大乘大集地藏十輪經有依行品第四之一
大乘大集地蔵十輪経 有依行品 第四の一
爾時,金剛藏菩薩摩訶薩,於大眾中從座而起,頂禮佛足,偏袒一肩,右膝著地,合掌恭敬,以頌問曰:
その時、金剛蔵菩薩マハーサットヴァは、大衆の中から座を立ち、仏の足に額を触れて礼拝し、片方の肩を露わにして、右膝を地につけ、合掌して敬虔に、詩句をもって問いかけた。
「昔言破戒失淨德, 非賢聖器非我子,
諸沙門法棄如燼, 不應居我清眾中。
三垢所污失滅道, 彼不堪消勝供養,
於施四方僧眾物, 少分我亦不聽受。
四根本罪隨犯一, 清眾所棄如海尸;
云何今說惡苾芻, 應忍應悲遮讁罰,
復勸應勤供養彼, 悲愍勿生微惡心,
恭敬聽受所說法, 當獲福慧大悲者?
六通救世餘經說, 汝等皆當信大乘;
正直微妙菩提道, 應捨二乘解脫路。
云何今復說三乘, 普勸聽持修供養,
根力覺道沙門果, 此經中有餘處無?
八支聖道無等倫, 三乘皆同行此道,
欲求解脫勤精進, 各隨所願證菩提。
有情中尊當照察, 會今昔教使無違,
令諸天人菩薩眾, 解悟心歡證真實。
聞說大乘誰有益? 聞說大乘誰有損?
十種解脫聲聞乘, 聞說誰損誰有益?
何人聞法轉昇進? 何人聞法翻退沒?
云何厭患諸有為, 能速枯竭於老死?
晝夜勤修諸善者, 依何妙理御何乘,
能渡深廣四瀑流? 救世皆當為宣說。」
「昔、戒を破り清浄の徳を失った者は、 賢聖の器にあらず、我が子にあらず。 諸々の沙門の法は、燃えさしのように捨て去られた。 我が清らかな僧伽のうちに住むべきではない。
三つの汚れに染められ、道を失い滅びた者は、 その者はすぐれた供養を受けるに値しない。 四方の僧伽の物として施されたものでも、 その一部さえ私は受け取らせない。
四つの根本罪の一つでも犯せば、 清らかな僧伽は、海の死体のように捨てる。 なのに今、どうして悪しき比丘に対して、 「耐え忍び、慈しみ、叱責罰するな」と言い、 さらに「その者に供養せよ」と勧め、 「悲愍し、少しの悪心も起こすな」と言い、 その者の説法を恭敬して聴聞すれば、 福慧を得るであろう大悲者よ」と説くのか。
六通の救世者は他の経で説かれた。 「あなたがたは皆、大乗を信じなさい。 まっすぐで微妙な菩提の道こそ正しく、 二乗の解脱の道は捨てなさい」と。
なのに今どうして三乗を説き、 皆に聴聞し受持し修し供養するよう勧めるのか。 根・力・覚・道・沙門の果は、 この経にあり、他の経には無いのか。
八支の聖道は比類なく、 三乗は皆、この道を共に行く。 解脱を求めて精進する者は、 各々の願いに従って菩提を証する。
有情のうちの尊よ、どうか明らかに見極め、 今と昔の教えに矛盾がないようにせよ。 天や人々や菩薩たちに、 悟りを得させ、心を喜ばせ、真実を証させよ。
大乗を聞いて益を得る者は誰か。 大乗を聞いて損を被る者は誰か。 十種の解脱の声聞乗を聞いて、 誰が損を被り、誰が益を得るのか。
どんな人が法を聞いてさらに向上するのか。 どんな人が法を聞いてかえって退失するのか。 どうすれば有為を厭い、 老いと死を速やかに枯渇させられるのか。
昼も夜も善を修める者は、 どのような妙理に基づき、どのような乗に乗って、 深く広い四つの瀑流を渡れるのか。 救世者よ、全てを説き示したまえ。」
爾時,佛告金剛藏菩薩摩訶薩言:「善哉,善哉!善男子!汝今為欲利益安樂無量有情,為諸天、人、阿素洛等作大義利,請問如來如是深義。汝應諦聽,善思念之,吾當為汝分別解說。」
その時、仏は金剛蔵菩薩摩訶薩に告げて言われた。「よきかな、よきかな。善男子よ。あなたは今、無量の生きとし生けるものたちを利益し安楽にし、天・人・阿修羅などのために大いなる意義と利益をもたらそうとして、如来にこのような深い意味を問うたのです。あなたはよく聞き、よく考えなさい。私はあなたのために詳しく説き明かしましょう。」
金剛藏菩薩言:「唯然,世尊!願樂欲聞。」
