金光明経文句 巻第三
隋の天台智者大師の説
門人灌頂録
懺悔の章
多くの大乗経典では、懺悔について部分的に説かれていますが、この経典は特に懺悔を主題として扱っています。まず、その名称を解釈しましょう。
「懺」とは「首(かしら)」、すなわち頭を下げて従うことです。「悔」とは「伏(ふす)」、すなわちひれ伏すことです。一般に、王様に罪を犯した者が、ひれ伏して従順に従い、逆らわないことを「伏」と言い、従順に従うことを「首」と言います。修行者も同じで、三宝の足下にひれ伏し、正しい道理に従って、悪いことを行わない。これが「懺悔」です。
また、「懺」は白法(善い行い)を指し、「悔」は黒法(悪い行い)を指します。黒法は悔いて行わず、白法は目指して尊ぶ。この取捨を合わせて論じるので、「懺悔」と言います。
また、「懺」は未来を修めること、「悔」は過去を改めることです。過去に行った悪い行いを恥じて嫌うのが「悔」。過去に捨てたすべての善い行いを、今日から誓って勤め修めるのが「懺」。過去を捨て未来を求めるので、「懺悔」と言います。
また、「懺」とは多くの過失を打ち明け、隠さずに過ちを露わにすること。「悔」とは、そのような行いを続ける心を断ち、嫌って捨て離れること。行うべきことと行ってはならないことを合わせて捨てるので、「懺悔」と言います。
また、「懺」は「慚(ざん)」、「悔」は「愧(き)」です。「慚」は天に対して恥じること、「愧」は人に対して恥じること。人は表に見える部分を見、天は隠れた細かい部分を見ます。表も隠れもどちらも悪いことなので、「懺悔」と言います。
また、人は賢人、天は聖人です。賢人や聖人に及ばないからこそ、懺悔するのです。さらに、賢人も聖人も人であり、天とは第一義天(真理)を指します。第一義天は理、賢聖は事です。事にも理にも及ばないから、懺悔するのです。
また、三乗(声聞・縁覚・菩薩)の聖天に慚じ、三乗の賢人に愧じる。この天人に及ばないから、慚愧と言い、慚愧がすなわち懺悔なのです。三乗の賢聖も人であり、第一義理が天です。この人と天について慚愧を論じるので、懺悔と言います。
さらに、三乗の賢聖でさえ菩薩の賢に及ばず、まして菩薩の聖には及びません。今、三十心(十住・十行・十廻向)の賢と十地の聖に対して慚愧するので、慚愧懺悔と言います。総じてこれらの賢聖は皆人であり、第一義理を天と言います。この人と天について慚愧を論じるので、懺悔と言います。
また、三十心からを聖人とし、十信を賢人とします。この賢聖について慚愧懺悔を論じます。総じてこれらの賢聖は皆人であり、第一義理を天と言います。この人と天について慚愧懺悔を論じるのです。
以上、十の観点から名称を解釈しました。
次に懺悔の処について明らかにします。
『大経』の闍王の偈にこうあります。 「荒々しい言葉も、優しい言葉も、すべては第一義に帰する。 それゆえに私は今日、世尊に帰依するのです」
また『梵行品』にはこうあります。 「私はかつて、あなた方と共に四つの真実の道理を見ることができなかった。 だからこそ、長い間、生死の苦しみの大海を流転してきたのです。 もし四つの真実の道理を見ることができれば、生死を断つことができる。 生死が尽きれば、もはや様々な存在に縛られることはない」
『法華経』にはこうあります。 「行うところ、近づくところ、忍辱の地に住む。また行わず、分別しない」 またこうも言います。 「宝の処は近くにある。あなたは前に進むがよい。 そうすれば化城は消え、ただちに宝の処に至るであろう」
この経典にはこうあります。 「私はこれがために帰依の処となろう」 帰依の処とは、すなわち甚深無量の法性です。 法性とはただ真理であり、真理とはただ妙なる境です。 諸仏が師とする寂滅真如の秘密の蔵、十方の聖者がそこに安住しています。 もしその根本を得れば、根本が立てば道は生じます。 その処を得なければ、平地であっても転落します。 まるで盲人が茨の林に入り、動くたびに引っかかり障りがあるかのようです。 この意味ゆえに、懺悔の処を知る必要があるのです。
『普賢観経』にはこうあります。 「端坐して実相を念ずれば、衆の罪は霜露の如し、慧日の光がこれを消し去る。 我が心は自ら空なり、罪と福に主なし。これを大懺悔と名づけ、これを荘厳懺悔と名づけ、これを無罪相懺悔と名づく」 無罪相とは、これは空を処とするものです。 荘厳懺悔とは、俗諦を処とするものです。 大懺悔とは、中道を処とするものです。 もし三種の違いを論じるなら、これは別々に処を論じたものに過ぎません。 一にして三、三にして一であるなら、これが円妙なる懺悔であり、諸大菩薩が仏法を修学して懺悔するものです。 もしこの法を知って懺悔するなら、最も妙なる、最も優れた懺悔の処です。
『大経』にはこうあります。 「譬えば、人が大海で沐浴するが如し。当に知るべし、この人はすでに一切の諸河の水を用いたることを」 『大品経』にはこうあります。 「譬えば、負債の人が王に依り頼むが如し。債主はかえって供養し、どうして敢えてその物を求めようか」 書物にはこうあります。 「譬えば、塀の上の草の如し。その茎や葉が高く長くなるのではない、依るべき処を得たからである」 修行者がもし法性を懺悔の処とするなら、一切の諸処よりも高く出るのです。 修行者がもしこの意を知るなら、まず法性の道理を求め、懺悔の処とすべきです。
