---
title: "闢邪集 · 天學初徵"
description: "辟邪集是明末高僧钟始声的著作由大朗作序程启用撰写跋文该书创作于明末天主教传入中国的背景下主要针对当时天主教的天学理论进行批判全书分为天学初徵和天学再徵两部分并附有四则书信钟始声以佛教立场驳斥了天主教的上帝创世说和灵魂不灭论等核心教义维护了佛教的缘起性空和因果轮回思想辟邪集是明清之际佛教护教文献的重要代表作反映了佛教与西方宗教的早期思想交锋在佛教思想史上具有重要地位是研究明清佛教与中西文化交流的重要文献"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmgmzn64q0560l4040l12oy96"
---

### 天學初徵

> 天学初徴

金閶逸史鍾始聲振之甫著

> 『金閶逸史』 鍾始声 著

新安夢士程智用用九甫評

鍾子讀《易》於震澤之濱，有客扣廬而問曰：「吾聞子年十二、三時，便以千古學脈為己任，闢釋老、閑聖道，今三十餘載矣。足不窺戶外，不與名公大人交，亦不思致身以事君，將安補於世道哉？且子不聞近世有天主教乎？其人從大西來，一見我中國之書悉能通達。亦闢佛而尊儒，與子意甚相符也。曷一共討究焉？」鍾子欣而作曰：「有是哉！彼既從大西來，乃不袒釋而袒儒。意者吾聖道晦而復明之機乎？願聞其旨。」客迺出聖像，略說一冊以示之。鍾子讀甫竟，遂詬曰：「嘻！此妖胡耳。陽排佛而陰竊其秕糠；偽尊儒而實亂其道脈。請即以彼說攻之。彼云：『天主即當初生天、生地、生神、生人、生物的一大主宰。』且問彼大主宰，有形質耶？無形質耶？若有形質，復從何生？且未有天地時，住止何處？若無形質，則吾儒所謂太極也。太極本無極，云何有愛惡？云何要人奉事、聽候使令？云何能為福罰？其不通者一也。且太極只是本具陰陽之理，是故動而為陽、靜而為陰。陰陽各有善惡之致，故裁成輔相之任獨歸於人。孔子曰：『人能弘道。』又曰：『為仁由己。』子思曰：『致中和，天地位焉，萬物育焉。』《易》曰：『先天而天弗違。』若如彼說，則造作之權，全歸天主。天主既能造作神、人，何不單造善神、善人？而又兼造惡神、惡人以貽累於萬世乎？其不通者二也。且天主所造，露際弗爾，何故獨賜之以大力量、大才能？若不知其要起驕傲而賜之，是不智也；若知其要起驕傲而賜之，是不仁也。不仁不智，猶稱天主，其不通者三也。又露際弗爾，既罰下地獄矣。天主又容他在此世界陰誘世人。曾不如舜之誅四凶、封傲象也。其不通者四也。且天、地、萬物既皆天主所造，即應擇其有益者而造之，擇其有損者而弗造。或雖造而即除之。何故造此肉身？造此風俗？造此魔鬼？以為三仇，而不能除耶？世間良工，造器必美；或偶不美，必棄之。以至大、至尊、至靈、至聖之真主，曾良工之不如？其不通者五也。孔子曰：『天何言哉。』孟子曰：『天不言，以行與事示之而已矣。』今言古時天主降下十戒。則與漢宋之封禪天書何異？惑世誣民，莫此為甚。其不通者六也。