ご支援淨心禪堂すべての経典
メインコンテンツにスキップ
  1. 一乗法界図終 (一乘法界圖終)
  1. 華厳一乗法界図 (華嚴一乘法界圖)
  2. 一乗法界図終 (一乘法界圖終)

華厳一乗法界図 (華嚴一乘法界圖)

「華嚴一乘法界圖」について

新羅 · 義湘撰 著

7,233 字 · 約 24 分

華厳一乗法界図は、新羅の高僧・義湘大師によって七世紀に著されました。この作品は詩と図によって『華厳経』の核心を凝縮し、法界縁起や「一即一切」という円融無碍の深遠な哲理を明らかにしています。新羅で華厳宗が栄えた時代に生まれ、東アジア仏教における重要な文献となりました。この図は華厳思想を体系的にまとめただけでなく、独特の図解によって宇宙のすべてが互いに含み合っている真理を示しており、海東華厳教学の最高峰と称され、中国と韓国の仏教哲学の発展に深い影響を与えています。


華嚴一乘法界圖

華厳一乗法界図

夫大聖善教無方。應機隨病非一。迷者字迹。不知失體。懃而歸宗末日。故依理據教。略制槃詩。冀以執名之徒。還歸無名真源。讀詩之法。宜從中法為始。繁迴屈曲。乃至佛為終。隨印道讀(五十四角二百一十字)。

大いなる聖者の善き教えは、一つの形に留まらず、衆生の機根に応じ、病に随って様々に示されます。しかし、迷える者は文字の跡ばかりを追い、その本質を見失ってしまうのです。そこで、末法の世に帰依する者たちのために、真理に基づき教えに依り、簡潔に槃詩をまとめました。名相に執着する者たちが、名もなき真実の源へと還ることを願って。

詩を読む方法は、中央の法から始め、複雑に巡り曲がりながら、最後に仏に至るようにします。印に随って道を読み進めてください。

死 ─ 涅 ─ 槃 ─ 常 ─ 共 ─ 和 是 ─ 故 界 ─ 實 ─ 寶 ─ 殿 ─ 窮 ─ 坐

死は涅槃であり、常であり、和である。ゆえに、この世界こそが真実の宝殿であり、その中で安らかに坐している。

│ │ │ │ │ │

ご質問ありがとうございます。しかし、現時点では翻訳するテキストが確認できません。空白や区切り記号のみが表示されており、実際の中国語の仏教経典本文が含まれていません。

お手数ですが、翻訳したいテキストをもう一度貼り付けていただけますか?そうすれば、アクセスしやすい現代日本語訳を提供させていただきます。

生 意 ─ 如 ─ 出 ─ 繁 理 益 行 法 意 ─ 如 ─ 捉 ─ 巧 實

生きることの意味 ─ 真実のままに ─ 現れ出る ─ 繁り茂る

真理の利益 ─ 行いの法則 ─ 心の意味 ─ 真実のままに ─ 捉えられる ─ 巧みな真実

│ │ │ │ │ │ │ │ │ │

申し訳ありませんが、翻訳するテキストが提供されていないようです。枠線や空白のみが表示されており、翻訳対象の中国語の仏教経典本文が含まれていません。

翻訳したいテキストを改めてご提供いただけますでしょうか。

覺 不 人 ─ 境 中 事 利 者 嚴 歸 資 ─ 糧 善 際

覚えることなき人は、境遇の中にあって、事を成し、利益を得る者である。厳かなる帰依と資糧は、善き縁を結ぶ。

│ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │

申し訳ありませんが、翻訳するテキストが含まれていません。縦棒(│)のみが並んでおり、翻訳対象の中国語仏典本文が見当たりません。

翻訳したいテキストをご提供いただければ、日本語のわかりやすい現代語訳をお作りします。

正 思 大 能 昧 冥 得 還 莊 家 得 以 緣 中

正しい思いは、大きな力を生み出します。 無知と迷いを超え、再び輝きを取り戻すのです。 家を荘厳にし、縁を結び、中道を得るために。

│ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │

│   │   │   │   │   │   │   │   │   │   │   │   │   │

便 議 賢入三 然 器 本 寶 隨 ─ 分 陀 無 道

分け入るは賢き者、三つの宝器に随う。 本然の道は、無量陀の如し。

│ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │

│   │   │   │   │   │   │   │   │   │   │   │   │   │

時 雨 善 海 ─ 印 無 隨 際 盡 ─ 無 ─ 尼 ─ 羅 得 床

時に、雨が善く海を潤す。 印は無く、床に随う。 際は尽きることなく、尼は羅を得る。

│ │ │ │ │ │ │ │

申し訳ありませんが、翻訳するテキストが含まれていません。元の漢文テキストを提供していただければ、日本語に翻訳いたします。

心 寶 佛 ─ 十 ─ 別 ─ 分 生 叵 ─ 息 ─ 忘 ─ 想 ─ 必 ─ 不 舊

心は宝なり。仏は十方に別れ、生死は息の如し。忘想せざれば必ず旧に還らず。

│ │ │ │

申し訳ありませんが、翻訳するテキストが含まれていません。枠線や空白のみが表示されており、翻訳すべき本文が見当たりません。

翻訳したい仏典の本文を改めてお送りください。

發 益 ─ 生 ─ 滿 ─ 虛─空─ 眾 法 佛 ─ 為 ─ 名 ─ 勤 ─ 不 ─ 來

空しい、すべての現象は移ろいゆくものであり、怠ることなく仏の名を呼びなさい。

│ │

│                           │

初 ─ 成 ─ 別─隔─ 亂 ─ 雜 ─ 不 性 餘 ─ 境 妙 ─ 不 ─ 守 ─ 自

初めて、成り、別れ、隔たり、乱れ、雑じり、不純なもの、性質、余り、境涯、妙なるもの、不変、守るべきもの、自ら。

│ │ │ │ │ │

申し訳ありませんが、翻訳するテキストが含まれていないようです。パイプ記号(│)のみが表示されていますが、これはおそらく表形式やレイアウトの区切り記号で、実際の経文の内容が欠落していると思われます。

翻訳したい仏教経典の本文を改めてご提供ください。

十 ─ 方 ─ 一 ─ 切 ─ 塵 ─ 中 仍 圓 非 真 徹 無 ─ 名 性

十方の一切の塵の中に、円かにして真に徹し、名づけようのない本性がある。

│ │ │ │ │ │ │ │ │ │

申し訳ありませんが、翻訳する本文が含まれていないようです。お手元の原始テキスト(中国語の仏教経典)をそのまま貼り付けていただけますか? できるだけ早く、わかりやすい現代日本語に翻訳いたします。

