華嚴關脈義記
華厳経の要義記録
無礙勢。四問答取文勢。
無礙の勢い。四つの問答により文の勢いを取る。
第一展轉無盡者。復有二門。一為多。二類結來本。初者展最清淨法界。為理智兩門。即分菩提涅槃之異也。又理開體用。智分因果。即題中大方廣佛華嚴是也。總以前後連合巧成詮表。即題中經之字是也。然即該括始終。撮其機要。為七字。以統收一部文義。為題目也。又展此題目為第一會。於中初明十海等是理。即大方廣也。十智等是智。即華嚴也。廣說蓮華藏世界海等。即十智所成之果也。略辨威光童子等修行。即依果所起之圓用也。總辨理智因果不同。所以展成一會也。即所信之果會也。展此一會為後七會。於前因中。別開修行願等及會修行并會別行等不同。所以展為七會也。即能證之因會也。以一一會皆有所信果。是故通前有八會也。以十住等行皆託境而生非自起故。又行融因滿必證入法界。是故有通後九會也。言別開住等及會修行不同者。即初說第二會。終盡第六會。通辨住等諸位。即明因行造修歷位差別也。第七第八別兩行融攝無二為一。普賢無障礙行也。此等行因必入法界方乃究竟。所以一部經中廣明斯法。昇降不同。總有九箇會也。又於所證之中。自分為五十五會。即初從覺城終至普門會等是也。以證契於事深法界德差別故。是故通前本會。總有六十四會也。即此寄人明法顯別教。依人異餘教故。又展一一知識會為無盡重重會。以一切融無礙故。如仙人執手。令善財見不可說不可說佛剎一一佛剎有微塵數等諸佛會是也。亦即下文。向普門國。見三千大千世界微塵等諸善知識會。此等即為無盡重重會也。廣如經辨誰知之。既於一知識所。有如是重重會。餘亦誰亦。又展如是等不可說不可說無盡重重會。遍諸異類同類世界及微塵毛道一切世界海等。主伴重重總過本末重重無盡等會。故有無盡重重(滿十)會也。准經結通等文思之。第二類結來本者。今案此下文勢及諸傳記。略而言之。有其五本。一總結前六十四會以下本。以五千五會等皆是第九會攝故。有十萬偈三十九品也。二總結前無盡重重會以為中本。以一一各盡同類異類等世界及盡一一世界等十方法界各盡同類世界微塵中剎一一重重(滿十)及盡主伴重重(滿十)故。有四十九萬八千八百偈一千四百也。三又結前不可說不可說無盡重重會以為上本。以一一各盡一切同類異類世界等一切世界各盡一切同類異類世界等一切十方。各盡一切同類異類世界等微塵中剎。各盡一切同類異類世界盡重重(滿十)及一切主伴等及塵中剎重重(滿十)各盡同類異類世界中重重(滿十)本門內一切重重(滿十)及本門中重量(滿十)故。有十三千大千世界微塵數偈四天下微塵數品也。四又結盡一切一切重重(滿十)世界海等盡一切一切(滿十)重重(滿十)法界盡一切一切(滿十)重重(滿十)十方。盡一切一切(滿十)重重(滿十)世界微塵等剎。盡一切一切(滿十)同類異類等世界。盡一切一切(滿十)微塵毛道盡一切一切重大門等重重(滿十)及本門等主伴一一(滿十)一切轉一切轉說故。以為喻一切轉一切轉說本也。故下文云。以大海量等墨須彌山聚筆。書寫此經一一品乃至一一句中義味。猶不能盡。又六十二云。此普眼法門一一品中一一門一一法一一義等句不得少分。何況能盡。廣如經說。此不可定其偈數及品目多少也。一品一門等既爾。餘品餘門及主伴等既爾。一切門及主伴等亦然。一切品一切門及一切主伴等既爾。餘一切一切(滿十)重重(滿十)品一切一切(滿十)重重(滿十)門及一切一切(滿十)重重(滿十)主伴然。既一一(滿十)重重(滿十)品品一切一切(滿十)門一切一切(滿十)重重(滿十)主伴等既爾。一一文句味重重(滿十)及主伴等亦然。一一文句味及主伴等重重(滿十)既爾。即所依之剎等重重(滿十)及主伴等重重(滿十)既爾。即剎中塵內剎等重重(滿十)亦然。此即不可知其分齊。非言說筆墨之所能顯也。此即是盡無盡無盡(滿十)十方法界微塵毛道一一重重(滿十)及一切一切(滿十)重重(滿十)等本也。准經文知之。此即第五現說者本也。如是展轉一切互現重重(滿十)無盡無盡(滿十)等。准經知之。故經云。事說劫猶可盡說。不可說不可盡。又云。若欲具足演說一切法。於阿僧祇劫不可盡等。思之。是即十佛所說圓融之本也。然此等盡無盡之極說者。從清淨法界流。即無差別之差別也。故論云。無不從此法身流等。思之。上來具據一勢。就事結集及事顯說者有如是本。更有餘多勢及餘多本等。不顯其分齊。偈數品類者。准此知之。廣如經說。
