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title: "大法炬陀羅尼經 · 29 三昧因緣品"
description: "大法炬陀羅尼經由隋代闍那崛多翻譯，屬大乘佛教密教部經典。該經闡述陀羅尼法門，強調咒語的修行力量與功德，涵攝教義講解、修行法門及功德利益。歷史背景上，隋代是佛教經典翻譯的重要時期，闍那崛多作為譯經僧，貢獻卓著。此經在佛教中地位崇高，被視為密教基礎經典之一，對後世密宗發展影響深遠，有助於信徒積聚福德與智慧。"
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### 大法炬陀羅尼經三昧因緣品第二十九

> 第29章 三昧因縁品

佛告阿難：「時天帝釋白彼放光如來言：『世尊！何因何緣，先此億數諸菩薩等請問法門，如來不即為其解釋。因此詣於祭火王園，如來世尊任其所趣，而亦獲斯大利益也？』爾時放光如來告天帝言：『憍尸迦！汝問何因緣故，彼諸菩薩請問法已，如來不即為解說者。汝等諦聽。以彼菩薩法有所願，乃於如是無礙行處生不信心。以是因緣，我先令彼諸菩薩等詣王園林，入大禪定自思法門。何以故？憍尸迦！彼諸菩薩已於過去經十四億諸如來應供正遍覺所修行供養。彼所作事，諸菩薩等以三昧力明了見知。既念知已，觀諸世間，惟有如是生老死墮移處轉生。彼諸菩薩於十四億諸如來所請行法時亦有壞信，諸菩薩等以好為惡起願行故，今處地獄仍受重殃。諸菩薩等覩斯事故，心生大恐。既恐怖已，於有為法發厭離心，咸作是言：「嗚呼！世間大苦。我從昔來耽樂懈怠，不信如來、謗毀法僧，多興惡業無事不為。以是惡故，將恐同彼往昔菩薩於十四億諸如來所生不信心惡行菩薩墮地獄中。願勿令我受如是法，亦勿令我墮不信地。」彼諸菩薩發是願已，於如來所正信不壞發歡喜心，發是心已即得住於不退地忍。』時天帝釋復白彼佛言：『世尊！斯諸菩薩從何處所能生是智，知見往昔十四億數諸如來所修行事也？』佛告天帝釋：『是大智聚，還是如來之所顯示。云何顯示？於彼如來應供正遍覺入於師子奮迅定時，佛神力故，令諸眾生咸得寂定發生知見，皆覩過去所經諸事。彼等由是三昧力故，即得破除無明㲉藏。如師子王大鳴吼時，悉能驚怖一切禽獸，無問強弱、若行若住，聞彼吼聲各藏巖穴。譬如雲霧遍滿虛空，大風一起須臾磨滅。爾時空中所有諸星乃至微小一切皆現，月輪明朗威光普照。如是憍尸迦，如來入此師子三昧，為諸眾生一切無知無明藏聚，自外諸餘所有煩惱，莫不咸作破滅因緣。昔來所造一切善根，自然清淨無復煩惱，咸皆緣此三昧故。』爾時天帝釋復白彼佛言：『世尊！我等樂聞彼諸菩薩林下所入三昧名字，惟願解說，我當受持。』爾時佛告天帝釋言：『憍尸迦！汝今諦聽，善思念之，我為汝說諸菩薩等三昧名字力無畏等。憍尸迦！諸菩薩等彼時所得三昧，有三種決定斷疑。何等為三？所謂入世間巧方便三昧，即初住大乘菩薩三昧初憶念時、後成就時、轉寬大時。』天帝釋復言：『世尊！云何名為入世間巧方便三昧？』佛告天帝釋言：『憍尸迦！有菩薩摩訶薩入一三昧，名曰淳至。以彼三昧力故，如是三種方便業藏可得證知。是中入世間巧方便三昧已，然後復入三教業藏，見一切法同於虛空。言世間者，所謂世間眾生所行作處、往來處輪轉處、著我行處、著我所行處、著眾生行處、著有無行處。昔來所作，或裸露形體、或熱時重覆，或觀天變或察地動、或占日月或視星辰、或相人形貌、或往還良日，諸如是等妄說吉凶，或習世間禮儀書數算曆一切伎藝，或行呪術祕方工巧種種事業，或商賈往來為他使命，或共他語議好為諍論，或所不應說輒即出言，或棄正思惟起諸惡覺，如是等事名世間也。其有菩薩初住乘者，隨順世間所行事業，一心專念相續不斷，亦如絲縷無有絕時。以不斷故沈溺我想，於我想中專心執持，分別如是世間諸事。既分別已，即於菩薩荷負事中深生恐怖。以恐怖故，諸佛世尊即便放捨不為說法。憍尸迦！如來云何不為其說？以諸凡夫種種受身，彼等受時為愛所縛，世間之事無所不為，放逸亂心造諸逆罪。以造逆故惡業具足，是故如來不為其說。憍尸迦！以是因緣，諸佛如來應供正遍覺不記是人當來作佛。憍尸迦！彼愚癡人無知無解，殺父害母及餘重障，佛法僧所憍慢放逸，耽著我想癡如小兒。彼作是已，佛不為說。憍尸迦！汝今當知，非佛世尊於眾生所有祕悋心而不為說。復次憍尸迦！如是三昧，於三言教阿字為初，然後方顯四十二句。阿字初句五五為分，其四十一句一切名字展轉相呼，當如是知。