解深密經勝義諦相品第二
第二品 勝義諦の相
爾時,如理請問菩薩摩訶薩,即於佛前問解甚深義密意菩薩言:「最勝子!言一切法無二,一切法無二者,何等一切法?云何為無二?」
そのとき、如理請問菩薩摩訶薩は、仏の前で、解甚深義密意菩薩にこうお尋ねしました。「最勝子よ、すべての法は二つではないと言い、すべての法は二つではないと言いますが、それはどのようなすべての法なのですか。どのようにして二つではないのですか。」
解甚深義密意菩薩告如理請問菩薩曰:「善男子!一切法者,略有二種:一者、有為;二者、無為。是中有為,非有為非無為;無為,亦非無為非有為。」
「善き人よ、すべての法(ものごと)は、大きく分けて二種類ある。第一は『有為(条件づけられたもの)』、第二は『無為(条件づけられていないもの)』である。
しかし、その有為は、実は有為とも言えず、無為とも言えない。また、無為も、無為とも言えず、有為とも言えないのだ。」
如理請問菩薩復問解甚深義密意菩薩言:「最勝子!如何有為,非有為非無為;無為,亦非無為非有為?」
理に適った質問をした菩薩が、さらに解甚深義密意菩薩に尋ねました。 「最勝子よ。どのようにして有為は、有為でもなく、無為でもなく、無為もまた、無為でもなく、有為でもないのでしょうか?」
解甚深義密意菩薩謂如理請問菩薩曰:「善男子!言有為者,乃是本師假施設句。若是本師假施設句,即是遍計所集、言辭所說;若是遍計所集、言辭所說,即是究竟種種遍計言辭所說。不成實故,非是有為。善男子!言無為者,亦墮言辭。設離有為、無為少有所說,其相亦爾。然非無事而有所說。何等為事?謂諸聖者以聖智、聖見,離名言故,現等正覺;即於如是離言法性,為欲令他現等覺故,假立名想謂之有為。
深遠なる義理と密意を解き明かす菩薩、名を如理請問菩薩が申し上げた。 「善男子よ。『有為』という言葉は、そもそも本師が仮に立てた言葉の表現である。もし本師が仮に立てた言葉の表現であるならば、それは遍計(あらゆる分別)によって集められ、言葉によって説かれたものである。そして、遍計によって集められ、言葉によって説かれたものであるならば、それは最終的には様々な分別の言葉によって説かれたものに過ぎない。実として成立しないがゆえに、それは『有為』ではないのである。 善男子よ。『無為』という言葉もまた、言葉の枠組みに堕している。仮に有為や無為から離れて、わずかに何かを説こうとしても、そのあり方もまた同じである。しかし、何の基盤もなくて言葉が説かれるのではない。 では、その基盤とは何か。すべての聖者は、聖なる智慧と聖なる見解によって、言葉や名称を離れているがゆえに、現に等しく正しく覚っている。そのような言葉を離れた法の本質(法性)について、他者にも現に等しく覚らせるために、仮に名前や概念を立てて『有為』などと呼ぶのである。」
「善男子!言無為者,亦是本師假施設句;若是本師假施設句,即是遍計所集、言辭所說;若是遍計所集、言辭所說,即是究竟種種遍計言辭所說。不成實故,非是無為。善男子!言有為者,亦墮言辭。設離無為、有為少有所說,其相亦爾。然非無事而有所說。何等為事?謂諸聖者以聖智、聖見,離名言故,現等正覺;即於如是離言法性,為欲令他現等覺故,假立名想謂之無為。」
「善男子。『無為』という言葉も、本来の師が仮に設けた表現にすぎません。もし本来の師が仮に設けた表現であるならば、それは分別によって集められた言葉によって語られたものです。分別によって集められ、言葉で語られたものであるならば、究極的には様々な分別と文章表現にすぎません。実際の真理を現しているわけではないので、真の無為ではありません。 善男子。また『有為』という言葉も、言葉の世界に落ちています。もし『無為』や『有為』を離れて何かを少しでも語ろうとしても、その様相も同様に言葉の域を出ません。しかし、何も根拠なく言葉が語られているわけではありません。その根拠とは何でしょうか。 それは、聖者たちが聖なる智慧と聖なる見解によって、言葉や概念を離れたところで、悟りを現前に等しく覚っていることです。そして、その言葉を超えた法の本質について、他者にもその悟りを現前に覚らせたいと願い、仮に名前を設けて『無為』と呼ぶのです。」
爾時,如理請問菩薩摩訶薩復問解甚深義密意菩薩摩訶薩言:「最勝子!如何此事彼諸聖者以聖智、聖見,離名言故,現等正覺;即於如是離言法性,為欲令他現等覺故,假立名想,或謂有為?或謂無為?」
その時、如理請問菩薩が、解甚深義密意菩薩に問うた。「最も優れた方よ。聖者たちは、聖なる智慧と聖なる見解によって、言葉を離れたものとして、そのまま正しく悟りを開きます。この言葉を離れた法の本質について、他の人々にも悟りを開かせるために、仮に名前や概念を立てて、『有為』と呼び、あるいは『無為』と呼ぶのは、どのようなことなのでしょうか。」
解甚深義密意菩薩謂如理請問菩薩曰:「善男子!如善幻師或彼弟子,住四衢道,積集瓦、礫、草、葉、木等,現作種種幻化事業。所謂:象身、馬身、車身、步身,末尼、真珠、琉璃、螺貝、璧玉、珊瑚,種種財、穀、庫藏等身。若諸眾生愚癡、頑鈍、惡慧種類,無所曉知,於瓦、礫、草、葉、木等上諸幻化事,見已聞已,作如是念:『此所見者,實有象身、實有馬身、車身、步身,末尼、真珠、琉璃、螺貝、璧玉、珊瑚,種種財、穀、庫藏等身。』如其所見,如其所聞,堅固執著,隨起言說:『唯此諦實,餘皆愚妄。』彼於後時應更觀察。
