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  1. 五方便念仏観門一巻 (五方便念佛觀門一卷)
  1. 五方便念仏門 (五方便念佛門)
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五方便念仏門 (五方便念佛門)

「五方便念佛門」について

隋 · 智顗撰 著

2,009 字 · 約 7 分

隋の天台宗の智者大師・智顗によって著された『五方便念仏門』は、浄土宗の重要な典籍である。この書は、中国仏教の修行体系が成熟に向かう時期に生まれ、五種の念仏の巧みな法門、すなわち称名・観像・観想・実相・唯心念仏を体系的に説き、異なる資質の衆生に応じて、浅きより深きへと導き浄土に帰せしめることを目的としている。その内容は、止観の修持と阿弥陀仏への信仰を結びつけ、天台思想と浄土実践の融合を体現し、念仏修行に明確な階梯と理論的根拠を提供した。この著作は、漢伝仏教における浄土法門の弘揚と発展に深く影響を与え、念仏修学の重要な手引きとして、仏教史上に崇高な地位を占めている。


五方便念佛門

五方便念仏門

天台智者大師撰

天台智者大師撰

一凝心禪、二制心禪、三體真禪、四方便隨緣禪、五息二邊分別禪。

一、凝心禅(心を一つに集中させる禅) 二、制心禅(心を制御する禅) 三、体真禅(真実のありようを体得する禅) 四、方便随縁禅(縁に応じて方便を用いる禅) 五、息二辺分別禅(二つの極端な区別を静める禅)

凡住心一境,名曰凝心。且如行者,念佛之時諦觀如來玉毫金相,凝然寂靜了亮洞徹,名凝心禪。

心を一つの対象に集中して留めることを、凝心(ぎょうしん)といいます。たとえば修行者が、仏を念じる時に、如来の眉間の白毫(びゃくごう)や金色の相好を、静かに澄み渡って明るくはっきりと観じる、これを凝心禅といいます。

次,前雖凝心,所習慣馳散,令制之,令還諦緣金相,名制心禪。

次に、先ほどは心を静めようとしましたが、長年の習慣で心が散漫になりがちでした。そこで、その散漫な心を制御し、金の相に意識を集中させて、しっかりと観察するように導きます。これを「制心禅」と呼びます。

復次,前雖制心,得住定境,既非理觀,皆屬事修,今體本空,誰制?無佛、無念,名體真禪。

さらに、先ほどは心を制御して安定した境地に留まることはできたものの、それは理に基づいた観察ではなく、すべて事相の修行に属していました。今、その本質がもとから空であると悟れば、一体誰が制御するというのでしょう。仏もなく、念いもない、これを「体真禅」と呼びます。

復次,前雖謂體真,猶滯空寂,無量名相昧然不知。今以無所得而為方便,從空入假,萬相洞明,不為空塵之所惑亂,名方便禪。

さらに言えば、先ほどは真理そのものを体得することを説きましたが、それだけでは空の境地に留まり、無数の現象のありようがぼんやりとして見えない状態です。今ここでは、何も得ようとしない心を手段として、空の境地から現象の世界へと入り、あらゆる相を明らかに見通します。そうすることで、空や現象に惑わされることなく、自在に働きかけることができる禅を、方便禅と呼びます。

復次,體真及以方便各據空有,不離二邊,令諦觀靜亂本無相貌,名言路斷,思想亦絕,名息二邊禪。

さらに、真実の本体と方便とは、それぞれ空と有に基づき、二つの極端から離れません。しかし、静寂と動乱の本質には本来、形や相がなく、言葉の道は断たれ、思考も絶たれます。これを「二辺の禅を息める」と言います。