憍尸迦，譬如羊毛入諸染色，隨所入處得種種名，或青或白、或赤或黃、或紅或紫、或同頗梨，如是諸色隨本受名。如是憍尸迦！是中阿字於一切語言最為初首，餘四十二字隨助音句，和合莊嚴攝持比類轉生諸字，與諸語言辭辯相應，勢力清淨眷屬相著，彼等皆攝阿字門中。憍尸迦！是為世間語言成就法，亦能巧成世間三昧。雖曰三昧猶是退法，以退法故但損減心，心損減故不能牢固成就諸根，根不成故不能勇猛發勤精進，以精進根不成就故則不能荷菩薩重擔而亦不能說法教化。得三昧時，設能成彼世間諸事，然出離者不須常修。復次憍尸迦！更有三昧名通達法界，唯不退轉菩薩摩訶薩於三世中皆能成就。云何名為通達法界？如是菩薩因此三昧，得念智力名曰斷染，知此大地最極下際住於水上，普皆柔軟破壞分裂有空缺故，更以餘種山石相依和合成地，如是中間無空缺處。以得清淨熏修知見力無畏等故，於地界中無有障礙，皆悉能作種種神通，一彈指頃能於大地出沒往來。憍尸迦！譬如城邑聚落之外有大水池，於春夏日多諸女人入是池中遊戲澡浴，彼於水中或出或沒或往或來自在無礙。如是憍尸迦！菩薩得此通達法界勝三昧時，以神通力於大地中出沒自在亦復如是。然彼心初不取地相，惟念風輪而亦無有風輪相想。彼菩薩變化自身亦復如是無有著處，而見其身住在空中。如是觀已，即於其間飛騰虛空，然後化作微塵之身遍滿虛空，人眼不見。彼風輪界持心亦遍，轉更增闊一切如風，身雖不現然是化身，滿彼空中作虛空想。雖於此身作虛空想，而終不離諸界覺知。如是知已住於虛空，住虛空已念無法想，亦無為他現身相想，是故復能以彼多身合為一身，又能徹過山石牆壁無有障礙，亦能履空如地，於虛空中行住坐臥，具足如是種種神通。菩薩復念所有水界，知彼水界本所住處。因彼水界，復如是知此身亦爾，如彼水界有如是色。住是中已復念水界，住是中故便能更念大雲輪界。知彼雲輪所從來處唯因緣生，雨從何來亦復如是。觀彼行處皆分別知，是中有雲無雲、有雨無雨皆如是知，但從因緣生世諦事。作如是入住是中已，因放大雨彼二和合，潤洽大地所有卉木樹林眾物。如是一切皆依大地，以水潤澤彼彼生長。有智之人取彼草木，及加功力火遂得生。彼火生已，然其自體所生之處，是中火業還自燒彼本生草木，況復餘物。是故阿字得名為火亦名為怨。而彼復以地在水上，故言地界。是地所有叢林樹木，以水潤之故得增長，然後出火，彼火因風轉更增盛。而彼菩薩復作是念：「斯皆作法。所謂因地出火而住虛空，是火及風二共和合，故知此等但有生滅。」見生滅已得二神通。而彼風輪即第四大，非色法故，眼不能見；彼惟觸故，是身所知。耳不能聞，餘無所覺，不可執持。上行於空下迫於地，飛沙走石散土揚塵，世間愚癡憶想分別，言黃黑風此來彼去。而實彼風不可覩見。何以故？彼風從空因緣而生，無住處故。憍尸迦！如是次第風界不可見，依彼虛空無有邊際，故謂之大。是中菩薩依於虛空，取彼風相觀見自身無有身分，知身無分即是實智。得彼智已入於風界，處風界時除去一切皮肉筋骨，解脫眾縛無有住處如空中風，隨所欲作神通變化如意即成。於彼風中無覺知想。何以故？心風和合久熏修故。復作是念：「此虛空中都無所有無可依處，云何執著？」如是念時，隨欲生處即得往生。彼能如是攝持具足，於中不著亦不被縛，雖生惡趣正念現前，若生若死如是等處，以心風故分別生死，而於生死亦不覺知。如彼風界，不可攝持、不可執捉、不可眼見、不可心知、不可智證、不可言說，四大事業皆悉如是，以無邊心如是覺知。云何無邊？謂佛如來於真實中不說諸界，彼諸法中具足而有希有之法，然無說者。

> 仏が阿難に告げられた。「その時、天帝釈がかの放光如来に申し上げたのです。『世尊よ、どのような因縁によって、先にこの億もの菩薩たちが問うた法門を、如来はすぐには解説されなかったのでしょうか。そして、祭火王の園にお出ましになられ、如来世尊が彼らの趣くままに任せられたことによって、彼らはこの大きな利益を得たのでしょうか？』」 その時、放光如来は天帝釈に告げられた。「憍尸迦よ、あなたは『どのような因縁によって、あの菩薩たちが法を問うた後、如来がすぐに解説しなかったのか』と問うた。あなたがたはよく聞きなさい。あの菩薩たちは、法に願いを持つところがあり、このような無礙の行処に対して信心を起こさなかったのです。その因縁によって、私はまずあの菩薩たちを王の園林に行かせ、大いなる禅定に入って、自ら法門を思惟させたのです。なぜか。憍尸迦よ、あの菩薩たちは、すでに過去に十四億の如来・応供・正遍覚のもとで修行し、供養してきました。