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  1. 花厳経関脈義記 (花嚴經關脈義記)
  1. 華厳経関脈義記 (華嚴經關脈義記)
  2. 花厳経関脈義記 (花嚴經關脈義記)

華厳経関脈義記 (華嚴經關脈義記)

「華嚴經關脈義記」について

唐 · 法藏撰 著

4,788 字 · 約 16 分

唐代の高僧・法蔵が著した『華厳経関脈義記』は、華厳宗の重要な注釈書です。本書は『華厳経』の哲学的体系に基づき、経典の核心となる筋道を解き明かすことで、華厳教学の十玄・六相といった中心思想を体系的にまとめ、法界縁起が無限に円融する真理を明らかにしています。華厳宗が宗派として立つための理論的支柱の一つとして、唐代仏教の教義研究が高度に発展したことを示すとともに、後世の人々が『華厳経』を学ぶうえでの権威あるよりどころとなり、東アジアの仏教哲学の構築に深い影響を与えました。


花嚴經關脈義記

華厳経関脈義記

夫以三乘漸次究之者可測其津涯。一乘圓融尋之者莫知其源底。良以稱性之說窮法界而遍十方。無盡之談周剎海而該九世。重重互現本末異而參差。轉轉相由主伴分而交映。卷則一言無外。聲聞掩視聽於中延。展則塵算難知。文殊仰進推於後位。豈凡情之測非淺識之能思。但起聽習數年彌增愛樂。依傍師訓有少見聞故。私記為篇名為關脈義記也。今略斷簡此經。上下文意乃有多勢不同。且以四勢明之。餘者准思取解。言四勢者。一展轉無盡勢。二卷攝相無勢。三卷展無礙勢。四問答取之文勢。第一展轉無盡者。復有二門。一展一為多。二類結成本。第一展一為多者。創展取清淨法界。為理智兩門。即開菩提涅槃之異。又理開體用。即題中大方廣三字是也。又智分因果。即題中佛花嚴三字是也。即總以名而貫穿得成詮表。即題中經之一字是也。然統前括後而有七字差別。合為一部經題目也。又展此題目以為第一會。於中五海等是理。十智等是智。依正兩報為果。莊嚴童子為因。今即理智因果並彰。所以展成一會。總為所信之果會也。又展此一會為後七會。於前因中。別開信解行願證及會信解等不同。以為六會。總為能信之因會也。以一一會信解皆有所信果故。是故通前總有七个會也。以能信等法皆託境而生非自起故。又能此信等法滿已必證入法界故。有第八為所證入會也。以信等法皆證入法界方究竟故。言別開信等及會解等不同者。即從前第二會終盡第六會。通明信等五位。即總是因行造修。第七第八別明行證。即理智冥契。此就解行證趣不同。即總分為八个會也。又於證中。自分為五十五會。即第八會中。初從文殊終至末後普賢是也。以證依人顯法界德故。即通前後總有六十三會也。以解行證等同時無前後故。又展一一知識會。即無盡重重會。如仙人執手令善財見不可說不可說微塵等會也。又下文云。於普門國見三千大千世界微塵等諸善知識。此等即為無盡重重會也。當如文知之。既一知識所如是重重。餘亦准之。又展不可說不可說會。遍諸異類同類微塵毛道菩薩主伴重重等世界。總通本末會故。即為無極重重會也。准經結通文思之。
第二類結成本者。即展前無盡重重之會。通十方徹三際盡同類異類等世界微塵等一一重重(具十)會一一說十顯無盡故。即總略結此等會目為下本。有十萬偈也。又展此下本。盡同類異類等世界盡十方各盡同類異類等世界遍法界盡同類異類世界微塵等剎一一重重(具十)說十表無盡及主伴重重故。總略結此說目為中本。有四十九萬八千八百偈也。又展此中本。盡一切同類異類一切世界等盡一切十方盡一切同類異類世界等一切世界等一切重重(具十)及一切主伴重重據本門中一切重重(具十)本門及主伴重重說故。復總略結此說為上本。有十三千大千世界微塵數偈也。又展此上本。盡一切重重(具十)十方盡一切重重(具十)三世盡一切重(具十)同類異類世界盡一切重重(具十)微塵毛道盡一切重重(具十)本門中一切重重(具十)本門內及主伴一切重重(具十)內等重重(具十)一切轉轉說故。即總略結此一切一切重重(具十)說為無盡重重(具十)說為廣本也。故下文云。以大海等墨須彌山聚筆。書寫此經一一品乃至一一句中義味。猶不能盡。廣如經說。一品既爾。餘品及主伴既爾。一切品及主伴亦然。一切品及主伴既爾。餘一切重重(具十)品及主伴亦然。既一切重重(具十)品及主伴既爾。一一文句味重重(具十)及主伴亦然。一一文句味及主伴既爾。即所依之處重重(具十)及主伴重重亦然。此即不可知其分齊。非言說筆墨之所能顯也。此則遍無盡重重(具十)十方法界微塵毛端等一一(具十)重重及主伴無盡一切重重之極說也。若據此說。有無盡重重(具十)及主伴眷屬一切重重(具十)本也。准經結文知之。故經云。若欲具足演說一句法。於阿僧祇劫不可盡等。准因陀羅喻思之。總結為普眼重重(具十)會也。如是等展轉盡無極之重重(具十)說也。餘本門中重重(具十)本門。及本門中重重(具十)門盡未來過去既在。並同體異體相即相入及相攝等同時重重(具十)准以知之。故經云。不可說劫猶可盡說。不可說不可盡。及果海不可說者。是此義也。是即十佛圓融之會也。然此展轉盡無窮之極說者。皆從最清淨法界所流。即是無差別之差別也。故論云。無不從法身流等。唯以思之。上來且據一勢。就可結集及可顯說。如是更有餘多勢及餘多本。現說常說不可顯其分齊及可知者。准以類知。如性起品說思之。

