小叅
病起小叅舉五祖演和尚云如今人似發瘧一般寒一上熱一上不覺過了一生矣只此兩句話悟上座生平亦只尋常看過了適纔病中體之可謂斷盡人病不惟未打徹底人有時為此事急切著忙有時丟在無事甲裏設使徹底人於日用現行處亦未免觸事則因事生心緣無便依無息念被寒熱二途打作兩截今日更為一頌一番寒了一番熱服盡多方藥不痊直得一身白汗出始覺從前怗怗然今日禹門重頌出舉似禪人緊著鞭且道鞭頭落在甚麼處便下座。
病中に小参を挙げる。五祖演和尚が言われた、「今の人は瘧(おこり)を発するようだ。寒さが一度来れば熱が一度来る。気づかぬうちに一生を過ごしてしまう」。ただこの二言だけである。悟上座も平生はただ普通に見過ごしていたが、さっき病の中でこれを体得して、人の病を断ち尽くすと言えよう。未だ徹底を打ち破らぬ人ばかりでなく、時にこの事に急き立てられて慌て、時に無事の甲の中に放り込む。仮に徹底した人が日用現行のところにあっても、やはり事に触れれば事に因って心を生じ、無に縁すれば便ち無に依って念を休める。寒熱二途に打たれて両極に分断される。今日さらに一頌を為す。
一度寒さが来れば一度熱さが来る あらゆる方薬を服しても癒えず ついに一身の白汗が出て 始めて以前の平穏さに気づく
今日禹門に重ねて頌を出し 禅人に示して鞭を緊(し)めよ 且つ道え、鞭頭はどこに落ちるか 便ち下座す。
天封舒安律師請小叅世尊出世說法四十九年譚經三百餘會至拈華教外別傳方了本懷故教立戒定慧三法曰因戒生定因定發慧爾我既出家當須出三界了生死方始事畢若但持戒止免三途既兼生定止超六欲若其發慧方超三界故以發慧為主然今時多言慧竟不知發慧之繇如要發慧須是明心六祖云即心名慧即佛乃定定慧等持意中清淨是以心若苟明意自清淨於日用頭頭無𮈔毫過患所以我笑巖師翁道欲無禪禪無欲相奪相傾事不厭俗故曰清淨行者不上天堂破戒比丘不入地獄驀拈拄杖云通玄者裏又且不然喝一喝云且道是戒耶定耶慧耶是心耶佛耶是清淨耶破戒耶是上天堂不上天堂耶是入地獄不入地獄耶又喝一喝云切莫停囚長智便下座。
天封寺の舒安律師が小参を請う。 世尊は世に出て説法すること四十九年、経典を説くこと三百余会。拈華微笑の教外別伝に至って、初めて本懐を了する。故に教えには戒・定・慧の三法を立てる。曰く、「戒によって定が生じ、定によって慧が発する」と。
我ら既に出家したる者は、須らく三界を出で、生死を了して、初めて事畢るべし。ただ戒を持つだけでは、三途の苦しみを免れるに止まる。定を兼ねて生ずれば、六欲を超えるに止まる。もし慧を発すれば、初めて三界を超える。故に慧を発することを主とす。
然るに今の時、多くは慧を説くが、竟に慧を発する由縁を知らぬ。もし慧を発せんと要すれば、須らく心を明らかにすべし。六祖曰く、「即心これ慧、即仏これ定。定慧等しく持し、意中清淨なり」と。是をもって、心もし苟くも明らかなれば、意自ずから清淨なり。日用の頭頭に、毫釐の過患無し。故に我が笑巖師翁は道う、「禅無きを欲すれば、欲無きは禅なり。相奪い相傾き、事俗を厭わず」と。故に曰く、「清淨の行者は天堂に上らず、破戒の比丘は地獄に入らず」と。
驀に拄杖を拈じて云く、「通玄ここにまた且つ然らず」と。 喝一喝して云く、「且つ道え、是れ戒か、定か、慧か。是れ心か、仏か。是れ清淨か、破戒か。是れ天堂に上るか上らざるか。是れ地獄に入るか入らざるか」と。 また喝一喝して云く、「切に停囚長智すること莫れ」と。 便ち下座す。
