---
title: "香嚴禪師語錄 · 小參"
description: "香嚴禪師語錄是清代禪師釋說明的弟子耀等人編錄的禪宗語錄由葉燮作序並附有行實主要內容是香嚴禪師的開示語錄機鋒轉語和修行指導體現了臨濟宗的禪風該語錄記錄了禪師在修行與教學中的智慧結晶對研究清代禪宗思想與實踐具有重要價值是了解當時禪門風貌和修行方法的重要文獻在佛教典籍中佔有一席之地為禪學研究者和修行者提供了參考依據"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmgnk9nrk08n5jj04ykui1qdc"
---

### 小參

> 小参

僧問：「如何是踞地師子？」師云：「你且立在者裡。」「如何是出窟師子？」師云：「退後去。」進云：「蒙師指出真師子，跳擲翻騰平地波。」師云：「未點眼在。」僧喝，師便打，乃云：「參須實參，悟須實悟。若得實參實悟，自能隨處作主，遇緣即宗，竿木隨身，逢場作戲，羅大千於掌握，撮虛空於頂𩕳，踢脫佛祖機關，掃除聖凡窠窟，縱橫無礙，獨立乾坤。」打圓相，云：「若到者裡，正好喫棒。且解七一句又作麼生？龍生金鳳子，衝破碧琉璃。」下座。

> 僧が問うた：「どういうのが地に伏した獅子ですか？」師は言った：「お前はまずそこに立っていなさい。」「どういうのが窟を出た獅子ですか？」師は言った：「退いて行け。」僧がさらに進み出て言った：「師のおかげで真の獅子を示していただき、跳ね回り、ひっくり返り、平地に波が立つことを知りました。」師は言った：「まだ眼を点じていない。」僧が喝を放つと、師はすぐに打った。そして言った：「参究は必ず実に参究せよ、悟りは必ず実に悟れ。もし実に参究し実に悟ることができれば、自ずから随所で主人となり、縁に遇えば即ち宗旨となり、竿や木を身に帯び、場に出会えば戯れを行う。大千世界を掌中に収め、虚空を頂上に掴み、悟りの機関を蹴り破り、凡夫と聖者の巣穴を払い除け、縦横に妨げなく、乾坤に独立する。」円相を描いて言った：「もしこの境地に至ったなら、まさに棒を食らうのが良い。では解七の一句はどうなるか？龍が金の鳳子を生み、碧瑠璃を突き破る。」座から下りた。

小參。云：「結制已經十五日，艱難種種不可述，無柴無米最堪憂，有口只堪掛在壁。平湖知浴入山來，今宵要起第二七，鐵壁還須拚命挨，要知謀道不謀食。就地翻身跳出場，一曲吹將無孔笛。」卓拄杖，云：「會麼？根塵脫落聞不聞，廣長舌相非今昔。」以杖畫圓相，復卓三下，下座。

> 小参。師曰：「結制してすでに十五日、さまざまな艱難は言い尽くせない。薪も米もなくて最も憂えるのは、口があってもただ壁に掛けておくばかりだ。平湖の知浴が山に入ってきた。今夜は第二の七を起こそう。鉄壁も命を懸けて乗り越えねばならない。知るべきだ、道を謀り食を謀らざることを。その場で身を翻して場を飛び出し、一曲吹くは孔なき笛。」柱杖を卓ちて曰く：「会得したか？根塵脱落して聞くとも聞かず、広長舌相は今昔にあらず。」杖をもって円相を描き、また三度卓ちて、座を下りた。

嚴質人護法掩棺請小參。云：「質義成人最可誇，巋然不著眼中沙，麗天杲日能長久，越古超今事不差。恭惟質翁老居士之靈，立身忠信，鄉黨稱為長者；處世真誠，英才樂於門下。文瞻北斗，德重南山，與先師為方外交，始終不易；受令叔作普明護，生死俱沾。未嘗留心於吾道而暗合禪宗，已能樂志於名倫而超然物理，正宜壽考引導澆漓，豈意奄然撒手歸寂？世諦看之，最堪痛惜；道眼觀之，歸其真宅。所以云：生死如花，見聞如翳，翳消花謝，一亙長空。即今蓋棺之際如何舉揚？脫體迥超生死見，端嚴不動在其中。」下座。

