『量釈論』 第二巻
法称論師造
民国・沙門法尊訳
第二品 量の確立
量とは、欺かない智慧のことである。 安住して意味をなすことができ、欺かない。 声もまた同じで、示そうとするものを示すからである。
語る者は対象となるところの、 何の意味を覚が明らかにするか、 そのことについて、声は量である。 意味の本性には因がない。
すでに取ったものに縁っているから、 その世俗を許さない。 覚は正量の性質であり、 取るべきことと捨てるべきこと、
それに向かって趣くことが主だからである。 境がそれぞれ異なることによって、 覚の証知もそれぞれ異なるからである。 それにこれがあることによって、これがあるからである。
自証によって自己の体を、 名言によって量であるとし、 論は愚かさを遮るためである。 意味を知らないことを明らかにするのである。
自己の体を証知した後、 総相の識を得るべきである。 思うに、自相について、 知られることを知らないから、
自相を観察するからである。 世尊はこの量を具えている。 無生を主張する者を遮るために、 論を説いて成立させるのである。
立てる量を待って理にかなう。 量は常住の性質ではない、 有事の量に達するからである。 所知が無常であることによって、
それらは堅固でない性質だからである。 次第に生じるものがあるが、 常に生じることは理にかなわないから、 観待できないから、
誰をも利益しないから、 無常もまた量ではない。 住すること、動くこと、形の違い、 そして意味をなすことなどである。
極めて成立しているか、あるいは喩えがなく、 さらに疑惑の性質である。 加持のあるなしに従って、 形などは、望むように成立する。
それによって比度されるもの、 それが正理の性質である。 別の事によって成就されるもの、 声が同じで異ならないから、
比度は理にかなわない。 例えば灰の物によって火を比度するようなものである。 そうでなければ、陶師が、 陶瓶などを作る際に、
泥の形を作るから、 蟻塚もまたそれによって作られることになる。 立つものが随行するから、 果の総体もまた立てることができ、
繫属がそれぞれ異なるから、 異なる過失を説いて果は同じである。 種類の別によって成立する、 声の総体を見ることによって、
成立させるのは正理ではない。 例えば言葉などを、 牛であるから角がある、というように。 他者の説くところに従いたいから、
あらゆる声はみな無ではないが、 それがあるから意味が成立する、 すべてによってすべてが成立する。 これによって観察する、
劫毘羅などの学派は、 無常などであるから、 無心などをも説き、 さらに皮を剥いで死ぬから、
心を具えていると説く。 もし事の体が成立しないなら、 この理がもし成立しても、 別のものが成立しなくても害はない。
例えば声は虚空に依る。 声は成立しなくても、 事が成立すれば成立する。 例えば仏が鵂鶹に対して、
身などを立てるものと説くようなものである。 もしそれらの性質が誤っているなどなら、 声は誤っていなくても、 立てるものに過失があると知る、
事が成立することによって事が成立するからである。 行くから、手があるから、 角があることや象を立てる、 この声の示すところは、
世間では許されているが、説こうとするところではない。 例えばそれらの事が因であるなら、 即ちいつ因ではなくなるのか、 何によってそれらの因を計りながら、
非因を許さないのか? 器械や薬などに縛られていることによって、 黒い者が傷つきまた癒えるが、 繫属のない株や切り株を、
なぜ因と計らないのか? 自性に差別がなく、 また可能でもない。 常であれば遮ることがないから、
機能もまた知り難い。 何が何の性質を成就するのか、 他のものをそれらの因と計るなら、 あらゆる果について、
諸々の因は無限となるであろう。 苗を生じる地などを、 性質が転変することが因である。 もしそれらが善く修治されるなら、
それらの差別が見られるからである。 もし根と境が合わさるように、 別なく、覚の因であるなら、 このようである。そうでなければ、
それらにも別があるからである。 諸々の別々のものには能力がない。 もし性質に差別がなければ、 合わさってもまた能力がないはずであり、
ゆえに差別があることになる。 ゆえに各々別々では能力がなく、 合わさって功徳がある、 それが因である。自在天などは、
そうではない。別がないからである。 量は現れない意味を知るが、 それを立てるものがないから、 殷重に修することがない、
このように説く者がある。 知らないのに説くことについて、 誤りを恐れる諸々の者は、 その説を修するために、
よく知る者を求める。 ゆえに善く観察すべきである。 その修する智慧を弁えること、 これが虫の数を知ることができても、
私には必要がない。 取捨の性質、 およびその方便を了知すること、 それを定量と認めるのであって、
すべてを知ることではない。 遠くを見ることができるか否かに随って、 見たい性質を見ることを要する。 もし遠くを見ることが量なら、
未来は鷲鳥に依るべきであろう。 立てることは悲の修行による。 覚は身に依っているから、 修行によって何も成就しない。
そうではない。依ることを破るからである。 最初に受生する時、 呼吸、根、覚などは、 自類を待たないのではない。
ただ身から生じる、 というのは、あまりに過剰だからである。現に見るところ、 結続する能力を有するもの、 それには何の事があるのか?