金剛蔵菩薩が申し上げました。「はい、世尊よ。ぜひともお聞かせください。」
佛言:「善男子!有十種補特伽羅,輪迴生死,難得人身。何等為十補特伽羅?一者、不種善根;二者、未修福業;三者、雜染相續;四者、隨惡友行;五者、不見、不畏後世苦果;六者、猛利貪欲;七者、猛利瞋恚;八者、猛利愚癡;九者、其心迷亂;十者、守惡邪見。如是十種無依行因,令諸眾生犯根本罪、毀犯尸羅、墮諸惡趣。何等名為十無依行?謂我法中而出家者,有加行壞、意樂不壞。有意樂壞、加行不壞。有加行、意樂俱壞。有戒壞、見不壞。有見壞、戒不壞。有戒、見俱壞。有於加行、意樂、戒、見、雖皆不壞,而但依止惡友力,行作無依行。有雖依止善友力行,而復愚鈍猶如瘂羊,於諸事業都不分別,聞善友說善、不善法,不能領受、不能記持,不能解了善、不善義,由是因緣作無依行。有於種種財寶、眾具常無厭足,追求因緣,其心迷亂作無依行。有為眾病之所逼惱,便求種種祠祀呪術,由是因緣作無依行。如是十種無依行因,令諸眾生犯根本罪,於現法中非賢聖器,毀犯尸羅,墮諸惡趣。
仏陀は言われた。「善き男子よ、十種類の者が生死を輪廻しながらも、人間として生まれることは難しい。その十種類の者とは何か。第一に、善い根を植えない者。第二に、福徳の業を修めない者。第三に、煩悩に染まり続ける者。第四に、悪友に従って行動する者。第五に、来世の苦しみの報いを見ようとせず、恐れない者。第六に、激しい貪欲を持つ者。第七に、激しい怒りを持つ者。第八に、激しい愚かさを持つ者。第九に、心が乱れている者。第十に、誤った見解を固守する者。このような十のよりどころなき行いの原因によって、衆生は根本的な罪を犯し、戒律を破り、悪い世界に落ちる。
では、十の『よりどころなき行い』とは何か。それは、わが教えにおいて出家した者の中に、修行の実践は壊れているが志は壊れていない者がいる。また、志は壊れているが実践は壊れていない者がいる。実践と志の両方が壊れている者もいる。戒律は壊れているが見解は壊れていない者がいる。見解は壊れているが戒律は壊れていない者がいる。戒律と見解の両方が壊れている者もいる。実践、志、戒律、見解のすべてが壊れていないにもかかわらず、ただ悪友の力に頼って、よりどころなき行いをする者がいる。また、善友の力に頼って行動するものの、愚かでまるで羊のように鈍く、様々な事柄を一切分別できず、善友が善悪の法について説いても、理解できず、記憶できず、善悪の意味を悟ることができず、その因縁によりよりどころなき行いをする者がいる。様々な財宝や道具に対して常に満足せず、それらを追い求める因縁により、心が乱れてよりどころなき行いをする者がいる。様々な病に苦しめられ、様々な祭祀や呪術を求める因縁により、よりどころなき行いをする者がいる。このような十のよりどころなき行いの原因によって、衆生は根本的な罪を犯し、現世において聖者や賢者の器となることができず、戒律を破り、悪い世界に落ちるのである。」
「善男子!若有補特伽羅,加行壞、意樂不壞,隨遇一種無依行因,犯根本罪,便深怖懼慚愧棄捨,而不數數作諸惡行。如來為益彼故,說有污道沙門。所以者何?彼作如是重惡業已,即便發露不敢覆藏,慚愧懺悔。彼由如是慚愧懺悔,罪得除滅,永斷相續,不復更作。雖於一切沙門法事皆應擯出,一切沙門所有資具不聽受用,而由彼人於三乘中成法器故,如來慈悲,或為彼說聲聞乘法、或為彼說緣覺乘法、或為彼說無上乘法。彼有是處,轉於第二、第三生中,發正願力,遇善友力,一切所作諸惡業障,皆悉消滅。或有證得聲聞乘果、或有證得緣覺乘果而般涅槃、或有悟入廣大甚深無上乘理。如是戒壞、見不壞者,應知亦爾。
