阿毘達磨大毘婆沙論卷第一
阿毘達磨大毘婆沙論 巻第一
五百大阿羅漢等造
五百人の大阿羅漢たちがお作りになりました。
三藏法師玄奘奉 詔譯
三蔵法師玄奘、勅命により訳す
阿毘達磨發智大毘婆沙論序
阿毘達磨発智大毘婆沙論の序
問誰造此論。答佛世尊。所以者何。以一切種所知法性甚深微妙。非佛世尊一切智者。誰能究竟等覺開示。若爾此中誰問誰答。或有說者。尊者舍利子問。佛世尊答。復有說者。五百阿羅漢問。佛世尊答。有作是說。諸天神問。佛世尊答。有餘師說。化苾芻問。佛世尊答。所以者何。諸佛法爾所知法性。於諸世間定應開示。然無問者。爾時世尊化作苾芻。形容端正眾所樂見。剃除鬚髮服僧伽胝。令彼請問佛世尊答。猶如徵問義品因緣。問若爾此論何故傳言。尊者迦多衍尼子造。答由彼尊者受持演說廣令流布。是故此論名稱歸彼。然是佛說。復有說者。此論即彼尊者迦多衍尼子造。問豈不前言以一切種所知法性甚深微妙。非佛世尊一切智者誰能究竟等覺開示。云何彼尊者能造此論耶。答以彼尊者亦有微妙甚深猛利善巧覺慧。善知諸法自相共相。通達文義及前後際。善解三藏離三界染成就三明。具六神通及八解脫。得無礙解。獲妙願智。曾於過去五百佛所。積修梵行發弘誓願。我於未來釋迦牟尼佛般涅槃後造阿毘達磨。故如是說。一切如來應正等覺弟子眾中。法爾皆有二大論師任持正法。若在世時如尊者舍利子。若般涅槃後如尊者迦多衍尼子。故彼尊者以願智力觀法所益而造此論。問若爾佛說阿毘達磨。何者是耶。答世尊在世於處處方邑。為諸有情以種種論道。分別演說阿毘達磨。佛涅槃後或在世時。諸聖弟子以妙願智。隨順纂集別為部類。是故尊者迦多衍尼子佛去世後。亦以妙願智隨順纂集造發智論。謂於佛說諸論道中安立章門。摽舉略頌造別納息制總蘊名。謂集種種異相論道。制為雜蘊。集結論道制為結蘊。集智論道制為智蘊。集業論道制為業蘊。集大種論道制為大種蘊。集根論道制為根蘊。集定論道。制為定蘊。集見論道制為見蘊。猶如一切鄔拕南頌。皆是佛說。謂佛世尊於處處方邑。為種種有情隨宜宣說。佛去世後大德法救。展轉得聞隨順纂集制立品名。謂集無常頌立為無常品。乃至集梵志頌立為梵志品。此亦如是。阿毘達磨本是佛說。亦是尊者隨順纂集。又若佛說若弟子說不違法性。世尊皆許苾芻受持。故彼尊者展轉得聞。或願智力觀察纂集。為令正法久住世故制造此論。
問う、誰がこの論を作ったのか。答えは、仏世尊です。なぜかといえば、あらゆる種類の知られるべき法性はきわめて深く微妙であり、仏世尊という一切智者でなければ、誰が究極に等覚して開示できるでしょうか。それならば、ここでは誰が問い、誰が答えたのか。あるいは説く者がいます、尊者舎利子が問い、仏世尊が答えました。また別に説く者がいます、五百の阿羅漢が問い、仏世尊が答えました。このように説く者もいます、諸天神が問い、仏世尊が答えました。さらに他の師は説きます、変化した苾芻が問い、仏世尊が答えました。なぜかといえば、諸仏の法はもともとそうであり、知られるべき法性は、もろもろの世間に対して必ず開示されるべきです。しかし問う者がいません。そのとき世尊は変化して苾芻を作り出しました。その容貌は端正で、多くの人に好ましく見られ、鬚髪を剃り除き僧伽胝を着けて、彼に問わせ、仏世尊が答えました。ちょうど徴問義品の因縁のようにです。問う、それならばこの論はなぜ尊者迦多衍尼子が作ったと伝えられるのか。答えは、かの尊者が受持し演説し、広く流布させたからです。したがってこの論の名称は彼に帰せられます。しかしこれは仏の説です。また別に説く者がいます、この論はすなわちかの尊者迦多衍尼子が作ったのです。問う、先に、あらゆる種類の知られるべき法性はきわめて深く微妙であり、仏世尊という一切智者でなければ誰が究極に等覚して開示できるか、と言わなかったでしょうか。