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金光明経文句 (金光明經文句)

「金光明經文句」について

隋 · 智顗說 灌頂錄 著

5.2 万字 · 約 173 分

『金光明経文句』は、隋の時代の高僧・智顗(ちぎ)が口述し、弟子の灌頂(かんちょう)が記録した仏教経典の注釈書です。智顗は天台宗の開祖であり、「東土の小釈迦」と称され、その思想は中国仏教に深遠な影響を与えました。この著作は『金光明経』に対する詳細な解釈であり、経文の教義、修行方法、仏教的世界観を体系的に論じており、天台宗の円融無碍な教えの特色を体現しています。大乗仏教の重要な経典注釈として、『金光明経』研究への権威ある解釈を提供するだけでなく、隋唐時代の仏教思想の発展を理解する上での重要文献でもあり、中国仏教史上において重要な地位を占めています。今日においても、仏教学者や実践者から重視され続けています。


金光明經文句卷第一

金光明経文句 巻第一

隋天台智者大師說

隋の天台智者大師の説

門人灌頂錄

門人灌頂録

此四卷文,總有十八品,舊來分割盈縮不同。江北諸師以初品為序,〈壽量〉下訖捨身為正,〈讚佛〉為流通。正文又三:〈壽量〉下是正說,〈四王〉下大誓護經,〈除病〉下大悲接物。江南諸師以初品為序,〈壽量〉下為正,〈四王〉下十三品為流通。真諦三藏分新文二十二品,初品為序,〈壽量〉下至〈捨身〉十九品為正,後兩品為流通。真諦釋云:「〈壽量〉明師果,〈懺〉、〈歎〉兩品明弟子因,〈授記〉是弟子果,〈除病〉是師因,〈四王〉下正論力用。前師果弟因既為正,後師弟因果何得為流通邪?」今師謂:分文本是人情。人情咸謂:序未辨道,流通歇末不得論師弟因果。是義不然,夫三段者不可杜斷隔絕,序本序於正通,序則有三義;正本正於序通,正亦三義;通本通於正序,通亦三義。上中下語皆善故。又眾生得道根性不定,何容序無滋味、流通歇末邪?既不歇末,說師弟因果亦應何妨?如序中說正,亦應無妨。流通中有正意,彌是督勵宣行,不乖經意。又《法華》中明,阿私仙是師因,持品授弟子果記,諸師咸判是流通。此有其例,於義無妨。與奪由人,不須苦執也。今從「如是我聞」入〈壽量〉,訖天龍集信相菩薩室,為序段;從「爾時四佛」下,訖〈空品〉,正說段;從〈四王品〉下訖經,流通段。序者,序將有利益。正者,正當機辨道。流通者,流名下注,通名不壅,欲使正法之水從今以注當,聖教筌罤不壅於來世。經曰「上中下語皆善」,即此義也。疑者云:序分何得入正品中?眾經例爾。如《維摩》無序品,序在正說中;《大品》正說在序品中;《涅槃》序分入正品中。眾經皆然,不以為疑,何獨惑此?斯乃出經者意,為四佛斷疑孤然而起其文嶄絕,引序分安〈壽量〉中。今從義便,不得齊品分割也。序有三義:一次緒、二敘述、三發起。次緒者,居一部之初冠、眾說之首,故言次緒。敘述者,敘於方將、述於當益,故言敘述。發起者,發其信心、起於教也。一段經文含此三義,故題為序品。品者,梵語稱為跋渠,此為品也,品是類義。此中文句氣類相從,節之為跋渠。例如律中有篇聚、毘曇有犍度爾。從「如是」下,是次緒;從「是時如來」下,是敘述;從「其室自然廣博嚴事」下,是發起。次緒之序,舊云五事;地人開佛,是為六事。此經天龍集信相室,不聞前序、不聞後夢,亦得是同聞,亦得是非也。同聞眾少不次第(云云)。此之五六,亦名印定序,三世諸佛經,初皆安「如是」故。亦名通序,與諸經同。亦為通名,作本故。亦名經後序,結集者所置故。亦名經前序,遺囑令安故。亦名破邪序,對破外道阿漚故。亦名證信序,令聞者不疑故。天台師云:總此六說,都是四悉檀意也。諸佛諸經同,是世界悉檀也;經前經後為利來世,是為人悉檀也;對破外道,是對治悉檀也;信順無疑,是第一義悉檀也。舊解如名不異,是曰無非。阿難所傳文句似瀉水分瓶,與佛一種,故不異稱如;文下之理允當無謬,故無非曰是。略而言之,文如理是。肇師云:「如是者,信順之辭也。信則所聞之理會,順則師資之道成。」真諦三藏云:「如是者,決定也。數決定、理決定。佛說此經有若干文句,若多成增謗、若少成減謗,阿難傳之如瀉水,不多不少,故數決定。佛說無相之理不有不無,若有墮增、若無墮減,阿難傳之無增無減,故理決定。」龍樹解如是者,「信順之辭也。信者言是事如是,不信者言是事不如是。」此之四解,各據一悉檀意。舊解語總不顯文詮何等理為如?何等理為文所詮為是?既不顯了,只是世界悉檀意;肇師據信順是為人;三藏文理決定為對治;龍樹信順如是為第一義(云云)。今作通別二釋。佛如法相而說,阿難如聞相而傳,故言如也。佛如法相而解,阿難如海量而受,故言是也(云云)。別釋者,外曰阿漚稱吉,文乖其理故非如,理異其文故非是,不可見阿漚在初而中後皆吉也。文如其理故言如,理如其文故言是。今謂:三藏經初云如是,二諦各異故非如,理淺故非是。摩訶衍二諦相即故言如,理深故言是。今謂三人同聞而各解故非如,證入優劣故非是。唯菩薩所聞者為如,菩薩所到者為是。今謂離邊明中之文則非如,出二諦之外有中道則非是。文字性離即是於如故言如,一切法即佛法名之為是。初破邪明正,即三藏經如是。次破異明同,即通教經如是。次破淺明深,即別教經如是。次破離明中,即圓教經如是。此經既是方等,通被根性不同,作種種說無咎。觀心解者,觀與境冥故為如,境即正觀故為是。經言「如此觀者即是正觀,若他觀者名為邪觀。」即其義也。

この四巻の経文は、全部で十八の品から成っていますが、古来、その区切り方には長短の違いがありました。

江北の諸師は、最初の品を序分とし、〈寿量品〉から〈捨身品〉までを正宗分、〈讃仏品〉を流通分としました。正宗分はさらに三つに分け、〈寿量品〉以下は正説、〈四天王品〉以下は大誓で経を護ること、〈除病品〉以下は大悲で衆生を救うこととしました。

江南の諸師は、最初の品を序分とし、〈寿量品〉以下を正宗分、〈四天王品〉以下の十三品を流通分としました。

真諦三蔵は、新たに二十二品に分け、最初の品を序分、〈寿量品〉から〈捨身品〉までの十九品を正宗分、後の二品を流通分としました。真諦は釈して言います。「〈寿量品〉は師の果を明かし、〈懺悔品〉と〈讃歎品〉の二品は弟子の因を明かす。〈授記品〉は弟子の果であり、〈除病品〉は師の因である。〈四天王品〉以下は正しく力用を論ずる。前の師の果と弟子の因がすでに正宗分であるなら、後の師と弟子の因果がどうして流通分になりえようか?」

今の師は言います。経文を分けることはそもそも人の情によるものです。人の情はみな、序分はまだ道を明かさず、流通分は末尾で師弟の因果を論ずることはできないと考えます。この考えは正しくありません。そもそも三つの部分は、無理に断ち切って隔てることはできません。序分は本来、正宗分と流通分に対する序であり、序分にも三つの意義があります。正宗分は本来、序分と流通分に対する正宗であり、正宗分にも三つの意義があります。流通分は本来、正宗分と序分に対する流通であり、流通分にも三つの意義があります。『上中下の語、皆善し』とあるのはこのためです。

また、衆生が道を得る根性は定まっていません。どうして序分に味わいがなく、流通分が末尾で終わっているなどと言えましょうか。末尾で終わっていない以上、師弟の因果を説いても何の妨げがありましょう。序分の中で正宗分を説いても、やはり妨げはないはずです。流通分の中に正宗の意味があれば、ますます人々を励まして宣揚し行わせることになり、経の意に背きません。

また、『法華経』の中に、阿私仙は師の因であり、〈持品〉は弟子に果の記別を授けると明かされていますが、諸師はみなこれを流通分と判じています。これには先例があり、義理の上でも妨げはありません。取捨は人によるもので、苦しく執着する必要はありません。

今は、「如是我聞」から〈寿量品〉に入り、天龍が信相菩薩の室に集まるまでを序分とします。〈四天王品〉以下から経の終わりまでを流通分とします。

序とは、これから利益があることを序することです。正とは、正しく機に応じて道を明かすことです。流通とは、流は下へ注ぐこと、通は塞がらないことです。正法の水を今から未来へと注ぎ、聖教の教えが来世で塞がれることのないようにするためです。経に「上中下の語、皆善し」とあるのは、この意味です。

疑う者は言います。序分がどうして正宗の品の中に入ることができようか、と。多くの経の例はこのようになっています。例えば『維摩経』には序品がなく、序分は正説の中にあります。『大品般若経』では正説が序品の中にあります。『涅槃経』では序分が正宗の品の中に入っています。多くの経は皆そうであり、疑わしいとはされません。どうしてこれだけを惑うのでしょうか。これは経を出した者の意図であり、四仏が疑いを断つために孤然として起こり、その文が嶄絶しているので、序分を引いて〈寿量品〉の中に置いたのです。今は義理の便宜に従い、品をそろえて分割することはできません。

序には三つの意義があります。一に次緒、二に叙述、三に発起です。 次緒とは、一つの部の初めに冠し、多くの説の最初にあることを言います。故に次緒と言います。 叙述とは、これから行うことを述べ、これから得る利益を述べることを言います。故に叙述と言います。 発起とは、その信心を発し、教えを起こすことを言います。 一つの経文の段がこの三つの意義を含むので、題して序品とします。

品とは、梵語で跋渠と言い、これが品です。品は類の意味です。この中の文句は気類が互いに従い、これを節して跋渠とします。例えば、律の中に篇聚があり、毘曇に犍度があるようなものです。

「如是」以下は次緒です。「是時如来」以下は叙述です。「其室自然広博厳事」以下は発起です。

次緒の序について、旧来は五事と言いました。地論師は仏を開いて六事としました。この経では天龍が信相の室に集まりますが、前の序を聞かず、後の夢を聞かずとも、同聞とすることもでき、そうでないとすることもできます。同聞の衆が少なく順序立っていない(云云)。

この五事・六事は、また印定序とも呼ばれます。三世の諸仏の経の初めに皆「如是」を置くからです。また通序とも呼ばれ、諸経と共通だからです。また通名ともなり、根本となるからです。また経後序とも呼ばれ、結集者が置いたからです。また経前序とも呼ばれ、遺言によって置かせたからです。また破邪序とも呼ばれ、外道の阿漚に対破するからです。また証信序とも呼ばれ、聞く者に疑いを生じさせないからです。

天台大師は言います。この六つの説を総じて、すべて四悉檀の意であると。諸仏諸経が共通であることは、世界悉檀である。経前経後が来世のために利するのは、為人悉檀である。外道に対破するのは、対治悉檀である。信順して疑いがないのは、第一義悉檀である。

旧来の解釈では、如とは異ならないことであり、是とは非がないことであると言います。阿難の伝えた文句は、水を瓶に注ぐように、仏と全く同じであるから、異ならないことを如と言います。文の下にある理が允当で誤りがないから、非がないことを是と言います。略して言えば、文が如であり、理が是です。