「善男子よ。もし修行者で、修行は破っても意欲は失わず、ある無依行の因に遇って根本罪を犯した者でも、深く恐れ恥じてそれを捨て、繰り返し悪行を為さない者がいる。如来はその者のために、『道を汚す沙門』があると説く。なぜなら、その者は重い悪業を為した後、すぐに告白して隠さず、恥じて懺悔するからである。そのような慚愧と懺悔によって、罪は除かれ、相続が永く断たれ、再び為さなくなる。たとえ一切の沙門の法事から追放され、一切の沙門の資具を受用することを許されなくても、その者が三乗において法器となる故に、如来は慈悲をもって、あるいは声聞乗、あるいは縁覚乗、あるいは無上乗の法を説く。その者は、次の第二、第三の生において、正しい願力と善き友の力により、過去の全ての悪業の障りを消滅させる。ある者は声聞乗の果を証し、ある者は縁覚乗の果を証して涅槃に入り、ある者は広大で甚深な無上乗の理に悟入する。戒は破っても見解は破らない者も、同じであると知るべきである。」
「若有補特伽羅,意樂壞、加行不壞,如來為益彼故,說求四梵住法,彼是聲聞乘器,或是緣覺乘器。
もしある有情(補特伽羅)が、意欲(意楽)は劣っているが実践(加行)はしっかりしている場合、如来はその人のために、四つの梵住(慈悲喜捨の修行)を説かれます。その人は声聞乗の器、あるいは縁覚乗の器です。
「若有補特伽羅,加行、意樂俱壞,彼於諸乘皆非法器。如來為益彼故,讚說布施。
修行者であっても、努力の実践と心のあり方の両方が不十分な者は、どのような教えの道に対しても、正しく受け入れる器とはなりえません。そのような者たちの利益のため、如来は布施の功徳を称え讚えられたのです。
「若有補特伽羅,見壞、戒不壞,如來為益彼故,說緣起法令捨惡見,於現身中入聲聞法、或緣覺法,或於餘身方能悟入。
もしある者が、戒律は保たれているが見解が破れているならば、如来はその者の利益のために、縁起の法を説いて悪しき見解を捨てさせ、現世において声聞の法、または縁覚の法に入らせ、あるいは後の世において悟りを得させるのである。
「若有補特伽羅,戒、見俱壞,彼於聖法亦不成器。如來為益彼故,讚說布施。
もし、ある衆生(ほっか)が戒律も見解も共に壊れているなら、その人は聖なる教えにおいても器となることはできません。如来はそのような人々を利益するために、布施を称賛してお説きになったのです。
「若有補特伽羅,加行、意樂、戒、見不壞,而但依止惡友力行,如來為益彼故,讚說十善業道。
もしある衆生が、修行の実践、心の向き方、戒律、見解を損なうことなく保っているけれども、ただ悪友の力に頼って行動しているなら、如来はその衆生を利益するために、十善業道を称賛して説かれる。
「若有補特伽羅,雖復依止善友力行,而復愚鈍猶如啞羊,不能領受善、不善法。如來為益彼故,讚說習誦。若為種種貪病所逼、有為種種見趣迷惑,如來為益如是等故,求解脫者,為其開示能出生死趣聲聞乘四聖諦法;斷見論者,為其讚說諸緣起法;常見論者,為說三界諸有諸趣死此生彼,如陶家輪往來無絕、無常等法。
ある人々は、たとえ善き友に従い努力していても、愚かでまるで羊のように、善法と不善法を理解することができません。そのような者のために、如来は読誦を勧められました。 また、様々な貪りの病に苦しめられ、様々な見解の迷いにとらわれている人々のために、如来は解脱を求める者には、生死を超える声聞乗の四聖諦を説き、断見に執着する者には縁起の法を称賛し、常見に執着する者には、三界のあらゆる生存が、陶工のろくろのように巡り続けて尽きることなく、無常であることを説かれました。
「善男子!如來無有所說名字、言說音聲、空無果者,無不皆為成熟有情。是故,一切毀謗如來所說正法,壞諸有情正法眼罪,過諸無間、似無間等無量重罪。若有於我為欲利樂一切有情所說正法,謂依聲聞乘所說正法、或依緣覺乘所說正法、或依大乘所說正法,誹謗、遮止、障蔽、隱沒,下至一頌,當知是名謗正法者、亦名毀滅八聖道者、亦名破壞一切有情正法眼者。如是之人,既自習行大無利行,亦令一切有情習行大無利行,此人依止無慚愧僧,如是毀謗如來正法。
