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  1. 華厳一乗十玄門終 (華嚴一乘十玄門終)
  1. 華厳一乗十玄門 (華嚴一乘十玄門)
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華厳一乗十玄門 (華嚴一乘十玄門)

「華嚴一乘十玄門」について

隋 · 杜順說.唐 智儼撰 著

6,676 字 · 約 22 分

『華厳一乗十玄門』は、中国仏教華厳宗の重要な典籍であり、初祖・杜順の口述を基に、二祖・智儼が整理・執筆し、隋唐の時代に成立しました。本書は、華厳の核心教義である十玄門の思想を体系的に解き明かし、十組の概念を通じて万物が互いに関わり合い、円満に融け合う宇宙観を提示しています。一がすべてであり、すべてが一であるという法界縁起を強調し、華厳宗の教判理論の礎を築くものとして、華厳哲学の綱領的枠組みを構築しました。後世の禅宗や宋明理学にも深い影響を与え、華厳の奥義を開く鍵となる経典として尊ばれています。


華嚴一乘十玄門

華厳一乗十玄門

大唐終南太一山至相寺釋智儼撰承杜順和尚說

大唐終南山太一山至相寺の釋智儼が撰し、杜順和尚の説を承ける

明一乘緣起自體法界義者。不同大乘二乘緣起。但能離執常斷諸過等。此宗不爾。一即一切無過不離。無法不同也。今且就此華嚴一部經宗。通明法界緣起。不過自體因之與果。所言因者。謂方便緣修體窮位滿。即普賢是也。所言果者。謂自體究竟寂滅圓果。十佛境界一即一切。謂十佛世界海及離世間品。明十佛義是也。問文殊亦是因。人何故但言普賢是其因人耶。答雖復始起發於妙慧。圓滿在於稱周。是故隱於文殊。獨言普賢也。亦可。文殊普賢據其始終。通明緣起也。今辨此因果二門者。圓果絕於說相。所以不可以言說而辨。因即明其方便緣修。是故略辨也。問不思議法品等亦明果德。何故得於因門說耶。答此等雖是果德。對緣以辨果。非是究竟圓寂之果。是故與因同一會說也。今約教就自體相。辨緣起者於中有二。一者舉譬辨成於法。二者辨法會通於理。所言舉譬辨者。如夜摩天會菩薩雲集品說云。譬如數十法增一。至無量。皆悉是本數智慧故差別也。今舉此十數為譬者。復有二門。一異體門。二同體門。就異體門中復有二。一者一中多多中一。如經云。一中解無量無量中解一。展轉生非實。智者無所畏。此約相說也。二者一即多多即一。如第七住經云。一即是多多即一。義味寂滅悉平等。遠離一異顛倒相。是名菩薩不退住。此即約理說也。今約十數明一中多多中一者。若順數從一至十向上去。若逆數從十至一向下來。如一者一緣成故。一中即有十。所以一成故。若無十一即不成。無性緣成故。一中即有十。所以一成故。二三四等一切皆成也。若一住自性十即不成。十若不成一亦不成也。問既其各各無性何得成其一多耶。答此由法界實德緣起力用普賢境界相應。所以一多常成不增不減也。如維摩經云。從無住本立一切法。又論云。以有空義故一切法得成也。問此門攝法界。為盡為不盡耶。答亦有盡義。亦無盡義。何者十中一即是盡。一中十具說即無盡也。又復知。一中等皆具盡不盡義也。次明一即多多即一者。還同前門中向上去向下來也。如似一即十緣成故。若一非十十不成也。從上向下來亦如是。十即一緣成故。若十非一一不成也。問何但一不成十亦不成。答如柱若非舍爾時則無舍。若有舍亦有柱。即以柱即舍故有舍復有柱。一即十十即一故。成一復成十也。問若一即十此乃無有十。那得言一之與十。乃言以即故得成耶。答一即十即非一者。非是情謂一。所謂緣成一。緣成一者非是情謂一故。故經云。一亦不為一為欲破諸數。淺智者著諸法。見一以為一也。問前明一中十。此明一即十。有何別耶。答前明一中十者。離一無有十而十非是一。若此明一即十者。離一無有十。而十即是一緣成故。問若一多要待緣成者。為是同時為是先後耶。答緣成故常同時而先後。所以然者一即十十即一故常同時。而向上去向下來故有前後也。問既有明先後去來。即是有增減。何名不動本相耶。答雖先後去來而常不動故。經云。不來相而來也。如一即多而不動一相。如此一相亦非情謂一。多亦如是。雖多即一而不壞多相。亦非情謂多。問此之一多既是緣成不同情謂者。為是本來有此一多。為是始有耶。答今本有不有者。為欲就智辨本有。為自就一多體辨耶。若自就一多體辨不論智者。體即息諸論道。同於究竟圓果離說相故。今若辨一多者約智說也。如經云智慧差別故。又云智者無所畏。故約智說一多也。問若約智故其本有者。以智照故本有。答如室中空。開門見時此空即是本有。如涅槃經見佛性已即非三世攝。問亦得是始有以不。答見時如言有。不見不言有故亦名始有。問若一多之體由智照故。即通本有及本不有者。此智照時得通有照不照以不。答本有故智即非照。本不有故由智。故照明知亦通照不照。一切諸法例如此也。

