龍樹菩薩為禪陀迦王說法要偈
龍樹菩薩が禅陀迦王に説いた法要の偈
宋罽賓三藏求那跋摩譯
禪陀迦王應當知, 生死苦惱多眾過,
悉為無明所覆障, 吾欲為彼興利益。
譬如刻畫造佛像, 智者見之宜恭敬,
我依如來說正法, 大王亦應深信受。
汝雖先聞牟尼言, 今若聽受轉分別,
猶如華池色清淨, 月光垂照踰暉顯。
佛說六念當修習, 所謂三寶施戒天,
修行十善淨三業, 離酒放逸及邪命。
觀身命財速危朽, 應施福田濟窮乏,
施為堅牢無與等, 最為第一親近者。
勤修淨戒除瑕穢, 亦莫悕求願諸有,
譬如大地殖眾物, 戒亦如是生諸善。
修忍柔和捨瞋恚, 佛說是行最無上,
如是精進及禪智, 具此六行超生死。
若能在家孝父母, 此即名為勝福田,
現世流布大名稱, 未來福報轉無量。
殺盜婬欺耽荒酒, 雕床高廣及香熏,
謳歌倡伎過時食, 如斯眾惡宜遠離,
若少時間修此戒, 必受天樂昇涅槃。
慳嫉貪欲及諂偽, 誑惑顛倒與懈怠,
如此眾惡不善法, 大王當觀速棄捨。
端正尊豪及五欲, 當知危朽若泡沫,
莫恃若斯不堅法, 憍逸自恣生諸苦,
欲長諸善證甘露, 應當遠離如棄毒。
有能精勤捨瞋慢, 譬如除雲顯秋月,
猶如指鬘與難陀, 亦如差摩賢聖等。
如來說有三種語, 入意真實虛妄言,
入意如花實如蜜, 虛妄鄙惡若糞穢,
應當修習前二言, 速宜除斷虛妄者。
從明入明四種法, 王當分別諦思惟,
二種入明是應修, 若就癡冥當速捨。
菴婆羅果四種變, 人難分別亦如是,
當以智慧深觀察, 若實賢善宜親近。
雖見女人極端嚴, 當作己母姊女想,
設起貪欲染愛心, 應當正修不淨觀。
是心躁動宜禁制, 如防身命及珍寶,
欲心若起應驚怖, 猶畏刀劍惡獸等。
欲為無利如怨毒, 如此之言牟尼說,
生死輪迴過獄縛, 應當勤修求解脫。
六入躁動馳諸境, 應當攝持莫放逸,
若能如是攝諸根, 勝於勇將摧強敵。
是身不淨九孔流, 無有窮已若河海,
薄皮覆蔽似清淨, 猶假瓔珞自莊嚴,
諸有智人乃分別, 知其虛誑便棄捨。
譬如疥者近猛焰, 初雖暫悅後增苦,
貪欲之想亦復然, 始雖樂著終多患。
見身實相皆不淨, 即是觀於空無我,
若能修習斯觀者, 於利益中最無上。
雖有色族及多聞, 若無戒智猶禽獸,
雖處醜賤少聞見, 能修戒智名勝士,
利衰八法莫能免, 若有除斷真無匹。
諸有沙門婆羅門, 父母妻子及眷屬,
莫為彼意受其言, 廣造不善非法行,
設為此等起諸過, 未來大苦唯身受。
夫造眾惡不即報, 非如刀劍交傷割,
臨終罪相始俱現, 後入地獄嬰諸苦。
信戒施聞慧慚愧, 如是七法名聖財,
真實無比牟尼說, 超越世間眾珍寶,
大王若集此勝財, 不久亦證道場果。
博弈飲酣好琴瑟, 懈怠憍逸及惡友,
非時輕躁多動亂, 如斯七法當遠離。
知足第一勝諸財, 如此之言世尊說,
知足雖貧可名富, 有財多欲是名貧,
若豐財業增諸苦, 如龍多首益酸毒。
當觀美味如毒藥, 以智慧水灑令淨,
為存此身雖應食, 勿貪色味長憍慢,
於諸欲染當生厭, 勤求無上涅槃道。
調和此身令安隱, 然後宜應修齋戒,
一夜分別有五時, 於二時中當眠息,
初中後夜觀生死, 宜勤求度勿空過。
四無量定當修習, 是名開於梵天道,
若專繫念四禪心, 命終必生彼天處。
有為遷動皆無常, 苦空敗壞不堅固,
無我無樂不清淨, 如是悉名對治法。