彼らが行ったこと、菩薩たちは三昧の力によって明らかに見て知ったのです。それを念じ知った後、諸々の世間を観察すると、ただこのように生・老・死・堕ちること・移ること・転生することがあるのみであると知りました。あの菩薩たちは十四億の如来のもとで法を求めて行った時にも、信仰を壊すことがありました。菩薩たちは善を悪として願い行を起こしたがゆえに、今、地獄に落ちてなお重い災いを受けているのです。菩薩たちはこの事を見て、心に大きな恐れを生じました。恐れをなした後、有為の法に対して厭離の心を起こし、皆こう言いました。『ああ、世間は大きな苦しみである。私は昔から、安逸を楽しみ怠け、如来を信ぜず、法と僧を誹謗し、多くの悪業を起こし、為さざることはなかった。この悪によって、かの過去の菩薩たちが十四億の如来のもとで不信心の悪行を起こしたために地獄に堕ちたのと同じようになるのではないかと恐れる。願わくは、私にこのような法を受けさせず、また私を不信心の境地に堕とさないでほしい。』あの菩薩たちはこの願いを発した後、如来のもとで正しい信仰を壊さず、歓喜の心を起こしました。この心を発した後、ただちに不退転の地の忍びに住したのです。」 その時、天帝釈は再びかの仏に申し上げた。「世尊よ、これらの菩薩たちはどこからその智慧を生じ、過去の十四億もの如来のもとでの修行の事を知ることができたのでしょうか？」 仏は天帝釈に告げられた。「これは大いなる智慧の集まりであり、やはり如来が示したところによるのです。どのように示したのか。かの如来・応供・正遍覚が獅子奮迅定に入られた時、仏の神力によって、すべての衆生が皆寂定を得て知見を生じ、皆、過去に経た諸々の事を見たのです。彼らはこの三昧の力によって、無明の殻の蔵を破ることができたのです。ちょうど獅子王が大きく吼えた時、すべての禽獣が、強い弱いや歩く止まるを問わず、その吼え声を聞いてそれぞれ岩穴に隠れることができるように。例えば、雲霧が虚空に満ちているところに、大風が一たび起こると、たちまちに消え去るようなものです。その時、虚空の中にあるすべての星々は微細なものに至るまですべて現れ、月輪は明らかに朗らかに、その威光は普く照らします。このように、憍尸迦よ、如来がこの獅子三昧に入り、すべての衆生の一切の無知・無明の蔵の集まりに対して、外部の他のすべての煩悩は、ことごとくこれを破滅させる因縁を作らないものはありませんでした。昔から造ってきた一切の善根は、自然に清浄となり、再び煩悩はなく、すべてこの三昧によるのです。」 その時、天帝釈は再びかの仏に申し上げた。「世尊よ、私たちはあの菩薩たちが林下で入った三昧の名前を聞くことを望みます。どうか解説してください。私はそれを受持しましょう。」 その時、仏は天帝釈に告げられた。「憍尸迦よ、あなたは今、よく聞き、よく思惟しなさい。私はあなたのために、諸菩薩たちの三昧の名前や力・無畏などを説きましょう。憍尸迦よ、あの菩薩たちがその時に得た三昧には、三種の決定して疑いを断つものがあります。どのような三種か。すなわち、入世間巧方便三昧、これは初めて大乗に住する菩薩の三昧であり、最初に憶念する時、後に成就する時、さらに広大になる時です。」 天帝釈が再び言った。「世尊よ、どのようなものを入世間巧方便三昧と言うのですか？」 仏は天帝釈に告げられた。「憍尸迦よ、菩薩摩訶薩の中に、一つの三昧に入るものがあり、その名を淳至と言います。その三昧の力によって、このような三種の方便の業の蔵を証し知ることができるのです。この中で、入世間巧方便三昧に入った後、再び三つの教えの業の蔵に入り、一切の法は虚空と同じであると見ます。『世間』と言うのは、いわゆる世間の衆生が行い、作し、往来し、輪廻する処、我という行に執着する処、我がものという行に執着する処、衆生という行に執着する処、有無の行に執着する処を言います。昔から行ってきたことには、あるいは裸形であったり、あるいは暑い時に厚く重ね着したり、あるいは天の異変を見たり地の動きを察したり、あるいは日月を占ったり星辰を観察したり、あるいは人の容貌形相を見たり、あるいは往来の吉日を選んだり、このようなものは妄りに吉凶を説くものです。あるいは世間の礼儀・書物・数を習い、暦算・一切の技芸を学んだり、あるいは呪術や秘方・工巧などの種々の事業を行ったり、あるいは商人として往来し、他人の使いとなったり、あるいは他人と語らい議論して争論を好んだり、あるいは語るべきでないことを即座に口に出したり、あるいは正しい思惟を捨てて諸々の悪い覚えを起こしたり、このような事を世間と言います。