一乗の縁起、すなわち自体の法界について明らかにします。これは大乗や二乗の縁起とは異なります。それらはただ常や断といった誤った見解を離れることができるだけです。しかしこの宗派はそうではありません。一が即ち一切であり、過失がなく、離れるものもない。法として同じでないものはないのです。今、ひとまずこの華厳経一部の宗旨によって、法界の縁起を通して明らかにしますが、それは自体の因と果に過ぎません。

ここで「因」と言うのは、方便による縁としての修行を積み、その体が窮まり位が満ちること、すなわち普賢を指します。「果」と言うのは、自体が究極的に寂滅した円満な果、すなわち十仏の境界であり、一が即ち一切であることです。十仏世界の海や『離世間品』に説かれる十仏の義がこれです。

問う:文殊もまた因ではありませんか。なぜ普賢だけを因の人と言うのですか。

答える:たとえ初めの起動が妙慧にあるとしても、円満は周遍において完成します。それゆえ文殊を隠して、ひとえに普賢を言うのです。また、文殊と普賢をその始終によって捉えれば、縁起を広く明らかにするとも言えます。今、この因果の二門を論じるにあたって、円満な果は説く相を絶しているので、言葉で論じることはできません。因はその方便の縁としての修行を明らかにするものなので、略して論じるのです。

問う:『不思議法品』なども果の徳を明らかにしています。なぜ因の門で説くことができるのですか。

答える:これらは果の徳ではありますが、縁に對して果を論じたものであって、究極の円寂の果ではありません。それゆえ因と同じ会座で説かれるのです。

今、教えに依り、自体の相によって縁起を論じるにあたり、そこには二つがあります。一つは譬えを用いて法を明らかにすること。二つ目は法を弁じて理に会通することです。

「譬えを用いて明らかにする」とは、夜摩天会の菩薩雲集品に説くように、「例えば十の数を数えるのに、一を加えて無量に至るまで、すべて本の数の智慧によるので差別がある」とあります。今、この十の数を譬えとして挙げるのにも、また二つの門があります。一つは異体門、二つ目は同体門です。

異体門の中にもまた二つがあります。一つは「一中に多、多中に一」です。経に「一中に無量を解き、無量中に一を解く。展転して生ずるも実にあらず。智者は畏れることなし」とあるように、これは相について説くものです。二つ目は「一即ち多、多即ち一」です。第七住の経に「一は即ち多、多は即ち一。義味は寂滅にしてすべて平等。一と異の顛倒の相を遠離す。これを菩薩の不退住と名づく」とあるように、これは理について説くものです。

今、十の数について「一中に多、多中に一」を明らかにするならば、順に数えれば一から十へと上へ向かい、逆に数えれば十から一へと下へ向かいます。一は縁が成就したものだから、一の中にはすでに十があります。一が成就するからです。もし十がなければ一も成立しません。無性であり縁によって成就するから、一の中にはすでに十があり、一が成就するゆえに、二、三、四などすべてが成就するのです。

