---
title: "洛陽伽藍記校釋 · 開善寺"
description: "洛阳伽蓝记是北魏杨衒之撰写的佛教历史地理著作，由周祖谟校释。该书成书于东魏武定年间，主要记述北魏都城洛阳佛寺的兴衰景象，反映了佛教在北魏时期的鼎盛状况及社会变迁。内容涵盖寺院布局、宗教活动、历史事件与人物轶事，兼具文学与史料价值。作为研究中国佛教史、南北朝社会及古代建筑的重要典籍，它详细记录了佛教中国化的进程，是了解中古时期佛教文化艺术与社会生活的权威文献。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmex9htnq009llc047el3ghui"
---

○阜財里內有開善寺，此條原與上文連寫為一條，津逮本同。今依逸史本劃分。又阜財原作準財，各本同。太平廣記卷三七一引作阜，今據改。京兆人韋英宅也。京兆屬雍州。英早卒，其妻梁氏不治喪而嫁，更納河內人向子集為夫，納，原作約，逸史本作納，法苑珠林卷三十二及太平廣記引並同，今據改。雖云改嫁，仍居英宅。英聞梁氏嫁，珠林及廣記引無氏字。白日來歸，白，逸史本作向，誤。乘馬將數人至於庭前，呼曰：「阿梁！卿忘我耶？」耶，各本均作也。案珠林引及酉陽雜俎前集卷十三均作耶，今據改。子集驚怖，張弓射之，應箭而倒，箭，原作弦。逸史本作箭，珠林及廣記引同，今據改。即變為桃人。所騎之馬亦變為茅馬，變，逸史本作化，廣記引同。從者數人盡化為蒲人。梁氏惶懼，捨宅為寺。珠林引捨字上有遂字。

> ○阜財里の中に開善寺があります。<note>この条はもともと前の文と続けて一条としていましたが、津逮本も同じです。今は逸史本に従って分けました。また「阜財」はもともと「準財」とあり、各本とも同じです。太平広記巻三七一に引くところでは「阜」に作っているので、今それに拠って改めました。</note>京兆の人、韋英の宅でした。<note>京兆は雍州に属します。</note>韋英は早くに亡くなり、その妻の梁氏は喪に服すことなく嫁ぎ、さらに河内の人、向子集を迎えて夫としました。<note>「納」はもともと「約」とあり、逸史本は「納」に作り、法苑珠林巻三十二および太平広記に引くところも同じなので、今それに拠って改めました。</note>改嫁したとはいえ、なおも韋英の宅に住んでいました。韋英は梁氏が嫁いだことを聞き、<note>珠林および広記に引くところには「氏」の字がありません。</note>白昼に帰って来て、<note>「白」は逸史本に「向」に作りますが、誤りです。</note>馬に乗り数人を連れて庭の前に至り、呼んで言いました。「阿梁！ そなたは私を忘れたのか？」<note>「耶」は各本とも「也」に作ります。案ずるに珠林に引くところおよび酉陽雑俎前集巻十三はいずれも「耶」に作るので、今それに拠って改めました。</note>子集は驚き怖れ、弓を張ってこれを射ると、矢に応じて倒れ、<note>「箭」はもともと「弦」とありました。逸史本は「箭」に作り、珠林および広記に引くところも同じなので、今それに拠って改めました。</note>すなわち桃人と変わりました。乗っていた馬もまた茅馬と変わり、<note>「変」は逸史本に「化」に作り、広記に引くところも同じです。</note>従者の数人もことごとく蒲人と化しました。梁氏は恐れおののき、宅を捨てて寺としました。<note>珠林に引くところでは「捨」の字の上に「遂」の字があります。</note>