若有深觀此法門, 未來常處尊豪位,
修行五戒斷五邪, 是亦大王所應念。
譬如少鹽置恒河, 不能令水有醎味,
微細之惡遇眾善, 消滅散壞亦如是。
五邪若增劫功德, 王當除滅令莫長,
信等五根眾善源, 是宜修習令增盛,
生等八苦常熾燃, 當持慧水灑令滅。
欲求天樂及涅槃, 應勤修習正知見,
雖有利智入邪道, 微妙功德永無餘。
四種顛倒害諸善, 是故當觀莫令生,
謂色非我我非色, 我中無色色無我,
於色生此四種心, 自餘諸陰皆如是,
是二十心名顛倒, 若能除斷為最上。
法不自起冥初生, 非自在作及時有,
皆從無明愛業起, 若無因緣便斷壞。
大王既知此等因, 當燃慧燈破癡闇,
身見戒取及疑結, 此三能障無漏道。
王若毀壞令散滅, 聖解脫法當現顯,
譬如盲人問水相, 百千萬劫莫能了,
欲求涅槃亦如是, 唯自精勤後方證。
欲假眷屬及知識, 而得之者甚難有,
是故大王當精進, 然後乃可證寂滅。
施戒多聞及禪定, 因是漸近四真諦,
人主故應修慧明, 行斯三法求解脫,
若能修此最上乘, 則攝諸餘一切善。
大王當觀身念法, 世尊說為清淨道,
若無此念增惡覺, 是故宜應勤修習。
人命短促不久留, 如水上泡起尋滅,
出息入息眠睡間, 念念恒謝常衰滅,
不久便當見磨滅, 皮肉臭爛甚可惡,
青瘀脹壞膿血流, 虫蛆唼食至枯竭,
髮毛爪齒各分散, 風吹日曝漸乾盡。
當知此身不堅牢, 無量眾苦所積聚,
是故賢聖諸智人, 皆觀斯過咸棄捨。
須彌巨海及江河, 七日並照皆融竭,
如此堅固尚摧毀, 況復若斯危脆身。
無常既至無救護, 不可恃怙及追求,
是故大王常諦觀, 速生厭離求勝法。
人身難得法難聞, 猶如盲龜遇浮孔,
既獲若斯希有身, 宜應勤心聽正法;
得此妙身造諸惡, 譬如寶器盛眾毒。
生處中國遇善友, 專念發心起正願,
久殖功德具諸根, 王今滿足此眾善。
若復親近見知人, 佛說此為淨梵行,
是故應當樂隨順, 諸佛由此證涅槃。
既遇微妙清淨法, 應當志求離欲道,
生死嶮難苦無量, 窮劫宣說莫能盡,
我今為王略分別, 應當諦聽善思惟。
三界轉變無輪際, 父母妻子更相因,
怨親憎愛無常處, 如旋火輪豈窮已。
無始生死世界來, 計飲母乳多大海,
若不精勤證空智, 將來復飲無窮限。
周流五道經人天, 若積身骨高須彌,
愛別哀悲計其淚, 亦非江河所能匹,
若計一人父母者, 過於世間草木數。
雖受五欲天上樂, 終還墜沒惡趣苦,
諸天壽命極長遠, 其間娛樂難宣說,
歌謳倡舞流妙聲, 哀音和雅甚清遠,
奇姿妙色極端嚴, 圍遶侍衛相娛樂,
百味盛饌皆具足, 隨意所翫自然至,
寶池香淨水恒滿, 周匝羅覆諸妙花,
眾鳥異色集其上, 哀聲相和出遠音,
諸天遊戲浴其內, 如是歡娛不可說。
福盡臨終五衰現, 爾時生苦踰前樂,
是故雖有天女娛, 智者見之已生厭。
雖居珍寶上樓觀, 亦必退墮臭穢處,
雖遊天上難陀園, 會亦還入刀劍林,
雖浴諸天曼陀池, 終必墜於灰河獄,
雖復位處轉輪帝, 歸為僮僕被驅使,
雖受梵天離欲娛, 還墜無間熾然苦,
雖居天宮具光明, 後入地獄黑闇中。
所謂黑繩活地獄, 燒割剝刺及無間,
是八地獄常熾燃, 皆是眾生惡業報。
或受大苦如押油, 或碎身體若塵粉,
或解支節令分散, 或復㓟剝及燒煮,