含 即 ─ 念 ─ 一 ─ 念 亦 即 融 知 性 極 相 無 隨

一つの念には、すべてが含まれている。一つの念は、そのまますべてが融け合い、極まりない真理のすがたを知り、あるがままに随っている。

│ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │

申し訳ありませんが、翻訳対象の本文が見当たりません。枠線や空白のみが送信されているようですので、翻訳する内容がありません。

翻訳したい仏典の本文をもう一度お送りください。喜んで日本語に翻訳いたします。

中 是 劫 ─ 即 ─ 一 如 相 無 所 甚 ─ 深 絕 寂 緣

このように、一切のものごとはただ一つの姿かたちを持ち、それ以上に深い意味はなく、すべての縁から離れて静まりかえっている。

│ │ │ │ │ │ │ │ │ │
塵 無 遠 ─ 量 ─ 無 ─ 是 互 二 智 ─ 證 ─ 切 ─ 一 來 成

塵もなく、遠くもなく、量もなく、無もなく、これこそが互いに成り立つ二つの智慧の証しであり、一切の一なるものです。

│ │ │ │ │ │
微 量 ─ 劫 ─ 九 ─ 世 ─ 十 ─ 世 相 ─ 諸 ─ 法 ─ 不 ─ 動 ─ 本 一

量劫を経ても九世も十世も、諸法の相は動くことなく、もとの一なるままである。

│ │

申し訳ありませんが、翻訳する本文が提供されていません。

一 ─ 一 ─ 即 ─ 多 ─ 切 ─ 一 ─ 即 ─ 一 ─ 一 ─ 中 ─ 多 ─ 切 ─ 一 ─ 中

一の中に一切があり、一切の中に一がある。

將欲釋文。二門分別。一總釋印意。二別解印相。問何以故依印。答欲表釋迦如來教網所攝三種世間。從海印三昧。槃出現顯故。所謂三種世間。一器世間。二眾生世間。三智正覺世間。智正覺者。佛菩薩也。三種世間攝盡法故。不論餘者。廣義者。如華嚴經說。

これから経典の内容を説明するにあたり、二つの観点から分けて見ていきます。第一に印の意味を全体的に説明し、第二に印の形を個別に解き明かします。

問い:なぜ印に基づくのですか。 答え:釈迦如来の教えの網が、三種の世界をすべて包み込んでいることを示したいからです。それは海印三昧から現れ出たものです。三種の世界とは、第一に器世間(物質的な世界)、第二に衆生世間(生きとし生けるものの世界)、第三に智正覚世間(悟りに目覚めた者の世界)です。智正覚とは、仏や菩薩のことです。この三種の世界がすべての法を包み尽くしているので、それ以外については論じません。広い意味での説明は、華厳経に説かれているとおりです。

第二別相門中。三門分別。一說印文相。二明字相。三釋文意。

第二、別相門では、三つの面から見ていきます。第一に印の文の相を説き、第二に字の相を明らかにし、第三に文の意味を解釈します。

一問。何故印文唯有一道。答。表如來一音故。所謂一善巧方便。何故多有繁迴屈曲。以隨眾生機欲不同故。即是當三乘教。何故一道無有始終。顯示善巧無方。應稱法界。十世相應圓融滿足故。即是義當圓教。何故有四面四角。彰四攝四無量故。此義依三乘。顯一乘。印相如是。

一問。なぜ印文にはただ一道だけがあるのか。答える。如来の一音を表すからである。いわゆる一つの善巧方便である。なぜ多くに繁迴屈曲があるのか。衆生の機根と欲とが同じでないことに従うからである。すなわちこれは三乗の教えに当たる。なぜ一道には始めも終わりもないのか。善巧に方所がないことを示すからである。法界に称うべきであり、十世が相応して円融し満足するからである。すなわちこれは義として円教に当たる。なぜ四面四角があるのか。四摂と四無量とを彰すからである。この義は三乗に依り、一乗を顕す。印相はこのようである。

二問。何故字中有始終耶。答。約修行方便。顯因果不同故。何故字中多屈曲。顯三乘根欲差別不同故。何故始終兩字。安置當中。表因果兩位法性家內真實德用。性在中道故。字相如是。

問い。なぜ字の中に始終があるのか。答える。修行の方便について、因果の違いを表すからである。なぜ字の中に多くの屈曲があるのか。三乗の根と欲の差別が異なることを表すからである。なぜ始と終の二字を中央に置くのか。因果の二つの位が、法性の家の内なる真実の功徳のはたらきであることを示すためである。性が中道にあるからである。字の相はこのようである。

問。上云因果不同。一家實德。性在中道。未知所由。其義云何。答。此義其實難解。雖然。依天親論主。以六相方便。立義分齊。准義道理。隨分可解。若約十句。以辨六相。如下說。今且約印像。以明六相。示一乘三乘主伴相成現法分齊。所謂六相者。總相。別相。同相。異相。成相。壞相。總相者根本印。別相者餘屈曲。別依止印。滿彼印故。同相者印故。所謂曲別而同印故。異相者增相故。所謂第一第二等曲別增安故。成相者略說故。所謂成印故。壞相者廣說故。所謂繁迴屈曲。各各自本來不作故。一切緣生法。無不六相成也。所謂總相者義當圓教。別相者義當三乘教。如總相別相成相壞相等。不即不離。不一不異。常在中道。一乘三乘。亦復如是。主伴相資。不即不離。不一不異。雖利益眾生。而唯在中道。主伴相成。顯法如是。一乘別教。三乘別教。准義可解。汝所問疑。義亦如是。初曲如因。乃至後曲如果。如初後不同。而唯在當中。雖因果義別。而唯住自如。依三乘方便教門。故高下不同。依一乘圓教。故無有前後。所以得知。如經說。又一切菩薩不可思議諸佛法明說令入智慧地故。論曰。一切菩薩者。謂住信行地。不可思議。諸佛法者。是出世間道品。明者見智得證。說者於中分別。入者信樂得證。智慧地者。謂十地智。如本分中說。此是根本入。如經。又一切菩薩不可思議諸佛法。明說令入智慧地故。此修多羅中。說依根本入有九種入。一者攝入。聞慧中攝一切善根故。如經攝一切善根故。二者思議入。思慧於一切道品中。智方便故。如經善分別選擇一切佛法故。三者法相入。彼彼義中。無量種種智故。如經廣知諸法故。四者教化入。隨所思義。名字具足善說法故。如經善說諸法故。五者證入。於一切法平等智。見道時中。善清淨故。如經無分別智清淨不離故。菩薩教化眾生。即是自成佛法。是故利他亦名自利。六者不放逸入。於修道時中。遠離一切菩提障故。如經一切魔法不能染故。七者地地轉入。出世間道品無貪等善根淨故。如經出世間法善根清淨故。復有善根。能為出世間道品因故。八者菩薩盡入。於第十地。入一切如來祕密智故。如經得不可思議境界故。九者佛盡入。於一切智人智故。如經乃至得一切智人智境界故。是諸入為挍量智義差別。次第轉勝。非根本入。一切所說十句中。皆有六種差別相門。此言說解釋。應知除事。事者謂陰界入等。六種差相者。謂總相別相成相壞相。總相者是根本入。別相者餘九。別依止本。滿彼本故。同相者入故。異相者增相故。成相者略說故。壞相者廣說故。如世界成壞故。餘一切十句中。隨義類知。論文如是。唯是論主立宗道理。故知雖因果信解行迴地佛自位不動。而無前後。何故。諸法各異。住自如故。一如多如。如如相不可得故。是故經云。問。云何深信佛法。答。一切諸法。唯佛所知。非我境界。若如是者。名為深信佛法。是其義也。

