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title: "護法錄 · 大天界寺住持孚中禪師信公塔銘"
description: "護法錄是明代佛教重要文獻由宋濂著述袾宏輯錄錢謙益訂正該書誕生於明末佛教復興與儒釋道三教融合的歷史背景下主要內容為宋濂所撰寫的佛教碑銘傳記及序文等文章系統收錄了元代至明初高僧大德的生平事蹟與佛教思想同時強力駁斥了當時的排佛論調捍衛佛教正統地位該書不僅是研究宋明佛教史與儒釋關係的關鍵史料更因其文獻權威性被譽為佛教史傳之瑰寶在中國佛教思想史與文學史上均佔有重要地位"
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### 大天界寺住持孚中禪師信公塔銘有序

至正十七年化，即龍鳳三年。

大天界寺住持孚中禪師信公示寂之十四年，其弟子似桂，謁濂于禁林，合掌胡跪而為言曰：「先師之塔在金陵牛首山者，則真骨與設利之所藏。其別分爪髮衣履而瘞之，則四明之太白山也。太白之銘，佛真文懿大師、國清噩公實為之；而牛首乃師之全塔，反有石而無詞，不幾於甚闕典歟？居士深究內典，為吾徒之所信向，海內尊宿多濬發其幽光，豈宜於先師獨漠然忘情乎？庸敢援例以請。」濂來江表，聞稱師之德者，人人不能殊，則師誠有道之士也。文辭固無益於道，後之人欲求其行業，則將何所徵之哉？因不敢讓，而謹書之。

> 大天界寺の住持であった孚中禅師・信公が入寂されてから十四年が経ちました。その弟子である似桂が、私・宋濂を宮中に訪ね、両手を合わせ胡跪してこう言いました。「師の塔が金陵の牛首山にあるのは、真骨と舎利を納めた場所です。一方、髪や爪、衣類を分けて埋葬したのは、四明の太白山です。太白山の碑銘は、佛真文懿大師であり国清寺の噩公がお書きになりました。しかし牛首山こそ師の完全な塔でありながら、石碑はあっても銘文がなく、これはまことに遺憾なことではありませんか？居士は内典を深く究め、我々僧侶の信頼を得ておられ、世の高僧方の隠れた徳を数多く明らかにされてきました。どうして師だけに無関心でいられましょうか。どうか前例に倣って、この依頼をお受けくださいますよう。」私は江南に来てから、師の德行を称える声が誰からも異なることなく聞かれ、師がまことの道を体得した方であることを知りました。文辞は道そのものに何の益もありませんが、後人がその行業を知ろうとする時、何をよりどころとすればよいのでしょうか。それゆえ、あえて辞退せず、謹んでこれを記すことにしました。

師名懷信，字孚中，俗姓姜氏，明之奉化人。父某，嘗為某縣校官。母劉氏，夜夢大星墮室中，有光如火，亟取而吞之，覺即有孕。及誕，狀貌異凡子，性凝莊，不妄舉動，唯見沙門至其家，必躍而親之。稍長，受三經於宋進士戴公表元，經旨悉暢達，然非其好也。年十五離家，從法華院僧子思，執童子之役，已而祝髮為大僧，受具戒於五臺寺。聞延慶半巖全公弘三觀十乘之旨，復與之游。久之，且歎曰：「教相繁多，浩如煙海，苟欲窮之，是誠筭沙，徒自困耳。」即棄去，渡浙河而西。凡遇名叢林，輒往參扣，下語多枘鑿弗合，不勝憤悱。華藏竺西坦公，遷主明之天童景德禪寺，師隨質所疑，竺西一見知為法器，厲色待之，不與交一語，師群疑愈熾。一日，上堂，舉興化打克賓公案問師，師擬曰：「俊哉！師子兒也！」師自是依止不忍去，就維那之職。竺西入滅，天寧雲外岫公來繼其席，命師司經藏管鑰，文采漸致彰露，不可掩遏。泰定丙寅，行宣政院請師出世明之觀音。師策勵徒眾，視分陰若尺壁，唯恐其失之。天曆己巳，遷住補怛洛迦山，師不以位望之崇，效它浮屠飭車輿、盛徒御以誇衒於人，自持一缽，丐食吳楚間。