その菩薩が初めて乗に住する者は、世間の行う事業に随順し、一心に専ら念じ相続して絶えず、また絲の糸の如く絶える時がありません。絶えないがゆえに我という想いに沈み、我という想いの中で専念して執持し、このような世間の諸々の事を分別します。分別した後、即ち菩薩の荷負すべき事の中に深く恐怖を生じます。恐怖するがゆえに、諸仏世尊は即ち放って置き、説法を施されません。憍尸迦よ、如来はなぜ説法を施されないのか。すべての凡夫は種々の身を受け、彼らが受ける時には愛に縛られ、世間のことを為さないことは無く、放逸に心を乱して諸々の逆罪を造ります。逆罪を造るがゆえに悪業が満ち足りるので、如来はそのために説法しないのです。憍尸迦よ、この因縁によって、諸仏如来・応供・正遍覚は、この人が未来に仏となるであろうと記別されないのです。憍尸迦よ、あの愚かな人は無知無解であり、父を殺し母を害し、その他の重い障りがあり、仏・法・僧に対して驕慢放逸であり、我という想いに耽り、愚かで小児のようです。彼がそれを為した後は、仏は説法されないのです。憍尸迦よ、あなたは今知るべきです。仏世尊が衆生に対して秘吝の心を持って説法しないのではありません。また、憍尸迦よ、この三昧は、三つの言教において阿字を初めとし、その後で四十二句が顕われるのです。阿字の初句は五五に分けられ、その四十一句は、一切の名前が転々と相呼応するものであり、このように知るべきです。憍尸迦よ、例えば羊毛が諸々の染色に入ると、入ったところに従って種々の名前を得ます。あるいは青、あるいは白、あるいは赤、あるいは黄、あるいは紅、あるいは紫、あるいは頗梨に等しいように、これらの諸色は、元の名に従って名づけられます。このように、憍尸迦よ、この中で阿字は一切の言葉の最も初めの首であり、残りの四十二字は、音句を助け、和合して荘厳し、摂持し、比類し、転じて諸字を生じ、諸々の言葉や辞弁と相応し、勢力が清浄で眷属が相著し、これらは皆、阿字の門の中に摂められます。憍尸迦よ、これが世間の言葉の成就法であり、また巧みに世間の三昧を成就することができます。三昧とは言うものの、なお退く法です。退く法であるがゆえに、ただ心を損減するのみです。心が損減するがゆえに、諸根を牢固に成就することができず、根が成就しないがゆえに、勇猛に発勤精進することができません。精進の根が成就しないがゆえに、菩薩の重い荷を担うことができず、また説法教化することもできません。三昧を得た時、仮に世間の諸々の事を成就することができたとしても、出離する者は常に修することを必要としません。また、憍尸迦よ、さらに通達法界という三昧があります。ただ不退転の菩薩摩訶薩のみが三世において皆これを成就することができます。どのようなものを通達法界と言うのか。このように菩薩はこの三昧によって、念智力を得て、名づけて断染と言います。この大地の最も極まりの下際は水の上に住み、すべて柔らかく、破壊分裂して空隙があることを知り、さらに他の種類の山石が相依って和合し、地を成すので、この中間には空隙の処がありません。清浄の熏修を得て、知見力無畏などを具えるがゆえに、地界の中において障礙が無く、皆よく種々の神通を作すことができ、一弾指の間に、大地の中を出没往来することができます。憍尸迦よ、例えば城邑聚落の外に大きな水池があり、春夏の日に多くの女たちがこの池に入って遊戯し、湯浴みします。彼女たちは水中で、あるいは出、あるいは没し、あるいは往き、あるいは来て、自在に障りがありません。このように、憍尸迦よ、菩薩がこの通達法界の勝れた三昧を得た時、神通力によって大地の中を出没自在であることもまた同じです。しかし、その心は最初から地の相を取らず、ただ風輪を念じるも、また風輪の相の想いはありません。あの菩薩が自身を変化させることもまた、このように執着する処は無く、しかもその身は虚空の中に住んでいるのを見ます。このように観じて、即ちその間に虚空に飛騰し、その後で微塵の身を化作して虚空に遍く満たし、人の眼には見えません。かの風輪界は心を支えることも、また遍く、さらに増大し広くなり、一切が風の如くであり、身は現れないものの、しかしこれは化身であり、あの虚空に満ちて虚空の想いを作します。