南陽人侯慶有銅像一軀，南陽即今河南南陽。可高尺餘。尺，各本作丈，誤。今依法苑珠林卷五十七引改正。既為私人所造，不得有丈餘高。慶有牛一頭，擬貨為金色，貨字原無，此據珠林引增。慶欲貨牛為像添為金色也。遇急事，遂以牛他用之。珠林引作「遇有急事，遂以牛與他用之」。經二年，慶妻馬氏忽夢此像謂之曰：「卿夫婦負我金色久而不償，今取卿兒醜多以償金色焉。」馬氏悟覺，馬氏二字原無，津逮本有之，與珠林引同。又悟珠林作寤。心不遑安。至曉，醜多得病而亡。慶年五十，唯有一子，悲哀之聲，感於行路。醜多亡日，像自有金色，原作「像自然金色」，此依逸史本改。珠林引作「像忽有金色」。光照四鄰，一里之內，咸聞香氣。僧俗長幼，僧，逸史本作道，珠林引同。皆來觀覩。覩，珠林引作矚。尚書左僕射元順聞里內頻有怪異，遂改阜財里為齊諧里也。左僕射元順原作右僕射元稹，今依河南志改。案魏書無元稹其人，或以為即北海王元顥弟元瑱也瑱事蹟見魏書卷二十一上。莊帝初，拜侍中車騎將軍，封東海王。後遷中書監，左光祿大夫，兼尚書右僕射，顥敗，被誅。但史稱：「瑱無他才幹，以親屬早居重任。」本書所云改阜財里為齊諧里，似非元瑱事。元河南志不作元稹，而作元順。考順字子和，任城王元澄子，見魏書卷十九中澄傳。史稱：順下帷讀書，篤志愛古，有詩賦表頌數十篇。肅宗時，為給事黃門侍郎，兼殿中尚書，轉侍中，除尚書，兼右僕射。後除征南將軍，右光祿大夫，轉兼左僕射。因迎莊帝，路過陵戶村，為人所害。順墓誌記順事甚詳。順既好學能文，齊諧里之名蓋為元順所改。元河南志作「尚書左僕射元順」，當據舊本伽藍記而來。今本作元稹者，蓋由唐人寫書順每作慎（法苑珠林卷五十七引即作慎），又譌為稹耳。○齊諧本人名，莊子逍遙遊云：「齊諧者，志怪者也。」

> 南陽の侯慶という人が、銅の仏像を一体持っていた。高さは一尺あまりだった。侯慶には牛が一頭いて、それを売って像に金を鍍金しようと考えていた。ところが急な用事ができて、その牛を別のことに使ってしまった。二年が経ち、侯慶の妻の馬氏が、ふとこの像の夢を見た。像が彼女に言った。「あなたの夫婦は、私に金色を施す約束をしながら、長いこと果たしていない。今、あなたの子の醜多を連れて行き、金色の代わりに償わせてもらう。」馬氏は目を覚ますと、心が落ち着かなかった。夜が明けると、醜多は病にかかって亡くなった。侯慶は五十歳で、ただ一人の子しかおらず、その悲しみの声は道行く人をも感動させた。醜多が亡くなった日、像はひとりでに金色を帯び、その光は四方の隣家を照らし、一里の内の者はみな香りを嗅いだ。僧も俗人も、年長者も子どもも、みなやって来て見物した。尚書左僕射の元順は、この里にたびたび怪しい出来事があると聞き、阜財里を斉諧里と改名した。

自延酤以西，張方溝以東，延酤，原作退酤，據元河南志改。南臨洛水，北達芒山，其間東西二里，南北十五里，並名為壽丘里，皇宗所居也。居，逸史本作立，非。元河南志作「皆宗室所居也」。民間號為王子坊。

> 延酤の西から張方溝の東まで、南は洛水に臨み、北は芒山に達する。その間は東西二里、南北十五里で、すべて寿丘里と名づけられ、皇族が住んでいた場所である。民間では王子坊と呼ばれていた。