或以沸銅澍其口, 或以鐵押裂其形,
鐵狗競來爭食噉, 鐵烏復集共齟掣,
眾類毒虫並䶩齧, 或燒銅柱貫其身,
大火猛盛俱洞燃, 罪業緣故無逃避,
鑊湯騰沸至高涌, 顛倒罪人投其內。
人命危朽甚迅駛, 譬如諸天喘息頃,
若人於此短命中, 聞上諸苦不驚畏,
當知此心甚堅固, 猶如金剛難摧壞。
若見圖畫聞他言, 或隨經書自憶念,
如是知時已難忍, 況復己身自經歷。
無間無救大地獄, 此中諸苦難窮盡,
若復有人一日中, 以三百鉾攛其體,
比阿毘獄一念苦, 百千萬分不及一,
受此大苦經一劫, 罪業緣盡後方免。
如是苦惱從誰生, 皆由三業不善起,
大王今雖無斯患, 若不修因緣墜落。
於畜生中苦無量, 或有繫縛及鞭撻,
無有信戒多聞故, 恒懷惡心相食噉,
或為明珠羽角牙, 骨毛皮肉致殘害,
為人乘駕不自在, 恒受瓦石刀杖苦。
餓鬼道中苦亦然, 諸所須欲不隨意,
飢渴所逼困寒熱, 疲乏等苦甚無量。
腹大若山咽如針, 屎尿膿血不可說,
裸形被髮甚醜惡, 如多羅樹被燒剪,
其口夜則大火燃, 諸虫爭赴共唼食,
屎尿糞穢諸不淨, 百千萬劫莫能得,
設復推求得少分, 更相劫奪尋散失。
清涼秋月患焰熱, 溫和春日轉寒苦,
若趣園林眾果盡, 設至清流變枯竭,
罪業緣故壽長遠, 經有一萬五千歲,
受眾楚毒無空缺, 皆是餓鬼之果報,
正覺說斯苦惱因, 名曰慳貪嫉妬業。
若天福盡有餘善, 因此得為人中王,
後設懈怠福都盡, 必墜三惡無有疑。
或生修羅起貢高, 恚嫉貪害增諸惱,
諸天雖有善根行, 以其慳嫉失利樂,
是故當知嫉妬結, 為深惡法宜棄捨。
大王汝今已具知, 生死過患多眾苦,
應當勤修出世善, 如渴思飲救頭燃,
若加精進斷諸有, 於諸善中最無上。
當勤持戒習禪智, 調伏其心求涅槃,
涅槃微妙絕諸相, 無生老死及衰惱,
亦無山河與日月, 是故應當速證知。
若欲證於無師智, 應當專修七覺法,
若有乘斯覺分船, 生死大海易超渡。
佛所不說十四法, 但生信心莫疑惑,
唯當正心勤精進, 決定修習諸善法。
無明緣行識名色, 六入觸受愛取有,
有則緣生生緣死, 若盡生死因緣滅,
如是正觀十二緣, 是人則見聖師子。
若欲次第見四諦, 當勤修習八正道,
雖居尊榮處五欲, 亦得聖道斷諸結,
此果不可求餘人, 必自心會乃得證。
我說眾苦及涅槃, 欲為潤益大王故,
不應生於怖畏心, 但勤誦習行諸善,
心為諸法之根本, 若先調伏事斯辦。
我說法要略分別, 王不宜應生足心,
若有大智更敷演, 亦當至心勤聽受。
王今名為大法器, 若廣聞法必多益,
若見有修三業善, 應深助生隨喜心,
自所行善及隨喜, 如是功德悉迴向。
王當仰學諸賢聖, 如觀音等度眾生,
未來必當成正覺, 國無生老三毒害。
大王若修上諸善, 則美名稱廣流布,
然後以此教化人, 普令一切成正覺。
煩惱駛河㵱眾生, 為深怖畏熾然苦,
欲滅如是諸塵勞, 應修真實解脫諦,
離諸世間假名法, 則得清淨不動處。
若有婦人懷害心, 如此之妻宜遠離,
設有貞和愛敬夫, 謙卑勤業若婢使,
恒為親友姊母想, 此宜尊敬如宅神。
我所說法正如是, 王當日夜勤修行。
