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  1. 大唐青竜寺三朝供奉大徳行状 (大唐青龍寺三朝供奉大德行狀)
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大唐青竜寺三朝供奉大徳行状 (大唐青龍寺三朝供奉大德行狀)

「大唐青龍寺三朝供奉大德行狀」について

1,814 字 · 約 6 分

『大唐青龍寺三朝供奉大德行状』は、唐代の青龍寺における高僧の生涯と事跡を記録した仏教文献です。作者は不明で、唐代の中後期に成立しました。青龍寺は密教の根本道場として、恵果などの大師が住持を務め、日中仏教交流の中心地となりました。この行状は、三代の皇帝に仕えたある供奉大徳の修行と弘法の歩みを詳細に記しており、唐代の密教相承、寺院制度、そして日中文化交流を研究する上で重要な史料となっています。原文はすでに失われていますが、後世の文献に引用された断片を通じて、密教の修行伝記としての独特の価値をうかがい知ることができ、長安仏教の隆盛を理解する上でかけがえのない歴史的意義を有しています。


大唐青龍寺三朝供奉大德行狀

大唐青龍寺三朝供奉大徳の行状

先師諱惠果和尚。俗姓馬氏。京兆府萬年縣歸明鄉人也。幼年九歲。便隨聖佛院。故三朝國師內道場持念賜紫沙門諱曇貞和尚。立志習經。至年十七。為緣和尚。常在內道場。持念不出。乃於興善寺三藏和上。求授大佛頂隨求等真言。秊十九。三藏邊教授灌頂散華。得轉法輪菩薩。和上云。我於南天竺國。散花得此尊。如今無異。異於吾後。弘傳總持大教。如我無異。又大曆八年。三月上旬。勅於慈恩寺。置方等道場。聖佛院和上。奉慈恩寺勅。置方等道場微僧有二童子。年滿二十。堪授具戒。未敢專擅與出家剃頭。伏乞聖慈。許臣歸寺。與二童子。并授戒衣鉢。 勅賜刀一口。於青龍大佛殿前。授 勅與和上二童子剃頭。賜袈裟衣鉢各兩副。度官告住寺。天使和上送至慈恩寺訖。却入內謝 勅。臣一界微僧。謝聖慈賜與二童子出家授戒。衣鉢剃刀。官告及天使送至慈恩寺道場。授戒處訖。微僧不勝頂賀。授戒訖。秊二十二。又於無畏三藏和上弟子玄超和上邊。求授大悲胎藏毘盧遮那大瑜伽大教。及蘇悉地大瑜伽法。及諸尊瑜伽等法。一一親垂旨授。又於大興善寺三藏和上邊。求授金剛頂大瑜伽大教王經法。諸尊瑜伽密印。親承指示。先師在內所得。恩賜等盡將奉上三藏和上。充授法之恩。每於閣下。節食邀期。時念凡經數遍。年二十五。特奉恩旨詔命入內。於長生殿。當時有勅喚。對問。師有何功効。夾天云。微僧未有功効。奉 勅便誠當時。喚童子八人。考召加持恩命所問。盡皆成就轉瓶合竹。并得成就。帝乃大喜。至大曆十年。於當寺。別 勅賜東塔院一所。置毘盧遮那灌頂道場。七僧持念。至大曆十一年。加持代宗皇帝。應時便差。勅賜紫衣一對。口奏不敢受。應時却進。勅云。朕已賜師紫衣。何得不受。奏云。一界微僧。賜紫不勝頂荷。即合便受。伏緣和上先皇賜紫。弟子不合與師齊。帝云。師大孝。是朕之錯。 勅云。他宗異姓上。存遵奉孝敬之心。於此以後。