> 質人護法が棺を覆う際に、小参が求められた。師は言われた。「質義の成人は最も称賛に値し、堂々として眼中の塵を留めない。麗しき天の昊日は長く続き、古を越え今を超えて、事柄は少しも違わない。恭しく質翁老居士の御霊を偲べば、その身の立て方は忠実で誠実、郷里では長者と称えられた。世に処するは真心そのもので、優れた人々は喜んでその門に集まった。その文は北斗を仰ぎ見るがごとく、徳は南山のように重く、先師とは方外の友として、終始変わることがなかった。令叔の求めに応じて普明の護りとなり、生死においてもその恩恵を受けた。かつて我が道に心を留めることはなかったが、密かに禅宗と合致し、すでに名分の教えに楽しみを見出し、物の理を超えていた。まさに長寿をもって世の浅はかさを導くべきであったのに、どうして忽然と手を離して静かに逝ってしまわれたのか。世間の見方からすれば、最も痛み惜しむべきことである。しかし道の目で見れば、真の住処に帰られたのである。だから言う、生死は花の如く、見聞は目の翳の如し。翳が消え花が散れば、一つの長空が広がる。今まさに棺を蓋う時、どのように唱えるべきか。この身を超えて生死の見解を離れ、端厳にして動かず、その中に在るのである。」と言って、座から下りられた。

小參。云：「心隨外境轉，轉處實能幽。」良久，云：「喚甚麼作心？喚甚麼作境？」喝一喝，云：「若向者裡會得，心境俱忘、事跡並掃，無禪可參、無道可學，放浪形骸之外、優游寂滅之中，住窄若寬、處幽若顯，問話參禪翻成特地；其或未然，向十二時中、四威儀內、應緣接物之際一覷便見。何故聻？不見道：隨流認得性，無喜亦無」憂。撫掌，下座。

> 小参で言われた。「心が外の境に従って転ずる、その転ずる所に実に幽なる能あり。」しばらくして言われた。「何を心と名付け、何を境と名付けるのか。」一声喝して言われた。「もしここで会得すれば、心も境も共に忘れ、事跡も共に払い落とされ、禅も参ずるべきものなく、道も学ぶべきものなし。形骸の外に放浪し、寂滅の中に悠然と遊ぶ。住する所が狭くても広く感じられ、幽かな所にいても明らかに見える。問答し禅を参ずるのは、かえってわざわざ特別なことをするに過ぎない。もしも未だそのようでなければ、十二時の中、四威儀の内、縁に応じ物に接する際に、一瞥すればすぐに見えるだろう。なぜか。道に従って流れに乗り、本性を認めれば、喜びもなく憂いもない、と言われていないか。」手を打ち、座を下りられた。

對靈小參。云：「身從無相中受生，猶如幻出諸形象，幻人心識本來無，罪福皆空無所住。」以拂子打圓相，云：「者個是無相，一切世間、盡世間所有種種形色、種種名相、種種是非、種種得失，莫不從此無相中發現，如母生子，未嘗改形。母有子有，母無子無，母既無相，子豈有相？子母既無，則形色聲名俱同幻化；既同幻化，生死亦然。所以云：見聞如幻翳，三界若空花。於此會得，則知嚴母孺人生未嘗生，死未嘗死。且道即今在甚麼處？」喝一喝，云：「漚生漚滅水還在，一性圓明亙古今。」下座。

> （老師對參禪者開示說：）「身體從無相中出生，就像幻術變現出各種形象，幻化的人心意識本來就沒有，罪業福報都是空、無所執著。」用拂子畫一個圓圈，說：「這就是無相，一切世間、以及世間所有的種種形色、種種名相、種種是非、種種得失，無一不是從這無相中顯現出來，就像母親生子，從未改變過形體。母親有，兒子就有；母親無，兒子也無。母親既然沒有形相，兒子怎麼會有形相呢？兒子與母親既然都沒有，那麼形色聲名就都同於幻化；既然同於幻化，生死也是如此。所以說：所見所聞如同幻影眼翳，三界就像空中的花。能在這裡領會，就知道尊敬的母親雖然生育了我，實際未曾生過，死也未曾死過。且說現在她在什麼地方呢？」大喝一聲，說：「水泡生起水泡消滅，水還在那裡；一個本性圓滿光明，貫通古今。」走下法座。