禪陀迦王よ、知るべきです。生死の苦悩には多くの過ちがあり、すべては無明に覆い隠されています。私は彼らのために利益を興そうと願っています。 たとえば仏像を刻み描くとき、智者はこれを見て恭敬すべきです。私も如来の説に従って正法を説きますから、大王も深く信じて受け入れるべきです。 あなたはすでに牟尼の言葉を聞いていますが、今もし聴いて受け入れれば、さらに分別を転じるでしょう。それはちょうど花池の色が清らかで、月光が差し照り輝きを増すようなものです。 仏は六念を修習すべきと説かれました。いわゆる三宝・施・戒・天です。十善を修行して三業を清め、酒と放逸と邪命から離れるべきです。 身・命・財は速やかに危うく朽ちると観じて、福田に施し窮乏を済うべきです。施は堅牢で比べるものなく、最も第一の親しむべき者です。 勤めて浄戒を修め瑕穢を除き、また諸有を願い求めてはなりません。たとえば大地が多くの物を殖やすように、戒もまたそのように諸善を生みます。 忍辱を修め柔和にして瞋恚を捨てることを、仏は最も無上の行と説かれました。このように精進および禅と智、この六行を具すれば生死を超えます。 もし在家で父母に孝行すれば、これは勝れた福田と名づけます。現世では大いなる名称が流布し、未来の福報はますます無量となります。 殺生・盗み・淫ら・欺き・酒に耽ること、彫刻した床や高広な座席および香の熏し、謳歌・倡伎・時ならぬ食事、このような多くの悪は遠く離れるべきです。もし少しの間でもこの戒を修めれば、必ず天楽を受け涅槃に昇ります。 慳嫉・貪欲および諂偽、誑惑・顛倒と懈怠、このような多くの悪不善法を、大王は観じて速やかに捨てるべきです。 端正・尊豪および五欲は、危うく朽ちることが泡や沫のようだと知るべきです。このような不堅の法に頼ってはなりません。憍逸に自恣すれば諸苦が生じます。諸善を長じて甘露を証しようと思うなら、毒を捨てるように遠く離れるべきです。 よく精勤して瞋慢を捨てる者は、たとえば雲を除いて秋月を顕すようであり、指鬘や難陀のようでもあり、また差摩賢聖などのようです。 如来は三種の語を説かれました。意に入る語・真実の語・虚妄の語です。意に入る語は花のようで真実の語は蜜のよう、虚妄の語は鄙悪で糞穢のようです。前の二つの語を修習すべきで、速やかに虚妄の語を除断すべきです。 明から明に入る四種の法を、王は分別して諦かに思惟すべきです。二種の明に入るものは修すべきで、痴冥に就くものは速やかに捨てるべきです。 菴婆羅果の四種の変わりようは、人も分別し難いのもまたその通りです。智慧によって深く観察し、もし実に賢善なら親近すべきです。 女人が極めて端厳に見えても、自分の母・姉・妹の想いとすべきです。もし貪欲の染愛心が起これば、正しく不浄観を修すべきです。 この心は躁動しやすく禁制すべきで、身命や珍宝を防ぐようにすべきです。欲心が起これば驚怖すべきで、刀剣や悪獣を畏れるようにすべきです。 欲は無利で怨毒のようだと、このような言葉を牟尼は説かれました。生死輪迴は獄縛よりも過酷で、勤めて修して解脱を求めるべきです。 六入は躁動して諸境を馳せるので、摂持して放逸にしてはなりません。もしこのように諸根を摂めれば、勇将が強敵を摧くよりも勝れています。 この身は不浄で九孔から流れ出し、窮まりなく河海のようです。薄皮が覆い隠して清浄に見えますが、ちょうど瓔珞を仮りて自ら荘厳するようなものです。