大乗起信論纂註 巻下
梁の西インド、真諦三蔵訳
明檇李沙門 真界 撰註
次に、染めと浄めの法が絶え間なく生じる原因となる、四種類の「熏習(くんじゅう)」という働きについて説明します。その四つとは何でしょうか。
第一は「浄法」、これを真如といいます。 第二は「すべての染めの因」、これを無明といいます。 第三は「迷いの心」、これを業識といいます。 第四は「迷いの対象となる世界」、いわゆる六つの感覚の対象(色・声・香・味・触・法)です。
「熏習」という働きの意味は、たとえば世間の衣服にはもともと香りはありませんが、人が香りで熏すことによって香りがつくようなものです。この道理と同じく、真如という清らかな法にはもともと汚れはありませんが、無明によって熏習されることで、汚れた相が現れます。また、無明という汚れた法にはもともと清らかな働きはありませんが、真如によって熏習されることで、清らかなはたらきが生じるのです。
まず、清浄と雑染、そして生滅について述べる。必ず清浄と雑染とが互いに熏習(くんじゅう)し合うことによって、清浄と雑染、そして生滅があるのである。しかし、この清浄と雑染とが互いに熏習し合うという意味は、前にまだ明らかに示していなかった。そこで、ここで広く明らかにするのである。すなわち、前に述べた生滅の中における、清浄と雑染の互いに熏習し合うことを述べるのである。
「浄法」と言うのは、真如の本体は、もともと自ら清浄であり、一切の相を離れていることを言う。そのため「浄法」と言うのである。しかし、これは本質について述べたものであり、単に真如と言っているが、実際にはその相と用にも通じている。一方、妄心についても、本質について言えば、ただ業識(ごうしき)のみを言うが、実際には五意と意識にも通じているのである。
「熏習」について以下、喩えを用いて明らかにする。この「亦」の部分は、法を用いて照らし合わせて示しているのである。なぜなら、衣にはもともと香りはないが、香で熏するために、衣に香りの気があるようになるからである。真如はもともと相がないが、無明が熏するために、真如に染相が現れる。妄心には清浄な働きはないが、真如が熏するために、妄心に清浄な働きが生じる。すなわち、無明が真如を熏すれば、粗雑なものから微細なものに至るまでの一切の染相を生み出すことができる。真如が無明を熏すれば、妄心に生死の苦
いかにして染めの法が熏習され、断絶することなく生じるのか。 いわゆる、真如の法に依って無明が存在する。 無明という染めの法の因があるからこそ、真如を熏習する。 その熏習によって妄心が生じる。 妄心があるからこそ、無明を熏習し、真如の法を悟らない。 気づかぬうちに念が生起し、虚妄な境界が現れる。 虚妄な境界という染めの法の縁があるからこそ、妄心を熏習し、執着の念を生じさせる。 それによって様々な業が生まれ、あらゆる心身の苦しみを受けることになる。
これは、妄念の習気が互いに熏習(くんじゅう)し合って、煩悩にまみれた存在のあり方が途切れることなく生じ続ける道理を、まとめて明らかにしたものです。「云何(いかん)に」以下の部分では、この妄念の習気が熏習し合って煩悩の法が絶え間なく生じる意味を、問いと答えで詳しく説明しています。そもそも無明(むみょう)にはそれ自体の実体がなく、生じるには必ず真如(しんにょ)に依らねばなりません。そのため、「真如の法に依って無明がある」と説くのです。これはつまり、真如の法が唯一であることを理解せずに、そこに無明が生じるという意味にほかなりません。真如に依って煩悩の因があるために、その煩悩が今度は真如を熏習します。真如が熏習されることによって、妄心(もうしん)が生じます。これは、無明が真如を熏習することで、悟りのない状態が動き出し、業識(ごうしき)を起こすのです。「以有妄心(妄心あるを以て)」以下の部分では、妄心が無明を熏習することで、無明がさらに深まり、ますます理解できなくなることを述べています。