永寧寺。熙平元年靈太后胡氏所立也。在宮前閶闔門南一里御道西。其寺東有太尉府。西對永康里。南界昭玄曹。北隣御史臺。閶闔門前御道東有左衛府。府南有司徒府。司徒府南有國子學堂。內有孔丘像。顏淵問仁子路問政在側。國子南有宗正寺。寺南有太廟。廟南有護軍府。府南有衣冠里。御道西有右衛府。府南有太尉府。府南有將作曹。曹南有九級府。府南有太社。社南有凌陰里。即四朝時藏氷處也。中有九層浮圖一所。架木為之。舉高九十丈。有剎復高十丈。合去地一千尺。去京師百里已遙見之。初掘基至黃泉下。得金像三千軀。太后以為信法之徵。是以營建過度也。剎上有金寶瓶。容二十五石寶瓶。下有承露金盤三十重。周匝皆垂金鐸。復有鐵鎖。四道引剎向浮圖。四角鎖上。亦有金鐸。鐸大小如一石甕。子浮圖有九級角。角皆懸金鐸。合上下有一百二十鐸。浮圖有四面。面有三戶六窓。戶皆朱漆。扉上有五行金釘。合有五千四百枚。復有金環鋪首布。殫土木之功。窮造形之巧。佛事精妙不可思議。繡柱金鋪駭人心目。至於高風。永夜寶鐸和鳴。鏗鏘之聲聞及十餘里。浮圖北有佛殿一所。形如太極殿。中有丈八金像一軀。中長金像十軀。繡珠像三軀。織成五軀。作功奇巧。冠於當世。僧房樓觀一千餘間。雕梁粉壁青繅綺疏難得而言。栝柏松椿扶疎拂簷叢。竹香草布護階墀。是以常景碑云。須彌寶殿兜率淨宮。莫尚於斯也。外國所獻經像。皆在此寺。寺院牆皆施短椽。以瓦覆之。若今宮牆也。四面各開一門。南門樓三重通。三道去地二十丈。形製似今端門圖。以雲氣畫彩仙靈綺□青鎖□赫麗華。拱門有四力士四獅子。飾以金銀。加之珠玉裝嚴煥炳世所未聞。東西兩門亦皆如之。所可異者。唯樓二重。北門一道不施屋。似烏頭門。四門外樹以青槐亘以綠水。京邑行人多庇其下。路斷飛塵不由奔雲之潤。清風送涼。豈藉合歡之發。詔中書舍人常景。為寺碑文。景字永昌。河內人也。敏學博通。知名海內。大和十九年為高祖所器。拔為律學博士。刑法疑獄多訪於景。正始初。詔刊律令。永作通式。勅景共治書。侍御史高僧裕。羽林監王元龜。尚書郎祖瑩。員外散騎侍郎李琰之等。撰集其事。又詔太師彭城王勰。青州刺史劉芳入預其議。景討正科條。商搉古今。甚有倫序。見行於世。今律二十篇是也。又共芳造洛陽宮殿門閣之名。經途里邑之號。出除長安令。時人比之潘岳。其後歷位中書舍人。黃門侍郎祕書監。幽州刺史。儀同三司。學徒以為榮焉。景入參近侍。出為侯牧。居室貧儉事等農家。唯有經史盈車滿架。所著文集數百餘篇。給事封暐伯作序。行於世。裝飾畢功。明帝與太后共登之。視宮內如掌中。臨京師若家庭。以其目見宮中禁人不聽升。衒之嘗與河南尹胡孝世共登之。下臨雲雨信哉不虛。時有西域沙門菩提達磨者。波斯國胡人也。起自荒裔來遊中土。見金盤炫日光照雲表。寶鐸含風響出天外。歌詠讚歎實是神功。自云年一百五十歲歷涉諸國。靡不周遍。而此寺精麗閻浮所無也。極物境界亦未有。此口唱南無合掌連日。至孝昌二年中。大風發屋拔樹。剎上寶瓶隨風而落入地丈餘。復命工匠更鑄新瓶。建義元年太原王爾朱榮總士馬於此寺。榮字天寶北地秀容人也。世為第一領民酋長博陵郡公部落八千餘家。有馬數萬匹富等天府。武泰元年二月中帝崩無子。立臨洮王世子釗以紹。大業年三歲太后貪秉朝政故。以立之。榮謂并州刺史元天穆曰。皇帝晏駕。春秋十九。海內士庶猶曰幼君。況今奉未言之兒。以臨天下而望昇平。其可得乎。吾世荷國恩不能坐看成敗。今欲以鐵馬五千赴哀山陵。兼問侍臣帝崩之由。君竟謂如何。穆曰。明公世跨并肆雄才傑出。部落之民控弦一萬。若能行廢立之事。伊霍復見今日。榮即共穆結異姓兄弟。穆年大榮兄事之。榮為盟主。穆亦拜榮。於是密議。長君諸王之中不知誰應當璧。遂於晉陽人各鑄像不成。唯長樂王子攸像光相具足。端嚴特妙。是以榮意在長樂。遣蒼頭王豐入洛。詢以為主。長樂即許之共剋期契。