智ある人々だけが分別して、それが虚誑だと知って捨てます。 たとえば疥癬の者が猛焰に近づけば、初めは暫し悦んでも後に苦が増します。貪欲の想いもまたその通りで、初めは楽しく執着しても終わりには多くの患いがあります。 身の実相を見れば皆不浄であり、これすなわち空・無我を観ずることです。もしこの観を修習すれば、利益の中で最も無上です。 色族や多聞があっても、戒と智がなければ禽獣のようです。醜賤で聞見が少なくても、戒と智を修めれば勝士と名づけます。利・衰の八法は免れることができませんが、もし除断すれば真に比ぶものなしです。 すべての沙門・婆羅門、父母・妻子および眷属に対して、彼らの意のためにその言葉を受け入れ、広く不善を造り非法の行をしてはなりません。このような者のために諸過を起こせば、未来の大苦はただ身に受けます。 衆悪を造ってもすぐには報いず、刀剣が交わり傷つけるようではありません。臨終に罪相が初めて俱に現れ、後に地獄に入り諸苦を負います。 信・戒・施・聞・慧・慚・愧、この七法を聖財と名づけます。真実にして比ぶものなく牟尼が説かれ、世間の衆宝を超越しています。大王よ、もしこの勝財を集めれば、まもなく道場の果を証します。 博弈・飲酣・琴瑟を好むこと、懈怠・憍逸および悪友、時ならぬ軽躁と多くの動乱、このような七法は遠く離れるべきです。 知足は第一で諸財に勝ると、このような言葉を世尊は説かれました。知足ならば貧しくても富と名づけられ、財があっても多欲なら貧と名づけます。もし財業が豊かで諸苦が増すならば、龍が多首で酸毒が増すようなものです。 美味を毒薬のように観じ、智慧の水で洒いで浄めよ。この身を存ずるために食すべきですが、色味を貪って憍慢を長じてはなりません。諸欲の染に対して厭を生じ、勤めて無上涅槃の道を求めよ。 この身を調和して安隠にし、その後で斎戒を修すべきです。一夜は分別して五時あり、二時のうちに眠息すべきです。初・中・後夜に生死を観じ、勤めて度を求めて空しく過ごしてはなりません。 四無量定を修習すべきで、これを梵天道を開くと名づけます。もし専ら四禅の心に繋念すれば、命終には必ず彼の天処に生まれます。 有為は遷動して皆無常で、苦・空・敗壊して堅固でなく、無我・無楽で不清浄です。このように皆、対治法と名づけます。もし深くこの法門を観れば、未来には常に尊豪の位に処します。五戒を修行し五邪を断ずることを、これもまた大王が念ずべきです。 たとえば少しの塩を恒河に置いても、水を醎くすることはできません。微細な悪が衆善に遇えば、消滅散壊するのもまたその通りです。 五邪がもし増せば功德を劫めます。王は除滅して長じさせてはなりません。信などの五根は衆善の源で、これを修習して増盛させるべきです。生などの八苦は常に熾燃しているので、智慧の水を持って洒ぎ滅すべきです。 天楽および涅槃を求めようと思うなら、勤めて正知見を修習すべきです。利智があっても邪道に入れば、微妙の功德は永遠に余りありません。 四種の顛倒は諸善を害します。それゆえ観じて生じさせてはなりません。色は我に非ず我は色に非ず、我の中に色なく色の中に我なし。色においてこの四種の心を生じ、自余の諸陰も皆その通りです。この二十の心を顛倒と名づけ、もし除断できれば最も上です。 