第二卷攝於無勢者。復有三門。一攝廣就略。二攝末歸本。三以義圓收。第一攝廣就略有者。即總卷現說者說以為一切無盡重重(滿十)之極說也。以於現說之者說等。假以顯示。知餘不可說不可說非筆墨等所能說之。如經云。我之所演暢。如海一微滴等。又卷無盡重重(滿十)圓融無極之說。以為喻說本。以一一文句。復皆結通重重(滿十)無盡無盡(滿十)一切一切(滿十)說故也。又卷喻說本。以為上本。以文句皆結通盡一切同類異類重重(滿十)世界及重重(滿十)等主伴眷屬一切重重(滿十)無盡無盡故。又卷上本為中本。以會會品品文文句句。復皆通遍周法界及一切世界塵道毛端等一切一切(滿十)重重(滿十)等。普該收故。又卷中本。以為下本。以普結通盡會實等一一重重(滿十)故。又卷下本為其一會。然隨其一會。皆悉重重(滿十)具一切一切(滿十)無盡無盡(滿十)重重(滿十)等故。所言具者。一一會中皆說十數表無盡也。又總卷一會。為人法兩門。即前法分。後人會是也。又卷為心境圓證。後人會中。初從文殊會至後普賢會是也。又卷以為七字。即題中能證所證理。皆因果悉具足故。如前辨。又卷為三字。亦是以融人等。從彼法故。又卷三為二字。亦是以攝歸體故。卷二為。亦是以攝證理從故。卷一非一。亦是以性合萬德。無事不無盡故。第二以義圓收者。今取文勢義言。通明一切會等。總有四字。亦文義具足。何者為四。一教。謂文雖浩汗。唯一教字所收。即題中經字是也。二義。義門無量。俱一緣起義所攝。即題中方廣是也。三成。謂解行因果德用等。雖各緣起不同。據其即成立。唯一成字所攝。即題中佛華嚴是也。四處。謂一切一切(滿十)重重(滿十)無盡無盡(滿十)同類異類等重重(滿十)會處唯一處。唯一處字所同。即會所依一切一切(滿十)重重(滿十)會處是也。總卷而言。然義唯一性。教唯一文。成唯一念。處唯一塵。何以故。一即一切故。一切即一故。經云。知一即多多即一。義味清淨悉具足等。又云。一中解無量。無量中解一等故。統法師云。一言無不略盡。殊說更無異盈。此之謂也。第三攝末歸本者。今案前題目。然則大之一字是一部通名。所證果海。方廣二字是果海德能。通明一部緣起作用。佛之一字能證之智。通明一說之人。華嚴二字能嚴之因。通明一部修行圓契。又攝用歸體唯理也。攝因歸果唯佛也。又以法成人。人無性則真性也。性無自性即非性也。總以縫綴連合詮表此義為教教即非教也。何以故。文字性離即解脫故。果海離言不可說故。是即差別之無差別也。論云。無不還證此法身。斯之謂也。
第二巻は、無勢なるものに摂せられる。さらに三つの門がある。一つは広きを摂めて略に就く。二つは末を摂めて本に帰す。三つは義をもって円く収める。第一の広きを摂めて略に就くとは、すなわち総じて巻を現説する者の説くところを以て、一切の無尽重重なる極説となすのである。現説する者の説くところに於いて等しく、仮りに以て顕示し、余の説くべからず、説くべからず、筆墨等の能く説くところに非ざるを知るのである。経に云うが如く、「我の演暢する所は、海の一微滴の如し」などと。また巻の無尽重重なる円融無極の説を以て、喩説の本となし、一々の文句が、復た皆重々に通じ、無尽無尽なる一切一切の説くところに結ぶが故である。また巻の喩説の本を以て、上の本となし、文句が皆一切の同類異類なる重々なる世界及び重々なる等主伴眷属の一切重々なる無尽無尽に通じ尽くすが故である。また巻の上の本を以て、中の本となし、会会品品文文句句が、復た皆遍く法界及び一切世界の塵道毛端等の一切一切なる重々なる等に通じ周り、普く該収するが故である。また巻の中の本を以て、下の本となし、普く会実等の一々重々なるものに結び通じ尽くすが故である。また巻の下の本を以て、その一会となす。然しながらその一会に随って、皆悉く重々なる一切一切の無尽無尽なる重々なる等を具するが故である。言うところの具するとは、一々の会中に皆十数を説きて無尽を表すのである。また総じて巻の一会を、人法の両門となす。即ち前の法分、後の人会これである。また巻を心境円証となし、後の人会の中、初め文殊会より後普賢会に至るまでこれである。また巻を以て七字となす。即ち題中の能証所証の理、皆因果悉く具足するが故である。前に弁ずるが如く。また巻を以て三字となす。また是れ以て人を融し等しく、彼の法に従うが故である。また巻の三を以て二字となす。