深遠なる義の密意を解き明かす菩薩とは、如理請問菩薩にこう説かれたものです。 「善男子よ。例えば巧みな幻術師、あるいはその弟子が、四つ辻に立ち、瓦や石ころ、草や葉、木などを集めて、様々な幻の仕掛けを現すとしよう。いわゆる、象の姿、馬の姿、車の姿、歩兵の姿、また、宝玉、真珠、瑠璃、ほら貝、璧玉、珊瑚、あるいは様々な財産や穀物、倉庫などの姿である。 もしも、愚かで鈍く、浅い知恵しか持たない人々が、これらの瓦や石ころ、草や葉、木などの上に現れた幻の現象を見たり聞いたりして、こう思うとしよう—— 『今見ているものは、本当に象の姿であり、本当に馬の姿、車の姿、歩兵の姿、宝玉、真珠、瑠璃、ほら貝、璧玉、珊瑚、様々な財産や穀物、倉庫などの姿なのだ』と。 彼らは見たまま、聞いたままを固く信じ込み、そのように言い立てる。『これだけが真実であり、他はすべて間違いだ』と。 そうした人々は、後になってさらに観察し直すべきである。」
「若有眾生非愚、非鈍、善慧種類,有所曉知,於瓦、礫、草、葉、木等上諸幻化事,見已聞已,作如是念:『此所見者,無實象身、無實馬身、車身、步身,末尼、真珠、琉璃、螺貝、璧玉、珊瑚,種種財、穀、庫藏等身;然有幻狀迷惑眼事。於中發起大象身想,或大象身差別之想,乃至發起種種財、穀、庫藏等想,或彼種類差別之想。』不如所見,不如所聞,堅固執著,隨起言說:『唯此諦實,餘皆愚妄。』為欲表知如是義故,亦於此中隨起言說。彼於後時不須觀察。
「もしも衆生の中に、愚かでも鈍でもなく、善く智慧ある種類に属し、物事をよく知る者がいるならば、彼は瓦や礫、草や葉、木などの上に現れる幻の術を見たり聞いたりして、こう思うでしょう。『ここに見えるものには、実在の象の姿も、馬の姿も、車の姿も、歩兵の姿もない。また、宝珠や真珠、琉璃、貝殻、璧玉、珊瑚などの様々な財宝や穀物、倉庫などの姿もない。しかし、幻の様相があって、眼を惑わすだけである。その中で、大きな象の姿という想いや、あるいは大きな象の様々な違いの想いが生じ、さらには様々な財宝や穀物、倉庫などの想い、あるいはそれらの種類の違いの想いが起こるのだ。』 その人は、見たまま、聞いたままを堅く執着し、言葉を発して『これだけが真実であり、他はすべて愚かしい誤りである』と言います。そのような意味を示すために、彼はまたその中で言葉を発するのです。その人は後になって、わざわざ観察し直す必要はありません。」
「如是,若有眾生是愚夫類,是異生類,未得諸聖出世間慧,於一切法離言法性不能了知;彼於一切有為、無為,見已聞已,作如是念:『此所得者,決定實有有為、無為。』如其所見,如其所聞,堅固執著,隨起言說:『唯此諦實,餘皆癡妄。』彼於後時應更觀察。
このように、愚かな凡夫の類いであり、まだ聖者の出世間の智慧を得ていない衆生は、すべての法が言葉を離れた本性を持つことを理解できない。彼らは、すべての有為と無為について、それを見たり聞いたりすると、こう思う。「ここで得られたものこそ、確かに実在する有為や無為である」と。その見たまま、聞いたままを頑なに執着し、それに基づいて言葉を発する。「これだけが真実であり、他はすべて愚かで虚妄である」と。彼らは後により深く観察すべきである。
「若有眾生非愚夫類,已見聖諦,已得諸聖出世間慧,於一切法離言法性如實了知;彼於一切有為、無為,見已聞已,作如是念:『此所得者,決定無實有為、無為。然有分別所起行相,猶如幻事迷惑覺慧,於中發起為、無為想,或為、無為差別之想。』不如所見,不如所聞,堅固執著,隨起言說:『唯此諦實,餘皆癡妄。』為欲表知如是義故,亦於此中隨起言說。彼於後時不須觀察。
もし衆生の中で、愚かな者ではない類いの人がいて、既に聖なる真理を見極め、既に諸聖者の出世間の智慧を得て、あらゆる法について、言葉を離れた法の性質を如実に了知しているとする。 その人は、すべての有為と無為について、見聞きした後に、このように考える。 「ここで得られたものは、決して実体のある有為や無為ではない。しかしながら、分別によって生じる行相が存在し、それは幻のようなものであり、覚慧を惑わす。その中で、有為や無為という想い、あるいは有為と無為の区別という想いが生じる。」 その人は、見たまま、聞いたままに、固く執着したり、それに基づいて言葉を発して「これだけが真実であり、他はすべて愚かな虚妄である」と語ったりすることはない。 このような意味を表し知らせるために、その中でも言葉を発することはあるが、その後の時には、わざわざ観察する必要はないのである。
「如是,善男子!彼諸聖者於此事中,以聖智、聖見,離名言故,現等正覺;即於如是離言法性,為欲令他現等覺故,假立名想,謂之有為,謂之無為。」
このように、善き男子よ。聖者たちはこの真理について、聖なる智慧と聖なる見解によって、言葉を超えたまま現に正しく悟りを開いている。そして、このような言葉を離れた真理の本質を、他の者にも悟らせたいと願って、仮に名や概念を立てて、「有為」と言い、「無為」と言うのである。
爾時,解甚深義密意菩薩,欲重宣此義而說頌曰:
その時、深遠なる意味と密意を解き明かす菩薩が、この意味を改めて説き明かそうとして、次の偈を語った。
「佛說離言無二義,甚深非愚之所行;
愚夫於此癡所惑,樂著二依言戲論。
彼或不定或邪定,流轉極長生死苦;