問い。上に因果は同じでないと説かれています。一家の実徳は、その性が中道にあります。まだその理由が分かりません。その意味はどのようなものでしょうか。答え。この意味は実に理解しがたいものです。そうではありますが、天親論主に基づき、六相の方便によって義の分斉を立てれば、義の道理に照らして、分に応じて理解することができます。もし十句について述べるならば、六相によって弁別することは、以下に説く通りです。今しばらく印像によって六相を明かし、一乗と三乗の主伴が互いに成り合う現法の分斉を示します。いわゆる六相とは、総相、別相、同相、異相、成相、壊相です。総相とは根本の印です。別相とはその他の屈曲であり、別々に印に依止し、その印を満たすからです。同相とは印であるからです。いわゆる曲が別でありながら同じく印であるからです。異相とは増相であるからです。いわゆる第一、第二などの曲が別々に増して安立されるからです。成相とは略説であるからです。いわゆる印を成じるからです。壊相とは広説であるからです。いわゆる繁く巡る屈曲が、それぞれ自ら本来作られないからです。すべての縁生の法は、六相によって成じられないものはありません。いわゆる総相は、その義は円教に当たります。別相は、その義は三乗教に当たります。総相と別相、成相と壊相などが、即でもなく離でもなく、一でもなく異でもなく、常に中道にあるように、一乗と三乗もまた同じです。主と伴が互いに資け合い、即でもなく離でもなく、一でもなく異でもなく、衆生を利益しながら、ただ中道にあります。主伴が互いに成じ合い、法を顕すことはこの通りです。一乗の別教、三乗の別教も、義に照らして理解できます。あなたが問うた疑いも、その意味はまた同じです。初めの曲は因のようであり、乃至後の曲は果のようです。初めと後が異なるように、ただ中にあります。因果の義は異なっていても、ただ自らの如にとどまります。三乗の方便教門に依るので、高下が異なります。一乗の円教に依るので、前後がありません。そうと知られるのは、経に説かれている通りです。また一切の菩薩の不可思議なる諸仏の法は、明らかに説いて智慧の地に入らせるからです。論に曰く。一切の菩薩とは、信行地に住む者をいいます。不可思議とは、諸仏の法とは、これ出世間の道品です。明とは、智を見て証を得ることです。説とは、その中で分別することです。入とは、信楽して証を得ることです。智慧の地とは、十地の智をいいます。本分の中で説かれる通りです。これが根本入です。経に、また一切の菩薩の不可思議なる諸仏の法は、明らかに説いて智慧の地に入らせるからです。この修多羅の中で、根本入に依って九種の入があると説かれます。第一は摂入です。聞慧の中で一切の善根を摂めるからです。経に一切の善根を摂めるからです。第二は思議入です。思慧が一切の道品の中で智の方便となるからです。経に善く一切の仏法を分別選択するからです。第三は法相入です。あれこれの義の中で無量の種々の智があるからです。経に広く諸法を知るからです。第四は教化入です。思うところの義に随って、名字が具足し善く法を説くからです。経に善く諸法を説くからです。第五は証入です。一切の法に対する平等の智が、見道の時の中で善く清浄であるからです。経に無分別智が清浄で離れないからです。菩薩が衆生を教化することは、すなわち自らの仏法を成じることです。それゆえ利他もまた自利と名づけます。第六は不放逸入です。修道の時の中で、一切の菩提の障りを遠離するからです。経に一切の魔法に染まらないからです。第七は地地転入です。出世間の道品の無貪などの善根が清浄であるからです。経に出世間法の善根が清浄であるからです。また善根があり、出世間の道品の因となることができるからです。第八は菩薩尽入です。第十地において、一切の如来の秘密の智に入るからです。経に不可思議の境界を得るからです。第九は仏尽入です。一切智人の智に入るからです。経に乃至一切智人の智の境界を得るからです。これらの入は、智の義を挍量する差別であり、次第に転じて勝れ、根本入ではありません。すべて説かれる十句の中に、みな六種の差別相の門があります。この言説の解釈は、事を除くべきだと知るべきです。事とは、陰界入などをいいます。六種の差相とは、総相、別相、成相、壊相です。総相とは根本入です。別相とは残りの九です。別々に本に依止し、その本を満たすからです。同相とは入であるからです。異相とは増相であるからです。成相とは略説であるからです。壊相とは広説であるからです。世界の成壊のようなものです。残りの一切の十句の中も、義に随って類推して知るべきです。論文はこの通りです。ただ論主が宗を立てる道理です。それゆえ因果、信解行、迴地、仏の自位が動かないといっても、前後がないと知られます。なぜなら、諸法はそれぞれ異なり、自らの如にとどまるからです。一の如も多くの如も、如如の相は不可得であるからです。それゆえ経に云く。問い。どのように深く仏法を信じるのでしょうか。答え。一切の諸法は、ただ仏のみが知るところであり、私の境界ではありません。もしこのようであるならば、深く仏法を信じると名づけます。これがその意味です。

問。六相者為顯何義。答。顯緣起無分別理故。以此六相義故。當知雖一部經七處八會及品類不同。而唯在地品。所以者何。是根本攝法盡故。地品中雖十地不同。而唯在初地。何以故。不起一地。普攝一切諸地功德故。一地中雖多分不同。而唯在一念。何以故。三世九世即一念故。一切即一故。如一念。多念亦如是。一即一切。一念即多念等。反前即是。以此理故。陀羅尼法。主伴相成。隨舉一法。盡攝一切。若約會說。會會中盡攝一切。若約品說。品品盡攝一切。乃至若約文說。文文句句盡攝一切。何以故。若無此。彼不成故。陀羅尼法法如是故如下說。

問。六相とは何の意義を明らかにするのか。答。縁起に分別のない理を明らかにするからである。この六相の意義によって、一部の経に七処八会があり、品類も異なっていても、ただ地品にあることを知るべきである。なぜなら、これが根本として法をすべて摂めるからである。地品の中に十地の違いがあっても、ただ初地にある。なぜなら、一地を離れずして、すべての諸地の功德を普く摂めるからである。一地の中に多くの部分の違いがあっても、ただ一念にある。なぜなら、三世九世はすなわち一念であり、一切はすなわち一であるからである。一念のように、多念もまた同じである。一はすなわち一切であり、一念はすなわち多念であるなど、前に反するものもまた同じである。この理によって、陀羅尼の法は、主と伴が互いに成り合い、一つの法を挙げれば、すべてを尽く摂める。もし会について説けば、会々の中で尽くすべてを摂める。もし品について説けば、品々で尽くすべてを摂める。さらには文について説けば、文々句々で尽くすべてを摂める。なぜなら、もしこれがなければ、それは成り立たないからである。陀羅尼の法は法としてこのようであるから、以下の説のように。

三釋文意。文有七言三十句。此中大分有三。初十八句約自利行。次四句利他行。次八句辨修行者方便及得利益。

三つに分けて文の意味を説明します。文には七言が三十句あります。ここでは大きく三つに分けられます。最初の十八句は自らを益する修行について述べ、次の四句は他者を益する行いについて述べ、次の八句は修行者の方便と得られる利益を明らかにしています。