堪為國師。遂賜褐衣一對。奉 勅加持。花陽公主。三日得差。後於申未之問。公主忽然不語。 皇帝與宮人等。一向前。和上奏云。時熱。望階下與宮人等。暫向微僧加持即令得差。其公主便差。言詞分明。皇帝大悅。賜絹一百匹。衣一對。謝 勅。臣一界微僧。謝聖慈賜絹及衣。不勝頂賀(三日口奏移公主)大曆秊中。所有恩賜錢物。一千餘貫。盡修塔下功德。大曆十三年。奏請前後兩度巡南臺。依師所奏。和上於觀音臺。持念。夜久之間。大聖觀音。於大月輪中。現大身相。光明由如白日。祥雲皎潔。同時數百千人。遙共瞻禮。大曆十三年。勅長生殿內道場三朝傳法灌頂歿故三藏和上。 勅語惠果。三藏和上歿後。將為佛法無去時。聞師學得大法。總在緣國事□和上所邊。授得念誦法門。多有廢忘。他日降舉問道。即是師位。大曆十三年十月十五日。高李憲誠宣。建中年初。有訶陵國僧辨弘。從本國。將銅鈸一具。奉上聖佛院。螺兩具。銅□瓶四。□奉上和上。充供養。求授胎藏毘盧遮那大法。建中二年。新羅國僧惠日。將本國信物。奉上和上。求授胎藏金剛界蘇悉地等。并諸尊瑜伽三十本。已來授訖。精通後時。却歸本國。廣弘大教。精誠絕粒持念。悉地現前。遂白日冲天竺國王宮中瞻禮。求乞其法。空中□言西大唐國。有祕密法法有青龍寺。同年新羅國僧悟真。授胎藏毘盧遮那及諸尊持念教法等。至貞元五秊。往於中天竺國。大毘盧遮那經梵夾餘經。吐藩國身歿。當院弟子僧義明。義滿。義澄。同時於和上。求授毘盧遮那胎藏蘇悉地等經三十本。貞元五年。奉 勅於當寺大佛殿□。令七僧祈雨。第七日夜雨足各賜絹一束。茶十串表謝。奉 勅於右衛。龍迎真身入內。貞元六年四月□曰。奉 勅令僧惠果入內。於長生殿。為國持念。在內七十餘日。放歸。每人賜絹三十匹。茶二十串。後乃分番上下。□賜四時衣物。三節料。當年杜相公黃裳韋相公親詣受灌頂。學持念。再奏請巡臺。奉 勅宜依。充觀音寺大德。貞元九秊。後至十三秊。義恒。義一。義政。義□。義操。義雲。智興。義慜。行堅。圓通。義倫。義播。義潤。俗弟子吳殷。開丕等。約五十人學法。貞元十四年。五月大旱。五月上旬。奉 勅祈雨。七日。在內道場。專精持念。祈雨日足。 恩賜絹一束。茶十串。謝。臣僧等。素無功行。天降甘雨。皇帝感化。僧等謝絹及茶。不勝頂賀。貞元十五年。八月下旬。加持皇太子。三日得差。各賜絹二十匹吳綾五十匹。茶二十串。臣等一界微僧。謝聖慈賜綾絹及茶。不勝頂賀。十六年冬十一月十六日。神威軍焦護軍。請和上軍宅供養。并和上寫真。裝飾送院。十八年。和上得疾漸重。進狀請退。恩命放歸。且令寺將息。 朕意欲存終始。贊即不得。其年八月中旬。捨衣鉢。付屬義明等七人授用。貞元十九年。日本國僧空海。奉 勅將摩衲及國信物五百餘貫文。奉上和上。盡將修飾道場供養。求授大悲胎藏金剛界。并諸尊瑜伽教法。經五十本。登時見境界梵阿字日月輪。現入口中。貞元二十一年。八月五日。改為永貞元秊。十二月十五日。北首掩終。至元和元年正月十七日。弟子道俗約千餘人。送葬。至孟村龍原大師塔側。厥後至寶曆二年八月二十一日。義一。深達。義丹。滻川之側。表藺村。建塔移葬。開成四年。正月十三日。日本國僧圓行。將法衣信物。