從淺至深,如是分別,原夫圓觀亦無淺深,而淺深宛然。
敘開念佛五門:第一稱名往生念佛三昧門、第二觀相滅罪念佛三昧門、第三諸境唯心念佛三昧門、第四心境俱離念佛三昧門、第五性起圓通念佛三昧門。
諸佛大慈悲常教勅說法。諸菩薩等以種種方便,令眾生易解;又自以種種方便,開示般若波羅蜜。以何義故說是般若波羅蜜?佛言:「欲令諸菩薩等增長念佛三昧故。」以何因緣令念諸佛?佛言:「若念佛者,當知是人即與文殊師利等無有異。」以何故?此三昧者,諸佛世尊之所遊戲,首楞嚴等諸大三昧始出生處,是知將入諸佛法,方便誠多。若以一言而具眾門,無過念佛。
所以者何?一切賢聖皆從念佛而生,一切智慧皆從念佛而有。假如十信菩薩及三賢菩薩,皆不離念佛、念法、念僧,乃至不離念一切種智;初地菩薩乃至八、九、十地菩薩亦不離念佛、念法、念僧,乃至不離念一切種智。但以念知差別,隨義立名,眾生迷名,妄生異解,漂墜魔界,遂輕念佛之名,仍謂已修別為勝業。為愍此故,今略言之。

なぜかと言えば、すべての聖者や賢者は念仏によって生まれ、すべての智慧は念仏によって得られるからです。たとえ十信の菩薩や三賢の菩薩であっても、念仏、念法、念僧を離れず、さらには一切種智を念ずることを離れません。初地の菩薩から八、九、十地の菩薩に至るまで、やはり念仏、念法、念僧を離れず、さらに一切種智を念ずることを離れません。ただ、その念じる智慧の違いによって、意味に従って名前が立てられているのです。衆生はその名前に迷い、誤った解釈をして、悪魔の世界に漂い落ち、そのために念仏の名を軽んじ、自分は別の優れた修行をしていると思い込んでしまいます。こうした人々を哀れむがゆえに、今、簡単に述べることにします。

若論修因之人,不離三賢十聖;若論證果之者,即是諸佛如來。修因之人,繫心常思念十方一切佛;證果之者又特啟此,以為微妙清淨第一禪。是知易入而證深,無過念佛。嗟呼!末學之流,輕其易入,失其證深,為見所縛,良可悲矣!
又諸佛以眾生樂稱諸佛名,生彼國者,則示以稱名往生門;眾生有樂覩諸佛身,懼障不見者,則示以觀相滅罪門;眾生有迷心執境者,則示以諸境唯心門;眾生有計實有者,則示以心境俱離門;眾生樂深寂定,趣無生滅者,則示以性起圓通門。

さらに、諸仏は、衆生が諸仏の名号を称えることを喜び、その国に生まれようと願う者には、「称名往生の門」を示します。衆生の中には、諸仏の姿を拝むことを楽しみながらも、その姿が見えないことを恐れる者には、「観相滅罪の門」を示します。心が迷い、対象に執着する者には、「諸境唯心の門」を示します。実在するものがあると考える者には、「心境倶離の門」を示します。深い寂静を楽しみ、生滅のない境地を求める者には、「性起円通の門」を示します。

大哉!世尊,善拔我等,開示一道,直至菩提,甚深法門——所謂念佛。唯有大智度者,生而知之者,深修定慧者,善經論者,請撿此門,與了義大乘等經,有收義不盡處,請試言之。是知稱一佛名,智深則深,一言而具眾門,信有徵矣。

おお、尊き世尊よ。あなたは実に見事に、私たちを迷いから導き出し、一つの道を示し、悟りへとまっすぐ至る、この上なく深い教えの門——すなわち「念仏」を開いてくださいました。

ただ、大いなる智慧を持つ方、生まれながらに真理を知る方、深く禅定と智慧を修める方、経典や論書に通じた方々は、この門を検討し、「これは了義の大乗経典と比較して、その教えを完全に尽くしていないところがあるのではないか」と述べるかもしれません。ぜひ、その点をお聞かせください。

しかし、確かに知るべきです。ただ一つの仏の名を唱えることで、智慧が深ければ深いほどその意味も深まり、たった一言の中にすべての教えの門が含まれているということは、確かな証拠があるのです。