また是れ以て体に摂め帰するが故である。巻の二を以てとなす。また是れ以て証理を摂めて従うが故である。巻の一を非一となす。また是れ以て性を以て万徳に合し、事無くして無尽ならざるは無いが故である。第二の義をもって円く収めるとは、今文勢の義を取って言えば、一切の会等を通じて明らかにする。総じて四字あり、また文義具足する。何を四とするか。一は教、文は浩汗と雖も、唯一の教字に収められる。即ち題中の経字これである。二は義、義門無量と雖も、倶に一の縁起義に摂せられる。即ち題中の方広これである。三は成、解行因果徳用等は、各縁起不同と雖も、其の即ち成立するに拠れば、唯一の成字に摂せられる。即ち題中の仏華厳これである。四は処、一切一切なる重々なる無尽無尽なる同類異類等の重々なる会処は唯一の処、唯一の処字に同じくする。即ち会の依る所の一切一切なる重々なる会処これである。総じて巻を以て言えば、然しながら義は唯一の性、教は唯一の文、成は唯一の念、処は唯一の塵。何を以ての故か。一は即ち一切なるが故、一切は即ち一なるが故。経に云く、「一を知れば即ち多、多を知れば即ち一、義味清浄悉く具足す」などと。また云く、「一中に無量を解し、無量中に一を解す」などの故である。統法師云く、「一言にして略し尽くさざる無く、殊説にして更に異盈無し」、これ之を謂うのである。第三の末を摂めて本に帰すとは、今前の題目を案ずれば、然らば大の一字は一部の通名、証する所の果海、方広の二字は果海の徳能、通じて一部の縁起の作用を明らかにする。仏の一字は能証の智、通じて一説の人を明らかにする。華厳の二字は能厳の因、通じて一部の修行円契を明らかにする。また用を摂めて体に帰すれば唯理なり。因を摂めて果に帰すれば唯仏なり。また法を以て人を成せば、人無性は則ち真性なり。性無自性は即ち非性なり。総じて以て縫綴連合し、此の義を詮表して教となす、教は即ち非教なり。何を以ての故か。文字の性離は即ち解脱なるが故。果海は言を離れて説くべからざるが故。是れ即ち差別の無差別なり。論に云く、「無くして還って此の法身を証せざるは無し」、斯れ之を謂うのである。
第三展卷無礙者。先明展後明卷。初展者。開用異體。即體用有殊。緣性差別。法門不同。即大方廣是也。開因異果。即解行不同。修證差別。師弟子有殊。即佛華嚴是也。即經縷綴詮示有殊。即一切無盡無盡(滿十)重重(滿十)之說。即經字是也。廣如別辨。准知之。二卷者。復有五門。一以位統收。二攝會從人。三以人明法。四境智圓融。五泯因果海。初者。然此經文誤落顛倒。總有三節。無不略收。所謂解行證也。就解之中。自為二境。即第一會中。舉佛依正等果。勸生信樂。即案此文。名為舉果勸樂生信分也。二解。始從第二會終盡第六會。於中廣明住等四位次第生解之相。案此文。名為修因契果生解分也。二亦二。一依位行。二異位行。初第七會中。會前別解以成依位。普賢之行總融成一實。普賢行故。所以二重會也。是故普光法有兩重會者。意存此也。即案此文。名為託法進成行分也。何以知者。以在普光重會即其事也。若不爾者。何不重會第三等會耶。以第二會是說解等之始。今會解等成行。理宜從始為首。是故重會普賢之行。所以不此所亦可顯諸會同第二七日。頓普演說無前後故。何以。單說重說皆同第二七日故。三證。第九會中。復說五位依人入證門前所舉之果者。初既悕樂前果。以生信解。既會解成行。即證得前果。是故後分會。而別證論耶。今據文即是前會也。若不爾者。舉前果生其信解。既會解成行。而別證得前果耶。今據文義相生。所以得知未會即初會也。是故總為三節。極順經文。準思可解。第二攝會從人者。復總融為一會。唯第九一會也。何者。以第一會是前解等所依之位。其後解滿即會前差別之解。成一圓融行德。證入前法。究竟亡言。是故第九寄人明證入法界。為顯斯深意。所以第九會中。明依人入證也。言寄人明者。即此第九會中。如來自入師子奮迅三昧。令諸菩薩證入法界。是前所舉果勸令忻樂。即當第一會也。以如來自入奮迅三昧欲令菩薩悉證入故。又始從文殊終至瞿姨。是前修因契果生解之相。即當前七會也。以善財詢問諸人。別求信解廣遍知故。後至摩耶彌勒兩人。是前託法進修行成無二。當第七會。第八會中俱明普賢大行無礙圓融自在究竟故。至文殊據其瓔珞。以明福智二嚴萬德俱備故。又摩耶是一切諸佛之母。以表行成能生佛。