就初門中有二。初四句現示證分。二次十四句顯緣起分。此中初二句指緣起體。二次二句約陀羅尼理用。以辨攝法分齊。三次二句即事攝法分齊。四次四句約世時示攝法分齊。五次二句約位以彰攝法分齊。六次二句總論上意。雖六門不同。而唯顯緣起陀羅尼法。初言緣起體者。即是一乘陀羅尼法。一即一切。一切即一。無障礙法法界也。今且約一門顯緣起義。所謂緣起者。大聖攝生。欲令契理捨事。凡夫見事即迷於理。聖人得理既無於事。故今舉實理。以會迷情。令諸有情。知事即無事即會理。故興此教。故地論言。自相者有三種。一者報相。名色共阿梨耶識生。如經於三界地復有牙生。所謂名色共生故。名色共生者。名色共彼生故。二者彼因相。是名色不離彼。依彼共生故。如經不離故。三者彼果次第相。從六入乃至於有。如經此名色增長已成六入聚。乃至有因緣故。有生老病死憂悲苦惱。如是眾生。生長苦聚。是中離我我所。無知無覺。如草木也。此中離我我所者。此二示現空。無知無覺者。自體無我故。草木者。示非眾生數故。當知十二因緣等。即體自性空。依彼阿梨耶識。生梨耶微細。自體無我。生十二因緣。十二因緣示皆無我。故緣生等。無有別法。佛舉緣起觀門。以會諸法。一切無分別。即成實性故。地論言。隨順觀世諦。即入第一義諦。是其事也。此義在三乘。亦通一乘。何以故。一乘所目故。若約別教一乘。略說十門。所謂因緣有分次第故。一心所攝故。自業成故。不相捨離故。三道不斷故。觀前後際故。三苦集故。因緣生故。因緣生滅縛故。隨順有盡觀故。如是十二因緣。一乘義攝。何故十番數說。欲顯無量故。問。十番因緣。為當前後。為當一時耶。答。即前後即無前後。何以得知。門不同故即前後。六相成故即前後。其義云何。十番雖別。而同成無我。故瓔珞經十番因緣。三乘義攝。何以故。唯教差別不同。廣如地論說。如十二因緣說。餘緣生諸法。准例可解。二陀羅尼法者。如下說。三即事攝法者。顯因陀及微細陀故。廣義如經。四所謂九世者。過去過去。過去現在。過去未來。現在過去。現在現在現在未來。未來過去。未來現在。未來未來世。三世相即及與相入。成其一念。總別合名故十世。一念者。約事念說也。五約位者。以六相方便。隨義消息。即可解也。六相者。如上說。問。緣起一言中。諸法無二。即顯了乎何須多門。答。體解即是。不須遠求。是故經言。婬惱癡性即是菩提。如是等迷極遠。是故佛教七種苦諦以外。別有菩提。三無數劫。如說修行。乃可得度。為迷之者須多門說。問。若如是者。法門無數。何故唯六門說耶。答。以六門說諸法。准例應可解故。略如是說。其實如言。六冥然無分別者。緣起法法如是故。准上可思。

初門には二つがある。初めの四句は証分を現示し、次の十四句は縁起分を顕す。このうち初めの二句は縁起の体を指し、次の二句は陀羅尼の理用について摂法の分斉を辨じ、三番目の二句は即事摂法の分斉、四番目の四句は世時について摂法の分斉を示し、五番目の二句は位について摂法の分斉を彰し、六番目の二句は以上の意を総論する。六門の違いはあれど、ただ縁起陀羅尼の法を顕すのみである。

初めに縁起の体とは、すなわち一乗陀羅尼の法である。一即一切、一切即一、障礙なき法法界である。今しばらく一門について縁起の義を顕す。いわゆる縁起とは、大聖が衆生を摂め、理に契り事を捨てさせようとされることである。凡夫は事を見てただちに理に迷う。聖人は理を得てすでに事に執着しない。ゆえに今、実理を挙げて迷情を会する。すべての有情に、事はすなわち無事であり理に会することを知らせるために、この教えを興すのである。ゆえに地論に言う。自相に三種がある。一つは報相、名色がともに阿梨耶識と生ずる。経に「三界の地においてまた牙が生ずる。いわゆる名色がともに生ずるがゆえに」とあるごとくである。名色がともに生ずるとは、名色がかの生とともに在るがゆえである。二つは彼の因相、この名色は彼を離れず、彼に依ってともに生ずるがゆえである。経に「離れざるがゆえに」とあるごとくである。三つは彼の果の次第相、六入より乃至有に至るまで。経に「この名色が増長してすでに六入の聚を成じ、乃至有の因縁あるがゆえに、生老病死憂悲苦悩あり。かくのごとき衆生は苦聚を生長す。これ中に我我所を離れ、無知無覚にして草木のごとし」とあるごとくである。この中に我我所を離れるとは、この二つは空を現示する。無知無覚とは、自体が無我であるがゆえである。草木とは、衆生の数に非ざることを示すがゆえである。まさに知るべきである、十二因縁などは即体自性空であり、かの阿梨耶識に依って生じ、梨耶は微細にして自体無我であり、十二因縁を生じ、十二因縁はみな無我を示す。ゆえに縁生などに別法はない。仏は縁起の観門を挙げて諸法を会し、一切無分別にしてすなわち実性を成ずるがゆえである。地論に言う。「世諦を随順して観ずれば、すなわち第一義諦に入る」とは、まさにこの事である。この義は三乗にあり、また一乗にも通ずる。なぜか。一乗に所目されるがゆえである。もし別教一乗に約せば、略して十門を説く。いわゆる因縁に分次第あるがゆえ、一心に所摂せらるるがゆえ、自業に成ずるがゆえ、相捨離せざるがゆえ、三道断ぜざるがゆえ、前後際を観ずるがゆえ、三苦集なるがゆえ、因縁生なるがゆえ、因縁生滅の縛なるがゆえ、有尽観を随順するがゆえである。かくのごとき十二因縁は、一乗の義に摂せられる。なぜ十番に数説するのか。無量を顕さんと欲するがゆえである。

問う。十番の因縁は、前後に当たるのか、それとも一時に当たるのか。答う。前後即ち無前後である。いかにして知るか。門が異なるがゆえにすなわち前後である。六相が成ずるがゆえにすなわち前後でない。その義はいかん。十番は別なりといえども、ともに無我を成ずるがゆえである。ゆえに瓔珞経の十番因縁は、三乗の義に摂せられる。なぜか。ただ教の差別が異なるのみである。広くは地論に説くがごとくである。十二因縁に説くがごとく、余の縁生の諸法も、准例して解すべきである。

二に陀羅尼の法とは、下に説くがごとくである。三に即事摂法とは、因陀羅および微細陀を顕すがゆえである。広義は経のごとくである。四にいわゆる九世とは、過去過去、過去現在、過去未来、現在過去、現在現在、現在未来、未来過去、未来現在、未来未来世である。三世相即および相入して、その一念を成ずる。総別合して名づけてゆえに十世となる。一念とは、事念に約して説くのである。五に位に約すとは、六相の方便をもって、義に随って消息すれば、すなわち解すべきである。六相とは、上に説くがごとくである。

