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金光明経文句 (金光明經文句)


金光明經文句卷第二

金光明経文句 巻第二

隋天台智者大師說

隋の天台智者大師の説

門人灌頂錄

門人灌頂録

報障,如上可解。煩惱與業云何?數人云:數起而輕名煩惱,數起而重名為業。天台師云:任運常有是煩惱,卒起決定心發動身口、必牽來報者是業。若爾、惡星災異都不關心,云何是業障?此乃外相表業將起,是業責報之相,即得是業障也。若煩惱業轉,報未必轉;若報轉業,煩惱必轉。通論,見思煩惱皆有愁憂恐怖;別論,愁憂屬見煩惱,恐怖屬愛煩惱。今不具記(云云)。

報障については、上記のように理解できます。では、煩悩と業とは何でしょうか?

ある教えでは、頻繁に起こるが軽いものを煩悩と呼び、頻繁に起こるが重いものを業と呼びます。

天台大師はこう説かれています。 「自然に常に起こるのが煩悩であり、突然に強い決意が起こって身や口を動かし、必ず来世の報いを引き寄せるのが業である」

では、悪い星の動きや災いの兆しは、まったく関係ないのでしょうか?どうしてこれが業障となるのでしょう? これらは外に現れた相であり、業が起ころうとしていること、業が報いを求める相を示しているのです。それゆえ、これも業障と言えます。

もし煩悩や業が変化しても、報いは必ずしも変わるとは限りません。 しかし、報いが変われば、業と煩悩は必ず変化します。

一般的に言えば、見惑(誤った見解)と思惑(煩悩)の両方に、憂いや恐れがあります。 特に分けて言えば、憂いは見惑に属し、恐れは愛着の煩悩に属します。

今は詳しく記しません(云云)。

三、破業障者、從「惡星災異」下是也。業將感報故其相前現,相名表發,意在此也。惡星者,別有客星也。亦是五星二十八宿,一方有七,四七二十八也。違其度數、失其分野。若熒惑亂行、麻彗暴出。是客星也。災異者,風雨雪霜乖候等是也。眾邪者有三:人邪、鬼邪、法邪是也。蟲道者,毒鬼也。又言三毒是蟲也。變怪者,詭怪也,謂禽獸醜惡形聲等是也。惡夢者,心靈潛密,業現其中,夢見不適意事是也。夫諸業表報不出五罪,若惡星表亡身失命者,殺生業相也;惡星表神棄困窮者,竊盜業相也:惡星表親離幽厄者,淫罪業相也;惡星表誣枉讒謗者,妄語業相也;惡星表喪失財產者,飲酒業相也。其餘災異怪禽惡夢等,隨其時節各有所表,細心推詳,不出五罪之報。行者知解推之,何須折篾鑽龜問管公明邪?從「當淨洗浴」下,二、舉方法能空於惡也。前業相外彰,報對不久;內無方法,何以禳之?約其三業作三德之方,以事表理也。洗浴臭體,擬作法身;緘脣攝耳,擬聽般若;至心清淨,擬作解脫。前令洗浴內身,後更勸淨外服,內外相成爾。前但令聽,後誡令專聽,鄭重緘口爾。前令至心,後示至心之境,成其方法爾。夫人身本於不淨,蓮華本於淤泥,譬如栴檀生于伊蘭,世間現見也。今近因三業規矩、遠成三德妙義,可不信哉?洗浴法身能禳報障,攝耳緘口能禳煩惱障,至心能禳業障(云云)。從「是經威德」下,四、結成也。能悉消除者,明三障轉也。今其寂滅者,三德成也。寂滅秖是涅槃,涅槃秖是三德。前三業方法既成,三障理數應轉。三障既其已轉,理數成於三德,報障轉成法身德、煩惱障轉成般若德、業障轉成解脫德。前寄事相,將淺以表深;後明寂滅,將深以結淺。經文繡密,見之者寡(云云)。「護世四王」下,敘流通中品,皆如上說。

三、業障を破る者、「悪星災異」以下がこれである。業が報いを感ずるゆえ、その相が前に現れる。相は表れを示すもので、意味はここにある。悪星とは、別に客星がある。また、五星二十八宿もこれに含まれる。一方に七つずつ、四七で二十八となる。その度数に違い、その分野を失う。もし熒惑が乱れ行き、彗星が暴れ出るなら、これが客星である。災異とは、風雨雪霜が時節にそむくなどがこれである。衆邪には三つある:人邪、鬼邪、法邪である。虫道とは、毒鬼である。また、三毒が虫であるともいう。変怪とは、奇怪なもので、禽獣の醜悪な形や声などがこれである。悪夢とは、心の奥深くに潜む業がその中に現れ、不適意な事を夢に見るのがこれである。

さて、諸々の業が報いを表すのは五つの罪を出ない。もし悪星が身を亡ぼし命を失うことを表すなら、殺生の業の相である。悪星が神に見捨てられ困窮することを表すなら、窃盗の業の相である。悪星が親から離れ幽厄にあることを表すなら、淫罪の業の相である。悪星が誣枉や讒謗を表すなら、妄語の業の相である。悪星が財産を喪失することを表すなら、飲酒の業の相である。その他の災異、怪しい禽獣、悪夢などは、それぞれの時節に応じて表すところがあり、細心に推し詳らかにすれば、五つの罪の報いを出ない。行者はこれを知り解して推し量るのであって、どうして筮竹を折り亀甲を鑽って管公明に問う必要があろうか。

「当に浄く洗浴すべし」以下、二つに、方法を挙げて悪を空ずる所以を示す。前に業の相が外に顕れ、報いの対するは久しからず。内に方法なければ、どうしてこれを禳(はら)おうか。三業に約して三徳の方を作り、事をもって理を表すのである。臭い体を洗浴するのは、法身にならんと擬する。唇を緘(と)じて耳を摂(おさ)めるのは、般若を聞かんと擬する。至心清浄なるは、解脱を作さんと擬する。前に洗浴して内身を清めることを命じ、後にさらに外服を浄めることを勧めるのは、内外相い成すためである。前にただ聞くことを命じ、後に専ら聞くことを戒めて口を緘むのは、鄭重にするためである。前に至心を命じ、後に至心の境を示すのは、その方法を成すためである。

そもそも人身は不浄に本づき、蓮華は淤泥に本づく。たとえば栴檀が伊蘭に生ずるがごとく、世間に現に見えるところである。今、近くは三業の規矩によって、遠くは三徳の妙義を成す。どうして信じられないことがあろうか。洗浴して法身を成せば報障を禳(はら)うことができ、耳を摂め口を緘めば煩悩障を禳うことができ、至心であれば業障を禳うことができる(云云)。

「是の経の威徳」以下、四つに、結びとして成す。能く悉く消除するとは、三障が転ずることを明かす。今その寂滅を得るとは、三徳が成ることを示す。寂滅はただ涅槃であり、涅槃はただ三徳である。前に三業の方法が既に成り、三障は理の数として転ずべきである。三障が既に転じたならば、理の数として三徳を成す。報障が転じて法身徳となり、煩悩障が転じて般若徳となり、業障が転じて解脱徳となる。前に事相を寄せて浅きをもって深きを表し、後に寂滅を明かして深きをもって浅きを結ぶ。経文は繊密であり、これを見る者は少ない(云云)。

「護世の四王」以下、流通の中品を叙し、皆上に説くがごとし。

釋壽量品

寿量品

佛本無身無壽亦無於量,隨順世間而論三身,亦隨順世間而論三壽量。法身者,師軌法性,還以法性為身。此身非色質亦非心智,非陰界入之所攝持,彊指法性為法身爾。法性壽者,非報得命根亦無連持,彊指不遷不變名之為壽。此壽非長量亦非短量,無延無促,彊指法界同虛空量。此即非身之身、無壽之壽、不量之量也。報身者,修行之所感也。《法華》云「久修業所得」,《涅槃》云「大般涅槃修道得故,如如智照如如境,菩提智慧與法性相應相冥。」相應者,如函蓋相應也。相冥者,如水乳相冥也。法身非身非不身,智既應冥亦非身非不身,彊名此智為報身也。法壽非常非無常,智既應冥亦非常非無常,彊名常為壽也。法既非量非無量,智既應冥亦非量非無量,彊名無量為量也。應身者,應同物身為身也,應同連持為壽也,應同長短為量也。智與體冥能起大用,如水銀和真金能塗諸色像。功德和法身處處應現往,能為身為非身、能為常壽為無常壽、能為無量能為有量。有量有二義:一為無量之量、二為有量之量。如七百阿僧祇及八十等,是有量之量。如山斤海滴,實有齊限,凡夫所不知;阿彌陀實有期限,人天莫數,此是有量之無量。應佛皆為兩量,逐物隨緣,參差長短。然此三身、三壽、三量不可並別一異,則乖法體;即一而三、即三而一乃會玄文。故下文云「如深法性,即於此典金光明中而得見我釋迦牟尼」,即其義也。但信相偏疑應身之有量,四佛偏舉應佛之無量斷其有量,迹疑既除,深達報法。若從信相所疑,應言壽有量;若從四佛釋疑,應言壽無量。而今不道壽有量、不道壽無量,直言壽量者,意欲圓論三佛之壽量,故不偏題取意為釋。若從義便,正是報身之壽量。何故取此?報身上冥下應,上冥法性即非量非無量,下應機緣能量能無量。量疑牽無量之答,即達於圓。經家從其生圓解而題品,舉一而蔽諸。從此義故,題為壽量品。又一時重解,〈壽量品〉亦作三重:一玄義、二引證、三還源。