對靈小參。云：「生時未嘗生，滅亦未嘗滅，即其不生滅，應緣而分別。當其應緣之際，於聲色頭邊、是非窟裡，或威、或慈，或嗔、或喜，隨緣應感，立業成家。及其緣滅，四大分離，事業雖云拋散，而此性未嘗轉移。且此性即今在甚麼處？」豎拂子，云：「見麼？亙古亙今原不昧，花開花落總如然。」下座。

> 対霊小参していわく、「生まれる時も未だ嘗て生ぜず、滅するも亦未だ嘗て滅せず、即ちその生滅せざるもの、縁に応じて而して分別す。その縁に応ずるの際に当たりて、声色の頭辺、是非の窟裏に於いて、或いは威、或いは慈、或いは瞋、或いは喜、縁に随いて応感し、業を立て家を成す。その縁滅するに及んで、四大分離す、事業は抛散せりと雖も、而も此の性は未だ嘗て転移せず。且つ此の性即ち今、甚麼処に在るや？」払子を豎て、云く、「見るや？亘古亘今、原（もと）より昧（くら）からず、花開き花落つるも総て如然たり。」下座す。

圓萬佛懺，小參。云：「佛不是佛，道不是道，目盲眩五色，知見立三心。有修還壞，無念即真，天然自性，不落他人。千佛、萬佛總是一佛，早已百雜碎；真名、假名盡屬無名，不消一踏倒。水中月、鏡裏花，聰慧人瞞他不得；空中彩、谷裡聲，多知漢枉自勞神。今則萬佛懺期，道場圓滿，檀那獲福，僧眾增修，上報四恩，下資三有，因緣輻湊，功德週隆。忽然，達磨大師從拄杖頭跳出，高聲喝道：『有漏之因，並無功德。』山僧輕輕對他道：『幻中成幻幻功勳，幻裏功勳幻裏身，欲了幻因須作幻，幻中超脫幻俱真。』」下座。

> 万仏懺を円満し、小参す。いわく、「仏は仏にあらず、道は道にあらず。目は盲して五色に眩み、知見は三心を立てる。有る修行は還って壊れ、無念こそ真なり。天然の自性は、他人に落ちず。千仏・万仏、総じて一仏なり。すでに百雑碎なり。真名・仮名、ことごとく無名に属す。踏み倒すに一息も要らず。水中の月、鏡の中の花は、聡明な人を騙し得ず。空の中の彩り、谷の中の声は、多知の漢、いたずらに心を労す。今や万仏懺の期、道場円満し、檀那は福を得て、僧衆は修を増す。上は四恩に報じ、下は三有を資ける。因縁は輻湊し、功徳は周隆たり。忽然として、達磨大師が杖の頭から躍り出で、高声に喝して曰く、『有漏の因には、功徳なし。』山僧、軽やかに彼に對（むか）いて曰く、『幻の中に幻の功勳を成し、幻裏の功勳、幻裏の身。幻の因を了せんと欲すれば、須らく幻を作すべし。幻の中に超脱すれば、幻も倶に真なり。』」下座す。

解七，小參。問：「大事未明時如何？」師云：「煙雨樓前漁父舟。」進云：「某甲即不然。」師云：「作麼生？」進云：「公案現成。」師便打。問：「德山小參不答話，趙州小參要答話，未審二老酬唱如何？」師云：「一彩兩賽。」進云：「今日和尚小參又作麼生？」師云：「蝦蟆吞大蟲。」進云：「某甲即不然。」師便打。問：「打鳳羅龍即不問，忽遇師子兒來又作麼生？」師云：「那裡有？」僧喝，師云：「野干鳴。」問：「七日已過即不問，車馬橫行時如何？」師云：「看腳」下。進云：「虛空粉碎、大地平沉時又作麼生？」師打，云：「我與你打破來看。」乃云：「佛祖之道本非奇特，不過指出當人本源而已，蓋以此事人人共有、個個不無，只因妄想執著不能證得，迷昧既久返以為奇，然在當人日用未嘗欠少絲毫。昔，僧問：『如何是佛？』『即汝便是。』『如何是佛？』『汝是慧超。』伶俐漢子，於一言之下一信永信、一得永得，淨裸裸、赤洒洒，捺著便跳、撥著便轉，吞吐十方、放收三際，始知與從上巴鼻無二無別、亙古亙今、不生不滅，建立也在我、掃蕩也在我，更無他人，只是自己，故曰：天地同根，萬物一體。諸人還證得也未？證得，則了脫生死；其或未然，有寒暑兮促君壽，有鬼神兮妒君福。且今解七作麼生道？新出紅爐金彈子，打破諸人鐵面門。」下座。