法は自ら起きず冥初に生じ、自在の作に非ず時有にも非ず、皆無明・愛・業から起きます。もし因縁がなければ便ち断壊します。大王はすでにこの等の因を知ったので、慧の灯を燃やして痴闇を破るべきです。身見・戒取および疑結、この三つは無漏の道を障ります。王がもし毀壊して散滅させれば、聖解脱の法はまさに現顕します。 たとえば盲人が水の相を問うても、百千万劫に了ることはできません。涅槃を求めようとするのもまたその通りで、ただ自ら精勤して後に方に証します。眷属や知識に仮ってこれを得る者は甚だ難しくあります。それゆえ大王は精進すべきで、その後にはじめて寂滅を証することができます。 施・戒・多聞および禅定、これによって漸く四真諦に近づきます。人主であるからには慧明を修すべきです。この三法を行じて解脱を求めよ。もしこの最上乗を修することができれば、すなわち他の一切の善を摂します。 大王は身念法を観ずべきです。世尊はこれを清浄道と説かれました。もしこの念がなければ悪覚が増すので、それゆえ勤めて修習すべきです。 人命は短促で久しく留まらず、水上の泡が起きてすぐ滅するようです。出息・入息・眠睡の間にも、念念に恒に謝し常に衰滅し、まもなく磨滅するのを見るでしょう。皮肉は臭爛して甚だ悪むべきです。青瘀・脹壊・膿血が流れ、虫蛆が唼食して枯竭に至り、髪・毛・爪・歯は各々分散し、風に吹かれ日に曝されて漸く乾尽します。 この身は堅牢でなく、無量の衆苦が積聚していると知るべきです。それゆえ賢聖の諸智人は、皆この過を観て咸く捨てます。 須弥・巨海および江河も、七日が並び照れば皆融竭します。このように堅固なものさえ尚摧毀するのに、ましてやこの危脆な身はどうでしょうか。 無常が既に至れば救護はなく、頼ることも求めもできません。それゆえ大王は常に諦観し、速やかに厭離を生じて勝法を求めよ。 人身は得難く法は聞き難く、ちょうど盲亀が浮孔に遇うようなものです。このような希有の身を得た以上、勤めて心して正法を聴くべきです。この妙身を得て諸悪を造るのは、宝器に衆毒を盛るようなものです。 中国に生まれ善友に遇い、専念に発心して正願を起こし、久しく功德を殖して諸根を具え、王は今この衆善を満足しています。もしまた親しく見知の人に近づけば、仏はこれを浄梵行と説かれました。それゆえ随順を楽しむべきです。諸仏はこれによって涅槃を証されました。 すでに微妙清浄の法に遇った以上、志して離欲の道を求めるべきです。生死の嶮難と苦は無量で、窮劫に宣説しても尽くせません。私も今、王のために略して分別しますから、諦かに聴いて善く思惟すべきです。 三界は転変して輪際なく、父母・妻子は更に相因り、怨・親・憎・愛は無常の処で、旋火輪のように豈に窮まりがあろうか。 無始生死の世界よりこのかた、母乳を飲んだことを計れば大海よりも多く、もし精勤して空智を証しなければ、将来また飲むこと窮まりがありません。五道を周流し人天を経て、もし身骨を積めば須弥よりも高く、愛別の哀悲の涙を計れば、また江河も匹ぶことができません。もし一人の父母を計れば、世間の草木の数よりも多いのです。 五欲の天上の楽を受けても、終には還って悪趣の苦に墜没します。諸天の寿命は極めて長遠で、その間の娯楽は宣説し難いほどです。