肇法師は言います。「如是とは、信順の言葉である。信ずれば聞いた理が会得され、順えば師資の道が成る。」 真諦三蔵は言います。「如是とは、決定である。数が決定し、理が決定する。仏がこの経を説くに、これこれの文句がある。もし多ければ増益の誹謗となり、少なければ減損の誹謗となる。阿難がこれを伝えるのは水を注ぐように、多くも少なくもない。故に数が決定する。仏が無相の理を説くのに、有でもなく無でもない。もし有とすれば増益に堕ち、無とすれば減損に堕ちる。阿難がこれを伝えるのに、増えも減りもない。故に理が決定する。」 龍樹は如是を解して言います。「信順の言葉である。信ずる者は『この事はこのようである』と言い、信じない者は『この事はこのようでない』と言う。」 この四つの解釈は、それぞれ一つの悉檀の意に拠っています。旧来の解釈は言葉が総括的で、文がどのような理を詮じているかを如とし、どのような理が文によって詮じられているかを是とするかを明らかにしていません。明らかでない以上、ただ世界悉檀の意です。肇法師は信順に拠って為人悉檀とします。三蔵は文理の決定に拠って対治悉檀とします。龍樹は信順して如是とすることを第一義悉檀とします(云云)。

今、通と別の二つの解釈をします。 仏が法相の如くに説き、阿難が聞いた相の如くに伝えるから、如と言います。仏が法相の如くに解し、阿難が海の量の如くに受けるから、是と言います(云云)。

別釈では、外道は阿漚を吉と称しますが、文が理に背くから如でなく、理が文と異なるから是でなく、阿漚が初めにあって中後が皆吉であるとは見えません。文が理の如くであるから如と言い、理が文の如くであるから是と言います。

今、三蔵教の経の初めに如是とあるのは、二諦がそれぞれ異なるから如でなく、理が浅いから是でないと言います。摩訶衍では二諦が相即であるから如と言い、理が深いから是と言います。

今、三人が同じく聞いてそれぞれに解するから如でなく、証入に優劣があるから是でないと言います。ただ菩薩が聞くところを如とし、菩薩が到るところを是とします。

今、辺を離れて中を明かす文は如でなく、二諦の外に出て中道があるのは是でないと言います。文字の性が離れることが即ち如であるから如と言い、一切法が即ち仏法であることを是と名付けます。

初めに邪を破って正を明かすのは、即ち三蔵教の経の如是です。次に異を破って同を明かすのは、即ち通教の経の如是です。次に浅を破って深を明かすのは、即ち別教の経の如是です。次に離を破って中を明かすのは、即ち円教の経の如是です。この経は方等経であり、根性の異なる者に通じて被るので、種々の説き方をしても咎めはありません。

観心による解釈では、観が境と冥合するから如とし、境が即ち正観であるから是とします。経に言う「このように観ずる者は即ち正観であり、他の観ずる者は邪観と名付く」が、その義です。

「我聞」者,舊云:阿難不師心,親承佛旨,故曰我聞。真諦曰:「我是器義。一散心名覆器,無聞慧故。二忘心名漏器,雖得而失,無思慧故。三倒心名穢器,非而謂是,無修慧故。阿難無三過,唯是善好器,親承有在,故言我聞。」《釋論》云「耳根不壞,聲在可聞處,作心諦聽,因緣和合故稱聞。阿難與聽眾述佛遺旨,親承不謬,故言我聞。」師釋我有四義,謂我我、我無我、無我我、我無我而不二真我,義配四根性人(云云)。聞亦四義,謂聞聞、聞不聞、不聞聞、不聞不聞,配四教法人(云云)。有四種阿難,謂歡喜阿難、賢阿難、典藏阿難、海阿難,為四種緣立四種名。歡喜阿難是我我用聞聞,親承丈六身佛,持三藏法,故言我我聞聞。賢阿難是我無我用聞不聞,親承丈六尊特合身佛,持通法,故言我無我聞不聞。典藏阿難是無我我用不聞聞,親承尊特身佛,持別法,故言無我我不聞聞。海阿難是我無我而不二用不聞不聞,親承法身佛,持圓法,故言我無我而不二用不聞不聞。此經通三乘說,聽一音各解,故須分別(云云)。觀解者,若作攀上厭下觀,是為我我聞聞。若作析體兩種從假入空觀,皆是我無我聞不聞。若作從空出假觀,是無我我不聞聞。若作中道觀,是真我不聞不聞。

「我聞」という言葉について、古くはこう説かれています。阿難は自らの心に頼らず、直接仏の教えを承けたので、「我聞」と言うのです。真諦は次のように述べています。「『我』とは器の意味です。一つに、散乱した心は覆った器と呼ばれ、聞く智慧がないからです。二つに、忘失した心は漏れる器と呼ばれ、得たとしても失ってしまい、思う智慧がないからです。三つに、誤った心は汚れた器と呼ばれ、そうでないものをそうだとし、修する智慧がないからです。阿難にはこの三つの過ちがなく、ただ善く整った器であり、直接承けている事実があるので、『我聞』と言うのです。」

『釈論』には、「耳の機能が損なわれず、声が聞こえるところにあり、心を整えてよく聞く。因縁が和合するので聞くと言う。阿難は聴衆に仏の遺された教えを伝え、直接承けて誤りがないので、『我聞』と言う」とあります。

師は「我」に四つの意味があると解釈されました。すなわち、我としての我、我と無我、無我と我、我と無我が二つでない真の我です。この意味は四種の根性の人に対応します((詳細は省略))。「聞」にも四つの意味があります。すなわち、聞くこととしての聞き、聞くことと聞かぬこと、聞かぬこととしての聞き、聞かぬことと聞かぬことです。これは四つの教えの法に対応します((詳細は省略))。

阿難には四種類があります。すなわち、歓喜の阿難、賢の阿難、典蔵の阿難、海の阿難です。四種類の縁によって四種類の名が立てられます。歓喜の阿難は「我としての我」を用い「聞くこととしての聞き」を行い、一丈六尺の仏身を直接承け、三蔵の法を保つので、「我としての我、聞くこととしての聞き」と言います。賢の阿難は「我と無我」を用い「聞くことと聞かぬこと」を行い、一丈六尺の尊特合身の仏を直接承け、通教の法を保つので、「我と無我、聞くことと聞かぬこと」と言います。典蔵の阿難は「無我と我」を用い「聞かぬこととしての聞き」を行い、尊特身の仏を直接承け、別教の法を保つので、「無我と我、聞かぬこととしての聞き」と言います。海の阿難は「我と無我が二つでない」を用い「聞かぬことと聞かぬこと」を行い、法身の仏を直接承け、円教の法を保つので、「我と無我が二つでないを用い、聞かぬことと聞かぬこと」と言います。この経は三乗に対して説かれ、一つの音声を聞いてそれぞれが理解するので、区別する必要があります((詳細は省略))。

観解について言えば、もし上を慕い下を厭う観を行うならば、それは「我としての我、聞くこととしての聞き」です。もし析空・体空の二種の、仮から空に入る観を行うならば、いずれも「我と無我、聞くことと聞かぬこと」です。もし空から仮に出る観を行うならば、それは「無我と我、聞かぬこととしての聞き」です。もし中道の観を行うならば、それは「真の我、聞かぬことと聞かぬこと」です。

「一時」者,肇師云:「法王啟運嘉會之時也。」三藏云:「高時下時皆是,若過若不及不堪聞法。唯有平時,即是一時也。」私謂:高時慢心不行,下時耽荒五欲,不耽不慢是平時也。師釋:眾生感法、佛慈赴教,機應之時也,亦是發真見諦之時也,亦是法眼明朗照世之時也,亦是佛眼照中之時也(云云)。而言一者,若前思後覺,斯二非一;思覺妄斷豁悟之時,故言一時也。觀解者,從假入空與真一時,從空入假與機一時,中道正觀與法性一時(云云)。

「一時」とは、肇師が「法王が教えを開き、良い縁が集まる時である」と述べています。三蔵は「高い時も低い時もすべて含むが、過ぎたり足りなかったりする時は法を聞くに値しない。ただ平らかな時こそが、すなわち一時である」と説いています。私見では、高い時は慢心が起こり修行が進まず、低い時は五欲にふけり、ふけりも慢心もない平らかな時が平時です。師は解釈されています:衆生が法を感じ求め、仏が慈悲をもって教えに応じる、機と応が合う時である。また、真実を見極める智慧が現れる時であり、法眼が明るく照らし世を照らす時であり、仏眼がその中を照らす時でもあります。そして「一」と言うのは、前もって考えたり後で悟ったりする、その二つは一ではありません。考えや悟りという妄念が断ち切られ、はっと悟る時、ゆえに一時と言うのです。観解としては、仮から空に入る時は真実と一時であり、空から仮に入る時は機縁と一時であり、中道の正しい観察は法性と一時です。

「佛」者,真諦云:「佛有三義:一切智異外道、慈悲異二乘、平等異小菩薩,餘人無此。」《釋論》明佛是第九號,佛名為覺,覺世間出世間、常無常、數非數等,朗然大悟,故名為佛。天台師云:佛者,依一切智有丈六佛,依道種智有丈六尊特佛,依一切種智有法身佛。三佛不得一異,非一異而一異爾。觀解者,空觀覺知諸法一相,假觀覺知諸法種種相,中觀覺知諸法無一異相亦一異相(云云)。

「仏」について、真諦は言う。「仏には三つの意義がある。一切智をもつ点で外道と異なり、慈悲をもつ点で二乗と異なり、平等をもつ点で小菩薩と異なる。他の者にはこれがない」と。

『釈論』は、仏が第九の尊号であることを明らかにしている。仏とは覚りのことであり、世間と出世間、常と無常、数と非数などを覚り、明らかに大悟するゆえに仏と名づけられる。

天台大師は言う。仏とは、一切智に依って丈六の仏があり、道種智に依って丈六尊特の仏があり、一切種智に依って法身の仏がある。三仏は一でも異でもなく、一異ではなくて一異である。

観解としては、空観によって諸法が一相であることを覚知し、仮観によって諸法が種々の相であることを覚知し、中観によって諸法が一異の相でもなく、また一異の相でもあることを覚知する((以下同様))。

「住」者,佛是能住,王舍城是所住處。真諦明住法有八:一住大千界內;二住依止處,王城也;三住五分法身,壽命現在也;四住威儀利物;五天住,住禪定;六梵住,住四等慈悲;七聖住,住三三昧;八大處住,住第一義也。《釋論》四住攝八也,天住、梵住攝其天住、定住;聖住攝其五分命住;佛住攝其大處住;又有迹住王舍城,攝其界內、依止、威儀三住。天台師云:丈六身佛,住真諦也;丈六尊特合身佛,雙住真中也;尊特身佛,雙住俗中也;法身佛,住中道也。觀解,空觀住真、假觀住俗、第一義觀住中。

「住」とは、仏が住む主体であり、王舎城はその住まう場所である。真諦において住法には八つがある:第一に大千世界の内に住すること、第二に依止する場所、すなわち王城に住すること、第三に五分法身に住し、寿命が現在に存すること、第四に威儀をもって衆生を利益すること、第五に天住、すなわち禅定に住すること、第六に梵住、すなわち四無量心の慈悲に住すること、第七に聖住、すなわち三三昧に住すること、第八に大処住、すなわち第一義に住することである。