榮三軍皓素揚旌南出。太后聞榮舉兵。召王公議之時。胡氏專寵。皇宗怨望。假八議者莫肯致言。唯黃門侍郎徐統曰。爾朱榮馬邑小胡人。才凡鄙不度德量。力長戟指闕。所謂窮轍拒輪積薪候燎。今宿衛文武足得一戰。但守河橋觀其意趣。榮懸軍千里兵老師弊。以逸待勞破之必矣。后然統言。即遣都督李神軌鄭季明等。領眾五千鎮河橋。四月十一日榮過河內至高頭驛。長樂王從雷陂北渡赴榮軍所。神軌季明等見長樂王往遂開門降。十二日榮軍於芒山之北河陰之野。十三日召百官赴駕至者盡誅之。王公卿土及諸朝臣死者三千餘人。十四日車駕入城。大赦天下。改號為建義元年。是為莊帝。于時新經大兵人物殲盡。流迸之徒驚駭未出。莊帝肇升太極。解網垂仁。唯散騎常侍山偉一人拜恩南闕。加榮使持節中外諸軍事大將軍開府北道大行臺都督。十州諸軍事大將軍領左右。太原王其天穆為侍中太尉公世襲并州刺史。上黨王起家為公卿牧守者。不可勝數。二十日洛中草草猶自不安。死生相怨人懷異慮。貴室豪家并宅競竄。貧夫賤士襁負爭逃。於是出詔。濫死者普加褒贈。三品以上贈三公。五品以上贈令僕。七品以上贈州牧。白民贈郡鎮。於是稍安。帝納榮女為皇后。進榮為柱國大將軍錄尚書事。餘官如故。進天穆為大將軍。餘官皆如故。永安二年五月北海王元顥復入洛。在此寺聚兵。顥莊帝從兄也。孝昌末鎮汲郡。聞爾朱榮入洛陽。遂南奔蕭衍。是年入洛。莊帝北巡。顥登皇帝位。改年曰建武元年。顥與莊帝書曰。大道既隱。天下匪公禍福不追與能義絕。朕猶庶幾五帝無取六軍正以糠粃萬乘錙銖大寶。非貪皇帝之尊。豈圖六合之富直。以爾朱榮往歲入洛。順而勤王終為魏賊。逆刃加於君親。鋒鏑肆於卿宰。元氏少長殆欲無遺。已有陳恒盜齊之心。非無六卿分晉之計。但以四海橫流欲篡未可。暫樹君臣假相拜置。害卿兄弟獨夫介立。遵養待時臣節詎久。朕覩此心寒遠投江。表泣請梁朝誓在復恥。風行建業電赴三川。正欲問罪於爾朱。出卿於桎梏。恤深怨於骨肉。解蒼生於倒懸。謂卿明眸擊節躬來見。我共敘哀辛同討兇羯。不意駕入城臯便。爾北渡雖迫於兇手勢不自由。或□生素懷棄劍猜。我聞之永歎。撫衿而失何者。朕之於卿兄弟非遠。連枝分葉興滅相依。假有內闚外猶禦侮。況我與卿睦厚偏篤其於急難。凡今莫如棄親即讎。義將焉據也。且爾朱榮不臣之跡。暴於旁午。謀魏社稷愚智同見。卿乃明白疑於必然。託命豺狼。委身虎口。棄親助賊。兄弟尋戈。假獲民地。本是榮物。若克城邑。絕非卿有。徒危宗。國以廣寇仇。快賊莽之心。假卞莊之利。有識之士。咸為慚之。今家國隆替在卿與我。若天道助順。誓茲義舉。則皇魏宗社與運無窮。儻天不厭亂。胡羯未殄。鴟鳴狼噬荐食河北。在榮為福。於卿為禍。豈伊異人尺書道意。卿宜三復兼利是圖富貴可保。狥人非慮終不食言。自相魚肉。善擇元吉。勿貽後悔。此黃門郎祖榮之詞也。時帝在長子城。太原王上黨王來赴急。六月。帝圍河內。太守元桃湯車騎將軍宗正珍孫等為顥守攻之弗克。時暑炎赫將士疲勞。太原王欲使帝幸晉陽。至秋更舉大義。未決。召劉助筮之。助曰。必克。於是至明盡力攻之。如其言。桃湯珍孫並斬首。以殉三軍。顥聞河內不守。親率百僚。出鎮河橋。特遷侍中安豐王延明往守硤石。七月帝至河陽。與顥隔河相望。太原王命車騎將軍爾朱兆潛師渡河破延明於硤石。顥聞延明敗亦散走。所將江淮子弟五千人。莫不解甲相泣。握手成列。顥與數千騎欲奔蕭衍。至長社為社民斬其首。傳送京師。二十日。帝還洛陽。進太原王天柱大將軍。餘官亦如故。進上黨王太宰。餘官亦如故。永安三年逆賊爾朱兆囚莊帝於寺。時太原王位極心驕功高意侈。與奪臧否肆意。帝恐謂左右曰。朕寧作高貴卿公死。不作漢獻帝生。九月二十五日詐言產太子。榮穆並入朝。莊帝手刃榮於光明殿。穆為伏兵魯暹所殺。榮世子部落大人亦死焉。榮下車騎將軍爾朱陽都等二十人隨入東華門。亦為伏兵所殺。唯右僕射爾朱世隆素在家。