當時四海晏清，天清無雲曰晏，此喻安寧也。漢書諸侯年表云：「四海晏如。」八荒率職，八荒，八方也。率者，遵循也。率職，言循其職守也。縹囊紀慶，帛青白色曰縹。縹囊，盛書囊也。此指書籍而言。玉燭調辰。爾雅釋天云：「四氣和謂之玉燭。」案此言四時和順，無災害殄厲也。百姓殷阜，年登俗樂。年穀豐收曰登。鰥寡不聞犬豕之食，煢獨不見牛馬之衣。牛馬，逸史本作牛羊，非。編麻或草以被牛馬之體，即所謂牛馬之衣。樂歲則鰥寡不食犬豕之食，煢獨者不服牛馬之衣也。於是帝族王侯，外戚公主，擅山海之富，居川林之饒。饒亦富也。爭修園宅，互相誇競。崇門豐室，洞戶連房，飛館生風，重樓起霧。高臺芳榭，榭，原作樹。太平廣記卷二三六引同。案下云「家家而築」，則作樹非是。此依津逮本改。家家而築；花林曲池，園園而有。莫不桃李夏綠，竹栢冬青。而河間王琛最為豪首。元琛字曇寶。世宗時，拜定州刺史。琛妃世宗舅女，高皇后妹，琛憑恃內外，多所受納，貪惏之極。後出為秦州刺史，聚斂無厭，百姓患之，有甚狼虎。進討氐羌，大敗。後討汾晉胡蜀，卒於軍。見魏書卷二十本傳。常與高陽爭衡，高陽王元雍也。造文栢堂，形如徽音殿，徽音殿，宮內殿名。依元河南志圖在太極殿西。置玉井金罐，以五色繢為繩。原作「以金五色績為繩」，金字蓋因上文衍。廣記引作「以五色絲為繩」，津逮本作「以五色絲續為繩」。案元河南志由造文柏堂至此數語在下文造迎風館上，彼作「以五色繢為繩」，是也。今據正。繢者，絛組之屬，意正相合。作繢，作續，皆誤。妓女三百人，盡皆國色。有婢朝雲，善吹篪，能為團扇歌、隴上聲。隴，原作壟，此依太平御覽卷五百八十引改。元河南志亦作隴。團扇歌，乃吳聲歌曲；隴上聲，蓋即隴頭流水，隴上歌之類。琛為秦州刺史，秦州在甘肅天水。諸羌外叛，屢討之不降。史稱元琛進討氐羌，大被摧破，士卒死者千數，率眾走還。琛令朝雲假為貧嫗，吹篪而乞。諸羌聞之，悉皆流涕。迭相謂曰：「何為棄墳井，在山谷為寇也？」即相率歸降。秦民語曰：「快馬健兒，不如老嫗吹篪」。兒箎協韻。琛在秦州，州，廣記引作中。多無政績，遣使向西域求名馬，遠至波斯國。得千里馬，號曰追風赤驥。廣記及元河南志無驥字，逸史本驥作其，屬下文。次有七百里者十餘匹，皆有名字。以銀為槽，金為環鎖，環鎖，原作鎖環，今依廣記及元河南志改。環，河南志從金旁作鐶。諸王服其豪富。琛常語人云：常，從逸史本增。河南志亦有常字。廣記引作嘗。「晉室石崇，乃是庶姓，石崇已見卷一昭儀尼寺條。崇為荊州刺史，刼遠使商客致富。見晉書卷三十三本傳。史稱：「崇財產豐積，室宇宏麗，與貴戚王愷、羊琇之徒以奢靡相尚。」猶能雉頭狐腋，腋，原作掖，此依廣記及河南志改。雉羽華麗，五彩皆備，頸毛如繡，可製為服。狐腋之皮，其毛純厚，集以為裘，最為輕煖，所以為貴。畫卵雕薪，卵，原作卯，逸史本作茆，並誤。案廣記、類說及元河南志均作卵，今據正。考梁宗懍荊楚歲時記云：「古之豪家，食稱畫卵。今代猶染藍茜雜色，仍加雕鏤，遞相餉遺。」又管子侈靡篇云：「雕卵然後淪之，雕橑然後爨之。」注云：「此皆富者所為。橑，薪也。」畫卵雕薪，足見豪奢。況我大魏天王，不為華侈。」造迎風館於後園，上文造文柏堂云云元河南志在造迎風館上。牎戶之上，列錢青瑣，玉鳳銜鈴，金龍吐佩。佩，廣記及類說均作斾，逸史本作珮。案珮佩通用。佩即環佩也。素柰朱李，枝條入簷，伎女樓上，坐而摘食。琛常會宗室，常，廣記及元河南志常作嘗。陳諸寶器。金瓶銀瓮百餘口，廣記瓮作甕，元河南志同。又金瓶以下十五字逸史本在下文皆從西域而來下，誤。甌檠盤盒稱是。檠為有脚之器皿。音競。自餘酒器，自餘，廣記引作其餘。