仏には本来、身もなく寿命もなく、また量もない。世間に順応して三身を論じ、また世間に順応して三種の寿命の量を論じるのである。法身とは、法性を師とし軌範とし、その法性を以て身とするものである。この身は色や質ではなく、また心や知でもなく、五陰・十八界・十二処によって保たれるものではない。強いて法性を指して法身と呼ぶのである。法性の寿命とは、報いによって得られる命の根元ではなく、また連続して保たれるものでもない。強いて移り変わらず変化しないことを指して寿命と呼ぶのである。この寿命は長い量でも短い量でもなく、延びることも縮むこともない。強いて法界が虚空と同じ量であることを指すのである。これがすなわち、身なき身、寿命なき寿命、量なき量である。

報身とは、修行によって感得されるものである。『法華経』には「久しく業を修めて得るところ」とあり、『涅槃経』には「大般涅槃は修道によって得るが故に、如如の智が如如の境を照らし、菩提の智慧が法性と相応し相冥する」とある。相応とは、函と蓋がぴったり合うようなものである。相冥とは、水と乳が混ざり合うようなものである。法身は身でもなく、身でないわけでもない。智慧が相応し相冥すれば、これまた身でもなく、身でないわけでもない。強いてこの智慧を報身と名づけるのである。法の寿命は常でもなく、無常でもない。智慧が相応し相冥すれば、これまた常でもなく、無常でもない。強いて常を寿命と名づけるのである。法は量でもなく、無量でもない。智慧が相応し相冥すれば、これまた量でもなく、無量でもない。強いて無量を量と名づけるのである。

応身とは、衆生の身に応じて身と成り、衆生の連続する命に応じて寿命と成り、衆生の長短に応じて量と成るものである。智慧が本体と冥合すれば、大いなる作用を起こすことができる。水銀と純金を混ぜ合わせて様々な色や形を塗り分けるように、功徳が法身と和合すれば、あらゆる所に応現して現れる。身となることもでき、身でなくなることもでき、常の寿命となることもでき、無常の寿命となることもでき、無量となることもでき、有量となることもできる。有量には二つの意味がある。一つは無量の量、もう一つは有量の量である。例えば七百阿僧祇や八十などは、有量の量である。山の重さや海の滴のように、実際には限りがあるが、凡夫には知り得ない。阿弥陀仏にも実際には期限があるが、人や天は数えることができない。これは有量の無量である。応身の仏はすべてこの二つの量を持ち、衆生に応じ、縁に随って、長短様々である。

しかし、この三身・三寿・三量は、並べて別々のものと見なすことも、一つであると見なすこともできない。そうすれば法の本体に背くことになる。一でありながら三であり、三でありながら一であることを悟って初めて、深遠な教えに通じるのである。故に下文には「深遠なる法性の如く、即ちこの典『金光明経』の中において、我が釈迦牟尼を見ることを得る」とある。これがその意味である。

ただ、信相菩薩は応身に量があることを偏って疑い、四仏は応身の仏に無量であることを偏って挙げて、その有量の疑いを断った。表面的な疑いが除かれたならば、深く報身と法身に通達するのである。もし信相菩薩の疑いに従えば、寿命は有量であると言うべきである。もし四仏の疑いを解くことに従えば、寿命は無量であると言うべきである。しかし今、寿命は有量であるとも、無量であるとも言わず、ただ「寿量」と言うのは、三身の仏の寿命の量を円満に論じようとする意図があり、偏った題名を取らずに意味を解釈するためである。もし義の便に従えば、まさに報身の寿命の量である。なぜこれを取るのか。報身は上は法性と冥合し、下は衆生に応じる。上は法性と冥合すれば、量でもなく無量でもない。下は機縁に応じれば、量ともなり無量ともなる。量についての疑いが無量についての答えを引き出し、円満な理解に至るのである。経の編集者は、この円満な理解に基づいて題名を定め、一つを挙げてすべてを包括したのである。この義によって、題して「寿量品」としたのである。

また、一時に重ねて解釈すれば、『寿量品』もまた三重に分けられる。一は玄義、二は引証、三は還源である。

玄義者,壽者命也,謂報得命根連持不斷名之為壽,延促期數名之為量,故言壽量也。此釋應佛因緣之壽量也。又壽者受也,境智和合共相盛受。謂無分別智盛受無分別境,無分別境盛受無分別智,如函大蓋大,故壽是受義也。量者相應也,境智相應故言量。此釋報佛之壽量也。又壽者久也,常不變易稱之為久。量者銓量也,常久之壽非多數、非少數,非相應盡知、非相應不盡知,非可說、非不可說,無以名之,彊以銓量說其長久。此釋法身之壽量也。初番為二:一有量量。如釋迦之壽,方八十是也。二量無量。如彌陀之壽,實是有量,人天所不能測,故言量無量也。此量無量皆應佛所為也。第二番亦二義。佛以如如智稱如如境,境無分別,智亦無分別;若境稱於智,智有分別,境亦有分別。此知與不知,皆報佛所明也。第三番亦二義:一者深寂不可說、二以慈悲方便亦可得說。此可說不可說,皆法佛之法也。

玄義とは、寿とは命であり、報いとして得た命の根が連なり持続して絶えることがないことを寿と呼び、延び縮みする期間の数を量と呼ぶ。ゆえに寿量というのである。これは応身仏の因縁による寿量を解釈したものである。

また、寿とは受けることである。境(対象)と智(智慧)が和合し、互いに盛んに受け容れること。つまり無分別の智が無分別の境を受け容れ、無分別の境が無分別の智を受け容れる。箱が大きければ蓋も大きいように、それゆえ寿は受けるという意味なのである。量とは相応することであり、境と智が相応するゆえに量という。これは報身仏の寿量を解釈したものである。

さらに、寿とは久しいことであり、常に変易しないことを久しいと称する。量とははかり知ることである。常久の寿は、多い数でもなく少ない数でもなく、相応してすべて知られるものでもなく、相応してすべて知られないものでもなく、説くことができるものでもなく、説くことができないものでもない。名づけるすべがなく、やむなくはかり知ってその長久を説くのである。これは法身の寿量を解釈したものである。

第一の解釈は二つに分かれる。一つは有量の量である。釈迦の寿命が八十歳であるようなものだ。二つは量無量である。阿弥陀仏の寿命は実際には有量であるが、人や天の測り知ることができないゆえに、量無量というのである。この量無量はいずれも応身仏のなすところである。

第二の解釈も二つの意味がある。仏は如如の智をもって如如の境に相応する。境に分別がなければ、智にも分別がない。もし境が智に相応するならば、智に分別があれば、境にも分別がある。この知ると知らざるは、いずれも報身仏の明らかにするところである。

第三の解釈も二つの意味がある。一つは深く寂滅して説くことができないこと、二つは慈悲の方便によっても説くことができることである。この説くことができることと説くことができないことは、いずれも法身仏の法である。

二、引證者,方八十年證有量也。諸天世人八部之眾無能思算,山斤海滴不可數知,此證量無量也。虛空分界不可齊限,證境無分別也。又唯除如來證智可分別也。又下文去,智淵無邊法水具足,亦是證智也。壽不可計,此證不可說也。將欲宣暢釋迦如來所得壽命,此證慈悲可說也。又聞是四佛宣說如來壽命無量,證大悲可說也。新本明婆羅門求佛舍利如粟大,求六天報,即證有量也。王子說金光明難思難解福報無邊,福報無邊是證量無量,難思難解即總證智境不可說等(云云)。

二、引証について、八十歳で悟りを得たというのは、悟りに限りがあることを示しています。諸天や世人、八部の衆生たちはその悟りの深さを思いはかることもできず、山の重さや海の滴りを数えるように、悟りの量は計り知れないことを示しています。悟りの量は無限なのです。虚空の境界は限りなく広がり、悟りの境地には分別がないことを示しています。また、如来の悟りの智慧だけがそれを分別できるのです。さらに、後の文では、智慧の淵は果てしなく、法の水が満ちているとあり、これも悟りの智慧を示しています。寿命は計り知れず、これは悟りが言葉で言い表せないことを示しています。しかし、釈迦如来が得られた寿命を説き明かそうとすることは、悟りの慈悲が言葉で伝えられることを示しています。また、四仏が如来の寿命は無量であると説くのを聞くことは、大悲が説かれることを示しています。新しい経典では、婆羅門が粟粒ほどの仏舎利を求め、六天の果報を願ったことが記されており、これは悟りに限りがあることを示しています。王子が金光明経は思いはかれず、理解しがたく、福報は限りないと説いたことは、福報の限りなさが悟りの量の無限さを示し、思いはかれず理解しがたいということが、悟りの智慧の境地が言葉で言い表せないことなどを総括的に示しています(云云)。

三、還源者,亦云復宗。釋此壽量雖作三身六義,勿作異解,秖是經題金光明義爾。初番量無量者,秖是明義。以其明故,大小長短、延促數量悉現明中,還是明義爾。第二番智境函蓋體解相應,色大故般若亦大,以法常故諸佛亦常,還是光義也。第三番可說不可說,常樂我淨說滿法界,法性無所益,都無一言;法性無所損,還是金義。夫解一則千從,迷一則萬惑,即此義也。既是兩時之聞,兼而錄之(云云)。此品正說,而序文未盡,分別如上。

三、還源とは、また復宗とも言う。この寿量について解釈する際、三身六義という三つの側面に分けてはいるが、別々のものとして理解してはならない。ただ経題の「金光明」という意味そのものなのである。

第一の側面である「量と無量」とは、ただ「明」の意味を表している。その明るさゆえに、大小・長短・延び縮み・数量といったすべての相が明の中に現れる。これもまた「明」の意味にほかならない。