聞榮死總榮部曲燒西陽門奔河橋。至十月一日隆與妻鄉郡長公主。至芒山憑王寺。為榮追福齋。即遣爾朱侯討伐。爾朱那律歸等領胡騎一千皆白服來至郭下。索太原王尸喪。帝升大夏門望之。遣主書牛法尚。謂歸等曰。太原王立功不終。陰圖釁逆。王法無親。已依正刑罪止榮身。餘皆不問。卿等何為不降官爵如故。歸曰。臣從太原王來朝。陛下何忽今日枉致無理。臣欲還晉陽。不忍空去。願得太原王尸喪。生死無恨。發言雨淚哀不自勝。群胡慟哭。聲振京師。帝聞之亦為傷懷。遣待中朱元龍齋鐵券與世隆。待之不死。官位如故。世隆謂元龍曰。太原王功格天地造濟生民。赤心奉國神明所知。長樂不顧信誓。枉害忠良。今日兩行鐵字何足可信。吾為太原王報仇終不歸降。元龍見世隆呼帝為長樂。知其不欵。且以言帝。帝即出庫物置城西門外。募敢死之士。以討世隆。一日即得萬人。與歸等戰於郭外。兇勢不摧。歸等屢涉戎場便擊刺。京師士眾未習軍旅。雖皆義勇力不從心。三日頻戰而游魂不息。帝更募人斷河橋。有漢中人李荀為水軍。從上流放火燒橋。世隆見橋被焚。遂大剽生民北上太行。帝遣侍中源子恭黃門郎楊寬領步騎三萬鎮河內。世隆至高都。立太原太守長廣王瞱為主。改號曰建元元年。爾朱氏自封王者八人。長廣王都晉陽。遣潁川王爾朱兆。舉兵向京師。子恭軍失利。兆自雷波涉渡擒莊帝於式乾殿。帝初以黃河奔急。未謂兆得濟。不意兆不由舟楫。憑流而渡。是日水淺不沒馬腹故。及此難書契所記未之有也。衒之曰。昔光武受命。氷橋宜於滹水。昭烈中起。的盧踊於泥溝。皆理合於天神祇所福。故能功濟宇宙大庇生民。若兆者蜂目豺聲行窮梟獍。阻兵安忍賊害君親。皇靈有知。鑒其凶德。反使孟津由膝贊其逆心易稱大道。禍淫鬼神福謙。以此驗之信為虛說。時兆營軍尚書省建。天子金鼓庭設漏刻。嬪御妃主皆擁之於幕鎖。帝於寺門樓上。時十二月帝患寒。隨兆乞頭巾。兆不與。遂囚帝還晉陽。縊於三級寺。帝臨崩禮佛。願不為國王。又作五言曰。權去生道促。憂來死路長。懷恨出國門。含悲入鬼鄉。隧門一時閉。幽庭豈復光。思鳥吟青松。哀風吹白楊。昔來聞死苦。何言身自當。至太昌元年冬。始迎梓宮。赴京師葬帝靖陵。所作五言詩。即為挽歌詞。朝野聞之莫不悲慟。百姓觀者悉皆掩涕而已。永熙三年二月浮圖為火所燒。帝登凌雲臺望火。遣南陽王寶炬錄尚書長孫椎。將羽林一千救赴火所。莫不悲惜垂淚而去。火初從第八級中平旦大發。當時雷雨晦冥。雜下霰雪。百姓道俗咸來觀火。悲哀之聲振動京邑。時有三比丘赴火而死。火經三月不滅。有火入地尋柱。周年猶有煙氣。其年五月中有人從象郡來云。見浮圖於海中。光明照耀儼然如新。海上之民。咸皆見之。俄然霧起。浮圖遂隱。至七月中。平陽王為侍中。斛斯椿所使奔於長安。十月而京師遷鄴。
永寧寺は、熙平元年に霊太后胡氏が建立した寺である。宮殿の前、閶闔門の南一里、御道の西側に位置する。寺の東には太尉府があり、西は永康里に面し、南は昭玄曹に接し、北は御史台に隣接している。閶闔門の前、御道の東には左衛府があり、その南に司徒府、さらに南に国子学堂がある。堂内には孔子の像があり、顔淵が仁を問い、子路が政を問う様子が側面に描かれている。国子監の南には宗正寺、その南に太廟、さらに南に護軍府、そして衣冠里がある。御道の西には右衛府があり、その南に太尉府、将作曹、九級府、太社と続き、南に凌陰里がある。ここは四朝時代に氷を貯蔵していた場所である。
寺の中には九重の塔が一つあった。木造で、高さは九十丈。さらにその上の刹(てっぺんの飾り)が十丈あり、合わせて地面から千尺の高さであった。都から百里離れていてもはっきりと見えた。最初に基礎を掘ったとき、黄泉の下まで達し、金像三千体が出土した。太后はこれを仏法の証と信じ、そのため荘厳な造営は度を超えるほどであった。