有水晶鉢，鉢，元河南志作缽。瑪瑙琉璃碗、碗，元河南志作椀。赤玉卮、數十枚。津逮本瑪瑙下有盃字，廣記及河南志並無。作工奇妙，中土所無，皆從西域而來。又陳女樂及諸名馬。復引諸王按行府庫，按，尋按也。元河南志字作案。錦罽珠璣，罽者，毛織物也。冰羅霧穀，穀，似羅而疏。音斛。冰羅者，言其潔白如冰雪；霧穀者，言其輕薄如霧也。充積其內，綉纈、紬綾、絲綵、越葛、錢絹等，不可數計。纈音頡，綵繒也。琛忽謂章武王融曰：「不恨我不見石崇，恨石崇不見我。」章武王元融，字永興。世宗時，為征虜將軍，并州刺史。肅宗時，除散騎常侍，青州刺史。還為秘書監，遷中護軍，領河南尹。性尤貪殘，恣情聚斂，為中尉糾彈，削除官爵。後討鮮于脩禮失利，葛榮擊融，融歿於陣。見魏書卷十九下。融立性貪暴，志欲無限，限，廣記引作厭。見之歎惋，歎惋，各本作惋歎，此依廣記引改。不覺生疾。生，廣記引作成。還家臥三日不起。江陽王繼來省疾，江陽王元繼，即元乂父。高祖時，曾安輯高車四鎮有功。肅宗時，位至太尉公、侍中、太師、錄尚書事。繼貪婪聚斂無已，牧守令長新除赴官，無不受納貨賄。永安二年卒。見魏書卷十六本傳。謂曰：「卿之財產，應得抗衡，何為嘆羨，以至於此？」融曰：「常謂高陽一人，寶貨多於融，原無於字，據廣記及逸史本補。高陽，指高陽王元雍。誰知河間，瞻之在前。」此為歇後語。瞻之在前，忽焉在後也。語見論語子罕篇。繼笑曰：「卿欲作袁術之在淮南，不知世間復有劉備也？」漢末，袁術據九江稱帝，置百官，郊祀天地，以九江太守為淮南尹。時劉備領徐州，居下邳，與袁術相拒於淮上，術欲引呂布擊備，乃與布書，謂術生年以來，不聞天下有劉備。布得書即襲備，備請降。後曹操起兵征術，術敗走，欲過徐州奔袁譚，曹操使劉備徼之，不得過。術憤慨結病，歐血死。見後漢書卷一百五袁術傳呂布傳。融乃蹶起，蹶，急遽貌。音厥。禮記孔子閒居云：「子夏蹶然而起。」置酒作樂。

> そのころ、天下はよく治まり、<note>空が晴れて雲がないのを「晏」といい、これは安らかで穏やかなことをたとえている。『漢書』諸侯年表に「四海晏如」とある。</note>四方の国々はそれぞれの務めを守っていた。<note>八荒とは八方のこと。率とは従うこと。率職とは、自分の職務に従うことをいう。</note>書物にはめでたいことが記され、<note>帛の青白色を縹という。縹囊とは書物を入れる袋のこと。ここでは書籍を指す。</note>季節は穏やかに巡っていた。<note>『爾雅』釈天に「四気和するを玉燭と謂う」とある。これは四季が和らぎ順調で、災害や疫病がないことをいう。</note>人々は豊かに暮らし、穀物は実り、世の中は楽しげであった。<note>穀物の収穫が豊かなことを登という。</note>やもめや寡婦が犬や豚の餌を食べることもなく、身寄りのない者が牛や馬の着るものを身につけることもなかった。<note>牛馬は、逸史本には牛羊に作るが、誤り。麻や草を編んで牛馬の体に覆う、いわゆる牛馬の衣である。豊作の年には、やもめや寡婦は犬や豚の餌を食べず、身寄りのない者は牛馬の衣を着ないのである。</note>そこで帝族や王侯、外戚や公主たちは、山海ほどの富をほしいままにし、川や林ほどの豊かさを手にしていた。<note>饒もまた富のことである。</note>競って庭園や邸宅を造り、互いに誇り争った。