第二の側面である「智と境が互いに含み合い、一体となって相応じ合うこと」とは、色(現象)が大きいから般若(智慧)も大きく、法が常住であるから諸仏もまた常住である。これもまた「光」の意味なのである。

第三の側面である「説くべきものと説くべからざるもの」とは、常楽我浄の教えが法界に満ちていても、法性には何も増えることがなく、一言も加わらない。また法性には何も損なわれることもない。これが「金」の意味である。

一つの理を解すれば千の事柄が従い、一つの理に迷えば万の惑いが生じる。まさにこの意味なのである。

これは二度にわたって聞いたことを、合わせて記録したものである(云云)。この品は正説であるが、序文では十分に述べ尽くせなかったので、以上のように分別して示した。

從「王舍城」下是第三疑念序。文為二:一出人、二明疑。出人為四:一出處、二明位、三出名、四歎德。處如文。菩薩者,菩名道、薩名心,自行此道復能化人,故言摩訶薩,依勝行立勝位也。信相者,信家之相在似道中,別判三十心,圓判鐵輪位。下文云「見有一人似婆羅門,以枹擊鼓。」鼓是法身,擊是機動。似位機興,知非真擊。又真似之位,地地相隨無位不有。如普賢修普賢行滿,位隣尊極,此似則高。信相稱似道者,未敢判其高下也。難者言,若同普賢言似者,何故有疑?此亦非妨。菩薩為疑者,作發起人爾。又佛地未了,疑無所嫌。《法華》中補處彌勒亦復懷疑,《大集》中有生疑菩薩。於菩提未了,菩提為我作名,名為生疑。難者言,見諦已斷疑,十地云何疑?答言:見諦斷通疑,十地有別疑也。觀解者,心王名王,五陰名舍。觀此五陰空寂,空寂即涅槃,涅槃能防非禦敵,呼之為城。初心後心常觀涅槃行道,故是住處也。歎德文為二:外供養佛、內種善根。此菩薩植善既深,多值諸佛,作高位解釋,亦應無媿色(云云)。供養有二義:一財供養,可解;二法供養。佛說百千法門,隨而修學,名法供養。觀心解者,一念覺了心名為佛。無量功德心資此覺心令轉明淨,名供養佛。如膏資火、如食益身、如禪發慧,皆供養義也。種善根者,法性名地,觀法性智名種子,常以觀觀名下種,久習不退名種久,五善根生名增長。增長由風動日照雨潤,漸增茂好。風譬佛身輪,日譬佛意輪,雨譬佛口輪,值佛三事,能大利益。《楞嚴》「般若若增,法性轉顯。法性若顯,定慧倍明。」植種值佛,二義相成,舉此一雙歎菩薩德也。

「王舍城」から下が第三の疑念序です。本文は二つに分かれます:一に人を挙げ、二に疑いを明らかにします。人を挙げる部分は四つ:一に住処、二に位を明らかにする、三に名を挙げる、四に徳を称える。住処は本文の通りです。

菩薩とは、菩は道、薩は心を意味し、自らこの道を行じ、さらに人を教化できるので、摩訶薩と言います。優れた行いに基づいて優れた位が立てられるのです。

信相とは、信の家の相が似道の中にあり、別教では三十心、円教では鉄輪位と判じます。下文に「一人の婆羅門に似たる者ありて、鼓を撃つを見る」とあります。鼓は法身、撃つことは機が動くことです。似位において機が興り、真の撃ち方ではないと知るのです。また、真と似の位は、地々に相随い、位なきところはありません。普賢が普賢行を修めて満ち、位が尊極に隣れば、この似位も高くなります。信相が似道と称されるのは、その高下を敢えて判じないからです。

難じる者が言うには、もし普賢と同じく似と言うなら、なぜ疑いがあるのか、と。これも妨げではありません。菩薩が疑うのは、発起の者となるためです。また、仏の境地が未だ明らかでなければ、疑うことを嫌う必要はありません。『法華経』では補処の弥勒もまた疑いを抱き、『大集経』には生疑菩薩がいます。菩提について未だ明らかでなければ、菩提が私のために名を作り、生疑と名付けるのです。

難じる者が言うには、見諦はすでに疑いを断ったのに、十地になぜ疑うのか、と。答えて言う:見諦で断るのは通疑、十地には別疑があるのです。

観解としては、心王を王と名付け、五陰を舎と名付けます。この五陰が空寂であると観じ、空寂とはすなわち涅槃であり、涅槃は非を防ぎ敵を禦ぐことができるので、城と呼ぶのです。初心も後心も常に涅槃を観じて道を行じるので、住処となるのです。

徳を称える文は二つ:外に仏を供養し、内に善根を種づける。この菩薩は善を植えることが深く、多くの諸仏に値遇し、高位の解釈をなしても、やはり恥じる色はないでしょう(云云)。

供養には二つの意味があります:一に財供養、これは理解しやすい。二に法供養。仏が百千の法門を説き、それに随って修学することを法供養と言います。観心解としては、一念の覚了する心を仏と名付けます。無量の功徳心がこの覚心を資け、ますます明浄に転じさせることを、仏を供養すると言います。膏が火を資け、食が身を益し、禅が慧を発するがごとく、皆供養の意味です。

善根を種づけるとは、法性を地と名付け、法性を観じる智を種子と名付けます。常に観をもって観じることを下種と言い、久しく習って退かないことを種久と言い、五善根が生じることを増長と言います。増長は風が動き日が照り雨が潤すことによって、次第に茂りよくなります。風は仏の身輪に譬え、日は仏の意輪に譬え、雨は仏の口輪に譬えられます。仏の三事に値遇すれば、大いなる利益を得ることができます。『楞厳経』に「般若もし増せば、法性転た顕れん。法性もし顕れば、定慧倍して明らかならん」と。種を植え仏に値遇すること、この二つの意味は互いに成し合い、この一対を挙げて菩薩の徳を称えるのです。

從「是信相」下,正明疑念序。又為二:初疑之由、次正生疑。由有遠近,遠由三月唱入涅槃、近由敘述,若有聞者則能思惟無上之義。又云:由乎本誓,擊動生疑。何因何緣者,通論三種皆名因。而此文既略,緣了相資共能顯正,正當於因、緣了當緣,正因常恒壽命無量,緣能顯理境常智亦常。此因此緣皆非八十之因緣?今方八十,是何因何緣?是故生疑也。方八十者,世壽有三品,下方四十、中方八十、上方百二十。下方少夭,上方太老,中方不少不老表常。又十二因緣第八名愛支,八十滅者,表愛已盡,入有餘無餘涅槃。愛盡無縛表我,涅槃表樂。又中方表中道,佛樂中道,中道表淨。為此義故,方八十年也。信相不作此解,是故生疑何因何緣也。從「復更念言」下,是正生疑。如佛所說者,此執教疑理。教詮止行二善,感壽則長。佛昔行因甚多,而今果壽極少,理教相違,不能不惑。若無此理,教為虛設;若其必然,長壽安在?是為執理而惑教也。有二因緣者,與前為異。前合止行同是緣了,今就止行自作因緣。十善中一一善皆具止行,不殺是止善、放生是行善,不盜是止善、施食是行善。今經舉不殺家之止善、不盜家之行善,互舉一邊共明止行。若備論者,一一皆有止行,止之與行須明也。今就一一各有因緣。夫命是眾生之所共惜,奪而害之居然大苦,宥而放之則為快樂。慈心是因,不畜殺具是緣,此是止善因緣也。夫食是依報,得之則命存,失之則壽殞。施心是因,施具是緣,此行善因緣也。不殺一條既爾,乃至不邪見亦復如是,總有止行二十善、四十因緣,此等因緣俱感長壽。佛之止行二善累高於山、積厚於地,云何今日八十而終?此約因果一途論止行二善,但作此解於義未允,今當更說。人天之因,以五戒十善,名之為命。三乘行人,以智慧為命。魔名殺者,若遮奪此事,即是斷人天命,若不遮奪名為止善,方便勸修名為行善。若破壞三藏法,名殺二乘人命,若不毀傷名為止善,方便勸修名為行善。若毀訾事檀乃至毀訾世智名斷六度菩薩命,若不障礙名為止善,方便勸修名為行善。若修體法斷貪恚癡是二乘命,若障不令修名斷二乘命,若不障者名為止善,方便勸修名為行善。非撥體空則斷通教菩薩命,若不障者即是止善,方便勸修即是行善。若毀訾漸次是斷別教菩薩命,不作障礙即是止善,方便勸修即是行善。若誹謗圓融即斷圓教菩薩命亦斷佛命,若不留難即是止善,方便勸修即是行善。圓人非但不壞諸法而隨一相,即殺諸法而隨一相,如仙豫大王害五百之短命、施十劫之長齡,如佛斷一切煩惱及習一切無有餘,此皆言逆而理順,非小行者所行。如上所論,一一法皆有止行二善,一一善皆有因緣。若得此意,歷諸法門浩然若海。故《大經》云「行檀波羅蜜得壽命長,菩薩行檀則施眾生無量壽命,乃至行般若得壽命長,菩薩行般若則施眾生無量壽命。」即其義也。而我世尊行無不圓、果無不滿,云何今日方八十年?次明施食者,百味甘漿等,依報食也。身肉骨髓者,正報食也。此皆事中施食爾。經言法食。法食者,世間法味、出世間法味、出世間上上法味。菩薩能為一切眾生作大施主,令未發心者迴邪入正,已入正者增長萌芽,如陰陽養卉、如父母鞠子多積繒綿令墮地不痛,授以五戒十善。已持五戒者,說三界火猛多所燒害、讚歎三乘無繫解脫。已入證者,毀訾小乘敗種焦穀,讚歎菩薩所行之道。設飢國人大王之膳,煩惱為薪、智慧為火,以是因緣成涅槃食,令諸弟子皆悉甘嗜。如是等一切法門悉名法食。一一法皆具止行二善,一一善具因具緣,此諸因緣感長壽果。而我世尊行無不圓、果無不滿,云何今日方八十年?觀心不殺者,無明為父、貪愛為母,若斷此者即成逆害。但觀無明即是明、愛即是淨,體達能所皆如虛空,是為止善。觀諸心數亦復如是,是名行善。能如是觀,獲得金剛常住之壽也。己身骨髓血肉者,此彼相望此為己身,智慧推之非己身也。如王子飼虎、尸毘貿鴿,皆捨父母遺體,非捨己身。己身者,法性實相是也。《釋論》云「持戒為皮、禪定為血、智慧為骨、微妙善心為髓。」為他說戒,戒能遮罪修福,無相最上。非持非犯尸波羅蜜者,是施己皮也。說諸禪定神通變化,不起滅定現諸威儀者,是施己血也。說無著妙慧,非智非愚亡泯清淨,終日說終日無說,其所說法皆悉到於一切智地者,是施己骨也。檀忍等,應是肉也。說甚深法性、諸佛行處不一不二,言語道斷心行處滅微妙中道者,是施己髓也。將此充足飢餓眾生,況餘飲食。餘飲食者,即是人天二乘戒皮,定血,慧骨,真諦之髓爾。《法華》云「於餘深法中,示教利喜者」,即其義也。如來往昔隨他意說無量無邊,隨自意說亦無量無邊,皆是長壽因緣,云何今日方八十歲也?從「大士如是至心念佛思是義時」,此一句結前開後。至心者,徹到心源、盡心實際,故言至心。觀心既然,觀佛亦爾,故言念佛。念佛不殺、施食與法性虛空等,如此之壽不應短也。是為結前。開後者,由作此觀,機動瑞興,故言開後也。