「善男子よ。如来が説くところの名称や言葉、音声には、虚しく無駄なものは一つもない。すべては有情を成熟させるためのものである。それゆえ、如来の説かれた正法を謗り、有情の正法の眼を壊す罪は、五無間罪や類似の無間罪など、無量の重罪を超えるものである。
もし、私が一切の有情を利益し安楽にするために説いた正法――すなわち、声聞乗に依って説かれた正法、縁覚乗に依って説かれた正法、あるいは大乗に依って説かれた正法――を、たとえ一つの偈に至るまで、誹謗し、妨げ、覆い隠し、埋没させるならば、その者は『正法を謗る者』と呼ばれ、また『八聖道を破壊する者』と呼ばれ、また『一切の有情の正法の眼を壊す者』と呼ばれることを知るべきである。
このような人は、自ら大いなる無利益の行を身につけるとともに、一切の有情にも大いなる無利益の行を習わせるのである。この人は、無慚の僧に依り頼み、このように如来の正法を謗り毀つのである。」
「復次,善男子!有四種僧。何等為四?一者、勝義僧;二者、世俗僧;三者、啞羊僧;四者、無慚愧僧。
さらに、善男子よ。四種の僧がある。その四つとは、第一に勝義僧、第二に世俗僧、第三に啞羊僧、第四に無慚愧僧である。
「云何名勝義僧?謂佛世尊;若諸菩薩摩訶薩眾,其德尊高,於一切法得自在者;若獨勝覺;若阿羅漢;若不還;若一來;若預流;如是七種補特伽羅,勝義僧攝。若諸有情帶在家相,不剃鬚髮、不服袈裟,雖不得受一切出家別解脫戒、一切羯磨布薩自恣悉皆遮遣,而有聖法得聖果故,勝義僧攝,是名勝義僧。
「勝義僧とは何か。仏世尊、あるいは諸々の菩薩摩訶薩の衆で、その徳が高く尊く、一切の法について自在を得た方々、独覚、阿羅漢、不還、一来、預流——この七種の補特伽羅は勝義僧に含まれる。また、在家の相を持ち、髪や鬚を剃らず、袈裟を着けず、一切の出家別解脱戒を受けておらず、すべての羯磨・布薩・自恣も行われていないが、聖法を得て聖果を得ている有情も、勝義僧に含まれる。これが勝義僧である。」
「云何名世俗僧?謂剃鬚髮被服袈裟,成就出家別解脫戒,是名世俗僧。
「世俗の僧とは何かというと、髪やひげを剃り、袈裟をまとい、出家の戒律を具えて生きる人のことです。これが世俗の僧です。」
「云何名啞羊僧?謂不了知根本等罪犯與不犯,不知輕重,毀犯種種小隨小罪,不知發露懺悔所犯。憃愚魯鈍,於微小罪不見、不畏,不依聰明善士而住,不時時間往詣多聞聰明者所,親近承事。亦不數數恭敬請問,云何為善?云何不善?云何有罪?云何無罪?修何為妙?作何為惡?如是一切補特伽羅啞羊僧攝,是名啞羊僧。
「啞羊僧とは何かというと、根本的な罪や戒律の違反とそうでないことの区別がわからず、軽い罪と重い罪の区別も知らず、さまざまな小さな過ちを犯しても、それを告白して懺悔する方法を知らない者のことである。愚かで鈍く、微細な罪に対してもその重大さを見ず、恐れもせず、賢い善き人に依って生きることもない。また、ときどき多くの教えを聞き、賢明な人のもとを訪ねて親しく仕えることもせず、繰り返し敬意をもって『何が善いのか、何が善くないのか、何が罪となるのか、何が罪とならないのか、何を修行すれば素晴らしいのか、何を行えば悪いのか』と問うこともない。このような人々はすべて啞羊僧の仲間に含まれ、これを啞羊僧というのである。」
「云何名無慚愧僧?謂若有情為活命故,歸依我法而求出家。得出家已,於所受持別解脫戒,一切毀犯,無慚、無愧,不見、不畏後世苦果。內懷腐敗,如穢蝸螺,貝音狗行,常好虛言曾無一實;慳貪、嫉妬、愚癡、憍慢,離三勝業,貪著利養恭敬名譽;耽湎六塵,好樂婬泆,愛欲色、聲、香、味、觸、境;如是一切補特伽羅無慚僧攝,毀謗正法,是名無慚愧僧。