又天主降生為人，傳受大道。未降生前居在何處？若在天堂，則是天主依天堂住。如何可說天主造成天堂？若言既造天堂、依天堂住，如人造屋還即住屋。則未造天堂時，又依何住？若無所依，則同太極；不應太極，依天堂住。福罰人間，亦不應太極降生為人。其不通者七也。又天主既降生後，彼天堂上為有本身？為無本身？若無本身，則天上無主；若有本身，則濫佛氏真、應二身之說。而又不及千百億化身之奇幻。其不通者八也。又謂天主以自身贖天下萬世罪過，尤為不通。夫天主既其至尊無比，慈威無量，何不直赦人罪，而須以身贖罪？未審向誰贖之？其不通者九也。又既能以身贖人罪過，何以不能使勿造罪？其不通者十也。又既云：『贖天下萬世人罪』，而今猶有造罪墮地獄者，仍贖不盡。其不通者十一也。吾儒謂堯舜之聖，不能掩其子之惡；孝子慈孫，不能改幽厲之過。所以自天子至於庶人，壹是皆以修身為本。而今天主既可贖人罪過，則人便可恣意為惡，總待天主慈悲贖之。其不通者十二也。遺下教規，謂只有一造物真主，至大、至尊，要人奉事、拜祭。而盡抹殺天、地、日、月諸星。則與佛氏所稱『唯吾獨尊』何異？陰倣其說，而陽排之。其不通者十三也。佛氏雖曰『唯吾獨尊』，尚謂天、地、日、月、諸星，覆炤世間，有大功德；護世鬼神保祐人間，宜思報效。今乃曰不當拜祭，則專擅名利之惡甚於佛氏。其不通者十四也。既不許輪迴之說，又云人之靈魂嘗在不滅，有始無終。則轉積轉多，安置何所？其不通者十五也。若謂天堂、地獄皆大，可以並容，何異佛氏之說？其不通者十六也。又彼謂佛氏所稱三千大千華藏世界，人所不見，便是荒唐。今彼所稱天堂、地獄又誰見之？其不通者十七也。又謂天堂、地獄，雖然未見，卻是實理。則安知三千華藏非實理乎？而苦破之，其不通者十八也。又謂臨終一刻聽從天主教法，也還翻悔得轉，則與佛氏臨終十念相濫。汝說要真，佛氏亦說要真。汝說要依十戒，佛氏亦說要依十戒。汝說從自己身心上實實做出來，佛氏亦說從自己身心上實實做出來。汝說要真心實意痛悔力除，後來不敢再犯，佛氏亦說要真心實意痛悔力除，後來不敢再犯。全偷佛氏之說而又非之，其不通者十九也。又佛氏專明萬法惟心，故凡事只靠一心。汝既專明萬法惟天主，則凡事只靠一天主足矣。又何用從自己身心做出耶？若仍要從身心做出，則權不獨在天主明矣。而妄立天主，其不通者二十也。汝既要攻釋、道兩家，須搜其病根，彼方心服。若謂要人施捨些錢財，備辦些齋飯，燒化些紙張，便是功果，恐彼二氏亦未必心服。而汝又仍教人奉事、拜禮天主聖像，與彼何異？其不通者二十一也。吾儒謂『物物一太極，天命之謂性』，故人人可以成位於中。至於尊卑、名位則森然不亂。故天子事上帝，諸侯祭山川、社稷，大夫五祀，士祭其先。今既謂天主至大至尊，又令家事而戶奉之，與佛、老二像何異？而妄自表彰，以為不同，其不通者二十二也。吾故曰『陽闢佛而陰竊之，偽尊儒而實壞之』者也。逐其人，燬其書，禁天下不得存其像，庶不為中國之賊耳。聞彼妖徒聰明能辯，必有以解吾徵者。吾將再徵之。」