問う。縁起の一言の中に諸法無二であり、すなわち顕了であるならば、何ゆえ多くの門を須いるのか。答う。体解すればすなわちこれである。遠く求むるを須いない。ゆえに経に言う。「婬悩癡の性はすなわちこれ菩提である」と。かくのごときなどは迷い極めて遠い。ゆえに仏教には七種の苦諦のほかに、別に菩提あり、三無數劫、説のごとく修行して、すなわち度を得べし。迷える者のために多くの門を須いて説くのである。

問う。もしかくのごとくならば、法門は無數である。何ゆえただ六門のみ説くのか。答う。六門をもって諸法を説けば、准例して解すべきがゆえに、略してかくのごとく説く。実に言のごとくんば、六は冥然として無分別である。縁起の法は法としてかくのごとくであるがゆえに、上に准じて思うべきである。

二就利他行中。印者約喻得名。何者。是大海極深。明淨徹底。天帝共阿修羅鬪諍時。一切兵眾。一切兵具。於中離現了了分明。如印顯文字。故名海印。能入。三昧亦復如是。窮證法性。無有源底。以究竟清淨。湛然明白。三種世間於中顯現。名曰海印。繁者熾盛義故。出者涌出無盡故。如意者從喻得名。如意寶王無心而雨寶益生。隨緣無窮。釋迦如來善巧方便。亦復如是。一音所暢。應眾生界。滅惡生善。利益眾生。隨何用處。無不如意。故名如意。

二、利他の行について述べる中で、「印」という語は喩えによって名づけられています。なぜでしょうか。それは大海がきわめて深く、清らかで澄み切っていることによります。天帝と阿修羅が戦い争うとき、すべての兵士も、すべての武器も、その中にありありと映り現れて、はっきりと分明です。あたかも印が文字を浮かび上がらせるかのようです。それゆえ「海印」と名づけます。「能入」の三昧もまた同じです。法性を究め証して、その源や底がありません。究竟して清浄であり、澄みきって明らかです。三種の世間がその中に現れるので、「海印」と名づけます。「繁」は盛んに燃え上がるという意味です。「出」は尽きることなく涌き出るという意味です。「如意」は喩えによって名づけられています。如意宝王は心を持たずに宝を雨のように降らせ、人を益し、縁に随って尽きることがありません。釈迦如来の善巧方便もまた同じです。一つの音で説き述べ、衆生の世界に応じて、悪を滅ぼし善を生じ、衆生を利益します。どのような用い方をするにしても、意のままにならないことはありません。それゆえ「如意」と名づけます。

三約修行方便者。此中有二。一明修行方便。二辨得利益。初門行者。謂見聞一乘普法已去。未滿證普法已還。是此約別教一乘說也。若約方便一乘說。五乘總是入一乘攝。何以故。以一乘所流一乘所目一乘方便故。若約此義。總攝五乘。一乘修行者亦得所流所目者。約緣起道理語。方便者。約智語。何以故。進趣不住。名曰方便。不迴心者。不名方便故。亦可約聖者意說。何以故。以善方便。引接眾生故。如五乘說人法因果。解理事教義等一切諸法。准例如是。

三、修行の方便について述べる。これには二つある。一つには修行の方便を明かし、二つには利益を得ることを辨ずる。

初めの門の行者とは、一乗の普く法を聞き見る位より已去、未だ普く法を証するに満たざる位已還をいう。これは別教一乗について説くのである。

もし方便一乗について説くならば、五乗はすべて一乗に摂められる。なぜか。一乗の流れ出るもの、一乗の目的とするもの、一乗の方便であるからである。この義によれば、五乗を総じて摂めるのである。

一乗の修行者もまた、流れ出るもの・目的とするものとして得られる。縁起の道理からいえば「所流・所目」といい、智慧からいえば「方便」という。なぜか。進み趣くことがとどまらないのを方便という。心を回さないものは方便とはいわないからである。

また聖者の意から説くこともできる。なぜか。善き方便をもって衆生を引き接するからである。五乗において人・法・因・果を説き、理・事・教・義などの一切の諸法を解するのと同じように、准じて例知すべきである。

問。所謂五乘等法。為是能詮教法耶。為是所詮義耶。答。能詮所詮一切諸法。皆在言中。其義如所詮之法相皆絕。諸佛世尊。以大慈悲本願力故。諸佛家法。法如是故。施設言教。為眾生說。以是義故。教網所攝一切諸法。皆悉在言。是故經言一切諸法但有名字。即其義也。

問い。いわゆる五乗などの法は、能詮の教法なのでしょうか、それとも所詮の義なのでしょうか。答え。能詮所詮の一切の諸法は、みな言葉の中にあります。その義は、所詮の法相のごとく、すべて絶えています。諸仏世尊は、大慈悲と本願の力のゆえに、諸仏の家の法がそのようであるがゆえに、言葉の教えを施設して、衆生のために説かれました。この義のゆえに、教網に摂められる一切の諸法は、すべて言葉の中にあります。それゆえ経に「一切の諸法はただ名前のみあり」と説かれているのです。まさにその意味であります。

問。證分之法。言相不及。言教之法。在於事中者。證教兩法。常在二邊過為。答。若約情說。證教兩法。常在二邊。若約理證教兩法。舊來中道。一無分別。所以得知遍計無相。依他無生。真實無性。三種自性常在中道。三法以外。更無證教。是故當知。一無分別。是故至人得此理故。名相不及。為生說故。言在事中。故經偈云。一切諸如來。無有說佛法。隨其所應化。而為演說法。即其義也。是故聖者隨遍計故建立三性。且安窮心。漸漸已後現三無性。覺悟夢人。此即聖者大善巧也。問。如攝論云。遍計所執凡夫境界。依他真實聖智境界。何故聖者隨遍計耶。答。遍計諸法。顛倒故有。是故論云。凡夫境界。畢竟空故。無所可對。是故論中非聖境界。非謂智空非聖境界。是故聖者慈悲方便。隨眼病故。言說空華。有何妨難。竟在於此。依他起相。從因緣生。無有自性。離二邊過。與無我同。圓成實性。平等法。圓融彼此。不可分別。舊來一味。以此義故。分別不及。是故論言聖智境界。別意如是。若約實說。三種自性皆是凡夫境界。何以故。隨性說事安立。三種自性即聖智境界。何以故。隨智顯理。非安立故。是故經中亦有處三性以外。不立三無性。亦有處三性以外。別立三無性。所以者何。隨情安立。約解門故。別立三無性。隨智顯理。約行門故。三以外不立三無性。尚二以外無有真實。何況三性以外別有三無性。所以得知無相等智現前。畢竟無法可對。唯在中道故。是故須解教立所由。