「是信相」以下から、正しく疑念の序を明かす。また二つに分ける。初めに疑いの由来、次に正しく疑いが生じる。由来には遠近があり、遠い由来は三月に涅槃に入ると唱えたこと、近い由来は叙述による。もし聞く者がいれば、無上の義を思惟することができる。また言う。本誓によって、疑いを生じさせる。何の因、何の縁によってか。通論すれば三種すべて因と名づける。しかしこの文はすでに略されている。縁と了は互いに助け合って正を顕す。正は因に当たり、縁と了は縁に当たる。正因は常恒で寿命は無量である。縁は理を顕す。境が常なら智もまた常である。この因とこの縁は、いずれも八十の因縁ではないのか。今まさに八十である。これは何の因、何の縁か。それゆえ疑いが生じるのである。

「方八十」とは、世の寿命には三品ある。下品は四十、中品は八十、上品は百二十である。下品は少なくて夭折し、上品はあまりに老い、中品は少なくもなく老いもせず、常を表す。また十二因縁の第八は愛支と名づける。八十で滅するとは、愛がすでに尽きたことを表し、有余・無余の涅槃に入る。愛が尽きて縛りがなければ我を表し、涅槃は楽を表す。また中品は中道を表す。仏は中道を楽しまれ、中道は浄を表す。この義のため、まさに八十年なのである。信相はこの解釈をせず、それゆえ何の因、何の縁かと疑いを生じるのである。

「復更念言」以下から、正しく疑いが生じる。「如佛所説」とは、教えに執着して理を疑うことである。教えは止行の二善を説き、寿命を感ずれば長くなる。仏は昔、因を行じることが甚だ多く、しかるに今、果の寿命は極めて少ない。理と教えが相違するので、惑わざるを得ない。もしこの理がなければ、教えは虚設である。もし必然ならば、長寿はどこにあるのか。これが理に執着して教えに惑うことである。

「有二因縁」とは、前と異なる。前は止行を合わせてともに縁と了とする。今は止行について自ら因縁とする。十善のうち、一々の善にすべて止行を具える。不殺は止善、放生は行善である。不盗は止善、施食は行善である。今の経は、不殺の家の止善と不盗の家の行善を挙げ、互いに一方を挙げてともに止行を明かす。もし備えて論ずれば、一々にすべて止行があり、止と行は明らかにすべきである。今、一々にそれぞれ因縁がある。命は衆生の共に惜しむところである。奪って害すればまさに大苦であり、許して放てばすなわち快樂となる。慈心が因であり、殺具を蓄えざることが縁である。これが止善の因縁である。食は依報であり、得れば命は存し、失えば寿は尽きる。施心が因であり、施具が縁である。これが行善の因縁である。不殺の一条がすでにそうであるように、乃至不邪見もまた同じである。総じて止行二十善、四十因縁があり、これらの因縁はともに長寿を感ずる。仏の止行二善は山よりも高く積み、地よりも厚い。どうして今日八十で終わるのか。これは因果一途について止行二善を論じたが、ただこの解釈をするだけでは義に允当しない。今、さらに説くべきである。

人天の因は、五戒十善をもって命と名づける。三乗の行人は、智慧をもって命とする。魔は殺者と名づける。もしこの事を遮り奪えば、すなわち人天の命を断つことである。もし遮り奪わざれば止善と名づけ、方便をもって勧め修するを行善と名づける。もし三蔵の法を破壊すれば、二乗の人の命を殺すと名づける。もし毀傷しなければ止善と名づけ、方便をもって勧め修するを行善と名づける。もし事檀を毀謗し、乃至世智を毀謗すれば、六度の菩薩の命を断つと名づける。もし障礙しなければ止善と名づけ、方便をもって勧め修するを行善と名づける。もし体法を修し、貪瞋痴を断てば、二乗の命である。もし修することを妨げなければ、二乗の命を断つと名づける。もし妨げなければ止善と名づけ、方便をもって勧め修するを行善と名づける。体空を撥無すれば、通教の菩薩の命を断つ。もし妨げなければすなわち止善であり、方便をもって勧め修するはすなわち行善である。もし漸次を毀謗すれば、別教の菩薩の命を断つ。障礙をなさなければすなわち止善であり、方便をもって勧め修するはすなわち行善である。もし円融を誹謗すれば、円教の菩薩の命を断ち、また仏の命をも断つ。もし留難しなければすなわち止善であり、方便をもって勧め修するはすなわち行善である。円人はただ諸法を壊さずして一相に随うのみならず、すなわち諸法を殺して一相に随う。仙豫大王が五百の短命を害して十劫の長齢を施したように、仏が一切の煩悩及び習気を断じて一切余すところなきように、これらはみな言葉は逆であっても理に順っている。小さき行者の行うところではない。上に論じたように、一々の法にすべて止行の二善があり、一々の善にすべて因縁がある。もしこの意を得れば、諸法門を歴て浩然として海のごとし。故に『大経』に「檀波羅蜜を行じて寿命長を得、菩薩檀を行ずればすなわち衆生に無量の寿命を施す。乃至般若を行じて寿命長を得、菩薩般若を行ずればすなわち衆生に無量の寿命を施す」とある。すなわちこの義である。しかるに我が世尊は行として円ならざるなく、果として満たされざるない。どうして今日まさに八十年なのか。

次に施食を明かす。百味甘漿などは、依報の食である。身肉骨髓は、正報の食である。これらはみな事中の施食である。経に法食と言う。法食とは、世間の法味、出世間の法味、出世間上上の法味である。菩薩は能く一切衆生のために大施主となり、未だ心を発さざる者には邪を廃して正に入らしめ、すでに正に入った者には萌芽を増長せしめる。陰陽が卉を養うがごとく、父母が子を鞠むがごとく、多く繒綿を積んで地に堕ちて痛まず、五戒十善を授ける。すでに五戒を持つ者には、三界の火猛く多く焼害することを説き、三乗の無繫解脱を讃歎する。すでに証に入った者には、小乗を毀謗して敗種焦穀とし、菩薩の行ずる道を讃歎する。飢えた国人大王の膳を設け、煩悩を薪とし、智慧を火として、この因縁をもって涅槃の食を成じ、諸弟子をして皆悉く甘嗜せしめる。このような一切の法門、悉く法食と名づける。一々の法にすべて止行の二善を具え、一々の善に因を具え縁を具える。これらの因縁は長寿の果を感ずる。しかるに我が世尊は行として円ならざるなく、果として満たされざるない。どうして今日まさに八十年なのか。

観心の不殺とは、無明を父とし、貪愛を母とする。もしこれを断ずればすなわち逆害となる。ただ無明を観ずればすなわち明であり、愛を観ずればすなわち浄である。能所を体達して皆虚空のごとし。これが止善である。諸の心数を観ずることもまた同じである。これを行善と名づける。能くこのように観ずれば、金剛常住の寿を得るのである。