もし一が自性に住するならば、十は成就しません。十が成就しなければ、一もまた成就しないのです。

問う:それらが各々無性であるならば、どうして一や多が成就するのですか。

答える:これは法界の実際の徳、縁起の力用、普賢の境界が相応するからです。それゆえ一多は常に成就し、増えも減りもしないのです。維摩経に「無住の本より一切の法を立てる」とあり、また論には「空の義があるがゆえに一切の法が成就する」とあります。

問う:この門は法界を摂するにあたり、尽きるのですか、尽きないのですか。

答える:また尽きる義もあり、尽きない義もあります。何となれば、十の中の一は尽きることであり、一の中の十を具説すれば尽きないことになるからです。また知るべきです。一などの中にもすべて尽きる義と尽きない義が具わっています。

次に「一即ち多、多即ち一」を明らかにします。これは先の門の上に向かうこと、下に向かうことに同じです。例えば一は十を即する、縁が成就したからです。もし一が十でなければ、十も成就しません。上から下へ向かうのもまた同じです。十は一を即する、縁が成就したからです。もし十が一でなければ、一も成就しません。

問う:なぜ一が成就しないだけでなく、十も成就しないのですか。

答える:例えば柱がもし家でなければ、その時家はありません。もし家があれば柱もあります。柱が家を即するがゆえに、家があり、また柱があるのです。一が十を即し、十が一を即するがゆえに、一が成就すればまた十が成就するのです。

問う:もし一が十を即するなら、これは十がないことになります。どうして一と十を言えるのですか。即するがゆえに成就すると言うのはどういうことですか。

答える:一が十を即し、即ち一ではないというのは、情によって考えられた一ではなく、縁によって成就した一を指します。縁によって成就した一は、情によって考えられた一ではないのです。それゆえ経に「一もまた一と為さず、諸々の数を破らんがためなり。浅き智者は諸法に著して、一を見て一と思う」とあるのです。

問う:先に「一中に十」を明かし、今「一即ち十」を明かしましたが、何の違いがあるのですか。

答える:先の「一中に十」は、一を離れて十はないが、十は一ではないとします。今の「一即ち十」は、一を離れて十はないが、十はすなわち一であり、縁が成就したものなのです。

問う:もし一多が縁によって成就するのを待つなら、それは同時なのですか、それとも先後なのですか。

答える:縁が成就したものだから、常に同時でありながら先後があります。そう言う理由は、一は即ち十、十は即ち一だから常に同時です。そして上に向かい下に向かうから前後があるのです。

問う:先後や去来が明らかなら、それは増減があることになります。どうして本の相を動かさないと言うのですか。

答える:先後や去来があっても常に動かないのです。経に「来たらずして来る」とあるのがこれです。一が多を即しても一の相を動かさない。この一の相もまた情によって考えられた一ではありません。多もまた同じです。多が一を即しても多の相を壊さず、これもまた情によって考えられた多ではありません。

問う:この一多が縁によって成就したもので、情によって考えられたものと異なるなら、これは本来この一多があったのでしょうか、それとも新たに始まったのでしょうか。

答える:「本来有る」「本来無い」というのは、智慧について本有を明らかにするためですか、それとも一多の体そのものについて論じるためですか。もし一多の体そのものについて論じ、智を論じないなら、体はもろもろの論議の道を息め、究竟の円果が説く相を離れているのと同じです。今、一多を論じるなら、智について説くのです。経に「智慧の差別による」とあり、また「智者は畏れることなし」とあるから、智について一多を説くのです。

問う:もし智によるならば、それは本有なのですか。智の照らしによって本有となるのですか。

答える:例えば室内の虚空のようなものです。門を開いて見るとき、この虚空は本有です。涅槃経に「仏性を見れば、すなわち三世の摂に非ず」とあるのがこれです。

問う:では始有ということもできるのですか。

答える:見るときに「有る」と言い、見ないときには「有る」と言わないから、始有とも名づけられます。

問う:もし一多の体が智の照らしによるなら、本有と本有でないことを通じるわけですが、この智が照らすとき、照らすことと照らさないことに通じるのですか。

答える:本有であるから、智はすなわち照らすのではなく、本有でないから智によって明らかになる。それゆえ、照らすことと照らさないことにも通じると知るべきです。一切の諸法もまたこのようなものです。