「では、『恥知らずの僧』とは何かというと、命をつなぐために、私の教えに帰依して出家を願う者たちのことだ。出家した後、受けた別解脱戒(個々の戒律)をすべて破り、恥じる心も愧じる心もなく、未来に受ける苦しみの報いを見ることも恐れることもない。心の中は腐敗し、汚れたカタツムリや貝のようであり、犬のような行いをし、常に虚言を好み、真実は一つもない。物惜しみし、嫉妬深く、愚かで、おごり高ぶり、三つの優れた業(布施・持戒・修定など)から遠ざかり、利益や供養、敬われ名誉を得ることに執着する。また、六つの感覚の対象(色・声・香・味・触・法)にふけり、淫らなことを好み、欲望の対象である色・声・香・味・触の境地を愛する。このようなすべての人は、恥を知らない僧の仲間に含まれ、正しい教えをそしり毀つ。これが『恥知らずの僧』と呼ばれるのである。」
「善男子!勝義僧者,於中或有亦是勝道沙門所攝。言勝道者,謂若能依八支聖道,自度一切煩惱駛流,亦令他度。此復云何?謂佛世尊,及獨勝覺,諸阿羅漢。如是三種補特伽羅,已離一切有支眷屬,故名勝道。復有菩薩摩訶薩眾,不假他緣,於一切法智見無障,攝受利樂一切有情,亦名勝道沙門所攝。
「善男子。勝義僧の中には、勝道の沙門に含まれる者もいる。勝道とは、八支聖道に依って、自ら一切の煩悩の激流を渡り、他者をも渡すことができるものを言う。これは具体的には何かというと、仏世尊、独覚、そして阿羅漢たちである。この三種類の補特伽羅(人)は、すでに一切の有の支分の眷属を離れているので、勝道と名付けられる。また、菩薩摩訶薩たちは、他者の縁に頼ることなく、一切の法について智慧の見解に障りがなく、一切の有情を摂受し利楽する。これらもまた、勝道の沙門に含まれるのである。」
「其勝義僧及世俗僧,於中或有亦是示道沙門所攝。若有成就別解脫戒真善異生,乃至具足世間正見,彼由記說變現力故,能廣為他宣說開示諸聖道法,當知如是補特伽羅,名最下劣示道沙門。證預流果補特伽羅,是名第二。證一來果補特伽羅,是名第三。證不還果補特伽羅,是名第四。復有菩薩摩訶薩眾,是名第五,謂住初地至第十地,乃至安住最後有身,此皆示道沙門所攝。
勝義僧と世俗僧について、その中には示道沙門に含まれる者もいます。もし別解脱戒を成就し、真の凡夫であり、世間の正見を具えている者がいるならば、その者は記説と変現の力によって、広く他の人々に諸々の聖道の法を説き明かすことができます。このような補特伽羅(有情)は、最も下劣な示道沙門と呼ばれます。預流果(入流)を証得した補特伽羅は、第二とされます。一来果を証得した補特伽羅は、第三とされます。不還果を証得した補特伽羅は、第四とされます。また、菩薩摩訶薩(大菩薩)の衆があります。これは第五とされ、初地から第十地に住し、さらに最後の有身(最後の生)に安住する者までを含み、これらはすべて示道沙門に含まれます。
「若有成就別解脫戒軌,則所行清淨具足,此皆命道沙門所攝。以道活命,故名命道。復有菩薩摩訶薩眾,為欲攝受利益,安樂一切有情,具足修行六到彼岸,亦名命道。
もし人が別解脱の戒律を成就していれば、その行いは清らかに満ち溢れています。これはすべて、「命道の沙門」に含まれます。道によって生きることから、命道と名づけられます。また、菩薩(摩訶薩)たちは、すべての生きとし生けるものを摂受し、利益し、安楽を与えようとして、六波羅蜜を満たす修行をします。これもまた、命道と呼ばれます。
「如是勝道、示道、命道三種沙門,名為世間真實福田。所餘沙門名為污道,雖非真實,亦得墮在福田數中。
このように、勝道・示道・命道の三種の沙門(修行者)は、世の中における真実の福田(功徳を生む場)と呼ばれます。その他の沙門は「汚道」と名づけられますが、真実とは言えなくても、福田の中に数えられるのです。
「若有依止無慚愧僧補特伽羅,於我正法毘奈耶中名為死屍,於清眾海應當擯棄,非法器故。我於彼人不稱大師,彼人於我亦非弟子。有無慚僧不成法器,稱我為師,於我舍利及我形像深生敬信;於我法僧聖所愛戒亦深敬信;既不自執諸惡邪見,亦不令他執惡邪見;能廣為他宣說我法,稱揚讚歎不生毀謗;常發正願,隨所犯罪數數厭捨;發露懺悔,眾多業障皆能除滅。當知如是補特伽羅,信敬三寶聖戒力故,勝九十五諸外道眾多百千倍。非速能入般涅槃城,轉輪聖王尚不能及,況餘雜類一切有情!