> 解七の小参。問う：「大事いまだ明らかならざる時は如何？」師云く：「煙雨楼前の漁父の舟。」進みて云く：「某甲は即ち然らず。」師云く：「作麼生。」進みて云く：「公案は現成なり。」師即ち打つ。問う：「徳山の小参は話に答えず、趙州の小参は話に答う。未だ審らかにせず、二老の酬唱は如何？」師云く：「一彩両賽。」進みて云く：「今日の和尚の小参は又作麼生。」師云く：「蝦蟆大虫を呑む。」進みて云く：「某甲は即ち然らず。」師即ち打つ。問う：「鳳を打ち龍を羅るは即ち問わず。忽ち師子の児来たる時は又作麼生？」師云く：「那裏にか有らん。」僧喝す。師云く：「野干の鳴く。」問う：「七日已に過ぎしは即ち問わず。車馬の横行する時は如何？」師云く：「脚下を看よ。」進みて云く：「虚空粉砕し、大地平沈する時は又作麼生？」師打ちて云く：「我汝がために打ち破りて看ん。」乃ち云く：「仏祖の道は本より奇特に非ず。ただ当人の本源を指し出すのみ。蓋し此の事は人人に共有し、個個に無きこと無し。ただ妄想執着の故に証得すること能わず。迷い昧ること久しければ反って以て奇と為す。然れども当人の日用に在りて未だ曾て少分も欠くること無し。昔、僧問う：『如何が是れ仏？』『即ち汝便是れ。』『如何が是れ仏？』『汝は慧超。』伶俐の漢子、一言の下に一信永信、一得永得し、浄裸裸、赤洒洒として、捺せば便ち跳び、撥せば便ち転ず。十方を吞吐し、三際を放収す。始めて与従上の巴鼻と無二無別、亘古亘今、不生不滅なることを知る。建立も我に在り、掃蕩も我に在り。更に他の人無く、ただ自己のみ。故に曰く：天地は同じ根、万物は一体なりと。諸人は還って証得せりや。証得せば則ち生死を了脱す。其れ或いは然らずんば、寒暑有りて君の寿を促し、鬼神有りて君の福を妬む。且つ今解七を作麼生か道う。新たに紅炉を出でし金弾子、諸人の鉄面門を打ち破らん。」下座す。

結制日，小參。師云：「本來成現，雲騰可致雨；覿體圓明，露結便為霜。觀世音菩薩將錢買胡餅，放下于卻是饅頭，拈卻鼻孔失卻口，從來腳不離。且道：今日是十月十五？不是十月十五？諸方把住牢關，者裏放行一路，行腳雖無一個，賴有圓通二十五，合眼跳黃河，不勞開臭口，狗走抖擻口，猴愁摟搜頭。且道：太平今日還為人也無？」舉拂子，云：「鑒。」復云：「咦。」良久，云：「舉不顧，即差誤，擬思量，何劫悟？」喝一喝，下座。