復違如是正智論,當生牛羊等類中。」
「仏が説かれた言葉を離れた不二の真理は、非常に深遠であり、愚かな者には理解できないものだ。 愚かな凡夫たちは、この真理に惑わされ、言葉に左右された虚構の議論に執着している。 彼らは悟りへと定まらない者か、あるいは邪な道へと定まった者であり、迷いの中を長く生死の苦しみを流転する。 さらに、この正しい智慧の教えに背くならば、牛や羊などの畜生道に生まれることになる。」
爾時,法涌菩薩白佛言:「世尊!從此東方過七十二殑伽河沙等世界,有世界,名具大名稱;是中如來,號廣大名稱。我於先日,從彼佛土發來至此。我於彼佛土曾見一處,有七萬七千外道并其師首,同一會坐。為思諸法勝義諦相,彼共思議、稱量、觀察、遍推求時,於一切法勝義諦相,竟不能得。唯除種種意解,別異意解,變異意解,互相違背共興諍論,口出矛𥎞,更相𥎞已、刺已、惱已、壞已,各各離散。世尊!我於爾時,竊作是念:『如來出世,甚奇!希有!由出世故,乃於如是超過一切尋思所行勝義諦相,亦有通達,作證可得。』」說是語已。
その時、法涌菩薩が仏に申し上げた。 「世尊よ、ここから東方に七十二のガンジス川の砂の数ほどの世界を超えたところに、『大名称』という世界がございます。そこに『広大名称』という如来がおられます。私は先日、その仏の国からここに参りました。その仏の国で、一つの場所に七万七千の外道とその師たちが皆一緒に座っているのを見ました。彼らは諸法の勝義諦の相について考え、ともに思案し、計量し、観察し、あまねく推究しましたが、一切の法の勝義諦の相を、ついに得ることができませんでした。ただ、さまざまな意解(解釈)、異なる意解、変わりゆく意解が生じ、互いに相反して論争を起こし、口から槍を繰り出し、互いに刺し合い、悩ませ、傷つけ合い、それぞれが散り散りになりました。世尊よ、私はその時、ひそかにこう思いました。『如来の出現は、まことに奇であり、希有である。出現されたがゆえに、このような、あらゆる尋思の及ぶところを超えた勝義諦の相についても、通達し、証得することが可能となるのだ。』と。」 このように語った。
爾時,世尊告法涌菩薩曰:「善男子!如是,如是!如汝所說。我於超過一切尋思勝義諦相,現等正覺;現等覺已,為他宣說、顯現、開解、施設、照了。何以故?我說:『勝義是諸聖者內自所證;尋思所行是諸異生展轉所證。』是故,法涌!由此道理,當知勝義超過一切尋思境相。復次,法涌!我說:『勝義無相所行;尋思但行有相境界。』是故,法涌!由此道理,當知勝義超過一切尋思境相。復次,法涌!我說:『勝義不可言說,尋思但行言說境界。』是故,法涌!由此道理,當知勝義超過一切尋思境相。復次,法涌!我說:『勝義絕諸表示,尋思但行表示境界。』是故,法涌!由此道理,當知勝義超過一切尋思境相。復次,法涌!我說:『勝義絕諸諍論,尋思但行諍論境界。』是故,法涌!由此道理,當知勝義超過一切尋思境相。
その時、世尊は法涌菩薩に告げられました。 「善き男子よ、その通り、その通りです。あなたの言う通りです。 私は、あらゆる思考を超えた、最高の真理の姿を、自ら目覚め、悟りを得ました。 その悟りを得た後、他の人々にもそれを説き、示し、解き明かし、教え、明らかにしてきました。 なぜなら、私はこう説いたからです。 『最高の真理とは、聖者たちが自らの内で悟るものである。 思考の働きによって進む道は、迷える凡夫たちが互いに語り合い、論じ合うものに過ぎない。』 ですから、法涌よ、この道理によって、最高の真理は、あらゆる思考の領域を超えたものであると知るべきです。
さらに、法涌よ、私はこう説きました。 『最高の真理は、形のない世界で働くものである。 思考の働きは、ただ形のある世界でのみ動く。』 ですから、法涌よ、この道理によって、最高の真理は、あらゆる思考の領域を超えたものであると知るべきです。
さらに、法涌よ、私はこう説きました。 『最高の真理は、言葉では表現できないものである。 思考の働きは、ただ言葉で表せる世界でのみ動く。』 ですから、法涌よ、この道理によって、最高の真理は、あらゆる思考の領域を超えたものであると知るべきです。
さらに、法涌よ、私はこう説きました。 『最高の真理は、あらゆるしるしや表れを超越している。 思考の働きは、ただしるしや表れのある世界でのみ動く。』 ですから、法涌よ、この道理によって、最高の真理は、あらゆる思考の領域を超えたものであると知るべきです。
さらに、法涌よ、私はこう説きました。 『最高の真理は、あらゆる議論や論争を超越している。 思考の働きは、ただ議論や論争のある世界でのみ動く。』 ですから、法涌よ、この道理によって、最高の真理は、あらゆる思考の領域を超えたものであると知るべきです。」
「法涌!當知,譬如有人盡其壽量習辛苦味;於蜜、石蜜上妙美味,不能尋思、不能比度、不能信解。或於長夜由欲貪勝解諸欲熾火所燒然故;於內除滅一切色、聲、香、味、觸相妙遠離樂,不能尋思、不能比度、不能信解。或於長夜由言說勝解,樂著世間綺言說故;於內寂靜聖默然樂,不能尋思、不能比度、不能信解。或於長夜由見聞覺知表示勝解,樂著世間諸表示故;於永除斷一切表示薩迦耶滅究竟涅槃,不能尋思、不能比度、不能信解。法涌!當知,譬如有人於其長夜由有種種我所、攝受,諍論勝解,樂著世間諸諍論故;於北拘盧洲無我所、無攝受、離諍論,不能尋思、不能比度、不能信解。如是,法涌!諸尋思者,於超一切尋思所行勝義諦相,不能尋思、不能比度、不能信解。」