次に懺悔の法を明らかにする。法には二種がある。一は正法、二は助法である。
正法とは、すなわち法性を観ずる智慧である。法性は常なるがゆえに、この観もまた常である。法性が楽・我・浄であるがゆえに、観慧もまた同じである。法性が不可思議であり、至深至妙であり、無上無等であるがゆえに、観慧もまた同じである。境と智が相い冥合して二つならず、如如として異ならないとは、境が智の如く、智が境の如くであるゆえに、如如として異ならないというのである。経に言う、「智を説くこと及び智の処を説くこと、皆これ般若と名づく。智を説くこと及び智の処を説くこと、皆これ実相と名づく。」説くことが説かざるが如く、説かざることが説くが如く、説くことと説かざることと二つなく別れない。この観慧をもって一切の法を歴観するもまたかくの如し。故に毘盧遮那は一切の処に遍満すと言う。行くも住するも、明るきも暗きも、皆仏世尊を見ること離れず、六根の対する所はこれ无非佛法である。耆婆が草をかき集めれば、これ无非薬であり、普く病を癒すことができる。釈摩男の執する一切の砂礫は皆宝に変じ、阿那律の空の器は悉く甘露に満ちる。もしこのようであるならば、観ずる所の罪はもはや罪ではなく、罪は即ち実相である。観ずる所の福は福ではなく、福は即ち実相である。純一に実相である、これを大懺悔と名づける。
助道の懺悔とは、もし純粋に正懺を用いるならば、助けもまた要しない。もし正道が暗昧にして明らかでないならば、助けを修してこれを助ける。いわゆる灰汁や澡豆、皁莢や木槵をもって清水を助けるようなものである。略して言えば、身口意を勤めて用いて助けとする。身は旋礼を謂い、口は読誦を謂い、心は策観を謂う。これをもって門を開くを助け、順流順風に篙や棹を助けるが如く、去ること疾しとなる。かくの如く、正助を略論する。
四明の懺悔位について、もし一つの解釈だけをするならば、それは「卑しく濁った凡夫は懺悔すべきであり、垢を離れ清浄な者は何のために懺悔する必要があるのか」というものです。しかし、これは正しくありません。ですから、新たな『業障滅品』の中ではこう説かれています。
人は父母から身体を受け継ぎ、十月間胎内に宿り、三年間養育されて、ようやく頭を上げ髪を伸ばすことができます。教えを授けられ、数を教えられて、初めて人としての振る舞いを理解します。どうして突然、恩を忘れ義に背いて殺害や逆らいの行いをするのでしょうか。天は広大であっても、このような人を覆いません。地は厚くあっても、このような人を支えません。このような人は命が尽きると、まっすぐ地獄に堕ちます。このような逆罪は懺悔し、業障を滅除すべきです。
仏は人天の師であり、師は厳格で道は尊いものです。仏が説かれたことに背き罪を犯すことは、これ以上ない大罪です。最初の戒律から最後の集団の規律まで、どうして背くことができましょうか。そうすれば、仏を欺き心に背き、さらに三師七僧にも背くことになります。これは仏の海の死骸、華園の腐った肉のようなものです。この四重の人は、懺悔して業障を滅除すべきです。
怒りが多い者は蛇や毒虫に、欲望が多い者は鳩や鴿に、愚かさが多い者は虱や蟻に、慢心が多い者は飛ぶ鳥に、諂いが多い者は修羅に堕ちます。外に慳貪な者は餓鬼に堕ち、餓鬼は常に飢え渇き、畜生は互いに傷つけ合い、修羅は多くの恐怖に怯えます。この四悪道は、その名を聞くだけでも耐えられないのに、ましてやそこに堕ちることなどありえません。懺悔して業障を滅除すべきです。
人間界には八苦があり、一つの苦さえ耐えられないのに、ましてや八苦が交錯することなどありえません。懺悔して業障を滅除すべきです。
天上には五衰や地獄などの苦しみがあり、色界天では速やかに禅定に入ることができず、求不得苦があります。無色界天には四心の苦しみがあります。三界は牢獄のような生死の住処です。懺悔して業障を滅除すべきです。
出家者であっても、たとえ修道を志しても、五煩悩によって心が妨げられ落ち着かず、心が四顛倒に惑わされて四念処に入ることができません。これも懺悔して業障を滅除すべきです。
四念処は四顛倒を治しますが、二つの悪を断じることに励まず、二つの善を生じさせることに励まなければ、如意足に入ることができず、煖法も発しません。これも懺悔すべきです。
五根が生じず、喜びがあっても退転して堕ちます。根が生じても力がなく、力があっても真如に近づいていません。この四善根の中でも、懺悔して業障を滅除すべきです。
苦忍明が発しても三途に堕ちないとはいえ、欲界の七生を次第に受けるべきです。一生さえ苦しいのに、ましてや七生などありえません。欲界の五下分結の六品を断じても、残り三品が残っています。これも懺悔すべきです。
五下分結の八品を断じ尽くしても、残り一品が残っています。色界の煩悩を断じ尽くしても、無色界の分が残っています。これも懺悔すべきです。