既敘五門來意竟,更敘入方便次第。假如行人,口稱南無阿彌陀佛時,心必願生彼國土,即是稱名往生門;行者想像佛身,專注不已,遂得見佛,光明赫奕,照觸行者,爾時所有罪障,皆悉消滅,即是觀相滅罪門;又觀此佛,從自心起,無別境界,即是諸境唯心門;又觀此心,亦無自相可得,即是心境俱離門;行者爾時趣深寂定,放捨一切心意意識,將入涅槃,緣十方佛加被護念,興起智門,行者爾時於一念頃,淨佛國土,成就眾生。如何前四門所有功德,百千萬分不及其一。何以故?無功用位,能以一身為無量身,任運修習故,佛觀護故,諸佛法源盡窮底故,普賢願因悉圓滿故,本願力故,法如是故,即是性起圓通門。已上五門竟。

まず五つの門の趣旨を述べ終えたところで、さらに修行に入るための手順を述べます。

例えば、修行者が口に「南無阿弥陀仏」と唱えるとき、心には必ずあの浄土に生まれたいと願う。これが「称名往生門」です。

次に、修行者が仏の姿を心に描き、一心に集中し続けると、やがて仏を見ることができ、その光明は輝き渡り、修行者を照らします。そのとき、あらゆる罪の障りはすべて消え去る。これが「観相滅罪門」です。

さらに、この仏は自らの心から現れたものであり、別に特別な境地があるわけではないと観じる。これが「諸境唯心門」です。

また、この心そのものにも、自らの実体はないと観じる。これが「心境俱離門」です。

修行者はそのとき、深い寂静の境地に入り、あらゆる心や意識を手放して、涅槃に入ろうとします。しかし、十方の仏の加護と念じる力により、智慧の門が起こります。修行者はその一瞬のうちに、仏の国土を清め、衆生を成就させます。

先の四つの門におけるすべての功徳も、この功徳の百千万分の一にも及びません。なぜなら、この「無功用の位」では、一つの身をもって無数の身となり、自然に修行ができるからです。仏が観護してくださるからです。諸仏の法源を完全に極めるからです。普賢の願因がすべて円満になるからです。本願の力によるからです。法が本来そうであるからです。これこそが「性起円通門」です。

以上、五つの門を述べ終えました。

問:「云何為一行三昧?」

質問:「一行三昧とは、どのようなものですか?」

答:「《大寶積經》第一百一十六云:『文殊師利白佛言:「世尊!當云何修行能速得阿耨菩提?」佛言:「一行三昧。善男子、善女人修是三昧者,速得阿耨多羅三藐三菩提。」文殊師利言:「云何名一行三昧?」佛言:「法界一相,繫緣法界,是名一行三昧。若善男子、善女人欲入一行三昧,當先聞般若波羅蜜,如說修行,然後能入一行三昧。如法界緣,不退、不壞、不思議、無礙、無相。善男子、善女人欲入一行三昧,應處空閑,捨諸亂意,不取相貌,繫心一佛,專稱佛名字,隨佛方所,端身正向,能於一佛念念相續,即是念中能見三世諸佛。何以故?念一佛功德無量無邊,亦與無量諸佛功德無量辯才。如是入一行三昧者,盡知恒沙諸佛法界無差別相。」』此文良證。」

答:「『大宝積経』第百十六にこうある。

文殊師利が仏に申し上げた。「世尊よ。どのように修行すれば、速やかに阿耨菩提(無上なる悟り)を得ることができるのでしょうか。」

仏がお答えになった。「一行三昧である。善男子・善女人がこの三昧を修めれば、速やかに阿耨多羅三藐三菩提(最高の悟り)を得るであろう。」

文殊師利が申し上げた。「どのようなものを一行三昧と名づけるのですか。」

仏がお答えになった。「法界は一つの相であり、その法界に心を繫ぎとめること、これを一行三昧と名づける。もし善男子・善女人が一行三昧に入ろうと望むなら、まず般若波羅蜜(智慧の完成)を聞き、その説のままに修行して、その後にはじめて一行三昧に入ることができる。この法界に縁する如く、退くことなく、壊れることなく、思議を超え、障りなく、相なきものである。