問。証分の法は言葉や形では及びません。言教の法は事の中にあります。この証と教の二つの法は、常に二つの極端に偏るのでしょうか。答。心情に基づいて言えば、証と教の二つの法は常に二辺にあります。理に基づいて言えば、証と教の二つの法はもともと中道であり、一つとして分別がありません。ですから、遍計は相がなく、依他は生じることなく、真実は性がないと知ることができます。三種の自性は常に中道にあります。三つの法のほかに、さらに証や教があるわけではありません。ですから、一つとして分別がないと知るべきです。それゆえ、至人はこの理を得ているので、言葉や形では及びません。衆生のために説くために、事の中にあると言うのです。ですから経の偈にこうあります。「一切の諸如来は、説くところの仏法はない。その応化に従って、ために法を演説する。」これがその意味です。それゆえ聖者は遍計に従って三性を建立します。まず心を尽くして安んじ、しだいに後に三無性を現し、夢の人を覚悟させます。これはすなわち聖者の大いなる善巧です。問。摂論にこうあります。遍計所執は凡夫の境界であり、依他と真実は聖智の境界である。なぜ聖者は遍計に従うのですか。答。遍計の諸法は、顛倒しているがゆえに存在します。ですから論にこうあります。凡夫の境界は、畢竟空であるがゆえに、対すべきものがない。ですから論では聖者の境界ではないと言います。智が空であるから聖者の境界ではない、ということではありません。ですから聖者は慈悲方便をもって、眼病に従って、空華を言説するのです。何の妨げや難があるでしょうか。ここに極まっています。依他起相は、因縁から生じ、自性がなく、二辺の過を離れ、無我と同じです。円成実性は、平等の法であり、彼此を円融し、分別できません。もともと一味です。この意味によって、分別は及びません。ですから論に聖智の境界と言います。別の意味はこのようであります。実に基づいて言えば、三種の自性はみな凡夫の境界です。なぜなら、性に従って事を説いて安立するからです。三種の自性はすなわち聖智の境界です。なぜなら、智に従って理を顕すからです。安立ではないからです。ですから経の中にも、三性のほかに三無性を立てないところもあり、三性のほかに別に三無性を立てるところもあります。なぜなら、情に従って安立し、解門に約して、別に三無性を立てるからです。智に従って理を顕し、行門に約するがゆえに、三のほかに三無性を立てません。まだ二のほかに真実がないのですから、ましてや三性のほかに別に三無性があるでしょうか。ですから、無相などの智が現前し、畢竟として対すべき法がないと知ることができます。ただ中道にあるがゆえに。ですから、教を立てる所以を解する必要があります。

問。如上所言。證分之法。及緣起分法。有何差別。答。別不別。其義云何。證分之法約實相說。唯證所故。緣起分法為從眾緣生。無有自性。與本不異。是故不別。

問い。以上のように言われる、証分の法と縁起分の法には、どのような違いがあるのですか。答え。別か別でないか、その意味はどういうことか。証分の法は実相について説かれたもので、ただ証によって知られるからである。縁起分の法は、さまざまな縁から生じたもので、自性がなく、もとのものと異ならない。したがって別ではない。

問。若如是者。以自所證。為眾生說。與末不異。尋常差別耶。答。得其義若為所證在言。與末不異。言說在證。與本不異。與本不異故。用而常寂。說而不說。與末不異故。寂而常用。不說而說。不說而說故。不說即非不說。說而不說故。說即非說。說即非說故。說即不可得。不說即非不說故。不說即不可得。二俱不可得故。二俱不相妨。以是義故。說與不說。等無差別。生與不生。等無差別。動與不動。等無差別。一切差別相對法門。准例如是。故經云。有為無為一切諸法。有佛無佛性相常住。無有變異。是其義也。亦可正說法中。言說以外。更無別義。以言為義。正義法中。正義以外。更無別言。以義為言。以義為言故。言無非義。以言為義故。義無非言。義無非言故。義即非義。言無非義故。言即不言。言即非義故。二俱不可得。是故一切法。本來在中道。中道者通言非言。何以故。諸法實相。不在言中。離名性故。言說法不在真性。在機益故名無真性。離名性故名而無名。名而無名故。以名求實。實不可得。名無真性故。名而無我同故名。性不可得。以此義故。二俱不可得。唯證所知。非餘境界。是故經云。一切諸法。唯佛所知。非我境界。

問い。もしそうであるなら、自ら証したことを衆生のために説くのは、末と異ならないのか。ふつうの区別があるのか。

答え。その意味を得るならば、所証が言葉にあるなら末と異ならない。言葉が証にあるなら本と異ならない。本と異ならないから、用いても常に寂かである。説いても説かない。末と異ならないから、寂かでありながら常に用いる。説かなくても説く。説かなくても説くから、説かないことがすなわち説かないのではない。説いても説かないから、説くことがすなわち説くのではない。説くことがすなわち説くのではないから、説くことはすなわち得られない。説かないことがすなわち説かないのではないから、説かないこともすなわち得られない。二つとも得られないから、二つとも互いに妨げない。

この意味によって、説くことと説かないことは等しく差別がない。生と不生も等しく差別がない。動と不動も等しく差別がない。すべての差別・相対の法門も、これに準じて同様である。だから経にいう。「有為無為の一切の諸法は、仏があってもなくても、性相は常住であり、変異はない」と。これがその意味である。

また、正しい説法の中では、言説以外にさらに別の意味はない。言を以て義とする。正しい義の中では、正義以外にさらに別の言はない。義を以て言とする。義を以て言とするから、言は義でないものはない。言を以て義とするから、義は言でないものはない。義は言でないものはないから、義はすなわち義ではない。言は義でないものはないから、言はすなわち言ではない。言はすなわち義ではないから、二つとも得られない。

だから一切の法は、本来、中道にある。中道とは、言と非言に通じる。なぜか。諸法の実相は言の中にはない。名を離れた性だからである。言説の法は真性にはない。機への利益にあるから、無真性と名づける。名を離れた性だから、名づけて而も名なし。名づけて而も名なしだから、名を以て実を求めるに、実は得られない。名に真性がないから、名でありながら我がないのと同じである。だから名づけて、性は得られない。この意味によって、二つとも得られない。ただ証する者のみが知るところであり、他の境界ではない。だから経にいう。「一切の諸法は、ただ仏のみが知るところであり、私の境界ではない」と。

問。前後兩義何別。答。前義可別。以本末相即相即相融顯中道。後義以名義互為客顯無我義。所顯道理不理。能詮方便別。此即本末相資。名義互客。開噵眾生。令致自無名真源。能化所化宗要在此。問。此義義當頓教宗。何故此間說。答。如上說。說與不說等無差別。何以故。總是實德故。無有妨難。且護分別故。順三乘說。蓋是智者勝妙能也。如上證分及緣起分義。當論中義大教大也。背反分別。得無分別。名曰無緣。順理不住。故名善巧。如說終行得聖者意。故名為捉。如意如前。歸家者。證本性故。家者何義。陰覆義。住處義故。所謂法性真空。覺者所住。故名為宅。大悲善巧蔭覆眾生。名曰為舍。此義在三乘。一乘方究竟。何以故。應法界故。所謂法界陀羅尼家。及因陀羅家。微細家等。此是聖者所依住故。名曰為家。隨分者。未滿義故。資糧者。助菩提分故。如下經離世間品中二千答等是也。二明得益。謂陀羅尼者。總持故。如下數十錢法中說。實際者。窮法性故。中道者。融二邊故。坐床者。攝一切故。安在法界十種涅槃廣大寶床。攝一切故。名曰坐床。寶者可貴故。床者即攝攝義故。十種涅槃者。如下經離世間品說。舊來不動者。舊來佛義故。所謂十佛如華嚴經。一無著佛。安住世間。成正覺故。二願佛。出生故。三業報佛。信故。四持佛隨順故。五化佛。永度故。六法界佛。無處不至故。七心佛。安住故。八三昧佛。無量無著故。九性佛。決定故。十如意佛。普覆故。何故十數說。欲顯多佛故。此義諸法之真源。究竟之玄宗。甚深難解。宜可深思。

