中論・五蘊を観る品 第四
お尋ねします。経典には五陰があると説かれていますが、これはどのようなことでしょうか。
お答えしますと、
色を離れるならば、色の原因は得られず、 色を離れるならば、色の原因は得られない。
色が因縁によって生じるというのは、ちょうど布が糸によって織られるようなものです。糸がなければ布はなく、布がなければ糸も意味を成しません。布は色に、糸は因縁にたとえられます。
問い:もし色の原因から離れたところに色があるなら、どんな問題があるのですか?
答えて言いました:
色が原因で色があるならば、 その色は原因を持たないことになる。 原因なくして存在するものがあるなど、 そんなことはありえない。
糸がなければ布はなく、布は原因なくしては成り立ちません。原因もなく存在するものなど、この世にはありえません。
問い:仏法、外道の教え、世間の法のいずれにも無因の法があります。仏法には三つの無為があり、無為は常であるゆえに原因がありません。外道の教えには虚空、時、方、神、微塵、涅槃などがあります。世間の法には虚空、時、方などがあります。これら三つの法はどこにでも存在するゆえに常と呼ばれ、常であるがゆえに原因がありません。それなのに、なぜあなたは無因の法は世間には存在しないとおっしゃるのですか。
答えて申します。この無因の法は、ただ言葉で語られるだけであって、思惟し分別してみれば、すべて存在しないのです。もし法が因縁から生じるのであれば、無因であると言うべきではありません。もし因縁がなければ、私が申し上げた通りなのです。
問う:因には二種類ある。一つは作因、もう一つは言説因である。この無因法は作因を持たず、ただ言説因のみがある。それは人に知らせるためである。
お答えします。確かに言説の因縁があると言われますが、その考えは正しくありません。虚空については、すでに六種の分析によって否定されました。他の事柄についても、後ほど否定していきます。さらに、眼前の現象でさえも否定できるのですから、ましてや微塵など目に見えない存在をどうして否定できないでしょう。このように、因縁なく存在するものは、この世には何一つないと言えるのです。
問います。もし色から離れたところに色の原因があるとすれば、どのような問題があるのでしょうか。
お答えしますと、
もし色を離れて因があるならば、それは果のない因となる。 もし果のない因があると言うならば、それはありえないことである。
もし色の果だけを除いて、ただ色の因があるならば、それは果のない因となる。
質問します:もし結果がなく原因だけがあるなら、何が問題なのでしょうか?
答えて言います。果実がなくて原因だけがあるということは、世の中に存在しません。なぜなら、果実があるからこそ、それを「原因」と呼ぶのです。もし果実がなければ、どうしてそれを原因と呼べるでしょうか。
さらに、もし原因の中に果実が含まれていないなら、物事が原因でないものから生じることもあるはずです。この点については、〈破因縁品〉の中で詳しく述べられています。ですから、果実のない原因というものは存在しないのです。
もしすでに色があるならば、色の原因は必要ない。 もし色がないならば、色の原因もまた必要ない。
二つの場所に色の原因があるというのは、そうではありません。もし先の原因の中に色があるなら、それは色の原因とは言えません。もし先の原因の中に色がないなら、それも色の原因とは言えません。
問い:もし二つの場所がどちらも成り立たないなら、ただ原因のない色があるだけであり、何の問題があるのでしょうか?
答えて言いました:
「原因なくして色があるということは、結局そういうことはありえない。
だからこそ、知恵ある者は、色についてあれこれ分別すべきではない。」
もし原因の中に結果があるというのでもなく、原因の中に結果がないというのでもない、このようなことはそもそも成り立たない。ましてや、原因もなく物質が存在するなどということがありえようか。だから「原因なくして物質がある、ということは決してありえない。だから知恵ある者は、物質について分別すべきではない」と言われるのである。
「分別」とは凡夫のことであり、無明と愛染によって物質に執着し、それから邪見によって分別や戯論を生じさせ、「原因の中に結果がある」「原因の中に結果がない」などと説くのである。今ここで物質を求めても得ることはできない。だから知恵ある者は分別すべきではない。さらにいうならば――
もし果が因に似ているならば、それは正しくありません。 もし果が因に似ていないならば、それもまた正しくありません。
もし果が因に似ているとすれば、それは道理に合いません。なぜなら、因は微細で果は粗大だからです。因と果の色や力などはそれぞれ異なっています。たとえば、布が糸に似ているとしても、それを布とは呼べません。糸は多く、布は一つだからです。因果が似ているとは言えません。
もし因果が似ていないとすれば、それも道理に合いません。たとえば、麻糸から絹はできませんし、粗い糸から細かい布は生まれません。ですから、因果が似ていないとも言えません。
この二つの考え方も成り立たないため、色(物質)も、色の因も存在しないのです。
受陰と想陰、行陰と識陰、 その他すべての法も、 皆、色陰と同じである。
四つの蘊(うん)と一切の法も、同じように考えてその実体を破るべきです。また、今この論を著す者は、空(くう)の教えを讃えようとして、次の偈(げ)を説きます。
もし人が問うて、 空を離れて答えようとするなら、 それは答えとはならず、 同じく彼の疑いとなる。
もし人が難問を投げて、 空を離れてその過ちを説くなら、 それは難問とはならず、 同じく彼の疑いとなる。
もし人が議論するとき、それぞれに執着する見解があり、空の道理から離れて問答を行うならば、それは真の問答とはならず、互いに同じ疑いを抱くだけです。
たとえば、ある人が「瓶は無常である」と言ったとします。 質問者が「なぜ無常なのですか?」と尋ねると、 答えは「無常の因から生じたからです」となります。 これは真の答えとは言えません。 なぜなら、その因縁自体も、常なのか無常なのか疑わしいからです。 つまり、相手の疑いと同じ状態に陥っているのです。
質問者が相手の誤りを指摘しようとしても、空に依らずに「諸法は無常である」と主張するなら、それは真の問難とはなりません。 なぜなら、あなたが無常を理由に私の「常」を否定すれば、私も常を理由にあなたの「無常」を否定できるからです。 もし本当にすべてが無常ならば、業と報いもなくなり、眼や耳などの諸法も一瞬ごとに滅び、区別さえなくなってしまいます。 このような過失があるため、真の問難とはならず、やはり同じ疑いの中に留まるのです。
もし空に依って「常」を破るならば、過ちは生じません。 なぜなら、この人は空という相に執着しないからです。 したがって、ただ問答を行うだけでも、なお空の法に依るべきであり、ましてや苦を離れ、寂滅の境地を求める者はなおさらです。