善男子・善女人よ、一行三昧に入ろうと望むなら、閑静な場所に身を置き、様々な乱れた思いを捨て去り、形や姿を捉えず、ただ一つの仏に心を集中し、ひたすらその仏の名を唱えよ。その仏のおわす方角に向かって、姿勢を正し、真っ直ぐに向かいなさい。そうしてただ一つの仏を念じることを、途切れることなく続けていけば、その念の中に、やがて三世の諸仏を見ることができるであろう。

なぜなら、一仏の功徳を念じることは無量無辺であり、また無量の諸仏の功徳や無量の弁才をも得ることになるからである。このように一行三昧に入る者は、尽きることのない恒河の砂の数のごとき諸仏も、その法界には差別の相が全くないことを、悉く知るのである」と。

これが、確かな証拠となる文である。」

問曰:「人多畫像而以觀禮,有何聖教?」

問う:「多くの人が仏像を描いて礼拝しているが、これにはどのような聖なる教えがあるのだろうか?」

答:「《大寶積經》第八十九云:『爾時大精進菩薩持畫佛㲲像,入於深山,寂靜無人、禽獸之間。開現畫像,取草為座,在畫像前,結跏趺坐,正身正念,觀於如來。諦觀察已,作如是念:「如來是希有微妙,畫像尚爾,端坐微妙,況復如來正遍知身?」復作是念:「云何觀佛?」爾時,林神知彼菩薩心之所念,白菩薩言:「善男子!汝念:『云何觀佛?』答言:『若欲觀佛,當觀畫像,觀此畫像,不異如來,是名觀佛。如是觀佛,如是觀者,是為善觀。』」時大精進作如是念:「我今云何觀此畫像與如來等?」復作是念:「如是畫像者,非覺、非知,一切諸法亦復如是,但有名字。如是名字自性空寂,本無所有,如來之身其相如是。畫像非證、非果,非證者、非得者,非住者、非去來,非生、非滅,非淨、非色,非貪、瞋、痴,畫像非陰、界、入,非初、中、後,一切諸法亦復如是,如來身相亦復如是。如此畫像,非覺、非知、非作,一切諸佛亦復如是,觀如來身相亦復如是,乃至六根亦復如是。」菩薩如是觀如來身,結跏趺坐,於三七日中,成就五通,供養諸佛。諸天散華以為供養,為佛所讚,會中二萬人住阿耨多羅三藐三菩提,無量阿僧祇人住二乘功德,大精進者,釋迦牟尼佛是也。』此文明矣。」

「『大宝積経』第八十九にはこう説かれています。その時、大精進菩薩は仏の絵像を携えて、深山の中、人気もなく鳥獣だけがいる静けさの中に入られました。そして絵像を広げ、草を敷いて座とし、その前に結跏趺坐し、身を正し、念を正して如来を観じられました。よくよく観察した後、こうお思いになりました。「如来とはなんと希有で微細なことか。絵でさえもこのように端座して微細である。ましてや如来の正遍知の御身においてはなおさらである。」さらにこうお思いになりました。「どのようにして仏を観ずべきか。」その時、林の神がその菩薩の心の思いを知り、こう申し上げました。「善男子よ、あなたは『どのようにして仏を観ずるのか』とお思いのようだ。お答えしよう。もし仏を観ずるならば、絵像を観ずるべきである。この絵像を観ずることを、如来と異ならずとせよ。これを仏を観ずるという。このように仏を観じ、このように観ずる者を、よく観ずるというのである。」その時、大精進菩薩はこうお思いになりました。「私は今、どうしてこの絵像を如来と等しいと観ずることができようか。」さらにこうお思いになりました。「この絵像というものは、感じるところもなく、知るところもない。すべての諸法もまた同じである。ただ名前があるだけだ。この名前というものの自性は空であり寂けている。本来、何ものもなく、如来の御身のその相もまた同じである。絵像は証ではなく、果ではなく、証する者ではなく、得る者ではなく、とどまる者ではなく、去来する者でもなく、生じることもなく、滅することもなく、清らかでもなく、色でもなく、貪り・怒り・愚かさでもない。絵像は五陰・十八界・十二入でもなく、初めも中も終わりでもない。すべての諸法もまた同じであり、如来の身相もまた同じである。この絵像は、感じることなく、知ることなく、作ることなく、すべての諸仏もまた同じである。如来の身相を観じることもまた同じである。ついに六根に至るまでもまた同じである。」菩薩はこのように如来の身を観じ、結跏趺坐して、二十一日の間に五つの神通を成就し、諸仏に供養されました。諸々の天人は花を散らして供養し、仏からも称賛されました。その会の中で二万人が阿耨多羅三藐三菩提に住し、無量阿僧祇の人が二乗の功徳に住しました。大精進菩薩とは、すなわち釈迦牟尼仏のことです。」これによって明らかであります。』