鎮南王具香華迎至府中，虛心問道，語中肯綮，且出菩提達摩像求贊，師運筆無停思，辭旨淵邃，王甚嘆服。宣讓王亦遣使者，奉旃檀香、紫伽黎衣請示法要，師隨其性資而導之。二賢王雄藩之望，首加崇禮，諸侯庶民無不望風瞻敬，施資填委。姑蘇產奇石，師遂購善工，造多寶佛塔十三層，載歸海東，俾信心者禮焉。駙馬都尉高麗王繹，而吉尼丞相撒敦以師行上聞，詔賜廣慧玅悟智寶弘教禪師之號，及金襴法衣一襲。至正壬午，升住中天竺山天曆永祚寺。乙酉遷天童，不半載間百廢具舉，佛殿之役最鉅，亦撤弊而更新之，丹輝碧明，照耀海濱。師建塔中峰之祖庭，慨然有終焉之志。己丑冬十月，江表大龍翔集慶寺虛席，行御史臺奉疏迎師主之。龍翔文宗潛邸，及至踐祚，建佛剎於其地，棟宇之麗甲天下。其秉住持事者，若笑隱訢公、曇芳忠公皆名德之士，舉行百丈清規為東南之楷則。居亡何毀于火，忠公新之，惟海會堂未就而化。僉謂繼忠公之躅，非師無以厭眾心。往反者三，師始赴之。暨升座，提唱宗乘，萬耳聳聽，委蛇不迫而玄機自融，無小無大，皆驩然親戴之。或謂龍翔初政，稍示威嚴以懲驕慢之習，師笑而不答。師度眾，誠感孚，乃出衣盂之私補前未建之堂，不日而集會。元政大亂，戎馬紛紜，寺事日見艱窘，師處之裕如，一不以屑意。一旦晨興，索蘭湯沐浴更衣，趺坐，謂左右曰：「吾將歸矣，汝等當以荷法自期，勵精進行可也。」言畢而瞑，侍者撼且呼曰：「和尚去則去矣，寧不留片言以示人乎？」師復瞋目叱之，侍者呼不已，師握筆書曰：「平生為人戾契，七十八年漏洩。今朝撒手便行，萬里晴空片雪。」書畢復瞑。時丁酉秋八月二十四日也，壽七十八，臘六十九。停龕七日，顏面如生。作禮者旁午而名薌，蠟炬積如丘陵。九月一日，荼毘於聚寶山前，舍利如菽、如麻，五色燦爛，雖煙所及處亦累累然生，貯以寶瓶，光發瓶外。其上足弟子某，以某月日坎牛首山東麓為宮，藏之，復建塔於其上。師賦性恬沖，喜氣溢顏間，生平未嘗以聲色忤人，人有犯之者，頷首而已。然進修極勤，自壯至耄，默誦《法華經》一部，雖暑爍金、寒折膠，無一日闕者，屢感蓮花香，滿院芬郁異常，非世間者可比當。　大明兵下，金陵僧徒俱風雨散去，師獨結跏晏坐，目不四顧，執兵者滿前，無不擲杖而拜。　上嘗親幸寺中，聽師說法，嘉師言行純愨，特為改龍翔為大天界寺。寺之逋糧在民間者，遣官為徵之。師之將告終前一日，　上統兵駐江陰沙州。　上當晝而寢，夢師服褐色禪袍來見。　上問曰：「師胡為乎來也？」對曰：「將西歸，故告別耳。」　上還，聞師遷化，依與夢中正同，大悅，　詔出內府帛幣，助其喪事，且命堪輿家賀齊叔為卜金藏。舉龕之夕，　上親致奠，送出都門之外，其寵榮之加，近代無與同者。師有《五會語錄》行于世，其傳法上首則雙林致凱、江心慧恩、大慈寶定、某剎寶璋、瑞岩文淵、保福宗秩、翠山志理、淨土永顯、玅智淨琚、定光文摭、某剎明晟、天華士謙、豐安至慶、聖泉普彝、福林道巽、五峰普錫、石門永泰、霞嶼元良、廣祜永瑰，皆其人也。惟昔天童坦公以一真之學，上承松源四葉之傳，黑白趨慕，儼如毛之有麟、甲之有龜也。師亦以真承之，故能樹精進幡，持金剛劍，入般若關，巋然為一代人天之師。此無他，真則不妄，不妄則近佛之道矣。宜乎遭逢維新之朝，上簡　帝心，昭被殊渥，至親枉乘輿而臨幸之。龍光赫奕，絢耀吐吞，至今山川尚有餘輝。是當揭之崇碑，明示方來，使學佛者有所歆豔，而起信焉。系之以銘曰：