刹の上には金の宝瓶があり、二十五石の容量があった。宝瓶の下には露を受ける金の盤が三十重にあり、周囲には金の鈴が垂れ下がっていた。また鉄の鎖が四本あり、刹を塔の四隅に引いて固定していた。その鎖にも金の鈴が付いていた。鈴の大きさは一石の甕ほどであった。塔は九重で、各層の隅々に金の鈴が掛けられ、上下合わせて百二十個の鈴があった。
塔は四面あり、各面に三つの戸と六つの窓があった。戸はすべて朱塗りで、扉には金の釘が五行、合わせて五千四百本打たれていた。さらに金の環や装飾が施されていた。木の彫刻や土の造形の技は尽くされ、仏事の荘厳さは精妙で不思議を極め、刺繍の柱や金の飾りは見る者の心と目を驚かせた。風の吹く永い夜には、宝鐸(仏塔の鈴)が和やかに鳴り響き、その澄んだ音は十余里先まで聞こえたという。
塔の北には仏殿が一つあり、その形は太极殿のようであった。中には丈六の金像が一体、中くらいの大きさの金像が十体、刺繍と珠の像が三体、織物で作られた像が五体安置されていた。その出来栄えは奇巧を極め、当代随一であった。僧房や楼閣は千余りあり、彫刻された梁、白い壁、美しい窓は言葉に尽くしがたいものであった。木々は生い茂り、軒に届き、竹や草花は庭の階段を覆っていた。常景の碑文には「須弥山の宝殿や兜率天の浄宮も、これ以上のものはない」とある。
外国から献上された経典や仏像はすべてこの寺に納められた。寺の壁には短い垂木を並べて瓦で覆い、まるで宮城の壁のようであった。四方にそれぞれ門があり、南門の楼は三重で、通路は三つ、地面から二十丈の高さがあった。その形は現在の端門の図のようであり、雲気や仙霊の絵で彩られていた。門には四力士と四獅子が飾られ、金銀や珠玉で荘厳され、輝かしいことこの上なく、世に聞いたことがないほどの美しさであった。東西の門も同様であるが、ただ楼が二重である点だけが異なる。北門は一つの道で、屋根を設けず、烏頭門のような形であった。
四つの門の外には青い槐の木が植えられ、緑の水が流れていた。都の人々は多くその下で休憩し、道には砂塵も立たず、清風が涼を運んできた。
詔により中書舎人の常景が寺の碑文を起草した。常景は字を永昌といい、河内の人である。学問に敏で広く通じ、名声は天下に知られていた。太和十九年に高祖に認められ、律学博士に抜擢された。刑法や疑獄の事柄は多く常景に諮問された。正始の初め、詔により律令を刊定し、永代の規範とすることになり、常景は治書侍御史の高僧、羽林監の王元亀、尚書郎の祖瑩、員外散騎侍郎の李琰之らとともにその事を撰集した。また太師の彭城王勰、青州刺史の劉芳もその議論に参加した。常景は科条を討正し、古今を考証し、非常に秩序立てて、現在世に行われている律二十編を完成させた。また劉芳とともに洛陽の宮殿・門閣の名称や、道路・邑里の呼称を定めた。
その後、長安令に任じられ、当時の人は彼を潘岳に比した。以後、中書舎人、黄門侍郎、秘書監、幽州刺史、儀同三司と歴任し、学者たちは名誉なこととしている。常景は朝廷に仕える傍ら、外では地方官となり、家は貧しく質素で農家と変わらなかった。ただ経書や史書が車や棚に満ちていた。著した文集は数百篇あり、給事中の封暐伯が序を書き、世に行われた。
装飾が完成すると、明帝は太后とともに塔に登った。宮中を手のひらのように見下ろし、京師を自分の家のように眺めた。ここから宮中が見えるため、以後は人に登ることを禁じた。衒之はかつて河南尹の胡孝世とともに登ったことがある。下に雲や雨を見下ろしたのは、まことに嘘ではなかった。時に西域の沙門である菩提達磨という者がいた。波斯国の胡人であり、辺境の地から起こって中土を遊行していた。金盤が日を受けて輝き、光が雲の上に達するのを見、宝鐸が風を含んで音が天外に響き渡るのを聞き、歌い讚歎して「実にこれは神の技である」と言った。自ら「年は百五十歳で、諸国を歴遊し、至らない所はないが、この寺の精妙さは閻浮提にないものである。物質の極みも、またこのようなものはない」と述べ、口に南無と唱え、手を合わせることが数日に及んだ。