高い門に立派な部屋、奥へ通じる戸に続く部屋、風を生むほど高い館、霧を起こすほど重なる楼。高い台に香り高いあずまや、<note>榭は、もと樹に作る。『太平広記』巻二三六に引くものも同じ。下に「家家にして築く」とあるので、樹とするのは誤り。ここは津逮本によって改めた。</note>どの家にも築かれ、花の林に曲がる池は、どの園にもあった。桃や李は夏に緑となり、竹や柏は冬に青かった。そして河間王の琛が最も豪勢な筆頭であった。<note>元琛、字は曇宝。世宗のとき、定州刺史に任じられた。琛の妃は世宗の舅の娘、高皇后の妹であり、琛は内外の権勢に頼って、多く収奪し、貪欲の極みであった。後に秦州刺史として出され、聚斂に飽きることがなく、百姓はこれを患い、虎狼よりもひどいとされた。氐羌を討って大敗した。後に汾晋の胡蜀を討ち、軍中で死去した。『魏書』巻二十の本伝に見える。</note>常に高陽と張り合い、<note>高陽王元雍である。</note>文栢堂を造り、その形は徽音殿のようであった。<note>徽音殿は宮内の殿名。元河南志図によれば太極殿の西にある。</note>玉の井戸に金の罐を置き、五色の繢を繩とした。<note>もと「以金五色績為繩」に作る。金の字はおそらく上文のために衍したものであろう。広記に引くものは「以五色糸為繩」に作り、津逮本は「以五色糸続為繩」に作る。案ずるに元河南志は文柏堂を造るよりこの数語を下文の迎風館を造る上に置き、そこに「以五色繢為繩」に作るのが正しい。今それに従って正した。繢とは、絛組の類で、意味はまさに合っている。繢に作るも続に作るも、ともに誤りである。</note>妓女は三百人、みな国色であった。婢の朝雲という者がおり、篪を吹くのが上手で、団扇歌や隴上声を奏でることができた。<note>隴は、もと壟に作る。ここは『太平御覧』巻五百八十に引くものによって改めた。元河南志も隴に作る。団扇歌は呉声歌曲であり、隴上声とは、おそらく隴頭流水、隴上歌の類であろう。</note>琛が秦州刺史となると、<note>秦州は甘粛天水にある。</note>諸羌が外に叛き、たびたび討っても降らなかった。<note>史書は元琛が氐羌を討ち、大いに打ち破られ、士卒の死者は千を数え、兵を率いて逃げ帰ったと伝える。</note>琛は朝雲に貧しい老女に扮させ、篪を吹いて物乞いさせた。諸羌はこれを聞いて、みな涙を流した。互いに言い合った。「なぜ墓や井戸を捨てて、山谷で賊となっているのか」と。そして相次いで降伏した。秦の民は語った。「快馬健児も、老嫗の篪吹きには及ばない」と。<note>児と箎は韻が合う。</note>琛は秦州にあって、<note>州は、広記に引くものは中に作る。</note>政治の実績はほとんどなく、使者を西域に送って名馬を求め、遠く波斯国にまで至った。千里馬を得て、追風赤驥と名づけた。<note>広記および元河南志には驥の字がなく、逸史本は驥を其に作り、下文に属する。</note>次に七百里のものが十余匹あり、みな名があった。銀を槽とし、金を環鎖とし、<note>環鎖は、もと鎖環に作る。今、広記および元河南志によって改めた。環は、河南志は金偏に従って鐶に作る。</note>諸王はその豪富に服した。琛は常に人に語った。<note>常は、逸史本に従って增した。河南志にも常の字がある。広記に引くものは嘗に作る。