歌・謳・倡・舞は妙声を流し、哀音は和雅で甚だ清遠です。奇姿・妙色は極めて端厳で、囲繞・侍衛して相娯楽します。百味の盛饌は皆具足し、随意に翫ぶものは自然に至ります。宝池・香浄の水は恒に満ち、周匝に諸妙花が羅覆し、衆鳥は異色でその上に集まり、哀声は相和して遠音を出します。諸天は遊戯してその内に浴し、このような歓娯は説くことができません。 福が尽き臨終に五衰が現れれば、その時生ずる苦は前の楽を踰えます。それゆえ天女の娯しみがあっても、智者はこれを見てすでに厭を生じます。珍宝の上楼観に居ても、必ず退堕して臭穢の処に入ります。天上の難陀園に遊んでも、会にはまた刀剣林に入ります。諸天の曼陀池に浴しても、終には必ず灰河の獄に墜ちます。転輪帝の位に処しても、帰れば僮僕となり駆使されます。梵天の離欲の娯しみを受けても、還って無間の熾然の苦に墜ちます。天宮に居て光明を具えても、後に地獄の黒闇の中に入ります。 いわゆる黒縄・活地獄、焼・割・剥・刺および無間、この八大地獄は常に熾燃しており、皆衆生の悪業の報いです。あるいは大苦を受け押油のようであり、あるいは身体を碎き塵粉のようであり、あるいは支節を解き分散させ、あるいはまた剥ぎ焼き煮ます。あるいは沸銅をその口に注ぎ、あるいは鉄で押しその形を裂き、鉄狗は競い来て争って食噉し、鉄烏はまた集まり共に齟掣します。衆類の毒虫は並びに齩齧し、あるいは銅柱を焼いてその身を貫きます。大火は猛盛に俱に洞燃し、罪業の縁のゆえに逃避できません。鑊湯は騰沸して高く涌き上がり、顛倒の罪人はその内に投じられます。 人命は危朽で甚だ迅く、ちょうど諸天の喘息の頃のようです。もし人がこの短命の中で、上の諸苦を聞いて驚畏しないならば、この心は甚だ堅固で金剛のように摧き難いと知るべきです。もし図画を見、他人の言を聞き、あるいは経書に随って自ら憶念するだけでも、このように知った時でさえ已に堪え難いのに、ましてや己の身で自ら経歴する場合はどうでしょうか。 無間無救の大地獄、この中の諸苦は窮め尽くせません。もしまた人が一日の中に三百の鉾でその体を刺しても、阿毘獄の一念の苦に比べれば、百千万分も及ぼないのです。この大苦を一劫受け、罪業の縁が尽きて後にはじめて免れます。このような苦悩は誰から生ずるか、皆三業の不善から起こります。大王は今この患いはないといえども、もし因を修めなければ縁によって墜落します。 畜生の中の苦は無量で、あるいは繋縛され鞭撻されます。信・戒・多聞がないゆえに、恒に悪心を懐いて相食噉みます。あるいは明珠・羽・角・牙、骨・毛・皮・肉のために残害されます。人は乗駕して自在ならず、恒に瓦石・刀杖の苦を受けます。 餓鬼道の苦もまた同様で、諸の須欲は意に随いません。飢渇に逼られ寒熱に困り、疲乏などの苦は甚だ無量です。腹は山の如く大きく咽は針の如く、屎尿・膿血は説くことができません。裸形・被髪は甚だ醜悪で、多羅樹が焼き剪られたようです。その口は夜には大火が燃え、諸虫は争って赴き共に唼食します。屎尿・糞穢の諸不浄も、百千万劫に得ることはできません。もしまた推し求めて少分を得ても、更に相劫奪してすぐ散失します。清涼の秋月にも炎熱を患い、温和の春日にも却って寒苦に転じます。