『釈論』では、四つの住が八つを摂めている。天住と梵住はその中の天住と定住を摂め、聖住はその中の五分命住を摂め、仏住はその中の大処住を摂める。また、迹として王舎城に住することは、その中の界内、依止、威儀の三つの住を摂める。

天台大師は言う:丈六の身の仏は真諦に住し、丈六と尊特の合身の仏は真と中の二つに住し、尊特身の仏は俗と中の二つに住し、法身の仏は中道に住する。観解においては、空観は真に住し、仮観は俗に住し、第一義観は中に住する。

「王舍城」者,《釋論》大出因緣。初立五山中七燒七造,王來居此,故言王舍。又云「他舍被燒,王舍不燒。後悉排云是王舍,即得免燒。自是已來呼為王舍。」觀解,五陰為舍,心王居之,故言王舍。

『王舍城』について、『釈論』には詳しい由来が記されています。最初に五つの山に築かれた都は七度焼失し七度再建され、王がここに住まわれたので「王舎」と呼ばれました。また「他の家屋は焼失したが、王の舎だけは焼け残った。その後、すべての建物を王舎と称したところ、焼失を免れた。以来、ここを王舎と呼ぶようになった」とも伝えられます。観心の解釈では、五蘊(色受想行識)を舎(家)と見なし、心の王がそこに住まわれるゆえに「王舎」と説きます。

「耆闍崛山」者,《釋論》翻鷲頭。真諦云:「曲鳥山在王舍城東南,毘富羅山在西南,仙人山在西北,黑土山在東北,白土山在中央。中央三由旬平正,即王城也。」觀心,山者,靈即神智,是般若也。鷲即萬德,是解脫也。山即不動,是法身也。常為心王所觀,即是觀之住處也,令一切心數同入其中也。

「耆闍崛山」とは、『釈論』では鷲頭と訳されています。真諦は次のように述べています。「曲鳥山は王舎城の東南にあり、毘富羅山は西南に、仙人山は西北に、黒土山は東北に、白土山は中央にある。中央の三由旬は平らで整っており、これが王城である。」心を観じるに、山とは、霊妙なる神智であり、これが般若である。鷲とは万徳であり、これが解脱である。山とは動かざるものであり、これが法身である。常に心王によって観じられる、すなわち観の住処であり、一切の心数をしてその中に同入せしめるのである。

此經闕同聞眾者,謂時有五、處有四,耆山眾不聞信相室說、信相室眾不聞夢中說、夢中眾不聞夢覺已說,眾非一座故不列同聞。若爾,阿難不應稱我聞。然雖不聞,佛更為說。又其得佛覺三昧,能自通達,得稱我聞也。

この経典には「同聞の衆」が欠けているのは、次のような理由によります。時には五つの場面があり、場所には四つの場面があります。霊鷲山の聴衆は信相の室での説法を聞かず、信相の室の聴衆は夢の中での説法を聞かず、夢の中の聴衆は夢から覚めた後の説法を聞いていません。聴衆が同じ場所に集まっていないため、「同聞」として列挙されていないのです。

では、阿難はなぜ「我聞」と称しているのでしょうか。たとえ直接聞いていなくても、仏が改めて説いてくださったからです。また、仏の覚りの三昧を得て、自ら通達することができたので、「我聞」と称することができるのです。

從「是時如來」下是敘述序,敘下十七品故。亦名別序,簡異餘經亦為別名作本,故言別也。別義為七:一從「是時如來」下一行半是入定別;二從「是金光明」下訖二十七行偈是敘述別;三從〈壽量品〉下是懷疑別;四從「大士如是」下是瑞應別;五從「信相見佛」下是騰疑念別;六從「四佛告」下是止疑別;七從「欲色界天」下是集眾別。生起者,佛常在定,而群機扣佛,佛欲應之,故示軌儀。如來常寂,猶尚樂定,入游法性、出敘經王,信相聞深法,疑法既是常,人壽那短?是故懷疑。菩薩福力,疑能感應,應故四佛現,佛現即騰疑,騰疑故佛即止疑,當雨法雨故大眾雲集。七事異他經,故言別也。已說七別竟。

「是時如來」以下は叙述序であり、続く十七品を述べる部分です。また「別序」とも呼ばれ、他の経典とは異なることを示し、本経独自の序文として別に立てられています。この「別」の意味は七つに分けられます:

一、「是時如來」から一行半までは、入定の別(入定の段階)。 二、「是金光明」から二十七行の偈までは、叙述の別(経の内容を述べる段階)。 三、〈壽量品〉からは、疑いが生じる別(疑念の段階)。 四、「大士如是」からは、瑞応の別(吉兆が現れる段階)。 五、「信相見佛」からは、疑念を述べる別(疑いを表明する段階)。 六、「四佛告」からは、疑いを止める別(疑いを解く段階)。 七、「欲色界天」からは、大衆が集まる別(聴衆が集結する段階)。

その流れは次の通りです:仏は常に定に入っておられますが、衆生の機縁が仏に触れると、仏はそれに応じるために、その規範を示されます。如来は常に静寂でありながらも、なお定を楽しみ、法性に入り遊び、出ては経の王たる教えを述べられます。信相菩薩が深い法を聞き、法が常住であるならば、なぜ人の寿命は短いのかと疑います。菩薩の福徳の力によって、その疑いが感応を呼び、それに応じて四仏が現れます。仏が現れると疑念が述べられ、疑念が述べられると仏はすぐにそれを止め、まさに法の雨を降らせようとされるので、大衆が雲のように集まります。この七つの事柄が他の経典と異なるため、「別」と言われるのです。以上、七つの別について述べました。

或時作三別:一從「是時」下名敘述序;二從〈壽量品〉下名現瑞序;三從「時四如來」下是眾集序(云云)。

時に三つの区分がなされることがある。一つは「是時」以下を叙述序とし、二つ目は〈寿量品〉以下を現瑞序とし、三つ目は「時四如来」以下を衆集序とする(云々)。

言敘述序者,敘後十七品。初五行敘〈壽量品〉為三:初兩行敘果德、次一行敘懷疑、次兩行敘斷疑,細作可尋。次一行半敘〈懺悔品〉破惡生善之意(云云)。次一行半敘〈讚歎品〉生善破惡(云云)。次六行敘〈空品〉破惡中破三障惡(云云)。從「護世四王」下是敘,其品可解。大辯者是敘其品,尼連鬼母是敘〈功德天品〉,同是女天故。地神是敘其品,大梵三十三天是敘〈散脂品〉。散脂是將、梵釋是主,敘主即得臣將也。緊那羅等是其領,敘其領得其管也。「我今所說諸佛祕密」者,是敘〈正論〉、〈善集〉兩品,說世祕密可以治國、出世祕密可以詣道,故知敘兩品也。「若得聞經」去是敘〈鬼神品〉。〈鬼神品〉中純明聽法功德,為八部所護(云云)。「著淨衣服」下兩行敘〈授記品〉。三大士、十千天淨心殷重淨若虛空,故獲授記也。「若得聽聞」下敘〈除病〉、〈流水〉等品。聞名服藥悉得病除,則是善得人身;復能修行布施福業,是善得人道;魚聞佛名,善得天身天道。即此意也。「正命」是敘〈捨身品〉。虎飱血肉即得解脫,豈非正命也。「若聞懺悔」下一行敘〈讚佛品〉。佛有三世,諸菩薩多是先佛即過去佛也,又是未來佛也。為此菩薩所讚,即為佛所讚也。敘述之意止可彷彿,不得薳自分明(云云)。問:誰作敘述?舊云集經者。若爾,是論非經,又乖經文,文云「我今當說」。或云是信相。若爾,信相已能玄敘,何事致疑?又非集經者,那忽作序?師云:是佛自作。難者言:若爾,便是正經,那得稱序?此無所妨。菩薩尚能安禪合掌說千萬偈,況如來口密神力赴機,何所不為?文云「我今當說懺悔等法」,此是明證。《大品》中化佛說六波羅蜜,亦得稱序,此其例也。

序文の叙述について述べます。これは後の十七品を述べたものです。最初の五行は〈寿量品〉を三つに分けて述べています。最初の二行は果徳を述べ、次の一行は疑いを述べ、次の二行は疑いを断つことを述べています。詳細は探ることができます。次の一行半は〈懺悔品〉の悪を破り善を生ずる意味を述べています。次の一行半は〈讃歎品〉の善を生じ悪を破ることを述べています。次の六行は〈空品〉の悪を破る中で三障の悪を破ることを述べています。「護世四王」以下はその品を述べたもので、理解できるでしょう。大弁者はその品を述べ、尼連鬼母は〈功徳天品〉を述べています。同じく女天であるからです。地神はその品を述べ、大梵三十三天は〈散脂品〉を述べています。散脂は将であり、梵釈は主です。主を述べれば臣将も得られます。緊那羅などはその領を述べ、その領を述べればその管も得られます。「我今所説諸仏秘密」は〈正論〉と〈善集〉の両品を述べたものです。世の秘密を説けば国を治めることができ、出世の秘密を説けば道に至ることができます。それゆえ、両品を述べたとわかります。「若得聞経」以下は〈鬼神品〉を述べています。〈鬼神品〉の中には純粋に法を聞く功徳が明かされ、八部に守られることが説かれています。「著浄衣服」以下の二行は〈授記品〉を述べています。三大士と十千の天は心を浄め、殷重に虚のように清浄であるため、授記を得たのです。「若得聽聞」以下は〈除病〉と〈流水〉などの品を述べています。名を聞き薬を服すればことごとく病が除かれ、これは善く人身を得ることです。さらに布施の福業を修行することができ、これは善く人道を得ることです。魚が仏の名を聞けば、善く天身と天道を得ます。これがその意味です。「正命」は〈捨身品〉を述べています。虎が血肉を食らって解脱を得る、これこそ正命ではありませんか。「若聞懺悔」以下の一行は〈讃仏品〉を述べています。仏には三世があり、諸菩薩の多くは先仏、すなわち過去仏であり、また未来仏でもあります。この菩薩たちに讃められることは、すなわち仏に讃められることです。叙述の意味はおおよそ推測できるだけで、はっきりと自分で分かるものではありません。問う:誰がこの叙述を作ったのか?古くは経典を集めた者だと言われています。もしそうなら、これは論であって経ではなく、また経文にも反しています。経文には「我今当説」とあります。あるいは信相だと言う者もいます。もしそうなら、信相はすでに玄妙に叙述できたのに、なぜ疑いを生じさせたのでしょうか?また、経典を集めた者でないなら、どうして突然序を作ったのでしょうか?師は言います:これは仏自身が作られたのです。難じる者は言います:もしそうなら、これは正しい経典であり、どうして序と呼ばれるのでしょうか?これは妨げにはなりません。菩薩でさえ安禅して合掌し、千万の偈を説くことができます。ましてや如来の口密の神力が機に応じるなら、何ができないことがありましょうか?経文に「我今当説懺悔等法」とあるのは、これが明らかな証拠です。〈大品〉の中で化仏が六波羅蜜を説くことも、序と称することができます。これがその例です。

釋入定為三:初、一句一字,明能游人。二、三字兩句,歎所游法。後兩句,結也。

釈に入り定まるを三と為す。初めに、一句一字、能く遊ぶ人を明らかにす。二に、三字両句、遊ぶ所の法を歎ず。後の両句、結びなり。

「是時」者,真諦云:「有五種三時:一欲說、正說、說已;二破外道去來時、立現在有說有聽時;三下種、成熟、解脫時;四正師、正教、正學時;五佛欲說、眾欲聽、不高不下平平時。」今但論如來知機堪可得道時。若慧眼得道,智與真冥時。若法眼得道,智與俗冥時。若佛眼得道,智與中冥時。佛欲履歷法性,觀知眾生於何時得道,故言是時也。

