與鄭方水太史
明公妙辯夙慧,黏縛皆脫,雖事朝參,如方朔吏隱金門,視出猶處。今聖天子當扆,賢無不用,而宏猷碩抱如明公者,知遇必隆。青山雖好,恐未遂疏廣之高,故不欲作急流勇退語以惑鈞聽,謂今日之子瞻固不藉參寥八行然後灑落也。道無尊賤,惟愛畏兩關打得過,皆有自繇分。昔人謂:「樞得其環中,妙應無窮。」則知君臣道合,默協洞上宗風,佛法不在廟堂之外,明公實能似之矣!
明公の如きは、妙なる弁才と早くからの智慧を備え、あらゆる執着から解き放たれておられます。朝の儀式に参じながらも、漢の東方朔が朝廷に隠れて在野にあるが如く過ごしたように、出でてもなお処(閑居)にあるのと同じであります。今、聖なる天子が御座に就かれ、賢才を用いられぬことはありません。明公のような大いなる志と見識を備えた方は、必ずや深き知遇を得られるでしょう。青山は隠遁の地として好ましいものの、恐らくは疏広のような高き隠逸の志を遂げることは難しい。ゆえに、あえて「急流勇退」の言葉をもって、御心を惑わせようとは思いません。今日の私は、蘇子瞻が参寥子の八行の手紙に頼らずとも、すでに洒落た境地にあることをお伝えしたいのです。
道に貴賤はなく、ただ愛着と畏れという二つの関門を乗り越えられれば、皆、自由を得るのです。古人が「枢はその環中を得れば、妙なる応用は窮まりなし」と言ったように、君臣の道が合致し、洞上宗風が黙して協和することを知るならば、仏法は朝廷の外にあるのではありません。明公こそ、まさにその境地を体現しておられるのです。