---
title: "靈峰蕅益大師宗論 · 荅成唯識論十五問"
description: "靈峰蕅益大師宗論是明末高僧智旭的著作。明末佛教面臨內部僵化與外部挑戰，智旭大師立足天台宗，主張禪教律淨融合，回應時代弊病。該書匯集其書信、註疏與開示，系統闡述性相融通、淨土為歸的佛學思想，強調解行並進與實踐修行。作為中國佛教史上承先啟後的巨著，它深刻影響了後世漢傳佛教的發展，尤其對淨土宗的推廣貢獻卓著，被尊為淨土宗第九祖的智旭，其思想透過此論成為明清佛教的重要指南。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmgn46dbd0n5rk1042nvhitst"
---

### 荅成唯識論十五問原問附

> 成唯識論十五問への回答<note place="inline">原問付き</note>

問：末那與慧相應故，因中隨第六識轉，而為智藏識，不與慧俱，至果方圓，前五既有慧俱，又與善俱，復是轉識所攝，何故不隨第六因中轉，亦至果方圓邪？

> 問：末那識は智慧と相応しているため、因位において第六識に従って転じ、智蔵識となりますが、智慧とともに存在しません。果位に至って初めて円満となります。前五識はすでに智慧とともにあり、また善とともにあり、さらに転識に含まれます。なぜ第六識に従って因位で転じず、果位に至って初めて円満となるのでしょうか？

荅：末那之慧，即是我見。我見無自體，直以慧為體也。第六識入二觀，第七識二執不得現行，故得轉為平等性智。然第六出法空觀，第七仍起法執，第六出生空觀，第七仍起我執矣。但第七是第六不共親依，故六轉七不得不轉。若前五識雖有慧俱，既無我見相應，則慧甚劣。雖與善俱，由第六善，或境界善，暫得相應，無斷惑證理之能。以凡斷惑，須在定心，定心中多無前五識故，直至果位，第八識中有漏種盡，轉與大圓鏡智相應，名無垢識。從此淨識所變五根相分，純無漏故，依之發識，亦成無漏，名成所作智相應心品，僅屬果上化他之用，非能自利，不同第七識也。

> 末那識の智慧は、すなわち「我見」です。我見には実体がなく、ただ智慧をその本体としています。第六識が二つの観（法空観と生空観）に入ると、第七識の二つの執着（我執と法執）が現行しなくなり、それによって平等性智へと転じます。しかし、第六識が法空観から出ると、第七識は再び法執を起こし、第六識が生空観から出ると、第七識は再び我執を起こします。ただ、第七識は第六識の不共の親依縁であるため、第六識が転ずれば第七識も転じざるを得ません。前五識には智慧が伴いますが、我見と相応しないため、その智慧は非常に劣っています。善と共にあっても、第六識の善や、あるいは善き境界によって一時的に相応するだけで、煩悩を断ち真理を証する力はありません。煩悩を断つには、定心に入る必要がありますが、定心中では前五識はほとんど働かないからです。果位に至って、第八識中の有漏の種子が尽き、大円鏡智と相応するようになったとき、これを無垢識と呼びます。この清浄な識から変現した五根の相分は、純粋に無漏であるため、それに依って発せられる識もまた無漏となり、成所作智相応の心品となります。これは果位上で他者を教化するための作用に属し、自利の働きはなく、第七識とは異なります。

問：有我見故，餘見不生，無一心中有二慧故。云何既有我見，又得與慧相應？

> 問：我という見解があるがゆえに、他の見解は生じない。一つの心の中に二つの智慧が同時に存在することはないからです。それなのに、どうして我見を持ちながら、同時に智慧と相応することができるのでしょうか。

荅：心所有假實，如別境中慧，則有自體。十煩惱中，五見無體，惟以染慧為體。今第七相應之慧，未轉，舉體為我見法見，已轉，舉體為平等性智，故云約義別也。豈一心中有二慧邪？

> 答：心所には仮のものと実のものがあります。例えば別境の中の慧は、それ自体の実体を持っています。十煩惱の中の五見は実体を持たず、ただ染まった慧をその本体としています。さて、第七識に相応する慧は、転ずる前は全体が我見や法見であり、転じた後は全体が平等性智となります。ですから、意味によって区別されるのです。どうして一つの心に二つの慧があるでしょうか。

問：末那俱之我見，以慧為體，由義別故，仍以慧俱忘念，以念為體，何不亦由義別故，與念相應邪？

> 問：末那識に伴う我見は、慧を本体としますが、意味の違いによって、それに伴う忘念は念を本体としています。では、なぜ同じく意味の違いによって、念と相応しないのでしょうか？

荅：末那有慧，故有我見，與我見俱，即與慧俱也。忘念以念為體者，不遍染心；以癡為體者，乃遍染心。秖於第七識我癡上，明其無正念，故斥為忘念；無正知，故斥為不正知。皆無自體，約過失邊義，立此二耳。

問：謂此識緣自所依者，如有後識，即緣前意。儻難云：前五識所依五根，亦增上緣，何獨不許作所緣邪？識相緣之義，乞垂細剖。

荅：第七識唯內門轉故，得所依為所緣。前五識唯外轉，不得所依為所緣，不應為例。

問：意識依意，具三分別，設依色者，便同五識。第八亦依意，不依色根，何但有自性分別，無隨念計度？

荅：前六皆轉識攝，而一依心法、五依色法，故有差別。第八非轉識攝，但是所熏，唯無記性一類恆轉。儻亦具三分別，則有轉易，而受熏持種，皆不得成矣。

問：《唯識》五觀，與《占察》二觀，是同是別？

荅：遣虛存實，捨濫留純，攝末歸本，隱劣顯勝，皆從唯心識觀開出。若遣相證性，義仍兩屬。如云俗有真空，仍是唯心識觀。若遣相執，達相即性，乃真如實觀。

問：思能令心造作第八識相應之思，令造何等？

荅：爪生髮長，筋轉脈搖，髮白面皺，氣消容悴，及日月稽天，江河競注，滄桑易，春夏更，皆第八所造。

問：瞋唯不善，則初二果任運所起瞋心，名不善否？與無慚無愧相應否？能發業潤生否？

荅：學人失念起瞋，亦名不善，此念亦名無慚無愧。然已斷見惑，故不發業，善心易起，惡心易滅，不潤生也。

問：自在位，唯樂喜捨，以諸佛斷憂苦事故。彼金鎗馬麥等報，得名苦否？憂念眾生，得名憂否？又如頭臨白刃，如斬春風，得名無憂苦否？

荅：唯識名義，憂喜苦樂等，各有分劑，唯佛方能實無憂苦。金鎗馬麥，大權示現，原非實事，故非苦。憂念眾生，亦不同凡夫迫戚，故非憂也。臨刃斬風，雖無憂苦，仍與佛果未同，以佛果不受害故，至稱性極談，菩薩分證憂苦，諸佛究竟憂苦，是在忘名字相者，方能信之。