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title: "護法錄 · 佛心了悟本覺妙明真淨大禪師寧公碑銘"
description: "護法錄是明代佛教重要文獻由宋濂著述袾宏輯錄錢謙益訂正該書誕生於明末佛教復興與儒釋道三教融合的歷史背景下主要內容為宋濂所撰寫的佛教碑銘傳記及序文等文章系統收錄了元代至明初高僧大德的生平事蹟與佛教思想同時強力駁斥了當時的排佛論調捍衛佛教正統地位該書不僅是研究宋明佛教史與儒釋關係的關鍵史料更因其文獻權威性被譽為佛教史傳之瑰寶在中國佛教思想史與文學史上均佔有重要地位"
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### 佛心了悟本覺妙明真淨大禪師寧公碑銘有序

> 佛心覚了本覚妙明真浄大禅師寧公碑銘<note place="inline">序あり</note>

洪武二年化

> 洪武二年に遷化されました。

臨濟正宗九傳，至於東山演公，全機大用，譬猶日月行天，罅隙畢照。其弟子上承法印，開拓覺源，固不可一二數。就其傳派尤著者言之，其一為圓悟勤、其一為天目齊、其一為開福寧。圓悟而下，又岐而為三，曰虎丘隆、曰此庵元、曰大慧杲，其道多行於南。天目六傳至海雲簡，開福六傳至金牛真，其道多行於北。佛性無南北，而佛法亦然，其融通混合，覃被無際，震盪鏗鍧，靡間幽顯，論者未易，多此而少彼也。金牛世適實、太湖無用寬，其又鐵中之錚錚者歟？無用之子，則吾一源師其人也。師諱永寧，一源字也，自號虛幻子，俗姓朱氏，淮東通州人，世為宦族。父某，母隴西李氏。師既生，舅氏吉安郡守某愛其黠慧，命為嗣。年六歲，入鄉校，經籍即能暗記，且了其大意，然非性之所樂也。聞人舉佛陀號，遽注耳聳聽。九歲，懇求離俗，父母弗之許，輒連日不火食，乃使依族姻模上人於利和廣慧寺。利和，州之望剎，宋有淮海肇禪師說法，度人聲聞。當時前一夕，寺眾同夢迎禪師，次日而師至，識者異之，謂禪師乘願輪而再世焉。十二歲，游揚之雍熙寺，會主僧來峰泰編禪林類聚成，師覽之，笑曰：「此古人糟粕耳，點檢何為？」河南王童童奇其幼而器之，屬僧錄司給牒，薙度為沙門，尋受具足戒。自時厥後蓬累出游浙河西見諸大老，下語無所契。中峰海方柄、法蘇之萬壽，留之經年，已而入穹窿山，謁克翁紹，克翁察其志不凡，俾掌藏室，時年已十九年。一旦，欲歸鄉行省覲禮，至毘陵，約明極昶於焦子山，精修禪定，稍涉睡昏則戴沙運甓，懸版坐空，如是者五年。明極曰：「藏主見解且至，宜往參人。」遂至淮西太湖山，求印可於無用。無用門庭嚴峻，師方入戶，厲聲叱出之。師作禮於門外，合爪而立，久之，乃許入見，問曰：「何處人？」師曰：「通州。」曰：「淮海近日盈虛若何？」曰：「沃日滔天，不存涓滴。」曰：「不著㷮道。」曰：「請和尚道。」無用便喝。師退就禪室，徹夜不寐。一旦，聞無用舉雲門一念不起，語聲未絕而有省，急趨入堂，無用便打，然知師頓悟，令造偈拈趙州，師立成曰：「趙州狗子無佛性，萬象森羅齊乞命，無底籃兒盛死蛇，多添少減無餘剩。」無用塔然一笑。復舉證道偈問師曰：「掣電飛來，全身不顧，擬議之間，聖凡無路。速道！速道！」師曰：「火迸星飛，有何擬議？敵面當機，不是！不是！」無用振威一喝。師曰：「喝作麼？」無用曰：「東瓜山前吞匾擔，捉住清風剝了皮。」師不覺通身汗下，亟五體投地，曰：「今日方知和尚用處。」無用曰：「閉著口。」自是侍左右者三年。且以斷崖義所贊已像親署一花書授師曰：「汝緣在浙，逢龍即住，遇池便居。」師遂還浙。