第二の類、結成本というものは、すなわち、先に述べた無尽重重の会を展開し、十方に通じ、三際に徹し、すべての同類・異類などの世界、微塵などの一つひとつが重重に(十を具え)、一つの会ごとに十を説いて無尽を顕わすゆえに、これらすべての会を総略して結び、これを下本と名づける。十万の偈がある。

さらにこの下本を展開し、すべての同類・異類などの世界を尽くし、十方それぞれにすべての同類・異類などの世界を尽くし、法界に遍くすべての同類・異類世界の微塵などの一刹ごとが重重に(十を具え)、十を説いて無尽と主伴の重重とを表わすゆえに、これらすべての説き方を総略して結び、これを中本と名づける。四十九万八千八百の偈がある。

さらにこの中本を展開し、一切の同類・異類一切の世界などを尽くし、一切の十方を尽くし、一切の同類・異類世界など一切の世界など一切の重重に(十を具え)、および一切の主伴の重重に基づき、本門の中の一切の重重に(十を具え)、本門および主伴の重重を説くゆえに、ふたたびこれらすべての説き方を総略して結び、これを上本と名づける。十三千大千世界微塵数の偈がある。

さらにこの上本を展開し、一切の重重に(十を具え)、十方に一切の重重に(十を具え)、三世に一切の重重に(十を具え)、同類・異類世界に一切の重重に(十を具え)、微塵・毛道に一切の重重に(十を具え)、本門の中の一切の重重に(十を具え)、本門の内および主伴の一切の重重に(十を具え)、内などの重重に(十を具え)、一切が転転と説かれるゆえに、すなわちこれら一切一切の重重に(十を具え)た説き方を総略して結び、これを無尽重重に(十を具え)た説き方、すなわち広本と名づける。