</note>「晋室の石崇は、もと庶姓であり、<note>石崇はすでに巻一の昭儀尼寺の条に見える。崇は荊州刺史となり、遠使の商客を劫して富を得た。『晋書』巻三十三の本伝に見える。史書は「崇の財産は豊かに積まれ、室宇は宏麗で、貴戚の王愷、羊琇の徒と奢靡を尚んでいた」と伝える。</note>それでもなお雉頭狐腋、<note>腋は、もと掖に作る。ここは広記および河南志によって改めた。雉羽は華麗で、五彩がすべて備わり、頸の毛は刺繍のようで、服に仕立てることができる。狐腋の皮は、その毛が純厚で、集めて裘とすれば最も軽く暖かく、それゆえ貴ばれる。</note>画卵雕薪を行った。<note>卵は、もともと卯に作り、逸史本は茆に作るが、ともに誤り。案ずるに広記、類説および元河南志はすべて卵に作る。今それによって正した。梁の宗懍『荊楚歳時記』に「古の豪家、食は画卵と称す。今代なお藍茜の雑色に染め、なおかつ雕鏤を加え、互いに贈り遺る」とある。また『管子』侈靡篇に「雕卵して然る後に淪し、雕橑して然る後に爨ぐ」とある。注に「これはみな富者の行うところ。橑は薪なり」とある。画卵雕薪は、豪奢をよく示している。</note>ましてや我が大魏の天王が、華侈をなさぬことがあろうか」と。後園に迎風館を造り、<note>上文の文柏堂を造る云々は、元河南志では迎風館を造る上にある。</note>窓の上には列銭青瑣を並べ、玉鳳は鈴を銜え、金龍は佩を吐いた。<note>佩は、広記および類説はともに斾に作り、逸史本は珮に作る。案ずるに珮と佩は通用する。佩とはすなわち環佩である。</note>白い柰や赤い李は、枝が軒に入り、伎女は楼の上で座って摘んで食べた。琛は常に宗室を集め、<note>常は、広記および元河南志は常を嘗に作る。</note>もろもろの宝器を並べた。金瓶銀瓮は百余口、<note>広記は瓮を甕に作り、元河南志も同じ。また金瓶以下の十五字は、逸史本では下文の「皆西域より来たる」の下にあり、誤りである。</note>甌檠盤盒もそれに匹敵した。<note>檠は脚のある器皿。音は競。</note>その他の酒器には、<note>自余は、広記に引くものは其余に作る。</note>水晶の鉢があり、<note>鉢は、元河南志は缽に作る。</note>瑪瑙琉璃の碗、<note>碗は、元河南志は椀に作る。</note>赤玉の卮が数十枚あった。<note>津逮本は瑪瑙の下に盃の字があり、広記および河南志にはともにない。</note>細工は奇妙で、中土にはなく、みな西域から来たものであった。また女楽や諸々の名馬を並べた。さらに諸王を引いて府庫を見て回らせた。<note>按は、尋ね按ずる意。元河南志は字を案に作る。</note>錦や罽、珠璣、<note>罽とは、毛織物である。</note>氷羅や霧穀が、<note>穀は、羅に似て粗い。音は斛。氷羅とは、その潔白なこと氷雪のようであることをいい、霧穀とは、その軽薄なこと霧のようであることをいう。</note>その内に充ち積もり、綉纈、紬綾、糸綵、越葛、銭絹などは、数えることができなかった。<note>纈の音は頡、綵繒である。</note>琛はふいに章武王の融に言った。「石崇に会えなかったことを恨みはしない。石崇が私に会えなかったことを恨むのだ」と。<note>章武王元融、字は永興。世宗のとき、征虜将軍、并州刺史となった。