布水臺集序
布水台集序
布水臺集者,山翁和尚之禪之餘之所為集也。禪者之言曰:「行於心為禪。」然則禪有餘乎?荷大法者無執、懷勝業者不滯,繇山翁和尚之禪而深之,莫非餘也;暢之以一詣、包之以兼弘,繇山翁和尚之餘而大之,莫非禪也。或者曰:「儒之學依於實;禪之教說乎虛。」實故自形其不足,而虛則嘗見其有餘。儻所謂大道,是邪非邪?予智不足以知山翁和尚之禪,知其餘者甚矣!山翁和尚之禪之似吾儒也。
今夫先王之所秩、聖人之所訓,其要歸於正君臣、定父子,不離明倫察物者近是。是故父子者人之始也,君臣者人治之大者也。
昔、先王たちが秩序立て、聖人たちが教え導いたことの核心は、君臣の関係を正しくし、父子の絆を安定させることにありました。これは、人としての道を明らかにし、物事をわきまえるという教えを離れるものではありません。ゆえに、父子の関係は人としての始まりであり、君臣の関係は人を治める上で最も大切なものなのです。
吾嘗覽乎山翁和尚之集矣!祝聖人而悼天子,一篇之中三致意焉,壽有疏、薦有文,如歌如泣,君臣之義也。諸如〈靖揚雅〉推之也;《義僕傳》廣之也;其為翼孝,說養母文,篤於親也。進而之於師有父道焉,稱道勿絕,所謂孝也。繇師而上之百世之師,身焉、象焉、譜焉、經焉、堂焉、塔焉,不忘祖禰之意也,為死者言狀;自文林公傳、自廣陵先生而下,為生者言牘;自復古南詩、自送以直而下,悟發感寄,婉而有歸,無諍之篇,有懷之什,兄弟朋友之誼也甚矣!山翁和尚之禪之似吾儒也。
或又曰:「天下之道,儒者實之。」然而多實則多累,是故亂之以生死、撓之以得喪。及其敝也,至於悖聖人之言、廢先王之服、蔑君親之恩、棄昆朋之族。禪者即不然,死生則一之,得喪則齊之,泊然無所起於心而澹然無所繫於世,虛之謂也。是以累盡而理存,天屬雖離而孝不違、世典已謝而敬不失。故曰守儒之說,實天下之虛,可以處治世;通禪之學,虛天下之實,可以處亂世。嗟夫!此又有為言之也。予智不足以知山翁和尚之禪,而謂山翁和尚之禪之似吾儒者,固其餘也。
またある人は言う。「天下の道は、儒者が実践するものだ」と。しかし、実践が多ければ多いほど、それだけ煩わしさも多くなる。だからこそ、生死によって乱れ、得失によって心が揺らぐ。その弊害が極まると、聖人の教えに背き、先王の礼法を廃し、君主や親への恩を蔑ろにし、兄弟や友人の縁を捨てるに至る。禅者はそうではない。生死は一つと見なし、得失は平等と捉える。心に何も起こらず、世に何にも執着しない。これが「虚」という境地である。だから煩わしさが尽きれば道理が残り、肉親と離れても孝行の心は失わず、世俗の規範が消えても敬意はなくならない。だから言う、儒教の教えを守ることは、天下の「虚」を実践することであり、治世に処するのに適している。禅の学びを通じることは、天下の「実」を虚しくすることであり、乱世に処するのに適している。ああ、これもまた意図を持って語られた言葉である。私は知恵が足りず、山翁和尚の禅を理解することはできないが、山翁和尚の禅が我が儒教に似ていると言うのは、まさにその余韻である。
四明流寓雲間包爾庚題
四明より雲間に流寓する包爾庚、題す