二明同體門者還如前門。相似還明一中多多中一。一即多多即一。今就一中門說者。還明向上去向下來。其中逆順各具十門。今略舉其始終。約十一而說者。如似一中十緣成故。若無十一不成二三亦如是。十即一亦如是。問此同體門中。與前異體門中有何別耶。答前異門言一中十者。以望後九故名一中十。此門言一中十者。即一中有九故言一中十也。問若一中即有九者。此與前異體門一即十有何別耶。答此中言一有九者。有於自體九而一不是九。若前別體門說者一即是彼異體。十等而十不離一。問一中既自有九者應非緣成義。答若非緣成豈得有九耶。問一體云何得有九。答若無九即無一。次明同體門中一即十者。還言一者一緣成故一即十。何以故若十非一一不成故。一即十既爾。一即二三亦然。逆順各十門亦然。問此中言自體一即十者。與前同。體一中十有何別耶。答前明同體中有十而一非是十。此明一即十而一即是十以為異也。問此明一體即十。為攝法盡以不。答隨智差別故亦盡亦不盡。何者如一若攝十即名為盡。若具說即無盡。問為自門無盡。為攝餘門亦無盡耶。答一無盡餘所無盡。若餘不盡一亦不盡。若成一一切即成。若不成一一切不成。是故此攝法即無盡。復無盡成一之義。於三四義由若虛空。即是盡更不攝餘。故名無盡故亦攝盡不盡也。問既言一即攝盡者。為只攝一中十亦攝他處十。答攝他十亦有盡不盡義。何以故離他無自故。一攝他處即無盡而成一之義。他處十義如虛空故有盡。上明舉十數為譬說竟。

第二に、同体の門について説明します。先ほどの門と同じように、一の中に多があり、多の中に一があることを示します。一は即ち多であり、多は即ち一です。ここで一の中の門について説くならば、上に向かう働きと下に向かう働きを示します。その中で逆順それぞれに十の門が備わっています。今、その始終を略して挙げ、十一について説くならば、例えば一の中に十が縁によって成り立つためです。もし十が無ければ、一は二や三も成り立たず、十が一となるのも同様です。

問い:この同体の門において、先ほどの異体の門と何が違うのでしょうか。 答え:先ほどの異体の門で「一の中に十」と言うのは、後の九を見据えて「一の中に十」と言うのです。この門で「一の中に十」と言うのは、一の中に九があるから「一の中に十」と言うのです。

問い:もし一の中に九があるならば、これは先ほどの異体の門で言う「一は即ち十」と何が違うのでしょうか。 答え:ここで「一に九がある」と言うのは、自己の体に九を有するのであって、一は九ではないのです。もし先ほどの別体の門で説くならば、一は即ちあの異体の十などであり、十は一を離れないのです。

問い:一の中にすでに九があるならば、これは縁によって成り立つ意味ではないはずです。 答え:もし縁によって成り立つのではないならば、どうして九があり得るでしょうか。

問い:一つの体にどうして九があり得るのでしょうか。 答え:もし九が無ければ一も無いからです。

次に、同体の門における「一は即ち十」について説明します。また、一は一つの縁によって成り立つから、一は即ち十であると言います。なぜなら、もし十が一でなければ、一は成り立たないからです。「一は即ち十」がそうであるならば、「一は即ち二」「一は即ち三」も同様です。逆順それぞれ十の門も同様です。

問い:ここで言う「自己の体において一は即ち十」というのは、先ほどの同体の門における「一の中に十」と何が違うのでしょうか。 答え:先ほどは同体の中に十があるが、一は十ではないと明かしました。これは一が即ち十であり、一はまさに十であることを明かすもので、そこが異なるのです。

問い:この一つの体が即ち十であるということは、法を摂め尽くすのでしょうか、そうでないのでしょうか。 答え:智慧の違いに従うので、尽くすとも言え、尽くさないとも言えます。どういうことかと言うと、もし一が十を摂めば、これを尽くと名付けます。もし詳しく説けば、それは無尽です。

問い:自己の門が無尽なのでしょうか、それとも他の門を摂めても無尽なのでしょうか。 答え:一が無尽であれば、他のものも無尽です。もし他が尽きなければ、一も尽きません。もし一が成れば、すべてが成ります。もし一が成らなければ、すべてが成りません。ゆえにこの法を摂めることは即ち無尽です。さらに、無尽にして一を成ずるという義があります。三や四の義については、虚空のようです。これは尽くすのであって、さらに他を摂めないから、無尽と言い、だから摂尽と不摂尽の両方があるのです。