ゆえに下文に言う、「大海の墨、須弥山の筆をもってしても、この経の一品、さらには一句の中の義味を書き尽くすことはできない」と。広く経の説くところのごとし。一品がこのようであるならば、他の品および主伴もまたこのようであり、一切の品および主伴もまた然り。一切の品および主伴がこのようであるならば、その他一切の重重に(十を具え)た品および主伴もまた然り。一切の重重に(十を具え)た品および主伴がこのようであるならば、一つの文句の味わいの重重に(十を具え)たものおよび主伴もまた然り。一つの文句の味わいおよび主伴がこのようであるならば、すなわちそれらが依る所の処の重重に(十を具え)たものおよび主伴の重重もまた然り。これはすなわち、その分斉を知ることができず、言葉や筆墨によって顕わすことのできないものである。

これはすなわち、無尽重重に(十を具え)た十方法界の微塵や毛端などの一つひとつが(十を具え)、重重に主伴無尽一切重重の極説なのである。もしこの説に基づくならば、無尽重重に(十を具え)、および主伴眷属一切重重に(十を具え)た本がある。経の結文に準じてこれを知る。ゆえに経に言う、「もし一句の法を具足して演説せんと欲すれば、阿僧祇劫をもってしても尽きることがない」などと。因陀羅の譬えに準じてこれを思え。総じて普眼重重に(十を具え)た会と結ぶのである。

このように、展転して極まりなき重重に(十を具え)た説き方がある。その他の本門の中の重重に(十を具え)た本門、および本門の中の重重に(十を具え)た門は、尽未来・過去に存在し、すべて同体・異体、相即・相入、および相摂などの同時重重に(十を具え)たものであると、準じて知るべきである。ゆえに経に言う、「不可説劫といえどもなお尽くすことができるが、説くことができず尽きることがないもの、および果海の説くことができないもの、これがこの義である」と。これはすなわち、十仏円融の会なのである。

しかしながら、この展転して極まりなき極説というものは、すべて最清浄法界より流れ出たものであり、すなわち無差別の差別なのである。ゆえに論に言う、「法身より流れ出ざるはない」などと。ただ思うべきである。

これまで、一つの勢いに基づき、結集可能で、顕説可能なものについて述べてきた。このように、さらに他にも多くの勢い、および他にも多くの本があり、現に説かれ、常に説かれているが、その分斉を顕わすことも、知ることもできないものがある。類をもって準じて知るべきである。性起品の説くところのごとくに思うべきである。

第二卷攝相無者。復有三門。一攝廣就略。二以義圓收。三攝末歸本。第一攝廣就略者。即總卷現說常說以為不切無盡重重(具十)之極說也。以於現說常說之中借事顯發。知餘不可說不可說。非筆墨所能記之。如經云。我之所演暢。如海微渧也。又卷無盡重重(具十)圓融無無極之說。以為廣本。以一一文句。後皆結通重重(具十)無盡無盡(具十)一切說故。又卷廣本以為上本。以文文句句皆結通盡一切同類異類重重(具十)世界等及主伴眷屬一切重重(具十)無不盡故。又卷上本為中本。以會會品品之後皆遍周法界及塵道毛端一切重重(具十)無盡普結通故。又卷中本。以皆結通盡前會處重重故。又卷下本為其一會。然隨其一會。皆悉具故。所言具者。一切說十。表無盡也。又總卷一會。為人法兩門。即前法後人會也。又卷為心境圓證。即初從文殊會至普賢會也。又卷為七字。即經題中能詮所詮理智因果悉具足故。如前辨。又卷七為三。亦是卷三為二。亦是卷二為一。亦是卷一非一。亦是以性含萬德無事不充故。

第二巻に収められた相の無いものについて、さらに三つの門がある。一つは広大なものを摂して簡略にすること、二つは義理をもって円満に収めること、三つは末を摂して本に帰することである。

第一の「広大なものを摂して簡略にする」とは、すなわち総じて巻き現す説くところの常なる説き方を、切れ目なく無尽に重なり合う極みの説き方と見なすことである。現に説かれる常なる説き方の中に、事柄を借りて顕わに発揮されることによって、その他に説くべからず、記すべからず、筆墨の及ばないものが知られる。経に云う、「我が演暢するところは、海の微滴の如し」と。また、巻き無尽に重なり合う円融して極まりなき説き方を、広大な本と見なす。なぜなら、一々の文句の後に、すべて重なり合う無尽の一切の説き方に通じる結びがあるからである。

