来を心から敬い、すべての愛情を子どもに注ぐ代わりに、その慈しみをすべての人に向けなさい。自分を愛する心と同じように、すべての人を慈しみなさい。
こう考えなさい。「すべての者は私の子であり、私もまたすべての者の子である。ここに家や親族といった執着はなく、出会いの中でかえって敵となることもある。私が何をしても、善き友も悪しき友もないと願う。なぜなら、善き友がいるならば、愛欲の思いが増すからであり、悪しき友がいるならば、すべての愛欲は消え去るからである。私は常に自分の心を調え、何にも執着しないようにしたい。そしてすべての教えを実践し、すべての行いに至りたい。邪な行いをする者は邪なことに陥り、正しい行いをする者は正しいことに達する。だから私は、邪な行いをせず、すべてに対して平等な心で行動したい。学ぶところはすべて悟りの智慧に至ることを願う。」
「如是,長者!居家菩薩不著諸所有,亦無所受、亦無所貪,亦不染愛欲、亦不起、亦不令無所起。居家菩薩若見乞匂者來,所施乞者當云何?心當作是念言:『我持是物布施,會當得律行、除婬妷、生死憂、入正;我所持物布施,死時為善死;我用諸所布施故,臨壽終時歡喜,無悔恨心。』若復心念不能作惠施,見乞者當起四念。何等四?一者、意為羸劣其功德少;二者、是我之罪,於是大乘心不得自在興立布施;三者、適發意行所見用任我故,當忍辱施與於人;四者、願令我所作具足是願及一切人當曉喻乞者。
「このように、長者よ。在家の菩薩は、あらゆる所有に執着せず、受け取ることもなく、貪ることもなく、愛欲に染まることもなく、それを起こすこともなく、また起こさないようにさせることもありません。在家の菩薩は、もし物乞いが来るのを見たら、その物乞いに施すとき、どうすべきでしょうか。心にこう思うべきです。『私はこの品物を持って布施をする。必ずや戒律にかなった行いを得て、婬欲を除き、生死の苦しみから離れ、正しい道に入るであろう。私が持っている品物を布施することで、死ぬときに善く死ぬことができる。私はこれらの布施のために、命が終わる瞬間に喜びを感じ、悔いを残す心がないであろう。』もしさらに心に布施を施すことができないという思いが起きたなら、乞食を見て四つの念を起こすべきです。その四つとは何か。一つ目は、自分の心が弱く劣っており、その功徳が少ないということ。二つ目は、これは私の罪であり、この大乗の心において自在を得られず、布施を起こすことができないということ。三つ目は、まさに心を発して修行しようという思いは、私の身に任されているのだから、忍耐をもって人に施しを与えるべきであるということ。四つ目は、私が行うことをすべて満足させるという願いと、すべての人々がその願いを持てるように、乞食に諭し教え導くべきであるということです。」
「長者!居家菩薩若離世尊教——無有佛起、亦無有說法者、亦不見賢聖僧——便當遍念十方一切佛。是諸佛本行菩薩道時皆行精進,然後得佛,具足一切佛法。念是一切佛已,當勸助如是,晝夜各三。淨其身、口、意已,行等慈,念諸善本,遠諸所有,當有慚愧,以諸功德本自莊飾。其心清淨令人歡喜,信意樂於佛道無有亂,所作安諦恭敬,斷諸貢高、憍慢。當諷誦三品法經,棄一切諸惡行、悔過,以八十事一心勸助諸福,具足相好。當轉諸佛法輪、勸助諸佛轉法輪,以無量行自受其國,壽不可計。
「長者!居家菩薩當行八關齋。持是齋戒功德,梵行清淨沙門,行菩薩善本。與諸戒具道沙門、梵志相隨,恭敬奉事,不得見惡,索其長短。若見犯戒比丘,當敬事袈裟:『此為是世尊、如來、無所著、等正覺袈裟,戒、三昧、智慧、解脫、見慧當為袈裟。』作禮其袈裟已,離一切淫塵,是為諸賢聖神通之法。念是以後,益恭敬此比丘,當於是比丘起大哀:『是惡行,犯是戒行非善戒。是佛法寂定、調柔,有智入如來法門作沙門,不寂定、無調柔非賢者行,為常勤苦。』如來言:『無戒、不學者,不當輕易。』所以者何?非是其人過也,是淫塵之咎,用愛欲見不善本態。佛法有哀護,若能覺了是淫塵念空,便可得第一道意,可得作平等忍。所以者何?智慧能壞愛欲。
「在家の菩薩たる皆さまよ、八斎戒を行うべきです。この斎戒の功徳を保ち、清らかな行いをする沙門と共に、菩薩の善い根を育てなさい。戒を具え修行に励む沙門や梵志と共に歩み、敬い奉仕しなさい。悪を見たり、その短所を探したりしてはなりません。
もし戒を破る比丘を見たら、その袈裟を敬いなさい。『これは世尊、如来、無所著、等正覚の袈裟である。戒、三昧、智慧、解脱、見慧こそが袈裟である』と。その袈裟に礼をしたならば、すべての淫欲の塵から離れることができ、これが諸々の聖賢の神通の法なのです。
このように念じた後に、ますますこの比丘を敬い、その比丘に大いなる哀れみを起こしなさい。『この悪行は、この戒を犯すものであり、善戒ではありません。仏の教えは寂静で、調和し柔らかいものです。智慧をもって如来の法門に入り沙門となったのに、寂静ではなく、調和も柔らかさもなく、賢者の行いではない。これは常に苦悩することである』と。
如来は言われました。『戒なく、学ばざる者を軽んじてはならない』と。なぜなら、それはその人の過ちではなく、淫欲の塵による咎であり、愛欲や誤った見解から生じる不善の本態だからです。
仏法には哀れみと護りがあります。もしこの淫欲の塵を覚り、それを空と観じることができれば、第一の道意を得ることができ、平等の忍びを得ることができるでしょう。なぜなら、智慧は愛欲を破壊するからです。」
「世尊言:『人不可輕妄,平相不可限。』所以者何?欲平相人則為平相如來,如來所知非我所究,如是,於彼不當作惡心,取其長短也。
世尊は言われた。「人を軽んじたり、侮ったりしてはならない。人の外見だけで、その人を測ってはならない。」なぜなら、人の姿かたちを測ろうとすることは、如来をも測ろうとすることだからです。如来の悟りは、私のような者には到底及ぶものではありません。ですから、他人に対して悪意を抱いたり、長所や短所を取り沙汰したりしてはならないのです。