問い:「一が摂め尽くす」と言うならば、ただ一の中の十を摂めるだけでなく、他の場所の十も摂めるのでしょうか。 答え:他の十を摂めることも、尽くす義と尽くさない義があります。なぜなら、他を離れて自はないからです。一が他の場所を摂めれば、無尽にして一を成ずる義があります。他の場所の十の義は虚空のようであるから、尽くすということがあります。

以上で、十の数を挙げて譬えとして説くことを終わります。

此下明約法以會理者凡十門。

これより下では、法に基づいて理を照らし合わせることを明らかにする。その項目は全部で十ある。

一者同時具足相應門(此約相應無先後說)

一つ目は、同時具足相応門(これは相応の状態において、先後の区別がないことを説いたものです)

二者因陀羅網境界門(此約譬說)

二つのものによる因陀羅の網の境界の門(これは譬えを用いて説いたものである)

三者祕密隱顯俱成門(此約緣說)

三者の秘密・隠顕が共に成り立つ門(これは縁についての説き方である)

四者微細相容安立門(此約相說)
五者十世隔法異成門(此約世說)
六者諸藏純雜具德門(此約行行)
七者一多相容不同門(此約理說)
八者諸法相即自在門(此約用說)
九者唯心迴轉善成門(此約心說)
十者託事顯法生解門(此約智說)
就此十門亦一一之門皆復具十會成一百。所言十者。一者教義。二理事。三解行。四因果。五人法。六分齊境位。七法智師弟。八主伴依正。九逆順體用。十隨生根欲性。所言教義者。教即是通相別相三乘五乘之教。即以別教以論別義。所以得理而忘教。若入此通宗而教。即義以同時相應故也。第二理事者。若三乘教辨即異事顯異理。如諸經舉異事喻異理。若此宗即事是理。如入法界等經文是體。實即是理相彰即是事。第三解行者如三乘說。解而非行。如說人名字而不識其人。若通宗說者即行即解。如看其面不說其名而自識也。相顯為行。契窮後際為解。第四因果者。修相為因契窮為果。第五人法者。文殊顯其妙慧。普賢彰其稱周。明人即法也。第六分齊境位者。參而不雜各住分位。即分齊境位。第七法智師弟者。開發為師相相成即弟子。第八主伴依正者。舉一為主餘即為伴。主以為正伴即是依。第九逆順體用者。即是成壞義也。第十隨生根欲性者。隨緣常應也。如涅槃經云。此方見滿餘方見半。而月實無虛盈。若此宗明者。常增減而常無增減。以同時相應。然此十門體無前後。相應既其具此十門。餘因陀羅等九門亦皆具此十門。何但此十門。其中一一皆稱周法界。所以舉十門者成其無盡義也。
今釋第一同時具足相應門者。即具明教義理事等十門同時也。何以得如此耶。良由緣起實德法性海印三昧力用故得然。非是方便緣修所成故得同時。今且據因是同時者。若小乘說因果者。即轉因以成果。因滅始果成。若據大乘因果亦得同時。而不彰其無盡。如似舍緣以成舍。因果同時成而不成餘物。以因有親疎故。所以成有盡。若通宗明因果者。舉疎緣以入親。是故如舍成時。一切法皆一時成。若有一法不成者。此舍亦不成。如似初步若到一切步皆到。若有一步非到者一切步皆非到。故經云。雖成等正覺不捨初發心。又如大品經云。非初不離初。非後不離後。而明菩提也。問既言一步即到者。何須用第二步耶。答汝言一步即到者。為多是即一以不。又言何用第二步者。此第二步為是一即多以否。若初步是多一。第二步即一多者。云何乃言一步到不用第二步耶。答若不一是多一。多亦不是一多者。何但一步不能到。雖行多步終是不到。故知一步與多步常有到不到義。因中尚爾者。果中亦無果義。故涅槃經云。智者應當定說亦有亦無。今舉一步到者。即是法界緣起海印定力說到不到。