この身に対して虚空の想いを作すと言えども、ついに諸界の覚知を離れることはありません。このように知って虚空に住し、虚空に住して、法の想い無しと念じ、また他人のために身相の想いを現すこともありません。それゆえに、またかの多くの身を合わせて一つの身とすることができ、また山石や牆壁を通り抜けて障礙が無く、また虚空を地の如く歩み、虚空の中において行住坐臥し、このような種々の神通を具足することができます。菩薩はまた、すべての水界を念じ、かの水界が本来住する所を知ります。かの水界によって、またこのようにこの身もまた同じであると知り、かの水界のようなこのような色があると知ります。この中に住して再び水界を念じ、この中に住するがゆえに、さらに大雲輪界を念じることができます。かの雲輪の来る所を因縁によって生じたものに過ぎないと知り、雨がどこから来るのかもまた同じであると知ります。かの行処を観じて皆分別して知り、この中に雲がある無い、雨がある無いを皆このように知り、ただ因縁から生じる世諦の事であるとします。このようにしてこの中に住し、因んで大雨を降らせ、かの二つが和合し、大地を潤し洽くし、すべての草木や樹林や多くの物を潤します。これらの一切は皆、大地に依り、水で潤されてそれらが生長します。智慧ある人はそれらの草木を取り、さらに功力を加えて火を得て生じさせます。その火が生じた後、その自体の生じた所において、この中の火の業は、なお自らかの本来の草木を焼き、ましてや他の物はなおさらです。それゆえ、阿字は火と名づけられ、また怨と名づけられます。そして、かの地は水の上にあるので、地界と言います。その地にあるすべての叢林樹木は、水で潤されるがゆえに増長し、その後で火を出し、その火は風によってさらに増大して盛んになります。そして、かの菩薩は再びこう考えます。『これはすべて作法である。すなわち地によって火を出し、虚空に住し、この火と風の二つが和合するので、これらはただ生滅があるのみであると知る。』生滅を見て、二つの神通を得ます。そして、かの風輪はすなわち第四の大であり、色法ではないがゆえに、眼では見ることができません。それはただ触であるがゆえに、身で知ることができます。耳では聞くことができず、他に覚えるところは無く、執持することができません。上は虚空を行き、下は地に迫り、砂や石を飛ばし、土を散らし、塵を揚げます。世間の愚か者は憶想分別して、黄黒の風がこれ来てあれ去ると言います。しかし、実際にはその風は見ることができません。なぜか。その風は空から因縁によって生じるものであり、住処がないからです。憍尸迦よ、このように次第に、風界は見ることができず、かの虚空に依って辺際が無いので、大と謂われます。この中で、菩薩は虚空に依り、かの風相を取り、自身に身分の無いことを観じて見ます。身に分が無いと知るは、即ち実智です。その智を得て風界に入り、風界の処に在する時、一切の皮・肉・筋・骨を取り去り、諸々の束縛を解脱し、虚空の中の風のように住処が無く、意のままに神通変化を作すこと、如意に即ち成就します。かの風の中において、覚知の想いはありません。なぜか。心と風が和合し、久しく熏修したからです。再びこう考えます。『この虚空中には、何ものも無く、依るべき処は無い。どうして執著することができようか。』このように念じる時、意のままに生じたい処に、即ち往生することができます。彼はこのように摂持して具足し、その中に執着せず、また縛られることもなく、悪趣に生じても正念は現前し、あるいは生じ、あるいは死ぬなどの処で、心と風によって生死を分別するが、生死においてもまた覚知しません。かの風界のように、摂持することができず、執捉することができず、眼で見ることができず、心で知ることができず、智で証することができず、言説することができません。四大の事業は皆このようであり、無辺の心によってこのように覚知します。どのように無辺であるか。諸仏如来は真実の中では諸界を説かず、それらの諸法の中には、希有の法が具足して存在するが、説く者は無いのです。」