どうしてかの尊者がこの論を作ることができるのでしょうか。答えは、かの尊者にもまた微妙で深く鋭利で巧みな覚慧があり、もろもろの法の自相と共相をよく知り、文義および前後の際に通達し、三蔵によく解し、三界の染を離れ、三明を成就し、六神通と八解脱を具え、無礙解を得て、妙願智を獲得しました。かつて過去五百の仏のところで梵行を積修し、弘誓願を発しました。私は未来に釈迦牟尼仏が般涅槃した後、阿毘達磨を作ろう、と。だからこのように説くのです。すべての如来応正等覚の弟子たちの中には、法として必ず二人の大論師がいて正法を任持します。在世のときは尊者舎利子のように、般涅槃の後は尊者迦多衍尼子のようです。したがってかの尊者は願智力をもって法が益するところを観察してこの論を作ったのです。問う、それならば仏が説いた阿毘達磨とは何でしょうか。答えは、世尊が在世のとき、いたるところの地方や村々で、もろもろの有情のために種々の論道をもって分別し演説したのが阿毘達磨です。仏が涅槃した後、あるいは在世のとき、もろもろの聖弟子たちは妙願智をもって、それに従って纂集し、別に部類としました。したがって尊者迦多衍尼子は仏が世を去った後、また妙願智をもってそれに従って纂集し、発智論を作ったのです。すなわち仏の説いたもろもろの論道の中に章門を安立し、略頌を標挙し、別の納息を作り、総じて蘊の名を立てました。すなわち種々の異なる相の論道を集めて雑蘊とし、結の論道を集めて結蘊とし、智の論道を集めて智蘊とし、業の論道を集めて業蘊とし、大種の論道を集めて大種蘊とし、根の論道を集めて根蘊とし、定の論道を集めて定蘊とし、見の論道を集めて見蘊としました。ちょうどすべての鄔拕南頌がみな仏の説であるようにです。すなわち仏世尊がいたるところの地方や村々で、種々の有情のために機に応じて宣説しました。仏が世を去った後、大徳法救が展転して聞き得て、それに従って纂集し品名を制立しました。すなわち無常の頌を集めて無常品とし、乃至、梵志の頌を集めて梵志品としました。これもまた同じです。阿毘達磨はもともと仏の説であり、また尊者がそれに従って纂集したものです。また仏の説であれ弟子の説であれ、法性に違わなければ、世尊はみな苾芻が受持することを許しました。したがってかの尊者は展転して聞き、あるいは願智力で観察して纂集し、正法が久しく世に住むようにするためにこの論を制造したのです。
復次諸佛出世皆說三藏。謂素怛纜。毘㮈耶。阿毘達磨。如是三藏有何差別。或有說者。無有差別。所以者何。一切佛教從一智海之所生故。隨一覺池之所出故。等力無畏所攝受故。同一大悲所等起故。復有說者。亦有差別。且名即差別。謂此名素怛纜。此名毘㮈耶。此名阿毘達磨。復次依處亦有差別。謂若依增上心論道是素怛纜。若依增上戒論道是毘㮈耶。若依增上慧論道是阿毘達磨。問於一切中一切可得。謂素怛纜中亦有依增上戒增上慧論道。毘㮈耶中亦有依增上心增上慧論道。阿毘達磨中亦有依增上心增上戒論道。如是三藏應無差別。答依增勝說。謂素怛纜中依增上心論道增勝。毘㮈耶中依增上戒論道增勝。阿毘達磨中依增上慧論道增勝。有作是說。素怛纜中依增上心論道是素怛纜。依增上戒論道即毘㮈耶。依增上慧論道即阿毘達磨。毘㮈耶中依增上戒論道是毘㮈耶。依增上心論道即素怛纜。依增上慧論道即阿毘達磨。阿毘達磨中依增上慧論道是阿毘達磨。依增上心論道即素怛纜。依增上戒論道即毘㮈耶。故由依處亦有差別。復次所顯亦有差別。謂素怛纜次第所顯。謂素怛纜中應求次第。何故世尊此品無間宣說彼品若毘㮈耶緣起所顯謂毘㮈耶中。應求緣起。世尊依何緣起制立彼彼學處。阿毘達磨性相所顯。謂阿毘達磨中應求諸法真實性相。不應求彼次第緣起。或前或後或無緣起俱無過失。復次等流亦有差別。謂素怛纜是力等流。毘㮈耶是大悲等流。阿毘達磨是無畏等流。復次所說亦有差別。謂種種雜說是素怛纜。說諸學處是毘㮈耶。分別諸法自相共相是阿毘達磨。