時虛谷陵、元叟端、瀨翁慶、幻住本、天如則各據名山，遞展化機，師皆往叩擊，道相吻合，而幻住尤譽，師弗置。元祐庚申，延師往廣德，縛茆於大洞中。洞左有實相寺，馬祖弟子澄公道場。師為起廢重新之，同時有無一全。遯跡於石溪，石溪與大洞相望，人謂廣德二甘露門。至治癸亥，宜興之龍池請師建立禪居，師以名符懸記，欣然赴之，作室以間計者凡數十，命之曰禹門興化庵。先是山顛有龍池，其深叵測，龍出每大水，民甚苦之。師召龍受三皈依戒，龍不復出。師居之久，復厭其未幽邃也，擇絕巘作室以居，至壁立如削處，斲木為棧，鉤環連鎖棲板於空中，不日告成。師足不越戶限者二年，學徒聞風，遐邇坌集，師亦不能悉拒也。帝師大寶法王稔師之道行，降師號曰弘教普濟禪師。泰定乙丑，州西之九里，有地曰青山，山明水秀，前僧副周某延師之至，為創寺一區，因以九里名之。師曰：「善則善矣，僅二紀必當變遷。」時人蓋不之信也。至順庚午出世，住李山禪寺，辦香酬恩，卒歸之於無用。俄有詔，集桑門千七百人，閱《毘羅大藏經》一七日，師陞座敷繹正法，天降甘露之祥。甫三年，退歸龍池。時元叟主雙徑、月江印主雲峰，皆招居第一座，辭不赴。元統甲戌，淛西江東道廣教總管府具疏，請主常之。天寧萬壽州守戍將敦勸尢力，師漠若無聞。或激曰：「大法火冷灰寒，師乃欲自暇自逸耶？」師為蹶然。而寺常災，方議經營，前住持幽巖靜夢殿楹仆地，師以隻手搘之。暨師之至，果為新釋迦寶殿，塑佛菩薩、天神諸像，雄冠諸剎。踰八年，有言師於順帝者，錫號曰本覺妙明真淨禪師。至正壬午，江南行宣政院命師主大華藏寺，師舉龍門膺代之。明年，復命補天童景德禪寺，師堅以疾辭，又退歸龍池。宜興銅棺山，舊有北嶽菩提院燬於會昌，士潘敬之重搆焉。師以九里寺助建法堂丈室之屬，以年稽之，正二紀矣，人益嗟愕，謂師能前知。戊子，有旨趣入覲說法於龍光殿，上悅，賜金襴法衣，兼以玉環加師，號曰佛心了悟大禪師，帝師亦有絳袍毳帽之賜。居無何，奉旨函香至五臺山，曼殊大士為現祥光五道。明年，陛辭南還，道過維揚，鎮南王波羅普化率妃嬪等延師入宮，稟受大戒，賜以白金盂及僧伽黎衣，遣司馬護還龍池。庚子，師為慕道者所逼，出領善權寺。寺已弊，師施塗塈丹雘之功，且甓其寶街。明年，募善士萬人為萬善同歸會二晝夜，及瘞兵後，枯骨至無萬數。壬寅，又退歸龍池。癸卯，廣德大旱，師徇鄉民之求，結壇誦咒，梵唄未終，大雨如瀉，歲乃登。眾愈知師有道，不容其還，強住麻蕻山慈慧禪庵。未幾，成大叢林。國朝洪武戊申，又退歸龍池。己酉夏六月，師示微疾，屬弟子宗珦裁紙製內外衣，且曰：「吾將逝矣。」或以藥劑進，麾去之。十五日，自興化庵移龕至絕巘所。居十七日，昧爽，師起沐浴服紙衣，索筆書偈云：「七十八年守拙，明明一場敗闕。泥牛海底翻身，六月炎炎飛雪。」書畢，側臥而化。停龕七日，容貌如生。先一月，龍池水忽竭，及師順寂，噴湧異常。時君子知為異徵，黑白戀慕，各衣衰麻，繞龕悲啼，如喪考妣，至有然頂灼臂以為供養者，執紼之人盈萬。茶毘有五色光現，齒牙舌輪及所持數珠皆不壞，設利無算。煙到中林，亦纍纍然生，人競折枝取之。至於灰土，亦掬取淘汰，獲者亦眾。於是門人志舜、志思等各分餘骨與不壞者，以某年月日就龍池、太平、齊山、紫雲山、麻蕻山五所建塔藏焉。世壽七十有八，僧臘六十有五。師氣貌雄偉，身長七尺有餘，音吐鴻亮。其接物也，不以貴賤異其心，所至者無不傾向。若中書右丞相朵兒只、若江淛行省左丞相別不花、若趙文敏公孟頫、若馮內翰子振，尤所賓禮者也。四民來獻薌幣衣履者，肩摩而袂接，既無虛日，師既受，即以施人，曾無毫髮係吝其自處，則布袍糲食，沛然若有餘。凡發為文偈，了不經意，引紙行墨而空義自彰，有四會語行於世。