「『復次憍尸迦！若諸菩薩有如是等勝神通者，名得神通心得自在。云何名為心自在也？彼心能得自在用故。復以何義心得自在？知此四大無識無心、是頑礙法，遍一切處無際無邊，然而彼心復能入是無心法中分別稱量。如彼地界頑礙無邊，是中能生種種草木枝葉華果，復有種種寶樹寶柱，復有種種眾生依住。即於彼中復有可見不可見者，所謂地界依水、水界依火、火依於風，如是一切皆悉稱量。是中地界者，所謂皮肉筋骨爪齒，乃至髮毛等。水界者，所謂淚汗膿血洟唾，乃至大小便利等。火界者，所謂暖熱溫煩，乃至自惱惱他、令食消熟等。風界者，所謂語言、出息入息，乃至屈伸往來等。如是一切彼皆分別，既分別已而復思惟：「今此四大無有邊量，世間眾生知見此身則有邊量。云何得言無量無邊，而復名為有量有邊也？」彼復思惟：「今此諸界無邊量者，以彼心界無有邊故，令是業行亦無有邊，乃至願智證作語言皆亦無邊。何以故？以彼本來無生無邊故。若彼未轉生死眾生，或時可作如是分別有邊量也。」彼復思惟：「如此諸大四種界聚無邊攝持，是故我今應當發彼無邊神通，亦應成就無邊神通，亦成就彼無邊智業，乃至成就所有種種無邊語言，而教化彼諸世界中一切眾生，所有心行作業生死有所取時，凡諸所受種種果報、種種語言悉皆應知。乃至於彼生死有中，作業法用、行事功能亦應悉知。復應現彼聲聞藏印，悉令成滿三十七種助菩提法。亦當於彼無佛之世現辟支佛利益世間，惟以如是力無畏等，現彼種種神通教化。」』

> 「また、カウシカよ。もし菩薩がこのような優れた神通力を得たならば、神通を得て心が自在であると名づけられる。では、『心が自在である』とはどういうことか。それはその心が自在に用いられるからである。また、どのような意味で心が自在であるというのか。この四大（地・水・火・風）は識も心もなく、頑なで障りとなる法であり、遍く一切のところにあり、際限なく果てしないことを知る。しかしながら、その心はさらに、この心なき法の中に入って、分別し計り知ることができる。例えば、地の界（地大）は頑なで障りとなり果てしないが、その中に種々の草木の枝葉や花や実を生じ、さらには種々の宝樹や宝柱、種々の衆生がより住むものがある。その中には、見えるものも見えないものもある。すなわち、地の界は水に依り、水の界は火に依り、火は風に依る。このように、すべてのものをそれぞれに計り知るのである。この中で、地の界とは、すなわち皮や肉、骨、筋、爪、歯、さらには毛髪などである。水の界とは、すなわち涙、汗、膿、血、鼻水、唾、さらには大小便などである。火の界とは、すなわち暖かさ、熱さ、温もり、煩わしさ、さらには自らを悩まし他を悩まし、食物を消化させることなどである。風の界とは、すなわち言語、息を吐き出し吸い入れること、さらには屈伸や往来などである。このように、それらすべてをそれぞれに分別する。分別した後、さらに思惟する。「今、この四大には際限がない。世間の衆生はこの身を見て、それには際限があると知る。どうして無量無辺と言い、また有量有辺と言えるのか」と。彼はさらに思惟する。「今、これらの諸々の界（四大）が無辺であるのは、その心の界（心大）に際限がないからである。それによって、この業行にも際限がなく、さらには願、智、証、作、語に至るまで、すべて際限がない。なぜなら、それらは本来、無生であり無辺だからである。もし、まだ生死を転じていない衆生がいるならば、時にこのようにして分別して際限があると言うこともできるだろう」と。彼はさらに思惟する。「このように、これらの四大の集まりは際限なく保持されている。それゆえ、私は今、その無辺の神通を発すべきであり、また無辺の神通を成就すべきであり、また無辺の智業を成就すべきであり、さらには、すべての種々の無辺の言語を成就して、それらの世界の中の一切の衆生を教化すべきである。すべての心の行い、業、生死において、何かを取ることがある時、およそ受ける種々の果報、種々の言語は、すべて知るべきである。さらには、その生死の有の中における業の法の用い方、行いの働きや機能についても、すべて知るべきである。また、そこに声聞の蔵の印を現し、三十七種の菩提を助ける法をことごとく成就させるべきである。また、仏のいない世に、辟支仏（独覚）を現して世間を利益し、ただこのような力や無畏などをもって、種々の神通の教化を現すべきである」と。」