己身の骨髓血肉とは、此彼相望してこれを己身とする。智慧をもって推せば己身ではない。王子が虎に飼われ、尸毘が鴿と貿うがごとく、皆父母の遺体を捨てるのであって、己身を捨てるのではない。己身とは、法性実相である。『釈論』に「持戒を皮とし、禅定を血とし、智慧を骨とし、微妙善心を髓とする」とある。他に戒を説く。戒は能く罪を遮り福を修し、無相最上である。持たず犯さざる尸波羅蜜は、己が皮を施すことである。諸の禅定神通変化を説き、滅定を起さずして諸の威儀を現ずることは、己が血を施すことである。無著の妙慧を説き、智ならず愚ならず亡泯清浄にして、終日説いて終日説かず、その説く法は皆悉く一切智地に到ることは、己が骨を施すことである。檀忍などは、おそらく肉であろう。甚深の法性、諸仏の行処、一ならず二ならず、言語道断心行処滅の微妙中道を説くことは、己が髄を施すことである。これをもって飢餓の衆生を充足せしめる。ましてや余の飲食においておや。余の飲食とは、すなわち人天二乗の戒皮、定血、慧骨、真諦の髄である。『法華』に「余の深法中において、示教利喜する」とある。すなわちこの義である。如来は往昔、他意に随って説くこと無量無辺、自意に随って説くこともまた無量無辺であり、皆長寿の因縁である。どうして今日まさに八十歳なのか。

「大士如是至心念佛思是義時」から、この一句は前を結び後を開く。至心とは、心源に徹到し、心の実際を尽くす。故に至心と言う。観心がすでにそうであるように、観仏もまた同じである。故に念佛と言う。佛を念じ、殺さず、食を施し、法性虚空と等しきこのような寿は、短いべきではない。これが前を結ぶことである。後を開くとは、この観を作すによって、機動き瑞興る。故に後を開くと言うのである。

從「其室自然」下,是第四現瑞序。瑞者密報,相者表發。密報四佛當臨此室為爾斷疑,表發增進常因感得常果也。問:佛作此瑞,信相福作?答:信相無機,佛亦不應;若無諸佛,機無所扣。機應相須,瑞以之興。問:眾緣感瑞?信相獨感?答:通由眾緣,別在信相。若瑞在靈山,可非其力;室中所見,豈不由之?譬張家降瑞,寧得王家受福?雖然,信相是發起之人,無容獨善。《法華》云「如為一人,眾多亦然。」就文為二:一現相由、二正現相。取結前開後之文為現瑞之由,從「其室自然」下為正現相也。正現相又二:一別現相、二總現相。從「其室自然」下是別現相,從「舉要言之」下是總現相。別相為十,表十地因成也。總相為一,表因成一果也。又別相表地地各各增益,總相表一地具諸地功德也。問:此經常果為宗,何得作相表因?答:此因是果家之因。因必成果,不乖宗也。問:前判信相是似位,後相則非其徵。若似同普賢,前相亦非其兆。答:一往云十地,一地之中皆有諸地功德表報利益,前後皆霑也。經家不定判位,秖可從容,不得剋斷也。別相有十者,一其室廣博、二其地寶嚴、三妙香氛氳、四高座涌出、五佛座華座、六放大光明、七雨諸天華、八作天妓樂、九皆受天樂、十根缺者具。此之十相表報十地功德,止可斐斖擬議,不得責其備悉。其室自然廣博表初歡喜者,此地初開過於凡聖,故以廣博表之。嚴淨瑠璃間錯表離垢地者,此地對戒,戒是諸行基檀,諸行莊嚴於戒,故以間錯表之。香氣表明地者,其地對忍,唯辱而忍增,如烟多則香盛,故以香表之。高座表炎地者,其地對精進,精進督出眾行,故以高座表之。佛坐其上表難勝者,其地對禪,禪有神通轉變大力,故以佛表之。光明表現前者,其地對般若,般若洞照,故以光明表之。天華表遠行者,其地對方便,方便善巧觸處嚴淨,故以天華表之。作樂表不動者,其地對力,力能利安一切如妓悅物,故以作妓表之。受樂表善慧者,其地對願,願滿則心喜,故以受樂表之。根具表法雲者,其地對智,因中眾行故智慧為首,智導諸行隨階而圓,故以根具表之(云云)。復次十相表一一地中具諸功德,且約初地釋之。其室自然廣博嚴事者,此相表初地智也。室者,以五陰為室。此陰非陰亦非非陰,不為陰非陰所作,亦不作陰非陰,故言自然。不得陰、不得非陰,二邊虛豁,故言廣博。非直空無二十五有、二種涅槃,亦有因中十力無畏種種功德而莊飾之,故言嚴事。嚴事即假智、廣博即空智、自然即中智,三智一心中具足,是故歡喜。天紺瑠璃雜廁間錯以成其地者,此相表初地所照境。天紺瑠璃瑩淨明徹,表真諦境;雜廁間錯種種莊嚴,表俗諦境;猶如如來所居淨土、至聖所居極尊之地,表中道第一義諦境;一地而三相、三相而一地,表一諦而三諦、三諦而一諦。有妙香氣過諸天香者,此相表初地慈悲功德,慈能與樂如香氛氳,悲能拔苦如香離臭,此慈悲竪高故言過諸天香,此慈悲橫闊故言遍滿。遍滿一切陰界入中,無不溥覆也。其室四面有四高座者,此相表初地四德。四德是祕密之藏,佛住其中如高座可坐,為坐諸佛也。有四如來者,此相表初地覺四德智,智與德冥如佛坐座也。放大光明者,此相表初地自行化他,照此土表自行、照他土表化他也。雨諸天華者,此相表初地四辯,華雨於空如辯詮於理也。作天妓樂者,此相表初地四攝,四攝攝物,如樂樂他也。受天快樂者,此相表初地法喜,法喜澄神,如受天樂。根缺具足者,此相表初地諸根互用,耳見眼聞,一根之中具足諸根之用也。初地功德佛辯所不能宣,略舉十相表其梗概爾。初地既然,一一地亦復如是。復次十相表初地自行化他功德,前五相表自行功德、後五相表化他功德。其室廣博表自行之般若,天紺瑠璃表自行之法身,有妙香氣表自行之解脫,高座華衣表自行之因成,佛坐座上表獲記成佛也。後五相表化他功德者,放光表意輪益物也,雨華表口輪益物也,作樂表身輪益物也,又表能令眾生轉煩惱障而受法喜之樂,根具表能令眾生轉報障也。初地既然,後一一地亦復如是。從「一切世間」下是總現相也。別相文廣意略,總相文略意廣。此表十地因成,一果究竟具足也。一切者,該十法界也。世間者,包三世間也。未曾有者,因中所無也。悉具現者,因圓理顯也。國土世間未曾有則實相滿,眾生世間未曾有則般若滿,五陰世間未曾有則解脫滿。舉要者,實相是要。實相既圓,何法不滿邪?

「その室は自然に」以下が、第四の瑞相を現す序文です。瑞とは密やかな報いであり、相とは表れとして発現することです。密やかな報いとは、四仏がこの室に臨んで疑いを断つことを示し、表れとしての発現とは、常なる因が常なる果を得ることを表します。

問:この瑞相は、仏が起こしたものですか、それとも信相の福徳によるものですか。 答:信相に機縁がなければ、仏も応じません。もし諸仏がなければ、機縁も呼び起こされません。機縁と応現が互いに必要とし合うからこそ、瑞相が起こるのです。

問:瑞相は衆縁によって感得されるものですか、それとも信相が独りで感得するものですか。 答:広くは衆縁によるものですが、特に信相に依るものです。もし瑞相が霊山にあるなら、彼の力によるものではないかもしれませんが、室の中に見えるものは、彼によらないと言えるでしょうか。譬えば、張家に瑞相が降っても、王家がその福を受けることはできません。とはいえ、信相は発起の人ですから、独り善がりではありえません。『法華経』に「一人のためであれば、多くの者もまた同様である」とあります。

本文は二つに分かれます。一は瑞相が現れる理由、二は正しく瑞相が現れることです。前文を結び後文を開く部分が瑞相の理由であり、「その室は自然に」以下が正しく瑞相が現れることです。

正しく瑞相が現れることもまた二つに分かれます。一は別々に現れる相、二は総じて現れる相です。「その室は自然に」以下が別々に現れる相であり、「要を挙げて言えば」以下が総じて現れる相です。別相は十あり、十地の因が成就することを表します。総相は一であり、因が一つの果を成就することを表します。また、別相は地々がそれぞれ増益することを表し、総相は一つの地に諸地の功徳が具わることを表します。

問:この経は常なる果を宗旨としているのに、どうして相が因を表すことができるのですか。 答:この因は果家の因です。因は必ず果を成すので、宗旨に背きません。

問:前に信相を相似の位と判じたなら、後の相はその兆しではないはずです。もし相似が普賢と同じなら、前の相もまたその兆しではないはずです。 答:一応十地と言いますが、一つの地の中に皆、諸地の功徳が具わり、報いの利益を表します。前後ともにその恩恵にあずかるのです。経家は位を定めて判じず、ただ寛容に従うべきで、厳密に断定すべきではありません。

別相が十あるとは、一にその室が広大であること、二にその地が宝で厳めしいこと、三に妙香が漂うこと、四に高座が湧き出ること、五に仏座と華座があること、六に大光明を放つこと、七に諸々の天華が降ること、八に天の伎楽が奏でられること、九に皆が天の楽しみを受けること、十に根の欠けた者が具足することです。この十の相は、十地の功徳を報いることを表します。ただおおまかに推し量るべきで、すべてを備えていることを責めてはなりません。