故普賢居後。當緣起法界。以表行成。得證入故。故當第九會。是依人入證成分也。以見微塵數善知識及普賢菩薩。更不推後故。第三攝人從位者。謂知識會中。又始從文殊終至瞿姨。總有四十一人。名為寄位修行相。即寄前住等四法。依人求解。漸次修行也。第二初從摩耶終至德生童子等。總有十一人。名為會緣入實相。即會前住等。成普別兩行。契法界也。第三彌勒一人名為攝德成因相。即會前依位普門。總為證入之因也。第四後文殊一人為智照無二相。即融究竟朗悟在懷。照前行等。唯一實圓智。更無前後明昧等也。第五普賢一人名為顯因廣大相。即始覺同本。大智現前遍周法界。無處不至。普包容也。第四境智圓融者。復就前人中。總束為二。一文殊。是能證智。即前解行等。二普賢。是所證之法界。即是所信所入也。何者。以文殊當波若位。普賢當法界門。所以知者。師云。三藏者。有經作如是說。又案此經中意義文勢。深有此理。又古尊德既判後文殊名為智照無二相。故知前諸人總是後文殊一人也。故下文云。善財還逕百一十城。復合諧文殊者。是此意也。又文殊師利教我於數筆等法。又下文云。文殊師利憶念力故等。又下文云。善男子文殊師利是汝善知識。能令汝得生如來家。長養善根積功德聚。乃至滿足大願。淨諸法門。皆由文殊師利威神力等者。既圓滿得證法界。所所因滿。普賢居後故。下文云。我於一一毛孔中現佛之境界。諦觀察等。又云。汝具觀我清淨法身等。解云。既令觀清淨法身。故知善財見普賢。即是證法界也。又束為一。謂境智一如無有差別。是故後文殊更無身想。教即何故如是。以初見文殊。即明善財信以之始。至後不見即見善財智滿足之經。中間諸人皆是善財修行次第。以善財障盡惑除。未必動念。是故反照唯是初心更無異也。後不見者。有斯意也。故經云。從文殊師利智慧所起等。亦是論中始覺同本覺。無始覺之異。此之謂也。第五泯同果海者。謂因行圓滿沒果海中。朗始朗終圓融具德。亡言絕慮唯證相應也。如是隨說為門。意無前後也。是故卷展為斯無礙難申述。取者如文思之。故下文云。如是真佛子。甚深微妙之義。眾生欲思量。迷亂心發狂。此之謂也。
第三に、巻き広げることと巻き戻すことに妨げがないことについて述べます。まず広げることを明らかにし、その後で巻き戻すことを明らかにします。
初めに、広げるということです。これは「用」と「体」を分けて示すことです。「体」と「用」には違いがあり、縁起の性質には差別があり、法門も同じではありません。これが「大方広」です。また、「因」と「果」を分けて示すことです。理解と実践には違いがあり、修行と証得にも差別があります。師と弟子にも違いがあります。これが「仏華厳」です。経典の言葉が連なって示すところにも違いがあり、すべてが尽きることなく、十重に満ち満ちている説き方です。これが「経」という字の意味です。詳しくは別に説明しますので、これを基準として理解してください。
二つ目に、巻き戻すということです。これにはさらに五つの観点があります。 一、位によって統合し収める。 二、会座を人に従わせて収める。 三、人を通して法を明らかにする。 四、境と智が円融する。 五、因果の大海に溶け込む。
まず第一の「位によって統合し収める」について。 この経文には誤って順序が入れ替わっている部分がありますが、大きく三つの節に分けることができ、すべてを簡潔に収めています。それはすなわち「解」「行」「証」です。
「解」の中には、さらに二つの境があります。 第一に、第一会において、仏の依報と正報などの果徳を挙げて、信心と歓喜を起こすよう勧めることです。この文に基づいて、「挙果勧楽生信分」と名づけます。 第二の「解」は、第二会から始まり第六会までです。この中で、十住などの四位について、次第に理解が生じる相を広く明らかにしています。この文に基づいて、「修因契果生解分」と名づけます。