先師の諱は惠果和尚。俗姓は馬氏。京兆府萬年縣歸明鄉のご出身です。幼い九歳の時、聖佛院の、当時の三朝國師で内道場の持念僧であり紫衣を賜っていた曇貞和尚のもとに従い、経典を学ぶ志を立てました。十七歳の時、縁あって和尚が常に内道場で持念の務めにつき外出されなかったため、興善寺の三藏和尚に求め、大佛頂隨求などの真言を授かりました。十九歳の年、三藏のもとで灌頂の散華を授けられ、転法輪菩薩を得ました。和尚は言われました。「私は南天竺国で散華しこの尊(菩薩)を得た。今と何ら変わりはない。私の後、汝はこの総持の大教を弘め伝えよ。私と異なることはない」と。

大暦八年三月上旬、勅命により慈恩寺に方等道場が設けられました。聖佛院の和尚は、慈恩寺への勅命に奉じ、方等道場に微僧(自分)と二十歳に満ち具足戒を授けられるべき童子二人がいるが、独断で出家剃頭させることはできず、寺に帰りこの二人の童子に戒律と衣鉢を授けることを許してほしいと願い出ました。勅により刀一口を賜り、青龍寺の大佛殿前で、和尚は勅命を受け二人の童子の剃髪を行い、袈裟と衣鉢を各二組ずつ賜りました。官告により寺に住することを許され、天使が和尚を慈恩寺まで送り届けました。その後、内裏に戻り勅命に謝し、「臣たる一介の微僧が、聖なる慈しみにより二人の童子の出家授戒、衣鉢、剃刀、官告、並びに天使による慈恩寺道場への送迎を賜り、授戒を果たすことができました。微僧、頂賀に堪えません」と申し上げました。授戒を終えたのは二十二歳の時でした。

また、無畏三藏和尚の弟子である玄超和尚のもとで、大悲胎藏毘盧遮那大瑜伽大教と蘇悉地大瑜伽法、及び諸尊の瑜伽法等を求め授かり、一つひとつ親しくご指示を賜りました。また、大興善寺の三藏和尚のもとで、金剛頂大瑜伽大教王経の法と諸尊瑜伽の密印を求め授かり、直接ご指導を受けました。先師が内裏で得られた恩賜の品はすべて三藏和尚に奉げ、授法の恩に報いました。閣下(三藏和尚)のもとでは、時に食事を節して期日を設け、数え切れぬほど念誦を重ねました。

二十五歳の時、特に恩旨により詔命を受け内裏に入り、長生殿においてお尋ねがありました。「師に何の功効があるか」。夾天(惠果)は「微僧にはまだ功効はございません」と答えました。勅命によりその場で童子八人を呼び、考召加持を行い恩命の問うところを全て成就させ、瓶を転じ竹を合わせるなど、ことごとく成就させました。帝は大いに喜ばれました。

大暦十年、当寺(青龍寺)に別に勅命により東塔院一宇を賜り、毘盧遮那灌頂道場を設け、七人の僧が持念に当たりました。大暦十一年、代宗皇帝を加持したところ、時を移さず平癒されました。勅命により紫衣一対を賜りましたが、口上を奏上して受けることを敢えてしませんでした。すぐに返上すると、勅がありました。「朕は既に師に紫衣を賜った。どうして受けぬのか」。奏上して「一介の微僧、紫衣を賜ることは頂戴に堪えません。本来ならば受けねばなりませんが、和尚(曇貞)が先帝より紫衣を賜っているため、弟子が師と同等であるべきではないからでございます」と申し上げました。帝は「師は大変な孝心の持ち主だ。朕の間違いであった」と言われ、勅命を下されました。「他宗の異姓の上に、遵奉孝敬の心を存する。これより以後、国師となるに堪えよう」。そして、褐衣一対を賜りました。

勅命を奉じて花陽公主を加持すると、三日で平癒されました。その後、申の刻から未の刻にかけて、公主が突然言葉を発しなくなりました。皇帝と宮人たちが一斉に前に出られると、和尚は奏上しました。「時は暑い折、階下(陛下)と宮人方には暫くお退きいただき、微僧が加持を行えばすぐに平癒いたしましょう」。公主は平癒し、言葉もはっきりしました。皇帝は大いに悦ばれ、絹百匹と衣一対を賜りました。謝して「臣たる一介の微僧、聖なる慈しみにより絹と衣を賜り、頂賀に堪えません」と申し上げました。(三日、口上を奏上して公主を移す)

大暦年間中に賜った恩賜の銭物は千貫余りに及び、すべて塔の下の功德に修めました。

大暦十三年、前後二度にわたり南臺(観音臺)に巡ることを奏請し、師の奏上により許されました。和尚が観音臺で持念していると、夜も更けた頃、大聖観音が大いなる月輪の中に現れ、その御身は大きく、光明は白昼の如く、祥雲は皎潔でした。同時に数百千の人々が遥かに拝礼しました。

大暦十三年、長生殿内道場の三朝伝法灌頂の和尚であり、既に亡き三藏和尚について勅語がありました。「惠果よ、三藏和尚が亡くなった後、佛法が去る時が来るかと思っていた。聞くところでは師は大法を学び、縁あって国事□の和尚のもとで念誦法門を授かったが、多くは忘れているという。他日、降って挙げて道を問うならば、それが即ち師の位である」。大暦十三年十月十五日、高李憲誠が宣べました。