有余涅槃に入っても、まだ果報の身体が残っています。舎利弗が風邪で熱を出し、畢陵伽が眼の痛みに苦しんだように、有余を捨てて無余に入ろうとしても、懺悔すべきです。
三界の正使を断じ尽くしても、習気がまだ残っています。これも懺悔すべきです。縁覚も同様で、懺悔すべきです。
乾慧地では、まだ理の水が心に染み渡らず、だから乾慧と言います。性地ではまだ理を見ることができません。八人見地ではまだ愛の惑いがあります。薄地では神通がなく、再び欲界に生まれます。離欲地ではまだ上界の惑いがあります。已辦地では習気を除くことができません。辟支仏地では神通を起こすだけで、文字を達することができません。菩薩地ではまだ極みに至っていません。このような位も皆、懺悔して業障を滅除すべきです。
十信はただ信じるだけで、まだ理にかなっていません。十住は偏った理に入るだけです。十行はただ事を行じるだけで、まだ中道に入っていません。十廻向は中道を修めるだけで、まだ中道を証していません。十地は中道を証しても、地地に障りがあり、まだ学びを究めず、無学を得ていません。懺悔して業障を滅除すべきです。
また、十信では三智を円満に修めますが、それは方便陀羅尼に過ぎません。十住から等覚に至るまで、十四夜の月のようなもので、十五夜の月ではありません。輪郭が円満ではなく、光が十分ではなく、闇が完全に消えていません。懺悔して業障を滅除すべきです。
ここまで来れば、懺悔の位が長く、その意義が極めて広大であることが分かります。どうして「凡夫に限る」などと言えるでしょうか。だから『五十校計経』では等覚に至るまで皆に懺悔を命じているのです。これがその意味です。
もし人がこのような懺悔を聞くことができれば、その功徳は少なくありません。経文に「一仏や五仏、十仏のもとで功徳を修めてこの懺悔を聞くのではなく、無量百千の仏のもとで功徳を修めてこの懺悔を聞くのである。その華報を語れば、あらゆる場所で常に国王や輔相、大臣から恭敬される。その果報を語れば、常に十方の諸仏から互いに恭敬される」とあります。ただこの懺悔を聞くだけでさえ、これほどの功徳を得るのです。ましてや法に従って修行するならば、なおさらです。
すでに懺悔の意義を聞きました。この法は経典から出て、この経典は仏が説かれたものです。ですから、恩に報いて諸仏に帰命礼拝すべきです(云云)。
懺悔品を字義によって解釈すれば、懺とは鑑(かがみ)のことです。自分の身口意の三業を披瀝し、隠し立てせずに他者に委ねて鑑みてもらうことです。顔を赤らめて口を歪め、心を砕き意を伏せることです。身が鑑みられることで顔を赤らめ、口が鑑みられることで唇を歪め、心が鑑みられることで意を伏せる。だから懺を鑑と言うのです。
悔とは廃(すてる)ことです。内に卑しい恥を抱き、多くの過ちを造ったことを悔いることです。身を悔いれば三つの悪を廃し、口を悔いれば四つの悪を廃し、心を悔いれば十の悪を廃します。だから悔を廃と言うのです。
また、法門による解釈では、懺悔は慚愧を意味し、慚愧は白法(善い法)です。また、自ら悪を造らず、他に悪を造らせないなど、さまざまな説があります。
懺悔には三種類あります。一、作法懺悔、二、取相懺悔、三、無生懺悔です。この三つは大小乗に通じます。
小乗の作法懺悔とは、毘尼の中で罪を発露し、二十人の僧と共に摩那埵を行い、あるいは半月作法、あるいは対首作法、あるいは責心を行い、ただ作法が成就して僧事を妨げなければ清浄となることです。
『阿含経』の中にも相懺悔があります。欲を犯した人が毒蛇の口を想い、この観想が成就した時に淫罪が滅びます。また、空を観じる懺悔もあり、それはただ真空を観じることです。
大乗にも作法懺悔があります。八百日間のものは、虚空蔵菩薩が厠を塗るようなものです。九十日間のものは、『般舟三昧経』のようなものです。四十九日間のものは、大悲懺のようなものです。二十一日間のものは、『法華経』のようなものです。七日間のものは、方等経のようなものです。灰湯や澡豆で身を清め、辛い酒を口にせず、慚愧を起こして心を励まし、旋読や誦経をそれぞれの回数行うなど、皆作法懺悔に含まれます。
取相懺悔とは、方等経で十二夢王を求めるようなものです。菩薩戒で華光が摩頂するのを見たり、虚空蔵経で声が唱えられて臂に印が現れたり、相が起こって罪が滅びることです。作法を正しく明示していませんが、事相の作用も兼ねています。
無生懺悔とは、『普賢観経』に「端坐して実相を念ずれば、日の霜露を照らすが如し」とあるようなものです。空を観じ理に縁って無相を観じるのが最も優れています。事相を正しく行っていませんが、上の二つの懺悔も兼ねています。
作法懺悔が成就すると、違無作罪は滅びますが、性罪は除かれません。例えば殺生を犯した場合、作法懺悔が成就すると違無作罪は去りますが、命を償う罪はまだ残っています。これがその意味です。
取相懺悔は性罪を滅ぼすことができます。性罪が去れば、違無作罪も去ります。木の枝葉を伐れば萎れますが、根本が去っていなければ、再び生えてくるのと同じです。