法涌よ、知るがよい。たとえば、ある人が一生の間、苦い味だけに慣れ親しんできたとする。そうすると、蜜や甘い菓子の素晴らしい甘味について、思い巡らすことも、比べ考えることも、信じて理解することもできない。
あるいは、長い夜の間、欲望への執着によって、あらゆる欲望の激しい炎に焼かれ続けてきたとする。そうすると、内側において、すべての色・声・香・味・触の相を取り除いた、素晴らしい遠離の喜びについて、思い巡らすことも、比べ考えることも、信じて理解することもできない。
あるいは、長い夜の間、言葉による表現に執着し、世間の華やかな言葉遊びを楽しんできたとする。そうすると、内側の静けさである聖なる沈黙の喜びについて、思い巡らすことも、比べ考えることも、信じて理解することもできない。
あるいは、長い夜の間、見ること・聞くこと・感じること・知ることによる表れに執着し、世間のさまざまな表れを楽しんできたとする。そうすると、すべての表れを完全に断ち切り、「我がある」という見解が消滅した究極の涅槃について、思い巡らすことも、比べ考えることも、信じて理解することもできない。
法涌よ、知るがよい。たとえば、ある人が長い夜の間、「我がもの」という所有や執着、議論に慣れ親しみ、世間の論争を楽しんできたとする。そうすると、北倶盧州(ほっくるしゅう)における、「我がもの」がなく、所有もなく、論争を離れた境地について、思い巡らすことも、比べ考えることも、信じて理解することもできない。
このように、法涌よ。あらゆる分別思考を超えたところにある勝義諦(しょうぎたい)の相について、分別に慣れた者は、思い巡らすことも、比べ考えることも、信じて理解することはできないのである。
爾時,世尊欲重宣此義,而說頌曰:
その時、世尊はこの教えの意味を改めて明らかにしようと、次のように詩句でお示しになりました。
「內證無相之所行,不可言說絕表示,
息諸諍論勝義諦,超過一切尋思相。」
内に証するところは、形なき行いであり、 言葉にできず、示すこともできない。 あらゆる論争を静める、最高の真理であり、 あらゆる思索の対象を超えている。
爾時,善清淨慧菩薩白佛言:「世尊!甚奇!乃至世尊!善說!如世尊言:『勝義諦相微細甚深,超過諸法一異性相,難可通達。』世尊!我即於此曾見一處,有眾菩薩等正修行勝解行地,同一會坐,皆共思議勝義諦相與諸行相一異性相。於此會中,一類菩薩作如是言:『勝義諦相與諸行相都無有異。』一類菩薩復作是言:『非勝義諦相與諸行相都無有異;然勝義諦相異諸行相。』有餘菩薩疑惑猶豫,復作是言:『是諸菩薩,誰言諦實?誰言虛妄?誰如理行?誰不如理?』或唱是言:『勝義諦相與諸行相都無有異。』或唱是言:『勝義諦相異諸行相。』世尊!我見彼已竊作是念:『此諸善男子愚癡、頑鈍、不明、不善、不如理行,於勝義諦微細甚深,超過諸行一異性相,不能解了。』」說是語已。
その時、善清淨慧菩薩が仏に申し上げました。 「世尊よ、なんと素晴らしいことでしょう。世尊は見事にお説きになりました——『勝義諦の相は極めて深遠であり、あらゆる現象の同一性・差異性という特徴を超えているため、理解することが難しい』と。
世尊よ、私は以前、ある一つの場所で、勝解行の地を修行している多くの菩薩たちが一堂に会し、勝義諦の相と諸々の行相が同一か異なるかを共に議論しているのを見ました。 その会の中で、ある種の菩薩は『勝義諦の相と諸々の行相は、全く同一で差異はない』と言いました。 別の種の菩薩は『勝義諦の相と諸々の行相は決して全く同じではなく、むしろ勝義諦の相は諸々の行相とは異なる』と言いました。 さらに別の菩薩たちは疑い迷い、『これらの菩薩たちの中で、誰が真実を語り、誰が虚偽を語っているのか? 誰が道理に適った行いをし、誰が道理に背いているのか?』と言い合っていました。 あるいは『勝義諦の相と諸々の行相は全く同一である』と唱え、またある者は『勝義諦の相は諸々の行相とは異なる』と唱えていました。
世尊よ、私は彼らを見てひそかにこう思いました。 『これらの善なる人々は愚かで、鈍く、理解が浅く、正しくなく、道理に適った行いができていない。勝義諦が極めて深遠であり、諸々の行相の同一性・差異性という特徴を超えていることを、まったく理解できていないのだ』と。」
そう語り終えました。
爾時,世尊告善清淨慧菩薩曰:「善男子!如是,如是。如汝所說:『彼諸善男子愚癡、頑鈍、不明、不善、不如理行,於勝義諦微細甚深,超過諸行一異性相,不能解了。』何以故?善清淨慧!非於諸行如是行時,名能通達勝義諦相,或於勝義諦而得作證。何以故?善清淨慧!若勝義諦相與諸行相都無異者:應於今時一切異生皆已見諦;又諸異生皆應已得無上方便安隱涅槃;或應已證阿耨多羅三藐三菩提。若勝義諦相與諸行相一向異者:已見諦者於諸行相應不除遣;若不除遣諸行相者,應於相縛不得解脫;此見諦者於諸相縛不解脫故,於麁重縛亦應不脫;由於二縛不解脫故,已見諦者應不能得無上方便安隱涅槃;或不應證阿耨多羅三藐三菩提。
その時、世尊は善清淨慧菩薩に告げられた。「善き人よ、その通り、その通りである。あなたが言ったように、『あの善良な人々は愚かで、鈍く、理解が足りず、正しくなく、道理に従った行いをせず、勝義諦(最高の真理)は微細で非常に深く、あらゆる行(現象)の同一性や差異性という性質を超えていることを理解できない』と。