> 鍾子が震沢のほとりで『易経』を読んでいると、客が訪ねて来て尋ねた。「あなたは十二、三歳の頃から、千古の学問の道筋を自らの使命とし、仏教や道教を退け、聖人の道を守ると言って、もう三十余年になります。外に出ることもなく、名士や高官と交わることもなく、仕えて主君に尽くそうとも思わない。それで世の中の道に何の役に立つのですか？それに、あなたは最近、天主教というものがあるのを聞いていませんか？その人々は大西（ヨーロッパ）から来て、我ら中国の書物を一目見ればすべて理解すると言います。また、仏教を退け儒教を尊び、あなたの意向と非常に合致しています。いっしょに研究してみませんか？」 鍾子は喜んで立ち上がり言った。「そんなことがあるのか！彼らが大西から来て、仏教を支持せず儒教を尊ぶとは。これは聖なる道が晦んで再び明るくなるきっかけかもしれない。ぜひその説を聞かせてほしい。」 そこで客は『聖像』と『略説』という一冊の書物を取り出して見せた。鍾子はそれを読み終えるや否や、すぐに罵倒した。「おやおや、これは妖怪のような外国人だ。表向きは仏教を排斥しながら陰ではその糟糠を盗み、偽って儒教を尊びながら実はその道脈を乱している。では、その説を用いて彼らを論破しよう。 彼らは言う。『天主は、最初に天・地・神・人・万物を生み出した一大主宰である。』と。では問おう。その大主宰には形や物質があるのか、それともないのか？もし形や物質があるなら、それは何から生まれたのか？また、天地がまだない時、どこに住んでいたのか？もし形や物質がないなら、それは我ら儒者が言う太極である。太極はもともと無極であり、どうして愛や憎しみを持つことがあり得るのか？どうして人に奉仕を求め、命令を聞かせることができるのか？どうして福や罰を与えることができるのか？これは通じない点の第一である。 また、太極はもともと陰陽の理を内包している。だから動けば陽となり、静かになれば陰となる。陰陽にはそれぞれ善悪の性質がある。だから調整し補佐する役目はただ人間に帰せられる。孔子は『人は道を弘めることができる』と言い、また『仁を行うのは自分自身による』と言った。子思は『中と和を極めれば、天と地はその位を得て、万物は育まれる』と言った。易経は『天に先んじて行動しても天は背かない』と言う。もし彼らの説の通りなら、創造の権能はすべて天主に帰せられる。天主が神や人を造ることができるなら、なぜ善い神や善い人だけを造らず、同時に悪い神や悪い人を造り、万世にわたって災いの元を残したのか？これは通じない点の第二である。 また、天主が造ったルシフェル（堕落した天使）に、なぜ特別に大きな力と才能を授けたのか？もし彼が傲慢を起こすと知らずに授けたなら、それは無知である。もし傲慢を起こすと知りながら授けたなら、それは不仁である。不仁不知でありながら天主と称する。これは通じない点の第三である。 さらに、ルシフェルは地獄に落とされたのに、天主は彼がこの世界で密かに人を誘惑するのを許している。これは舜が四凶を誅罰し、傲慢な象を封じたのと比べても、はるかに劣る。これは通じない点の第四である。 しかも、天・地・万物がすべて天主の造ったものなら、有益なものを選んで造り、有害なものは造らないようにすべきだ。あるいは造ってもすぐに除くべきだ。なぜ肉体を造り、風俗を造り、悪魔を造って、三つの敵とし、それを除くことができないのか？世の中の良い工匠は、道具を作れば必ず美しくする。たまに美しくなければ捨てる。この上なく大いなる、尊い、霊妙な、聖なる真の主が、工匠にも劣るとは？これは通じない点の第五である。 孔子は『天は何も言わない』と言い、孟子は『天は言葉を発しないが、行動と出来事によってそれを示す』と言った。今、昔天主が十戒を下したと言うのは、漢や宋の時代の封禅や天書と何が違うのか？世を惑わし民を欺くことに、これ以上ひどいものはない。これは通じない点の第六である。 また、天主が人の姿で生まれ、大道を伝えたという。生まれる前はどこにいたのか？もし天国にいたのなら、天主は天国に依存して住んでいたことになる。どうして天主が天国を造ったと言えるのか？もし天国を造ってそこに住んだと言うなら、人が家を建ててそこに住むのと同じだ。では天国をまだ造っていない時は、どこに依拠して住んでいたのか？もし依拠するものがなければ、それは太極と同じである。太極は天国に依拠して住むべきではない。人間に福や罰を与えるのも、太極が人の姿で生まれるのも、道理に合わない。これは通じない点の第七である。 さらに、天主が人の姿で生まれた後、天国には本体が存在するのか、しないのか？もし本体が存在しないなら、天国には主がいないことになる。もし本体が存在するなら、それは仏教の真身と応身の説を濫用していることになる。