さらに、広大な本を上本と見なす。なぜなら、文々句々すべてが、一切の同類異類の重なり合う世界など、および主と伴、眷属の一切の重なり合うものを尽く通じる結びがあるからである。また、上本を中本と見なす。なぜなら、会々品品の後に、すべて法界および塵道毛端の一切の重なり合う無尽のものに遍く通じる結びがあるからである。また、中本は、すべて前の会処の重なり合うものを尽く通じる結びがあるからである。また、下本を一つの会と見なす。しかし、その一つの会に随って、すべて具わっているのである。

「具わる」というのは、一切の説き方が十を表し、無尽を表すからである。また、総じて一つの会を、人と法の二つの門と見なす。すなわち、前は法の会、後は人の会である。また、心と境の円満な証しと見なす。すなわち、初めの文殊会から普賢会までである。また、七つの字と見なす。すなわち、経題の中の能詮と所詮、理と智、因と果がすべて具足しているからである。前に弁じた通りである。

また、七を三に巻き、三を二に巻き、二を一に巻き、一を一ならずと見なす。また、性が万徳を含み、事なきこと充たさざるはないからである。

第二以義圓收者。今取文勢義言。通明一部總有四字。亦文義具足。何者為四。一教。謂文雖浩汗。唯一教字所收。即題中經字是也。二義。義門無量。但一緣起義所攝。即題中方廣是也。三成。謂解行因果德用等。雖各成不同。據其成立。唯一成所攝。即題中佛花嚴等是也。四處。謂一切重重無盡同類異類重重無盡會處。唯一處所目。即會所依處也。今以總卷而言。然義唯一性。教唯一文。成唯一念。處唯一塵。何以故。一即一切故。一切即一故。經云。知一即多多即一。義味清淨悉具足等。又云。一中解無量。無量中解一等故。統法師云。一言無不略盡。殊說更無異盈。此之謂也。

第二に、義によって円満に収めるとは、今、文の勢いと義の言葉を取り上げて、通して明らかにするに、一部の総体には四つの字がある。また、文と義が具足している。四つとは何か。一に教、文は浩瀚であっても、ただ一つの教の字によって収められる。つまり、題中の経の字がこれである。二に義、義の門は無量であっても、ただ一つの縁起の義によって摂せられる。つまり、題中の方広がこれである。三に成、解行因果の徳用など、それぞれ成り立ちが異なるが、その成立に基づけば、ただ一つの成によって収められる。つまり、題中の仏華厳などがこれである。四に処、一切の重々無尽の同類異類の重々無尽の会処は、ただ一つの処によって目される。つまり、会の依る処である。今、総体の巻によって言えば、しかし、義はただ一つの性、教はただ一つの文、成はただ一つの念、処はただ一つの塵である。なぜなら、一は即ち一切であり、一切は即ち一であるから。経に云う、「一を知れば即ち多、多を知れば即ち一、義味清浄にして悉く具足する等」と。また云う、「一中に無量を解し、無量中に一を解する等」と。統法師が云う、「一言にして略さず尽くさず、殊説にして更に異なる盈ちなし」とは、これを謂うのである。

第三攝末歸本者。今案前題目。然則大之一字是一部通名。所撿果海。方廣二字是果海德能。通明一部緣起作用。佛之一字能證之智。通明一部能說之人。花嚴之因通明一部解行圓滿。又攝用歸體唯理也。攝因歸果唯佛也。又以法成人。人無自性則真姓也。性無自性則非性也。總以詮此義為教。教即非教也。何以故。文字性離即解脫故。果海離言不可說故。是則差別亦無差別也。論云。無不還證此法身。斯之謂也。

