大集經賢護分觀察品第六之一
『大集経 賢護分 観察品 第六の一』
爾時,世尊復告賢護菩薩言:「賢護!若諸菩薩摩訶薩即欲思惟此三昧者,當云何思?賢護!彼諸菩薩欲思惟者,即應當作如是思惟:『如我世尊今者現在天人眾中宣說法要。』賢護!菩薩如是一心思惟諸佛、如來坐師子座宣說正法,具足成就一切相好,最妙、最極,殊特端嚴,樂觀無厭。
その時、世尊は再び賢護菩薩に告げられた。「賢護よ、もし諸々の菩薩摩訶薩がこの三昧を思惟しようと望むなら、どのように思うべきなのか。賢護よ、それらの菩薩が思惟しようと望むなら、まさにこのように思惟すべきである。『今、私の世尊が天と人の集まりの中で法の要を説いておられるように。』賢護よ、菩薩はこのように一心に諸仏・如来が獅子座に坐って正法を説き、一切の相好を完全に成就し、最も優れ、最も極まり、特別に端厳で、観ることに飽きることがないのを思惟すべきである。」
「如是,觀察諸大人相,於一一相應當至心,即得明了見諸如來、應、等正覺;既得見已,當先諮問不見頂相;既得問已,然後次第遍觀諸相,皆令明了。
このようにして、仏陀のさまざまな特徴を観察する際には、それぞれの特徴に心を込めて専念しなさい。そうすれば、如来、応供、正等覚者を明確に観ることができるでしょう。仏陀を観たなら、まず最初に「無見頂相」について尋ねなさい。その問いを終えたら、次に順を追ってすべての相を明瞭に観察しなさい。
「如是觀已更復思惟:『諸佛、如來眾相微妙是為希有,願我未來還得如是具足成就諸妙相身、願我未來亦得如是清淨禁戒具足威儀、願我未來亦得如是具足三昧、願我未來亦得如是具足智慧、願我未來亦得如是具足解脫、願我未來亦得如是解脫知見,願我未來成滿如是諸相身已,即得成就阿耨多羅三藐三菩提;既成佛已,亦當如是處彼天人大眾之中具足宣說如斯妙法。』
このように観察した後、さらに次のように考えました。
「諸仏・如来の衆相は微妙で、これはまことに希有なことである。願わくば、私も未来において、このように完全に成就した諸々の妙相の身を得ることができますように。願わくば、私も未来において、このように清らかな禁戒と、具足した威儀を得ることができますように。願わくば、私も未来において、このように完全な三昧を得ることができますように。願わくば、私も未来において、このように完全な智慧を得ることができますように。願わくば、私も未来において、このように完全な解脱を得ることができますように。願わくば、私も未来において、このような解脱知見を得ることができますように。願わくば、私が未来において、このように諸々の相の身を完全に成就したならば、ただちに阿耨多羅三藐三菩提を成就し、仏となった後は、またこのように天人の大衆の中にあって、完全にこのような妙法を宣べ説くことができますように。」
「菩薩如是具足觀察諸佛、如來乃至成就一切種已,復應更作如是思惟:『是中何者是我?誰為我所法?誰能得成諸佛菩提?為身得耶?為心得耶?若身得者,是身頑騃,無覺、無知,猶如草木、石壁、鏡像,然彼菩提無色、無形,非像、非相,不可見知、不可觸證,云何更以頑騃、無知、無見、無識、無所分別、無作之身得彼菩提?菩提如是,既無形色、非相、非像,不可見知、不可觸證,誰復於中而行證者?若心得者,是心無色,不可得見;是心無相,不可得知。此心如是,同於幻化;然彼菩提亦爾,無色不可見、無相不可知,無漏、無為,亦同幻化。云何可證?云何覺知而言身心得菩提耶?』
菩薩はこのようにして諸仏・如来を詳細に観察し、ついには一切種智を成就したならば、さらに次のように考えるべきです。
「この中で、何が私なのでしょうか。何が私のものなのでしょうか。誰が諸仏の菩提を成就できるのでしょうか。それを体が得るのでしょうか。心が得るのでしょうか。もし体が得るのなら、この体は頑迷で、感覚もなく、知ることもなく、草木や石壁、鏡像のようなものです。ところがその菩提は色も形もなく、像でも相でもなく、見ることも知ることもできず、触れて悟ることもできません。どうして頑迷で、知覚もなく、見ることも識別もなく、分別もせず、動作もない体が、その菩提を得られるでしょうか。菩提とは、このように形や色もなく、相も像もなく、見ることも知ることもできず、触れて悟ることもできないものです。では、誰がその中で証得するというのでしょうか。
もし心が得るのなら、この心には色がなく、見ることができません。この心には相がなく、知ることもできません。この心は幻影のようなものです。しかし菩提もまた同じく、色がなくて見えず、相がなくて知ることもできず、煩悩を離れ、作られるものではなく、同じく幻影のようなものです。どうして証得できるでしょうか。どうして覚知して、身や心が菩提を得たと言えるでしょうか。」
「彼菩薩摩訶薩如是觀時,分明了了見是身相不得菩提、亦知是心不得菩提。何以故?諸法無有以色證色、心證心故。然彼於言說中知一切法,雖無色、無形,無相、無漏,無可覩見、無有證知、亦非無證。何以故?以一切諸如來身無有漏故。又,諸如來身無漏故,心亦無漏;又,諸如來心無漏故,色亦無漏。
「この菩薩摩訶薩がこのように観じるとき、この身体の相によっては菩提を得られないことをはっきりと見極め、また、この心によっても菩提を得られないことを知ります。なぜなら、諸法は色によって色を証することも、心によって心を証することもできないからです。しかし、彼は言葉による表現の中において、あらゆる法が色もなく形もなく、相もなく、煩悩の汚れもなく、見ることもできず、はっきりと悟ることもできないものでありながら、しかし何も証しないというわけではないと知ります。なぜなら、あらゆる如来の身体には煩悩の汚れがないからです。また、如来の身体に煩悩の汚れがないから、心にも煩悩の汚れがありません。さらに、如来の心に煩悩の汚れがないから、色にも煩悩の汚れがないのです。」
賢護菩薩所問經卷第二
賢護菩薩所問経 巻第二