なぜか?善清淨慧よ、現象がそのように働くとき、それを勝義諦の相に通達したとは言えず、また勝義諦を証得したとも言えないのである。
なぜか?善清淨慧よ、もし勝義諦の相と諸行の相とに全く違いがなければ、今この時にあらゆる凡夫がすでに真理を見ているはずであり、また凡夫たちは皆、すでに最高の手段による平安な涅槃を得ているはずであり、あるいはすでに阿耨多羅三藐三菩提(完全なる悟り)を証得しているはずである。
もし勝義諦の相と諸行の相とが全く異なるならば、すでに真理を見た者は諸行の相を取り除くべきではない。もし諸行の相を取り除かないならば、彼らは相の束縛から解脱できないはずである。真理を見た者が諸行の相の束縛から解脱していないのであれば、粗雑な束縛からも解脱できないはずである。そして、この二つの束縛から解脱していないがゆえに、真理を見た者は最高の手段による平安な涅槃を得ることはできず、あるいは阿耨多羅三藐三菩提を証得することはできないはずである。」
「善清淨慧!由於今時非諸異生皆已見諦;非諸異生已能獲得無上方便安隱涅槃;亦非已證阿耨多羅三藐三菩提。是故勝義諦相與諸行相都無異相,不應道理!若於此中作如是言:『勝義諦相與諸行相都無異者。』由此道理,當知一切非如理行,不如正理。
「善清淨慧よ。今この時、すべての凡夫がすでに真理を見たわけではない。また、すべての凡夫がすでに最高の方便である安らかな涅槃を得たわけでもない。さらに、すでに無上の正しい悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を証得したわけでもない。したがって、『勝義諦(最高の真理)の相と、諸行(すべての現象)の相にはまったく差異がない』と説くのは道理にかなわない。もしここで『勝義諦の相と諸行の相はまったく異ならない』と言うならば、その道理によって、そのような考えはすべて理に適わず、正しい理に従っていないと知るべきである。」
「善清淨慧!由於今時非見諦者於諸行相不能除遣,然能除遣;非見諦者於諸相縛不能解脫,然能解脫;非見諦者於麁重縛不能解脫,然能解脫;以於二障能解脫故,亦能獲得無上方便安隱涅槃;或有能證阿耨多羅三藐三菩提。是故勝義諦相與諸行相,一向異相,不應道理!若於此中作如是言:『勝義諦相與諸行相一向異者。』由此道理,當知一切非如理行,不如正理。
「善清浄慧よ。この時代にあって、真理を見ていない者は、諸々の行の相を取り除くことはできないが、取り除くことができる。真理を見ていない者は、諸々の相の束縛から解き放たれることはできないが、解き放たれることができる。真理を見ていない者は、重い束縛から解き放たれることはできないが、解き放たれることができる。これは、二つの障りから解き放たれることができるからであり、また、この上ない方便である安らかな涅槃を得ることもできる。あるいは、無上正等覚を証することもできる。ゆえに、勝義諦の相と諸々の行の相とがまったく異なるというのは、道理にかなわない。もしここで『勝義諦の相と諸々の行の相はまったく異なる』と言うならば、この道理によって、そのすべてが道理にかなった行いではなく、正しい道理に従っていないと知るべきである。」
「復次,善清淨慧!若勝義諦相與諸行相都無異者,如諸行相墮雜染相,此勝義諦相亦應如是墮雜染相。善清淨慧!若勝義諦相與諸行相一向異者,應非一切行相共相,名勝義諦相。善清淨慧!由於今時勝義諦相非墮雜染相;諸行共相名勝義諦相。是故勝義諦相與諸行相都無異相,不應道理;勝義諦相與諸行相一向異相,不應道理!若於此中作如是言:『勝義諦相與諸行相都無有異;或勝義諦相與諸行相一向異者。』由此道理,當知一切非如理行,不如正理。
「さらに、善清浄慧よ。もしも勝義諦(最高の真理)のすがたが、すべての現象のすがたとまったく変わらないのであれば、現象が迷いの汚れに落ちているように、この勝義諦もまた迷いの汚れに落ちているはずである。善清浄慧よ。反対に、勝義諦のすがたが、現象のすがたとまったく別ものであるならば、それはすべての現象に共通する本質とは言えず、勝義諦と呼ばれるべきではない。善清浄慧よ。実際には、勝義諦のすがたは迷いの汚れに落ちておらず、現象に共通する本質として勝義諦と名づけられる。したがって、勝義諦のすがたと現象のすがたがまったく同じであるという主張は道理に合わない。また、両者がまったく別であるという主張も道理に合わない。もしここで『勝義諦のすがたは現象のすがたとまったく同じである』とか、『勝義諦のすがたは現象のすがたとまったく別である』と言うならば、そのような考えはすべて正しい道理にかなっておらず、誤った見解であると知るべきである。」
「復次,善清淨慧!若勝義諦相與諸行相都無異者,如勝義諦相於諸行相無有差別,一切行相亦應如是無有差別。修觀行者於諸行中,如其所見、如其所聞、如其所覺、如其所知,不應後時更求勝義。若勝義諦相與諸行相一向異者,應非諸行唯無我性、唯無自性之所顯現,是勝義相。又應俱時別相成立,謂雜染相及清淨相。