「是の時」とは、真諦の説によれば、「五種の三時がある:一に説こうと欲する時、正に説く時、説き終えた時;二に外道の過去未来の時を破り、現在に説き聞く有る時を立てる時;三に種を下す時、成熟する時、解脱する時;四に正しき師、正しき教え、正しき学びの時;五に仏が説こうと欲し、衆生が聞こうと欲し、高からず低からず平らかな時」と。今はただ如来が機根を知り、道を得るに堪え得る時を論ずる。もし慧眼によって道を得るならば、智が真諦と冥合する時である。もし法眼によって道を得るならば、智が俗諦と冥合する時である。もし仏眼によって道を得るならば、智が中道と冥合する時である。仏は法性を踏み行き、衆生がいつ道を得るかを観知しようとされる。ゆえに「是の時」と言うのである。

「如來」者,十號之初也。三藏解如來,文多不載。今言:智照理與諸佛等,故言如。慈悲與諸佛等,故言來。諸佛應住祕密藏中,何故出世?只為慈悲故來。《成論》云「乘如實道來成正覺」。大經云「從十一空來」,就智論來;「從六波羅蜜來」,就行論來。《釋論》明如法相解為如,如法相說為來。今明:如三諦法相解名如,如三諦法相說名來,故言如來也。

「如来」とは、仏の十の尊称の最初に挙げられるものです。三蔵(経・律・論)による「如来」の解釈は多くありますが、ここではすべてを記しません。今ここで言うならば、智慧が真理を照らすことが諸仏と等しいから「如」と言い、慈悲が諸仏と等しいから「来」と言うのです。諸仏は本来、秘密の境地に住まわれるべきですが、なぜこの世に現れるのでしょうか。ただ慈悲ゆえに来られるのです。

『成実論』には「真実の道に乗って来り、正覚を成ず」とあります。『大般涅槃経』には「十一の空から来る」とあり、これは智慧の面から来たことを論じ、「六波羅蜜から来る」とは、修行の面から来たことを論じています。『大智度論』では、真理のあり方の通りに悟ることを「如」とし、真理のあり方の通りに説くことを「来」と明かしています。

ここで言うならば、三諦(空・仮・中)の真理のあり方の通りに悟ることを「如」とし、三諦の真理のあり方の通りに説くことを「来」とする。それゆえに「如来」と言うのです。

「游」者,游涉進入之義爾。夫法性者,非入住出,故小《般若》云「如來者,無所從來亦無所去,故名如來。」何得言游邪?良以慈悲導物,斆我而入,故言游也。令眾生食甘露味,亦應言住;為眾生宣說,亦應言出。故《法華》云「善入出住百千三昧」,即此義也。

「游」とは、遊びながら入り込むという意味です。

そもそも法性というものは、入ることも住むことも出ることもありません。ですから、小『般若経』には「如来とは、どこからも来たこともなく、どこへも去ったこともない、だから如来というのである」と説かれています。どうして「游する」などと言えるのでしょうか。

しかし、慈悲をもって衆生を導くために、私たちに倣わせて入らせるからこそ、「游する」と言うのです。衆生に甘露の味を味わわせるためには、「住する」とも言えるでしょう。衆生のために説法するためには、「出る」とも言えるでしょう。

だから『法華経』には「善く百千の三昧に入り出で住する」とあるのです。これがその意味です。

「無量甚深」者,將明游入,簡顯其體高廣、體包法界,故言無量。徹到三諦,故言甚深。非是二乘下地菩薩之所逮及,故言無量甚深也。

「無量甚深」とは、悟りの境地へ入りゆくことを明らかにし、その本質の高遠さと広大さを選び示すものであり、その本質は一切の存在を包み込むゆえに「無量」と言います。三つの真理(三諦)に完全に到達するゆえに「甚深」と言います。これは声聞・縁覚の二乗や、まだ悟りの浅い菩薩たちの及ぶところではないからこそ、「無量甚深」と説かれているのです。

「法性」者,所游之法也。諸佛所軌,名之為法。常樂我淨、不遷不變,名之為性。非是二乘以盡無生智所照之理為法性也。二乘法性淺,故非甚深;有限,故非無量。今之如實智所照之理,橫包法界、竪徹三諦,故言無量甚深爾。又無量者,非別有一法名為無量。毘盧遮那遍一切處,一切諸法皆是佛法,皆佛法故即皆法性,佛皆游之,故言無量。又非別有一法名為甚深。即事而真無非實相,一色一香莫非中道,皆中道故即是甚深。例如《釋論》解四無量心云「緣東方眾生名廣,緣四方名大,緣四維上下名無量。」準此而言,緣真諦法性名廣,緣俗諦法性名大,緣中道法性名無量。若緣中道,即是三智一心中緣,三諦一諦,此境無量,唯佛無量智乃能緣之,如函蓋相稱。非二乘下地測其涯底。

「法性」とは、仏が遊行される法のことです。諸仏が軌範とするものを「法」といい、常楽我浄であり、移り変わらず不変であることを「性」といいます。これは、二乗の尽無生智によって照らされる理を法性とするものではありません。二乗の法性は浅く、甚深ではありません。限界があるため、無量でもありません。今、如実智によって照らされる理は、横に法界を包み、縦に三諦を貫くため、無量甚深と言われるのです。

また、「無量」とは、別に無量という名の法があるのではありません。毘盧遮那仏が一切の処に遍満し、一切の諸法がすべて仏法であり、すべてが仏法であるからこそ、すべてが法性なのです。仏はこれらすべてに遊行されるので、無量と言われるのです。

さらに、「甚深」とは、別に甚深という名の法があるのではありません。即事而真であり、すべてが実相であって、一色一香もすべて中道です。すべてが中道であるからこそ、それが即ち甚深なのです。

例えば『釈論』が四無量心を解釈して、「東方の衆生を縁とすることを広といい、四方を縁とすることを大といい、四維上下を縁とすることを無量という」と述べています。これに準えて言えば、真諦の法性を縁とすることを広といい、俗諦の法性を縁とすることを大といい、中道の法性を縁とすることを無量といいます。

もし中道を縁とするならば、それは三智が一心において縁とし、三諦が一諦となることです。この境は無量であり、ただ仏の無量智のみがこれを縁とすることができます。それは函と蓋がぴったり合うようなものです。二乗や下地の者たちがその涯底を測ることはできません。

「諸佛行處」者,正顯佛智無量甚深。佛智無量甚深故行處亦無量甚深,行處無量甚深故佛智亦無量甚深。舉函顯蓋、舉蓋顯函,正在此也。

「諸仏の行処」とは、まさに仏の智慧が無量で甚深であることを表しています。仏の智慧が無量で甚深であるがゆえに、その行われるところもまた無量で甚深であり、行われるところが無量で甚深であるがゆえに、仏の智慧もまた無量で甚深なのです。箱を示して蓋を表し、蓋を示して箱を表す、まさにここにその意味があります。

「過諸菩薩所行清淨」者,正簡也。菩薩居未及之地,智之所行未能深廣故。《地持》云「菩薩得九種禪。初名自性禪,若入此禪,即入實相法性清淨之境,二乘不聞其名,況有其行。若入第九清淨淨禪,一切通別惑累若正若習皆盡,故言清淨淨禪。」自下地去皆有餘習,佛住十地頂,若入此禪過諸菩薩。《淨名》云「心淨已度諸禪定」,即此義也。亦是舉其高位,簡法性甚深也。

「過諸菩薩所行清淨」とは、正しく区別することである。菩薩はまだ及ばない境地にあり、智慧の行うところは深く広大であるとはいえないからである。

『地持経』には、「菩薩は九種の禅を得る。初めを自性禅といい、もしこの禅に入れば、即ち実相・法性の清浄なる境に入る。二乗はその名さえ聞くことがなく、ましてその行いがあるはずもない。もし第九の清浄浄禅に入れば、一切の通惑・別惑の煩わしさが、正体であれ習気であれ、ことごとく尽きる。ゆえに清浄浄禅という」とある。

それ以下の地(菩薩の階位)には、いずれも残る習気がある。仏は十地の頂点に住し、もしこの禅に入れば、諸菩薩を超えるのである。

『維摩経』に「心が清浄であれば、すでに諸々の禅定を渡り終えている」とあるのは、この意味である。また、高位を挙げて、法性の甚深なることを区別しているのである。

「是金光明」下,敘述序。若敘正說流通十七品意,已如上說。今更論敘述五重玄義。初十二行半敘名體宗用,次十四行半即敘流通弘宣此典,即是敘教相也。就初一句敘名,次一句敘體,次三行敘宗,次九行敘用。「護世」下去敘教相也。解者或言:金光明一句猶是敘體,如鑛石中金,金體乃非光非明,不妨約金論內外用,法性非宗非力,亦依法性起於宗力。當知此句正是敘體,今明理乃當然,分文則屬敘名也。經王,上已說,今更述之。三藏云:「三德攝三,《涅槃》正斷二乘斷見,《般若》正遣凡夫有著,《華嚴》正化始行菩薩。今經通為八位人,故稱王也。」此語難解。《涅槃》為菩薩說甚深微妙行處,豈止為二乘?《般若》云「法身佛為法身菩薩說法。」其聽法眾非生死人,豈止遣凡夫有著?《華嚴》說初地乃至說十地,豈止為始行菩薩?作此偏說,無智之人於諸經起輕慢,此義不可。今言經王者,若取文為經,即是三種俗諦;若取理為經,即是三種真諦;若取文理合為經,即是三種中道。若說餘諦,是經而非王;若說中道,是經復是王,於九種經中而得自在。但經王是一,隨緣設教名字不同。《華嚴》云法身,方等為實相,《般若》稱佛母,《法華》為髻珠,《涅槃》名佛師,皆是法性異名,通為諸經作體。譬如諸性應運迭興,龍師鳥官隨時霸立,百代雖異而統王是一。法性亦爾。宜聞《大品》佛母為王,餘名廢息。宜聞《法華》寶所為王,餘名廢息。法性為金光明之王,亦復如是。若作此解,上不違佛經王之旨,下不增長眾生我慢。

「是金光明」以下は、序文の説明です。もし正説と流通の十七品の意を説明するなら、すでに上で述べた通りです。今さらに五重玄義について論じます。最初の十二行半は名・体・宗・用を説明し、次の十四行半は流通とこの経典の弘宣を説明しており、これが教相の説明です。最初の一句は名を、次の一句は体を、次の三行は宗を、次の九行は用を説明しています。「護世」以下は教相の説明です。

解釈する者の中には、金光明の一句は依然として体の説明であると言う者もいます。例えば鉱石の中の金のように、金の本体は光でも明でもありませんが、金に基づいて内外の用を論じることが妨げられません。法性は宗でも力でもありませんが、法性に依って宗と力が起こります。この一句こそが体の説明であると知るべきです。今、理を明らかにすれば当然のことですが、文を分ければ名の説明に属します。

経王については、すでに上で述べましたが、今さらに述べます。三蔵は言います:「三徳は三を摂し、『涅槃経』は正に二乗の断見を断ち、『般若経』は正に凡夫の有執を遣わし、『華厳経』は正に始行の菩薩を化します。今の経は八位の人々のために通じるので、王と称するのです。」この言葉は理解しがたいです。『涅槃経』は菩薩のために甚深微妙な行処を説いており、ただ二乗のためだけでしょうか。『般若経』は「法身仏は法身菩薩のために法を説く」と言っており、その聴法の衆は生死の人々ではなく、ただ凡夫の有執を遣わすだけでしょうか。『華厳経』は初地から十地までを説いており、ただ始行の菩薩のためだけでしょうか。このような偏った説き方をすると、無智の人は諸経に対して軽慢の心を起こし、この義は受け入れられません。