第三に、末を摂して本に帰すという点について、今、先の題目を考察してみます。

そうすると、「大」という一字は、この経全体の総称です。それは究極の果海(悟りの境地)を表しています。「方広」という二字は、果海の徳と働きを示し、この経全体の縁起と作用を広く明らかにしています。「仏」という一字は、それを証得する智慧であり、この経全体の説き手を広く明らかにしています。「華厳」という因行は、この経全体の解行(理解と実践)の円満を広く明らかにしています。

また、作用を摂して本体に帰すのは、ただ理(真理)に他なりません。因を摂して果に帰すのは、ただ仏に他なりません。さらに、法によって人を成すならば、人には自性がなく、それは真の本性です。性にも自性がなければ、それは性ではないのです。

総じて、この義を説き明かすものが教えであり、教えそのものは教えではありません。なぜなら、文字の本性は離れているからであり、それがすなわち解脱だからです。果海は言葉を離れており、説くことができないからです。つまり、差別もまた無差別なのです。

論に言う、「この法身を証しないものはない」とは、このことを指しています。

第三展卷無礙者。先明展後明卷。初展者。開用異體。則用有殊。緣性差別。法門不同。即大方廣是也。開因異果。則解行不同。彼證差別。師弟有異。即佛花嚴是也。即經縷縫綴詮示有殊。即一切無盡重重(具十)說也。廣如前辨。准知之。二卷者。復有五門。一以位統收。二攝會從人。三以人明法。四境智圓融。五泯同果海。第一以位統收者。然此經文雖復無盡。總為三節統收。所謂解行證也。就解之中。自分為二境。即第一會中舉佛依正兩果勸生信樂。則案此文名為舉果勸修生信分也。二解。從第二會修盡第六會。廣明五位次第生解之相。則案此文名為修因契果生解分也。二。第七一會復明前五位成行之修。即會前諸解以成其行。則案此文名為託法進修成行分也。何以知者。重會普光即其事也。若不爾者。何不重會以第一第三會。以第二會是說信解之始。今既會解成行。理須從信為首。是故重會普光意在此也。亦可顯諸會同時第二七日頓普宣說無前後殊。何者。以單說重說皆同第二七日也。三。第八一會復說五位依人入法證前所舉之果。則案此文名為依人入證成德分也。何以得知。證前所舉之果者。初既悕樂前果。以生信解。既會解成行。即證前果。是故會即前會也。若不爾者。因舉前果得生信解。既會解成行。豈別證耶。今據文義相生。所以得知後會即前會也。是故總為三節。極順經文。如上所明思之可解。第二攝會從人者。後總括以為一會。唯第一會也。何者。以第一會是前解等所依之境。至後解滿即會前差別。成一圓融行德。證入前法。究竟亡言。是故第八寄人明證入法界。有斯意也。言寄人明者。即第八會中如來自入師子奮迅三昧。令諸菩薩皆入法界。是前所舉之果勸令忻樂。即當前第一會也。以如來自入奮迅三昧欲令菩薩悉證入故。又始從文殊終至瞿夷。是前修因契果生解之相。即當前五个會也。以善財詢問諸人。別求信解。廣遍知故。後從摩耶至末後文殊。是前託法進修成行。即當第七會也。以第七會中修行已終。至後文殊授其瓔珞。以顯正行圓滿令修福故。摩耶是一切諸佛諸佛之母。以表行成能生佛故。普賢居後。當緣起法界。以表行成德證入故。即當第八會也。以見普賢菩薩即見微塵數善知識等。第三攝人從位者。謂知識會中。又始從文殊終至瞿夷。總有四十一人。名為寄位修行相。寄前信等五位。依人求解。漸次修行也。第二初從摩耶後至德生童子等。總有十一人。名為會緣入實相。即會前五位成行契證法界也。第三彌勒一人。名為攝德成因相。即攝前行德為證入正因。與前成證不同故開二位也。第四後文殊一人。名為智照無二相。即行成究竟朗悟在懷。照前解行唯一實大智。更無無前後明昧等也。第五普賢一人。名為顯因廣大相。