次に、諸仏が世に出られるたびに、いずれも三蔵を説かれます。それは素怛纜(経蔵)と毘㮈耶(律蔵)と阿毘達磨(論蔵)です。この三蔵にはどのような違いがあるのでしょうか。
ある人々は、「違いはない」と言います。なぜなら、すべての仏の教えは一つの智慧の海から生じたものであり、一つの悟りの池から出たものであり、等しい力と恐れ知らずの心に包まれたものであり、同じ大悲から等しく起こされたものだからです。
またある人々は、「違いもある」と言います。まず名前が違いです。すなわち、これは素怛纜と呼ばれ、これは毘㮈耶と呼ばれ、これは阿毘達磨と呼ばれます。
次に、基づくところにも違いがあります。すなわち、増上心を論じる道に基づくならば素怛纜です。増上戒を論じる道に基づくならば毘㮈耶です。増上慧を論じる道に基づくならば阿毘達磨です。
問い:すべての中にすべてが得られるはずです。素怛纜の中にも増上戒を論じる道や増上慧を論じる道があり、毘㮈耶の中にも増上心を論じる道や増上慧を論じる道があり、阿毘達磨の中にも増上心を論じる道や増上戒を論じる道があります。それならば、この三蔵には違いがないはずです。
答え:より勝れているものに基づいて説かれるのです。素怛纜の中では増上心を論じる道がより勝れており、毘㮈耶の中では増上戒を論じる道がより勝れており、阿毘達磨の中では増上慧を論じる道がより勝れています。
また、このように説く人々もいます。素怛纜の中では、増上心を論じる道が素怛纜であり、増上戒を論じる道が毘㮈耶であり、増上慧を論じる道が阿毘達磨です。毘㮈耶の中では、増上戒を論じる道が毘㮈耶であり、増上心を論じる道が素怛纜であり、増上慧を論じる道が阿毘達磨です。阿毘達磨の中では、増上慧を論じる道が阿毘達磨であり、増上心を論じる道が素怛纜であり、増上戒を論じる道が毘㮈耶です。したがって、基づくところによっても違いがあるのです。
次に、示すところにも違いがあります。素怛纜は次第によって示されます。素怛纜の中では次第を求めるべきです。なぜ世尊はこの品のすぐ後にあの品を説かれたのか、ということです。毘㮈耶は縁起によって示されます。毘㮈耶の中では縁起を求めるべきです。世尊はどのような縁起によってあれこれの学処を制定されたのか、ということです。阿毘達磨は性相によって示されます。阿毘達磨の中では諸法の真実の性相を求めるべきであり、その次第や縁起を求めるべきではありません。前であっても後であっても、あるいは縁起がなくても、いずれも過失はありません。
次に、等流にも違いがあります。素怛纜は力の等流です。毘㮈耶は大悲の等流です。阿毘達磨は恐れ知らずの心の等流です。
次に、説かれる内容にも違いがあります。種々雑多に説かれるのが素怛纜です。諸々の学処を説くのが毘㮈耶です。諸法の自相と共相を分別するのが阿毘達磨です。
復次所為亦有差別。謂未種善根者令種善根故說素怛纜。已種善根者令相續成熟故說毘㮈耶。相續已成熟者令得正解脫故說阿毘達磨。
また、目的にも違いがあります。まだ善根を種えていない者には善根を種えさせるために素怛纜を説きます。すでに善根を種えた者にはそれを相続して成熟させるために毘㮈耶を説きます。すでに相続が成熟した者には正しい解脱を得させるために阿毘達磨を説きます。
復次分位亦有差別。謂依始業位說素怛纜。依已串習位說毘㮈耶。依超作意位說阿毘達磨。