除夜小叅一年三百六十日日日撞到今宵極箇中極處體全彰殺活全承此恩力是以古喻爾我臨命終時眼光落地底時節眼光既落地耳光亦落地鼻光亦落地舌光亦落地身光亦落地意光亦落地六光既落地則無見聞覺知之情何有聲色觸法之翳淨裸裸赤灑灑清寥寥白滴滴一片本地風光一著本來面目到箇裏所作俱息無佛道可成無眾生可度無生死可斷無涅槃可證然後天是天地是地僧是僧俗是俗於者一片地都來沒干涉雖無干涉謾他一點不得雖謾不得不假思議之心全憑者片本地風光靡所不周靡所不徧所以道日應萬緣而不撓其神千難殊對而不干其慮正當恁麼時除夜分歲一句作麼生道白雲盡處是青山行人更在青山外。
除夜の小参。一年三百六十日、日々に撞きつつ、今宵に極まる。この極みの中の極み、体は全く顕れ、殺活全くこの恩力に承る。これをもって古に譬う、我ら臨命終時の、眼光落ち地に著く時節を。眼光既に地に落ちれば、耳光もまた地に落ち、鼻光もまた地に落ち、舌光もまた地に落ち、身光もまた地に落ち、意光もまた地に落つ。六光既に地に落ちれば、則ち見聞覚知の情無く、何ぞ声色触法の翳あらん。淨裸裸、赤灑灑、清寥寥、白滴滴、一片の本地風光、一著の本来面目、ここに到る。所作俱に息み、仏道成ずべき無く、衆生度すべき無く、生死断ずべき無く、涅槃証すべき無し。然る後に、天は是れ天、地は是れ地、僧は是れ僧、俗は是れ俗。この一片の地に、都て来たりて干涉無し。雖も干涉無しと、一点を漫ろにすべからず。雖も漫ろにすべからずと、思議の心を仮らず、全くこの一片の本地風光に憑る。靡く所周らざる無く、靡く所遍からざる無し。ここに道う、日々万縁に応じて其の神を撓さず、千難殊に対しても其の慮を干さず。正に恁麼の時、除夜歳を分つ一句、作麼生かに道わん。白雲尽くる処是れ青山、行人更に青山の外に在り。
解夏小叅覿面分付尚涉廉纖直下承當猶存情識玄機獨唱截斷眾流恁麼也不得不恁麼也不得恁麼不恁麼總不得事不獲已放一線道開第二義門三月結制挂起囊放下複子便作安居今朝解制著卻草鞵挑著擔子便為行動殊不知天童者裏日日著草鞵日日挑擔子未嘗向諸人道安居行動諸人若會時時安居之地事事出身之路恁麼也得不恁麼也得恁麼不恁麼總得設若兩頭不涉中間不立又有甚麼恁麼不恁麼得與不得正當諸人分中如何通信莫是拳一拳掌一掌麼莫是打一棒喝一喝麼莫是彈一彈豎一指麼莫是說道理呈見解麼莫是總不恁麼以坐具拂一拂便行麼如此者總是依草附木良久云須知自有冲天志莫學他人行處行。
解夏の小参、面と向かって分け与えようとすれば、なお細やかさにこだわり、直ちに受け止めようとすれば、なお感情や分別が残る。玄機は独り唱え、衆流を断ち切る。かようにしてもならず、かようにしなくてもならず、かようでもかようでなくても、すべてならぬ。やむを得ず一筋の道を開き、第二の義門を開く。三月の結制には袈裟袋を掛け、複子を下ろして安居とし、今朝の解制には草鞋を履き、担子を担いで行動とする。知らずや、天童ここでは、日々草鞋を履き、日々担子を担いで、未だかつて諸人に安居や行動を説かず。諸人もし会得すれば、時々が安居の地、事事が出身の路。かようにもよく、かようにしなくてもよく、かようでもかようでなくても、すべてよし。もし両頭に涉らず、中間に立たずば、また何の「かようにもかようにしなくても」、得も不得もあろうか。まさに諸人の分上において、どう通信すべきか。拳を一拳、掌を一掌とすることであろうか。一棒を打ち、一喝をすることであろうか。一彈指し、一指を豎ることであろうか。道理を説き、見解を呈することであろうか。総じてかようにせず、坐具を一拂して便に行くことであろうか。このような者は皆、草に依り木に附く。しばらくして云く、須らく知るべし、自ら冲天の志有ることを、他人の行くところを行くことを学ぶ莫れ。