> 結制の日、小參のとき、師は言われた：「本來現成（ほんらいげんじょう）なり。雲が立ち込めれば雨が降る。體を覿（み）れば圓明（えんみょう）なり。露が結べば霜となる。觀世音菩薩が金を持って胡餅（こへい）を買いに行く。置き下ろしたが、あれは饅頭（まんじゅう）だった。鼻孔（びくう）をつまんだら、口を失ってしまう。もとより脚は地を離れない。さあ、言ってみよ。今日は十月十五日か？ 十月十五日ではないのか？ 諸方では牢固とした關門を守っているが、ここでは一路（いちろ）を放行（ほうぎょう）する。行脚の僧は一人もいないが、頼りになるのは圓通（えんつう）の二十五あるのみ。目を閉じて黃河を跳ぶ。臭い口を開いて苦労するには及ばない。狗は走り、口を抖擻（とそう）する。猴は愁いて、頭を摟搜（ろうそう）する。さあ、言ってみよ。太平（たいへい）、今日もまた人のためにあるか、いや、ないのか？」拂子（ふっす）を挙げて、「鑑（かん）」と言い、また「咦（い）」と言った。しばらくして言われた：「挙げても顧みなければ、すなわち差誤（さご）なり。思量（しりょう）せんと擬（ぎ）すれば、何（いず）れの劫（こう）にか悟らん？」一喝し、座を下りられた。

解七，小參。云：「山僧於此七日之內把住牢關，不容出入，直與三世諸佛、歷代祖師、天下老和尚以至四生六道、情與非情同一本體寂默。其有好動阿師說道氣悶，於是東衝西撞，要求出氣。今日解開布袋，任其往來，直與三世諸佛、歷代祖師、天下老和尚以至四生六道、情與非情同一正智作用。又有好靜阿師說道散誕，於是自拘自束，求個安靜。者兩般漢總好與三十棒，趁出門外始得。且作麼生？隨緣事事了，日用何欠少？一切但尋常，自然不顛倒。」舉：「龐居士偈云：『日用事無別，惟我自偶諧，頭頭非取舍，處處勿張乖。宋紫誰為號？青山絕點埃，神通并妙用，運水與般柴。』」師云：「如來藏中一個旋陀羅尼卻被者老漢拾得，拋來擲去，不妨暢快。然則檢點將來，只見錐頭利，不見鑿頭方。何故聻？古墓毒蛇頭戴角，南山猛虎尾叱沙。」

> 解七の小参。山僧はこの七日間、牢固とした関門を守り、出入りを許さず、三世諸仏・歴代祖師・天下の老和尚、さらには四生六道、有情非情に至るまで、同一の本体に寂然としていた。しかし活動好きな老師方は「息が詰まる」と言って、東西にぶつかりながら出気を求めた。今日は布袋を解き放ち、往来を任せる。三世諸仏・歴代祖師・天下の老和尚、さらには四生六道、有情非情と同一の正しい知恵として作用する。また静けさを好む老師方は「散漫だ」と言って、自らを縛りつけ、安らぎを求める。この二種類の者たちには、ともに三十棒を浴びせて門外に追い出すのがふさわしい。さて、どうするべきか。縁に従って事が済めば、日々の暮らしに何が欠けようか。すべてをただ平常にしていれば、自然と顛倒しない。 龐居士の偈を挙げる。「日用の事に別なし、ただ我自ら偶諧す。頭頭に取舍なく、処処に張乖せず。宋紫誰が号とせん、青山一点の埃も絶えたり。神通ならびに妙用、水を運び柴を搬するにあり。」 師は言う。「如来蔵の中の一つの旋陀羅尼を、この老漢が拾い得て、放ったり投げたりして、実に痛快である。しかしよくよく検討すれば、ただ錐の先の鋭さだけが見えて、鑿の頭の角ばった様は見えない。なぜか。古墓の毒蛇が頭に角をつけ、南山の猛虎が尾で砂を払うからだ。」

除夕，小參。云：「道無更換，隨物令以遷移；時有去來，體虛空而不變。不變而遷，城上已吹新歲角；不遷而，窗前猶點舊年燈。」喝一喝，云：「向者裏會得，則超脫世諦、了悟性空，眉毛插天、鼻孔拄地，洒洒落落、寂寂惺惺，年窮歲盡，看他王老燒錢守歲辭年，宰個白牛露地，法喜為餐、禪悅為樂，敲鑼打鼓發揚向上宗猷，作舞唱歌賣弄自家珍寶；其或未然，明朝更有新條令，惱亂春風卒未休。」