もし、恥を知らず、清らかな僧侭(そうじん)の集いから追放されるべき「死体」のような者がいるならば、その者は私の正しい教えと戒律において、真理を受け入れる器(うつわ)ではありません。私はその者を師とは呼ばず、その者もまた私の弟子ではありません。
しかし、たとえそのような恥知らずの僧侭であっても、私(釈迦)を師と仰ぎ、私の舍利(舎利)や像に対して深い敬いと信仰を持ち、私の教えや僧侭、聖者が愛する戒律を深く敬い信じるならば、その者は自ら悪しき邪見に執着せず、他者にも執着させません。さらに、私の教えを広く他者に説き、称賛し、毀(そし)ることはありません。常に正しい願いを起こし、犯した罪を繰り返し厭い捨て、告白して懺悔するならば、多くの業の障りも消し去ることができるのです。
そのような人は、仏・法・僧の三宝と聖なる戒律を信じ敬う力によって、九十五種の外道の衆よりも数百倍も勝れています。速やかに涅槃の境地に入ることはできなくとも、輪廻を転ずる聖王でさえ及ばないのです。ましてや、それ以外の様々な迷える者たちが比べられるものではありません。
「以是義故,如來觀察一切有情,諸業法受差別相已,作如是說:『於我法中,剃除鬚髮被袈裟者,我終不聽剎帝利等,毀辱讁罰。』若有毀辱讁罰一切出家之人,所獲罪報如前廣說。又依我法捨俗出家,剃除鬚髮被赤袈裟,即為一切過去、未來、現在、諸佛慈悲護念;威儀形相所服袈裟,亦為過去、未來、現在、諸佛世尊慈悲守護。是故,輕毀剃除鬚髮被赤袈裟出家人者,即是輕毀一切過去、未來、現在、諸佛世尊。由是因緣,諸有智慧、厭怖眾苦、欣求人天涅槃樂者,不應輕毀捨俗出家剃除鬚髮被袈裟者。
このような理由から、如来は一切の有情(生きとし生けるもの)の、様々な業とその報いの違いを観察された上で、次のように説かれたのです。
「わが教えにおいて、髪やひげを剃り、袈裟をまとう者を、私は決して王族や貴族などが侮辱したり罰したりすることを許さない。もし出家した者を侮辱したり罰したりするならば、その者が受ける罪の報いは、先に広く説いた通りである。」
また、わが教えに従って世俗を離れ、家を捨てて出家し、髪やひげを剃り、赤い袈裟をまとう者は、過去・未来・現在のすべての仏の、慈悲による守護と意念の対象となる。その威儀や姿、また身にまとう袈裟もまた、過去・未来・現在のすべての仏・世尊によって、慈悲深く守護されているのである。
それゆえ、髪やひげを剃り、赤い袈裟をまとう出家者を軽んじ、毀る(そこなう)ことは、すなわち過去・未来・現在のすべての仏・世尊を軽んじ、毀ることとなる。
このような因縁により、智慧ある者、あらゆる苦しみを厭い恐れ、人天(人間や天界)の安楽や涅槃の楽しみを求める者は、世俗を捨てて出家し、髪やひげを剃り、袈裟をまとう者を軽んじ、毀ってはならないのである。
「有無慚僧毀破禁戒,不成三乘賢聖法器,既自堅執諸惡邪見,亦能令他執惡邪見。謂為真善剎帝利、真善婆羅門、真善宰官、真善居士、真善沙門、真善長者、真善茷舍、真善戍達羅、若男、若女,說諸世間無父、無母,乃至無有善業、惡業所得果報,無有能得聖道果者,一切諸法不從因生。或有執言,色界是常,非變壞法。或有執言,無色界常,非變壞法。或有執言,外道所計諸苦行法得究竟淨。