施主請小叅三世諸佛六道眾生皆是摩訶般若光光未發時無佛無眾生消息從甚麼處來只因一念心生分別遂見有佛有天有人有修羅有畜生有餓鬼有冤有親有逆有愛有男有女有心有性有玄有妙有煩惱有涅槃乃至有行有住有坐有臥有語有默若也一念回光返照明見本來面目遂見三世諸佛也是者箇面目天也者箇面目人也者箇面目阿修羅也者箇面目畜生也者箇面目餓鬼也者箇面目乃至冤也者箇面目親也者箇面目逆也者箇面目愛也者箇面目行也者箇面目住也者箇面目坐也者箇面目臥也者箇面目語也者箇面目默也者箇面目既皆者箇面目說佛不得說天不得說人不得喚作修羅不得喚作畜生不得喚作餓鬼不得喚作煩惱不得喚作涅槃不得喚作心不得喚作性不得喚作玄不得喚作妙不得喚作是不得喚作非不得乃至喚作行不得喚作住不得喚作坐不得喚作臥不得喚作語不得喚作默不得喚作冤不得喚作親不得喚作愛不得喚作逆不得喚作凡不得喚作聖不得既皆不得一道平等浩然大均上無攀仰下絕己躬畢竟天人羣生類皆承此恩力既承此恩力終不落虛可以超聲越色離見絕聞坐斷是非頭語默絕消息不求超生不求證滅無欣無厭淨裸裸赤灑灑全體與麼來全體與麼去通身無影像處處絕行蹤所以道處處真處處真塵塵盡是本來人真實說時聲不現正體堂堂沒卻身正當恁麼時只如孝子鍾大向追薦先妣朱氏又作麼安身立命還委悉麼彌陀元不異只者是西方。
施主が小参を請う。
三世の諸仏も、六道の衆生も、皆、大いなる般若の光です。 その光がまだ現れていない時には、仏もなく、衆生もありません。 その消息はどこから来るのでしょうか。 ただ一つの念が心に生じ、分別を起こすことによって、 仏がある、天がある、人がある、阿修羅がある、畜生がある、餓鬼がある、 怨みがある、親しみがある、逆らうがある、愛がある、 男がある、女がある、心がある、性がある、 玄がある、妙がある、煩悩がある、涅槃がある、 さらには、行がある、住がある、坐がある、臥がある、語がある、黙がある、 と見えてしまうのです。
もしも一瞬、光を返し照らして、本来の面目を明らかに見るならば、 三世の諸仏もこの面目であり、 天もこの面目であり、人もこの面目であり、阿修羅もこの面目であり、 畜生もこの面目であり、餓鬼もこの面目であり、 さらには、怨みもこの面目であり、親しみもこの面目であり、 逆らうもこの面目であり、愛もこの面目であり、 行もこの面目であり、住もこの面目であり、 坐もこの面目であり、臥もこの面目であり、 語もこの面目であり、黙もこの面目であると見えてきます。
すべてがこの面目であるならば、 仏とも言えず、天とも言えず、人とも言えず、 阿修羅とも呼べず、畜生とも呼べず、餓鬼とも呼べず、 煩悩とも呼べず、涅槃とも呼べず、 心とも呼べず、性とも呼べず、 玄とも呼べず、妙とも呼べず、 是とも呼べず、非とも呼べず、 さらには、行とも呼べず、住とも呼べず、 坐とも呼べず、臥とも呼べず、 語とも呼べず、黙とも呼べず、 怨みとも呼べず、親しみとも呼べず、 愛とも呼べず、逆らうとも呼べず、 凡夫とも呼べず、聖者とも呼べず、 すべてが呼べないものとなります。
一つの道は平等であり、広大に均しい。 上には仰ぐべきものもなく、下には自らの身も絶えています。 結局、天も人も、あらゆる生きとし生けるものは、 皆、この恩の力によって成り立っています。 この恩の力を受けているならば、ついに虚無に落ちることはありません。 声を超え、色を越え、見解を離れ、聞くことを絶ち、 是非の頭を坐断し、語も黙も消息を絶ちます。 超生を求めず、滅を証することも求めず、 喜びもなく、嫌悪もなく、清らかに裸で、何の飾りもない。 全体がこのように来て、全体がこのように去る。 全身に影も形もなく、至るところに行く跡も絶えています。