> 除夕の小参で、師は言われた。「道に取り替えはないが、物に従って移り変わる。時には去来があるが、体は虚空の如く変わらない。変わらずして移る、城上にはもう新しい歳の角笛が鳴る。移らずして在る、窓の前にはまだ去年の灯りがともる。」一喝して、言われた。「ここで会得すれば、世の真理を超え、本性の空を悟る。眉は天を突き、鼻は大地を支える。さっぱりと落ち着き、静かにして明らかである。年の終わりには、王老が紙銭を焼いて歳を守り、年を送るのを見るがよい。白牛を屠り、露の地に置く。法の喜びを餐とし、禅の楽しみを喜びとする。鐘や太鼓を打ち鳴らして、向上の宗旨を発揚し、舞い歌って、自家の宝を売り出すのだ。もしそうでなければ、明朝には新たな法令が下り、春風を悩ませて止むことがないだろう。」

啟華嚴懺期，小參。驀豎拂子，云：「見麼？者個是毘盧樓閣，瞿曇老人於三七日中盡情剖露，善財童子於百一十城一時參透，無邊剎境不隔絲毫，十世古今不離當念，大千沙界海中漚，一切聖賢如電拂，云何更有七處、九會、三賢、十聖種種葛藤？所以云：如來大華嚴，藏在一塵中，有一聰慧人，破塵出經卷。且喚甚麼作塵？此經著於何處？」喝一喝，云：「者裏會得，高踏毘盧頂，超脫法界量，自由自在，放浪無礙去也；其或未然，且從普賢十大願中禮敬無量諸佛，一一發願行持，至盡未來際，忽然磕著頂門，好向普明者裏喫痛棒。」除夕，小參。云：「攢花簇錦，不落數量，巧妙尖新，覿體無依。自從元旦以至歲除，增一毫不得、減一毫不得，恁麼則離名離相、非古非今，眼睛只是眼睛、鼻孔鼻孔，各各不相知、各各不相到，遇飯喫飯、遇茶喫茶，說甚禪道佛法、古今往來？其或未然，即今臘月三十日整頓新鞋新襪，管取明朝拜年。且正恁麼時作麼生？放教鑼鼓敲長夜，爆竹從教吼似雷。」

> 華厳懺期の小参に際し、忽然と払子を立てて言う、「見えるか？これこそ毘盧遮那の楼閣である。瞿曇老人は三七日の間にこれを余すところなく開き示し、善財童子は百一十城において一時に悟り透けた。限りない仏国土も少しも隔たることなく、十世の古今も現在の一念を離れない。大千の世界は海の中の泡のようなものであり、一切の聖賢は電光の一瞬のようなものである。どうしてさらに七処・九会・三賢・十聖などという様々な煩わしい言葉があるだろうか。それゆえにこう言うのだ、『如来の大華厳は一つの塵の中に納められている。聡明な人がいて、塵を破って経巻を取り出す』と。さあ、何を塵と呼ぶのか？この経はどこに置かれているのか？」一声喝して言う、「ここで悟り得たならば、毘盧遮那の頂上を高く踏み越え、法界の枠組みを超え離れ、自由自在に、逍遥として妨げられることなく進むであろう。もしそれができなければ、普賢の十大願の中から無量の諸仏を礼拝し、一つ一つの願いを発して実践し、未来際が尽きるまで続けなさい。すると忽然と頭頂を打つような時が来て、ちょうど普明のここで痛い棒を食らうことになるだろう。」 除夕の小参。言う、「花を寄せ錦を綴るようであっても、数や量にとらわれず、巧みで新鮮でありながら、その本体には依るところがない。元旦から年末に至るまで、少しも増えることなく、少しも減ることもない。そうであるならば、名を離れ相を離れ、古でもなく今でもない。目はただの目であり、鼻はただの鼻である。それぞれが互いを知らず、それぞれが互いに到達しない。飯に遇えば飯を食べ、茶に遇えば茶を飲む。何を禅道・仏法だの、古今・往来だのと言うことがあろうか？もしそれでも悟れなければ、まさに今、臘月三十日に新しい靴と新しい靴下を整えて、明朝の新年の挨拶に行くことを請け合おう。さて、まさにそういう時、あなたはどうするのか？鐘や太鼓を打ち鳴らして長夜を過ごさせ、爆竹を雷のように轟かせるがよい。」