また何の事がないことによって、 後に結続しないのか? どのようなところで生じないのか、 湿生などの衆生は?
全くそれらの地などがない。 ゆえにすべての種性、 ゆえに根などは自類を待たず、 大種である、
一つが転変する時、 すべてが変わり別がないからである。 諸々の根が一つ一つ損なわれても、 意や覚に損はない、
もしこれが転変すれば、現に見るところ、 それらもまた転変する。 ゆえに覚の住所は、 覚の性質に依ることがあり、
諸々の根の因である、 ゆえに根は覚から生じる。 それらのように引き起こすことがあり、 後にもまたそれらのようである。
それらの識によって利益されるから、 意は身に依ると説く。 もし根がなければ覚ではないが、 それらまたそれらがなければない。
このように互いに因となる、 ゆえに互いに因がある。 次第のないものからは、 次第のあるものが生じない、
別でもなくまた待つこともない。 身から次第に覚が生じる。 それもまた次第を示す。 その前前の刹那は、
一つ一つの刹那、 以前になかったものの因である、 ゆえに一切時において、 因として見ることができる。
後の心と他の心とが、 結続することに何の違背があるのか? その羅漢の後の心は、 何によって結続がないと許すのか?
まさかこの宗派に従って、 量が意味を成立させないということがあろうか? もしその因を離れるというなら、 ここでなぜ説かないのか?
それらの覚が取るから、 意は根のあるものから生じない。 識を生じることが異なるから、 またすべてからも生じない。
無心だから他のものではない。 一つの因だから共に住む、 根のように、色や味のようである。 意味の門によって転変する。
常にそれらに随って転ずるから、 利益することがあるから、 その因によって第七、 及び生ずると説くからである。
ある時、心の相続において、 また利益することがあり得る、 瓶などが火などに対してそうであるように、 ただそれだけでは必ずしも遮られない。
身が安住している時、 心は遮りなく滅するべきである。 それらがあるからこそこれがある、 それらが自在に転ずるから、
それらの呼吸は、それらではない。 もし勤めの功力がなければ、 何によって風が呼吸するのか? それらの盛衰によって、
盛衰を得るべきである。 それらの過失も同じである。 心の因は異なる。 他の安住し引き起こすもの、
また因であると許すからである。 もし株や切株のように、 過失に違背すれば、身は因ではない。 死の過失によって退する時、
則ち復活できるべきである。 もし火は滅しても、 薪が変わって還らないように、 それもまた退転しない。
そうではない。医者がいるからである。 生を変化させるものがあり、 再び生じないものがあり、 還転可能なものがあるから、
火が薪や金に対してそうであるように。 初めは小さくても退転しない、 所作が還転可能なものは、 それらは再び生じることができる、
金の堅硬性のように。 少しも治せないと言うのは、 能く治すものが得難いから、 あるいは寿命が尽きたからである。
もし単なる病患なら、 治せないものはない。 死毒などが遮るから、 それらに噛まれてもまた截ることができ、
変壊の因を離れるから、 それらはなぜ復活しないのか? 親因が変異しないなら、 因のある諸々のものは、
変異させることができない、 泥に変える者がいなければ、 瓶などに異なりがないように。 もし事に変異がなければ、
それらの事に変異がある、 これはそれらの因として理にかなわない、 牛や青い牛などのように。 心と身もまた同じである。
それらは俱有の因から、 果を生じて共に住む、 火と熔けた銅のように。 有無、無依であるから、
そうではない。住む因がある。 これが依である。これに依がない、 住を離れて他はないからである。 他のものであれば即ちそれの因、
それらは事に対して何をするのか? 壊れることのないものとなるべきである。 もし壊す因があると計るなら、 それもまた上の過失と同じである。
住む因はさらに何をするのか? もし壊す因に遇う、 その間にそれらを住まわせるというなら、 壊れることは事の法性であり、
これがあっても害がないから、 住む因は何をするのか? もし水などのようであるというなら、 所依も、これも同じである。
諸々の事は刹那に壊れる、 それはそれらの事の相続であり、 このように生の因であるから、 それがそれらの所依である。
そうでなければ理にかなわない。 流失を障碍するから、 水などの所依である。 無行者の徳、総、
業などは何の依を必要とするのか? これによって和合、 および和合の因、 種類などが住する性質に、
依がないからすべてを排除する。 もし事が他のものによって壊れるなら、 それらの住む因は何をするのか? それらは他なしに壊れ、
諸々の住む因には能力がない。 依のあるものはすべて住を具え、 生のあるものはすべて依がある、 ゆえにすべての有事は、
ある時には壊れるべきではない。 もし自ら壊れる性質なら、 それらの他はどうして住めるのか? もし自ら壊れる性質でなければ、
他を用いてどうして住めるのか? 身に増減はなく、 覚の働きの差別によって、 慧などが増減する。
