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title: "佛果擊節錄 · 第一則德山示眾"
description: "佛果擊節錄由宋代高僧圓悟克勤所作，是對雪竇重顯《拈古百則》的評唱與擊節。該書誕生於禪宗鼎盛的北宋時期，以臨濟宗楊岐派思想為核心，通過對公案的深入剖析，揭示禪法要旨。內容融合經教與禪機，展現看話禪的特色，被譽為禪門重要典籍。作為文字禪的代表作之一，它不僅推動了禪宗理論發展，更對後世公案研究產生深遠影響，在佛教史上具有承先啟後的地位。"
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### 第一則德山示眾

> 徳山、大衆に示す

舉德山示眾云。今夜不答話。言猶在耳問話者三十棒。打云。喫棒了也時有僧出禮拜。山便打。忘前失後漢僧云某甲話也未問。却較些子山云。你是甚處人。換却眼睛僧云。新羅人。却換德山眼睛山云。未踏船舷。好打三十棒。大小德山。作這般去就法眼拈云。大小德山。話作兩橛。漆桶夜生光圓明拈云。大小德山。龍頭蛇尾。烏龜鑽破壁雪竇拈云。二老宿雖善裁長補短。舍重從輕。錯下名言要見德山亦未可。還曾夢見德山麼何故。德山大似握閫外威權。有當斷不斷。不招其亂底劒。險諸人要識新羅僧麼莫是闍黎只是撞著露柱的瞎漢自領出去。

> 徳山和尚が大衆に示して言った。「今夜は問答には応じない。」 <note>言ったことはまだ耳に残っている</note> 「質問する者には三十棒を与える。」 <note>叩きながら言う「棒を食らったぞ」</note> その時、一人の僧が進み出て礼拝した。徳山はすぐに棒で打った。 <note>さっきの言葉を忘れた間抜けめ</note> 僧が言った。「私はまだ言葉も発していません。」 <note>まだましだ</note> 徳山が言った。「お前はどこの者だ。」 <note>見方を変えさせた</note> 僧が言った。「新羅の者です。」 <note>逆に徳山の見方を変えた</note> 徳山が言った。「船べりにもまだ踏み入れていないのに、三十棒食らうのが当然だ。」 <note>大した徳山が、こんな仕打ちをするとは</note> 法眼禅師がこれを取り上げて言った。「大した徳山だが、話が二つに分かれてしまっている。」 <note>暗闇の中の漆桶が夜に光る</note> 円明禅師が取り上げて言った。「大した徳山だが、頭は龍で尾は蛇だ。」 <note>亀が壁に穴を開ける</note> 雪竇禅師が取り上げて言った。「二人の老師は、長所と短所をうまく調整し、重いものを省いて軽いものを取るのは上手いが、」 <note>言葉を誤って用いている</note> 「徳山の真意を見極めるには至っていない。」 <note>まだ徳山を夢に見たことがあるのか</note> 「なぜか。徳山はまるで、城外の全権を握る将軍のようでありながら、断つべき時に断たず、混乱を招く剣を持っているからだ。」 <note>危うい</note> 「諸君、あの新羅の僧を本当に知りたいか。」 <note>まさかあなた自身か</note> 「ただの柱にぶつかった目くらましの男だ。」 <note>自分で去って行け</note>