其嗣法弟子，則季山之仁奉、報本之詔洪、芙蓉之志恭、顯德之紹善也。其所度弟子已出世者，則祥符之紹密、天寧之仁性、竹山之祖瑛、南禪之祖勤也。未出世者，則祖玟、維祖、宗會、紹仁、祖瑜、祖林等也。師之道德所霑丐者，可謂侈矣。師示寂後之七年，仁性親撰行業記，子通同祖玟謁余於禁林，以塔上之銘為囑。嗚呼！古之學者，孳孳為已，及覺門已證，懼失其傳，無以續佛慧命，不得已而出世為人。後世乃藉是以為榮觀，豪攘巧取，無所不用其極，果何為者耶？有若師者，得法之後，固拳拳以度人為急，及主大剎，屢退養龍池，雖天童實廁五山，亦搖首弗顧。其高風峻節，如祥麟威鳳，可望而不可即，何其賢耶？人疑為淮海之後身，信不誣也。聞師之風者，可以自省矣。是宜銘。銘曰：

> 臨済宗の正統は九代伝わり、東山の演公に至り、その全き機用は、まるで日月が天を行くが如く、隙間なく全てを照らした。その弟子たちは法印を継承し、悟りの源を開拓したが、その数はとても一二では数えられない。特に著名な伝派を挙げれば、一つは円悟勤、一つは天目斉、一つは開福寧である。円悟の下からさらに三派に分かれ、虎丘隆、此庵元、大慧杲となり、その教えは主に南方で広まった。天目は六伝して海雲簡に至り、開福は六伝して金牛真に至り、その教えは主に北方で広まった。仏性に南北の別はなく、仏法もまた然り。それらは融通混合し、広く隅々まで行き渡り、音響は天地を震わせ、幽顕の隔てなく響き渡った。論者が軽々しくこれを評し、一方を多くし他方を少なくすることは容易ではない。金牛の系譜に実適、太湖の無用寛がおり、彼らはさらに鉄中の錚錚たる者であろうか。無用の子であるならば、わが一源師こそその人である。 師の諱は永寧、字は一源、自ら虚幻子と号し、俗姓は朱氏、淮東通州の出身で、代々官族であった。父は某、母は隴西の李氏。師が生まれると、舅の吉安郡守某がその聡明さを愛で、後継ぎとするよう命じた。六歳で郷校に入り、経籍を即座に暗記し、その大意をも理解したが、しかしそれは本性の喜ぶところではなかった。人が仏陀の名号を唱えるのを聞くと、すぐに耳を傾けて聴き入った。九歳の時、俗世を離れることを懇願したが、父母は許さず、そこで師は連日食事を取らなかったので、遂には族縁の模上人に従い、利和広慧寺に入った。利和は州の名刹であり、宋代には淮海肇禅師が説法し、人を度して名声を轟かせた。師が到着する前夜、寺の僧侶たちは同じ夢を見て禅師を迎え、翌日に師が到着したので、識者はこれを奇異とし、禅師が願輪に乗って再来したのだと言った。十二歳の時、揚州の雍熙寺に遊び、住職の来峰泰が『禅林類聚』を編纂し終えたところだった。師はそれを見て笑い、「これは古人の糟粕に過ぎない。点検して何になろうか」と言った。河南王の童童はその幼さながらの器量を奇とし、僧録司に命じて度牒を与え、剃髪して沙門とし、まもなく具足戒を受けた。 それ以来、師は蓬を背負って諸国を遊行し、浙河西で諸大老に会ったが、下語はどこにも契合しなかった。中峰海が方柄となり、蘇州の万寿寺で法を執った時、師は一年余り留まった後、穹窿山に入り、克翁紹に謁した。克翁はその志が非凡であると察し、蔵室の管理を任せた。時に師は十九歳であった。ある日、郷里に帰省しようと思い立ち、毘陵に至り、焦子山で明極昶と約束して、精進して禅定を修めた。少しでも睡魔に襲われると、砂を頭に載せて煉瓦を運び、板を懸けて空中に座った。このようにして五年を過ごした。明極が言った。「蔵主の見解はほぼ至っている。人を参ずるべきである」。そこで師は淮西の太湖山に至り、無用に印可を求めた。