灯光などの諸々の依、 則ちこの事はない。 これによって彼とこれが勝れることができ、 心を益さないのではない。
ある時、貪欲などは、 壮などによって増長し、 これは苦楽から生じる。 それらは調適などから、
内義に近づいて生じる。 これによって合わさるものを説き、 念などを退失させる。 内義の差別によって、
覚を生じさせ変化させるからである。 例えば相続の差別があり、 猛虎の性質を聞くこと、 および血を見るなどによって、
昏迷などを発する。 ゆえに必ず何の性質によって、 作用し、心に随って転ずるか、 それがなければ生じない、
ゆえに心に依るのである。 心に依るように、 聴聞などの諸々の行は、 心の時に明らかである、
このように異ならないから、 身は功徳を顕わすべきである。 我愛を具足することによって、 他の有情に引かれるのではなく、
楽を得苦を捨てようと欲し、 鄙劣な処に受生する。 苦について顛倒した覚があり、 愛の縛りが生の因である、
もし誰かにその因がなければ、 その者は再び生じない。 もし去来を見ないなら、 根が不明で見えない。
例えば目が不明であるために、 軽微な煙を見ないようなものである。 身が微細であることや、 あるいは質碍がないこと、
水のようであり、金や水銀のようであり、 見えないからといって無いのではない。 手などを揺り動かす時、 すべてが動くべきであるから、
相反する業用は、 一つにはありえないからである。 他であれば、異なるものとなるべきである。 一つが覆えばすべてが覆われ、
あるいは覆われなければ見えるべきである。 一つが染まって変われば変わるべき、 あるいは変わらなければ知るべきである。 ゆえに一つの集まりは存在しない。
もし多くならば前のようである、 別がないから、微細だから、 了知することができないはずである。 差別がなければ成立せず、
差別があれば根の境である、 ゆえに微塵ではない。 これによってまた排除される、 能力のない障碍などと説くことも。
水銀と金とが混ざって、 熱い石がどうして見えるのか? 根などに別々の能力がなく、 どうして了知するのか?
具有性によって、この過失は同じである。 もし金と水銀とが、 具有性によって見えるというなら、 所依は見ることができず、
何によって了知するのか、 味、色などの具有性に違背することを? もし仮設によって許すなら、 則ち覚は異なるべきである。
どうして長い鬘と名付けるのか? 具有性やそれ自体、 および諸々の言説の外に、 数、業などの体を持つものを、
覚に現れない。 声の智慧は、 異なる事に随って行く、 分別によって仮設された意味に縁る、
喩えば功徳などのようである。 すでに滅したもの、まだ生じていないもの、 もしこれらを仮のものと許すなら、 何の因によってそれらを許すのか?
それらはすべての事について、 なぜそれらの因を許さないのか? もしすべてが仮ではないというなら、 異なる差別が主となる。
何によって?もし異がなければ、 異は則ち意味がなくなる。 因が他の意味があるからではなく、 白など、具有性、数など、
その声は異なる門ではない。 もしそれらも他の意味なら、 徳と実体は別がないはずである。 他の意味はなくても、
遮ることによって分けて異とする、 例えば業は実体の声ではないように。 諸々の事を説く声によって、 それらの数などを具え、
異なるように説くことは、 他の法を簡別するものである。 ただ彼の許すところを知りたくて、 他はすべて引き出さない、
指の具有性を説くように、 異なる法のように説く。 ただ一つの意味を説いても、 すべてを引き出すために、
指の具有性と言うことを、 有法を説くと許す。 このように言説を作る。 色などを捨てて能別とし、
共果因ではないことを遮り、 瓶という声が転ずるようにする。 ゆえに瓶という声は、 一つの所依の声を作るのではない。
これは言葉の種類であり、 言葉の集まりとの差別がある。 それらの総体を支分として、 瓶の色などと言うことは、
それらを能差別として顕わす。 これは他についても説くべきである。 他がないことが因であり、 一つの支分を離れてもまたそうではない。
各々は機能の性質であり、 一度に多くのものを生じるべきである。 多くの性質が同じだから、 呼吸は定めることができない。
一つもまた多くを顕わすべきである。 それらの因は常住だからである。 もし多くの因でなければ、 徐々ではなく、別がないからである。
即ち一呼吸の間に、 また多くの意味に縁るから、 それらによって決まらない。 もし一つの覚が多くを知るなら、
それらは即ち頓知となる。 相違することがないからである。 徐々にもまた知らないはずである、 差別がないからである。
もし自類ではないと計るなら、 時の息は多くの刹那であり、 これはこのような心の因であるが、 次第の因を具有しない、
それらはどうして次第を具有するのか? 前の自類を因とするなら、 最初には生じないはずである、 このような因は存在しないから。
生じる息が異なる境だから、 存在しても必ず多くなる。 ゆえに覚は一度に生じるべきである。 多くても、一時の