即始覺同大智現前遍周法界無處至不。普苞容入也。第四境智圓融者。復就前人中。總束為二。文殊是能證之大智。即前解行等也。二普賢是所證也也之法界。即前所信所入也。何者。以文殊當般若位。普賢當法界門也。所以者。師云。三藏言有經作如是說。又案此經中意義文勢深有此意。又古尊德既判後文殊名為智照無二相。故知前諸人總是後文殊一人。故下文云。善財還經一百一十城復至文殊者。是此意也。又文云。文殊師利教我相算等法。又長者云。文殊師利憶念力故等。又下文云。善男子文殊師利是汝善知識。能令汝得生如來家。長養善根積功德聚。乃至滿足大願淨諸法門。皆由文殊師利威神力等智既圓滿得證法界。所以因滿。普賢居後。故下文云。我於一一毛孔中現佛境界諦觀察等。又云。汝且觀我清淨法身等。解云。既令觀淨法身。故知善財見普賢。即是證法界也。又束為一。謂境智冥契無有差別。是故後文殊更無身相。何故如是。以初見文殊即善財信心之始。後不見即善財智滿之終。中間諸人皆是善財修行次第。以善財障盡惑除未始動念。是故反照唯是初心更無異也。後不見者有思意也。故經云。從文殊師利智慧所起等。又論云。始覺同本覺。無始覺之異。此謂之也。第五泯同果海者。謂因行圓滿沒果海中。離始離終圓滿具德。亡言絕慮唯證相應也。如是卷展無礙同時隨說為門。竟無前後。是故卷展有斯無礙難申述也。當如文思之。故經云。如是真佛子。甚深微妙義。眾生欲思量。迷亂心發狂。此謂之也。
第四問答取文者亦二。一問答會違。二結勸修學。第一問答會違者。問前既言摩耶會。前諸緣為其實。何得會已猶有十人不同耶。答會已而有十人者。此顯緣起實德。託十以表無盡也。何者。以不離摩耶。並是摩耶之實德也。即寄前五位三世界同修至究竟也。故經云。我是一切諸佛之母。一切諸佛皆從我生等。亦可表示諸位即異鎔融卷舒無礙。是故一一位即辨成佛者。意存此也。問摩耶無體。但會前諸位成身。餘人亦復如然。何悉不具十耶。答但摩耶中具此十人者。即是前一一人所皆具足也。何以故。摩耶即會前諸人。總以為一身故。以一一人即是摩耶。摩耶即是一一人。故今獨摩耶中具者。有斯意也。問摩耶即是前諸人。即言此具餘亦具者。亦可諸人即是後摩耶。何不前具後不具。答摩耶是總。餘是別。但使總具別即具。何者。別未究竟。總究竟也。若未究竟。別無可別。何得具也。是故摩耶中具者。即是餘人中亦具也。問八會之中。何故昇天四會皆言不起菩提樹及自會而昇餘等。云何人中三會不言不起此而昇彼耶。答此有二意。一據解。二約行。初解中復三。一近二遠三總。初近者。以人中三處同在人間。據地無有異。法爾相攝此不待言。所以不言不起此而昇彼也。二遠者。以人天類別復懸隔不同相攝難知。所以帶前而明赴後。此即緣起無礙諸會同時也。三總者。以總攝別。別在總中。昇降不同。皆云不離覺樹。互相融遍門自有殊。雖去彼中。而恒在此。為表生物解故。云不起此而昇彼也。二就行者復二。一申義。二釋防。初者。然昇天等會據解託處為言。解滿即行證無差。所以後二不論也。又不類天者。有斯意也。二者以信自無正值位。是故兩處不言也。問上云。善財至後文殊即云智滿反照。唯是初心更無異者。何以經明善財歷諸位耶。答經歷諸位者有二種。一者約教行布言。故有次位。節級不同。善財歷位據此而論。二者約義。以大緣起法界同時具足無有次位前後等。則善財一生案此而說。今以兩義合辨。然歷位不離初心。一生未移多劫。經所明者具斯意也。故經云。一念即無量劫。無量劫即一念等。今若以教攝義而言。是則名為同教一乘。若以義攝教而言。是則名為別教一乘也。然善財歷位不離初心。者據斯說也。問何故末後知識更無指後及結說等耶。答結會文殊因已究竟。指歸後位即證入融通。見一即一切理圓。是故更無指結也。故經云。善財於普賢菩薩相好支節諸毛孔中。見不可說不可說世界海諸佛充滿。一一如來以不可說不可說大菩薩眾以為眷屬等。