約四教者,夫心不獨生,必詫緣起。行者念佛之時,意想為因,如來毫光為緣,亦名法塵,以對意根故。所起之念,即是所生法,觀此根塵能所,三相遷動,新新生滅,念念不住,分析方空,無佛無念,藏教小乘也;即觀念佛心,起能生所生,無不即空,妄謂心起,心實不起,起無自性,體之即空,所觀佛相如鏡中像、虛空華,無佛無念,通教大乘也;即觀念佛心,起即假名之法,淺深洞鑒,無量名相,如觀掌中,了知此心,有如來藏,歷劫斷惑,方證真常,離邊顯中,無佛無念,別教大乘也;即觀念佛心,起即空假即中,若根若塵,並是法界起,一念亦爾,塵剎諸佛,一念照明,六道眾生,剎那普應,初即是後,今始覺知,如大福人執石成寶,必無捨念,別求離念,即邊而中,無佛無念,圓教大乘也,《瓔珞經》明頓悟如來,此之謂也。

四つの教えについて述べる。心は単独で生じることはなく、必ず縁(よりどころ)に依って生じる。修行者が念仏する時、心の思いが因(もと)となり、如来の毫光が縁となって、これもまた法塵(こころの対象)といい、意根(認識する働き)に対応するからである。生じる念こそが、生じた法である。この根(認識の働き)と塵(対象)、能(はたらき)と所(対象)という三つの相を観察すると、それらは移り変わり、新新たに生じては滅し、一秒たりともとどまらない。これを分析して空であると見極めれば、仏もなく念もないと知る。これが蔵教の小乗である。

次に、念仏する心を観察し、生じさせるものと生じたものは、すべて即座に空であると知る。誤って心が生じたと思うが、心は実際には生じていない。生じるとしても、それ自体に実体はなく、そのまま空であると体得する。観ずる仏の姿は、鏡の中の像や虚空の花のように実体がなく、仏も念もないと知る。これが通教の大乗である。

さらに、念仏する心を観察し、生じるものは仮の名にすぎないと知る。浅いものも深いものも、ありとあらゆる名相を手のひらを見るように明らかに観察し、この心には如来蔵(すべての仏の可能性を秘めた本質)が備わっていると知る。長い時を経て迷いを断ち切り、ようやく真実の永遠なるものを体得する。両極端を離れて中道を顕かにし、仏も念もないと知る。これが別教の大乗である。

そして、念仏する心を観察し、生じるものは即座に空であり、仮であり、中道であると知る。根も塵もすべて法界そのものの現れであり、一念もまた同じく、無数の仏がこの一念によって明らかに照らされ、六道のあらゆる衆生もその瞬間にすべて応じる。最初の瞬間がそのまま後の瞬間であり、今まさに悟り始める。まるで大福徳の人が石を握ればそれが宝となるように、決して念を捨てて別に念を離れることを求めてはならない。両極端にありながらそのまま中道であり、仏も念もないと知る。これが円教の大乗である。『瓔珞経』に如来の頓悟が明かされているのは、このことを指しているのである。

五方便念佛觀門一卷

五方便念佛観門(全一巻)


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