無生懺悔は無明を滅ぼすことができます。大地を覆うように根も枝葉もすべて尽きて残りません。
また、作法懺悔は違戒の上の罪を滅ぼし、取相懺悔は犯定の上の罪を滅ぼし、無生懺悔は犯慧の上の罪を滅ぼします。
また、作法懺悔は三悪道の報障を滅ぼし、取相懺悔は人道の報障を滅ぼし、無生懺悔は三界の有漏の報障を滅ぼします。
また、作法懺悔は三悪道の業障を滅ぼし、取相懺悔は人道の業障を滅ぼし、無生懺悔は三界の有漏の業障を滅ぼします。
また、作法懺悔は怖畏や憂愁の煩悩を滅ぼし、煩悩を破ります。取相懺悔は四住の煩悩を滅ぼし、無生懺悔は無明の煩悩を滅ぼします。
また、三種の懺悔は共に報障を除き、取相懺悔は業障を除き、無生懺悔は煩悩障を除きます。
また、作法懺悔は生姜や桂皮を服用するようなもので、病気が治るだけで身体を肥やすことはできません。罪が滅びても善を生じさせられないことに譬えられます。取相懺悔は五石を服用するようなもので、病気が治り身体が充実しますが、道を得ることはできません。無生懺悔は五芝を服用するようなもので、病気が除かれ身体が飛翔し、仙人となって道を得ます。
このようなさまざまな区別を、修行者は知るべきです。
今の経文には大乗の三懺悔が備わっています。清浄な衣を着てこの経を専ら聴き、また七日七夜朝晩に心を清めるなどは、作法懺悔です。その座のところで弥勒、文殊、普賢を見ることは、取相懺悔です。五陰の家屋を観じてことごとく空寂であり、本来生じることもなく和合することもないと観じることは、無生懺悔です。三つの意味がはっきりとしているので、諸悪を滅ぼし五障を蕩除し、経典の力用を顕わすことができるのです。
この品から下は、経典の力用を明らかにする。今の品は、夜の夢と昼の説法による懺悔、悪を断ち苦を抜くことを正しく明らかにし、下の品は、過去の歎願と誓願による善を生じ楽を与えることを正しく明らかにする。傍らと正面とが互いに挙げられている。
この品の文は二つに分かれる:初めに夢の中で見聞すること、二に目覚めて後、見聞したことを説くこと。夢もまた二つ:一に金鼓を見る夢、二に鼓を打つ音の夢。鼓を見ることもまた三つ:一に正しく鼓を見ること、二に鼓の光を見ること、三に光の中の仏を見ること。
「夢」とは、夢の三昧に入ることである。また、観に入れば夢の如く、観を出れば覚めた如し。観に入れば心静かにして法性を観じ得る。法性こそが金鼓である。金鼓の体は円満にして空しく鳴る。円とは法身、空とは般若、鳴とは解脱である。
「姝」とは勝れた義、深い義。「大」とは広大な義、無量の義。上文の「無量甚深の法性に遊ぶ」という意の如し。「姝大」は、鼓の体を略述したもので、詳しく論ずれば「円姝大」「空姝大」「鳴姝大」と言うべきである。鼓の体は三種を備え、三種はいずれも甚深無量である。これが夢の中に見る法身であり、一を観じて三仏を見るのである。
「その明らか溥く照らす」以下は、第二に鼓の光を見ることである。光は智慧であり、この法性に契って大果を成し遂げる。智と体とが冥合する。体が円く姝大であれば、光の円もまた姝大である。体が空しく姝大であれば、光の空もまた姝大である。体が鳴りて既に姝大であれば、光の鳴りもまた姝大である。なぜなら、この身は諸仏と同体同意であるからである。これが夢の中に見る報身仏であり、一仏にして三である。
「また光の中に十方の仏を見る」以下は、第三に光の中の諸仏を見ることである。光は鼓より出でて十方を遍く照らし、用は体より起こって法界に応じて周る。機縁と同様の事を行うのである。
「瑠璃の座」とは、依って立つ理である。仏がその上に坐すとは、智が法性に称うることである。「大衆囲繞」とは、応ずべき機である。これが夢の中に見る応身仏であり、一を即して三を論ずるのである。
この三仏を見ることは、すなわち三身・三徳であり、種々の三法門はここより教えを設け、これを金光明と名づけるのである。
「見有一人」以下は、第二の夢、すなわち太鼓を打つ夢を見たことについてです。文は三つに分かれます:一に太鼓を打つこと、二に大きな音声を出すこと、三にその声が表す弁説です。太鼓は法身であり、打つことは機智(機縁に応じた智慧)です。婆羅門は清浄な行いであり、これは真実に近いことを意味します。真実に近い人が、似た理解による清浄な智慧で法身と和合し、甘露のように相応して苦を滅し楽を生じさせるのです。太鼓は法身であり、ばちと太鼓が合わさることは報身であり、打ち出すことは応身です。声が表す弁説は法界の大いなる作用であり、教えを起こして衆生に利益をもたらします。