第四の問答は、取り上げる文もまた二つある。第一は問答による矛盾の解消、第二は結びの勧めで修学を勧めることである。

第一の問答による矛盾の解消について。 問う:先に既に摩耶夫人の会座について述べ、先の諸々の縁をその実体とした。どうして会座の後になお十人の違いがあるのか。 答える:会座の後になお十人がいるのは、これが縁起の実徳を顕わし、十を仮りて無尽を表すためである。なぜか。摩耶を離れず、すべてが摩耶の実徳であるからだ。すなわち、先の五位三世界が共に修して究竟に至ることを仮託している。故に経に云う、「我は一切の諸仏の母なり。一切の諸仏は皆我より生ず」などと。また、諸位が即ち異なりながらも融和し、巻き舒き自在無礙であることを表すこともできる。それ故に、一々の位において即ち成仏を弁じるのは、この意を存するためである。

問う:摩耶には実体がなく、ただ先の諸位を会して身と成すだけである。他の人々もまた同様であるなら、どうして悉く十を具えないのか。 答える:ただ摩耶の中にこの十人を具えるのは、すなわち先の一々の人々が皆具足しているからである。なぜか。摩耶は即ち先の諸人を会して、総べて一つの身と為すからだ。一々の人々が即ち摩耶であり、摩耶が即ち一々の人々であるから、今ただ摩耶の中に具えるのは、この意があるためである。

問う:摩耶は即ち先の諸人であるなら、これが具えれば他の者も具えると言える。また、諸人が即ち後の摩耶であるなら、どうして先には具え、後には具えないのか。 答える:摩耶は総であり、他の者は別である。ただ総が具すれば別も即ち具する。なぜか。別は未だ究竟せず、総は究竟するからだ。もし究竟していなければ、別として別たるものがない。どうして具えることができようか。それ故に、摩耶の中に具えることは、即ち他の人々の中にも具えることなのである。

問う:八会のうち、どうして天に昇る四会は皆、「菩提樹を起たず、及び自会にして余処に昇る」などと言うのに、人中の三会では「此を起たずして彼に昇る」と言わないのか。 答える:これには二つの意味がある。一つは解釈に基づくもの、二つは行に基づくものである。 初めの解釈の中にまた三つある。一は近きによる、二は遠きによる、三は総による。 初めの近きによるものは、人中の三処は同じく人間界にあるため、地に基づけば異なることがない。法爾として相い摂するので、言うまでもない。それ故に「此を起たずして彼に昇る」と言わないのである。 二の遠きによるものは、人と天は類が別れ、また懸け隔てて同じからず、相い摂することが知り難いためである。それ故に先を帯びて後へ赴くことを明らかにする。これは即ち縁起無礙、諸会同時である。 三の総によるものは、総が別を摂し、別が総の中にあるためである。昇降は同じからず、皆「覚樹を離れず」と云う。互いに融け遍ずる門は自ら殊なるが、彼の中へ去りながらも恒に此処にある。衆生に解を生ぜしめることを表すため、「此を起たずして彼に昇る」と云うのである。 二の行によるものはまた二つある。一は義を述べるもの、二は防ぎを解くものである。 初めのものは、然るに天に昇る等の会は解釈に基づき処を仮りて言う。解が満ちれば即ち行証に差別がない。それ故に後の二つは論じないのである。また、天と類を同じくしないのは、この意があるためである。 二つ目は、信が自ら正しい値位に至らないため、両処では言わないのである。