「恥を知らない僧侶たちがいて、戒律を破りながらも、三乗の賢聖の器となることができない。彼らは自ら悪しき邪見に固執し、他人にも同じ邪見を抱かせる。そして、彼らは自分たちこそ『真の善き王族』『真の善きバラモン』『真の善き役人』『真の善き在家信者』『真の善き沙門』『真の善き長者』『真の善き商人』『真の善き奴隷の生まれ』であると称し、男も女も、『世の中に父母は存在しない』『善業や悪業による報いなどない』『聖なる道の悟りを得る者はいない』『すべてのものは原因なく生じる』と説く。
ある者は『色界は永遠であり、壊れることはない』と主張する。 ある者は『無色界は永遠であり、壊れることはない』と主張する。 またある者は『外道が説く苦行の法こそ究極の清浄を得る道である』と主張する。」
「或有執言,唯聲聞乘得究竟淨,非獨覺乘,亦非大乘;於聲聞乘,信敬稱讚宣說開示,於獨覺乘及於大乘,誹謗、輕毀、障蔽、隱沒,不令流布。或有執言,唯獨覺乘得究竟淨,非聲聞乘亦非大乘。於獨覺乘,信敬稱讚,宣說開示。於聲聞乘及於大乘,誹謗、輕毀、障蔽、隱沒,不令流布。或有執言,唯有大乘得究竟淨,非聲聞乘、非獨覺乘。於大乘法,既自生信教他生信、既自恭敬教他恭敬、既自稱讚教他稱讚、既自書寫教他書寫、既自讀誦教他讀誦、既自聽受教他聽受、既自思惟教他思惟,於他有情若是法器、若非法器,皆為廣說、開示、解釋,微細甚深大乘法義。於聲聞乘,及獨覺乘,誹謗、輕毀、障蔽、隱沒,不令流布。自不生信障他生信、自不恭敬障他恭敬、自不稱讚障他稱讚、自不書寫障他書寫、自不讀誦聽受思惟、障他讀誦聽受思惟,不樂廣說、開示、解釋、三乘法義。
「ある者はこう主張する。『声聞乗のみが究極の清浄を得ることができ、独覚乗も大乗もそうではない』と。そして、声聞乗に対してのみ信心と敬いを持ち、称賛し、説き明かして示す。一方、独覚乗と大乗に対しては、誹謗し、軽んじ、妨げ、隠し、流布させない。またある者はこう主張する。『独覚乗のみが究極の清浄を得ることができ、声聞乗も大乗もそうではない』と。そして、独覚乗に対して信心と敬いを持ち、称賛し、説き明かして示す。一方、声聞乗と大乗に対しては、誹謗し、軽んじ、妨げ、隠し、流布させない。またある者はこう主張する。『大乗のみが究極の清浄を得ることができ、声聞乗も独覚乗もそうではない』と。そして、大乗の教えに対して、自ら信心を生じ、他者にも信心を生じさせ、自ら敬い、他者にも敬わせ、自ら称賛し、他者にも称賛させ、自ら書き写し、他者にも書き写させ、自ら読誦し、他者にも読誦させ、自ら聴聞し受容し、他者にも聴聞させ受容させ、自ら思惟し、他者にも思惟させる。そして、他者の有情が法の器であろうとなかろうと、そのすべてに対して、微細で非常に深遠な大乗の教えの意味を広く説き、開示し、解説する。一方、声聞乗と独覚乗に対しては、誹謗し、軽んじ、妨げ、隠し、流布させない。自らは信心を生ぜず、他者が信心を生じるのを妨げ、自らは敬わず、他者が敬うのを妨げ、自らは称賛せず、他者が称賛するのを妨げ、自らは書き写さず、他者が書き写すのを妨げ、自らは読誦も聴聞も受容も思惟もせず、他者の読誦、聴聞、受容、思惟を妨げ、三乗の教えの意味を広く説き、開示し、解説することを喜ばない。」
「或有執言,唯修布施得究竟淨,非戒、非忍乃至非慧。或有執言,唯修禁戒得究竟淨,非施、非忍乃至非慧。或有執言,唯修安忍得究竟淨,非施、非戒乃至非慧。或有執言,唯修精進得究竟淨,非施、非戒乃至非慧。或有執言,唯修靜慮得究竟淨,非施、非戒乃至非慧。或有執言,唯修般若得究竟淨,非施、非戒乃至非定。或有執言,唯修種種世間所習諸伎藝智,得究竟淨。