請為李天生對靈小參。師擊拂子云：「擊破南柯枕上情，脫然獨露自家珍，了知夢幻終歸盡，始信浮生鏡上塵。」驀豎拂子云：「天生居士還會麼？者是你自家寶藏受用無窮，只因向外馳求，擾擾於聲色利名不能自得，今日到此，利為何求？色為何得？冤親如夢幻，生死若浮沉，覿體現前，光明遍界。」擲下拂子云：「還委悉麼？更聽一偈，雲開明月現，大地光凌亂，截斷是非緣，主人方得見。」喝一喝下座。

> 李天せんのための霊小参。師は払子を打ち鳴らして言われた：「南柯の枕上の情を打ち破り、脱然として独り自家の珍宝を露わす。夢幻はついに尽きると知って、初めて浮生は鏡上の塵であると信じる。」突然払子を掲げて言われた：「天生居士、お分かりになりますか？これはあなた自身の宝蔵であり、受け用して尽きることがありません。ただ外に向かって求め、声色や利益に心を騒がせて、自らを得ることができないのです。今日ここに来て、利益は何を求めるものですか？色は何を得るものですか？怨みや親しみは夢幻のようであり、生死は浮き沈みのようなものです。その本体が目の前に現れ、光明は世界の隅々に広がります。」払子を投げ出して言われた：「まだお分かりですか？さらに一偈を聞いてください。雲が開けば明月が現れ、大地に光が乱れ輝く。是非の縁を断ち切って、主人（本来の自己）が初めて見えるのです。」一声喝して、座を下りた。

對靈，小參。師揮拂子，云：「去來生死事如麻，放下身心即到家，會得個中真面目，了知身世等空花。恭惟黃氏淑人之儀，生成閨秀，長適名門，慧質天資，幽貞自克，報緣既盡，撒手歸真。乃兄黃建中以兄妹之情不忍捨置，爰請山僧舉揚個事，莊嚴淨土。然則吾宗無語句，亦無一法與人，只是直指當人自性而已。且道淑人二十九年中與二十九年之前及今捨識之後，者個面目即今在甚麼處？」良久，云：「脫體迥超生死見，全身出沒絕行蹤。」喝一喝，下座。

> 霊（れい）に対し、小参（しょうさん）す。師、払子（ふっす）を揮（ふる）いて云く、「来たれ去れ、生死の事、麻の如くに紛糾す。身心を放下すれば、即ち家に到る。個中（こちゅう）の真面目（しんめんもく）を会得すれば、身世（しんせい）の空花（くうげ）に等しきを了知せん。恭（うやうや）しく惟（おも）うに、黄氏淑人（こうししゅくじん）の儀、閨秀（けいしゅう）に生まれ、成長して名門に嫁ぎ、慧質天資（けいしつてんし）、幽貞自ら克（よ）くす。報縁（ほうえん）尽きるに及び、手を撒（ま）きて真（しん）に帰す。乃兄（だいけい）黄建中（こうけんちゅう）は兄妹の情を以て、忍びて捨て置かず、乃ち山僧（さんそう）を請じてこの事を挙揚（こよう）し、浄土を荘厳（しょうごん）せんとす。然れば則ち吾が宗は語句なし、亦た一法も人に与うることなし、ただ当人自性（じしょう）を直指（じきし）するのみ。且（しばら）く道え、淑人が二十九年の中、及び二十九年の前、並びに今、識（しき）を捨てたる後、この面目（めんもく）は即ち今、何れの処にか在るやと。良久（らくきょう）して云く、「脱体（だつたい）に迥（はる）かに生死の見を超え、全身（ぜんしん）出没して行蹤（ぎょうしょう）を絶す。」喝（かつ）を一喝し、下座す。

庠生王允燦等請為先妣陳氏孺人明永對靈小參。舉拂子云：「見麼？未有世界，先有此性；世界壞時，此性不壞。如何是不壞之性？」放下拂子云：「會麼？於此會得，則知因緣成聚皆為幻化、世業興隆皆為幻化、身形強弱皆為幻化、生死去來皆為幻化，於幻化中營為百轉、應用多般，其真如妙性於中無二無別。識得幻化，便見真常；了得真常，無非幻化。所以云：迷則眾生，悟則諸佛。只在一念信與不信之間。今爾一念信真，皈投三寶，山僧已曾攝受，志欲進修以全壽考，豈謂捐妝太速、撒手歸真？世相觀之，以幽閒之德治家勤慎，不無悲歎；道眼觀之，空花幻翳有時而散，其自性天真儼然不動，一念回機便同本得。且如何是本有之性？」良久云：「六窗頓曉三更月，萬籟無聲其寂寥。」