「行」にも二つあります。 一、位に依った行。 二、位を超えた行。 初めの「位に依った行」は、第七会において、それまで別々に説かれた理解を統合して位に依ったものとし、普賢の行を総合して一つの真実の普賢行に融け合わせることです。それゆえに二重の会座があるのです。ですから、普光法会に二重の会座があるのは、この意図があるからです。この文に基づいて、「託法進成行分」と名づけます。 どうしてそう言えるかというと、普光で重ねて会座が開かれること自体がその証拠です。もしそうでないなら、なぜ第三会などを重ねて開かないのでしょうか。第二会は理解などを説き始める最初の会座です。今、理解などを統合して行を成じるのですから、道理として最初から始めるべきです。それゆえに普賢の行を重ねて会座を開くのです。また、これによって諸会がすべて第二七日において、前後なく頓に普く演説されたことも明らかになります。なぜなら、単独で説かれることも重ねて説かれることも、すべて同じ第二七日だからです。
「証」は、第九会において、さらに五位に依って人を通して証入の法門を説くことです。前に挙げられた果徳について、初めにその果を願い求めて歓喜し、信心と理解を生じさせました。理解を統合して行を成じたならば、前に挙げられた果徳を証得するのです。それゆえに後の分で会座を開き、別に証について論じるのです。今、経文に基づけば、前の会座と同じことです。もしそうでないなら、前の果を挙げてその信心と理解を生じさせ、理解を統合して行を成じたのに、別に前の果を証得するということがありうるでしょうか。今、経文の意味と相が生じる順序に基づけば、未だ会していないことが初めの会座であると知ることができます。それゆえに総じて三つの節とし、経文に極めて順じています。この基準で考えれば理解できるでしょう。
第二の「会座を人に従わせて収める」ことです。 再び総合して一つの会座に融け合わせます。それはただ第九会だけです。なぜなら、第一会は前の理解などが依る位であり、その後、理解が満ちれば、前に説かれた差別の理解を統合して一つの円融した行徳とし、前の法に証入して、究竟において言葉を超えるからです。それゆえに第九会では、人に仮って証入法界を明らかにし、この深い意図を顕わすのです。それゆえに第九会において、人に依って証入することを明らかにするのです。 「人に仮って明らかにする」とは、この第九会において、如来自らが師子奮迅三昧に入り、諸菩薩に法界への証入をさせることです。これは前に挙げられた果徳を勧めて歓喜を起こさせることであり、第一会に相当します。如来が自ら奮迅三昧に入るのは、菩薩たちにことごとく証入させるためだからです。 また、文殊から始まり瞿夷に至るまでが、前に修因契果して理解が生じる相であり、前の七会に相当します。善財童子が諸人に尋ね求め、別々に信心と理解を広く遍く知ろうとするからです。 その後、摩耶夫人と弥勒菩薩の二人に至るのが、前に法に託して進み修行を成じて無二となることであり、第七会と第八会に相当します。第七会と第八会ではともに、普賢の大行が妨げなく円融自在で究竟であることを明らかにしているからです。 文殊に至って瓔珞を手に取るのは、福と智の二つの荘厳、万徳がすべて備わっていることを明らかにするためです。また、摩耶夫人は一切諸仏の母であり、行が成就すれば仏を生むことができることを表しています。それゆえに普賢が最後に位置し、縁起法界に相当します。行が成就して証入を得ることを表すからです。それゆえに第九会に相当し、人に依って証入する成分です。微塵数の善知識と普賢菩薩を見て、さらに後を推し進めることがないからです。
第三の「人を位に従わせて収める」ことです。 善知識の会座において、文殊から始まり瞿夷に至るまで、総じて四十一人の善知識がいます。これを「寄位修行相」と名づけます。前に説かれた十住などの四法に仮って、人に依って理解を求め、漸次に修行するのです。 第二に、摩耶夫人から始まり徳生童子などに至るまで、総じて十一人の善知識がいます。これを「会縁入実相」と名づけます。前に説かれた十住などを統合して、普賢行と別行の二つの行とし、法界に契合するのです。 第三に、弥勒菩薩ただ一人を「摂徳成因相」と名づけます。前に依位普門を統合して、総じて証入の因とするのです。 第四に、後の文殊菩薩ただ一人を「智照無二相」と名づけます。究竟を融け合わせて明るく悟りを懐にし、前の行などを照らして、ただ一つの真実の円満な智のみであり、さらに前後や明暗などの区別がないのです。 第五に、普賢菩薩ただ一人を「顕因広大相」と名づけます。始覚が本覚と同じとなり、大智が現前して法界に遍く周り、至らないところがなく、普く包容するのです。