「阿難！時彼放光如來復告天帝釋言：『憍尸迦！若當用是三昧，豈不得彼一切智也？』天帝釋言：『世尊！如是法中得心自在故。』佛言：『憍尸迦！汝先所問何等三昧能生智業者，憍尸迦！復有三昧名建立上昇。此諸菩薩摩訶薩等於彼林中入此三昧，入三昧已斯諸菩薩而出上故，故言昇上，亦是如來方便語言增長。如來方便語增長已，能於如來一切巧妙方便事中，無不持者、無不入者、無不覺者。彼既覺已，即於一切世間所有有為相續諸行法中起不樂想。憍尸迦！云何於彼起不樂想？是處無一眾生能無過者，皆以有過故後時受罰。』帝釋復言：『世尊！罰何事也？』佛告憍尸迦：『此義可知而不可說。何以故？我今不可為是眾生具說斯事，惟應為是諸眾生等略論斯耳。憍尸迦！如來世尊具略說法，惟於世界假名處行，非為第一真實義也。憍尸迦！汝於先世大樹善根而未顯發，猶如猛火在深坑中，厚土覆上亦難顯現。憍尸迦！於意云何？彼火雖盛，被土覆時，得為火業焚燒用不？』『不也。世尊！彼火既覆，無所能為。』佛言：『憍尸迦！汝應思惟如來所說三種言教業藏法門具足分別。憍尸迦！汝當思念如來世尊師子奮迅三昧。憍尸迦！汝今應念寶火如來應供正遍覺出濁惡世，汝於爾時已種善根，方便果報於彼眾中得為第六菩薩摩訶薩。』阿難！爾時彼天帝釋從佛得聞往昔之事，即能憶念過去九億諸如來所發菩提心行菩薩事。憶念是已，生大歡喜，由諸如來熏修力故，勤行不息、法義不斷，故令問佛而得加持。阿難！時天帝釋即從坐起，偏袒右髆右膝著地，合掌向佛而說偈言：

> 「阿難よ、その時、放光如来が再び天帝釈に告げて言われた。『憍尸迦よ、もしこの三昧を用いるならば、一切智を得られないことがあろうか？』と。天帝釈が答えた。『世尊よ、そのような法において心の自在を得るからです。』と。仏が言われた。『憍尸迦よ、あなたが先に問うた「どのような三昧が智慧の働きを生み出すのか」ということについてだが、憍尸迦よ、さらに「建立上昇」という三昧がある。これらの菩薩たちはその林の中でこの三昧に入り、三昧に入った後、これらの菩薩たちは上に出る。それゆえに「昇上」と言うのであり、これも如来の巧みな言葉による増長である。如来の巧みな言葉による増長を得ると、如来のすべての巧みな方便の事柄において、持たないものはなく、入らないものはなく、覚らないものはない。彼らがそれを覚れば、一切の世間にある、原因と条件によって続く諸々の行（現象）の法に対して、楽しくないという思いを起こす。憍尸迦よ、どうしてそれに対して楽しくないという思いを起こすのか。この場所には、過ちのない衆生は一人もいない。皆、過ちがあるために、後に罰を受けるからである。』と。 帝釈が再び言った。『世尊よ、それはどのような罰なのでしょうか？』と。仏が憍尸迦に告げられた。『この意味は、知ることはできても、言葉で説明することはできない。なぜなら、私は今、この衆生たちにこのことを詳細に説くことができないからである。ただ、これらの衆生たちのために、簡潔に論じるべきである。憍尸迦よ、如来は簡潔に法を説かれる。ただ世界の仮の名称の上での行いに過ぎず、第一の真実の意味ではない。憍尸迦よ、あなたは過去世において大きな善根を培ったが、それはまだ顕れていない。ちょうど深い穴の中の猛火が、厚い土に覆われて、なかなか現れないようなものである。憍尸迦よ、どう思うか。その火は盛んであるが、土に覆われた時、火の働きとして物を燃やすことができるだろうか？』『いいえ、世尊よ。その火は覆われているので、何もできません。』と。仏が言われた。『憍尸迦よ、あなたは如来の説かれた三種の「言教業蔵」の法門を、詳しく分別して考えるべきである。憍尸迦よ、あなたは如来世尊の「師子奮迅三昧」を思念すべきである。憍尸迦よ、あなたは今、宝火如来・応供・正遍覚が濁悪の世に出現されたことを憶念すべきである。その時、あなたはすでに善根を培い、その方便の果報によって、その仲間の中で第六の菩薩となったのである。』と。 阿難よ、その時、天帝釈は仏から過去の事を聞いて、すぐに過去九億の如来のもとで菩提心を発し、菩薩の行いを修行したことを思い出した。それを思い出して、大いなる喜びを生じた。諸々の如来の薫習と修行の力によって、精進して休まず、法の意味が絶えなかったので、仏に問うことを得て、加持を受けたのである。阿難よ、その時、天帝釈は座を立ち、右肩を露わにし、右膝を地につけ、合掌して仏に向かい、偈を唱えて言った。

「『誰知佛教音， 入此總持門？誰能分別問， 巧方便無礙？知時而為說， 非時聖不言，善達時宜趣， 如來開法眼。』

> 「誰か、仏の教えの声を知り、この総持の門に入るのか。 誰か、巧みに分別して問い、巧みな方便に妨げがないのか。 時機を知って説き、時機に適わねば聖者は語らず、 時宜にかなうことによく通じて、如来は法の眼を開かれる。」