今、経王と言うのは、もし文を経と取れば、それは三種の俗諦です。もし理を経と取れば、それは三種の真諦です。もし文と理を合わせて経と取れば、それは三種の中道です。もし他の諦を説くなら、それは経ではあっても王ではありません。もし中道を説くなら、それは経であり、また王であり、九種の経の中において自在を得ます。ただし、経王は一つであり、縁に随って教えを設け、名前が異なるだけです。『華厳経』は法身と言い、方等は実相と言い、『般若経』は仏母と称し、『法華経』は髻珠と言い、『涅槃経』は仏師と言います。これらは皆、法性の異名であり、通じて諸経の体となります。例えば、諸々の性が応じて興り、龍師や鳥官が時に随って覇を立てるように、百代は異なっても統べる王は一つです。法性もまた同じです。『大品』を聞くに適えば、仏母が王となり、他の名は廃れます。『法華経』を聞くに適えば、宝所が王となり、他の名は廃れます。法性が金光明の王となるのも、また同じです。もしこのように解するなら、上は仏の経王の旨に背かず、下は衆生の我慢を増長させません。

「微妙」者,他釋因微果妙。今不爾,因果俱微妙。因中性德深而難見名為微,不縱不橫名為妙,果中修德亦復如是。

「微妙」とは、他の解釈では因が微細で果が微妙であると説きます。しかし今はそうではなく、因も果もともに微妙なのです。因の中にある本性の徳は深遠で見えにくいので「微」と呼び、縦にも横にも偏らないので「妙」と呼びます。果の中にある修行の徳もまた同じです。

「四方四佛護持」者,四方者,四門也。四佛者,四門果上覺智也。釋迦覺智與四佛同,諸佛果智冥於法性,法性得顯,名為法身。法身不動,名之為持。法性常故諸佛亦常,法常佛常,壽命亦常,常故無量。信相推迹惑本,四佛令其達本悟迹,名之為護。此一句種種義,法性四門、法性四德即體義,果智顯體即宗義,護念信相斷疑復是用義,而敘宗為正意。觀心解者,四方是四諦,四佛是四諦智。東是方首,如集是苦因。又東甲乙是春生,生即集諦也。從東次南,亦猶生而有長,先春次夏,故南方是苦諦也。長後秋收,又白帝屬金,金能決斷,西方即道諦也。從秋收至冬藏,眾事都息,北方如滅諦。苦集因果皆謝無用也。觀此四諦生眼智明覺,持理不失、護倒不起,故名護持也。又觀四方是四德,觀東方常為破無常、觀無常為破常、觀非常非無常破常無常,乃至觀北方無我為破我亦如是。此觀持德不失、護倒不起,故名護持也。觀東方集諦常非常非無常不動,故名阿閦。觀南方苦諦樂無去無來法性實相,實相尊貴故名寶相。觀西方道諦畢竟清淨,法性壽命與虛空等,故名無量壽。觀北方滅諦永寂為我入祕密藏,祕密藏故名微妙聲(云云)。

「四方四仏護持」とは、四方とは四つの門を指し、四仏とは四つの門の果てに至る覚りの智慧を意味します。釈迦の覚りの智慧は四仏と同じであり、諸仏の果ての智慧は法性に深く溶け込みます。法性が顕現した時、それを法身と呼びます。法身は動かず、これを「持つ」と名付けます。法性が常住であるがゆえに諸仏も常住であり、法が常なら仏も常、寿命もまた常住であり、常住であるがゆえに無量です。信相菩薩が迷いの根源を探求すると、四仏は彼が根源に達し、迷いの跡を悟るよう導きます。これを「護る」と名付けます。この一句には様々な意味が含まれます。法性の四門、法性の四徳は本体の意味であり、果ての智慧が本体を顕すことは宗旨の意味です。信相菩薩を護り念じて疑いを断つことは作用の意味であり、宗旨を述べることが主たる意図です。

観心による解釈では、四方は四諦を表し、四仏は四諦の智慧です。東は方角の始まりであり、集諦が苦の原因となるように、また東の甲乙は春の生を表し、生は集諦です。東から南へと順に進むのは、生の後に成長があるように、春の後に夏が来るため、南方は苦諦です。成長の後に秋の収穫があり、また白帝は金に属し、金は決断を意味するため、西方は道諦です。秋の収穫から冬の貯蔵へと移り、全ての事が静まるように、北方は滅諦です。苦と集の因果は全て消え去り、役目を終えます。この四諦を観じて眼と智と明と覚が生じ、真理を失わず、誤った見解を起こさないように守るため、「護持」と呼びます。

また、四方を四徳として観じます。東方の常住を観じて無常を破り、無常を観じて常住を破り、非常でも非無常でもないことを観じて常住と無常を破り、さらに北方の無我を観じて我を破ることも同様です。この観想によって徳を保ち失わず、誤った見解を起こさないように守るため、「護持」と呼びます。

東方の集諦を観じて、常住でも非常でも非無常でもなく動かないため、これを阿閦仏と名付けます。南方の苦諦を観じて、楽であり去来がなく、法性の実相であることから、実相が尊貴であるため宝相仏と名付けます。西方の道諦を観じて、畢竟清浄であり、法性の寿命が虚空と等しいため、無量寿仏と名付けます。北方の滅諦を観じて、永遠の寂滅が我であり、秘密蔵に入ることから、秘密蔵であるため微妙声仏と名付けます(云云)。

「我今當說」下九行偈是敘用。文為四:初三行明能破之勝法、次三行半明所破之惡罪、次一行半舉行法勸修、次一行結成。初三行明能破勝法者,謂境法,法性也;行法,懺悔讚歎也;導法,一切種智也。故言懺悔等法,知非一種也。若相資為論,行資智,智顯理,理顯故能盡眾苦,苦盡故法身顯,智圓故報身顯,功德無上故應身顯。若圓論者,三法不縱不橫而修,三身亦不縱不橫而顯。雖圓別之殊,俱是能破之勝法也。觀舊文語略,新本具有三周說法之文,四佛說常果,上根得益;婆羅門說法身無舍利,中根得益;佛分別三身,下根得益。今敘中云「我今當說懺悔等法」,即是敘下三周之法能破惡也。次從「諸根不具」下敘述〈空品〉。文為二:初三行半明所破之惡、次二行半明能破之方。初又為三:「諸根不具」下破報障、「愁憂」一句破煩惱障、「惡星災異」下破業障。餘經對緣云報障難轉,因時可救,果無如何。此經三障皆可轉。一往釋此三障,由破五戒。破五戒是業障,受三塗人天等身是報障,煩惱為根本是煩惱障。今直就人道中明犯五戒報者,諸根外缺、壽命內夭。此兩句是殺生報,昔損他身,分今諸根殘毀;昔斷他命,今壽損減。經云「殺生因緣得二種果報,多病、短命。」即其事也。若貧窮困苦,是外無依報。諸天捨離,是內無福德。此兩句是犯盜戒。經云「有同生同名天龍輔佐之,功德天發願利益之。」盜人無此事也。又先富後貧者,必是龍棄天捨也。若親厚內鬪、王法外加,此兩句是犯淫戒。經言「人護則人瞋,法護則法壞。昔侵其人,今骨肉鬪訟;昔毀他法,今王法所加。」即其事也。各各忿諍,此應有兩句,或是翻者脫落,或是略爾。內則各各忿諍、外則人人不信,此一雙是犯妄語。昔不實欺他,今常被欺忿。昔語無實,今人無信者。外耗財物、內虧禮度,此是飲酒報。昔慢財費日,今多損耗;昔乖撙節,今墮聾騃。經言「嫌恨猛風吹罪心火常令熾然」,即其事也。問:釋大乘經,何得以五戒對義?答:開合五戒,大有所關。《提謂經》云「五戒者天地之大忌,上對五星、下配五岳、中成五藏。犯之者違天觸地,自伐其身也。」又對五常,不殺對仁、不盜對義、不淫對禮、不飲酒對智、不妄語對信。又對五經,不殺對《尚書》、不盜對《春秋》、不淫對《禮》、不妄語對《詩》、不飲酒對《易》。又對十善,殺盜淫是身三、妄語攝口四、飲酒攝意三。俗不能護口,略制一不妄語。《釋論》云「說重者是妄語」,則已攝三。飲酒是邪命自活、增益恚癡。出世以智慧為首,生死以三毒為根,若能禁酒,是防止意地三毒,長養出世智慧也。是為開五戒出十善。十善是舊法輪王所用,亦名性罪性善,都是一切罪之根本。又五戒對五陰,不殺即色陰、不盜即受陰、不淫即想陰、不妄語即行陰、不飲酒即識陰。五陰開四念處,念處開三十七品,三十七品開三脫門,三脫門開涅槃,故云色能發戒、受受禪定、想慧悟虛通、行發解脫、識即知見。當知五戒能成五分法身,辦二乘之法也。又五戒亦是大乘法門,《提謂經》云「五戒是佩長生之符、不死之印」,即常德也。「出入無亂、往還無間」,即淨德也。「統御一身」,即我德也。「以立道根」,即樂德也。此是五戒對四德。束五戒為三業,即對三無失、三不護、三輪不思議化、三密、三軌、三身、三佛性、三般若、三涅槃、三智、三德等無量三法門,橫竪無邊際,與虛空法界等,亦是無盡藏法門,亦是無量義三昧。舉要言之,即是一切佛法也。

「我今當説」以下の九行の偈は、その内容を述べたものである。文は四つに分けられる。初めの三行は、悪を破る優れた法を明かす。次の三行半は、破られるべき悪しき罪を明かす。次の一行半は、その法を修めるよう勧める。最後の一行は、それを結びとして成す。初めの三行が「能破の勝法」を明かすとは、対象となる法(境法)は法性であり、実践する法(行法)は懺悔と讃嘆であり、導く法(導法)は一切種智である。ゆえに「懺悔等の法」と言うのであり、ただ一種ではないことを知るのである。もし相互に資し合うという観点から論じれば、行が智を助け、智が理を顕わし、理が顕わされるゆえに、あらゆる苦を尽くすことができる。苦が尽きるゆえに法身が顕れ、智が円満になるゆえに報身が顕れ、功徳が無上であるゆえに応身が顕れるのである。もし円融の立場から論じれば、三つの法は縦にも横にもならずに修され、三身もまた縦にも横にもならずに顕れる。円融と別教の違いはあれど、ともに悪を破る優れた法である。古いテキストの記述は簡略であるが、新しい本には三周にわたる説法の文が備わっている。四仏が常なる果を説き、上根の者が利益を得る。婆羅門が法身には舎利がないと説き、中根の者が利益を得る。仏が三身を分別して説き、下根の者が利益を得る。今、この述べの部分に「我今まさに懺悔等の法を説かん」とあるのは、以下の三周の法が悪を破ることを述べたものである。