問う:上に云う、「善財が後の文殊に至れば、即ち智が満ちて反照し、唯だ初心のみで更に異なるものはない」と。どうして経には善財が諸位を歴ることを明らかにするのか。 答える:諸位を歴るには二種ある。一つは教の行布に約して言うため、次位があり、節級が同じからず、善財の歴位はこれに基づいて論じる。二つは義に約するもので、大縁起法界は同時に具足し、次位前後等がない。則ち善財の一生はこれに案じて説く。今は両義を合わせて弁じる。然るに歴位は初心を離れず、一生は多劫を移さない。経に明らかにするものはこの意を具えるのである。故に経に云う、「一念は即ち無量劫、無量劫は即ち一念」などと。今もし教をもって義を摂めて言えば、是れ則ち同教一乗と名づく。もし義をもって教を摂めて言えば、是れ則ち別教一乗と名づく。然るに善財の歴位が初心を離れないのは、これに基づいて説くのである。

問う:どうして最後の知識には、更に後を指し示すことや結びの説などがないのか。 答える:文殊に結会する因は既に究竟し、後の位に指し帰すれば即ち証入融通する。一即一切の理が円満なるを見る。それ故に更に指し結ぶことがないのである。故に経に云う、「善財は普賢菩薩の相好支節諸毛孔の中に、説くべからず説くべからざる世界海の諸仏の充滿するを見る。一々の如来は説くべからず説くべからざる大菩薩衆をもって眷属と為す」などと。

第二結勸修學者。上來序經中少意。如管窺天。餘勢多端。莫知涯際。盡窮來劫。誓畢修行。唯願捨身受身常生此會。如善財心念。一切世界經終火起。乃至六天悉燒盡。要當入此劫火中求法。誓鎧心真實。若有信歸修學速證菩提。隨分見聞必成堅種。當須發大歡喜。自慶希逢也。故經云。善財汝應發大歡喜。不久當得大果報。故菩薩於無量劫修。汝今一生皆悉具得。乃至其有欲得如是法者。應如善財之所修學等。又云。過去諸佛專求菩提修習此行。於無量劫諸有為中受無量苦。猶不值遇。乃至云。得大善利。成滿大願。親近諸佛。為佛真子。必成佛導等云云。

第二に、修行者を勧めること。

これまでに経典の序文から少しだけその意味を述べてきましたが、それはまるで管を通して天を覗くようなものであり、その奥深さは計り知れません。残された教えは多岐にわたり、その果てを知ることはできません。来るべき劫の果てまで、修行を全うすることを誓います。ただ願わくは、この身を捨て次の身を受ける時も、常にこの法会に生まれ出でんことを。善財童子が心に念じたように、すべての世界が経の終わりに火に包まれ、六天に至るまで悉く焼き尽くされようとも、必ずやこの劫火の中に入り、法を求めんことを。誓いの鎧を心にまとい、その真心を以てせん。もし信じて帰依し、修行学道するならば、速やかに菩提を証することができるでしょう。それぞれの分に応じて見聞するだけであっても、必ずや堅固な種子となるでしょう。大いなる歓喜を起こし、この希有なる出遇いを自ら慶ぶべきです。故に経にはこう説かれています。「善財よ、汝は大いなる歓喜を起こすべし。まもなく大いなる果報を得るであろう。菩薩が無量劫をかけて修行したことを、汝は今一生のうちにことごとく具足するであろう。乃至、かくの如き法を得んと欲する者は、善財の修学したようにすべし」と。またこうも説かれています。「過去の諸仏は、菩提を専ら求め、この行を修習し、無量劫の間、諸々の有為の中で無量の苦を受けながら、なおも値遇することができなかった。乃至、大いなる善利を得、大願を成満し、諸仏に親近し、仏の真の子となり、必ずや仏の導師となるであろう」と。


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