孝昌二年、大風が起こって屋根を吹き飛ばし木を抜いた。刹の上の宝瓶は風に乗って落ち、地面に一丈余りも食い込んだ。そこで再び工匠に命じて新しい瓶を鋳造させた。
建義元年、太原王の爾朱栄がこの寺に軍勢を集結させた。栄は字を天宝といい、北地の秀容の人である。代々第一領民酋長、博陵郡公であり、部落は八千余家、馬は数万匹を有し、その富は天府に等しかった。武泰元年二月、帝が崩じ、子がなかったため、臨洮王の世子である釗を立てて後を継がせた。釗はわずか三歳であった。太后が朝政を掌握していたことを貪ったために、これを立てたのである。
栄は并州刺史の元天穆に言った。「皇帝が崩御なされたが、十九歳であられた。天下の士民もなお幼君と言っている。ましてや今、言葉も話せぬ幼児を奉じて天下に臨ませて、太平を望むことができるだろうか。私は代々国の恩を受けている。座して成り行きを見守ることはできない。今、鉄騎五千を率いて山陵に赴き弔意を表し、あわせて侍臣に帝が亡くなられた理由を問いただしたい。あなたはどう思うか。」天穆は言った。「明公は代々并州・肆州に跨って雄才を傑出させ、部落の民は弓を引く者が一万人います。もし廃立のことが成し遂げられれば、伊尹や霍光が今日再び見られることでしょう。」栄はすぐに天穆と義兄弟の契りを結んだ。天穆が年長であったので、栄は兄としてこれに仕えた。栄が盟主となり、天穆も栄を礼拝した。そこで密かに協議したが、諸王の中で年長で帝位にふさわしい者が誰かわからなかった。そこで晋陽において各自の鋳像を試みたが、ただ長楽王の子攸のみが像の光相を具え、端正で特に優れていた。このため栄の心は長楽に定まった。
栄は蒼頭の王豊を洛陽に派遣し、盟主となるよう打診した。長楽王はこれを承諾し、ともに期日を約束した。栄の三軍は白色の喪服を着用し、旗を掲げて南に向かった。太后は栄が兵を挙げたと聞き、王公を召して議論した。時に胡氏が専権し、皇族は怨みを抱いていたため、「八議」の特権を持つ者は誰も意見を述べなかった。ただ黄門侍郎の徐紇のみが言った。「爾朱栄は馬邑の小胡で、才能も凡庸で卑しく、力を度ばかりに徳を量らず、長戟を宮門に向けています。いわゆる『窮した車輪が塒に抗し、薪を積んで火を待つ』ということです。今、宿衛の文武は一戦に足る力があります。ただ河橋を守って彼の意図を見極めるべきです。栄の軍は千里の遠征で兵は疲弊しています。こちらは労を逸し、疲れを待って破るのが必至です。」太后は徐紇の言を採用し、都督の李神軌、鄭季明らに命じて、衆五千を率いて河橋を鎮守させた。
四月十一日、栄は河内を過ぎて高頭駅に至った。長楽王は雷陂から北へ渡り、栄の軍所に赴いた。神軌と季明らは長楽王が行ったのを見て、門を開いて降伏した。十二日、栄は芒山の北、河陰の野に軍を駐めた。十三日、百官を召して駕に赴かせ、やって来た者を全て殺した。王公卿士および諸朝臣で死んだ者は三千余人に及んだ。十四日、車駕は洛陽城に入り、天下に大赦し、年号を改めて建義元年とした。これが荘帝である。