第四の「境と智が円融する」ことです。 再び前の人々を総括して二つに束ねます。 一、文殊は能証の智です。すなわち前の理解と行などです。 二、普賢は所証の法界です。すなわち信じ入るべきものです。 なぜなら、文殊は般若の位に相当し、普賢は法界の門に相当するからです。どうしてそう言えるかというと、師はこう言われました。「三蔵の中には、このように説く経典がある」と。また、この経典の意義と文勢に基づけば、深くこの道理があるからです。また、古徳が後の文殊を「智照無二相」と判じているので、前の諸人はすべて後の文殊ただ一人であると知ることができます。それゆえに後の文で、「善財童子が再び百一十城を経て、また文殊のもとに帰る」とあるのは、この意図です。 また、「文殊師利が私に数筆などの法を教えた」ともあります。また後の文で、「文殊師利の憶念力によって」などともあります。また後の文で、「善男子よ、文殊師利は汝の善知識である。汝をして如来の家に生まれさせ、善根を養い功徳の聚を積ませ、乃至大願を満足させ、諸法門を清浄ならしめる。すべて文殊師利の威神力による」などとあります。すでに円満に法界を証得し、因が満ちて、普賢が後に位置するからです。後の文で、「私は一一の毛孔の中に仏の境界を現じ、諦観察する」などとあります。また、「汝は私の清浄法身を見よ」などとあります。解釈すれば、清浄法身を見よと命じているので、善財童子が普賢を見ることは、すなわち法界を証することであると知ることができます。 また、一に束ねれば、境と智が一如で差別がないということです。それゆえに後の文殊にはさらに身の想いがありません。教えはどうしてこのようであるのか。初めに文殊を見たとき、善財童子の信心の始まりを明らかにし、後に見えなくなったとき、善財童子の智が満足したことを見るのです。中間の諸人はすべて善財童子の修行の次第です。善財童子の障りが尽き、惑いが除かれたならば、必ずしも念を動かす必要はありません。それゆえに反照すれば、ただ初心のみであり、さらに異なるものはないのです。後に見えなくなることには、この意図があります。それゆえに経に、「文殊師利の智慧より起こる」などとあるのです。また、論の中の「始覚が本覚と同じで、始覚の異なることがない」というのも、このことを言っているのです。
第五の「因果の大海に溶け込む」ことです。 因行が円満に成就して果の大海に溶け込み、初めも終わりも明るく照らし、円融して徳を具え、言葉を超え慮りを絶ち、ただ証のみが相応するのです。このように、説き方に従って門とし、意図には前後がありません。
それゆえに、巻き広げることと巻き戻すことがこのように妨げなく、言葉では尽くしがたいのです。理解しようとする者は、経文の通りに考えてください。それゆえに後の文で、「かくの如きは真の仏子なり。甚深微妙の義、衆生思量せんと欲すれば、心迷乱して狂いを発す」とあるのは、このことを言っているのです。
第四問答取文勢者亦二。一問答會前。二結勸修學。第一問答會前者。問前既言摩耶會。前諸緣為其一實。何得會已修有十人不同耶。答會已而有十人者。此顯緣起無盡。託十顯之。何者。以不離摩耶。並是摩耶之實德也。即寄前五三世同修。至於究竟出生佛也。經云。我是一切諸佛母。一切諸佛皆從我生等。亦可表亦諸位即異鎔融卷舒無礙。是故一一位即辨成佛者。意存此也。問摩耶無體。俱會諸位成。餘人亦復如然。何不悉皆具十耶。答摩耶中具此十人者。即是前一一人所皆具之也。何以故。摩耶即會前諸人。總以為一身故。以一一人即是摩耶。摩耶即是一一人故。令獨摩耶中具十人者。有斯意也。問摩耶即是前諸人。即言此具餘亦具者。亦可諸人即是後摩耶。何不前具後不具。答摩耶是總。餘是別。俱使總具別。何者。別未究竟。總不究竟也。智未究竟。別無可別。何得具耶。是故摩耶中具者。即餘人亦具也。問八會之中。何故昇天四會皆云不起菩提樹而昇天等。云何人中三會不言不起此而昇彼耶。答此有二意。一據解。二約行。初解中復三。一近二遠三總。初近者。以人中地接相去不遙。法爾通收不待言示。所以不言不起此而昇彼也。遠者。以人天類體復極隔不同相攝難知。所以帶前而起後也。此乃顯緣起無礙互鎔融也。三總者。以總攝別。別在總中。昇降不同。皆云不離覺樹而昇彼也。此以更融遍門自有殊。