次に「諸根具わず」以下は、〈空品〉の内容を述べたものである。文は二つに分けられる。初めの三行半は、破られるべき悪を明かす。次の二行半は、悪を破る方法を明かす。初めの部分はさらに三つに分けられる。「諸根具わず」以下は報障を破る。「愁憂」の一句は煩悩障を破る。「悪星災異」以下は業障を破る。他の経典では因縁に対し、報障は転じ難く、原因の段階では救えるが、結果となってしまってはどうしようもないと説く。しかしこの経では、三障すべてが転じることができる。一応、この三障を解釈すれば、五戒を破ることによるものである。五戒を破ることは業障であり、三悪道や人天などの身を受けることは報障であり、煩悩がその根本であることは煩悩障である。今、ただ人間の道において、五戒を犯した報いを明かせば、諸根が外に欠け、寿命が内に夭折する。この二句は殺生の報いである。かつて他者の身体を損なったので、今、諸根が残り毀れる。かつて他者の命を断ったので、今、寿命が損なわれるのである。経に「殺生の因縁によって二種の果報を得る。多く病むことと、短命なることである」とあるのが、これである。もし貧窮し困苦するならば、それは外に依報(衣食住などの環境)がないことである。諸天に見捨てられるならば、それは内に福徳がないことである。この二句は盗戒を犯したことによる。経に「同生同名の天龍が輔佐し、功徳天が利益を与えようと誓願を発する」とあるが、盗みを働く者にはこのようなことはない。また、かつて富んでいた者が後に貧しくなるのは、必ず龍に見捨てられ、天に見捨てられるからである。もし親しい者同士が内で争い、王法が外から加わるならば、この二句は淫戒を犯したことによる。経に言う「人に護られれば人は瞋り、法に護られれば法は壊れる。かつてその人を侵したので、今、骨肉が争い訟う。かつてその法を毀ったので、今、王法が加わる」とあるのが、これである。「各各忿諍す」、ここには二句あるべきであるが、あるいは翻訳者が脱落させたか、あるいは略したのであろう。内では各各が忿諍し、外では人人が信じない。この一対は妄語を犯したことによる。かつて不実をもって他を欺いたので、今、常に欺かれ忿る。かつて語に実がなかったので、今、人に信じられることがないのである。外では財物を消耗し、内では礼度を欠く。これは飲酒の報いである。かつて財を軽んじ日を費やしたので、今、多く損耗する。かつて節度に背いたので、今、聾や騃に堕するのである。経に「嫌恨の猛風が罪の心の火を吹き、常に熾然ならしめる」とあるのが、これである。

問う。大乗経を解釈するのに、なぜ五戒をもって義に対応させることができるのか。 答える。五戒を開き合することは、大いに関わりがある。『提謂経』に「五戒は天地の大いなる忌みである。上は五星に対応し、下は五岳に配し、中は五蔵を成す。これを犯す者は天に背き地に触れ、自らその身を伐つのである」とある。また、五常に対応させる。不殺は仁に対応し、不盗は義に対応し、不淫は礼に対応し、不飲酒は智に対応し、不妄語は信に対応する。また、五経に対応させる。不殺は『尚書』に対応し、不盗は『春秋』に対応し、不淫は『礼』に対応し、不妄語は『詩』に対応し、不飲酒は『易』に対応する。また、十善に対応させる。殺盗淫は身の三業であり、妄語は口の四業を摂し、飲酒は意の三業を摂する。俗人は口を護ることができないので、略して一つ、不妄語を制するのである。『釈論』に「重いものは妄語であると言う」とあり、すでに三つを摂している。飲酒は邪命自活であり、瞋恚と愚癡を増益する。出世間では智慧を第一とし、生死では三毒を根本とする。もし酒を禁じることができれば、それは意の地における三毒を防止し、出世間の智慧を養い育てることになる。これが五戒を開いて十善を出すことである。十善は古い法であり、輪王の用いるところであり、また性罪・性善とも名付けられ、すべて一切の罪の根本である。また、五戒は五陰に対応する。不殺はすなわち色陰、不盗はすなわち受陰、不淫はすなわち想陰、不妄語はすなわち行陰、不飲酒はすなわち識陰である。五陰は四念処を開き、念処は三十七品を開き、三十七品は三脱門を開き、三脱門は涅槃を開く。ゆえに「色は戒を発し、受は禅定を受け、想は慧として虚通を悟り、行は解脱を発し、識は知見である」と言うのである。知るべし、五戒は五分法身を成し、二乗の法をなすことができるのである。また、五戒もまた大乗の法門である。『提謂経』に「五戒は長生の符を佩き、不死の印を戴く」とあり、これは常徳である。「出入乱れず、往還間隔なし」、これは浄徳である。「一身を統御す」、これは我徳である。「道根を以て立つ」、これは楽徳である。これは五戒が四徳に対応することである。五戒を束ねて三業とすれば、それは三無失・三不護・三輪不思議化・三密・三軌・三身・三仏性・三般若・三涅槃・三智・三徳など、無量の三法門に対応する。横にも縦にも際限がなく、虚空法界と等しく、また無尽蔵の法門であり、また無量義三昧である。要を挙げて言えば、すなわち一切の仏法なのである。

復次害命名事殺,不害命名事不殺。法門解者,析法名理殺,體法名理不殺。當知不殺之戒種種不同,論其果報亦復不同。若作意防護,如馬著勒、如牧牛執杖者,報在人道百二十年,唯得肉眼無有四眼。若任運性成如河注海者,報在六天,極長者九百二十六億七千萬歲,唯得天眼未得三眼。若加修客戒、無常苦無我等慧者,報在變易,壽七百阿僧祇,唯得慧眼未得二眼。若加修常無常等慧,報在蓮華藏海受法性身,分得五眼,分得常壽。比佛猶是諸根不具,壽命損減,況前諸根諸壽邪?若圓教人,持事不殺戒,又持理不殺戒,不壞於身而隨一相,不斷癡愛起於明脫,體陰界入無所毀傷,若子若果不生不滅,成就智慧居常寂光土,常壽湛然五眼具足,得根自在耳見眼聞,得命自在脩短自任,是則名為究竟持戒,諸根具足命不損減也。又圓教人何但持之是戒唯殺唯慈,亦作事殺亦作理殺。如仙豫大王殺五百婆羅門,與其見佛之眼,與其十劫之壽。又作法門殺者,析蕩累著淨諸煩惱,如樹神折枝不受怨鳥,如劫火燒木灰炭雙亡。故《央掘》云「我誓斷陰界入,不能持不殺戒。」一切塵勞是如來種,斷此種盡乃名為佛,成就金剛微妙法身,湛然應一切。唯殺唯慈,垂形九道,隨其所宜示長短命,任其所見,用缺具根而化度之。前諸戒行淺近隘塞,非是通途;圓戒宏遠徑異會同,故名究竟持不殺戒也。不殺之戒,人天已上極佛已還,曠大縱橫其義如是,云何而謂是小乘數耶?

さらに、害をなすことを「事殺」と名づけ、害をなさないことを「事不殺」と名づけます。法門の解釈としては、法を分析することを「理殺」と名づけ、法の本体を体得することを「理不殺」と名づけます。不殺の戒にはさまざまな違いがあり、その果報もまた異なることを知るべきです。

もし意識して防護する、馬に轡をつけるように、牛飼いが杖を執るようにするならば、その報いは人道に生まれ、百二十年の寿命を得ますが、肉眼のみで四眼は得られません。もし自然に本性が完成し、川が海に注ぐようになるならば、その報いは六天に生まれ、最も長くて九百二十六億七千万歳の寿命を得ますが、天眼のみで三眼は得られません。もしさらに客戒を修め、無常・苦・無我などの智慧を加えるならば、その報いは変易に生まれ、七百阿僧祇の寿命を得ますが、慧眼のみで二眼は得られません。もしさらに常・無常などの智慧を加えるならば、その報いは蓮華蔵海に生まれ、法性身を受けて、五眼を部分的に得、常寿を部分的に得ます。しかし、仏と比べれば、まだ諸根が具わらず、寿命も減損しているのです。ましてや、それ以前の諸根・諸寿はなおさらです。

もし円教の人であれば、事不殺の戒を持ち、また理不殺の戒を持ちます。身を壊すことなく一相に随い、癡愛を断たずに明脱を起こし、陰・界・入の本体を傷つけることなく、子も果も生滅せず、智慧を成就して常寂光土に住み、常寿は湛然として五眼を具え、根自在を得て耳で見、眼で聞き、命自在を得て寿命の長短を自ら任じます。これこそが究竟の持戒であり、諸根が具足し、命が減損しないのです。

また、円教の人は、ただこの戒を持つだけでなく、殺すことのみ、慈しみのみを行います。また事殺も行い、理殺も行います。例えば、仙豫大王が五百の婆羅門を殺し、彼らに仏を見る眼と十劫の寿命を与えたように。また法門の殺を行う者は、執着を分析し蕩除して煩悩を浄めます。樹神が枝を折って怨鳥を受け入れないように、劫火が木を焼いて灰と炭をともに亡くすように。ゆえに『央掘経』には「私は陰・界・入を断つことを誓う。不殺戒を持つことはできない」とあります。一切の塵労は如来の種であり、この種を断ち尽くして初めて仏と名づけられます。金剛の微妙な法身を成就し、湛然として一切に応じます。ただ殺すことのみ、慈しみのみを行い、九道に姿を垂れ、それぞれに適した長短の寿命を示し、それぞれの見る所に任せ、根の具足・不具足を用いて教化します。前の諸戒行は浅近で狭く、通途ではありません。円戒は広大で遠く、道は異なっても会う所は同じです。ゆえに究竟の不殺戒を持つと名づけられるのです。

不殺の戒は、人天以上から極仏に至るまで、広大に縦横にその意義はこのようであり、どうして小乗の数に入ると言えるでしょうか。

復次不與取名事盜,與取名事不盜。法門解者,如佛言曰:「他物莫取,名法門不盜。菩提無與者而取菩提,是名法門盜。」不盜之戒種種不同,若持戒作業求可意果,可意果者無常速朽悉是他物,臭如糞果、害如毒食,有智之人所不應求,設使得之心不甘樂,云何殷勤飲苦食毒而自毀傷?貧窮四姓即此三界洄澓困苦,豈過有流?三障障佛,第一義天之所捨離,是名為盜,非不盜也。又二乘之人以四諦智觀身受心法,厭惡生死欣求涅槃,涅槃心起,為自、為他、為共、為無因,介爾心生即取他物,即非時取。證即不待說所因,焦種不生。見苦斷集修道造盡,非求法也。謂有涅槃,成涅槃見。若有著空者,諸佛所不度,身長三百由旬而無兩翅,墮三無為坑,受若死若死等苦。《法華》云「飢餓羸瘦體生瘡癬」,豈非貧窮困苦邪?《淨名》云「不見佛、不聞法、不入眾數」,豈非第一義天遠離邪?此猶名盜,非不盜也。若別教菩薩,次第行、次第學、次第道,從淺至深捨一取一,來已更復來、去已更復去,悉是辱於來去相,亦是不與而取。取已而捨,亦是貧窮。捨已更取,數數去取,即是困苦。不即與第一義相應,即是遠離。此猶名盜,非不盜也。圓人觀諸法實相,受亦不受、不受亦不受、亦受亦不受亦不受、非受非不受亦不受。不受亦不受,不取是菩提,障諸願故。是法平等無有高下,不高故不取,不下故不捨。如是觀者,觀如來藏具足無缺,是如意珠隨意出寶、即脩羅琴任意出聲,即是大富。大富故無取,無取故即第一義,第一義故天不遠離也,是名究竟持不盜戒也。圓人復有盜法門,菩提無與者而取菩提,如海吞流不隔萬派、如地荷負擔四重擔,眾生悉度、煩惱悉斷,法門悉知、佛道悉成,此義可知不能多說。前諸戒行淺而且塞,非是通途;圓戒宏遠徑異會同,故名究竟持不盜戒也。