この時、兵乱の直後で人士はほとんど殺され尽くし、逃げ散った者たちは驚きおののいて出てこなかった。荘帝が太极殿に即位し、網を解いて仁を垂れると、ただ散騎常侍の山偉一人だけが南闕で恩に拝した。栄には使持節・中外諸軍事・大将軍・開府・北道大行台・都督・十州諸軍事大将軍・領左右・太原王を加え、天穆は侍中・太尉公とし、并州刺史を世襲させた。上党王は家を起こし、公卿・牧守となった者が数え切れないほどあった。二十日になっても洛中の情勢は落ち着かず、生死の間に怨みを抱き、人々はそれぞれ思惑を異にし、貴族や富豪の家は競って邸宅を捨てて逃げ、貧しい者や身分の低い者は幼子を背負って我先に逃亡した。そこで詔を出し、虐殺された者には一律に追贈を与えた。三品以上は三公を贈り、五品以上は令僕を贈り、七品以上は州牧を贈り、平民には郡鎮を贈った。これによりようやく人心は安定した。
帝は栄の娘を皇后とした。栄を柱国大将軍・録尚書事に進め、その他の官職は従来のままとした。天穆を大将軍に進め、その他の官職はすべて従来のままとした。
永安二年五月、北海王元顥が再び洛陽に入り、この寺で兵を集めた。顥は荘帝の従兄である。孝昌の末に汲郡を鎮守した。爾朱栄が洛陽に入ったと聞き、南に奔って蕭衍(梁の武帝)に頼った。この年、洛陽に入った。荘帝は北へ巡幸した。顥は皇帝の位に登り、年号を建武元年と改めた。顥は荘帝に書を送って言った。「大道はすでに隠れ、天下は公にあらず。禍福を遡ることもなく、与能の義は絶えた。朕はなお五帝をしのごうと欲するが、六軍を得ることはない。まさに万乗を糠粃のように、大宝を錙銖のように軽んじている。皇帝の尊さを貪るのではなく、六合の富を得ようと図るのでもない。ただ爾朱栄が去年洛陽に入り、順に従って王に勤めたが、ついに魏の賊となった。逆刃を君親に加え、鋒鏑を卿相に浴びせた。元氏の老少は、ほとんど残らず滅ぼそうとしている。すでに陳恒が斉を盗む心があり、六卿が晋を分かつ計略がないわけではない。ただ四海が濁流のように乱れ、篡奪もまだ不可能なため、一時的に君臣の関係を樹立し、仮に拝置をなしたまでである。卿の兄弟を害し、孤り者を独立させ、時に従って養い、臣節を長く続けることができようか。朕はこの心を見て心寒く、遠く江南に奔り、泣いて梁朝に請うたのは、復讐を誓うためである。風は建業に行き、電は三川に赴く。まさに爾朱に罪を問い、卿を桎梏から出すことを欲するのだ。深い怨みを骨肉の間で恤み、蒼生を倒懸から解こうというのだ。卿が明眸で節を撃ち、親しく来て我に会い、共に哀辛を述べ、共に兇羯を討つことを望んだ。思いの外、車駕が城皐に入られ、すぐに北へ渡られた。たとえ兇手に迫られ、勢い自ら由なくとも、あるいは素懷を生じて剣を棄て猜疑するならば、我はこれを聞いて永く歎じ、衿を撫して失する。何となれば、朕と卿は兄弟遠からず、連枝分葉、興滅相依る関係にある。仮に内の覘きがあっても、外に向かってはなお侮りを禦ぐ。況して我と卿は睦厚偏に篤く、その急難に際しては、凡そ今、親を棄てて仇に就く者はいないであろう。義は何に拠ってか将に焉く。且つ爾朱栄が臣に非ざるの跡は、旁午に暴かれており、魏の社稷を謀ることは愚者も賢者も同じく見ている。卿は明白なのに、必然を疑い、豺狼に命を托し、虎口に身を委ね、親を棄てて賊を助け、兄弟で戈を交えるとは。仮に民地を得たとしても、元は栄の物である。もし城邑を克ち取っても、決して卿の有にはならず、ただ宗国を危うくし、寇仇を広めるだけだ。賊莽の心を快くし、卞荘の利を仮るようで、有識の士は皆これを恥としている。今、家国の隆替は卿と我とにある。もし天道が順を助けるなら、この義挙を誓い、皇魏の宗社は運とともに無窮であろう。もし天が乱を厭わず、胡羯が滅びなければ、鴟が鳴き狼が噬み、河北に荐り食す。栄にとっては福であり、卿にとっては禍である。どうして異人が尺書で意を伝えることがあろうか。卿は三復して、利を兼ね図るべきだ。富貴は保つことができ、人に徇うのは慮りではない。終に言を食むことはなく、自ら魚肉となることはない。善く元吉を選び、後に悔いを残すことなかれ。」これは黄門郎の祖栄の文辞である。