不同情謂說到不到。故經云。唯應度者乃能見之。而復不失因果。不墮斷常。故經云。深入緣起斷諸邪見斯之謂也。問若因果同時即因成果。因即成果那得言不失因果耶。答如地論云。依緣二種義示現二種時。依因義者名為因。依果義者名為果。豈得失於因果耶。又且既言因果同時那得言失。若其失者何名因果同時耶。因果同時既如此。教義理事等同時亦然。問既言同時相應者。今舉因果一事。即得具前教義等十門以否。答今但舉十門者欲成其無盡。若論三種世間圓融。可但一事具此十門。亦具無盡無量法界虛空法門。成其無盡復無盡。若但就別事說不成無盡者。只同大乘義也。
第二因陀羅網境界門者。此約譬以明。亦復具有教義等十門。如梵網經。即取梵宮羅網為喻。今言因陀羅網者。即以帝釋殿網為喻。帝釋殿網為喻者。須先識此帝網之相。以何為相。猶如眾鏡相照眾鏡之影見一鏡中。如是影中復現眾影。一一影中復現眾影。即重重現影成其無盡復無盡也。是故如第七地讚請經云。於一微塵中各示那由他無量無邊佛於中而說法。此即智正覺。世間又云。於一微塵中現無量佛國須彌金剛圍。世間不迫迮。此即據器世間。又云。於一微塵中現有三惡道天人阿修羅。各各受業報。此即據眾生世間。又云。如一微塵所示現。一切微塵亦如是。故於微塵現國土。國土微塵復示現。所以成其無盡復無盡。此即是其法界緣起。如智如理實德如此。非即變化對緣方便故說。若是大乘宗所明。即言神力變化故大小得相入。或云菩薩力故入。又言不二故入。不同一乘說。問若此宗明相入不論神力。乃言自體常如此者。斯則渾無疆界。無始無終何緣得辨因果教義等耶。答以隨智差別故舉一為主。餘則為伴。猶如帝網舉一珠為首眾珠現中。如一珠即爾。一切珠現亦如是。是故前經舉一菩薩為主。一切菩薩圍繞。一一菩薩皆悉如是。又如諸方皆來證誠同其名號。一切十方證誠皆亦如是。所以成其無盡復無盡。而不失因果先後次第。而體無增減故經云。一切眾生盡成佛。佛界亦不增。眾生界亦不減。若無一眾生成佛眾生界亦不增。佛界亦不減也。
第三祕密隱顯俱成門者。此約緣起說也。還具前教義十門。所言隱顯者。如涅槃經半字及滿字。昔說半字故半字即顯。滿字即隱。今日說滿字。即滿字即顯半字即隱。此即約緣而說隱顯。又如月喻品云。此方見半(他方見滿)。而彼月性實無虧盈。隨緣所見故有增減。此即是大乘宗中說。若通宗辨者不待說與不說。常半常滿隱顯無別時。如彼月性常滿而常半。半滿無異時。是故如來於一念中。八相成道生時即是滅時。同時俱成故。所以稱祕密。如似十數一即十一即是顯。二三四至十即為隱。又眼根入正受即是顯。於色法中三昧起即名隱。而此隱顯體無前後。故言祕密也。
第四微細相容安立門者。此就相說。如一微塵。此即是其小相。無量佛國須彌金剛山等即其大相。直以緣起實德無礙自在致使相容。非是天人所作故安立。如似一微塵中有穢國土。而即於此微塵中具有不可說淨國。在此微塵中而於彼穢國不相妨礙。而此淨國之相仍亦不失。乃至有諸國土尸羅盆幢形三方及四維等國。在此一微塵中常不相妨礙。故普賢品云。一切諸世界入於一微塵中。世界不積聚。亦復不離散。故知。若與普相應能於一微塵中見不可說國土。而不雜亂不增不減。豈可須彌納芥子將為難事哉。理事等十門安立相容亦如是。問此相容門與前因陀羅網門有何別耶。答諸門隱映互相顯發重重(復重重成其無)盡者。即是因陀羅網門中攝。若諸門一時具顯不相妨礙。即是相容門中攝。
