成唯識論自攷録序
相宗の一教は、長らく私の心を塞いでいた。静寂に耽る者たちは、西から伝わった「文字を立てず」という言葉にこだわり、名相を払い除ければ直ちに菩提を証することができると考え、相の違いや差別の意味について、全く智慧の眼を持たなかった。試みに考えてみよ。『楞伽経』四巻は誰がこの地にもたらしたのか。世界の中の種々の名相で、何が含まれていないというのか。あの経には、略して説けば三種あり、広く説けば八相があるとある。三と言い、八と言う、これらは識の外に何を指すというのか。私はこのように聞き、唯識論を講じないでおくことができようか。
近頃、勝義上人や善根居士のように、これを究極の資糧とする者は少なくない。しかし、その意味を通じて注釈を施すことができる者は、わずか数家に過ぎない。高原の俗詮が最初に出たが、異同の議論がないわけではない。一両の集解や王太史の証義は、精緻で詳しく、俗詮を超えている。読む者は自ら知るであろう。紹覚の音義は第八巻で筆を絶ち、その手跡は残っているが、惜しいことに完璧ではない。しかし、光輝ある欠けた月は、確かに朧朧たる満月よりも優れている。早く原本を広く布教して、後の人々に恵みを与えるべきである。霊源慧師の『自攷録』は最も遅く出たが、その意味は最も豊かで、その趣旨は最も正しい。まことに、これこそ尽善尽美である。
論師の疏が文言を解き明かすのは、ちょうど工匠が仕掛けを作るようなもので、木人(からくり人形)の脈絡は、節や関節の張りや緩みが、髪の毛一本分も狂ってはならない。そうでなければ、一塵を受け、一法を捨てるという過ちを犯すことになる。識論は玄奘師によって編まれ、比量(推論)もまた玄奘師によって立てられた。玄奘師が立てた量(論証)をもって、玄奘師が編んだ論を証するならば、三支(宗・因・喩)が円満で、漏れも濫りもなく、まさに軌道に合っていると言えよう。他の家は必ずしもそうではないが、慧師だけがひそかにこの理に合致している。だからこそ、まことに尽善尽美であると言うのである。
慧師は紹公の衣鉢の伝授を受け、あたかも長者の家業をすべて受け継いだかのようであった。その後、燕都(北京)に留まり、大蔵経を読みふけり、相教に関わるものはすべて心に刻み込んだ。前後三十余年にわたって研究を重ねたため、仏の音声を弘め宣べることができ、完璧な器のように仰がれ、学衆に付嘱する様は、異なる瓶に注ぐかのようであった。これはたやすいことだろうか。たやすいことだろうか。
私はこの道について、大海を望むように茫洋としており、その涯を知ることができない。しかし、心惹かれて憧れる気持ちは、屠殺場の門前で肉を噛むようなものではない。この『自攷録』を開けば、あたかも大官の厨房に入り、一切れを味わって異なる味わいを知るようである。『自攷録』は自利に止まっているが、利他と言うならば、版木に刻まなければ永続しない。ちょうど海幢の卓居士が、私の心に先んじてこれを得、金を出して彫刻師に託した。これより唯識を学ぶ者は、これを手引きとして、密林に入って悪しき堀に落ちることはないであろう。その功徳は、小さな補いに止まらないであろう。
崇禎戊辰年の嘉平月の望日、瓶城居士の閔夢得が題す。