「時信相菩薩」以下は、第二に、夢から覚めて見聞したことを述べることです。文は四つに分かれます:一に仏のところへ行くこと、二に縁ある者たちと共にあること、三に敬意を表すること、四に夢を述べることです。夢を見ることは、法門に入ることが夜の夢のようであり、法門を出ることが夜が明けて朝になるようなものです。また、三十心(十住・十行・十廻向の三十位)では惑いの障りがまだ除かれていないので夢のようであり、登地(初地以上)に至って惑いを断つことは夜が明けて朝になるようなものです。観解(観察による理解)においては、観行位(観察修行の位)において観る三身は夢のようであり、分真位(部分的な真実の位)において観る三身は朝のようです。王舎城を出ることは、因位(修行の因の位)を出ることを表します。耆闍崛山へ向かうことは、果地(悟りの果の位)へ向かうことを表します。敬意を表すことには三つあります:頂礼は身による敬い、瞻仰(仰ぎ見ること)は意による敬い、夢を語ることは口による敬いです。頂礼することは、菩薩は因位にあり信を第一とすることを貴び、諸仏は果位にあり慈悲を第一とすることを賤しむ、という意味です。貴ぶものが賤しむものを敬うのです。
「以其夢中」以下は、第四の夢を述べることです。ここから総計一百六十二行の偈があり、二つに分かれます:初めの四行半が総じて夢を明らかにし、後の一百五十七行半が別々に夢を明らかにします。総説はさらに二つに分かれます:初めの三行半が金の太鼓を見ることを明らかにし、後の一行が太鼓を打つことを見ることを明らかにします。太鼓を見ることはさらに三つに分かれます:初めの一行が太鼓の形状を見ること、次の一行が太鼓の光明を見ること、次の一行半が光明の中の諸仏を見ること、これが長行(散文)の中の三身の意味であり、観察する境に入る所観の対象です。次の一行が太鼓を打つことを見ることで、自らその観智(観察の智慧)の機縁を見て、法身の境を打ち叩くことです。大きな音声を出すことは、すでに上記の通りであり、自らその境と智が和合するのを見て、多くの利益をもたらすことができることです。
「是大金鼓」以下の一百五十七行半の偈は、別々に夢の事柄を明らかにします。文は二つに分かれます:初めに「是大金鼓」から「悉能滅除」までの二十一行三句は、金の太鼓が悪を滅し善を生じさせる力があることを明らかにします。二に「一切諸苦無依無歸」以下の一百三十五行三句は、正しく教え諭し懺悔する方法を明らかにします。悪を滅し善を生じさせる力についての文は六つに分かれます:一に三行あり、世間の因果の苦を滅します;二に三行あり、出世間の因果の楽を生じさせます;三に四行あり、衆生が自ら行い他を化導することを共に備えさせます;四に四行あり、衆生の報障(果報の障り)を滅し、また宿命通を発させます;五に四行あり、衆生に諸々の法門を得させ、初めは少なく得、後には多く得させます(云云);六に三行三句あり、衆生の八難の流転を破ります。この六つの意味を解釈すると、皆三塗(地獄・餓鬼・畜生)から漸次に人・天・二乗・菩薩などに至り、一つ一つに皆悪を破り善を生じさせる力があります。
「一切諸苦無依無歸」以下の一百三十五行三句は、第二に教え諭し懺悔する方法を明らかにします。文は五つに分かれます:一に「一切諸苦」以下の十九行一句は、自らの過ちと罪を述べて懺悔することを教えます。二に「我當供養」以下の三十五行は、諸仏を供養し自ら行い他を化導して懺悔を修めることを明らかにします。三に「諸佛世尊我所依止」以下の二十一行は、称歎して懺悔を修めることを明らかにします。四に「我以善業諸因緣故」以下の五十一行半は、願を発して懺悔を修めることを明らかにします。五に「若有敬禮稱歎十力」以下の九行は、懺悔を結び成します。五つの意が生じる次第は、ただ衆生が邪倒して理を障り法性を識らず、愚癡が解を障って因果を識らず、悪業が行を障って善法を識らないからです。聖人は慈悲により、大士の夢に因って、その懺悔を示し、その道理を示し、その因果を示し、その善行を示すので、自ら懺悔することを論じます。仏の恩が深いことを担うので、供養を伸べます。供養だけではその誠を尽くせないので、歌詠して称歎します。供養は行であり、願によって指帰(目指す帰着点)を必要とします。行と願が既に円満であれば、結んで讃美を成します。
自ら懺悔する文は三つに分かれます:初めの一行一句は、法身が依憑する所であることを明らかにします;次の二行は、仏に覆護を請います;次の十六行は、正しく懺悔を明らかにします。そもそも法身は三徳を具え、すなわち一体の三宝です。法性は法宝であり、寂にして常に照らすことは仏宝であり、遍く一切の処にあることは僧宝です。凡夫や二乗は知らなくても、法性を出ることはありません。総じて言えば、一切の菩薩は何嘗てこれに依って帰依しないことがありましょうか。これに依れば本が立ち道が生じるのです。内なる本は既に立っても、外に仏の加護がなければ成就できません。もし擁護を受ければ、悪を断ち善を生じさせることは、瞬く間に成し遂げられます。萌芽が雨を得て、繁茂し豊かに茂るようなものです。それ故に仏に請うのです。内と外の因縁が既に備われば、正しく懺悔を必要とします。
正しく懺悔する文は二つに分かれます:初めの三句は、総じて懺悔を明らかにします;後の十五行一句は、別々に懺悔を明らかにします。総懺悔とは、三障を総じて懺悔することです。本とは、煩悩が二障の本であることです。悪とは、報障です。不善とは、業障です。三障は三身・三仏・三宝を障ります。三障が転じれば、諸々の三法門は悉く明らかになります。それ故に総じて懺悔するのです。