次に、段階によっても違いがあります。すなわち、修行を始めた段階に基づいて経(素怛纜)を説き、すでに慣れ親しんだ段階に基づいて律(毘㮈耶)を説き、作意を超えた段階に基づいて論(阿毘達磨)を説きます。
復次進趣亦有差別。謂未入正法令入正法故說素怛纜。已入正法令受持學處故說毘㮈耶。已受持學處令通達諸法真實相故說阿毘達磨。是故三藏亦有差別。
次に、修行の進み方にも違いがあります。まだ正しい教えに入っていない人を正しい教えに入れるために経(素怛纜)を説きます。すでに正しい教えに入った人に学ぶべき戒めを守らせるために律(毘㮈耶)を説きます。すでに戒めを守っている人に、すべてのものごとの真実の姿を悟らせるために論(阿毘達磨)を説きます。このように、三蔵にも違いがあるのです。
問何故尊者造此論耶。答為饒益他故。謂彼尊者作是思惟。云何當令諸有情類於佛聖教無倒受持。精進思惟籌量觀察。由此無量煩惱惡行不現在前。便得悟入甚深法性。故造斯論。譬如有人為饒益他故於黑闇處然大明燈。令有目者見種種色。尊者亦爾為饒益他於佛滅後制造此論。令有智者入深法性。又如諸佛為饒益他。開示演說十二分教。一契經二應頌三記別四諷頌五自說六緣起七譬喻八本事九本生十方廣十一希法十二論議。所以者何。諸有情類。雖有因力若無緣力而覺發者。終不能修勝進之行。要遇緣力乃能修行。譬如池中雖有種種嗢鉢羅等眾妙蓮華。若日月光不照觸者。則不開發出種種香。要日月光之所照觸。乃得隨類開發出香。又如闇中有種種物。若無燈照終不可見。要假燈照乃得見之。有情亦爾。雖有因力若無緣力。廣說如前。如有頌言。
問う。何ゆえに尊者はこの論を造られたのか。答えて言う。他を利益するためです。すなわち、かの尊者はこのように思惟されました。「どうすればすべての有情が仏の聖教を正しく受け持ち、精進し思惟し、よく観察して、それによって無量の煩悩や悪行が現れなくなり、甚深の法性を悟り入ることができるだろうか」と。そのためにこの論を造られたのです。たとえば、ある人が他を利益するために、暗闇の場所で大きな明かりを灯し、目ある者たちにさまざまな色形を見せるようなものです。尊者もまた同様に、他を利益するために、仏の滅後においてこの論を造り、智慧ある者たちをして深い法性に入らせたのです。また、諸仏が他を利益するために、十二分教を開示し演説されたのと同じです。すなわち、一に契経、二に応頌、三に記別、四に諷頌、五に自説、六に縁起、七に譬喩、八に本事、九に本生、十に方広、十一に希法、十二に論議です。なぜでしょうか。すべての有情は、因の力があっても、もし縁の力がなければ、覚りを起こして優れた修行を進めることはついにできないからです。必ず縁の力に巡り合ってこそ、修行することができるのです。たとえば、池の中にさまざまな嗢鉢羅などの多くの妙なる蓮華があっても、もし日や月の光が照らさなければ、開いてさまざまな香りを放つことはありません。必ず日や月の光が照らしてこそ、それぞれの種類に応じて開き、香りを放つことができるのです。また、暗闇の中にさまざまな物があっても、もし明かりが照らさなければ、ついに見ることはできません。必ず明かりの照らしを借りてこそ、見ることができるのです。有情もまた同じです。因の力があっても、もし縁の力がなければ、先に広く説いたとおりです。偈に言うとおりです。
譬如闇室中雖有種種物
無燈闇所隱有目不能見
如是雖有智不從他聞法
是人終不能分別善惡義
譬如有目者因燈見眾色
有智依多聞能別善惡義
多聞能知法多聞離不善
多聞捨無義多聞得涅槃
たとえば、暗い部屋の中にはさまざまな物があっても、 灯りがなければ暗闇に隠れて、目があっても見ることができません。