問:前後の二つの意味はどう違うのですか。 答:前の意味は区別できる。本と末が相即し、相融合して中道を顕すからである。後の意味は、名と義が互いに客となり、無我の義を顕すからである。顕される道理に違いはなく、能詮の方便に違いがある。これすなわち本末が相資け、名と義が互いに客となって、衆生を開導し、自らの名もない真源に至らせる。能化と所化の宗要はここにある。

問:この義は頓教の宗に当たるはずだが、なぜここで説かれるのか。 答:前述のとおり、説くことと説かないことは等しく差別がない。なぜか。すべて実徳であるからである。妨げや難いはない。ただし分別を護るために、三乗に順じて説く。これは智者のはたらきの勝れた妙なる力である。前述の証分および縁起分の義は、論中の義大・教大に当たる。分別に背き、無分別を得ることを無縁と名づける。理に順い、とどまらないから善巧と名づける。説くところによれば、ついに聖者の意を得るから、これを「捉」と名づける。如意については前述のとおり。

家に帰るとは、本性を証するからである。家とは何の義か。陰覆の義、住処の義である。いわゆる法性の真空は、覚者の住むところであるから、これを宅と名づける。大悲の善巧が衆生を蔭覆することを、舍と名づける。この義は三乗にあり、一乗においてこそ究竟する。なぜか。法界に応じるからである。いわゆる法界陀羅尼の家、因陀羅の家、微細の家などである。これは聖者の依り住むところであるから、家と名づける。

随分とは、まだ満たないという義である。資糧とは、菩提分を助けるからである。以下の経の離世間品における二千の答などがこれである。

次に得益を明かす。陀羅尼とは総持のゆえである。以下の数十銭の法の中で説かれるとおりである。実際とは法性を窮めるゆえである。中道とは二辺を融合するゆえである。坐床とは一切を摂めるゆえである。法界の十種の涅槃の広大なる宝の床に安住し、一切を摂めるから、坐床と名づける。宝とは貴いからである。床とは即ち摂摂の義であるからである。十種の涅槃とは、以下の経の離世間品に説かれるとおりである。

旧来不動とは、旧来の仏の義である。いわゆる華厳経の十仏である。一は無著仏、世間に安住して正覚を成ずるゆえである。二は願仏、出生するゆえである。三は業報仏、信のゆえである。四は持仏、随順するゆえである。五は化仏、永く度するゆえである。六は法界仏、至らざる処がないゆえである。七は心仏、安住するゆえである。八は三昧仏、無量にして無著のゆえである。九は性仏、決定のゆえである。十は如意仏、普く覆うゆえである。なぜ十の数を説くのか。多くの仏を顕したいからである。この義は諸法の真源、究竟の玄宗であり、甚深で解きがたく、よくよく深く思うべきである。

問。具縛有情永斷菩薩未成福智。以何義故。舊來成佛也。答。菩薩未斷。不名成佛菩薩斷盡。福智成竟。自此已去。名為舊來成佛。

質問。煩悩に縛られたままの衆生は、永遠に断たれることがなく、菩薩はまだ福と智を完成させていない。どういう意味で、昔から成仏していると言えるのか。答え。菩薩がまだ断ち切っていなければ、成仏したとは言えない。菩薩がそれを断ち尽くし、福と智が完成したならば、それ以後は、昔から成仏しているというのである。

問。斷惑云何。答。如地論說。非初非中後。前中後取故。云何斷。如虛空。如是斷故。未斷已還。不名為斷。現斷已去。名為舊來斷也。猶如覺夢睡悟不同。故建立成不成斷不斷等。其實道理諸法實相。不增不減。本來不動。是故經言。菩薩法中。不見一法減。清淨法中。不見一法增。是其事也。有人說言。如是等經文。約即理說。非即事說。若約三乘方便教門。合有此義。若依一乘如實教門。不盡其理。理事𰩑然。一無分別。體用圓融。常在中道。自事以外。何處得理。

問:断惑とはどういうことか。

答:『地論』に説くように、「初でもなく中でもなく後でもない。前・中・後を取るがゆえに」である。では、どのように断じるのか。虚空のように断じるのである。このように断じるから、まだ断じていない以前は「断」とは言わない。すでに断じ終わった以後は「もとから断じていた」と言う。ちょうど目覚めと夢、眠りと悟りが同じでないようなものである。それゆえ、成・不成、断・不断などが立てられる。しかし、実の道理からいえば、諸法の実相は増えも減りもしない。もともと動かないのである。だから経にこう言う。「菩薩の法の中には、一つの法が減るのを見ない。清浄な法の中には、一つの法が増えるのを見ない」と。これがそのことである。

ある人は言う。「このような経文は、理に即して説いたものであって、事に即して説いたものではない。三乗の方便の教えの門によれば、このような意味があってよいが、一乗の如実の教えの門によれば、その理を尽くしていない。理と事はもとより一つのものとなり、まったく分別がない。体と用は円かに融け合い、常に中道にある。事のほかに、どこから理が得られようか」と。