また、与えられていないものを取ることを盗みとし、与えられたものを取ることを盗みとしない法門の解釈があります。例えば仏が言われたように、「他人の物を取ってはならない、これを法門における盗みとしないと説く。菩提は誰からも与えられないものだが、それを取ることを法門における盗みとする」のです。

盗みをしない戒めには様々な種類があります。もし戒律を守り修行して、望ましい結果を求めるならば、その望ましい結果は無常であり、すぐに朽ち果てるもので、すべて他人の物に過ぎません。それは糞のようなくさった果実であり、毒のある食べ物のように害をもたらすもので、知恵ある人が求めるべきものではありません。たとえ手に入れたとしても、心から楽しむことはできず、どうして苦いものを飲み、毒を食べて自らを傷つけることに熱心になれるでしょうか。

貧しい四姓(四つの階級)とは、この三界の流転する苦しみにほかなりません。有の流れ(生死の流転)を超えるものがあるでしょうか。三つの障害が仏を妨げ、第一義の天から遠く離れていることを、盗みと呼ぶのであって、盗みでないとは言えません。

また、二乗(声聞・縁覚)の人は四諦の智恵によって身・受・心・法を観じ、生死を厭い涅槃を欣求します。涅槃を求める心が起こると、それが自分自身のためであれ、他人のためであれ、共通のためであれ、原因なくしてであれ、わずかな心の動きが即ち他人の物を取ることになり、時ならぬ取り方となります。悟りは説かれた原因を待たず、焦げた種からは芽が出ないのです。苦を見て集を断ち、道を修して尽きることを造るのは、法を求めることではありません。涅槃があると考えることで、涅槃への執着が生じます。もし空に執着する者がいれば、諸仏も救うことはできず、身長三百由旬あっても両翼がなく、三つの無為の穴に落ち、死や死に等しい苦しみを受けることになります。

『法華経』に「飢えと衰弱で体に瘡癬が生じる」とあるのは、まさに貧窮と困苦ではないでしょうか。『維摩経』に「仏を見ず、法を聞かず、衆数の仲間に入らない」とあるのは、まさに第一義の天から遠く離れていることではないでしょうか。これもなお盗みと呼ぶのであって、盗みでないとは言えません。

もし別教の菩薩が、順を追って行い、順を追って学び、順を追って道を進め、浅いものから深いものへと、一つを捨てて一つを取るならば、来てはまた来、去ってはまた去るという来去の相に縛られ、これも与えられていないものを取ることになります。取っては捨てるのは貧しさであり、捨ててはまた取ることを繰り返すのは困苦です。すぐに第一義と相応しないことは、遠く離れていることです。これもなお盗みと呼ぶのであって、盗みでないとは言えません。

円教の人は諸法の実相を観じます。受けることも受けない、受けないことも受けない、受けることも受けないことも受けない、受けるのでもなく受けないのでもないことも受けない。受けないことも受けない、取らないことが菩提であり、あらゆる願いを妨げるからです。この法は平等であり、高下がありません。高くないから取らず、低くないから捨てない。このように観じる者は、如来蔵が具足して欠けることがないことを観じ、それは如意宝珠のように思いのままに宝を出し、阿修羅の琴のように自由に音を出す、つまり大いなる富です。大いなる富があるから取ることもなく、取ることがないから即ち第一義であり、第一義であるから天から遠く離れていないのです。これが究極的に盗みをしない戒めを保つことです。

円教の人にはさらに盗みの法門があります。菩提は誰からも与えられないものだが、それを取ることは、海が流れを飲み込んで万の流れを隔てず、大地が重い荷物を担いで四つの重荷を負うように、すべての衆生を救い、すべての煩悩を断ち、すべての法門を知り、すべての仏道を成し遂げることです。この意味は理解できるでしょうが、多くは語れません。

先に述べた様々な戒行は浅く狭く、普遍的な道ではありません。円戒は広大で遠く、道は異なっても最終的には一つに会するので、究極的に盗みをしない戒めを保つと言うのです。

復次男女身會名事淫,不會名事不淫。法門解者,若心染法是名為淫,不染法名為不淫。不淫之戒種種不同,若關禁七支如猴著鎖,擎一油鉢過諸大眾,割捨觸樂求於未來淨潔五欲,如市易法以銅錢博金錢,此乃增長欲事,非不欲也。若為生天故持戒,如羝羊相觸,將前而更却。帝釋共八十億那由他天女縱逸嬉戲,看東忘西欲猶不足,化為老脩羅納舍脂,使諸天亡身失首,又見仙人入定污弄其女,仙從定起,釋羞自化為羝羊,仙人呪之,千根著身無能却者,後來懺謝變為千眼,是亦增欲,非不欲也。若斷欲界麁弊之欲,染著色無色界禪定之樂,如氷魚蟄蟲墮長壽天,是為一難。貪著禪味名為大縛,是染欲法,非不欲也。若憎惡生死如怨如蛇,愛翫涅槃如親如寶,棄之直去涉路不迴,諸有色聲不能染屈,如八方風不能動須彌。若聞菩薩勝妙功德,甄迦羅琴聲,迦葉起舞不能自持;隨嵐風至,破須彌如腐草,是染欲法,非不染也。若菩薩惡生死如糞穢、惡涅槃如怨鳥,捨於二邊志存中道,起順道法愛生,名頂墮,是菩薩旃陀羅。既無方便,此慧被縛,不能勝怨,己所修治為無慧利,是染欲法,非不欲也。圓人觀一心三諦,即空即假即中。即空何所染?即假何所淨?即中何所邊?即空即假,何所中?即空故無我人十六知見依正等愛,即假故無空無相願等愛,即中故無佛菩提轉法輪度眾生等愛,三諦清淨名畢竟淨,是淨亦淨。經言「唯佛一人具淨戒,餘人皆名污戒者。」圓人行於佛法,即究竟持不淫戒也。圓人又有染愛法門,如和須蜜多女,人見人、女天見天女,見者得見諸佛三昧,執手者得到佛剎三昧,歍者極愛三昧,抱者冥如三昧,各各皆得法門。亦如魔界行不污戒菩薩,變為無量身,共無量天女從事,皆令發菩提心。如維摩詰,若入後宮,後宮中尊,化正宮女。先以欲鉤牽,後令入佛道,斯乃非欲之欲,以欲止欲,如以屑出屑、將聲止聲。前諸行淺塞,非是通途。圓戒宏遠徑異會同,是名究竟持不淫戒也。

また、男女の身が会うことを「事淫」といい、会わないことを「事不淫」という。法門の解釈では、心が法に染まればこれを「淫」といい、法に染まらなければ「不淫」というのである。

不淫の戒めには様々な違いがある。もし七支(身口意の七つの悪行)を禁じるのが、猿が鎖につながれ、油鉢を捧げて大衆の中を通るようなものであれば、触れる楽しみを断ち切って未来の清らかな五欲(財・色・名・食・睡)を求めるのは、市場で銅銭を金銭と交換するようなものだ。これは欲を増長させるものであって、欲を断つことにはならない。

もし生天(天界に生まれること)を願って戒を保つなら、雄羊が角を合わせて前進しようとして却って後退するようなものだ。帝釈天が八十億那由他(無数)の天女と戯れ、東を見て西を忘れ、なお欲が足りず、老いた修羅に変じて舎脂(天女の名)を娶り、諸天に身を亡ぼし首を失わせた。また仙人が禅定に入り、その娘を汚そうとしたのを見て、仙人が定から起きると、帝釈天は恥じて自ら雄羊に変じた。仙人が呪をかけると、千の角が体に生え、どうしても抜けなくなった。後に懺悔して謝罪し、千の眼に変わった。これもまた欲を増長させるものであって、欲を断つことにはならない。

もし欲界の粗悪な欲を断ち、色界・無色界の禅定の楽しみに染着するなら、氷中の魚や冬眠する虫が長寿天に堕ちるようなもので、これも一つの難である。禅の味わいに貪着するのは大いなる束縛であり、これは欲に染まる法であって、欲を断つことにはならない。

もし生死を憎み怨み蛇のごとく、涅槃を愛で宝のごとく思い、これを捨ててひたすら道を進み後戻りせず、あらゆる色や音声に染まることがなければ、八方の風が須弥山を動かせないようなものである。しかし菩薩の勝れた妙なる功徳を聞き、甄迦羅琴の音を聴けば、迦葉さえも舞い踊らずにはいられなくなる。随嵐風(暴風)が至れば、須弥山も腐った草のように破られる。これも欲に染まる法であって、染まらないことにはならない。

もし菩薩が生死を糞尿のように憎み、涅槃を怨み鳥のように憎み、二つの極端を捨てて中道を志すなら、順道の法愛(正しい道への執着)が生じて「頂堕」と呼ばれ、これは菩薩の旃陀羅(賤民)である。方便がなければ、この智慧も縛られ、怨敵に勝つことができず、自ら修めたものも智慧の利益とはならない。これも欲に染まる法であって、欲を断つことにはならない。

円教の人は一心三諦を観じる。即ち空・即ち仮・即ち中である。即ち空であれば、何に染まることがあろうか。即ち仮であれば、何を清めることがあろうか。即ち中であれば、何が偏ることがあろうか。即ち空即ち仮であれば、何が中であろうか。即ち空であるから、我・人・十六知見・依正などの愛はなく、即ち仮であるから、空・無相・無願などの愛はなく、即ち中であるから、仏・菩提・法輪を転じ衆生を度すなどの愛はない。三諦が清浄であることを畢竟浄といい、この清浄さもまた清浄である。経に「ただ仏一人のみが浄戒を具し、余人は皆な污戒者と名づく」とある。円教の人が仏法を行ずることは、すなわち究竟の不淫戒を持つことなのである。

円教の人にはまた染愛の法門がある。和須蜜多女のように、人には人として、天には天女として見え、見る者は諸仏三昧を得、手を執る者は仏刹三昧を得、口づけする者は極愛三昧を得、抱擁する者は冥如三昧を得、それぞれが法門を得るのである。また魔界で不污戒を行ずる菩薩のように、無量身に変じて無量の天女と交わり、皆をして菩提心を発させた。維摩詰のように、もし後宮に入れば後宮の中で尊ばれ、宮女たちを教化する。まず欲の鉤で引き寄せ、後に仏道に入らしめる。これは欲ならざる欲であり、欲をもって欲を止めるのである。屑をもって屑を出し、声をもって声を止めるようなものだ。先に述べた諸行は浅く狭く、通じる道ではない。円戒は広大遠大で、道は異なっても会うところは同じ、これを究竟の不淫戒を持つというのである。

復次不見言見、見言不見,名事妄語。法門解者,未得謂得、未證謂證,名為妄語。妄語多種,諸欲求時苦、得時多怖畏、失時懷憂惱,諸欲無樂時。凡夫癡人於下苦中橫生樂想,竪我慢幢、打自大鼓,謂色即是我、我即是色,色中有我、我中有色,執有與無鬪、執無與有鬪,依止斷常,起六十二戲論,破慧眼,不見於真實,增見長諸非,吾我毒甚盛,備口四過,略標妄語爾。三十三天黃葉生死謂是真金,非想自地具細煩惱謬計涅槃,此非妄語,誰是妄語邪?二乘之人競執瓦礫歡喜持出,生滅度想,生實未盡,寧得滅度?生安隱想,所作未辦,寧得安隱?《淨名》云「佛為增上慢人,說離淫怒癡名為解脫,其實未得一切解脫。」未得謂得,豈非妄語邪?佛為別教人以四門說實相,執於一有隔礙三門,乃至執非有非無而隔有無。夫實相者,言語道斷、心行處滅,云何以字字於無字?云何以數數於無數?豈非妄語邪?圓人如實而觀、如實而說。如實觀者,非內觀得是解脫,非外觀、非內外觀、非離內外觀,亦不以無觀得是解脫。如實說者,一切實、一切不實、一切亦實亦不實、一切非實非不實,如是皆名諸法實相。經言「諸佛皆實語,佛語實不虛。能以一妙音,遍滿三千界,隨意之所至,隨諸眾生類,各各皆得解。」即是以佛道聲令一切聞也。圓人亦有妄語法門,無車說車誘戲童子,無樂說樂止彼啼兒。若有眾生因虛妄說得利益者,佛亦妄說。經言「我是貪欲尸利、我是瞋恚尸利、愚癡尸利,然實非也。我是天是人,實非天人。我是龍鬼,實非龍鬼。將虛以出虛,令有不虛爾。」前諸行淺近隘塞。圓行深遠,夷坦無礙,經異會同,故能如此,是名究竟持不妄語戒也。