同じように、たとえ知恵があっても、他の人から法を聞かなければ、 その人はついに善と悪の意味を分別することができません。
たとえば、目ある者が灯りによってさまざまな色を見るように、 知恵ある者は多くの聞くことによって、善と悪の意味を分別できます。
多く聞くことは法を知ることができ、多く聞くことは不善から離れ、 多く聞くことは無義を捨て、多く聞くことは涅槃を得ます。
又如經說。有二因緣。能生正見。一外聞他法音。二內如理作意。又契經說。有四法人多有所作。一親近善友。二從他聞法。三如理作意。四法隨法行。復有經言。若我弟子一心屬耳聽聞正法能斷五蓋。及能修行七覺分滿。故如諸佛為饒益他說十二分教。如是彼尊者為饒益他制造此論。復次為破無明闇故。如燈破闇能發光明。阿毘達磨亦復如是。破無明闇發智慧明。故彼尊者制造此論。復次為顯無我像故。譬如鏡面極善磨瑩。種種色像皆於中現。阿毘達磨亦復如是。分別諸法自相共相。令無我像分明顯現。故彼尊者制造此論。復次為度生死河故。如牢船筏百千眾生依之無畏從河此岸渡至彼岸。阿毘達磨亦復如是。無數諸佛及諸有情。依之無畏。從生死此岸。至涅槃彼岸。故彼尊者制造此論。復次為照契經等故。如人執燈入諸闇室。能見眾色而無迷亂。如是行者以阿毘達磨照契經等義而無迷惑。故彼尊者制造此論。復次為觀察善等諸法故。如別寶人能善觀察金剛等寶。阿毘達磨亦復如是。能善分別善等諸法。故彼尊者制造此論。復次為顯阿毘達磨。諸大論師不傾動故。如妙高山踞金輪上一切猛風搖鼓飄擊不能傾動。阿毘達磨諸大論師。亦復如是。住淨尸羅。諸惡見者輕毀邪論不能摧伏。故彼尊者制造此論。復次尊者以三因緣制造此論。一為增益智故。二為開覺意故。三為遮計我故。增益智者。謂於內外諸經論中。令智增益無有能如阿毘達磨。開覺意者。謂諸有情無明所昏。如睡未覺不能了知。何者是遍行。何者非遍行。何者自界緣。何者他界緣。何者有漏緣。何者無漏緣。何者有為緣。何者無為緣。云何為攝。云何相應。云何因。云何緣。誰成就。誰不成就。何者順前句。何者順後句。何者四句。何者如是句。何者不如是句。於如是等所知境中。令諸有情開發覺意。無有能如阿毘達磨。遮計我者。尊者所造阿毘達磨。未曾說有補特伽羅。恒顯諸行空無有我。以如是等種種因緣。故彼尊者制造此論。
また、経典に説かれているように、正見を生じさせるには二つの因縁があります。一つは外に他から法の教えを聞くこと、二つは内に理にかなって作意することです。また契経には、四つの法を持つ人は多くのことを成し遂げられる、と説かれています。一つは善き友に親しむこと、二つは他人から法を聞くこと、三つは理にかなって作意すること、四つは法に随って法を修行することです。さらに経には、「私の弟子が一心に耳を傾けて正しい法を聞けば、五蓋を断ち、また七覚分を修行して円満にすることができる」と説かれています。ですから、諸仏が他を利益するために十二分教を説かれたように、かの尊者も他を利益するためにこの論を作ったのです。
次に、無明の闇を破るためです。灯が闇を破って光明を放つように、阿毘達磨もまた同様です。無明の闇を破り、智慧の明かりを放ちます。ですからかの尊者はこの論を作ったのです。
次に、無我の姿を明らかにするためです。たとえば鏡の面を極めてよく磨き上げれば、さまざまな色や形がみなその中に映し出されます。阿毘達磨もまた同様です。諸法の自相と共相を分別し、無我の姿をはっきりと顕現させます。ですからかの尊者はこの論を作ったのです。
次に、生死の河を渡るためです。たとえば頑丈な船や筏に百千の衆生が頼って恐れることなく、河のこの岸から彼岸へ渡るように、阿毘達磨もまた同様です。無数の諸仏や多くの有情がそれに頼って恐れることなく、生死のこの岸から涅槃の彼岸へ至ります。ですからかの尊者はこの論を作ったのです。
