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千松筆記 (千松筆記)


No. 1287-A千松筆記序

千松筆記序

觀釋迦老子四十九年利生之談。把一片肝腸。打迭得乾乾淨淨。以應萬機。那有許多齷齪。塞人腸肚。教人成佛。四十九年中。止用一片圓融無礙不思議清淨心為辯才。示人安身立命處。猶龍神現於雲端。往來神變。雲行雨施。善能觀者。見龍真體。不善觀者。謂紙墨文字。故如來文非文也。如來語非語也。轉變神化。言言真體。語語流輝。故云四十九年未甞曾說一字。纔見世尊肝腸潔淨。令人直下會取。不受人瞞。具眼者那肯食人糟粕。檢人涕吐。如雲門纔見釋迦指天指地。便云。我當時若見。一棒打死。與狗子吃。就把世尊底。掀開用出自家面目。那肯食人殘羮剩飯。所以悟有非常。纔能超世。也須是個人使得。未徹玄宗。浪言見諦。將欲昧人。實以自昧。咨其胸臆。徒滑唇吻。不能了明出佛之機。言不越心。心不越語。心言豈是兩法。懸崖撒手。未肯承當。直下知歸。自然透脫。學者漫自隨文逐義。舉世呌囂。徵逐不醒。如吸狂泉。不知佛祖垂言。直示本體。盡徹纖疑。縱橫如意。可窺心佛之宗。入利津而不染。唯從自己胸襟流出。以應世間。智刃纔揮。纖疑頓斷。為世間之道亦可為。出世間之道亦可把。世間法與出世間法。融作一團。和作一塊。作世間法亦可。作出世間法亦可。離世間法。無出世間法可得。離出世間法。無世間法可得。然雖如是。亦可於世間法內。檢出出世間法。於出世間法內。檢出世間法。纔不溷亂。亦不儱侗。方為具眼。踏翻聖賢窠臼。掀開佛祖家風。可以入魔。可以入佛。不被世間法與出世間法縛。灑灑脫脫。纔成個解脫道人。玉既琢而韞璞。劍已淬而含輝。是以念念中。見一切眾生成佛。佛有成否。亦非佛矣。心有古今。亦非心矣。是故釋迦老子。一生活計。不厭之談。示於眾生。不可於說字上。更下註脚。為心佛可也。No. 1287

釈迦尊者の四十九年にわたる衆生利益の教えを観じよう。 その一片の真心は、余計なものを一切取り払い、清らかに澄み渡り、 あらゆる機根に応じて自在に働く。 どうして多くの煩わしい教えで、人々の心を塞ぎ、無理に仏に成らせようとするだろうか。

四十九年の間、ただ一片の円融無碍で不可思議な清浄心を弁才として用い、 人々に安身立命の処を示された。 あたかも龍神が雲の端に現れ、自在に往来し、雲行き雨降らすが如く。 よく観る者は龍の真の姿を見るが、観る目を持たぬ者は単なる紙と墨の文字と思う。

ゆえに如来の文は文にあらず、如来の語は語にあらず。 変化し神化し、一言一言が真の姿であり、一語一語が輝きを放つ。 だから「四十九年、一字も説かなかった」と言われるのである。

ただ釈尊の真心の清らかさを見るだけで、人は直ちに悟りを得、 だまされずに済む。 真の眼を持つ者は、どうして他人の糟粕を食い、他人の唾を舐めようか。 雲門が釈迦が天を指し地を指すのを見て言ったように、 「私がその場にいたなら、一棒で打ち殺し、犬に食わせてしまおう」と。 それこそ世尊の外皮を剥ぎ取り、自らの面目を現すものであり、 どうして他人の残り物を食おうとするだろうか。

だから悟りには並々ならぬものがあり、はじめて世を超えられる。 それもまた、真の人間たる者でなければできないことだ。 玄宗(深奥な真理)を徹していないのに、軽々しく悟りを語り、 人を惑わそうとすれば、実は自分自身を惑わすことになる。 胸中を探れば、ただ口先だけが滑らかになるだけで、 仏が出世された真意を明らかにすることはできない。

言葉は心を離れず、心は言葉を離れない。 心と言葉は二つの法であろうか。 崖から手を放すような覚悟がなければ、真に受け止めることはできない。 直下に帰る処を知れば、自然と透脱する。

学ぶ者は漫然と文に従い義を追い、世間の騒ぎに巻き込まれ、 目覚めることなく、狂泉を飲むが如くである。 知らないのだ、祖師たちの垂れた言葉は、直ちに本体を示し、 微細な疑いをも尽くし、縦横自在であり、 心と仏の宗旨を窺い知ることができ、 利便の川に入りながら染まらず、 ただ自らの胸襟から流れ出て、世間に応じるものであると。

智慧の刃を振るえば、微細な疑いもたちまち断たれる。 世間の道としても良し、出世間の道としても良し。 世間法と出世間法を一つに融け合わせ、一塊に和する。 世間法としても良し、出世間法としても良し。 世間法を離れては、出世間法は得られない。 出世間法を離れては、世間法は得られない。

とはいえ、世間法の中から出世間法を見出し、 出世間法の中から世間法を見出すこともできる。 そうしてはじめて混乱せず、曖昧にもならず、真の眼を持つ者と言える。

聖賢の古い型を踏み破り、祖師たちの家風を開き示す。 魔に入ることもでき、仏に入ることもできる。 世間法にも出世間法にも縛られず、洒洒脱脱として、 はじめて解脱の道人となる。

玉は琢まれて璞(宝石の原石)を内に秘め、 剣は淬がれて輝きを宿す。 ゆえに念念の中に、一切衆生の成仏を見る。 仏に成る・成らないがあれば、それはもはや仏ではない。 心に古今があれば、それはもはや心ではない。

だから釈迦尊者は、生涯をかけて飽きることなく語り続け、 衆生に示されたのである。 「説」という字の上に、さらに注釈を加える必要はない。 ただ心仏とすればよいのである。

千松筆記

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前言

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