「さらに、善清淨慧よ、もし勝義諦の相と諸行の相とが全く異ならないならば、勝義諦の相が諸行の相と差別がないように、一切の行相もまた同様に差別がないはずである。観行を修める者が諸行の中において、見たまま、聞いたまま、覚ったまま、知ったままに、後になってさらに勝義を求めるべきではない。もし勝義諦の相と諸行の相とが常に異なるならば、諸行がただ無我性と無自性のみによって顕現されるものではなく、これが勝義の相であるはずである。また、同時に別の相として成立するはずである。すなわち、雑染の相と清浄の相とである。」
「善清淨慧!由於今時一切行相皆有差別,非無差別;修觀行者於諸行中,如其所見、如其所聞、如其所覺、如其所知,復於後時更求勝義。又即諸行唯無我性、唯無自性之所顯現,名勝義相。又非俱時染淨二相別相成立。是故勝義諦相與諸行相都無有異、或一向異,不應道理!若於此中作如是言:『勝義諦相與諸行相都無有異、或一向異者。』由此道理,當知一切非如理行,不如正理。
「善清淨慧よ。今の時において、すべての行相(現象のありさま)には違いがあり、違いがないわけではない。修行者が諸々の行(現象)について、見たまま、聞いたまま、感じたまま、知ったままに捉え、その後さらに勝義(最高の真理)を求める。また、諸々の行はただ無我(我がないこと)、ただ無自性(固有の本質がないこと)として現れる。これを勝義の相(真理のありさま)という。さらに、煩悩に染まった相と清らかな相が同時に別々に成立することはない。ゆえに、勝義諦の相と諸々の行の相が全く同じであるとも、あるいは常に異なるとも言うことは道理に適わない。もしここで『勝義諦の相と諸々の行の相は全く同じである』とか『常に異なる』と言うならば、その考えによって、あらゆる理に適わない行いであり、正しい道理に従っていないと知るべきである。」
「善清淨慧!如螺貝上鮮白色性,不易施設與彼螺貝一相異相。如螺貝上鮮白色性;金上黃色亦復如是。如箜篌聲上美妙曲性,不易施設與箜篌聲一相異相。如黑沈上有妙香性,不易施設與彼黑沈一相異相。如胡椒上辛猛利性,不易施設與彼胡椒一相異相。如胡椒上辛猛利性,訶梨淡性亦復如是。如蠧羅綿上有柔軟性,不易施設與蠧羅綿一相異相。如熟酥上所有醍醐,不易施設與彼熟酥一相異相。又如一切行上無常性,一切有漏法上苦性,一切法上補特伽羅無我性,不易施設與彼行等一相異相。又如貪上不寂靜相及雜染相,不易施設此與彼貪一相異相。如於貪上,於瞋、癡上,當知亦爾。如是,善清淨慧!勝義諦相不可施設與諸行相一相異相。
善清淨慧よ、例えば螺貝の上の真っ白な色の性質は、その螺貝と同一の性質とも異なる性質とも容易に定めることができない。螺貝の上の真っ白な色の性質と同様に、金の上の黄色もまた同じである。例えば箜篌の音の上の美しい曲の性質は、その箜篌の音と同一の性質とも異なる性質とも容易に定めることができない。例えば黒沈香の上の妙なる香りの性質は、その黒沈香と同一の性質とも異なる性質とも容易に定めることができない。例えば胡椒の上の辛く鋭い性質は、その胡椒と同一の性質とも異なる性質とも容易に定めることができない。胡椒の上の辛く鋭い性質と同様に、訶梨勒の上の淡い性質もまた同じである。例えば蠧羅綿の上の柔らかい性質は、その蠧羅綿と同一の性質とも異なる性質とも容易に定めることができない。例えば熟酥の上のすべての醍醐は、その熟酥と同一の性質とも異なる性質とも容易に定めることができない。また例えば、すべての行の上の無常の性質、すべての有漏の法の上の苦の性質、すべての法の上の補特伽羅無我の性質は、それらの行などと同一の性質とも異なる性質とも容易に定めることができない。例えば貪りの上の静まらない相や雑染の相は、この相と貪りとが同一の性質とも異なる性質とも容易に定めることができない。貪りの上でのように、瞋りや愚痴の上でも同じであると知るべきである。このように、善清淨慧よ、勝義諦の相は、諸行の相と同一の性質とも異なる性質とも定めることはできないのである。
「善清淨慧!我於如是微細、極微細,甚深、極甚深,難通達、極難通達,超過諸法一異性相,勝義諦相現正等覺;現等覺已為他宣說、顯示、開解、施設、照了。」
「善清淨慧よ。わたしはこのような微細で極めて微細、深遠で極めて深遠、悟りがたい、極めて悟りがたい、あらゆる存在の一なる性質や異なる性質という相を超えた、最高の真理のすがたを正しく悟りました。そしてその悟りを、他の人々にも説き明かし、示し、理解させ、教えを施し、明らかにしたのです。」
爾時,世尊欲重宣此義,而說頌曰:
その時、世尊はこの教えの意味を改めて明らかにしようと、次のように詩句でお示しになりました。
「行界勝義相,離一異性相;
若分別一異,彼非如理行。
眾生為相縛,及彼麁重縛;
要勤修止觀,爾乃得解脫。」
行為の世界の最高の真理の姿は、 一つとも異なるものとも言えない性質を持つ。 もし一つか異なるかと区別するならば、 それは理にかなった行いではない。
衆生は表面のイメージに縛られ、 さらに奥深い煩悩の重荷にも縛られている。 しっかりと止(し)と観(かん)を修行してこそ、 初めて解脱を得ることができるのである。
爾時,世尊告長老善現曰:「善現!汝於有情界中,知幾有情懷增上慢,為增上慢所執持故記別所解?汝於有情界中,知幾有情離增上慢記別所解?」
その時、世尊は長老の善現に告げて言われた。 「善現よ。あなたは、生きとし生けるものの世界の中で、どれほどの者が増上慢(おごり高ぶる心)を抱き、その慢心にとらわれて、自分の理解を(悟りであると)宣言していると思うか。また、どれほどの者が、増上慢を離れて、正しく自分の理解を宣言していると思うか。」
