中論 第六種を観る章 第五
問い申します。六つの種類にはそれぞれ定まった相があり、定まった相があるがゆえに六つの種類があるのではないでしょうか。
お答えしますと、
「空の相がまだ生じていない時には、虚ろな空の法も存在しない。
もし先に虚ろな空があるならば、それはすでに無相である。」
もし虚空の相がまだなく、先に虚空の法があるならば、虚空は相を持たないことになります。なぜなら、色のないところを虚空の相と呼ぶからです。色は作られたものであり、無常です。もし色がまだ生じていないならば、生じていないものは滅することもなく、その時には虚空の相は存在しません。色があるからこそ、色のないところがあり、その色のないところを虚空の相と呼ぶのです。
問い:もし相がなくて虚空があるなら、何か問題があるでしょうか?
答えて言いました。
これは無相の法、あらゆる処に存在せず、 無相の法の中では、形あるものは何も形づくることがありません。
もし常と無常の法において、無相の法を求めても得られない。論者の言うように、これが有であり、これが無であるなら、どうしてそれぞれに相があると知ることができるのか。だから、生・住・滅は有為の相であり、無生・無住・無滅は無為の相である。虚空に相がなければ、虚空も存在しない。もし先に相がなく、後に相が来て相づけるというなら、それもまた正しくない。もし先に相がなければ、相づけるべき法もないからである。なぜなら、
有る相と無い相の中にあっても、相はどこにもとどまらない。
有る相と無い相を離れても、他のどこにもとどまることはない。
峰があり角があり、尾の先に毛があり、首の下に垂れた肉がある、これを牛の相という。もしこの相を離れたならば、牛は存在しない。もし牛がなければ、これらの相は留まる所がない。それゆえ、無相の法の中では、相は相として現れることがないと言われる。有相の中でも相は留まらない、なぜなら先に自らの相があるからだ。たとえば水の相の中に火の相が留まらないように、先に自らの相があるからである。さらに、もし無相の中に相が留まるならば、それは原因なくして存在することになり、原因なくして存在するということは、法がないのに相があるということになる。相と、相として現れるものと、常なる相とは、互いを縁として成立しているのである。有相の法と無相の法とを離れて、第三の場所に相として現れるものはない。それゆえ、偈の中で「有相と無相とを離れて、他のところにも留まらない」と言われているのである。さらにまた:
「相」という法が存在しないのであれば、「可相」という法もまた存在しない。
「可相」という法が存在しないのであれば、「相」という法もまた存在しない。
相が留まる所がないから、相として捉えられる法もない。相として捉えられる法がないから、相そのものもまたない。なぜならば、相があるからこそ相として捉えられる法があり、相として捉えられる法があるからこそ相がある。互いに因となり待つ関係にあるからである。
「それゆえ、今、相もなく、また相づくべきものもない。 相と相づくべきものとを離れて、さらにまた物もない。」
因縁の中で始めから終わりまで探し求めても、相と可相(相を現すもの)は確かに得られない。この二つが得られないゆえに、一切の法は皆無である。一切の法はすべて相と可相の二つの法に含まれる。あるときは相が可相となり、あるときは可相が相となる。例えば、火は煙を相とし、煙もまた火を相とする。
問い:もし「有る」ということがなければ、「無い」ということがあるはずです。
お答えしますと、
もし「有る」ということがそもそも存在しないなら、どうして「無い」ということがありえましょうか。
「有る」と「無い」という対立がすでに消え去ったとき、それらを認識する者は誰なのでしょうか。
物が自ら壊れるにせよ、他によって壊されるにせよ、それは「無」と呼ばれます。しかし、無はそれ自体で存在するのではなく、有から生じるのです。ですから、「もし有がなかったなら、どうして無がありえようか」と言われるのです。目に見え、耳に聞こえるものさえ確かなものではないのに、ましてや無というものがどうしてありえましょう。
問う:有るが故に無いもまた無いならば、有るも無いも知る者がいるはずだ。
答えて言います。もし知る者がいるならば、それは「有」の中にあるべきか、それとも「無」の中にあるべきでしょうか。「有」も「無」もすでに否定されたならば、知る者も同じく否定されるのです。
ゆえに知る、虚空は 有りとも無しとも言えず、 相あるものとも相をとらえうるものとも言えず、 他の五つもまた虚空と同じである。
虚空のように、さまざまに形を求めても得られない。残りの五種もまた同様である。
お尋ねします。
虚空は初めにもなく、後にもありません。どうして先に破るのでしょうか?
答えて言います。地、水、火、風は、多くの因縁が和合しているので、壊れやすいのです。識は、苦しみや楽しみの原因となるので、無常で変化するものだと知られ、壊れやすいのです。虚空にはそのような相はありませんが、凡夫がそれをあるものと望むので、まずそれを破るのです。さらに、虚空は四大を支え、四大の因縁によって識があるので、まず根本を破れば、残りは自ずと破れるのです。
問い:世間の人々は皆、すべての現象を「ある」か「ない」かのように見ています。どうしてあなただけが世間と違って、何も見えないと言うのですか?
答えて言いました:
浅はかな知恵は諸法を見て、あるともなしとも相を捉える。 それでは滅の境地、安らかな法を見ることはできない。
もし人がまだ悟りを得ず、諸法の実相を見ず、愛着と偏見の因縁によってさまざまな戯論をなすならば、法が生ずるのを見て「有る」と言い、相を取って「有る」と語り、法が滅するのを見て「断たれた」と言い、相を取って「無い」と語る。智者は諸法が生ずるのを見て直ちに「無い」という見を滅し、諸法が滅するのを見て直ちに「有る」という見を滅する。それゆえ、一切の法について何らかの見があっても、すべて幻のごとく夢のごとくである。無漏の道の見でさえも滅するのだから、ましてや他の見は言うまでもない。それゆえ、もし滅と安穏の法を見なければ、有るという見と無いという見を見ることになる。