雖去彼中。而恒在此。為欲表生物解故。舉後而帶前生也。二約行者復二。一申義。二釋妨。初者。然昇天等會據解據處為言。解滿即行證無差別。所以後二不論也。不類天者。有斯意也。二者以信自正位。是故二處不言也。問上言善財不見文殊。即言表其智滿。唯是初心無異者。何以經說善財歷諸位耶。答經說歷諸位者有二種。一者約教行而言教有次位。節級不同。善財歷位據此而說。二者約義圓融言以夫大緣起法界同時具足無有次位前後等差別。善財一生案此而說。今以兩義令辨。然歷位不離初心。一生未初多經劫所修而具斯意也。故佛地經云。一念即無量劫。無量劫即一念等。今為以教義而言。是即名為同教一乘。若以義攝教而言。是即名為別教一乘也。然善財歷在不離初心者。據斯說也。問何故末後知識更無指後及結說等耶。答結會文殊即善財因已究竟。至後普賢菩薩即辨善財得證相應。所以一見即意一俱圓。是故更指後無故等也。故下文云。善財於普賢菩薩相好交節諸毛孔中。見不可說不可說世界海諸佛充滿。二如來不可說不可說。大菩薩以為眷屬等是也。如前辨。第二結勸修學者。上來序經中少言。如管窺天。餘勢多端。莫知涯際。盡窮來劫。誓畢修行。唯願捨身受身常生此念。若有信歸修學。速然證菩提。所以見聞必成堅種。當復發大歡喜自慶又希逢也。故經云。善財汝應發大歡喜。不久得大果報故。無量菩薩於無量劫修。汝今一生皆悉具德。乃至具有欲得如是法者。定如善財之所修學等。又云。過去諸佛專求菩提修習此行。於無量劫諸有為中受無量苦。猶不值遇。乃至云。得大善利。成滿大願。親近諸佛。為佛真子。必成佛道(云云)。廣如經辨。準之。
第四の問答で文勢を取り上げるのも二つある。一つは問答で前の内容と合わせること。二つは結びで修行を勧めること。
第一の問答で前の内容と合わせるものについて。 問い:前に既に摩耶夫人の会合について述べ、前の様々な縁が一つの実体であると説いたのに、どうして会合の後に十人の異なる修行者が現れるのですか。 答え:会合の後に十人が現れるのは、これによって縁起が尽きることがないことを示しているのです。十人を仮りに示しているのです。なぜなら、摩耶夫人から離れず、皆が摩耶夫人の真実の徳であるからです。つまり、前の五世に同じく修行し、究極に至って仏を生み出すことを仮に示しているのです。経に云う、「私は一切の諸仏の母である。一切の諸仏は皆、私から生まれる」などと。また、様々な位階が即ち異なりながらも融け合い、巻き舒き自在であることを表すこともできます。それ故に、それぞれの位階において成仏を明らかにするのは、この意図があるからです。 問い:摩耶夫人には実体がなく、皆が様々な位階に会して成るのであれば、他の人々も同様であるはずです。どうして皆が十人を具えるわけではないのですか。 答え:摩耶夫人の中にこの十人を具えるというのは、即ち前の一人一人が皆具えているということなのです。なぜなら、摩耶夫人は即ち前の諸人を会したもので、総じて一つの身と為すからです。一人一人が即ち摩耶夫人であり、摩耶夫人が即ち一人一人であるからです。ただ摩耶夫人だけが十人を具えると言うのは、このような意図があるのです。 問い:摩耶夫人は即ち前の諸人であるならば、これが具えれば他の者も具えると言えるでしょう。また、諸人が即ち後の摩耶夫人であるならば、どうして前は具え、後は具えないのですか。 答え:摩耶夫人は総体であり、他の者は別体です。総体が別体を具えるようにするのです。なぜなら、別体が究極でなければ、総体も究極ではないからです。智慧が究極でなければ、別体として別たれるものもありません。どうして具えることができましょうか。それ故に、摩耶夫人の中に具えるというのは、即ち他の者も具えるということなのです。 問い:八つの会合の中で、どうして天に昇る四つの会合は皆、「菩提樹を離れずして天に昇る」などと言うのですか。どうして人間の三つの会合では、「ここを離れずしてあそこに昇る」と言わないのですか。 答え:これには二つの意味があります。一つは解釈に基づくもの。二つは修行によるものです。 初めの解釈の中にも三つあります。一つは近いこと。二つは遠いこと。三つは総体です。 初めの近いこととは、人間界の地は接しており、隔たりが遠くないため、法爾として通じて収まり、言葉で示す必要がないからです。