その室が自然に広大であることは、初歓喜地を表します。この地は初めて開かれ、凡夫と聖者を超えるので、広大さで表します。 瑠璃が厳浄で美しく交じり合うことは、離垢地を表します。この地は戒に対応し、戒は諸行の基礎です。諸行が戒を荘厳するので、交じり合いで表します。 香気は明地を表します。この地は忍に対応し、辱しめに耐えて忍が増すので、煙が多いほど香りが盛んなように、香りで表します。 高座は炎地を表します。この地は精進に対応し、精進が衆行を督励するので、高座で表します。 仏がその上に坐ることは、難勝地を表します。この地は禅に対応し、禅には神通変化の大力があるので、仏で表します。 光明は現前地を表します。この地は般若に対応し、般若は明らかに照らすので、光明で表します。 天華は遠行地を表します。この地は方便に対応し、方便は善巧で、触れるところを厳浄にするので、天華で表します。 伎楽を奏でることは、不動地を表します。この地は力に対応し、力は一切を利益安楽にすることができ、伎楽が物を喜ばせるように、伎楽を奏でることで表します。 楽しみを受けることは、善慧地を表します。この地は願に対応し、願が満たされれば心が喜ぶので、楽しみを受けることで表します。 根が具足することは、法雲地を表します。この地は智に対応し、因の中の衆行は智慧を首とし、智が諸行を導いて階位に従って円満となるので、根が具足することで表します(云云)。

また、十の相は一々の地の中に諸々の功徳が具わることを表します。初地について解釈してみましょう。 その室が自然に広大で厳めしいことは、この相が初地の智慧を表します。室とは、五陰を室とします。この陰は陰ではなく、また非陰でもありません。陰や非陰によって作られることもなく、また陰や非陰を作ることもありません。ゆえに自然と言います。陰を得ず、非陰を得ず、二辺が虚ろで広々としているので、広大と言います。ただ空として二十五有や二種の涅槃がないだけでなく、因の中の十力無畏などの種々の功徳によって荘厳されているので、厳めしいと言います。厳めしさは仮の智慧、広大さは空の智慧、自然は中の智慧であり、三つの智慧が一つの心の中に具足するので、歓喜するのです。 天の紺瑠璃が交じり合って地を成すことは、この相が初地の照らす境を表します。天の紺瑠璃は澄みきって明るく透き通り、真諦の境を表します。交じり合って種々に荘厳されていることは、俗諦の境を表します。如来の居られる浄土や、至聖の居られる極めて尊い地のようであることは、中道第一義諦の境を表します。一つの地に三つの相があり、三つの相が一つの地であることは、一つの諦に三つの諦があり、三つの諦が一つの諦であることを表します。 妙なる香気があり、諸々の天香を超えることは、この相が初地の慈悲の功徳を表します。慈は楽を与えることができ、香りが漂うようであり、悲は苦を抜くことができ、香りが臭いを離れるようです。この慈悲は縦に高いので、諸々の天香を超えると言い、横に広いので、遍満すると言います。一切の陰・界・入の中に遍満し、覆わないところはありません。 その室の四面に四つの高座があることは、この相が初地の四徳を表します。四徳は秘密の蔵であり、仏がその中に住まわれるのは、高座が坐ることができるように、諸仏を坐らせるためです。 四如来があることは、この相が初地の四徳を覚る智慧を表します。智慧と徳が冥合するのは、仏が座に坐られるようです。 大光明を放つことは、この相が初地の自行化他を表します。この土を照らすことは自行を表し、他土を照らすことは化他を表します。 諸々の天華が降ることは、この相が初地の四弁を表します。華が空に降るのは、弁が理を詮ずるようです。 天の伎楽を奏でることは、この相が初地の四摂を表します。四摂が物を摂するのは、楽が他を楽しませるようです。 天の楽しみを受けることは、この相が初地の法喜を表します。法喜が心を澄ますのは、天の楽しみを受けるようです。 根の欠けた者が具足することは、この相が初地の諸根互用を表します。耳で見、眼で聞き、一つの根の中に諸々の根の用が具足するのです。 初地の功徳は、仏の弁舌でも宣べ尽くせません。略して十の相を挙げて、その大要を表したにすぎません。初地がこのようであるならば、一々の地もまた同様です。

また、十の相は初地の自行化他の功徳を表します。前の五つの相は自行の功徳を表し、後の五つの相は化他の功徳を表します。 その室が広大であることは、自行の般若を表します。 天の紺瑠璃は、自行の法身を表します。 妙なる香気があることは、自行の解脱を表します。 高座と華衣は、自行の因の成就を表します。 仏が座上に坐ることは、記別を得て仏となることを表します。

後の五つの相が化他の功徳を表すとは、放光は意輪が物を利益することを表し、雨華は口輪が物を利益することを表し、作楽は身輪が物を利益することを表します。また、衆生が煩悩障を転じて法喜の楽を受けることができることを表し、根具は衆生が報障を転ずることができることを表します。 初地がこのようであるならば、後の一々の地もまた同様です。

「一切世間」以下が、総じて現れる相です。 別相は文が広く意が略であり、総相は文が略で意が広いのです。 これは十地の因が成就し、一つの果が究竟して具足することを表します。 一切とは、十法界を包括します。 世間とは、三世間を包みます。 未曾有とは、因の中にはなかったことです。 悉く具現するとは、因が円満して理が顕れることです。 国土世間が未曾有であることは、実相が満ちることであり、衆生世間が未曾有であることは、般若が満ちることであり、五陰世間が未曾有であることは、解脱が満ちることです。 要を挙げるとは、実相が要であるということです。実相が既に円満であるならば、どの法が満ちないことがありましょうか。

從「信相歡喜」下,是第五默念騰疑序。文為二:初見相歡喜、二默念陳疑。歡喜者,既因心疑,覩瑞見佛,必知聞法,是故歡喜。從「至心念佛」下是默念求決也。夫疑情不可久處,是故騰疑。念釋迦如來無量功德相好光明神力說法皆不生疑,唯壽命中心生疑惑:云何佛壽中八十年?念此覆心,故默騰求決也。而不發言者,四佛適現,威尊敬重不敢發言。疑既覆心,不得不念。又前默念而感瑞,今承前默念以求決爾。

「信相歓喜」以下は、第五の「黙念騰疑序」である。文は二つに分かれる。初めは相を見て歓喜し、次に黙念して疑いを述べる。歓喜するのは、心に疑いを抱いた後、瑞相を見て仏に遇い、必ず法を聞くことができると知ったからである。

「至心念佛」以下は、黙念して決断を求める段である。疑いの心は長く留めておくべきではないから、疑いを表に出して問うのである。釈迦如来の無量の功徳、相好光明、神力、説法については一切疑わない。ただ寿命についてだけ心に疑惑が生じる。「どうして仏の寿命は八十年なのか」と。この思いが心を覆っているため、黙って問いを発して決着を求めようとするのである。

口に出して言わないのは、四仏がちょうど現れ、威徳を尊び敬って、あえて発言できないからである。しかし疑いが心を覆っている以上、黙念せざるを得ない。また、前に黙念して瑞相を感じたように、今もその流れを継いで黙念し、決断を求めているのである。

從「爾時四佛以正遍知」下,是第六止疑序。文為二:一正止疑、二釋止疑。疑蓋覆心、聞法不解,故先止之。例如見諦先斷疑方進修道也。若信相實疑,宜須折止;若是起教,因其訓人。從「汝今不應」下正止疑也。云何不應?有三不應:一大用不應,八十者是佛大用,是故不應;二法性海深,非言思所測;三以信能入、以智能度,汝信智未具,豈度量所思?《釋論》云「無量法欲量,是人為覆溺。」故將不應而止之也。「何以故」下釋三不應之意。舉八眾皆不能量者,釋法性不應也。法身菩薩法性淨土,故不在言。生身菩薩若在家,為天龍等所攝;若出家,為四眾所攝;若法性身施權,亦為八眾所攝。若凡若聖悉不能思算也。唯除如來者,釋智度不應也。若如如來是則能知;既未如如來,那忽能知,舊用此語為智所知,知是無常可量之法。天台師云:不爾。如來有無量常智,能知無量常法,豈可以常智所知判為無常邪?智性既冥,大用可解,是釋三不應也。

「爾時四仏は正しく遍く知る」から下は、第六の疑いを止める序説である。文は二つに分かれる。一は疑いを正しく止めること、二は疑いを止める理由を解き明かすことである。疑いは心を覆い、法を聞いても理解できない。だからまずそれを止めるのだ。例えば真理を見るには、まず疑いを断ってから修行を進めるようなものである。もし信相が真に疑っているなら、適切に折伏して止めるべきである。もし教えを起こすためなら、それによって人を導くのである。

「汝今不応」から下は、疑いを正しく止める部分である。なぜ不応(すべきでない)なのか。三つの不応がある。第一は大用(仏の偉大な働き)について不応である。八十という数は仏の大用であるから、不応なのだ。第二は法性の海が深く、言葉や思考では測り知れないからである。第三は信によって入り、智によって渡るものであるが、汝は信と智がまだ備わっていない。どうして推し量り、思い測ることができようか。『釈論』に「無量の法を量ろうとする者は、覆い溺れる人である」とある。だから不応をもって止めるのである。

「何以故」から下は、三つの不応の意味を解き明かす。八衆(八種類の衆生)も皆、量ることができないことを挙げて、法性について不応であることを明かす。法身の菩薩は法性の浄土に住むので、言葉の及ぶところではない。生身の菩薩は、もし在家なら天龍などに含まれ、もし出家なら四衆に含まれる。もし法性身が権(仮の姿)を施すなら、やはり八衆に含まれる。凡夫であれ聖者であれ、すべて思い測ることはできないのである。

「唯除如来」は、智度(智慧による到達)について不応であることを明かす。もし如来のようであるならば、知ることができる。まだ如来のようでないのに、どうして知ることができようか。古来、この言葉を以て、智慧によって知られるものとし、知ることは無常で量り得る法であるとした。天台大師は言う。そうではない。如来には無量の常智があり、無量の常法を知ることができる。どうして常智の知るものを無常と決めつけることができようか。智性がすでに深遠であれば、大用も理解できる。これが三つの不応を解き明かす所以である。