「阿難！時彼帝釋憶念過去九億佛所諸願行事，了了分明，猶夢所覩晝曾更事，皆能憶知。此亦如是過去所有一切事業，分明了知無所疑惑。所謂彼時住處皆悉覺知，及彼色相今雖不現亦皆了知，乃至彼時思惟分別諸所作事亦皆了知不作邊界。彼時復作如是憶念夢從何生？彼即思惟，知從緣生。爾時天帝釋既知此夢從緣生已，即以如夢中想觀，觀彼世間，見過去世種種住事。如是知已，更以過去夢觀方便思惟稱量。稱量何事？謂我所覺、我所覺者。我及眾生處處流轉輪迴大苦，如是受已。復以現在方便，悉皆觀見過去世時有如是事，而於彼等諸如來所成就善根滿菩提道。彼所作事，所謂過去名等此亦可得。若可得者，而我彼身今在何處？又彼過去諸佛生身復在何處？亦於彼時有諸聲聞得漏盡者，身及神通功德勝事復在何處？若無如是名事處者，如來世尊何因論說？是故定知過去為有。彼復思惟：『我今自可以所思念，請問如來，決斷疑網。』

> 「アーナンダよ、その時、帝釈天は過去九億の仏のもとでの誓いの行いをすべてありありと覚えていた。まるで昼間に経験したことを夢で見るように、すべてを思い出すことができた。このように、過去のすべての行いも、はっきりと疑いなく知ることができる。すなわち、当時の居場所をすべて覚り、その色や形は今は現れなくともすべてを知り、さらに当時に考え分別した行いもすべて、境界を作らずに知るのである。そして彼はこう考えた。『この夢は何から生じたのか？』と。彼はよくよく考えて、縁から生じたのだと知った。その時、天帝釈はこの夢が縁から生じたと知ると、夢の中の想いのようにして世間を観察し、過去世の様々な出来事を見た。そうして知った後、さらに過去の夢の観察という方便を用いて、よく考え、はかり知った。何をはかり知ったのか？それは、『私が覚ったもの、私が覚ったこと』である。私と衆生は、あらゆる場所を流転し、大いなる苦しみを繰り返し受けている。そう体験した後、さらに現在の方便を用いて、過去世にこのような出来事があったことをすべて観察した。そして、それらの諸如来のもとで善根を成就し、菩提の道を満たした。彼らの行い、すなわち過去の名前なども、これによって得られる。もし得られるならば、私のその身は今どこにあるのか？また、過去の諸仏の生身はどこにあるのか？その時、煩悩を尽くした声聞たちの身や神通、功徳の勝れた行いはどこにあるのか？もし、このような名前や出来事の場所がないならば、如来世尊は何ゆえにそれを説かれたのか？それゆえ、過去は存在すると定めて知るべきである。彼はさらに考えた。『私は今、自分自身の思いを如来に問い、疑いの網を断ち切ろう。』」

「阿難！時彼如來知天帝釋心有疑念，即復告言：『汝憍尸迦！生是念者，可謂疑惑未盡除故。憍尸迦！汝向可不如彼夢想憶知此事耶？然彼夢事既不可得，惟見往昔曾所更事而言說耳。憍尸迦！汝若如夢而知，如佛如來說於往昔所經之事，定如是解，如是持者是為執著。云何執著？所謂念過去事。不可於過去事中而生執想。何以故？彼但是無，是故不可於彼無中而生愛著。汝今已於無法生分別者，憍尸迦！如是一切義於中思惟分別所起所說之處，所有依著皆不可得。應如是說，如彼過去事皆是無，今惟以智知彼曾有，而過去實無。然此三世其義已決。云何已決？所謂世者世也。是故汝等於是法中應知印相。云何印相？此義真實不可破壞。我為汝等如是種種開發顯示此有無義，汝亦不可以世辯問，是中惟應須作如是言教事也。今汝等為何事故在佛前坐？而汝等本為次第入我方便說中，云何於今更生疑網？憍尸迦！汝今猶於如來所說法處，決定施作穢濁事耶？憍尸迦！汝等莫於如來法中施造穢濁。何以故？諸佛如來應供正遍覺所說清淨無有穢濁。』

「阿難！彼天帝釋復白放光佛言：『世尊！我於此坐聞是方便微妙譬喻，生此疑心，如如來說。雖然，而我復疑，我等前在須彌山頂，於佛所說我思念時，有一經典名曰曠女，來現在心。以是因緣，我得承佛勝大威神，故於今者敢興斯問。如世尊說夢想譬喻，知此事已，除斷我等過去所有一切疑心。惟願世尊說是經典令我等聞。』佛言：『憍尸迦！汝所問事未可斷者，但此億數菩薩少有正問，事宜先決。然後得說此修多羅，斷汝所疑。又憍尸迦！爾今且還須彌山頂。既住彼已，我於彼處化一蓮花，名曰珠水天華，汝宜少時住彼根下。』時天帝釋如是念：『如來世尊放棄遣我，以我問此曠女經故。我於今日當承聖旨，義無違逆。』時天帝釋即從座起，至須彌山頂，住彼處已復作是念：『我今且住自宮，聽佛世尊垂慈念我，我當歸敬。』」

## 大法炬陀羅尼經卷第十二