> 師の名は懷信、字は孚中、俗姓は姜氏、明州奉化の出身である。父は某県の校官を務めた。母の劉氏は、夜、大きな星が家の中に落ち、火のように光るのを夢に見て、急いでそれを飲み込んだ。目覚めると妊娠していた。出産の時、その姿は普通の子と異なり、性格は落ち着いて厳かで、軽々しく行動しなかった。ただ僧侶が家に来るのを見ると、必ず跳びはねて親しんだ。 やや成長して、宋の進士であった戴表元氏に師事し三経を学んだ。経典の意味はすべてよく理解したが、それは彼の好むところではなかった。十五歳で家を出て、法華院の僧・子思に従い、童子として働いた。やがて剃髪して僧となり、五臺寺で具足戒を受けた。延慶の半巖全公が三観十乗の教えを弘めていると聞き、また師のもとへ遊学した。 長く経って、彼は嘆いて言った。「教相は多く、浩瀚で煙の海のようだ。もしそれを極めようとすれば、まさに砂を数えるようなもので、自らを苦しめるだけだ。」すぐにそれを捨てて、浙河を渡って西へ向かった。名高い叢林に出会うたびに、そこへ行って参じ問うたが、言葉は多くが食い違って合わず、憤りとやるせなさに耐えられなかった。 華藏の竺西坦公が、明州の天童景德襌寺に住職として移って来た時、師は抱いていた疑問を尋ねた。竺西は一目見て法器であると知り、厳しい態度で接し、一言も言葉を交わさなかった。師の様々な疑いはますます燃え上がった。ある日、上堂の際、興化が克賓を打った公案を挙げて師に問うた。師が答えようとすると、「見事だ！獅子の子だ！」と言った。師はこれに依り止まり、離れがたく思い、維那の職に就いた。 竺西が入滅すると、天寧の雲外岫公がその後を継ぎ、師に経蔵の鍵を管理するよう命じた。文采は次第に明らかになり、隠し隠せないものとなった。泰定丙寅（1326年）、行宣政院は師を明州の観音寺に出世させた。師は徒衆を励まし、わずかな時間さえも尺璧のように貴び、それを失うのを恐れた。天暦己巳（1329年）、補陀洛迦山に移住したが、師は地位や声望の高さをもって、他の僧侶のように車輿を飾り、従者を盛んにして人に見せびらかすようなことはせず、自ら一つの鉢を持ち、呉楚の間を乞食して歩いた。 鎮南王は香華を用意して師を府中に迎え、虚心に道を問い、師の言葉は要点を得ていた。さらに菩提達摩の像を出して賛を求めた。師は筆を動かすに思考の滞りがなく、言葉の趣旨は深く遠く、王は非常に感嘆し服した。宣讓王も使者を遣わし、栴檀の香と紫の伽梨の衣を奉じて法要を示すよう請うた。師はその人の性質に従って導いた。二人の賢王は雄藩の望みであり、まず尊崇の礼を加えた。諸侯や庶民は、風を聞いて瞻敬し、施しの資は山積みとなった。 姑蘇で奇石が産出されると、師はすぐに優れた職人を雇い、多宝仏塔十三層を造らせ、海東に載せて帰り、信心ある者に礼拝させた。駙馬都尉高麗王・繹と、吉尼丞相・撒敦は師の行いを上奏し、詔により広慧妙悟智宝弘教襌師の号と、金襴の法衣一襲を賜った。至正壬午（1342年）、中天竺山天暦永祚寺に昇住した。乙酉（1345年）に天童に移り、半年も経たないうちに多くの廃れたことを復興した。仏殿の工事が最も大規模で、古いものを取り壊して新しくし、丹青の輝きは海浜を照らした。師は中峰の祖庭に塔を建て、そこで終わろうとする志を慨然と抱いた。 己丑（1349年）冬十月、江南の大龍翔集慶寺の住職が空席となった。行御史台は疏を奉じて師を迎え、これを主とさせた。龍翔は文宗が潜邸していた所であり、即位後、その地に仏寺を建てた。その建物の美しさは天下第一であった。そこを住持した者には、笑隱訢公、曇芳忠公のような名高い徳のある者たちがおり、百丈清規を行って東南の模範としていた。ところが、ほどなく火災で焼失した。忠公がそれを新しく建てたが、海会堂だけは完成せずに入滅した。皆、忠公の跡を継ぐには、師でなければ人々の心を満足させられないと言った。