鶴林寺位於江蘇丹徒黃鶴山下,黃鶴山在府城西南三里,一名黃鵠山,俗名鴻鵠山,乃京口五名山之一也。鶴林寺舊名竹林,晉大興四年(三二一)創,劉宋高祖微時嘗游焉,及即位,改今額,稱「鶴林律院」。唐開元、天寶間(七四一),有玄素禪師法照者,得法於牛頭山,歸主其地,僧徒日眾,始改為禪寺,又名古竹院。後薛朗、劉浩作亂,寺燼廢。宋紹興中(一一三一~一一六二)重建,改名「報恩光孝禪寺」;咸淳間(一二六五~一二七四)僧慶清重修。明水樂中(一四〇三~一四二四)寺燼廢,僧得月就古竹院稍葺治;弘治中(一四八八~一五〇五)了心始建殿宇;萬曆間(一五七三~)郡守鍾庚陽招僧德乘居之,吏部尚書陸光祖捐金,重建天王殿:此明萬曆以前寺之沿革也。重要之建置,如尚喜堂、天雨寶華堂、圓音堂等,乃高僧講經之處,為佛教之名利;餘如積弩堂、濂溪祠、陸秀夫祠、丹徒宮、愛蓮池、曾布宅、米芾宅等,亦具有歷史性之古蹟。鶴林寺自明萬曆間許國誠、高一福增修「京口三山全志」,以鶴林寺志一卷附之,時寺僧明賢亦撰有「鶴林寺志」一種,搜羅較前志完備,然前志所收釋法永「黑漆光菩薩傳」,明賢此志未收,其高僧門之黑漆光菩薩傳,則極簡略;前志所收「殷天祥傳」,此志未收,人物門之殷七七傳,亦極簡略;前志又收法語一門,此志亦未收;據此可知,二志雖修於同時,當未曾互為依據也。明賢此志不分卷,略分十四門:山川、建置、山界、田土、碑銘、古碣、高僧、人物、紀異、記、序、疏文、說、詩。碑銘、古碣尤存文獻中之珍寶。此志初刻於明萬曆間。茲據國立中央圖書館所藏萬曆初刻本景印,俾與許國誠、高一福所撰志比觀焉。
鶴林寺は江蘇省丹徒の黄鶴山の麓に位置しています。黄鶴山は府城の西南約三里にあり、別名を黄鵠山、通称は鴻鵠山ともいい、京口の五名山の一つです。
鶴林寺はかつて竹林寺と呼ばれ、晋の大興四年(321年)に創建されました。劉宋の高祖(武帝)が即位前にここを訪れ、即位後に現在の「鶴林律院」という寺額に改めました。唐の開元・天宝年間(741年頃)、牛頭山で法を悟った玄素禅師(法照)がこの地に帰り住持となると、僧侶が日増しに集まるようになり、禅寺に改められ、古竹院とも呼ばれるようになりました。その後、薛朗と劉浩の乱で寺は焼失して廃墟となりました。
宋の紹興年間(1131~1162年)に再建され、「報恩光孝禅寺」と改名され、咸淳年間(1265~1274年)には僧・慶清によって修復されました。明の永楽年間(1403~1424年)に再び焼失しましたが、僧・得月が古竹院の跡地を少し整え、弘治年間(1488~1505年)に僧・了心が殿堂を建立しました。万暦年間(1573年~)には、郡守の鍾庚陽が僧・徳乗を招いて住まわせ、吏部尚書の陸光祖が資金を寄進して天王殿を再建しました。これが明の万暦以前の寺の沿革です。
重要な建物としては、尚喜堂、天雨宝華堂、円音堂などがあり、高僧が経典を講じた場所として仏教の名刹となりました。その他、積弩堂、濂渓祠、陸秀夫祠、丹徒宮、愛蓮池、曾布の邸宅、米芾の邸宅なども、歴史的な古跡として残っています。
鶴林寺については、明の万暦年間に許国誠と高一福が『京口三山全志』を増補改訂し、その中に『鶴林寺志』一卷を附録として収めました。同時期に寺僧の明賢も『鶴林寺志』を編纂しており、こちらの方が収録内容は前志より充実していました。しかし、前志が収録していた釈法永の「黒漆光菩薩伝」は明賢の志には収められておらず、高僧の項目にある黒漆光菩薩の伝記は極めて簡略なものとなっています。また、前志にあった「殷天祥伝」も明賢の志には収録されておらず、人物の項目にある殷七七の伝記も同様に簡略です。さらに、前志には「法語」という項目がありましたが、これも明賢の志には見当たりません。このことから、二つの志は同時期に編纂されながらも、互いを参照してはいなかったことがわかります。
明賢のこの志は巻分けがなく、おおむね十四の項目(山川、建置、山界、田土、碑銘、古碣、高僧、人物、紀異、記、序、疏文、説、詩)に分かれています。中でも碑銘と古碣の項目は、文献として特に貴重なものです。この志は明の万暦年間に初めて刊行されました。ここに掲載するのは、国立中央図書館が所蔵する万暦初刻本の影印であり、許国誠と高一福が編纂した志と比較してご覧いただけます。