肅宗のとき、散騎常侍、青州刺史に任じられた。帰って秘書監となり、中護軍に遷り、河南尹を領した。性はとりわけ貪殘で、情のままに聚斂し、中尉に糾弾されて官爵を削除された。後に鮮于脩礼を討って失利し、葛栄が融を撃ち、融は陣中で没した。『魏書』巻十九下に見える。</note>融は生まれつき貪暴で、志の欲には限りがなく、<note>限は、広記に引くものは厭に作る。</note>これを見て嘆き惋み、<note>嘆惋は、各本は惋嘆に作り、ここは広記に引くものによって改めた。</note>知らず知らず病を生じた。<note>生は、広記に引くものは成に作る。</note>家に帰って三日間臥せったまま起きなかった。江陽王の継が病を見舞いに来て、<note>江陽王元継は、すなわち元乂の父。高祖のとき、かつて高車四鎮を安輯して功があった。肅宗のとき、位は太尉公、侍中、太師、録尚書事に至った。継は貪婪で聚斂やむことなく、牧守令長が新たに官に赴くたびに、貨賄を受け取らないことはなかった。永安二年に卒した。『魏書』巻十六の本伝に見える。</note>言った。「卿の財産は、対抗し得るはずだ。なぜ嘆き羨んで、このようにまでなるのか」と。融は言った。「常に高陽一人が、宝貨は融よりも多いと思っていたが、<note>もと於の字はなく、広記および逸史本によって補った。高陽は、高陽王元雍を指す。</note>誰が知ろうか、河間は、これを瞻れば前に在りとは」と。<note>これは歇後語である。これを瞻れば前に在り、忽ちに後ろに在り。語は『論語』子罕篇に見える。</note>継は笑って言った。「卿は淮南にあった袁術となって、世間にまた劉備がいることを知らぬつもりか」と。<note>漢末、袁術は九江に拠って帝を称し、百官を置き、天地を郊祀し、九江太守を淮南尹とした。ときに劉備は徐州を領し、下邳に居り、袁術と淮上で相対していた。術は呂布を引いて備を撃たせようとし、そこで布に書を送り、術は生まれてこのかた、天下に劉備があると聞いたことがないと述べた。布は書を得るとすぐに備を襲い、備は降伏を請うた。後に曹操が兵を起こして術を征し、術は敗走し、徐州を過ぎて袁譚のもとへ奔ろうとしたが、曹操は劉備に命じてこれを邀撃させ、過ぎることができなかった。術は憤慨して病を結び、血を嘔いて死んだ。『後漢書』巻百五の袁術伝、呂布伝に見える。</note>融はそこで急に起き上がり、<note>蹶は、急遽なさま。音は厥。『礼記』孔子閒居に「子夏蹶然而起」とある。</note>酒を設けて楽をなした。

于時國家殷富，庫藏盈溢，錢絹露積於廊者，不可校數。逸史本無積字。案太平廣記卷一六五引有積字。又校原作較，此據廣記及逸史本改。及太后賜百官負絹，逸史本無負字，廣記引有負字。任意自取，朝臣莫不稱力而去。稱力者，就力之所任也。稱音去聲。案魏書卷一百十食貨志亦云：「自魏德既廣，西域、東夷貢其珍物，充於王府。又於南垂立互市，以致南貨，羽毛齒革之屬，無遠不至。神龜正光之際，府藏盈溢，靈太后曾令公卿已下任力負物而取之。又數賚禁內左右，所費無貲，而不能一丐百姓也！」唯融與陳留侯李崇負絹過任，任，原作性。逸史本空格。案廣記引作任，是也。今據正。過任者，非力所能任也。蹶倒傷踝。蹶，顛仆也。踝，足之左右圓骨也。字音化。今北方言踝子骨。踝音淮。魏書卷十三皇后胡氏傳記此事云：「崇乃傷腰，融至損脚，時人為之語曰：陳留章武，傷腰折股。」○廣記引此下有「太后即不與之，令其空出，時人笑焉」，十四字。今本並無。侍中崔光止取兩疋。崔光見卷二秦太上君寺條。太后問曰：曰字原無，依廣記引補。「侍中何少？」對曰：「臣有兩手，唯堪兩疋。所獲多矣。」朝貴服其清廉。