往復すること三度、師はようやく赴いた。昇座して宗旨を唱えると、万人の耳が聳え、ゆったりとして迫らず、しかも玄機は自ら溶け込み、大小の人々が皆歓喜して親しみ慕った。ある者は龍翔の初政として、やや威厳を示して驕慢の習いを懲らすべきだと言ったが、師は笑って答えなかった。 師は大衆を教化し、誠が感じられて孚（信）を得た。そこで自分の衣や鉢などの私財を出して、以前に建てられなかった堂を補い、間もなく完成させた。元の政治は大いに乱れ、戦乱が続き、寺院の事は日に日に困難となった。しかし師はそれをゆったりと扱い、一切意に介さなかった。ある朝、起きて蘭湯を求め、沐浴して衣を更え、跏趺坐して、左右に言った。「私はもう帰ろう。あなたがたは法を担うことを自ら期し、精進励行せよ。」言い終わって目を閉じた。侍者が揺すり呼んで言った。「和尚はお帰りになるならそれでも、一言も残さず人に示されないのですか？」師は再び目を見開いて叱った。侍者が呼びやまないので、師は筆を取って書いた。「平生、人に?契すること七十八年、漏洩すること今朝、手を放して行く、万里晴空、一片の雪。」書き終えて再び目を閉じた。時は丁酉の秋八月二十四日、享年七十八、法臘六十九。 七日間、龕を安置したが、顔色は生きているようだった。礼拝する者は行き交い、名香と蝋燭は丘陵のように積もった。九月一日、聚宝山の前で荼毘に付すと、舎利は豆や胡麻のように多く、五色に燦然と輝き、煙の及ぶ所にもまた群がり生じた。宝瓶に納めると、光が瓶の外に発した。その上足の弟子某は、某月日、牛首山の東麓に穴を掘って宮を造り、そこに納め、さらにその上に塔を建てた。 師の生まれつきの性格は恬淡で温和であり、喜びの気が顔に溢れていた。生涯、声色をもって人に逆らうことはなかった。人に犯されても、うなずくだけであった。しかし修行は非常に勤め、壮年から老年に至るまで、『法華経』一部を黙誦し、たとえ暑さが金を溶かし、寒さが膠を折るような日でも、一日も欠かすことはなかった。しばしば蓮華の香りを感じ、庭中に満ちて異常に馥郁とし、世間のものとは比べ物にならなかった。 大明の兵が攻め寄せると、金陵の僧侶たちは皆風雨のように散り去った。師だけは跏趺して安坐し、目を四方に向けなかった。兵士たちが前に満ちたが、皆、杖を投げ打って拝した。上（太祖）はかつて親しく寺に幸し、師の説法を聴き、師の言行が純真で誠実であることを嘉し、特に龍翔を大天界寺と改めた。寺が民間で滞納していた糧米は、官を遣わして徴収させた。 師がまさに臨終を迎えようとする前日、上は兵を統率して江陰の沙州に駐屯していた。上は昼に寝て、師が褐色の襌袍を着て来て会見する夢を見た。上が「師はどうして来られたのか」と問うと、師は「西方に帰ろうとしているので、お別れに参りました」と答えた。上が還って、師が遷化したことを聞き、夢の中と全く同じであることに、大いに喜んだ。詔して、内府の幣帛を出してその葬儀を助け、さらに風水家の賀斉叔に命じて吉兆の地を選ばせた。龕を挙げる夕べ、上は自ら供物を捧げて送り、都門の外に出られた。その寵栄の加えられ方は、近世に同じものはなかった。 師には『五会語録』が世に行われている。その法を伝える上首には、双林の致凱、江心の慧恩、大慈の宝定、某刹の宝璋、瑞岩の文淵、保福の宗秩、翠山の志理、浄土の永顕、妙智の浄琚、定光の文摭、某刹の明晟、天華の士謙、豊安の至慶、聖泉の普彝、福林の道巽、五峰の普錫、石門の永泰、霞嶼の元良、広祜の永瑰が、皆その人である。 昔、天童の坦公が一真の学をもって、上は松源の四葉の伝えを承けた。