しかも、千百億の化身の不思議さには及ばない。これは通じない点の第八である。 また、天主が自らの身をもって天下万世の罪を償ったと言うのは、特に通じない。天主はこの上なく尊く、限りなく慈悲と威厳があるなら、なぜ直接人の罪を許さず、身をもって罪を償う必要があるのか？一体誰に向かって償ったのか？これは通じない点の第九である。 さらに、身をもって人の罪を償うことができるなら、なぜ人が罪を造らないようにすることができないのか？これは通じない点の第十である。 また、『天下万世の人の罪を償った』と言いながら、今なお罪を造って地獄に落ちる者がいるのは、償いきれていない証拠である。これは通じない点の第十一である。 我ら儒者は、堯や舜のような聖人でもその子の悪を隠せず、孝子や慈孫でも幽王や厲王の過ちを改められないと言う。だから天子から庶人に至るまで、すべて身を修めることを根本とする。ところが天主が人の罪を償えるなら、人は思いのままに悪を行い、ただ天主の慈悲で償ってもらえばよいことになる。これは通じない点の第十二である。 遺された教えには、ただ一つの造物主だけがおり、この上なく大いなる尊い存在で、人が奉仕し礼拝するのを求めるとある。そして天地・日月・星辰をすべて否定している。これは仏教が称える『唯我独尊』と何が違うのか？陰でその説を真似ながら、表面では排斥している。これは通じない点の第十三である。 仏教は『唯我独尊』と言うけれども、なお天地・日月・星辰が世を覆い照らし、大きな功徳があることや、世を守る鬼神が人間を守護していることには感謝すべきだとしている。ところが今、『礼拝すべきでない』と言うのは、名利を独占する悪が仏教よりも甚だしい。これは通じない点の第十四である。 輪廻の説を認めない一方で、人の魂は常に滅びず、始まりはあっても終わりはないと言う。そうすると積もり積もって増え続ける魂は、どこに安置されるのか？これは通じない点の第十五である。 もし天国と地獄がどちらも広大で、同時に収容できると言うなら、それこそ仏教の説と同じではないか？これは通じない点の第十六である。 また、彼らは仏教が言う三千大千世界や華蔵世界は人が見たことがないから荒唐無稽だと言う。では、彼らの言う天国や地獄は誰が見たのか？これは通じない点の第十七である。 さらに、天国や地獄は見たことがなくても実理であると言う。では三千華蔵世界が実理でないと、どうして断言できるのか？無理やり否定する。これは通じない点の第十八である。 また、臨終の時に天主教の教えに従えば、改心して救われると言うのは、仏教の臨終十念と混同している。あなたは『真実』を説き、仏教も『真実』を説く。あなたは十戒を守れと言い、仏教も十戒を守れと言う。あなたは自分の身心から実践しろと言い、仏教も自分の身心から実践しろと言う。あなたは真心実意で悔い改め、力を尽くして除き、二度と犯さないようにしろと言い、仏教も同じことを言う。まるで仏教の説を盗みながら、それを否定している。これは通じない点の第十九である。 さらに仏教はあらゆるものは心によってのみあると明らかにしている。だから何事もただ心一つに頼る。あなたはあらゆるものは天主によってのみあると明らかにしているなら、何事もただ天主一つに頼れば十分ではないか？なぜ自分の身心から実践する必要があるのか？もし依然として身心から実践する必要があるなら、権能が独占的に天主にあるわけではないことは明らかである。無理やり天主を立てる。これは通じない点の第二十である。 あなたは仏教と道教の両方を攻撃するなら、その病根を究明しなければ、彼らは心服しないだろう。もし人に金銭を施させ、食事を用意させ、紙銭を焼かせることが功徳だと言うなら、恐らく二氏も心服しない。ところがあなたは人に聖像に奉仕し礼拝するよう教えている。それは彼らと何が違うのか？これは通じない点の第二十一である。 我ら儒者は『個々のものに一つの太極があり、天の命を性という』と言う。だからすべての人がその中で地位を確立できる。ただし尊卑や名分は厳然として秩序立っている。だから天子は上帝に仕え、諸侯は山川や社稷を祭り、大夫は五祀を行い、士はその先祖を祭る。今、天主はこの上なく大いなる尊いものだと言いながら、各家庭でこれを祭らせるのは、仏や道の像と何が違うのか？無理やり自説を標榜して違いがあると言う。これは通じない点の第二十二である。 だから私は言う。『表向きは仏教を排斥しながら陰ではそれを盗み、偽って儒教を尊びながら実はそれを壊す』者だと。その人を追放し、その書物を焼き払い、天下にその像を置くことを禁じれば、中国の害にはならないだろう。あの妖しい連中は賢く弁舌にたけていると聞く。きっと私の論難に答えることができるだろう。ならば私はさらに彼らを論難しよう。」

天學初徵