無用の門庭は峻厳で、師が戸口に入ろうとすると、厲声で叱りつけて追い出した。師は門外で礼をし、合掌して立っていた。しばらくして、ようやく入室を許され、問われた。「どこから来た者か」。師は「通州です」と答えた。「淮海の近況の盈虚はどうか」「沃日滔天、涓滴も存せず」「不著㷮道」「和尚、お説きください」。無用は喝をかけた。師は退いて禅室に就き、徹夜で眠らなかった。ある朝、無用が雲門の「一念不起」を挙げるのを聞き、その語声が絶えないうちに省悟し、急いで堂に駆け込んだ。無用はすぐに打ったが、師が頓悟したことを知り、趙州を拈じる偈を作るよう命じた。師は直ちに成して曰く。 「趙州狗子無佛性 萬象森羅齊乞命 無底籃兒盛死蛇 多添少減無餘剩」 無用はにっこりと笑った。さらに証道の偈を挙げて師に問うた。 「掣電飛來、全身不顧 擬議之間、聖凡無路 速道！速道！」 師は曰く。 「火迸星飛、有何擬議？ 敵面當機、不是！不是！」 無用は威を振るって一喝した。師は「喝作麼？」と言った。無用は「東瓜山前吞匾擔、捉住清風剝了皮」と言った。師は思わず全身に汗が噴き出し、急いで五体投地して「今日方知和尚用處」と言った。無用は「閉著口」と言った。これ以来、師はその左右に仕えること三年、さらに断崖義が賛した自らの肖像に自ら花押を署して師に授け、「汝の縁は浙にあり、龍に逢えば即ち住し、池に遇えば便に居れ」と言った。師は遂に浙に還った。 時に虚谷陵、元叟端、瀬翁慶、幻住本、天如則がそれぞれ名山を占め、次々と化導の機を展開していた。師は皆そこに赴いて叩撃し、道は相吻合したが、幻住は特に師を称賛してやまなかった。元祐庚申の年、師は広徳に招かれ、大洞の中に茅庵を結んだ。洞の左に実相寺があり、馬祖の弟子澄公の道場であった。師はこれを廃墟から新たに起こし、同時に無一全が石渓に遁跡した。石渓と大洞は相望み、人々は広徳の二甘露門と言った。至治癸亥の年、宜興の龍池が師を請じて禅居を建立しようとした。師は名が懸記に符合することを喜び、欣然として赴き、数十間の室を作り、禹門興化庵と名付けた。以前から山頂に龍池があり、その深さは測りがたく、龍が出る度に大水となり、民は甚だ苦しんでいた。師は龍を召して三帰依戒を受けさせると、龍は再び出なくなった。師はそこに長く住んだが、再びその幽邃さが足りないことを厭い、絶巘を選んで室を作って住んだ。壁が削ったように立ちはだかる所では、木を削って桟橋とし、鉤環連鎖で板を空中に架け、短期間で完成させた。師は二年間、戸限を越えず、学徒は風聞を聞いて遠近から集まったが、師も悉く拒むことはできなかった。帝師の大宝法王は師の道行を熟知し、師号を弘教普済禅師と下賜した。泰定乙丑の年、州の西九里に青山という地があり、山明水秀であった。前僧副の周某が師を招き、一区の寺を創建し、九里と名付けた。師は「善きことではあるが、僅か二紀で必ず変遷するだろう」と言った。当時の人々はこれを信じなかった。至順庚午の年、出世して李山禅寺に住し、辦香を焚いて恩に酬い、遂には無用に帰した。俄かに詔があり、桑門千七百人を集めて『毘羅大蔵経』を一七日間閲し、師は座に昇って正法を敷繹すると、天から甘露の祥瑞が降った。三年経つと、退いて龍池に帰った。時に元叟は双径を、月江印は雲峰を主とし、皆師を第一座に招いたが、辞して赴かなかった。元統甲戌の年、浙西江東道広教総管府が疏を具して、師に常州天寧万寿寺の住職を請うた。州守や戍将が特に力を込めて勧めたが、師は漠として聞こえぬふりをした。ある者が激して言った。「大法の火は冷え、灰は寒し。