だからこそ言われるのです。 「至るところ真実、至るところ真実。 塵一つ一つが、尽く本来の人である」と。 真実を説く時、声は現れず、 正体は堂堂として、身さえも失われています。
まさにこのような時、 孝子の鍾大が、亡き母・朱氏の追善供養を営むにあたり、 どうやって安らかに身を立て、命を定めるのでしょうか。 その真意は分かりますか。
阿弥陀は元来、異なるものではありません。 ただこれこそが西方なのです。
解制小叅結制只得兩箇月老僧無福沒飯喫普請諸人各各行大丈夫兒當自立從門入者非家珍諸人莫蓄粟米粒𣗳凋葉落露金風脫盡皮膚赤骨𩪸箇事人人本具然到底不從他處得一任諸方玄又玄莫教污卻本來質祖師西來無別事討箇人兒不受惑老僧如是恁麼道諸人分上無交涉只如諸人分上又作麼生會卓拄杖歸方丈。
小叅僧出作禮師便打云靈山話月曹谿指月天童一味掉棒打月若也見月忘指方見棒頭落處無事不畢所以道見月休觀指歸家罷問程古人見人不會不得已下箇註腳云若喚作棒入地獄如箭射或舉杖云喚作拄杖即觸不喚作拄杖即背喚作山河大地即觸不喚作山河大地即背乃至喚作一切聲即觸不喚作一切聲即背祇要人向拄杖頭邊默契默運向聲色頭上坐臥聲色頭上安閒不被一切聲色之所籠罩一切聲色之所回換一切聲色之所擺撲始得自繇既得目繇則臨命終時定得自由不披業識之所回換則生死輪迴息矣縱聞十方佛祖老和尚出世亦如色等說法亦如聲等則不被佛祖老和尚舌頭之所籠罩之所回換之所擺撲方滿佛祖老和尚出世之本懷故曰祖師西來覓箇不受惑底人方始自信臨濟大師云少信根人終無了日祇如自信之人於世出世法中如何行履百華樷裏過一葉不沾身。
孝子鍾鴻穎為父紫符公請對靈小叅夫道也聖凡同體生死一如只緣不了以致隨境生情隨情造業隨業緣故三界昇沈受報好醜以拄杖敲靈几云若向者裏回光返照棺木裏眨眼便乃脫死超生剔起便行管取十方自在自在也天堂尚不住地獄豈能留千人萬人羅籠不住百千境界轉變不得應同體悲為如來使普現色身隨處作主興無緣慈導利羣品同成正覺正恁麼時歸根復本一句作麼生道盧舍本身纔獨露豁開正眼絕纖塵。
為洞陽蔡公對靈小叅本體恒然無生無滅正眼洞明離出離入祇因見倒惑生認境漂流以致輪迴不息若能當頭坐斷一念返本純源便見當處超脫所以道淨法界身本無出沒大悲願力示現受生雖然如是正恁麼時逍遙獨脫一句作麼生道卓拄杖云還委悉麼但能信腳騰騰去徧界無非淨法身。
為懶菴祝居士對靈小叅生死去來全體現陰間陽世本無邊所以道無邊剎境自他不隔於毫端十世古今始終不離於當念只因離於不離隔於不隔遂乃見倒惑生妄生分別於無生見生無滅見滅隨境有無心存取舍遂致輪迴不息乃以拄杖指靈几云直須當頭點破管教全體顯現一念常光現前永證不生滅地所謂無常生死法與我不相干若能如是解不用哭蒼天正恁麼時高超物表一句作麼生道良久云千峰勢到嶽邊止萬派聲歸海上消。
孝子金善鎔為父玄石公請對靈小叅秀水年年秀青山歲歲青祇因人不覺剛目見遷更以拄杖敲淨云擊碎蟠桃核方見舊時仁急薦取好惺惺頓證無生地高登安樂城崇成無漏業端坐寶蓮心復以拄杖敲淨云還見麼卓拄杖下座。
葉暹晟為父君錫公請對靈小叅生死無二相去來沒兩人祇因自不覺逐色與隨聲逐色隨聲也捉一放一心如猿猴茫茫無據遂致三界六道去來不息以拄杖點靈几云我今為你當頭點醒自知無滅無生覿面提持管取自由自在自由自在也不為業識之所牽無滅無生也永證金剛之固體正當恁麼時立命安身一句作麼生道直教兩腳捎空去鼻孔依前搭上唇。