中論 六情の観察 第三品
お尋ねします。経典の中には六情があると説かれています。それは、
<row>目と耳、鼻と舌、 身体と意識、これら六つの感覚。</row> <row>この六つの感覚は、 色や音など六つの対象に向かって働く。</row>
ここで、眼は内なる情、色は外なる塵であり、眼は色を見ることができる。同様に、意は内なる情、法は外なる塵であり、意は法を知ることができる。
答えて言いました:ありません。なぜならば、
この眼は自らの姿を、自ら見ることはできない。 もし自ら見ることができないなら、どうして他の物を見ることができようか。
眼は自らを見ることはできません。 なぜならば、灯りが自らを照らし、また他を照らすように、もし眼が見る性質を持つならば、自らも見え、他も見えるはずです。 しかし、実際にはそうではありません。 だからこそ、偈の中で「もし眼が自らを見ることができないならば、どうして他の物を見ることができるだろうか」と説かれているのです。
問いがあります:目は自分自身を見ることはできませんが、他者を見ることができます。それはちょうど火が他を燃やすことはできても、自分自身を燃やすことはできないのと同じです。
お答えしますと、
火の譬えでは、目に見える法を成すことはできません。
去った時、未だ去らざる時、去る時という問いは、すでに総じて答えています。
あなたは火の喩えを挙げましたが、それでは「眼が見る」という働きを説明することはできません。この問題については、すでに〈去来品〉の中で答えています。例えば、「すでに行った」中に行くことはなく、「まだ行っていない」中に行くこともなく、「今まさに行っている最中」に行くこともないのと同じです。また、「すでに燃えた」中に燃えることはなく、「まだ燃えていない」中に燃えることもなく、「今まさに燃えている最中」に燃えることもないのです。同じように、「すでに見た」中に見ることはなく、「まだ見ていない」中に見ることもなく、「今まさに見ている最中」に見ることもないのです。さらに言えば、
見るとは言えないのに、見たと言うのは、それは正しくありません。
目が色に対していなければ、見ることはできません。その時は見るとは言えません。色に対することによって初めて見ると呼ばれます。だから偈の中で「未だ見ざる時は見ることなし」と言われるのです。どうして見ることが見るのでしょうか?さらに、両方の場所にも見るという法はありません。なぜでしょうか?
見ようとしても見えるものではなく、見るものでも見られるものでもない。 もしも見るという思いを破ることができれば、そのとき見る者という思いも破られる。
見ることができないものを見ることはできない、これは先にすでに述べた通りです。見ることもなければ、見られることもない。なぜなら、見るという現象そのものが存在しないからです。見るという現象がなければ、どうして見ることができるでしょうか。見るという法が存在しないなら、見る者も存在しません。なぜなら、もし見ることから離れて見る者が存在するなら、目を持たない者も他の感覚で見ることができるはずです。もし見ることで見るなら、見るという行為の中に見るという現象が含まれることになります。しかし、見る者には見るという現象はありません。それゆえ、偈の中で「もし見ることが破られたなら、見る者も破られる」と説かれているのです。さらに、
「見ることを離れても離れなくても、見る者は得られない。
見る者がいないゆえに、何を見て、何が見られるということがあろうか?」
もし見るということがあるならば、見る者というものは成り立たない。もし見るということがなければ、見る者というものも成り立たない。見る者が存在しないのだから、どうして見ることと見られるものがあると言えるだろうか。もし見る者がいなければ、誰が見るという働きによって外界の色を区別することができるだろうか。だから、偈の中で「見る者がいないのだから、どうして見ることと見られるものがあるだろうか」と説かれているのである。さらに言えば、
「見られるものと見るものがないゆえに、認識などの四つの法も存在しない。四つの執着など、さまざまな縁はどうしてあり得ようか?」
見ること、見られる法が存在しないゆえに、識・触・受・愛の四つの法もまた存在しません。愛などの法がないことにより、四つの執着など十二因縁の各要素もまた存在しないのです。さらに言えば:
耳、鼻、舌、身、意、 声や聞く者などについても、 その意味はすべて、 先に述べたことと同じだと知るべきである。
見えるもの、見られるものは空であり、それは多くの因縁によって成り立っているから、固定的な実体はない。残る耳など五つの感覚器官と、音など五つの対象についても、見えるもの・見られるものの理と同じであるから、ここでは別に説かない。