辨體第二
(文体を明らかにする 第二)
案道生曰:夫真理自然,悟亦冥符。真則無差,悟豈容易。不易之體為湛然常照,但從迷乖之,事未在我耳。苟能涉求,便反迷歸極。僧亮敘曰:無學地法,皆是其體。佛略說三,以標神道:一曰般若、二曰法身、三曰解脫也。法瑤敘曰:涅槃至號,其義贍博,豈唯般若等三以極其致,但略舉其要。然則此三,名殊而實同,非體異者也。如其體別,則同因成假名之法虛而不實,豈得稱常?僧宗敘曰:累患既息,體備眾德,略舉其三,可以貫眾。然此三德,體一而義異,就一體之上義目有三也。寶亮敘曰:障累既盡,萬行歸真,無德不滿、眾用皆足,轉因字果,名大涅槃。然其德淵曠,難可備舉,略陳其要,理可有三:一謂正法寶城、二標別德、三寄工用。何者?夫涅槃無體,為眾德所成,取況寶城以喻斯旨也。別德者,謂大常大我等,此是成涅槃之勝因也。工用者,謂歸依洲渚,能使物免苦而獲安也。智秀敘曰:體者,圓極妙有之本也。德者,般若法身解脫之流也。談德雖眾,論體唯一。何者?即圓極有可軌之義曰法身;有靜照之功曰般若;有無累之德曰解脫。是則即解脫之體可軌,亦可軌之體能照,更無別體而有德也。案:舊所詳習,有二種解釋:一謂圓極果體真實妙有,非如假名但以有用而無體也;一謂涅槃無體,假眾德以成,豈得不空耶?慧朗述法瑤曰:生死涅槃義分為二,謂十二因緣顛倒故有,即因緣無性是名涅槃。豈待離煩惱已,有妙有可得,而不空乎?故《般若經》云「設有法過於涅槃,亦說如幻如夢」矣。又述纖、愛、宗等舊釋云:萬行得圓極之果,果體是實,而隨德立義,非假眾義共成一體也。法安曰:涅槃雖假眾德為體,而異五陰成人也。何者?人及五陰,假實斯空;今涅槃雖空,而眾德是實也。
道生が言いました。真理は自然そのものであり、悟りもまたそれと静かに一致します。真理に差別はありませんが、悟りが容易であるはずがありません。変わらない本体は、澄みきって常に照らしています。ただ迷いによってそれから離れているだけで、事はまだ私のもとにはないのです。もし求めて進むことができれば、迷いを反転させて究極に帰ることができます。僧亮が述べました。無学の境地の法は、すべてその本体です。仏は簡略に三つを説いて、神妙な道を示されました。一つは般若、二つは法身、三つは解脱です。法瑤が述べました。涅槃という最高の称号は、その意味が広く豊かで、どうして般若など三つだけでその極みを尽くせるでしょうか。ただ要点を簡略に挙げただけです。そうであれば、この三つは名前は異なっても実は同じであり、本体が異なるのではありません。もし本体が別々であれば、同じく因によって成り立つ仮名の法は虚しく実体がないものとなり、どうして常と称することができるでしょうか。僧宗が述べました。煩悩の患いがすでに静まり、本体に多くの徳が備わっています。簡略にその三つを挙げれば、すべてを貫くことができます。しかしこの三つの徳は、本体は一つで意味が異なり、一つの本体の上で意味として三つに分けているのです。宝亮が述べました。障りの累いがすでに尽き、万の行が真に帰り、満たされない徳はなく、すべての働きが足りています。因という字を転じて果とし、大涅槃と名づけます。しかしその徳は深く広大で、詳しく挙げることは難しいため、簡略にその要点を述べれば、道理として三つがあります。一つは正法の宝城、二つは別の徳を示すこと、三つは働きに託すことです。なぜでしょうか。涅槃には本体がなく、多くの徳によって成るので、宝城にたとえてこの意味を喻えているのです。別の徳とは、大常や大我などをいい、これは涅槃を成す優れた因です。働きとは、帰依の洲渚といい、生き物を苦しみから免れさせ、安らぎを得させるものなのです。智秀が述べました。本体とは、円満で究極の妙有の根本です。徳とは、般若・法身・解脱の流れです。徳を語れば多くありますが、本体を論じればただ一つです。なぜでしょうか。円満で究極の有が従うべき意味を持つことを法身といい、静かに照らす働きを持つことを般若といい、累いのない徳を持つことを解脱といいます。そうであれば、解脱の本体が従うべきであり、また従うべき本体が照らすことができ、別に本体があって徳があるのではありません。案ずるに、昔詳しく習ったところには、二つの解釈があります。一つは、円満で究極の果の本体は真実の妙有であり、仮名のようにただ用があって本体がないのではないというものです。一つは、涅槃には本体がなく、多くの徳を借りて成るので、どうして空でないことがありましょうかというものです。慧朗が法瑤を述べました。生死と涅槃の意味は二つに分かれます。十二因縁が顛倒しているために有があり、すなわち因縁に本性がないことを涅槃といいます。どうして煩悩を離れた後に、妙有が得られて空でないのを待つことがありましょうか。したがって『般若経』に「もし涅槃を超える法があっても、それもまた幻のごとく夢のごとくであると説く」とあります。また纖・愛・宗などの昔の解釈を述べました。万の行が円満で究極の果を得て、果の本体は実であり、徳に従って意味を立てるのであって、多くの意味が共に一つの本体を成すのではないというものです。法安が言いました。涅槃は多くの徳を借りて本体となっても、五陰が人を成すのとは異なります。なぜでしょうか。人と五陰は、仮も実もともに空です。今、涅槃は空であっても、多くの徳は実なのです。