師云。古人舉一機一境。皆明此事。且世尊未舉花已前。是箇什麼道理。後來所以買帽相頭。相席打令。如今只管記憶千端萬端。打葛藤。有什麼了期。多知多解。轉生煩惱。古人或拈古頌古一則因緣。須是出得他古人意。方可拈掇。只如德山。本是西蜀講金剛經座主。聞南方禪宗大興。他云南方魔子如此盛。遂罷講散徒。擎將疏鈔欲破禪宗。及至龍潭言下大悟。後住德山。三日一回搜堂。凡見文字即時燒却。十二時中打風打雨。後來出巖頭雪峰。如龍似虎相似。到他打葛藤時。自有奇特處。一日示眾道。汝但無事於心。於心無事。則虗而靈。寂而妙。又道捉空追響。勞汝心神。夢覺覺非。覺亦非覺。一日巖頭來參。纔展坐具。德山以拄杖挑向堦下。巖頭下堦收得。便去參堂。來日却上問訊。侍立次。山云。你什麼處學得這箇虗頭來。巖頭云。某甲不敢自謾。山云。你已後向老僧頭上屙去在。且道他見箇什麼。却不打他。豈不是有奇特處。方可如此。巖頭一日來參。脚纔跨門。便問是凡是聖。德山便喝。巖頭便禮拜。且道他父子見箇什麼。便如此奇特。五祖先師道。他既是開箇鋪席。為什麼却不答話。且道德山意在什麼處。這僧也好奇特。跳出眾來便禮拜。德山便打。一似鷹挐燕󳭋。似鶻捉鳩。只如法眼拈道。大小德山。話作兩橛。可謂據款結案。圓明拈道。大小德山。龍頭蛇尾。也是看孔著楔。如今作麼生會這公案。若做兩橛會。且得沒交涉。便作龍頭蛇尾會。且得沒交涉。既不恁麼會。畢竟作麼生。且道二老宿。為什麼却如此拈。諸人試著眼看。古人道。獅子咬人。狂狗逐塊。如今作麼生見得德山去。所以拈古十箇。拈做十般。要須出他古人意。方喚作拈古。只如傅大士道。夜夜抱佛眠。朝朝還共起。要知佛去處。只這語聲是。看他玄沙拈道。大小傅大士。只認箇昭昭靈靈。又靈雲見桃花便悟云。自從一見桃花後。直至如今更不疑。玄沙云。諦當甚諦當。敢保老兄未徹在。且道他意在什麼處。雪竇一似古人。先拈他兩人語道。此二老宿。雖善裁長補短。捨重從輕。且道甚麼處是裁長補短處。什麼處是捨重從輕處。此兩箇分明點檢德山。雪竇拈來。為甚麼却道。要見德山亦未可。雪竇後面也只要見德山這些子也難。後來人便邪解道。法眼圓明。只是裁長補短。捨重從輕。只管作露布。有什麼交涉。雪竇拈道。德山似箇什麼。如閫外將軍相似。有威有權。為他有箇劒。當斷不斷時。也不招其亂。雪竇如此拈。也有錯會者不少。雪竇前面拈了。為什麼又拈道。諸人要識新羅僧麼。只是撞著露柱底瞎漢。諸人。且道什麼處是這僧瞎處。人多情解道。等他德山道。你是什麼處人。當時便以坐具劈面摵。癡人若如此。德山便放你也。且道畢竟什麼處是這僧瞎處。師便打。