時に帝は長子城におられた。太原王と上党王が来て急を報じた。六月、帝は河内を包囲した。太守の元桃湯、車騎将軍の宗正珍孫らが顥のために守り、攻めたが落とせなかった。時に暑さが厳しく、将士は疲労した。太原王は帝に晋陽へ幸し、秋になってからさらに大義を挙げようと望んだ。決断がつかず、劉助を召して筮竹で占わせた。助は「必ず克つでしょう」と言った。そこで明くる日から力を尽くして攻め、彼の言葉の通りになった。桃湯と珍孫はともに斬首され、三軍に見せしめとした。
顥は河内が守られないと聞き、自ら百官を率いて河橋に出鎮した。特に侍中の安豊王延明を遷して硤石を守らせた。七月、帝は河陽に至り、顥と河を隔てて相望んだ。太原王は車騎将軍の爾朱兆に命じ、ひそかに兵を渡河させ、延明を硤石で破った。顥は延明の敗北を聞き、また散り散りに逃走した。率いてきた江淮の子弟五千人は、皆甲を脱いで相泣き、手を握って列をなした。顥は数千騎とともに蕭衍のもとへ奔ろうとしたが、長社に至ったとき、地元民にその首を斬られた。その首は京師に伝送された。二十日、帝は洛陽に帰還した。太原王を天柱大将軍に進め、他の官職も従来のままとした。上党王を太宰に進め、他の官職も従来のままとした。
永安三年、逆賊の爾朱兆が荘帝をこの寺に幽閉した。このとき太原王は位極まり心驕り、功高く意侈しく、賞罰をほしいままにしていた。帝は恐れ、左右に「朕は寧ろ高貴郷公のように死するとも、漢の献帝のごとく生きることを欲しない」と言った。九月二十五日、太子の出産を偽って知らせ、栄と天穆はともに入朝した。荘帝は自らの手で栄を光明殿で斬った。天穆は伏兵の魯暹に殺された。栄の世子と部落の大人たちもまた死んだ。栄に付き従ってきた車騎将軍の爾朱陽都ら二十人は、東華門に従って入ったが、同じく伏兵に殺された。ただ右僕射の爾朱世隆だけは平常から家におり、栄の死を聞くと、栄の部曲を率いて西陽門を焼き、河橋に奔った。
十月一日に至り、世隆は妻の郷郡長公主とともに芒山の憑王寺に赴き、栄のために追福斎を行った。すぐに爾朱侯討伐を派遣した。爾朱那律帰らが胡騎一千を率いて白衣のまま城郭の下に来て、太原王の尸骸を求めた。帝は大夏門に登ってこれを見、主書の牛法尚を派遣し、帰らたちに「太原王は功を立てながら全うせず、ひそかに逆乱を図った。王法に親しみはない。すでに正刑に依って罪は栄の一身に止めた。他の者は皆問わない。あなたたちはなぜ降伏しないのか。官職は従来の通りに与える」と告げさせた。帰は言った。「臣は太原王に従って来朝しました。陛下はどうして今日に至って忽ち無理なことをなさるのですか。臣は晋陽に帰りたいと思いますが、空しく去ることが忍びず、どうか太原王の尸骸をいただきたい。生死に恨みはありません。」言葉を発するにつれ涙が雨のごとくに落ち、悲哀を堪えることができなかった。群胡は慟哭し、その声は京師に響いた。帝もこれを聞いて傷懷し、侍中の朱元龍を派遣して鉄券を持たせ、世隆に与えて、死を免じ、官位は従来の通りとすることとした。世隆は元龍に言った。「太原王の功は天地に格(いた)り、生民を済った。赤心をもって国に尽くしたことは、神明の知るところである。長楽王は信誓を顧みず、枉(まげ)て忠良を害した。今日の二行の鉄の文字(鉄券)など、何を信ずるに足りようか。私は太原王の仇を報いるため、終に帰降しない。」元龍は世隆が帝を長楽と呼ぶのを見て、その心が真心でないことを知り、帝にその言葉を告げた。帝はすぐに庫の物を出して城の西門外に置き、敢えて死を恐れぬ勇士を募り、世隆を討たせた。一日で一万人を得た。帰らと城外で戦ったが、凶勢は抑えられなかった。帰らたちはたびたび戦場を歴て刺撃に慣れており、京師の士衆は軍旅に未だ慣れておらず、皆義勇ではあったが、力が心に従わなかった。三日の間たびたび戦ったが、賊の勢いは衰えなかった。