問。三乘教中。亦有寂而常用。用而常寂。如是等義。何故上言偏即理門。不即事中不自在也。答。理事相即故。有如是義。非謂事事相即。何以故。三乘教中。欲治分別病。會事入理為宗故。若依別教一乘。理理相即。亦得事事相即。亦得理事相即。亦得各各不相即。亦得相即。何以故。中即不同故。亦有具足理因陀羅尼。及事因陀羅尼等法門故。十佛普賢法界宅中。有如是等無障礙法界法門。極自在故。其餘逆順主半相成等法門。准例相攝。隨義消息。若欲觀緣起實相陀羅尼法者。先應覺數十錢法。所謂一錢乃至十錢。所以說十者。欲顯無量故。此中有二。一者。一即十。十中一。二者。一即十。十即一。初門中有二。一者向上來。二者向下去。言向上來中。有十門不同。一者一。何以故。緣成故。即是本數。乃至十者一中十。何以故。若無一十即不成。仍十非一故。餘門亦如是。准例可知。言向下去中。亦有十門。一者十。何以故。緣成故。乃至十者十中一。何以故。若無十。一即不成。仍一非十故。餘亦如是。生變如是。勘當即知。一一錢中。具足十門。如本末兩錢中具足十門。餘八錢中。准例可解。
問。現言一者。何得一中名為十也。答。大緣起陀羅尼法若無一。一切即不成。定知如是其相。如所言一者。非自性一緣成故一。乃至十者。非自性十。緣成故十。一切緣生法。無有一法定相有性。無自性故即不自在者。即生不生生。不生生者。即是不住義。不住義者。即是中道。道義者。即通生不生。故龍樹云。因緣所生法。我說即是空。亦說為是假名。亦是中道義。即其義也。中道義者。是無分別義。無分別法不守自性故。隨緣無盡。亦是不住。是故當知。一中十。十中一。相容無礙。仍不相是。現一門中具足十門。故明中智。一門中有無盡義。如一門。餘亦如是。
問。一門中攝十盡不。答。盡不盡。所以者何。須盡即盡。須不盡即不盡故。其義云何。以一事辨一多故即盡。以異事辨一多故即不盡。文一事中一多義不相是。即是多一。事故即多。是一四句。護過失非。離德准之可解。異事亦准同。
問。須何義。答。須者緣成義。何以故。因緣法一不差故。別別諸事門中。准例如是。緣起妙理。應如是可知故。第一門訖。
第二門。此中二門。一者向上去之。二者向下來。初門中十門不同。一者一。何以故。緣成故。乃至十者一即十。何以故。若無一。十即不成故。緣成故。第二門中亦有十門。一者十。何以故。緣成故。乃至十者。十即一。若無十。一即不成故。餘者准例。以此義故。當知一一錢中。具足十門。
問。如上多門一時俱圓耶。前後不同耶。答。即圓即前後不同。何故如是。須圓即圓。須前後即前後。何以故。法性家內德用。自在無障礙故。由緣成故。皆得如是問。如上所說來去義。其相云何。答。自位不動。而恒來去。何以故。來去者隨緣義。即是因緣義。不動者向本義。即是緣起義。
問。因緣與緣起何別。答。亦別亦同。所謂別義者。因緣者隨隨俗義別。即是因緣相望。顯無自性義。正俗諦體也。緣起者隨性無分別。即是相即相融。顯平等義。正隨第一義體也。俗諦無自性故。順第一義。是故經云。隨順觀世諦。即入第一義諦。即其也。別義如是。同義如前龍樹釋。就一一錢中。於同時具足等一門。以迴轉者。准之可解。十門如上說。如錢中第一。乃至第十不同。而相即相入無礙相。雖因果理事人法解行教義主伴等眾多門別。而隨說一門。盡攝一切。餘義准之。上來數錢法者。且依遍計事錢。顯示依他因緣緣起錢也。亦可依指示顯生一切諸法。終不可得。執遍計物。迷緣起法。顯法逗留全別。經云。初發心菩薩一念功德不可盡者。如第一錢。何以故。約一門顯無盡故。何況無量無邊諸地功德者。如第二錢已去。何以故。約異門說故。初發心時便成正覺者。如一錢即十故。何以故。約行體說故。
問。初發心菩薩者。信地菩薩。即是弟子位。成正覺者佛地。即是大師位。高下不同。位地今一別。何以故。同處並頭脚耶。答。三乘方便法。與圓教一乘法。法用逗留。各別不得雜用。其其義云何。三乘法頭脚各別何耶兒子年月不同。何故如是。約相說故。生信心故。圓教一乘法者。頭脚總一。阿耶兒子年月皆同總。何以故。由緣成故。約道理說故。
問。一者何義。答。一者一無分別義。又問。同者何義。答。同者同不住義。無分別不住故。始終同處。師弟子並頭。
問。同處並頭者何義。答。同處並頭者。不相知義。何以故。無分別故。又問。無分別者何義。答。無分別者。緣生義。即是始終等是無二別。何故如是。一切緣生法無有作者。無有成者。無有知者。寂用一相。高下一味。猶如虛空。諸法法爾。舊來如是。是故經云。觀一切法無生無滅。因緣而有。如是等文即其義也。
問。所以得知信位菩薩。乃至佛同處並頭。如下經云。初發心時。便成正覺。亦如地論釋。信地菩薩乃至佛。六相成故。明知有如是義。六相如上。此語欲入法性家要門。開陀羅尼藏。好𮐺𭧦故。上來所明者。唯顯示一乘陀羅尼大緣起法。亦可論一乘無礙。辨大體。非三乘分齊。
問。初教已去。一切諸法。即空即如。一無分別。何故上言頭脚各別耶。答。非無此義。未滿故。從下為言。
問。所以得知自三乘以外。別有圓教一乘分齊。如下經言。一切世界群生類。尠有欲求聲聞道。求緣覺者轉復少。求大乘者甚希有。求大乘者猶為易。能信是法甚為難。若眾生下劣。其心厭沒者。示以聲聞道。令出於眾苦。若復有眾生。諸根小明利。樂於因緣法。為說辟支佛。若有根明利。有大慈悲心。余益於眾生。為說菩薩道。若有無上心。決定樂大事。為示於佛身。說無盡佛法。聖言如常明珠。不須驚怪。
問。一乘三乘分齊別義。因何得知。答。且依十門。即知也。一同時具足相應門。於中有十相。謂人法理事教義解行因果。此等十門相應。無有前後。二因陀羅網境界門。此中具前十門俱義。從喻異耳。餘可准之。三祕密隱顯俱成門。此亦具前十門俱義。從緣異耳。四微細相容安立門。此亦具前十門俱義。從緣相異耳。五十世隔法異成門。此亦具前十門俱義。從世異耳。六諸藏純雜具德門。此亦具前十門俱義。從事異耳。七一多相容不同門。此亦具前十門俱義。從理異耳。八諸法相即自在門。此亦具前十門俱義。從用異耳。亦可依性。九隨心迴轉善成門。此亦具前十門俱義。從心異耳。十託事顯法生解門。此亦具前俱義。從智異耳。餘可准之。上十玄門。並皆別異。若教義分齊。與此相應者。即是一乘圓教。及頓教攝。若諸教義分。與此相應。而不具足者。即是三乘漸教。如是知也。如是十門具足圓者。如華嚴經說。餘廣義者。如經論疏抄孔目問答等分別也。一乘法界圖。合詩一印。依華嚴經及十地論。表圓教宗要。總章元年七月十五日記問。何故不看集者名字。答。表緣生諸法無有主者故。又問。何故在年月名。答。示一切諸法依緣生故。又問。緣從何處來。答。從顛倒心中來。顛倒心從何處來。從無始無明來。無始無明從何處來。從如如來。如如在何處。如如在自法性。法性以何為相。以無分別為相。是故一切尋常在中道。無非無分別。以此義故。文首詩。法性圓融無二相。乃至舊來不動名為佛。意在於此。所以依詩即虛顯實。故誓願。見聞修集一乘普法名字及義。以斯善根迴施一切眾生。普重修盡眾生界。一時成佛。法界圖章。
一乘法界圖(終)
華嚴宗香象大師末葉非人釋題頭法師之執筆也。
建曆二年三月三日子始許於高山以法勝寺同本一校 賢穴八吁

CBETA コード: T1887A

© AI 帮你读佛经 - 如是我闻

この文書は個人学習専用です。商業目的での使用は禁止されています。

訪問 rushiwowen.co

著作権:原文は CBETA
AI 翻訳は参考文献のみで、権威あるものではありません