第五十世隔法異成門者。此約三世說。如離世間品說。十世者過去說過去。過去說未來。過去說現在。現在說現在。現在說未來。現在說過去。未來說未來。未來說過去。未來說現在。三世為一念。合前九為十世也。如是十世以緣起力故。相即復相入而不失三世。如以五指為拳不失指。十世雖同時而不失十世。故經云。過去劫入未來。現在劫入過去。現在劫入過去。未來劫入現在。又云。長劫入短劫。短劫入長劫。有劫入無劫。無劫入有劫。又云。過去是未來。未來是過去。現在是過去。菩薩悉了知。又云。無盡無數劫能作一念頃。非長亦非短。解脫人所行如是。十世相入復相即。而不失先後短長之相。故云隔法異成。教義理事等十門相即相入。而不失先後差別之相。故名異成也。
第六諸藏純雜具德門者。此約諸度門說。何者如似就一施門說者。一切萬法皆悉名施。所以名純。而此施門即具諸度等行。故名為雜。如是純之與雜不相妨礙。故名具德。如大品經一念品明。從始至終不出一念。即名為純。而此一念之中具於萬行。即名為雜。雖爾而與此中純雜義別。何者如彼經一念者。同是無得相應不明緣起德用。若此明純者。若約施門一切皆施。若說忍門一切皆忍。說忍門者諸行如虛空。即名為純。而此忍門具足諸門。即名為雜。純雜不相亂故名具德。故不同彼念品。又問此與六度相攝義有何別耶。答六度相攝義者。如似以施攝諸度。而諸度非是施。若此明者以施攝諸門。無門不是施。以緣起力故不同六度相攝。故一攝於九十而九十等皆是一。是故名為純。而一內即具九十等。是故復名雜。故知。不同相攝義。問此與大品相資義復有何別耶。彼中資者闕一即不成。此中十數闕一亦不成。彼此二未審有何別耶。答彼言相資者而能非是所。今言十成一而一即是十。所以不同資義。
第七一多相容不同門者。此約理說。以一入多。多入一故名相容。即體無先後。而不失一多之相。故曰不同。此即緣起實德非天人所修。故經云。以一佛土滿十方。十方入一亦無餘。世界本相亦不壞。自在願力故能爾。又如普賢品云。一切眾生身入一眾生身。一眾生身入一切眾生身。又云。一切諸世界令入一塵中。世界不積聚。亦復不雜亂。須彌入芥子。此即不說也。
第八諸法相即自在門者。此約用說。還就約教義理事等十門。取其三種世間圓融無礙自在。故一即攝一切。成其無盡復無盡。以其無盡故相即復相入。此約用以說。問此明其無盡復無盡。相即復相入。與前因陀羅網。及微細相容門有何差別耶。答如譬說同體門中說者。若就隱映相應互相顯發。重重復重重成其無盡者。即是因陀羅網門攝。若諸門一時具顯不相妨礙者。是相容門攝。若就三世圓融無礙自在。相即復相入成其無盡復無盡者。即是此門攝。問若如是相即即復相入成其無盡復無盡者。此乃渾無疆界。何始何終何因何果耶。答此據法界緣起體性成其無盡復無盡。故先後因果不失。雖不失先後而先後相即復相入。故成其無盡。以先後相即復相入故初發心時便成正覺。如前章門。一即一切無盡亦復無盡。二三亦復爾。故此經歎初發心功德云。彼一念功德深廣無邊際。如來分別說窮劫不可盡。此即明其一即一切成其一切無盡。又云。何況於無量無數無邊劫具足。修諸度諸地功德行。此即是從二三至九十皆成無盡。以是故從十信終心。至十住十行及十迴向地等。皆悉明成佛者。良由始終相即復相入成無盡故。問如前明果德絕於說相。云何十信終心即具佛果德用耶。若十信同果德者。即果德是可說之相。何不可說耶。答因位菩薩有果德者。欲彰果德是不可說。是故歎德文云。菩薩在此一地。普攝一切諸地功德。問若一地即攝一切諸地功德。一即一切初即攝後者。一門即具何用餘門也。答若無餘門一門即不成故。如一升即攝一斗。若無一升此斗即不成。問若無升即無斗者。今舉一升即得一斗以不。若一升不得一斗。一行不得具一切行。答十升合成一斗。既無其升時將何作斗。故如無升即無斗。有升即有斗。今舉升即斗。斗升之外無別升斗。如龜毛兔角不可得。初心即成佛。成外無別修。