> そのころ、国は豊かで、倉庫はあふれかえり、銭や絹が廊下にまで積み上げられて、数えきれないほどでした。やがて太后が百官に絹を背負って運ぶことを許し、それぞれ好きなだけ取らせたところ、朝廷の臣たちはみな、自分の力に合った分だけを持ち去りました。ただ元融と陳留侯の李崇だけは、自分の力を超えて絹を背負い、つまずいて倒れ、くるぶしを傷めました。侍中の崔光だけは二反だけを取りました。太后が「侍中、どうしてそんなに少ないのですか」と問うと、「臣には両手がございます。二反がせいぜいでございます。それでも十分すぎるほどです」と答えました。朝廷の貴人たちは、その清廉さに感服しました。

經河陰之役，諸元殲盡，見卷一永寧寺條注。王侯第宅，多題為寺。壽丘里閭。里閭，太平廣記卷二三六引同。逸史本作里閭，元河南志同。列剎相望，祗洹鬱起，鬱者，積聚貌。寶塔高淩。四月初八日，此日為行像之日。京師士女多至河間寺，原為河間王宅。觀其廊廡綺麗，廊，廣記及元河南志均作堂，逸史本作殿。無不歎息，以為蓬萊僊室亦不是過。入其後園，見溝瀆蹇產，蹇產，曲折之貌。石磴嶕嶢，嶕，原作礁，誤。嶕嶢，高貌。音焦堯。朱荷出池，池，原誤作也。逸史本則誤地。今依津逮本改正。綠萍浮水，飛梁跨閣，高樹出雲，高字原空格，今依津逮本補。逸史本此處作「飛梁跨樹，□□出雲」。漢魏本作「層閣出雲」。咸皆唧唧，唧唧，嗟嘆聲。雖梁王兔苑想之不如也。

> 河陰の戦いで、元氏の一族はことごとく殺された。<note>巻一「永寧寺」の注を参照。</note>王侯の邸宅は、多くが寺とされた。寿丘の里では、<note>「里閭」は、太平広記巻二三六の引用も同じ。逸史本は「里閭」に作り、元河南志も同じ。</note>並び立つ塔が互いに見渡され、祗洹精舎が高くそびえ、<note>「鬱」は積み重なるさま。</note>宝塔は高くそびえている。四月初八日、<note>この日は行像の日である。</note>都の人々は多く河間寺にやって来て、<note>もとは河間王の邸宅であった。</note>その廊や庇の美しさを見て、<note>「廊」は、広記および元河南志はいずれも「堂」に作り、逸史本は「殿」に作る。</note>誰もがため息をつき、蓬莱の仙人の住まいでもこれ以上ではないと言った。その裏庭に入ると、溝や堀が折れ曲がり、<note>「蹇産」は曲がりくねるさま。</note>石段は高くそびえ、<note>「嶕」はもと「礁」に作り、誤り。「嶕嶢」は高いさま。音は「焦堯」。</note>赤い蓮が池から現れ、<note>「池」はもと誤って「也」に作り、逸史本は誤って「地」に作る。今は津逮本によって改めた。</note>緑の浮き草が水に浮かび、高く架かる橋は楼閣をまたぎ、高い木は雲を突き抜け、<note>「高」の字はもと空白であった。今は津逮本によって補った。逸史本はここを「飛梁跨樹、□□出雲」に作り、漢魏本は「層閣出雲」に作る。</note>皆が感嘆の声をあげた。<note>「唧唧」は、嘆息の声。</note>梁王の兔苑でさえ、これを思い描いても及ばないほどであった。