師は自ら暇を楽しみ安逸を貪ろうとするのか」。師はこれに蹶然として立ち上がった。寺は常に災害に遭い、ちょうど経営を議していた時、前住持の幽巌静は夢で殿の柱が地に倒れるのを見た。師は隻手でそれを支えた。師が到着すると、果たして新たに釈迦宝殿を建て、仏菩薩、天神諸像を塑し、その雄大さは諸刹に冠たるものとなった。八年を過ぎ、ある者が順帝に師のことを言上し、号を本覚妙明真浄禅師と賜った。至正壬午の年、江南行宣政院が師に大華蔵寺の住職を命じたが、師は龍門膺を挙げて代わらせた。翌年、また命じて天童景德禅寺を補せしめようとしたが、師は堅く病を理由に辞し、再び退いて龍池に帰った。宜興の銅棺山には、かつて北嶽菩提院があったが、会昌の廃仏で焼失し、士の潘敬之が再建していた。師は九里寺を助けて法堂や丈室などを建立したが、年数を数えると、正に二紀であった。人々はますます驚愕し、師が予知できると言った。戊子の年、旨があり、入朝を促されて龍光殿で説法した。上は悦び、金襴の法衣を賜い、さらに玉環を加えて号を仏心了悟大禅師とし、帝師もまた絳袍と毳帽を賜った。間もなく、旨を奉じて香を函に納め五台山に至ると、曼殊大士が五道の祥光を現した。翌年、辞して南還する途上、維揚に立ち寄ると、鎮南王の波羅普化が妃嬪らを率いて師を宮中に招き、大戒を受け、白金の盂と僧伽黎衣を賜い、司馬を遣わして龍池まで護送させた。庚子の年、師は慕道者に迫られて、善権寺の住職となった。寺は既に荒廃していたが、師は塗塈丹雘の功を施し、さらに宝街を煉瓦で舗装した。翌年、善士万人を募って万善同帰会を二昼夜行い、兵乱後の枯骨を無数に埋葬した。壬寅の年、また退いて龍池に帰った。癸卯の年、広徳が大旱に見舞われた。師は郷民の求めに応じて壇を結び、呪を誦した。梵唄が終わらないうちに大雨が注ぎ、歳は豊作となった。衆はますます師に道があることを知り、還ることを許さず、強いて麻蕻山の慈慧禅庵に住まわせた。間もなく、大叢林となった。国朝洪武戊申の年、また退いて龍池に帰った。 己酉の夏六月、師は微恙を示し、弟子の宗珦に紙を裁って内外の衣を作らせ、かつ「我、将に逝かんとす」と言った。ある者が薬剤を進めたが、手で払いのけた。十五日、興化庵から龕を移して絶巘の住居に至った。十七日、昧爽、師は起きて沐浴し、紙衣を着て、筆を求め偈を書いた。 「七十八年守拙 明明一場敗闕 泥牛海底翻身 六月炎炎飛雪」 書き終えると、側臥して化した。龕を停めること七日、容貌は生けるが如かった。一ヶ月前、龍池の水が忽然と涸れたが、師が順寂すると、異常な噴湧を見せた。時に君子はこれを異徴と知り、黒白は恋慕し、各々衰麻を衣て、龕を繞りて悲啼し、あたかも父母を喪うが如く、頂を燃やし臂を灼いて供養とする者さえあり、執紼の人は万を満たした。茶毘に五色の光が現れ、歯牙舌輪及び所持の数珠は皆壊れず、舎利は数え切れなかった。煙が中林に至ると、それも纍々として生じ、人は競って枝を折り取った。灰土に至るまで、掬い取って淘汰し、得る者も多かった。そこで門人の志舜、志思らが各々余骨と不壊のものを分け、某年月日に龍池、太平、斉山、紫雲山、麻蕻山の五箇所に塔を建てて蔵した。世寿七十八、僧臘六十五。 師の気貌は雄偉で、身長七尺有余、音吐は鴻亮であった。物に接するに、貴賤によってその心を異にせず、至る所で人々の心を傾けさせた。中書右丞相の朵児只、江浙行省左丞相の別不花、趙文敏公の孟頫、馮内翰の子振などは、特に賓礼を以て遇した者である。四民が薫幣や衣履を献ずる者は、肩を摩し袂を接し、既に虚日なく、師はそれを受けると、直ちに人に施し、毫髪の係吝もなかった。