從「時四如來」下,是第七集眾序。餘經或先集眾後現瑞,此經先現瑞後集眾,前後互出。爾時者,將欲宣暢之時也。眾者,欲色界諸天也。信相一人利益者少,有緣若集所益處多,是故集眾。眾有四種:一發起眾,信相、樹神等是也;二當機眾,聞即得道者是也;三影響眾,從十方遠來者是也;四結緣眾,當座雖未得道,作後世因緣者是也。如流水為魚說法,遠作今日得悟因緣,即其事也。此經集天龍眾,與《華嚴》意同。亦集人眾而文略,新本中有無量百千婆羅門眾,〈懺悔品〉初信相及眷屬詣耆闍崛山,即是人眾也。相承云:此經與冥道相關,正集天龍,略不說人爾。總瑞中云「一切世間未曾有事悉具出現」,不見與二乘記,但明常辨性。與《般若》方等意同,故判屬方等教攝。此中應論乘戒緩急四句,判出天龍生處、得道不得道、權實等事,如別記(云云)。齊此判屬序段者,文云「將欲宣暢大眾雲集」,豈非序之明證邪?序分竟。

「時に四如来」以下は、第七の集衆序である。他の経典では、まず大衆を集めてから瑞相を現す場合もあるが、この経典ではまず瑞相を現し、その後で大衆を集めている。前後の順序が互いに異なっているのである。「爾時」とは、まさに説法を宣べようとする時を指す。「衆」とは、欲界と色界の諸天のことである。信相菩薩一人だけが利益を得るのでは、その恩恵は限られている。縁ある者たちが集まれば、利益を受ける場も広がる。それゆえに大衆を集めるのである。

大衆には四種類がある。 第一は発起衆。信相菩薩や樹神などがこれに当たる。 第二は当機衆。説法を聞いてすぐに悟りを得る者たちである。 第三は影響衆。十方の世界から遠くやって来る者たちである。 第四は結縁衆。その場ではまだ悟りを得られなくとも、後の世の因縁を作る者たちである。かつて流水長者が魚のために説法したことが、遠い今日、悟りを得る因縁となったように、これがその例である。

この経典は天龍の大衆を集めている点で、『華厳経』の趣旨と同じである。また人間の大衆も集めているが、経文では簡略に記されているに過ぎない。新しい版本には「無量百千の婆羅門衆」とあり、『懺悔品』の初めに信相菩薩とその眷属が耆闍崛山に赴いたとあるが、これが人間の大衆である。伝承によれば、この経典は冥界の道と関わりが深く、主に天龍を集めることを正とし、人間については略して説かないのである。

総瑞の中に「一切世間未曾有の事、悉く具わって出現す」とあるが、二乗への授記は見られず、ただ常住の理と真実の性を明らかにしている。これは『般若経』や『方等経』の趣旨と同じであるから、方等教に属すると判じるのである。

ここでは、乗(教え)と戒(実践)の緩急について四句をもって論じ、天龍の生まれる処、得道するか否か、権(仮の教え)と実(真実の教え)などの事柄を判じるべきであるが、詳細は別の記録(云云)に譲る。

ここまでを序の段と判じるのは、経文に「将に大衆を宣暢せんと欲して、雲のごとく集まる」とあるからであり、これが序であることの明らかな証拠ではないか。序分、終わり。

從「爾時四佛」下三品半文,是第二正說段。凡三說不同。一云:〈壽量〉明常果為宗,常果契性,性即是體,二義宛然不須多惑。下〈懺悔品〉滅惡、〈讚歎品〉生善、〈空品〉導成,即是經用也。二云:〈壽量〉明宗、〈懺〉、〈歎〉明用、〈空品〉明體,此乃以因中所用之性為果上所顯之體。於義不便,故不用之。三、三藏云:正說有兩段,〈壽量〉是果段、〈三身〉是因段,二文各有序。虛空藏問為因段序,直是發問,於序義弱。師云:〈三身〉成果上義,非因義也,是故不用。初家所說好,與今意同。新舊兩文凡三處明宗:初是四佛拂疑,明應化之壽非思算所知。迹既長遠,本難窮極,上根人聞迹悟本也。若未悟者,王子明蚊蚋脚可以作城樓,鼠登兔角梯、食月除脩羅,明法身無舍利,如來真實身,舍利無是處。中根人直聞理本而悟迹也。若未悟者,釋迦論三身共說,廣分別之,本迹俱解。是為三番明宗顯體。〈懺品〉別論滅惡,通亦生善;〈歎品〉別論生善,通亦滅惡;〈空品〉導成,俱是經用也。今之四卷,止有一番明宗。文為四:初四佛說偈、二信相歡喜、三當機得道、四四佛還本。說偈又二:一經家敘、二四佛喻說。問:四佛說偈,為各為共?答:經既無文,不可定判。或宜聞共說,異口同音;或宜聞別說,各引一喻。見亦如是,若見四佛同尊特身,一身一智慧者,即是常身,弟子眾一故。若見四佛佛身不同,即是應化,弟子眾多故。分八偈為二意。初云:前四偈立譬、次一偈合譬、次二偈斷疑、次一偈結釋。次云:前四偈為譬本、後四偈合釋。兩途俱可用。舊云:四偈止譬其壽長,更無別意。是義不然。諸佛之教上中下善,其言巧妙、其義深遠,此中正是常宗斷疑。一經之要處何容無義?且作三意消文:一對四諦、二對四念處、三對四德。四諦理通因果,四念論因、四德論果。若論果壽宜對四德,果不孤起,故念處明因;因果有本,故對四諦也。上以四佛對四諦智,今以四佛所說對四諦理。舊讀四諦文,云:知苦如苦相、知集如集相。相是其事,齊事而知,於理不顯。今明:知苦如苦相,如是其理、相是其事,即事而真,事理雙達。餘三諦亦如是。如是釋者,於四諦理義便也。又一解:知苦是知俗,如是知真,相是知中,中是實相,故今以相為中也,此則三諦具在一文。知苦既然,下集道滅亦如是(云云)。明識四諦是脩長壽境,故約四諦對偈也。一切諸水者,此對集諦。《大經》云「有河洄澓沒眾生」,即其義也。水體潤生,如集能資長。鼓怒浩澣無處不有,集亦如是,沒溺凡聖亘界內外也。諸須彌山者,此對苦諦。小《般若》以身為須彌,即其義也。山體結構磐峙水上,如苦報積聚,為集作果,繫縛界內外色心也。大地微塵者,此對道諦。《法華》云「其所說法皆悉到於一切智地」,即其義也。地體能容載水陸兩途,如通別道到此彼岸。虛空分界者,此對滅諦。《法華》云「常寂滅相,終歸於空」,即其義也。空體盡淨,五翳所不能染、三光所不能淨。如滅諦,滅無二十五有,及滅化城涅槃也。四諦理遍一切處即法身,四諦智稱境而知即報身,從體起用同其長短即應身。信相但見應短、不見應長,應尚不達,寧知報法?四佛舉四喻喻其應長,水滴山斤地塵空界尚無能思算得其邊表,況復智冥於法,淵哉玄哉、信無底際,曠矣大矣,豈有垠涯?舉應迹以釋報法,豁然明悟,斷疑之巧為若此也。釋此偈妙為若此也,行者思之思之。四偈對四念處者,念處之觀本在苦諦,唯應約須彌山偈而論,今則通對也。一切諸水對受念處,受能含納如海多容故也。須彌山對身念處,色相與質礙相類故也。大地對於想行念處,想取行行如地容載故也。空界對心念處,心但有名如空無相故也。若觀四念處是脩長壽因,若念處得道即是長壽果,故用念處對四偈也。若觀四枯念處,破凡夫之四倒;若觀四榮念處,破二乘之四倒;若觀中道念處,則非榮非枯,於其中間而般涅槃,成五種解脫,謂色解脫乃至識解脫。脫五陰縛名五解脫,洞達五陰空無所有名五般若,冥五陰現名五法身,雖三分別,不一不異、不縱不橫,名祕密藏,號大涅槃。《仁王》呼為法性色、法性受想行識。陰之法性即是法身,智冥法性即是報身。法報皆非常非無常,而能起用為常為無常,常用則長、無常用則短。信相但見無常、不能見常,於用未達,況解其本?四佛舉喻明其用常,迹常無邊非思算所得,況復體理寧可心知?信相迷除,豁如雲卷,斷疑之巧為若此也。四偈對四德者,水潤生榮對常德,山能高出對我德,碎地為塵對淨德,空無苦受對樂德。四德成就是果上所剋,果與理冥,冥於非常非無常,能起常無常用;冥於非我非無我,起我無我用;冥於非淨非不淨,起淨不淨用;冥於非樂非不樂,起於樂無樂用。信相但見無常無樂、不見常樂,於應尚迷,何能識本?四佛舉四德之用非思算所知,體本報法杳然慮外。信相聞說,非但疑除惑斷,增信生解,故歡喜踊躍得之於懷(云云)。

「爾時四仏」以下三品半の文は、第二の正説の段です。全部で三つの説き方があります。

一つには、〈寿量品〉は常なる果を明らかにすることを宗(宗旨)とし、常なる果は性に契(かな)い、性とはすなわち体(本体)であるから、二つの意味がはっきりしていて、多く惑わされる必要はない。以下の〈懺悔品〉は悪を滅すること、〈讃歎品〉は善を生ずること、〈空品〉は導き成すことを明らかにする、これがすなわち経の用(作用)である。