園林に趣けば衆果は尽き、清流に至れば枯渇に変じます。罪業の縁のゆえに寿命は長遠で、一万五千歳を経ます。衆の楚毒を受け空缺なく、皆餓鬼の果報です。正覚はこの苦悩の因を説いて、慳貪・嫉妬の業と名づけました。 もし天の福が尽きて余善があれば、これによって人中の王となります。後にもし懈怠して福が都て尽きれば、必ず三悪に墜ちることに疑いはありません。あるいは修羅に生じて貢高を起こし、恚・嫉・貪・害が諸悩を増します。諸天は善根の行があっても、慳嫉のゆえに利楽を失います。それゆえ嫉妬の結は深い悪法と知って捨てるべきです。 大王よ、あなたは今すでに生死の過患と多くの衆苦を具知しています。勤めて出世の善を修すべきで、渇いて飲を思うように、頭の燃えるを救うようにすべきです。もし精進を加えて諸有を断ずれば、諸善の中で最も無上です。勤めて持戒し禅智を習い、その心を調伏して涅槃を求めよ。涅槃は微妙で諸相を絶ち、生・老・死および衰悩がなく、また山河も日月もありません。それゆえ速やかに証知すべきです。 もし無師智を証しようと思うなら、専ら七覚法を修すべきです。もしこの覚分の船に乗れば、生死の大海は易く超渡できます。 仏が説かれない十四法は、ただ信心を生じて疑惑してはなりません。ただ正心に勤めて精進し、決定して諸善法を修習すべきです。 無明は行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有を縁じ、有は則ち生を縁じ生は死を縁じます。もし生死の因縁を尽くせば滅します。このように正しく十二縁を観る人は、すなわち聖師子を見ます。 もし次第に四諦を見ようと思うなら、勤めて八正道を修習すべきです。尊栄に居て五欲に処しても、また聖道を得て諸結を断ちます。この果は余人に求むべからず、必ず自心で会して乃ち証得します。 私は衆苦および涅槃を説き、大王を潤益しようと欲するがゆえです。怖畏の心を生ずべきではなく、ただ勤めて誦習し諸善を行じなさい。心は諸法の根本で、もし先に調伏すれば事は成ります。 私は法要を説き略して分別します。王は足心を生ずべきではありません。もし大智があれば更に敷演し、また至心に勤めて聴受すべきです。王は今、大法器と名づけられます。もし広く法を聞けば必ず多く益があります。もし三業の善を修する者を見れば、深く助けて随喜心を生ずべきです。自らの行う善および随喜の功德は、このように悉く迴向しなさい。 王は諸賢聖を仰ぎ学ぶべきで、観音などの衆生を度すようにです。未来には必ずまさに正覚を成じ、国には生・老・三毒の害がなくなります。大王よ、もし上の諸善を修すれば、美名称が広く流布します。その後これによって人を教化し、普く一切をして正覚を成じさせなさい。 煩悩の駛河は衆生を漂わせ、深い怖畏と熾然の苦があります。このような諸塵労を滅しようと思うなら、真実解脱の諦を修すべきです。世間の仮名の法を離れれば、清浄不動の処を得ます。 もし婦人が害心を懐けば、このような妻は遠く離れるべきです。もし貞和で夫を愛敬し、謙卑に勤業すること婢使のようであれば、恒に親友・姉・母の想いとし、これは尊敬すべきで宅神のようです。 私の説く法はまさにこの通りです。王は日夜に勤めて修行すべきです。
龍樹菩薩為禪陀迦王說法要偈