自ら処するには布袍糲食でありながら、沛然として余裕があるが如かった。凡そ文偈を発するに、了って意に経ず、紙を引き墨を行いて空義自ら彰れ、『四会語』が世に行われた。その嗣法の弟子は、季山の仁奉、報本の詔洪、芙蓉の志恭、顕徳の紹善である。その度弟子で既に出世した者は、祥符の紹密、天寧の仁性、竹山の祖瑛、南禅の祖勤である。未だ出世せざる者は、祖玟、維祖、宗会、紹仁、祖瑜、祖林らである。師の道德の及ぼす所は、まさに広大と言えよう。 師が示寂して七年後、仁性が親しく行業記を撰し、子通が祖玟と共に禁林に余を訪れ、塔上の銘を託した。嗚呼！古の学者は、孜々として己が為にし、及んで覚門已に証せられ、その伝を失うを懼れ、仏の慧命を継ぐこと無きを以て、已むを得ずして出世して人の為にす。後世は乃ちこれを藉りて栄観と為し、豪奪巧取、用いざる極み無し。果たして何の為ぞや。師の如き者有り、法を得た後、固より拳々として人を度するを急と為し、及んで大刹を主とすれども、屡々退いて龍池に養い、天童の実に五山に廁するも、亦首を搖りて顧みず。その高風峻節は、祥麟威鳳の如く、望むべくして即すべからず。何ぞ其れ賢なること此の如きや。人はこれを淮海の後身と疑うも、信じて誣わず。師の風を聞く者は、以て自ら省みるべし。是れ銘すに宜し。 銘に曰く。

東山紹法統，大弘臨濟宗，一燈百千燈，充滿於南北。太湖鬱蔥蘢，中有善知識，怒罵作佛事，見者輒畏縮。唯師膽如山，深入了不礙，振威聞一喝，有若霹靂飛。凡情亦喪失，通身汗如雨，縛茅巖洞居，說戒毒龍聽。文彩漸彰露，屢典大伽藍，蔚為人天師，皈依者如雲。師以方便力，破除煩惱障，沃沃甘露漿，隨量各充足。況示莊嚴相，隨處起樓閣，五色雲中現，若兜率天宮。人見稱有為，我以無為故，應物而見形，中心儼不動。孤雲本無著，動靜皆自然，不識世間事，何者為利聲？但觀龍池水，如我性清淨，預言化期至，剪紙以為衣。坐脫目微瞑，入彼寂滅場。荼毘顯祥異，神光互旋繞，白煙及林木，皆生設舍羅。四輩悉號慟，五處藏靈骨。以表正法幢，千古無壞者，此以何因緣？本無生滅故。我出廣長舌，贊述師功德，鑱諸無縫塔，鬼神共訶護。

> 東山に法統を紹ぎ、大いに臨済宗を弘め、 一燈百千燈となり、南北に満ち溢れる。 太湖は鬱蒼と茂り、中に善知識あり、 怒罵を以て仏事となし、見る者は皆畏縮す。 唯師の胆は山の如く、深く入りて少しも障らず、 威を振るい一喝を聞けば、霹靂の飛ぶが如し。 凡情も亦喪失し、通身汗雨の如し、 茅を縛り巌洞に居し、説戒して毒龍に聴かしむ。 文彩次第に彰れ露れ、屡々大伽藍を典し、 蔚然として人天の師となり、帰依する者雲の如し。 師は方便力を以て、煩悩の障りを破り除き、 沃々たる甘露の漿、量に随って各々充足す。 況や荘厳の相を示し、随所に楼閣を起こし、 五色の雲中に現れ、兜率天宮の若し。 人は見て有為と称す、我は無為を以ての故に、 物に応じて形を見し、中心は儼として動かず。 孤雲は本より著く所無く、動静皆自然なり、 世間の事を識らず、何れを利声と為さん。 只だ龍池の水を観よ、我が性の清浄の如し、 化期の至るを預言し、紙を剪りて以て衣と為す。 坐脱して目微かに瞑り、彼の寂滅の場に入る。 荼毘に祥異を顕し、神光互いに旋繞し、 白煙及び林木、皆設舎羅を生ず。 四輩悉く号慟し、五処に霊骨を蔵す。 以て正法の幢を表し、千古に壊るる者無し、 此れ何れの因縁を以てか？本より生滅無き故なり。 我広長の舌を出し、師の功德を讃述し、 諸の無縫塔に鑱し、鬼神共に訶護せん。