別懺悔とは、三障を別々に懺悔することです。文は三つに分かれます:初めの一行一句は、煩悩障を懺悔します;次の一行は、報障を懺悔します;次の十三行は、業障を懺悔します。「諸十力前」とは、正しく煩悩障を懺悔することです。独頭無明(他の煩悩と伴わない無明)の癡倒は甚だしく、法身仏を識りません。法身仏は遍く一切の処にありますが、癡闇によって知らず、公然と仏の前で衆罪を造作します。牛や羊が天子を識らないように、鳥や雀が檠像(仏像を安置する台)を識らないように、前で過ちを犯すようなものです。愚癡で法身を識らないのもまたこの通りです。「父母恩」とは、方便が父であり、智度が母であり、この二つの法門が法身を生じさせます。これを識らないことは、報仏を知らないことです。「不解善法」とは、善法は助道の行であり、智慧を資けて理を顕わすことができます。これを解しないことは、応仏を識らないことです。三仏を皆知ることができないならば、無明の過患ではないでしょうか。これが煩悩障を別々に懺悔することです。
「自恃種姓」以下は、報障を別々に懺悔することです。略して言えば三種類あります:一に姓(家柄)を恃んで他を傲る、二に財を恃んで物を忽せにする、三に壮年を恃んで彼を陵ぐ。報いにこの三つがあっても、自ら恣にするべきではありません。もし恣にすれば、この報いは障り事となります。今さらに法門について解釈します。出家者は慧を姓とし、定を財とし、戒を年とします。この三法に染まり自ら尊び他を卑しむ者は、染法と名付けられ、求法ではありません。『法華経』に「汝は年少壮にして我は年衰邁す」とあるのは、凡夫は五陰盛を壮とし、二乗や通教は空をもって有を出ることを壮とし、別教の菩薩は法眼が慧眼を過ぎることを壮とします。これらの諸法に執着する者は、皆強きを恃んで弱きを陵ぐことで報障を成します。悉く懺悔すべきです。
「心念不善」以下の十三行は、業障を別々に懺悔します。文は十二に分かれます:初めの一行は、心と口によって悪業を造ることを懺悔し、また他に悪を教えることもです。「身口意」からは自ら悪を造ることです。二の一行は、内と外の因縁によって悪業を造ることを懺悔します。三の一行は、五欲の因縁によって悪業を造ることを懺悔します。四の一行は、邪師を信受して悪業を造ることを懺悔します。五の一行は、悪主に随順して悪業を造ることを懺悔します。六の一行は、愛心に使われて悪業を造ることを懺悔します。七の二行は、衣食や女色のために悪業を造ることを懺悔します。八の一行は、仏の世の敬田(尊敬すべき対象)に対して悪業を造ることを懺悔します。九の一行は、仏のない世の敬田に対して悪業を造ることを懺悔します。十の二句は、正法に対して悪業を造ることを懺悔します。十一の一行は、恩田(恩ある対象)に対して悪業を造ることを懺悔します。十二の一行半は、総じて一切の処で悪業を造ることを懺悔します。業を造る因縁は甚だ多く、全てを列挙することはできないので、総じて懺悔します。もし細かく解釈しようとするならば、人道を始めとし、二乗・通・別・菩薩などの行を一つ一つ行い、例によって理解すべきです。故に『五十校計経』に「上は等覚に至るまで皆懺悔すべし」とあるのが、その意味です。
「我今供養」以下の三十五行は、諸仏を供養することを明らかにします。供養する所以は、我は本来癡盲であり、懺悔を示されたこの恩は深重であるので、供養を興すのです。文は二つに分かれます:初めの一行は、財供養を明らかにします;後の三十四行は、法供養を明らかにします。法供養は二つに分かれます:初めの八行半は、他を化導する法供養を明らかにします。如来の慈悲の法門に随順し、含識(有情)を済利することは、他を化導して法供養を修めることです。後の二十五行半は、自ら行う法供養を明らかにします。如来の智慧の法門に随順し、十地の功德を修めることは、自ら行って法供養を修めることです。諸供養の中では法供養が最も第一であり、財供養と法供養、事と理、自と他が皆悉く具足します。
他を化導する法供養の文は二つに分かれます:初めの四行は、他を化導して修行させます;後の四行半は、他を化導して懺悔を修めさせます。初めの修行とは、我自ら十地を行ずることが法供養であり、今さらに人を化導して法供養させます。譬えば一つの燈が百千の燈を燃やすように、暗い者も皆明るくなり、明るさは終に尽きることがありません。その意は四つあります:初めに化導の始まりを明らかにし、大悲をもって苦を抜きます;次に真の因を勧め、十地の行を勧めます;次に真の果を勧め、菩提の大覚を勧めます;次に精進を勧め、督励して速やかに成し遂げさせます。衆生は等しいので、性欲もまた等しく、善巧に一度度せば、衆多もまた然りです。労苦を計らずに行を積み徳を重ね、功を成して大覚すれば、即ち智徳が満ちます。一切の苦を尽くせば、即ち断徳が満ちます。文は自ら明らかであり、多く解釈する必要はありません。観心とは、一念の心を調えて真の明を発させ、任運に真果を成じます。一切の心数(心の作用)を調えるのもまたこの通りです。「弟子衆塵労、随意之所転」とは、この意味です。
