人間の世
この篇は、聖人が世に処する道を説いたものです。しかし『養生主』は世の務めによって生命を損なうことをせず、その養生の工夫は、世の中の出来事を経験することによって体得されるものとしています。もし本当に自らを養うことができれば、世に処するにあたって才能を誇ったり名声を求めたり、無理に行動を強いる過ちはなくなり、君主を補佐し使命を受けるにあたっても、功績を誇張したり過剰に美しく飾るような疑いは生じません。その工夫はまた、心を虚しくし坐忘の境地に至り、己を空にして世に関われば、禍いを免れることができるのです。世の人情や事情の扱いにくさを極めて説き、もし虚心で物事に対処せず、少しでも才能や名声を求める心があれば、禍いを免れられないとしています。だから篇の終わりでは、才能をあらわにしないことを究極の境地としているのです。もし世に関わって禍いがなければ、まさに善く生命を養う主(養生主)の真価が現れ、前の篇と互いに照らし合って明らかになるのです。孔子は世に用いられる聖人であり、顔子は聖人の門弟の中でも高弟であったので、彼らを借りて重みを持たせ、その信憑性を高めているのです。
顔回が孔子に会い、旅立ちを告げて言いました。「どこへ行かれるのですか?」孔子が「どこへ行くのか?」と尋ねると、顔回は「衛の国へ行こうと思います」と答えました。孔子が「そこで何をしようというのか?」と問うと、顔回はこう言いました。「私は聞きました。衛の君主(蒯聵のこと)は、年が若く、気性が激しく、独断専行で、国を軽々しく扱い、自分の過ちに気づこうとしません。民を軽んじて死に追いやるので、国中に死者があふれ、まるで沼地に葦が生い茂るようです。民は行くところを知らず、救いを求めるすべもありません。かつて先生からこうお聞きしました。『治まった国からは去り、乱れた国には近づけ。医者の門には病人が多いものだ』と。私はこの教えを心に留め、その道理を考え、衛の国を救うことができれば、民の苦しみも和らぐのではないかと思うのです。」
孔子は「ああ!」と嘆息して言いました。「お前は行けば、きっと災いを受けるだろう。そもそも道というものは、雑多であってはならない。雑多になれば、心は乱れ、乱れれば悩み、悩みに沈めば救いようがなくなる。古の至人は、まず自分自身を確立し、それから他人を導いたものだ。自分自身がまだ定まっていないのに、どうして暴君の前に出る余裕があろうか。さらに、お前は徳が損なわれ、知恵が外に現れる原因を知っているか? 徳は名声によって損なわれ、知恵は争いから現れる。名声は人を押しのけ合うもの、知恵は争いの道具だ。この二つは凶器であって、うまく使いこなせるものではない。たとえ徳が厚く、誠実であっても、相手の気質がわからなければ意味がない。名声を求めず争わなくても、相手の心がわからなければ意味がない。それなのに、いきなり仁義や規範を説いて暴君の前に立ちはだかるのは、相手の欠点を暴いて自分の美徳を誇るようなものだ。これを『人を害する者』という。人を害する者は、必ず人から害される。お前はきっと相手から害を受けるだろう。仮に衛の君主が本当に賢者を好み、愚者を嫌う人物だとしても、わざわざお前が行って目立とうとする必要があるのか? お前は招かれもしないのに王侯の前に出れば、相手は君主の権威を笠に着て、お前を言い負かそうとするだろう。そうなれば、お前の目はくらみ、顔色は青ざめ、口はうまく回らず、態度はおどおどし、心まで相手に合わせてしまう。まるで火に油を注ぎ、水に水を足すようなもので、事態を悪化させるだけだ。最初から相手に従っていれば、際限なく従うことになる。お前は相手の信頼を得られぬまま、誠意ある言葉を並べ立て、暴君の前で命を落とすことになるだろう。」
この一節は、世間で最も大切なことは君主を諫めることだと述べています。もし君主がもともと信頼しておらず、いきなり忠言を強く訴えれば、聞き入れられないだけでなく、身を滅ぼす災いを招くことにもなります。これは孔子のような大聖人で、世の中の道理に深く通じ、賢明に身を守る者でなければ、誰がこれを理解できましょうか。顔回でさえもまだ及ばないところです。これは人間社会で最も重要なことなので、最初に述べられているのです。
昔、桀は関龍逢を殺し、紂は王子比干を殺した。彼らは皆、自らを修め、臣下の身でありながら君主の民をいたわり、君主の心に逆らった者たちである。だから君主は、その行いを理由に彼らを排除した。これが名声を求める者の末路だ。
昔、堯は叢枝と胥敖を攻め、禹は有扈を攻めた。その結果、国は廃墟となり、君主は刑に処せられた。彼らは戦いをやめず、仁の実を求めてやまなかった。これもまた名声と実利を求めたゆえの結果である。
あなたはそれを聞いたことがないのか。名声と実利とは、聖人でさえ克服しきれぬものだ。ましてやあなたのような者にとってはなおさらである。
これは、顔回が何事もなく強いて名声を求める実績を挙げようとしても、必ずや完全には成し遂げられず、明らかに過ちを犯せば必ず罰せられるという必然性を言うのです。しかも名声と実績は聖人でさえ完全には保てないのに、まして凡人においてどうでありましょうか。
先生は、なぜ行ってはならないのかを教え、次に、行くべき道筋について尋ねました。