黒白（僧俗）が慕い趨くことは、ちょうど毛に麟があり、甲に亀がいるかのようであった。師もまた真をもってそれを承けた。ゆえに精進の旗を立て、金剛の剣を持ち、般若の関に入り、嶮然として一代の天人の師となることができた。これに他ならず、真であれば妄ならず、妄ならざれば仏の道に近づくのである。まさに維新の朝に遭い、帝心に簡（えら）ばれ、殊なる恩沢を顕わに受け、至っては乗輿を屈して親しく臨幸された。竜光は赫奕と輝き、絢爛として吐吞し、今日に至るまで山川になお余りの輝きがある。これはまさに高い碑に掲げて、来世に明らかに示し、仏を学ぶ者をして欣慕せしめ、信仰を起こさせるべきである。これに銘を繋ぐ。曰く、

乾竺之道，貴乎一真。真則非妄，日趨精明。煌煌松源，其道孔熾。正暢旁達，非真曷致？惟廣慧師，起於海東。歷抵諸師，罕契其逢。太白諸峰，上摩穹碧。舉頭觸之，堅如銕壁。一喝轟霆，豈直耳聾？毫髮之端，玅義俱融。天高日晶，森羅萬象。不即不離，了明諸相。五坐道場，六振其宗。一音演法，聞者心空。此玅法華，權實雙舉。我受我持，忘其寒暑。天香何來？鼻觀先聞。豈伊天女，吐茲奇芬？誰謂靈通，與道乖牾？我尚不有，亦何心故？世緣已竭，幡然西歸。夢寐潛通，皇情為怡。烈火如輪，煆茲玄魄。設利燦然，逐煙而結。在昔諸師，何人不然？誕勝真漓，多隨物遷。師我藩維，師我干櫓，舍我而逝，有生孰度？寵恩聯翩，來自九天。師則何憾，名與道傳。太史造銘，建于牛首。此山若移，斯文方朽。

> 天竺の道は、一真（唯一の真実）を尊びます。真実であれば虚妄ではなく、日々精進して明らかになります。燦然と輝く松源禅師、その道は大いに盛んでした。正しく流れ、広く達する、真実でなくば、どうしてこのような境地に至りえましょうか。 広く智恵ある師は、海東（朝鮮）より起こりました。度々諸師を訪ねても、その機縁に叶うことはまれでした。太白山の峰々は、空高くそびえ、頭を上げて触れれば、鉄壁のように堅固です。 一喝の轟きは雷鳴のようで、ただ耳を聾するのみでしょうか。毛端の先に、微細な義理がすべて融け合っています。天は高く日は清らかで、森羅万象が整然としています。離れず、また執着せず、あらゆる相を明らかに見通します。 五つの道場に座し、六度その宗旨を打ち立てました。一つの音聲で法を説けば、聞く者の心は空となりました。この妙法蓮華経は、権（仮の教え）と実（真実の教え）を共に掲げるものです。私はこれを受け、これを護り、寒暑を忘れました。 天の香りはどこから来るのでしょう。鼻の感覚が先にそれを感じ取ります。どうして天女がこの奇跡の芬芳を振りまいたというのでしょうか。誰が霊妙な通力を道と背くものと言いましょうか。私にさえ「有る」という思いがなければ、どんな心が起こりましょうか。 世の縁は尽き、幡（はた）のように颯爽として西方へ帰られました。夢寐のうちに深く感じるものがあり、天子の心も和らぎました。烈火が輪のごとく、この玄妙な魄（たましい）を鍛えます。舎利は燦然と輝き、煙に従って結晶しました。昔の諸師の中にも、そうでない人はいません。生得のまま勝れた真実は薄れ、多くは物に従って移り変わります。 師は我が藩の垣根、師は我が楯（たて）でした。それなのに我を捨てて去られました。生きているこの身を、誰が済度するのでしょう。 恩寵は連なり、九天（高き天）より降り注ぎます。師に何の遺憾がありましょうか。名は道と共に伝わるのです。太史が銘文を撰し、牛首山に建てられました。この山が動くとも、この銘文が朽ちることはありません。

時　上為吳國公甫定金陵，戎馬倥傯，乃崇信法門，加禮于信公若此，此國初護法第一盛事，宜表而出之。