次の四行半、他を化導して懺悔を修めさせるとは、我は仏の教えによって懺悔し、還って懺悔をもって他を教え、重ね重ね尽きることのない燈を燃やし、化導が化導を絶やさないことです。文は三つの意に分かれます:初めに懺悔を説こうと欲すること、次に正しく懺悔を説くこと、三に懺悔を説き終えたことです。「千劫」とは、仮に多きをもって懺悔の力の大きさを顕わすだけです。譬えば悪人が罪を山のように積み、王難を抜くことができれば、尚半国を償うに分かつ、どうしてその前の過ちを問うことがありましょうか。千劫の逆罪を造ったと説くのは、雖も重厚であっても、法性の王を抜き、如来蔵の中から顕れて法身を成じるならば、大覚は朗然として超昇自在であり、寧ろ五無間業に縛られることがありましょうか。
「我當安止」以下の二十五行半は、自ら法供養を修めることです。文は二つに分かれます:初めの五行は自ら修行すること、後の二十行半は自ら懺悔を修めることです。前に自ら懺悔したのに、今どうしてまた重ねるのでしょうか。譬えば金師が、初め習学してから皓首(白髪頭)に至るまで、互いに焼き互いに打ち、器が成って初めて止むようなものです。修行は智の焼くことに譬え、懺悔は断の打つことに譬え、智断が極まって初めて止みます。重ねて説いても咎はありません。前は自ら行う門であり、今は法供養の門であり、異なるのです。
自ら修行することはさらに三つに分かれます:初めの一句が標章であり、「我當安止」がこれです;次が因を修めることであり、十地がこれです;次が果を成すことであり、菩提がこれです。「珍寶」とは、十地の因は貴ぶべきであり、諸地は即ち珍寶です。「脚足」とは、十地は果家の基本であるので、脚足と言います。また十度(十波羅蜜)は十地の脚足であり、余りの功德に対して修めないわけではありませんが、力に随い分に随い、正しく檀(布施)を初地の足とします。檀の足が満てば初地に入り得、乃至智度の足が満てば十地に入り得ます。故に十度を十地の脚足とします。果の中には総じて果の満ちることを明らかにし、別々に果の満ちることを明らかにします。文に知ることができます。「功德光明」とは、果上の二種の荘厳です。「令衆生度海」とは、即ち果上で法輪を転ずることです。
「諸佛世尊」以下の二十行半は、自ら懺悔を修めることを明らかにします。文は二つに分かれます:初めの一行は仏に請うこと、後の十九
「諸仏世尊 我が依止する所」より下の二十一行の偈は、第三の称嘆である。順序を論ずれば、先の財施と法施による供養は身と意によるものであり、身と意による供養はまだ十分に備わっていないため、今さらに口で称嘆するのである。法門として見れば、先は供養の法門であり、今は念仏三昧の法門である。文は三つに分けられる。初めの一行は標章の称嘆、次の十九行は正しい称嘆、三つ目の一行は結びの称嘆である。
「諸仏」と標するのは、横に十方、縦に三世を指し、事相としては報身と応身、理としては法身を意味する。言葉は簡潔ながら意味は広く、標章の巧みさである。「我が依止する所」とは、法性に依止し、一体三仏を指す。「仏海」とは、四つの眼が仏眼に入り、十の智が如実智に入り、すべて本来の名を失い、ただ仏眼・仏智と称されることである。物が石蜜に投じられ、流れが海に合するように、すべて甘くも塩辛くもなる。法性の三仏は一切の法を摂するゆえに、仏海と名づけられるのである。
正しい称嘆は二つに分けられる。初めの十六行は言葉による称嘆、後の三行は言葉を絶した称嘆である。言葉による称嘆もまた二つに分けられる。初めの一行は略称・略況、次の十五行は広称・広況である。略称とは、諸々の相好の中から金色を略して称えることである。『大智度論』では、即時の鉄を即時の金に比べ、即時の金を海の金に比べ、海の金を龍の金に比べ、龍の金を閻浮洲の金に比べ、閻浮洲の金を四天王の金に比べ、このように転々と比べて第六天の金に至り、第六天の金を仏身の金色に比べると、第六天の金は鉄のようであるという。また、仏の金光は徹して照らし、壁や障りがあっても影がない。仏が城に入るとき、光を放って地を照らすと、一人の女人が低頭礼拝し、金の釵が地に落ちたが、ただ晃々として見え、何が地で何が釵かわからなかった。仏が過ぎ去って光が消えてから、初めて金の釵を見たという。しかし金色の身は衆相の依る所であり、ただ金色を挙げるゆえに、これは衆相好を総じて称えていると知るのである。金には四つの意味がある。堅くて壊れないのは常に譬え、得る者が富むのは楽に譬え、体に瑕穢がないのは浄に譬え、色が妙に晃曜するのは我に譬える。諸徳の中でも四徳が総体である。「須弥の如し」というのは、須弥山が四宝で成るように、仏身は四徳を具足しているからであり、総じて況えていると知るのである。