また、見ていないのに見たと言い、見ているのに見えないと言う、これを事妄語といいます。法門の解釈においては、得ていないのに得たとし、悟っていないのに悟ったとする、これを妄語といいます。妄語にはさまざまな種類があります。諸々の欲望は求める時は苦しく、得た時は多く怖れを抱き、失った時は憂い悩みを抱くものであり、欲望に楽しみの時はありません。凡夫の愚かな者は、下等な苦しみの中に勝手に楽しみの思いを生じ、我慢の旗を立て、自惚れの太鼓を打ち鳴らし、色(物質)こそが我であり、我こそが色であるとし、色の中に我があり、我の中に色があるとします。有を執着して無と争い、無を執着して有と争い、断見と常見に依拠して六十二の戯論を起こし、慧眼を破り、真実を見ず、誤った見解を増長させて諸々の過ちを長じ、我執の毒は甚だ盛んとなり、口の四つの過ちを備えます。これが妄語の概略です。

三十三天の黄葉生死を真の金と思い、非想自地に微細な煩悩を具えながら涅槃と誤って計る、これは妄語ではありません。では、何が妄語でしょうか。二乗の人は瓦礫を争って執着し、喜んで持ち出して、滅度の思いを生じます。しかし、生の実相がまだ尽きていないのに、どうして滅度を得られましょうか。安穏の思いを生じますが、なすべきことがまだ終わっていないのに、どうして安穏を得られましょうか。『浄名経』に「仏は増上慢の人々のために、淫欲・怒り・愚痴を離れることを解脱と説くが、実は一切の解脱を得ていない」とあります。得ていないのに得たとする、これこそ妄語ではありませんか。

仏は別教の人々に四つの門を通して実相を説きますが、一つの有に執着して他の三つの門を隔て、あるいは非有非無に執着して有無を隔てます。しかし、実相とは言語の道が断たれ、心の行くところが滅したものであり、どうして文字をもって無字を表し、数をもって無数を表せましょうか。これこそ妄語ではありませんか。

円教の人はありのままに観察し、ありのままに説きます。ありのままに観察するとは、内観によって解脱を得るのではなく、外観によっても、内外観によっても、内外を離れた観察によっても、また無観によっても解脱を得るのではないということです。ありのままに説くとは、一切は実であり、一切は実でなく、一切は実でもあり実でもなく、一切は実でもなく実でなくもない、このようにすべてを諸法実相と名づけることです。経に「諸仏は皆、実語であり、仏の言葉は虚妄ではない。一つの妙音をもって三千世界に満ち、意のままに至り、諸々の衆生の類に随って、それぞれが理解を得る」とあります。これは仏道の声をもって一切に聞かせることです。

円教の人にも妄語の法門があります。車がないのに車があると言って童子を誘い、楽しみがないのに楽しみがあると言って泣く子をなだめるようにです。もし衆生が虚妄の説きによって利益を得るならば、仏もまた妄語を説きます。経に「私は貪欲の尸利であり、瞋恚の尸利であり、愚痴の尸利であるが、実はそうではない。私は天であり人であるが、実は天人ではない。私は龍であり鬼であるが、実は龍鬼ではない。虚妄をもって虚妄を出し、不虚なるものを存在させようとするのである」とあります。

先に述べた諸行は浅近で狭く塞がっていますが、円行は深遠で平らかであり、妨げがありません。経典は異なっても会うところは同じであり、だからこそこのようにできるのです。これこそが究竟に不妄語戒を持つということです。

復次若穀若草昏心眩亂者,名事酒。法門解者,迷惑倒見名之為酒。倒見多種,夫酒為不善諸惡根本,能生三十六種之失,招於五百世中無手,慢刑失禮發出伏匿,眠臥糞穢搪揬水火,過患如此,人猶尚之。晉世引滿稱藝能,魏朝清濁為賢聖,畢卓自署為酒徒,鄭泉自誓為酒壺,竹帛載之、古今歌之,不應作而作、不應歌而歌,非醉酒是何?《釋論》云「有一法師為王說五戒罪福。王難云:『飲酒招狂,飲者甚多,狂者何少邪?』法師舉手指諸外道而已,更言餘事。外道侜張云:『王難甚深,是禿高座更不能答。』王云:『法師答竟。狂亦不少,指汝等是。將護不彰爾。』」此即世人之醉也。又貪如海納流無有滿時,瞋如火益薪展轉彌熾,癡如膠黏結如氷足水,八萬塵勞煩惱其心無暫停住,掣電蛇舌颺焰獼猴五欲攪作無時不醉。《大經》云「從昔已來常為聲色所醉,流轉生死。」三界人天通有此醉也。若二乘之人,雖斷九十八使四住煩惱,無明未吐,如半瘧人。《大經》引醉歸之人。世間無常樂而言我淨,如來實我淨而言無常樂,如彼醉人見日月轉,此二乘醉也。菩薩之人,無明未盡不了了見,菩薩行故見不了了,如遠望大舶遙觀鵝雁,夜覩畫像遠視人杭,亦如醉人朦朧見道。如是等無量譬喻,顯於菩薩未得明了。故迦葉云:「自此已前我等悉名邪見人也。」此菩薩醉也。圓人行如來行,具煩惱性,能知如來祕密之藏,雖有肉眼名為佛眼,所可見者更不復見。故文云「入深法性,即於此典金光明中,而得見我釋迦牟尼。」《大經》云「了了見佛性,猶如妙德等。」是則五住正習一時無有餘。酒法既除,何所可醉?是為究竟持不飲酒戒也。圓人亦有飲酒法門,《鴛掘》云「持真空瓶,盛實相酒,變化五道,宣揚哮吼。」波斯匿醉,轉更多恩。末利后飲,佛言持戒。入于酒肆,自立其志,亦立他志。夫得其門者逆順俱當,失其柄者操刀傷手。前諸行淺近隘塞,圓行宏遠徑異會同,故能如此,是名究竟醉醒無二也。

また、もし穀物や草で心をくらませ乱すものがあれば、それは「事酒」と呼ばれます。法門の解釈では、迷いや誤った見解を酒と呼びます。誤った見解にはさまざまな種類があります。酒は不善であり、あらゆる悪の根本です。三十六種の過失を生み出し、五百世の間、手のない報いを招きます。傲慢で礼儀を失い、隠していた悪行を表に出し、糞尿の中で眠り、火や水にぶつかります。このような過ちがあるのに、人々はなおも酒を好みます。晋の時代には杯を満たすことが技芸と称され、魏の時代には清酒と濁酒が賢人や聖人のように扱われました。畢卓は自らを「酒徒」と名乗り、鄭泉は「酒壺」になることを誓いました。歴史書に記され、古今で歌われています。すべきでないことを行い、歌うべきでないことを歌う、これが酔いではないでしょうか。

『釈論』にこうあります。「ある法師が王に五戒の罪と福について説きました。王は難題を出しました。『酒を飲むと狂気を招くというが、飲む者は多いのに、狂う者はなぜ少ないのか?』法師は外道たちを指さして、他の話題に変えました。外道たちは誇張して言いました。『王の難題は深遠だ。この禿げた高座の者は答えられない。』王は言いました。『法師はすでに答えた。狂っている者も少なくない、お前たちを指しているのだ。配慮して明言しなかっただけだ。』」これが世の人々の酔いです。

また、貪りは海のように流れを受け入れ満ちることがなく、瞋りは火のように薪を加えればますます燃え盛り、痴は膠のように結びつき氷のように水を足します。八万の煩悩が心を乱し、一瞬も止まりません。稲妻のような舌、炎を上げる蛇、猿のような五欲が絶え間なくかき乱し、常に酔っている状態です。『大経』に言います。「昔から常に声と色に酔い、生死を流転してきた。」三界の人と天は皆、この酔いを持っています。

二乗の人々は、九十八の煩悩と四住の煩悩を断ったとしても、無明はまだ吐き出されておらず、半病人のようです。『大経』は酔って帰る人を引き合いに出します。世間は無常で楽ではないのに「我は清浄だ」と言い、如来は実に我が清浄であるのに「無常で楽だ」と言う。まるで酔った人が日月が回るのを見るようなものです。これが二乗の酔いです。

菩薩の人々は、無明が尽きず、はっきりと見ることができません。菩薩の行いゆえに見えにくく、遠くから大船を見るようであり、鵞鳥を遠くから見るようであり、夜に絵を見るようであり、遠くから人を見るようであり、また酔った人がぼんやりと道を見るようです。このような無数の譬えは、菩薩がまだ明らかに得ていないことを示しています。だから迦葉は言います。「これ以前、我々は皆、邪見の人と呼ばれていた。」これが菩薩の酔いです。

円教の行者は如来の行いを行い、煩悩の性質を備えながら、如来の秘密の蔵を知ることができます。肉眼があっても、それは仏眼と呼ばれ、かつて見たものをもう見ることはありません。だから経文に言います。「深い法性に入れば、この金光明の経典の中で、我が釈迦牟尼を見ることができる。」『大経』に言います。「はっきりと仏性を見ることは、妙徳らと同じである。」つまり、五住の煩悩と習気が一時に残らず消え去ります。酒の法が除かれたなら、何に酔うことがあるでしょうか。これが究極の不飲酒戒を持つことです。

円教の行者にも飲酒の法門があります。『鴛掘』に言います。「真空の瓶を持ち、実相の酒を盛り、五道に変化して、哮吼を宣揚する。」波斯匿王が酔えば、さらに多くの恩恵が転じます。末利夫人が飲めば、仏は戒を持っていると言います。酒場に入り、自らの志を立て、他者の志も立てます。その門を得た者は、順逆ともに適切であり、柄を失った者は、刀を操って手を傷つけます。前の諸行は浅く狭く、円行は広大で遠く、道は異なっても会うところは同じです。だからこそこのようになるのです。これが究極の酔いと醒めが二つではないということです。

上觀四諦智名四佛。觀五佛云何觀?觀五戒實相,覺智清淨,即是觀心中見五佛也。次破煩惱障,指「愁憂恐怖」一句是也。上來諸事,或約內身或約外報,是報障義便,此一句專明心為煩惱障便。

四つの真理を観る智慧が四仏である。では、五仏を観るとはどういうことか。五戒の実相を観じ、覚りの智慧が清らかになること、これが心の中に五仏を見る観法である。次に煩悩の障りを破るとは、「憂いや恐れ」という一句がこれを指す。これまで述べてきた事柄は、内なる身について説く場合もあれば、外なる果報について説く場合もあったが、これらは報いの障りの意味に通じる。この一句は特に心を煩悩の障りとして明らかにしているのである。

金光明經文句卷第一

金光明経文句 巻第一


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