> 師がおっしゃった。 「古人が一つの機法や一つの境遇を示すのは、いずれもこの事（悟り）を明らかにするためである。それなのに、世尊が花を拈る以前に、それはどのような道理だったのか。後に（人々は）帽子を買うのに頭を合わせ、席に着いて掛け声を合わせるような（形式ばった）ことをするようになった。今のようにただひたすら千端万端のことを記憶し、葛藤（余計な理屈）を引っ張り出す。それにいつ終わりがあるだろうか。多くを知り多くを解することは、かえって煩悩を生む。 古人は、ある因縁（公案）を拈出したり、それに頌を付したりする。それは、必ず古人の意図を汲み取って初めて、そのように拈出できるのだ。 たとえば徳山禅師は、もともとは西蜀で『金剛経』を講じていた講師（座主）であった。南方で禅宗が大いに盛んになったと聞き、『南方の魔子がこれほど勢いづいている』と言って、講義をやめ弟子を解散した。そして、経疏の書物を抱えて禅宗を打ち破ろうとした。ところが、龍潭のもとで一言のもとに大悟した。その後、徳山に住し、三日に一度は堂内を巡回し、文字のあるものを見ればすぐに焼いてしまった。昼夜を問わず、風を打ち雨を打つ（自由自在に振る舞う）ような生活を送った。 後に巌頭や雪峰という優れた弟子が出て、龍や虎のような風格があった。彼が葛藤（余計な話）を引き出すときには、独自の奇抜なところがあった。 ある日、衆に示して言った。 『ただ心に事なかれ。心において事なければ、虚にして霊妙、寂にして妙なるのだ。』 また言った。 『空を捉え響きを追うのは、汝の心神を労するだけだ。夢が覚めて夢でないと知る、覚えもまた覚えにあらず。』 ある日、巌頭が参じに来て、坐具を広げようとしたところ、徳山は杖でそれを階の下へ払い落とした。巌頭は階下でそれを拾い、そのまま参堂した。翌日、再び上がって問訊し、そばに立って控えていた。徳山が言った。 『お前はどこでそんな虚仮（ぐうのね）を学んできたのだ。』 巌頭は言った。 『私は決して自分を欺きません。』 徳山は言った。 『お前は後々、老僧の頭の上に糞をするだろう。』 さて、彼は何を見たのか。それで打たれなかったのだ。これは奇抜なところがあるからこそ、このようにできるのだ。 またある日、巌頭が参じ、足を門に踏み入れるや否や問うた。 『これは凡か、聖か。』 徳山は喝した。巌頭は礼拝した。 さて、この父子は何を見て、このように奇抜だったのか。 五祖の先師は言った。 『彼は铺席（説法の場）を開いているのに、なぜ答えなかったのか。』 さて、徳山の意図はどこにあったのか。この僧もまた奇抜である。群衆の中から飛び出して礼拝し、徳山は打った。まるで鷹が燕を捕らえ、鳶が鳩を捕らえるかのようだった。 ただ、法眼がこれを拈じて言った。 『大小の徳山とも、話が二手に分かれている。』 これはまさに根拠をもって結案したというべきだろう。 円明が拈じて言った。 『大小の徳山とも、竜頭蛇尾である。』 これも穴を見て楔を打つ（状況に応じた対処）というものだ。 さて、今この公案をどのように理解すべきか。 二手に分かれたと理解するのは、まるで見当違いである。 竜頭蛇尾と理解するのも、見当違いである。 そうでないなら、結局どう理解すべきか。 そして、なぜ二老宿（法眼と円明）がそのように拈じたのか。 諸君、よく目を開けて見よ。 古人は言った。 『獅子は人を噛む、狂犬は塊を追う。』 今、どうすれば徳山の境地を理解できるのか。 だから、古則（公案）を十箇拈じるとしても、十通りに拈じる。必ず古人の意図を超え出てこそ、「拈古」と呼べるのだ。 たとえば、傅大士が言った。 『夜ごとに抱いて仏と眠り、朝ごとに共に起きる。仏の在り処を知りたければ、ただこの声がそれである。』 これに対して玄沙は拈じて言った。 『大小の傅大士も、ただあの“昭昭霊霊”（はっきりとした霊妙なもの）を認めているだけだ。』 また、霊雲が桃花を見て悟り、言った。 『かつて桃花を見てから、今に至るまで疑いがない。』 これに対して玄沙は言った。 『確かにその通りだが、あえて言えば、老兄（あなた）はまだ徹底していない。』 さて、その意図はどこにあるのか。 雪竇は古人のように、まずこの二人の先師の言葉を拈じて言った。 『この二老宿は、長所で短所を補い、重きを捨てて軽きに従うことには巧みである。』 さて、どこが「長所で短所を補う」ところであり、どこが「重きを捨てて軽きに従う」ところなのか。 この二人（法眼と円明）は明らかに徳山を批評した。雪竇はそれを拈じながら、なぜこう言うのか。 『徳山を理解しようとしても、まだ難しい。』 雪竇の後半も、ただ徳山のこの一端を見るのが難しいということを言いたいのだ。 後に人々は邪解して、『法眼や円明は、ただ長所で短所を補い、重きを捨てて軽きに従っただけだ』と解釈し、そのまま露布（解説）を並べ立てる。それが公案と何の関係があるのか。 雪竇は拈じて言った。 『徳山は何に譬えられるか。城門外の将軍のようなものだ。威厳と権力がある。彼には剣がある。断つべき時に断たなければ、混乱を招く。』 雪竇がこのように拈じても、誤解する者は少なくない。 雪竇は前に拈じた後、なぜまたこう拈じるのか。 『諸君、新羅の僧を知りたいか。ただ露柱にぶつかった暗愚な男だ。』 諸君、どこがこの僧の「暗い」ところなのか。 多くの人はこじつけで解釈する。 『徳山が「お前はどこの者だ」と言った時に、坐具で真っ向から打ち払うべきだった。愚か者め、そうすれば徳山もお前を放っただろうに。』 しかし、結局どこがこの僧の「暗い」ところなのか。 師が（杖で）打った。