ある人は主張します。「ただ布施(ほどこし)を修めることだけで、究極の清らかさを得られる。戒律(かいりつ)も忍辱(にんにく)も、智慧(ちえ)も必要ない」と。 またある人は主張します。「ただ戒律を守ることだけで、究極の清らかさを得られる。布施も忍辱も、智慧も必要ない」と。 またある人は主張します。「ただ忍辱を修めることだけで、究極の清らかさを得られる。布施も戒律も、智慧も必要ない」と。 またある人は主張します。「ただ精進(しょうじん)を修めることだけで、究極の清らかさを得られる。布施も戒律も、忍辱も智慧も必要ない」と。 またある人は主張します。「ただ静慮(じょうりょ/瞑想)を修めることだけで、究極の清らかさを得られる。布施も戒律も、忍辱も精進も智慧も必要ない」と。 またある人は主張します。「ただ智慧(般若)を修めることだけで、究極の清らかさを得られる。布施も戒律も、忍辱も精進も、瞑想さえも必要ない」と。 またある人は主張します。「ただ様々な世間で学ぶ技芸(ぎげい)や知識を身につけることだけで、究極の清らかさを得られる」と。
「或有執言,唯修種種投巖、赴火、自餓等行,得究竟淨。
あるいは、「様々な崖からの投身、火中への飛び込み、断食などの修行のみを実践すれば、究極の清らかさが得られる」と主張する者もいます。
「善男子!如是破戒惡行苾芻非法器者,種種誑惑真善法器諸有情等,令執惡見。彼由顛倒諸惡見故,破壞真善剎帝利王,乃至真善戍達羅等,若男、若女,所有淨信、戒、聞、捨、慧。轉剎帝利成旃荼羅,乃至茷舍、戍達羅等成旃荼羅。此非法器破戒苾芻并剎帝利旃荼羅等師及弟子,俱斷善根,乃至當墮無間地獄。
「善男子よ、このように破戒の悪行の苾芻であり、法の器ではない者は、さまざまな方法で真の善き法の器であるもろもろの有情たちを誑かし惑わせて、悪しき見に執着させます。彼らは倒れた諸々の悪見によって、真の善き刹帝利王をはじめ、真の善き戍達羅などに至るまで、男であれ女であれ、その持つ清らかな信、戒、聞、捨、慧を壊してしまいます。刹帝利を旃荼羅に変え、さらには茷舎や戍達羅などを旃荼羅に変えてしまいます。この法の器ではない破戒の苾芻、そして刹帝利の旃荼羅などの師と弟子は、ともに善根を断ち、ついには無間地獄に堕ちることになります。」
「善男子!如人死尸,膖脹爛臭,諸來見者皆為臭熏,隨所觸近爛臭死尸,或與交翫隨被臭穢之所熏染。如是真善剎帝利王,乃至真善戍達羅等,若男、若女,隨所親近破戒惡行非法器僧,或與交遊、或共住止、或同事業,隨被惡見臭穢熏染。如是如是,令彼真善剎帝利王,乃至真善戍達羅等,若男、若女,退失淨信、戒、聞、捨、慧,成旃荼羅師及弟子,俱斷善根,乃至當墮無間地獄。
「善男子よ。たとえば人の死体が膨れ上がり、腐って臭気を放つと、見に来る者はみなその臭いに熏され、腐臭のする死体に近づき触れる者は、あるいはそれと交わり遊ぶことによって、みな臭い汚れに染まってしまいます。同じように、真に善なるクシャトリヤの王、さらには真に善なるシュードラなどが、男であれ女であれ、戒を破り悪行をなす非法の器である僧に親しみ、あるいは交わり遊び、あるいは共に住み、あるいは共に事業をなせば、その悪見の臭い汚れに染まってしまいます。まさにそのようにして、それらの真に善なるクシャトリヤの王、さらには真に善なるシュードラなどが、男であれ女であれ、清らかな信・戒・聞・捨・慧を退失し、旃荼羅の師と弟子となって、ともに善根を断ち、ついには無間地獄に堕ちることになるのです。
大乘大集地藏十輪經卷第五
大乗大集地蔵十輪経 巻第五