そのため、悟りのない心が動き出し、能見(のうけん)へと転じ、そこから虚妄な境界が現れます。「以有境界(境界あるを以て)」以下の部分では、虚妄な境界が妄心を熏習することで、その境界に実体がないことを理解できなくなり、業識からさらに事識(じしき)が生まれます。そして、対象を分別し執着して、業(ごう)を造り、その報いを受けます。経典にはこうあります。「蔵識(ぞうしき)の海は常住であるが、境界の風に動かされ、様々な識の波が立ち騒ぎ、飛び跳
この虚妄な境界による熏習には、二つの種類があります。その二つとは何でしょうか。第一は、分別の念を増長させる熏習です。第二は、執着の心を増長させる熏習です。
次に、虚妄な心による熏習にも二つの種類があります。その二つとは何でしょうか。第一は、業識(ごうしき)という根本の熏習であり、これによって阿羅漢(あらかん)・辟支仏(びゃくしぶつ)・およびすべての菩薩(ぼさつ)が生死の苦しみを受けることになります。第二は、分別事識(ふんべつじしき)を増長させる熏習であり、これによって凡夫(ぼんぶ)が業に縛られた苦しみを受けることになります。
さらに、無明による熏習にも二つの種類があります。その二つとは何でしょうか。第一は、根本の熏習であり、これによって業識の働きが成立します。第二は、そこから生じる見惑(けんわく)と愛惑(あいわく)の熏習であり、これによって分別事識の働きが成立します。
この節では、虚妄な習慣(妄習)が相互に影響し合い、汚れた現象(染法)が生じる違いを明らかにしている。
「此の妄境界より下」の部分では、虚妄な対象(妄境)が虚妄な心(妄心)を熏習し、心の働き(念)と執着(取)を増長させることを説いている。すなわち、虚妄な対象が虚妄な心を助長し、その熏習によって、対象に実体がないことを理解できず、虚妄な心の中で様々な事々の認識(事識)が生じ、分別し執着するのである。故に「念取りの熏習を増長す」というのである。ここで「念」とは、智慧の相(智相)と相続の相(相続相)を指し、「取」とは、執着の相(執取相)と名称の相(計名字相)を指す。
「妄心熏習より下」の部分では、虚妄な心が無明を熏習し、二種の死の苦しみ(二死苦)を受けることを説いている。
「一者より下」では、業識(ごうしき)が根本無明を助長し、真如(しんにょ)に念や相がないことを理解できないため、微細な念とそれに執着する対象の相が消えないことを示す。これにより、三乗の修行者は、阿頼耶識(あらやしき)の変易(へんぎ)という行苦(ぎょうく)を受ける。しかし、三乗には五つの意味での助長があるが、ここでは根本のみを挙げて「業識」と言う。
「二者より下」では、増長された分別事識(ふんべつじしき)が見愛無明(けんあいむみょう)を助長し、対象に実体がないことを理解できず、分別し執着する心が消えず、煩悩を起こして業を造るため、凡夫が業に縛られた分段(ぶんだん)という粗い苦しみを受けることを示す。「分別事識を増長す」というのは、この事識が見愛の煩悩によって増長されることをいう。
「無明熏習より下」の部分では、無明が真如を熏習し、五つの識(五意)や意識を形成することを説いている。
「一者より下」では、根本無明が真如の一体性を理解できず、真如を動かして熏習し、覚りなく念を起こし、業識などの五識を形成することを示す。ただし、ここでは初めの業識のみを挙げて後のものを省略しているため、「業識」と言う。
「二者より下」では、見愛無明が対象に実体がないことを理解できず、真如を熏習して起こし、分別し執着するため、事識という意味が成立することを示す。
以上の三重の説明は、全体の総説に基づき、後のものから前のものへと順に詳細に述べたものである。なお、「所起の見愛」というのは、見愛の無明が根本無明によって生じることを意味する。