> 庠生の王允燦らが、亡き母である陳氏孺人の明永（追善供養）のため、霊前にて小参を願い出た。拂子を挙げて言う、「見えるか。世界がまだ存在しない以前から、この本性は存在していた。世界が壊れても、この本性は壊れることはない。壊れることのない本性とは何か。」拂子を下ろして言う、「分かるか。ここで悟ることができれば、因縁が集まって成るものはすべて幻であり、世の事業の繁栄もすべて幻であり、身体の強弱もすべて幻であり、生死や来去もすべて幻であると知るだろう。幻のただなかで様々に働き、多くの働きを有していても、その真如の妙なる本性は、その中にあって何の違いもない。幻であると知れば、真の常なるものを見る。真の常なるものを悟れば、すべてが幻にほかならない。だからこう言うのだ。迷えば衆生、悟れば諸仏。ただ一念の信じるか信じないかの間にあるだけだ。今、あなたは一念に真実を信じ、三宝に帰依した。山僧はすでにあなたを受け入れ、修行に励んで長寿を全うしてほしいと願っていた。まさか、あまりにも早くこの世を去り、手放して真実に帰るとは。世間の見方から見れば、閑静な徳をもって家を治め、勤勉で慎み深かったあなたを失い、悲しまない者はないだろう。しかし道の眼で見れば、空花や幻の翳も、やがて散る時が来る。自性は天真のまま、動かずにそこにある。一念を回せば、もとより得ていたものと同じになる。それでは、もとからある本性とは何か。」しばらくして言う、「六つの窓はにわかに暁く、三更の月。万籟声なく、その寂寥たること。」

承德郎周扆勳請為元配楊氏安人對靈小參。云：「春已去，夏方新，綠密紅稀雨滿林，代謝不妨隨氣運，個中不動是天真。」驀豎拂子，云：「安人還會麼？於此會得，則知春紅、夏綠，秋斂、冬藏，榮枯、修短，生死、去來，無非夢幻。其真常之體，通天徹地，亙古亙今，不為一切色緣所礙，所以云：旋嵐偃嶽而常靜，江湖競注而不流。要知動原不動，生實無生，性靜圓明，一真獨露，雖居幻化，體實如然，物謝情消，光輝愈勝。且道安人天真面目在甚麼處？」喝一喝，云：「一把柳絲收不得，和煙搭上玉闌干。」

> 承德郎の周扆勲が請うて、亡き元配の楊氏安人のために、霊前で小参をすることになった。 その時、師は言った。「春はすでに去り、夏はようやく新しい。緑は濃く、花はまばらになり、雨が林に満ちている。移ろいゆく季節の巡りは、時の流れに任せるのがよい。この中で動かないものこそが、本来の真実の姿である。」 と突然、払子を立てて言った。「安人よ、この意を理解されるか。ここで悟ることができれば、春の紅、夏の緑、秋の収穫、冬の静けさ、栄えることも枯れることも、長短、生死、去来、すべては夢幻に過ぎないと知るであろう。 その真実不変の本質は、天を貫き地に満ち、永遠に変わることがない。すべての形や色、因縁によって妨げられることがない。だからこう言うのである。『嵐が山を倒さんばかりに吹いても、その本質は常に静かであり、川の水が激しく流れ注いでも、その本質は決して流れることがない』と。 知るべきである。動はもともと動かず、生は実に生まれず。本性は静かで円満に明らかであり、ただ一つの真実が独り露わになる。たとえ幻の世界に住んでいても、その本質はすでにこの通りである。物が去り、情が消えれば、その光輝はいよいよ増すのである。 さて、安人の天真の真実の面目は、いったいどこにあるのだろうか。」 と一声喝して、言った。 「一本の柳の糸は捕まえようとしても捕まえられない。霞とともに、玉の欄干に掛かっているのだ。」