長老善現白佛言:「世尊!我知有情界中少分有情離增上慢記別所解。世尊!我知有情界中有無量無數不可說有情懷增上慢,為增上慢所執持故記別所解。
尊よ、私はこのように思っています。世の中には、増上慢(おごり高ぶり)から離れて正しい悟りを得ている者はほんの一握りにすぎません。また、数えきれないほどの多くの者が増上慢にとらわれ、そのために誤った理解に固執しています。
「世尊!我於一時住阿練若大樹林中,時有眾多苾芻亦於此林依近我住。我見彼諸苾芻於日後分,展轉聚集,依有所得現觀,各說種種相法,記別所解。
世尊。私はある時、閑静な大樹林の中に住んでおりました。その時、多くの僧侶たちもこの林の中で私の近くに住んでいました。私は彼らの僧侶たちが日が暮れてから集まり合い、執着した見解に基づいて、それぞれ様々な特徴や教えについて語り合い、自らの理解を述べ合っているのを見ました。
「於中一類,由得蘊故、得蘊相故、得蘊起故、得蘊盡故、得蘊滅故、得蘊滅作證故,記別所解。如此一類由得蘊故,復有一類由得處故,復有一類得緣起故,當知亦爾。
その中で、ある者は「五蘊の存在を理解した」「五蘊の特徴を理解した」「五蘊が生じることを理解した」「五蘊が尽きることを理解した」「五蘊が消滅することを理解した」「五蘊の消滅を実証した」という理由で、各自の悟りを示します。 このように、ある者は五蘊によって、またある者は十二処によって、そしてまたある者は縁起によって悟りを得ることも、同様に理解すべきです。
「復有一類由得食故、得食相故、得食起故、得食盡故、得食滅故、得食滅作證故,記別所解。
また、ある種の者たちは、食べ物を得ることによって、食べ物の相を得ることによって、食べ物が生じることによって、食べ物が尽きることによって、食べ物が滅することによって、食べ物の滅を実証することによって、自分たちの理解を表明する。
「復有一類由得諦故、得諦相故、得諦遍知故、得諦永斷故、得諦作證故、得諦修習故,記別所解。
またある者たちは、真理を得たことにより、真理の姿を得たことにより、真理を遍く知ったことにより、真理を永遠に断ち切ったことにより、真理を体得したことにより、真理を修習したことにより、自らの理解を明らかにする。
「復有一類由得界故、得界相故、得界種種性故、得界非一性故、得界滅故、得界滅作證故,記別所解。
また、ある種の人々は、界(領域)を得たことにより、界の相(特徴)を得たことにより、界の様々な性質を得たことにより、界が一つではない性質を得たことにより、界の消滅を得たことにより、界の消滅を実証したことにより、その理解を表明します。
「復有一類由得念住故、得念住相故、得念住能治所治故、得念住修故、得念住未生令生故、得念住生已堅住不忘倍修增廣故,記別所解。如有一類得念住故;復有一類得正斷故;得神足故;得諸根故;得諸力故;得覺支故,當知亦爾。
またある者は、念住(気づきの確立)を成就したことにより、念住の特徴を知り、対治法と所治法を理解し、念住の修行を積み、未だ生じていない念住を生じさせ、生じた後はそれを堅固に保ち忘れず、さらに倍加して拡大させることに基づいて、悟りについて自ら解説する。たとえば、ある者が念住によって成就するのと同様に、またある者は正断(精進)によって、神足(神通の基礎)によって、諸根(五根)によって、諸力(五力)によって、覚支(七覚支)によって成就することも、同じように知られるべきである。
「復有一類得八支聖道故、得八支聖道相故、得八支聖道能治所治故、得八支聖道修故、得八支聖道未生令生故、得八支聖道生已堅住不忘倍修增廣故,記別所解。
またある者は、八支聖道を体得したことにより、八支聖道の特質を体得したことにより、八支聖道が対治すべきものと対治するものを体得したことにより、八支聖道を修行したことにより、八支聖道の未だ生じていないものを生じさせることを体得したことにより、八支聖道が生じてから確かにとどまり忘れず、さらに修行を広げ増すことを体得したことにより、その理解を明らかに示したのである。
「世尊!我見彼已竊作是念:『此諸長老依有所得現觀,各說種種相法,記別所解。當知彼諸長老,一切皆懷增上慢,為增上慢所執持故,於勝義諦遍一切一味相,不能解了。』是故,世尊!甚奇!乃至世尊!善說!如世尊言:『勝義諦相,微細、最微細,甚深、最甚深,難通達、最難通達,遍一切一味相。』世尊!此聖教中修行苾芻,於勝義諦遍一切一味相尚難通達,況諸外道。」
「世尊、私はそれを見て、ひそかにこう思いました。『これらの長老方は、何かに執着する見解に基づいて現観(真理の直接的体験)を持ち、それぞれ様々な相(特徴)のある法について説き、それぞれの理解を明らかにしている。知るべきである。これらの長老方は、すべて増上慢(まだ悟っていないのに悟ったと思う慢心)を抱いており、その増上慢に捉えられているがゆえに、勝義諦(最高の真理)の、すべてに等しく一味である相を理解することができないのだ。』 それゆえ、世尊は実に稀有であり、世尊は善く説かれました。世尊のお言葉の通りです。『勝義諦の相は、微細で最も微細、甚深で最も甚深、難通達で最も難通達、すべてに等しく一味である相である』と。 世尊、この聖教の中で修行する比丘でさえ、勝義諦のすべてに等しく一味である相を理解することは難しいのです。ましてや、外道の者たちにはなおさらのことです。」