二つには、〈寿量品〉は宗を明らかにし、〈懺悔品〉と〈讃歎品〉は用を明らかにし、〈空品〉は体を明らかにする。これは因位(修行の段階)において用いられる性を、果位(悟りの境地)において顕現される体とするものである。義(道理)として不便であるため、これを用いない。

三つめ、三蔵法師は言う。正説には二つの段があり、〈寿量品〉は果の段、〈三身品〉は因の段であり、二つの文にはそれぞれ序がある。虚空蔵菩薩の問いは因の段の序であり、単に問いを発しただけで、序としての意味は弱い。師は言う。〈三身品〉は果上の義を成就するものであり、因の義ではない。ゆえに用いない。最初の説き方が良く、今の意に同じである。

新旧両文において、全部で三か所で宗を明らかにしている。初めは四仏が疑いを払い、応化の寿命は思量分別で知られるものではないことを明らかにする。迹(顕現された姿)がすでに長遠であれば、本(根本)は極め難い。上根の人は迹を聞いて本を悟る。もし悟らない者があれば、王子が蚊や蚋の足で城楼を作り、鼠が兎の角の梯を登り、月を食らって阿修羅を除くことを明らかにし、法身には舎利がないこと、如来の真実の身に舎利があるはずがないことを明らかにする。中根の人は直接に理の本を聞いて迹を悟る。もし悟らない者があれば、釈迦が三身を論じて共に説き、広く分別するので、本も迹もともに理解する。これが三番にわたって宗を明らかにし体を顕わすことである。

〈懺悔品〉は別に悪を滅することを論じ、通じて善をも生ずる。〈讃歎品〉は別に善を生ずることを論じ、通じて悪をも滅する。〈空品〉は導き成すことで、ともに経の用である。

今の四巻には、ただ一番だけ宗を明らかにしている。文は四つに分かれる。初めは四仏が偈を説く。二番目は信相菩薩が歓喜する。三番目は当機(縁ある者)が道を得る。四番目は四仏が本に還る。偈を説くことにも二つある。一つは経家の叙述。二つは四仏の譬えによる説法。

問う。四仏が偈を説くのは、それぞれ別々に説くのか、共に説くのか。 答える。経に文がないので、定めて判じることはできない。あるいは共に説くのを聞くのに適しているならば、異口同音であろう。あるいは別々に説くのを聞くのに適しているならば、それぞれ一つの譬えを引くであろう。見ることもまた同様である。もし四仏が同じ尊特身を見、一つの身に一つの智慧があるならば、すなわち常身であり、弟子の衆が一つであるからである。もし四仏の仏身が同じでないのを見るならば、すなわち応化であり、弟子の衆が多いからである。

八つの偈を二つの意に分ける。 一つには、初めの四偈は譬えを立て、次の一偈は譬えを合わせ、次の二偈は疑いを断ち、次の一偈は結んで解釈する。 二つには、初めの四偈は譬えの本とし、後の四偈は合わせて解釈する。両方の道筋とも用いることができる。

旧来の説では、四偈はただその寿命の長さを譬えるだけで、別の意はないという。この義はそうではない。諸仏の教えは上中下の善であり、その言葉は巧妙、その義は深遠である。ここにおいてはまさに常の宗(宗旨)によって疑いを断つ。一経の肝要なところに、どうして義がないことがあろうか。ここでは三つの意をもって文を解釈する。一つは四諦に対すること。二つは四念処に対すること。三つは四徳に対することである。

四諦の理は因果に通じ、四念処は因を論じ、四徳は果を論じる。もし果の寿命を論ずるならば、四徳に対することがふさわしい。果は孤(ひと)り起きるものではないから、念処によって因を明らかにする。因果には本があるから、四諦に対するのである。

上では四仏を四諦の智慧に対応させたが、今は四仏の説くところを四諦の理に対応させる。旧来の四諦の文の読み方では、「苦を知ること苦の相の如し、集を知ること集の相の如し」という。相とはその事であり、事に等しくして知るので、理が顕わにならない。今明らかにするには、「苦を知ること苦の相の如し」とは、「如是」はその理であり、「相」はその事であり、事に即して真であり、事と理の両方を達する。残りの三諦もまた同様である。このように解釈するのは、四諦の理の義としてふさわしいからである。

また一つの解釈がある。苦を知ることは俗を

「億百千萬」下合譬偈也。舊解有二失:一僻取文、二偏執義。舊云:四譬皆有齊畔可盡之物。百千是數法,數必有窮,據此為無常。今釋不爾,四佛引四譬者,乃是舉量以況無量,量物尚非思算所知,無量之法寧可圖度?億百千萬,此舉數法以明無數法。既不能數數,那能知無數?縱令知數知無數、知量知無量者,秖是化用,都不關體本。僻取之失非但自毀,又亦誣經。偏執義者,〈三身品〉云「化身亦常,處處說法」,是故為常。當知化身備有常無常義,舊人那忽一向無常(云云)?「以是因緣」下兩行,斷疑偈也。若作因緣者,因親緣疎。命是正報,不殺為因;食是依報,施之為緣。以此因緣,得壽命長。若作二緣者,不殺是不殺戒家止善、施食是不盜戒家行善,互舉止行俱是二緣。法性菩提心名之為因、止行福慧等併皆是緣,緣能顯性,會非常非無常、能常能無常。法食、不殺等皆如上說。修因既長,得果又長,顯體又長、起用又長,破其短疑也。「是故汝今」下一偈,結成也。「爾時信相」下,聞偈斷疑生信也。聞壽命無量者,解迹中之能常,其壽無量也。疑去者,解迹中之能短,其壽八十也。深心信解者,悟其本識非量非無量也。踊躍者,登位也。歡喜者,信生也。別教釋者,信相似位中疑惑去,登歡喜地中信生也。圓教釋者,信相鐵輪位中疑惑去,入住銅輪位中歡喜也。若作普賢似位釋者,下地中疑惑去,十地頂深信堅固猶若金剛,隣真接極而生歡喜也。從「說是如來」下,是第三當機上根初悟也。從「時四如來」下,第四息化也。佛本為緣興,緣已利益則攝化還本,故言忽然不現也。觀解者,諦境發智,覺慧相應,深觀此慧,亦不得慧亦不見境,境智俱寂,即是不現義也(云云)。

「億百千万」以下の部分は、譬えの偈を合わせて解釈するものです。古い解釈には二つの誤りがあります。一つは文面を偏って取り上げること、もう一つは意味を一方的に固執することです。古い解釈では、四つの譬えにはすべて限りがあり尽くすことのできるものがあるとし、百千万は数を表す法であり、数には必ず限りがあるから、これに基づいて無常であると説いています。しかし、今の解釈はそうではありません。四仏が四つの譬えを引くのは、量を挙げて無量をたとえるためであり、量のある物でさえ思惟や計算では知り尽くせないのに、無量の法をどうして推し量ることができるでしょうか。億百千万とは、数えられる法を挙げて数えられない法を明らかにしているのです。すでに数を数えることすらできないのに、どうして数えられない法を知ることができるでしょうか。たとえ数を知り、数えられないことを知り、量を知り、無量を知ったとしても、それはただ化用に過ぎず、体そのものには関わりがありません。偏った解釈は自らを誤らせるだけでなく、経典をも誤らせることになります。意味を一方的に固執する誤りについては、『三身品』に「化身もまた常であり、あらゆる所で説法する」とあるので、これをもって常であるとします。化身には常と無常の両方の意味が備わっていることを知るべきで、古人はどうして一方的に無常とだけ解釈したのでしょうか(云々)。

「以是因縁」以下の二行は、疑いを断つ偈です。もし因縁として解釈するならば、因は親しく、縁は疎遠です。命は正報であり、殺さないことが因となります。食は依報であり、施すことが縁となります。この因縁によって、寿命が長くなるのです。もし二つの縁として解釈するならば、殺さないことは不殺戒における止善であり、食を施すことは不盗戒における行善であり、止と行を互いに挙げて、ともに二つの縁となります。法性菩提心を因と呼び、止行福慧などをすべて縁とします。縁は性を顕わすことができ、常でもなく無常でもなく、常にも無常にもなることができるのです。法食や不殺などは、すべて上記のように説かれています。因を修めることが長ければ、得る果もまた長く、体を顕わすことも長く、用を起こすことも長くなり、短いという疑いを破るのです。

「是故汝今」以下の一偈は、結論をまとめたものです。「爾時信相」以下は、偈を聞いて疑いを断ち、信を生じたことを示しています。寿命が無量であると聞くことで、迹中の常であることを理解し、その寿命が無量であることを知ります。疑いが去ることで、迹中の短いことを理解し、その寿命が八十であることを知ります。深く心に信解することで、その本識が量でもなく無量でもないことを悟ります。踊躍とは、位に登ることです。歓喜とは、信が生じることです。別教の解釈では、信相の似位において疑いが去り、歓喜地において信が生じます。円教の解釈では、信相の鉄輪位において疑いが去り、入住の銅輪位において歓喜が生じます。もし普賢の似位として解釈するならば、下位の地において疑いが去り、十地の頂点において深い信が金剛のように堅固となり、真実に近づき極みに接して歓喜が生じるのです。

「説是如来」以下は、第三に当機の上根が初めて悟る部分です。「時四如来」以下は、第四に化を止める部分です。仏は本来、縁によって現れ、縁が利益をもたらしたならば、化を収めて本に還るので、忽然として現れなくなるのです。観解としては、諦の境が智を発し、覚慧と相応し、この慧を深く観じることで、慧も得られず境も見えず、境と智がともに寂滅する、これが現れなくなるという意味です(云々)。

金光明經文句卷第二

金光明経文句 巻第二


序品
釋懺悔品

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