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title: "應菴曇華禪師語錄 · 示琮侍者"
description: "应菴昙华禅师语录由南宋临济宗高僧应菴昙华禅师所述，嗣法弟子守诠等人编集而成。该书成书于南宋禅宗鼎盛时期，收录了禅师的法语、开示、机缘对话及偈颂等内容，系统体现了其峻烈刚猛的宗风与直指人心的禅法思想。作为临济宗杨岐派重要文献，该语录不仅展现了南宋禅学的发展脉络，也对后世禅宗修行与思想研究具有深远影响，是研究宋代禅宗史与心性论的重要经典之一。"
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### 示琮侍者

> 示琮侍者

本分參學道流。末上為生死不明。正如囚禁之人。未得決斷。至於行住坐臥飲食之間。不得少安。若如此做工夫。其生死大事無有不徹底道理。往年佛果圜悟師翁遍扣諸方。無有不可其所得者。後見白雲演和尚。被詰其由元來無本分事。祇是一肚皮虗頭。白雲向佗道勤上座你參底是法座上禪。圜悟不肯。拂袖而去。至金山遭大病幾死。思量從前參問並無一句得力。纔得安樂復見白雲。聞舉頻呼小玉之語驀地打破漆桶。方始知非。信之師資緣會決非等閑。今時禪人亦在叢林中多年也。去見有道宗師亦甞遭重病。心下安與不安皆自知得。祇是不肯放下。此不肯放下有兩種。最初行脚不遇真正宗匠。撞入外道邪師火裏。中其毒藥便謂行脚事畢是一。又有一種雖致身叢林中名為參禪。其實無正因。一味盜聽反急人知。便自證據。却但言祇是箇事是其二也。此兩種謂之膏肓之病。除是一旦知非將來却有放下時節。且畢竟放下甚麼。祇放下人我檐子得失是非佛法玄妙。纔如此放下便覺身心輕安表裏純淨。二六時中胷次空勞勞地。冷地瞥然脫去。始可禁拳趯受烹煅。若祇守領覽為究竟。無異依草附木精靈。是它逸格道人逈然殊絕。觸著便解生風起草。世出世間得人憎。無出者一著子。謂之衲僧巴鼻是也。

> 本分を参究する修行者よ。そもそもの出発点は、生死の道理が分からないことにある。それはまるで囚われの身となり、決着がつかぬままにあるようなものだ。立ち居振る舞い、飲食の間にも、少しの安らぎも得られない。もしこのように修行を積めば、生死の一大事が徹底しない道理はない。 昔、佛果圜悟老師は、各地の指導者を歴訪し、その教えに納得できないものはなかった。その後、白雲演和尚のもとを訪れた時、その修行の根源を問い詰められ、実は本分の事など何もなく、ただ一腹の虚仮を抱えていたに過ぎなかった。 白雲和尚は彼に言った。「勤上座、お前が参究しているのは、法座上の禅である」と。圜悟は納得できず、袖を払って立ち去った。そして金山に至り、大病にかかって死の淵をさまよった。かつての参問を振り返ってみるに、一本の力になる言葉もなかった。 病がようやく癒えて、再び白雲のもとを訪れると、「頻りに小玉を呼ぶ」という言葉を聞くや、たちまち漆桶の底が抜けたように悟りが開けた。そこで初めて自己の過ちを知ったのだ。師と弟子の縁の出会いが、決して偶然ではないことを信じたのである。 今の禅者たちも、長年叢林の中で過ごしながら、有道の宗師のもとを訪ね、かつて重い病にかかったこともある。心の安否は皆、自らの内で知っている。ただ、どうしても放下することができないのだ。 この放下できないことには、二つの種類がある。第一に、最初の行脚の時に真の師匠に出会えず、外道の邪師の火の中に迷い込み、その毒薬を盛られてしまい、「布教の旅は終わった」と思い込んでしまうこと。第二に、身を叢林に置いて参禅と称しながら、実は正しい志がなく、ただ人の話を盗み聞きし、人に知られることを急いで、自分勝手に悟りの証を得たと思い込むこと。ただ「これだけのことだ」と言い募るのは、これが二つ目である。 この二つの病は、膏肓の病、すなわち不治の病と言うべきものだ。ただ、ある日ふと過ちを悟れば、放下の時節が来ることもある。いったい何を放下するのか。それは人我の重荷、是々非々、仏法玄妙への執着を放下するのだ。このようにして放下すれば、身心は軽やかに安らぎ、内外は清浄そのものとなる。一日中、胸の中はからりとして、何の曇りもない。ひっそりと冷めた心で、ふと悟りが開ける時、初めて拳を受け、打ち鍛えられるに堪えることができるのだ。 もしただ自己の見解を持つことだけを究極とすれば、それは草木に寄り添う精霊と何ら変わるところがない。優れた格の求道者は、ひたすら凡人の及ばぬ境地にある。何かに触れれば、すぐに風雲を巻き起こすように作用する。世間にも出世間にも、人を引きつけて離さない働きがある。これに勝るものはない。これを衲僧の持ち味というのである。