建中年初め、訶陵国の僧・辨弘が本国から銅鈸一具を携え聖佛院に奉げ、螺二具、銅□瓶四つを和尚に奉げ供養とし、胎藏毘盧遮那の大法を授かることを求めました。建中二年、新羅国の僧・惠日が本国の信物を携え和尚に奉げ、胎藏・金剛界・蘇悉地等、並びに諸尊瑜伽三十本を授かることを求め、授け終わりました。精通した後、時に帰国し、広く大教を弘めました。精誠を込めて断食持念し、悉地が現前すると、遂に白日、天竺国王の宮中に飛翔して瞻礼し、その法を乞い求めました。空中の声が言いました。「西の大唐国に秘密法あり。その法は青龍寺に在り」。同年、新羅国の僧・悟真が胎藏毘盧遮那及び諸尊の持念教法等を授かりました。

貞元五年、中天竺国に赴き、大毘盧遮那経の梵夾その他の経典を求めましたが、吐藩国で身を亡くしました。当院の弟子である僧・義明、義満、義澄が同時に和尚に求め、毘盧遮那胎蔵蘇悉地等の経典三十本を授かりました。

貞元五年、勅命により当寺の大佛殿□において、七人の僧に雨乞いを命じました。七日夜目に雨が十分に降り、各々に絹一束、茶十串を賜り、表謝を奉げました。勅命により右衛において、龍が真身を迎え入れました。

貞元六年四月□日、勅命により僧・惠果を内裏に入れ、長生殿において国のために持念させました。内裏に七十余日留まった後、帰され、一人につき絹三十匹、茶二十串を賜りました。その後は番を分けて上下し、□賜として四時の衣物と三節の料を賜りました。当年、杜相公(黄裳)と韋相公が親しく詣でて灌頂を受け、持念を学びました。再び巡臺を奏請し、勅命により宜しく依るべしとされ、観音寺の大徳を充てられました。

貞元九年から十三年にかけて、義恒、義一、義政、義□、義操、義雲、智興、義慜、行堅、圓通、義倫、義播、義潤、俗弟子の吳殷、開丕など、約五十人が学法しました。

貞元十四年五月、大旱魃に見舞われました。五月上旬、勅命により雨乞いを命じられ、七日間、内道場で専精して持念し、雨乞いの日に十分な雨が降りました。恩賜として絹一束、茶十串を賜り、謝して「臣僧ら、元より功行もなく、天が慈雨を降らせ、皇帝が感化されました。僧ら、絹と茶を賜り、頂賀に堪えません」と申し上げました。

貞元十五年八月下旬、皇太子を加持し、三日で平癒されました。各々に絹二十匹、呉綾五十匹、茶二十串を賜り、「臣ら一介の微僧、聖なる慈しみにより綾・絹と茶を賜り、頂賀に堪えません」と謝しました。

十六年冬十一月十六日、神威軍の焦護軍が和尚を軍宅に請じて供養し、和尚の写経を装飾して院に送りました。

十八年、和尚は次第に病が重くなり、進状を奉げて退くことを請い、恩命により帰ることを許され、暫く寺で静養するよう命じられました。「朕の意は終始を全うせんと欲する。賛することは得ない」。その年八月中旬、衣鉢を捨て、義明ら七人に付属して用いさせました。

貞元十九年、日本国の僧・空海が勅命により摩衲及び国の信物五百余貫文を携え和尚に奉げ、すべて道場の修飾と供養に充て、大悲胎蔵・金剛界、並びに諸尊瑜伽の教法を授かることを求めました。経典五十本を授かる時、境界を見、梵字の阿字と日月輪が口の中に現れました。

貞元二十一年八月五日、永貞元年と改元されました。十二月十五日、北を首にして息を引き取りました。元和元年正月十七日、弟子の道俗約千余人が送葬し、孟村の龍原大師塔の側に至りました。その後、寶暦二年八月二十一日、義一、深達、義丹が滻川の側、表藺村に塔を建て移葬しました。

開成四年正月十三日、日本国の僧・圓行が法衣と信物を携え…

(寫本批云)

写本には次のように記されています。

承安元年(大歲辛卯)八月二十五日戌剋書畢

承安元年(西暦一一七一年)八月二十五日の夜、書き終えました。

中川本也
觀應元年九月晦日。於東寺西院僧坊。書寫之訖。為一具抄中以足之也。

観応元年九月の末日。東寺西院の僧坊にて、これを書き写し終わる。一具の抄本として、これを補うためなり。

大法師跋他羅摩抳

大導師、バッダラマニ

一校了文字多誤

一校を終えましたが、文字の誤りが多くあります。

明曆四年(戊戌)姑洗中旬加修復畢不可及外見也(改杲快)

明暦四年(戊戌)の三月中旬、修復を加え終わる。外見に及ばざるは言うまでもないことである(改杲快)。

權少僧都 了深

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