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title: "靈峰蕅益大師宗論 · 洗心說"
description: "靈峰蕅益大師宗論是明末高僧智旭的著作。明末佛教面臨內部僵化與外部挑戰，智旭大師立足天台宗，主張禪教律淨融合，回應時代弊病。該書匯集其書信、註疏與開示，系統闡述性相融通、淨土為歸的佛學思想，強調解行並進與實踐修行。作為中國佛教史上承先啟後的巨著，它深刻影響了後世漢傳佛教的發展，尤其對淨土宗的推廣貢獻卓著，被尊為淨土宗第九祖的智旭，其思想透過此論成為明清佛教的重要指南。"
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### 洗心說

> 心を清めることについて

夫心性本自離過絕非，靈明清淨，秖由無始無明，迷理為咎，妄有三惑。譬如浮雲，翳彼太虛，然浮雲決不從太虛外來，以虛空性無外故。則無明三惑，亦豈從心性外來，而心性豈有外哉？心性無外，何有能洗所洗？當知既約全體成迷，假說能翳所翳；亦約全迷歸悟，假說能洗所洗。全體成迷，猶全水成冰，冰即翳水，而不令流動也。全迷歸悟，猶全冰成水，水即融冰，而不令質礙也。於一心中，既妄成三惑，了彼三惑，即成妙三止矣。體真止者，了知十界無非一心，能融界內界外見思之惑。方便隨緣止者，了知一心具足十界，能融界內界外塵沙之惑。息二邊分別止者，了知一心十界、十界一心，不可思議，能融根本無明之惑。由能融惑也，三止皆有止息義焉。由能了知也，三止皆有停止義焉。由惑與理無二體，能融所融、能知所知，無二致也，三止皆有不止止義焉。三止各具三義，則是九義。九義秖是三止，三止秖是一心。一心本無能洗所洗，而能洗所洗，宛然不濫。《易傳》曰「聖人以此洗心，退藏於密。」義極於此。《大經》曰「三德若縱，亦不名妙，三德若橫，亦不名妙，三德不縱不橫，名祕密藏，乃名為妙。」契此妙密，功在於智；發此妙智，不離於心。心智既發，則三惑融泮，如湯消冰，假名為洗。請更以《佛頂》證之。經云「指皆是物，無是見者。此明妙心離一切相，體真止也。又云，微細發明，無非見者。」此明妙心即一切法，方便隨緣止也。又云「此見及緣，元是菩提妙淨明體，云何於中有是非是？」此明妙心離即離非，是即非即，息二邊分別止也。即此一章，宛具三止；即彼三止，各含三義。若向此處真實體會，不泥語言文字，亦不悖語言文字，從見色聞聲處分疏得下，從語言文字中照剖得來，方知一代時教，千七百公案，說來說去，無不是者箇道理，千變萬化，總是一條線索。一條線索，具足千變萬化，便可坐微塵裡，轉大法輪，剖一塵，出大千經卷，以大千經卷，收入一塵，亦不見有大千相，亦不見有一塵相，亦能使大千一塵，各各宛然，不相妨礙，不相映奪，是謂至顯至露，至微至密，是謂非顯非密，亦顯亦密，是謂無可洗而洗，是謂若欲淨土，當淨其心。隨其心淨，則佛土淨矣。

> 心の本性は、もともと過ちから離れ、誤りを絶ったものであり、霊明で清らかです。ただ、無始の無明によって、真理に迷い、過ちを犯し、妄りに三つの惑（煩悩）が生じます。それはまるで浮雲が大空を覆うようなものです。しかし、浮雲は決して大空の外から来るのではなく、虚空の性質には外がないからです。それと同じく、無明の三惑も、心の本性の外から来るものではなく、心の本性に外などありません。心の本性に外がなければ、洗うものと洗われるものがあるでしょうか。全体が迷いとなったという観点から、仮に覆うものと覆われるものがあると言うのです。また、迷い全体が悟りに帰するという観点から、仮に洗うものと洗われるものがあると言うのです。全体が迷いとなるのは、まるで水全体が氷になるようなもので、氷は水を覆い、流れを止めます。迷い全体が悟りに帰するのは、まるで氷全体が水になるようなもので、水は氷を溶かし、固さをなくします。一つの心の中に、妄りに三惑が生じますが、その三惑を悟れば、それは妙なる三つの止（サマタ）となります。体真止とは、十界がすべて一心であることを悟り、界内界外の見思の惑を融和させることです。方便随縁止とは、一心が十界を具足していることを悟り、界内界外の塵沙の惑を融和させることです。息二辺分別止とは、一心十界、十界一心が不可思議であることを悟り、根本無明の惑を融和させることです。惑を融和させることによって、三止にはすべて止息の意味があります。悟ることによって、三止にはすべて停止の意味があります。惑と理は二つの体ではなく、融和するものと融和されるもの、悟るものと悟られるものは一つであるから、三止にはすべて「止まざるを止む」という意味があります。三止はそれぞれ三つの意味を持ち、合わせて九義となります。九義はただ三止であり、三止はただ一心です。一心には本来、洗うものも洗われるものもありませんが、洗うものと洗われるものは、はっきりと区別されます。『易伝』に「聖人はこれをもって心を洗い、退いて密に蔵す」とありますが、その意味はここに極まります。『大経』に「三徳が縦ならば妙とは言えず、横ならば妙とは言えず、三徳が縦でも横でもないことを秘密蔵と言い、妙と名づける」とあります。この妙密にかなうことは、智の働きによるものです。この妙智を発揮するのは、心を離れません。心の智が発揮されれば、三惑は融解し、湯が氷を溶かすように、仮に洗うと名づけます。さらに『仏頂』を証拠としましょう。経に「指すものはすべて物であり、見るものはない。これは妙心が一切の相を離れることを明らかにし、体真止です。また、微細に発明すれば、見るものでないものはない。これは妙心が一切の法であることを明らかにし、方便随縁止です。また、この見とその縁は、もともと菩提の妙浄明体である。どうしてその中に是と非是があるだろうか。これは妙心が即を離れ、非を離れ、是即非即であることを明らかにし、息二辺分別止です」とあります。この一章には、まさに三止が具わっています。その三止は、それぞれ三つの意味を含んでいます。もしこのところを真実に体得すれば、言語文字にこだわらず、また言語文字に背かず、色を見、声を聞くところから分け入り、言語文字の中から照らし分けることができます。そうすれば、一代の教え、千七百の公案が、説いて説いても、すべてこの道理であり、千変万化しても、ただ一つの線索であることがわかります。一つの線索が千変万化を具足していれば、微塵の中に坐して大法輪を転じ、一塵を剖いて大千経巻を出し、大千経巻を一塵に収めても、大千の相も見えず、一塵の相も見えず、また大千と一塵をそれぞれありのままにし、互いに妨げず、奪い合わないようにすることができます。これが最も顕れ、最も露わであり、最も微細で、最も秘密であると言えます。これが顕でも密でもなく、また顕でもあり密でもあると言えます。これが洗うべきものなくして洗うことであり、もし浄土を得たいなら、その心を浄めるべきであると言えます。心が浄まれば、仏土も浄まるのです。