広称・広況は、文として二つに分けられる。初めの十二行半は広称、次の二行半は広況である。広称はさらに四つに分かれる。「其の色無上なり」より下の二行は、金色の無上を広く称える。無上とは我徳である。「善く浄くして垢無し」より下の三行は、仏の色の無垢を広く称える。無垢とは浄徳である。「功徳巍巍たり」より下の三行半は、仏の色の安住を広く称える。安住とは常徳である。「三有の中に」より下の四行は、仏の色が苦毒を除くことを広く称える。すなわち楽徳である。「大海水の如し」より下の二行半は、広く況える。文は二つに分けられる。初めの二行は広況、後の半行は譬えを合わせる。仏の功徳の海は、思惟によって知ることができず、言葉によって尽くすことができない。心行の処滅し、言語の道断つとは、この義である。海水は知り難いが、まして常徳はなおさらである。地の塵は知り難いが、まして浄徳はなおさらである。山の斤は知り難いが、まして我徳はなおさらである。空の辺は知り難いが、まして楽徳はなおさらである。「諸仏もまたしかり」より下は、譬えを合わせるのである。
「一切有心有らんもの」より下の三行は、言葉を絶した称嘆である。文は二つに分けられる。初めの一行半は正しく言葉を絶した称嘆、次の一行半は譬えを引き合いにして合わせる。一切の有心は知ることができない、これが思惟を絶することである。思惟がすでに絶たれれば、口で何を宣べようか。すなわち言葉を絶することである。さらに譬えを引き合いにして合わせるのは、文に見える通りである。
「相好荘厳して」より下の一行は、総結である。相とは、一切の相を結ぶ。好とは、一切の好を結ぶ。荘厳とは、一々の相、一々の好の中に皆、衆徳を具して以て荘厳と為すのである。
「我は善業の諸因縁をもって」以下五十一行半の偈は、第四の「発願」である。修行に願がなければ、牛に御者がいないように、どこにも到達できない。絵の具に膠がなく、陶器が焼かれず、水に映る月のようである。だから願をもって行を支える。これはまた、退転の罪を懺悔することでもある。文は二つに分かれる。初めの四十七行半は発願を明らかにし、次の四行は願に随喜することを述べる。初めの願はさらに二つに分かれる。初めの九行は自らの発願、次の三十八行半は他者のための発願である。自らの願もまた二つに分かれる。初めの四行は果の満足を願い、次の五行は因の円満を願う。果の満足の願はさらに四つに分かれる。初めの一行は仏道を成じることを願い、これが意輪の満足である。次の一行は説法を願い、これが口輪の満足である。次の一行は魔を摧破することを願い、これが身輪の満足である。次の一行は寿命を久しく保ち衆生を利益することを願い、これが慈悲の満足である。因の円満の願もまた四つに分かれる。初めの一行は六波羅蜜を具えることを願い、有為の功徳が円満である。次の一行は無為の功徳の円満を願う。次の二行は宿命を念じ仏を憶うことが円満であることを願う。次の一行は仏に値遇することを願う。他者のための発願は、文が二つに分かれる。前の八行半は薬樹王の身となって大悲をもって苦を抜くことを願い、後の三十行は宝珠王の身となって大慈をもって楽を与えることを願う。苦を抜くことは、さらに四つに分かれる。初めの一行は総じて衆生の苦を抜く。次の一行は根の不具足の苦を抜く。次の二行は病苦を抜く。次の四行半は王難の苦を抜く。楽を与えることは、さらに三つに分かれる。初めの十六行半は世間の果報としての楽を与える。次の九行半は出世の因としての楽を与える。後の四行は結びとなる。前文の大悲による苦の抜き取りは、根の不具足な者を具足させるものである。今の大慈による楽の与えは、見聞聡明で心身暢悦の楽を与えるものである。諸根についての言葉は同じでも、与えることと抜き取ることには少し違いがある。「願わくは諸の衆生、常に供養を得んことを」以下の九行半は、出世の因としての楽を与える。文は二つに分かれる。初めの三行半は修行の外縁が具わるようにし、次の六行は修行の内因が具わるようにする。外縁はさらに二つに分かれる。初めの二行は三宝に値遇すること、次の一行半は八難を離れることである。人の縁はさまざまで、仏に値遇しても難が除かれない場合もあれば、難が除かれても仏に値遇しない場合もある。今はその両方が具わることを願う。内因はさらに二つに分かれる。半行は尊貴な家に生まれること、五行半は財宝に富むことである。人の因もさまざまで、財は多くても卑賤な場合もあれば、尊貴でも貧窮な場合もある。因が具足しないので、今はその両方が具わるようにする。女性には五つの障りがあるが、その苦がないことを願う。「若し我現在において」以下の四行は、自他の誓願を結びとする。前の二行は自らを結び、後の二行は他者を結ぶ。「若し此の閻浮において」以下の四行は、願に随喜することを述べる。随喜とは、他者の善を修することを慶ぶことである。これはまた、嫉妬の罪を懺悔することでもある。文は二つに分かれる。初めの二行は他者に随喜し、後の二行は自らに随喜する。
「もし敬礼するものがあれば」以下、九行の偈頌は第五の結成である。文は三つに分けられる。初めの二行は悪を断つことを結成し、ゆえに「六十劫の罪を超える」とある。次の四行半は善を生じることを結成し、ゆえに「国王・大臣の恭敬するところとなる」とある。後の二行半は仏に値うことの多いことを結成し、善知識については別に説かれていないが、仏が自らこれを兼ねている。