爾時,世尊告長老善現曰:「如是,如是。善現!我於微細最微細、甚深最甚深、難通達最難通達,遍一切一味相勝義諦,現正等覺;現等覺已,為他宣說、顯示、開解、施設、照了。何以故?善現!我已顯示於一切蘊中清淨所緣,是勝義諦。我已顯示於一切處、緣起、食、諦、界、念住、正斷、神足、根、力、覺支、道支中清淨所緣,是勝義諦。此清淨所緣於一切蘊中,是一味相、無別異相;如於蘊中,如是於一切處中,乃至一切道支中,是一味相、無別異相。是故,善現!由此道理,當知勝義諦是遍一切一味相。
その時、世尊は長老の善現に告げられた。「その通り、その通りである。善現よ、私は最も微細で、最も深遠で、最も悟り難い、あらゆるものに普遍的に及ぶ一味の相を持つ勝義諦を、現に正しく等覚した。そして等覚した後、他の者のためにそれを説き、示し、開き解し、確立し、明らかにしたのである。なぜか。善現よ、私はすでに、あらゆる蘊(集まり)の中における清らかな認識の対象を、勝義諦として示した。また、あらゆる処、縁起、食、諦、界、念住、正断、神足、根、力、覚支、道支の中における清らかな認識の対象を、勝義諦として示した。この清らかな認識の対象は、あらゆる蘊の中で一味の相であり、別々の相ではない。蘊の中におけるのと同様に、あらゆる処の中、そしてあらゆる道支の中に至るまで、一味の相であり、別々の相ではないのである。それゆえ、善現よ、この道理によって、勝義諦はあらゆるものに普遍的に及ぶ一味の相であると知るべきである。」
「復次,善現!修觀行苾芻,通達一蘊真如勝義法無我性已,更不尋求各別餘蘊、諸處、緣起、食、諦、界、念住、正斷、神足、根、力、覺支、道支真如勝義法無我性。唯即隨此真如勝義無二智為依止,故於遍一切一味相勝義諦,審察趣證。是故,善現!由此道理,當知勝義諦是遍一切一味相。
「また、善現よ。観行を修める比丘は、一つの蘊(うん)における真如・勝義・法無我の性を悟ったならば、その後は他の各々の蘊や処・縁起・食・諦・界・念住・正断・神足・根・力・覚支・道支における真如・勝義・法無我の性を、改めて求めることはない。ただ、この真如・勝義にそった、二つなき智慧に依り止し、それによって、すべてに一味の相である勝義諦を、よく観察し、悟りへと向かうのである。ゆえに、善現よ。この道理によって、勝義諦はすべてに一味の相であると知るべきである。」
「復次,善現!如彼諸蘊展轉異相,如彼諸處、緣起、食、諦、界、念住、正斷、神足、根、力、覺支、道支,展轉異相。若一切法真如勝義法無我性亦異相者,是則真如勝義法無我性亦應有因,從因所生。若從因生應是有為,若是有為應非勝義,若非勝義應更尋求餘勝義諦。善現!由此真如勝義法無我性,不名有因,非因所生,亦非有為,是勝義諦,得此勝義更不尋求餘勝義諦。唯有常常時、恒恒時,如來出世、若不出世,諸法法性安立,法界安住。是故,善現!由此道理,當知勝義諦是遍一切一味相。
「さらに、善現よ。例えば、諸々の蘊(色・受・想・行・識)が互いに異なる様相を持ち、また、諸々の処(感官とその対象)、縁起(因果の関係)、食(滋養)、諦(真理)、界(要素)、念住(気づきの確立)、正断(正しい断念)、神足(超自然的な力の基盤)、根(能力)、力(力)、覚支(悟りの要素)、道支(修行の道の要素)もまた互いに異なる様相を持つように、もし一切の法における真如(真理)、勝義(最高の意味)、法無我性(現象に実体がないこと)もまた互いに異なる様相を持つならば、その真如・勝義・法無我性もまた原因を持つことになり、原因から生じたものとなる。もし原因から生じるならば、それは有為(因縁によって作られたもの)となり、有為であるならば勝義(最高の真理)ではないはずである。勝義でなければ、さらに別の勝義諦(最高の真理)を求めるべきことになる。善現よ、しかしながら、この真如・勝義・法無我性は、原因を持つとは言えず、原因から生じたものでもなく、有為でもない。これこそが勝義諦であり、この勝義を得たならば、さらに他の勝義諦を求める必要はない。ただ、常に、いつも、如来が世に現れるときも、現れないときも、諸々の法(現象)の法性(本性)は確立しており、法界(真理の領域)は安住している。それゆえ、善現よ、この道理によって、勝義諦はあらゆる場所にわたって一つの味わいを持つ性質であると知るべきである。」
「善現!譬如種種非一品類異相色中,虛空無相、無分別、無變異、遍一切一味相。如是,異性、異相一切法中,勝義諦遍一切一味相,當知亦然。」
「善現よ。例えば、さまざまな種類や異なる相(すがた)をもつ色の中にあって、虚空は相がなく、区別がなく、変化せず、すべてにわたって一つの味わい(一味)の相を持つものです。これと同じように、性質や相が異なるあらゆる法(ものごと)の中にあって、勝義諦(しょうぎたい:最も深い真理)はすべてにわたって一味の相を持つものであると、知るべきです。」
爾時,世尊欲重宣此義,而說頌曰:
その時、世尊はこの教えの意味を改めて明らかにしようと、次のように詩句でお示しになりました。
「此遍一切一味相,勝義諸佛說無異;
若有於中異分別,彼定愚癡依上慢。」
「この、すべてに遍く一つの味わいという相は、勝れた真理であり、諸仏は異なるものではないと説かれます。もしその中で異なる分別をする者があれば、その者はまさに愚かであり、高慢に依っているのです。」