帝はさらに人を募って河橋を断たせた。漢中の李荀という者が水軍となり、上流から火を放って橋を焼いた。世隆は橋が焼かれたのを見ると、生民を大いに掠めて太行山の北へ上った。帝は侍中の源子恭と黄門郎の楊寛を派遣し、歩騎三万を率いて河内を鎮守させた。世隆は高都に至り、太原太守の長広王曄を立てて主とし、年号を建元元年と改めた。爾朱氏で自ら王に封ぜられた者が八人いた。長広王は晋陽に都し、潁川王の爾朱兆を遣わして兵を挙げて京師に向かわせた。子恭の軍は敗れた。兆は雷波から渡河して荘帝を式乾殿で捕らえた。帝は初め黄河の流れが急であるため、兆が渡河できるとは思わなかった。思いの外、兆は舟や橋によらず、流れに乗って渡ってきた。この日は水が浅く、馬の腹を浸さなかったため、この難に遭ったのである。書契に記されて以来、このようなことはなかった。
衒之は言う。「昔、光武帝が天命を受けたとき、氷の橋が滹水に宜った。昭烈帝が中ごろ起こったとき、的盧が泥溝を踊った。皆、理が天に合い、神祇に福されたものであるから、よく宇宙に功を済し、生民を大いに庇ったのだ。兆のような者は蜂の目をし豺の声、行いは窮まった梟獍(親を食う鳥獣)である。兵を恃んで忍び、賊となって君親を害した。皇霊に知るものがあれば、その凶徳を鑑みて、かえって孟津を膝(ひざ)の深さにして逆心を助けるとは。易は大道を称し、禍淫・福謙(淫(ほしいまま)なるものに禍し、謙るものを福す)と言うが、これをもって験するに、まことに虚説である。」時に兆の軍は尚書省に行営していた。天子の金鼓を庭に設け、漏刻を置き、嬪御や妃主たちはすべて幕の中に抱え込まれた。帝は寺の門楼に鎖された。時に十二月で、帝は寒さに苦しみ、兆に頭巾を乞うたが、兆は与えなかった。ついに帝を囚えて晋陽に還し、三級寺で絞殺した。
帝は臨崩の際、仏に礼し、「願わくば国王となることなからんことを」と祈った。また五言詩を作った。 「権去りて生道は促く、憂来たりて死路は長し。 恨みを懐いて国門を出で、悲しみを御して鬼郷に入る。 隧門一時に閉ぢ、幽庭豈に復た光らんや。 思鳥は青松に吟じ、哀風は白楊を吹く。 昔来、死の苦しみを聞くも、何ぞ言わん、身自ら当たらんとは。」
太昌元年の冬になっても、ようやく梓宮を迎えて京師に至り、帝を靖陵に葬った。作られた五言詩はそのまま挽歌の詞となった。朝野はこれを聞き、悲しみ嘆かない者はなく、見物の百姓は皆、ただ袖を握って涙した。
永熙三年二月、塔が火事で焼けた。帝は凌雲台に登って火災を見渡し、南陽王宝炬と録尚書の長孫椎を派遣し、羽林一千を率いて火難に赴かせたが、皆、悲しみ惜しんで涙を垂れて去った。火は最初、第八重の中から平旦(夜明け)に激しく起こった。当時、雷雨が晦冥とし、霰雪が雑じり降った。百姓・道俗がみな火災を見に来て、悲哀の声は京邑に震動した。時に三人の比丘が火の中に身を投じて死んだ。火は、三か月に及んでも消えず、火が地に入って柱を尋ね、一年を経てもなお煙の気があった。
その年の五月、象郡から来た人があり、「塔が海の中に見えました。光明が照耀し、厳然として新しいかのようでした。海上の民は皆それを見ました。やがて霧が起こり、塔はついに隠れました」と言った。
七月に至り、平陽王は侍中の斛斯椿に使わされて長安に奔った。十月には京師を鄴に遷した。