其相如虛空。是故言初心成佛者。非謂不具諸功德。如經說。普莊嚴童子一生具見佛聞法。即得三昧即至後際見佛。滅度後復得三昧。如經一生得見聞。若熏習二生成其解行。三生得入果海。同一緣起大樹而此三生只在一念。猶如遠行到在初步。然此初步之到非謂無於後步。明此童子得入果海。非不久植善根。問既言久修始得者。云何言一念得耶。答言久修行善根者。即在三乘教攝。從三乘入一乘。即是一念始終具足。故經云初發心時便成正覺。乃至具足慧身不由他悟。譬眾流入海。纔入一滴即稱周大海無始無終。若餘江河水之深不及入大海一滴。故即用三乘中修。三乘多劫不及與一乘中一念。故下明善財從文殊所。發心求善知識。經歷一百一十城已。而不如一念得見普賢菩薩。故知得入此緣起大海。一念豈不成佛耶。至如初坐用心之徒但取靜心即言成佛者。此亦謂。佛成在而不得是圓極之成。如諸江河亦得是水。未得同於大海之水。此中通辨一念成佛義者。若小乘說要三大阿僧祇劫滿百劫。修行相好業始得成佛。行若滿意欲不成佛亦不得。故無一念成佛義。若大乘明一念成佛義者凡有二種。一者會緣以入實性無多少。故明一念成佛義。如大品經一念品義是也。二者行行既滿取最後念。名為成佛。如人遠行以後步為到。此亦分用緣起。而明三僧祇劫修道。地前是一僧祇。初地至七地是二僧祇。八地至十地是三僧祇。然亦不定由有一念成佛。故明知不定。若一乘明一念成佛。如大乘取最後一念成佛。即入一乘。以後望初初念即是成。何故以因果相即同時應。故欲論其成者。成復成成復成。眾生欲在後成佛者。在後復在後在後復在後。故不思議品云。諸佛如來非不先覺。為眾生故於念念中新新斷結。亦不住學地而成正覺。故今舉一念成者。即與佛同時位未見究竟。故復有淺深之殊。如人始出門及與久遊他土。雖同在空中而遠近有別。是故信住等位各各言成佛者。而復辨其淺深。此須善思之。
第九唯心迴轉善成門者。此約心說。所言唯心迴轉者。前諸義教門等。竝是如來藏性清淨真心之所建立。若善若惡隨心所轉故云迴轉善成。心外無別境故言唯心。若順轉即名涅槃。故經云心造諸如來。若逆轉即是生死。故云三界虛妄唯一心作。生死涅槃皆不出心。是故不得定說性是淨及與不淨。故涅槃云。佛性非淨亦非不淨。淨與不淨皆唯心。故離心更無別法。故楞伽經云。心外無境界無塵虛妄見。問若心外更無別境。有無皆由心成者。如人先見障外有物。別有人去物時心由謂有。爾時物實無何名由心成耶。答若隨虛妄心中轉者。此障外物亦隨心之有無。此亦心隨去物不去物而轉。若論如來藏性真實淨心說者。此物不動本處。體應十方。性恒常轉縱移到他方。而常不動本處。此即緣起自在力。然非是變化幻術所為。是故雖復七處九會。而不離寂滅道場。維摩云。文殊師利不來相而來。不見相而見。此之謂也。
第十託事顯法生解門者。此約智說。言託事者如經舉金色世界之事。即顯始起於實際之法。一切幢一切蓋等事是行體也。又如法界品云。開樓觀門相見彌勒菩薩所行因事至菩提道場。以樓觀則菩提相。所以言顯法主解也。若大乘宗中所明亦託事以顯法。即以異事顯於異理法。此中以事即法故隨舉一事攝法。無盡故前舉旛幢等。皆言一切。所以不同大乘說也。此中明因果者如一乘說也。
華嚴一乘十玄門(終)
華嚴大教闡揚十玄門者。此為鼻祖。賢首仍之載於教義章內。大意相同而文有詳略。及作探玄記改易二名。用一華葉演說為清涼懸談張本。後人不知。以為清涼十玄與賢首有異者。蓋未見探玄記也。今教義章與懸談並行於世。而復刻此卷。欲令人知其本源耳(楊文會記)。

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