それ故に、「ここを離れずしてあそこに昇る」と言わないのです。 遠いこととは、人間と天の類は体も極めて隔たっており、同じく相い摂め難いからです。それ故に、前を帯びて後を起こすのです。これは縁起が自在に互いに融け合うことを示しているのです。 三つ目の総体とは、総体が別体を摂め、別体は総体の中にあるからです。昇り降りは異なりますが、皆、「覚りの樹を離れずして彼に昇る」と言うのです。これは更に融通遍満の門によって自ら殊なるものがあるからです。あの中へ去っても、常にここに在るのです。衆生に理解を生じさせようとするため、後を挙げて前を帯びて生じさせるのです。 二つ目の修行によるものにも二つあります。一つは義を述べること。二つは妨げを解くことです。 初めのもの:しかし、天に昇るなどの会合は解釈や処所に基づいて言うのです。解が満ちれば即ち行も証も差別がありません。それ故に、後の二つは論じないのです。天の類とは異なり、このような意図があるのです。 二つ目:信が自ら正位にあるからです。それ故に、二つの処所では言わないのです。 問い:上で、善財童子が文殊菩薩を見ないのは、即ちその智慧が満ちていることを表し、ただ初心のままで異なることがないと説きました。どうして経には善財童子が様々な位階を経ると説くのですか。 答え:経に様々な位階を経ると説くのには二種類あります。一つは教えと修行について言うもので、教えには次第の位階があり、段階が異なります。善財童子が位階を経るのはこれに基づいて説くのです。二つ目は義理の円融について言うもので、大いなる縁起の法界は同時に具足し、次第の位階や前後などの差別がないのです。善財童子の一生はこれに基づいて説くのです。今、二つの義理によって明らかにします。しかし、位階を経ても初心を離れず、一生の間に未だ初めから多く劫を経て修行し、この意図を具えるのです。故に『仏地経』に云う、「一念は即ち無量劫、無量劫は即ち一念」などと。今、教えと義理によって言うならば、これは即ち同教一乗と名付けます。もし義理が教えを摂めることによって言うならば、これは即ち別教一乗と名付けるのです。しかし、善財童子が位階を経ても初心を離れないのは、これに基づいて説くのです。 問い:どうして最後の善知識には、後を指し示すことや結びの説法などがないのですか。 答え:文殊菩薩と会して結ぶことは、即ち善財童子の因が既に究極に至ったことを意味します。後の普賢菩薩に至れば、即ち善財童子が証を得て相応することを明らかにします。それ故に、一見すれば即ち意も一にして共に円満なのです。それ故に、更に後を指し示す必要がないのです。故に下文に云う、「善財童子は普賢菩薩の相好の交わる節々や諸々の毛孔の中に、説くことができず説くことができない世界海の諸仏が充満しているのを見た。二如来も説くことができず説くことができない大菩薩が眷属として在る」などと。前に明らかにした通りです。
第二の結びで修行を勧めるものについて。 これまで経の中のわずかな言葉を序として述べてきましたが、管を以て天を窺うが如く、残りの勢いは多岐に渡り、涯を知ることができません。来る劫を尽くして窮め、誓って修行を完うしましょう。ただ願わくは、身を捨て身を受けるも、常にこの念を生じさせてください。もし信じて帰依し修行するならば、速やかに菩提を証するでしょう。それ故に、見聞すれば必ず堅固な種子となり、大いなる歓喜を発して自ら慶び、また希有なる遭遇を願うべきです。故に経に云う、「善財よ、汝は大いなる歓喜を発すべし。間もなく大いなる果報を得るからである。無量の菩薩が無量劫に修行することを、汝は今一生で皆悉く具えている。乃至、このような法を得ようと欲する者は、必ず善財の修学する如くである」などと。また云う、「過去の諸仏は専ら菩提を求めてこの行を修習し、無量劫の諸々の有為の中で無量の苦を受けても、尚、遇うことができなかった。乃至云う、大いなる善利を得て、大願を成満し、諸仏に親近し、仏の真の子となり、必ず仏道を成ずる」(云云)と。広くは経に明らかにされている通りです。これを基準としなさい。
華嚴關脈義記一卷
寫本云。永仁五年(丁酉)暮春三月五日。於東大寺戒壇院。為實圓比丘書寫之。
華嚴宗沙門 凝然 春秋五十八