次に、契経などを照らすためです。たとえば人が灯を持って暗い部屋に入れば、すべての色を見ることができて迷うことがないように、修行者も阿毘達磨によって契経などの義を照らし、迷うことがありません。ですからかの尊者はこの論を作ったのです。
次に、善などの諸法を観察するためです。たとえば宝石を見分ける人が金剛などの宝石をよく観察できるように、阿毘達磨もまた同様です。善などの諸法をよく分別することができます。ですからかの尊者はこの論を作ったのです。
次に、阿毘達磨を明らかにし、諸大論師が揺るがないことを示すためです。たとえば妙高山が金輪の上に据わり、すべての激しい風が揺さぶり打ち付けても傾かないように、阿毘達磨の諸大論師もまた同様です。清らかな戒に安住し、悪しき見を持つ者たちが軽んじたり邪論で非難しても、打ち負かすことはできません。ですからかの尊者はこの論を作ったのです。
次に、尊者は三つの因縁によってこの論を作りました。一つは智慧を増すため、二つは覚りを開くため、三つは我と執着することを防ぐためです。
智慧を増すとは、内外の諸経論の中で智慧を増すことにおいて、阿毘達磨に及ぶものはないということです。覚りを開くとは、多くの有情が無明に覆われて、眠ってまだ目覚めていないように、何が遍行か、何が遍行でないか、何が自界縁か、何が他界縁か、何が有漏縁か、何が無漏縁か、何が有為縁か、何が無為縁か、どういうものが摂か、どういうものが相応か、どういうものが因か、どういうものが縁か、誰が成就し、誰が成就しないか、何が前句に順ずるか、何が後句に順ずるか、何が四句か、何が如是句か、何が不如是句かを、了知することができません。このような知られるべき境地において、多くの有情に覚りを開かせることにおいて、阿毘達磨に及ぶものはありません。
我と執着することを防ぐとは、尊者が作った阿毘達磨は、かつて補特伽羅があると説いたことはなく、常に諸行は空であり我がないことを示しています。このような種々の因縁によって、かの尊者はこの論を作ったのです。
問阿毘達磨。自性云何。答無漏慧根。以為自性。一界一處一蘊所攝。一界者謂法界。一處者謂法處。一蘊者謂行蘊。若兼相應及取。隨轉三界二處五蘊所攝。三界者謂意界法界意識界。二處者謂意處法處。五蘊者謂色蘊乃至識蘊。如契經說。此藥叉天於長夜中其心質直無有諂誑。諸有所問皆為了知不為嬈亂。我以甚深阿毘達磨恣彼意問。此中何者甚深阿毘達磨。謂無漏慧根。
阿毘達磨について問う。自性はどのようなものか。答える。無漏の慧根を以て自性とする。一界・一処・一蘊に摂められる。一界とは法界である。一処とは法処である。一蘊とは行蘊である。もし相応および取と随転を兼ねるならば、三界・二処・五蘊に摂められる。三界とは意界・法界・意識界である。二処とは意処・法処である。五蘊とは色蘊より乃至識蘊である。契経に説く通りである。この薬叉天は長夜の中において、その心は質直であり、諂誑がありません。問うところのものは皆、了知するためにして、嬈乱するためではありません。私は甚深なる阿毘達磨を以て、彼の意のままに問うことを恣にします。ここにおいて何が甚深なる阿毘達磨か。無漏の慧根を謂うのです。
又契經說。此筏蹉氏及善賢外道并梵壽婆羅門。皆於長夜其性質直無諂無誑。諸有所問皆為了知不為嬈亂。我以甚深阿毘達磨恣彼意問。此中何者甚深阿毘達磨。謂無漏慧根。又如佛告西儞迦言。我有甚深阿毘達磨。難見難覺不可尋思非尋思境。唯有微妙聰叡智者。乃能知之。非汝淺智之所能及。所以者何。汝於長夜異見異忍異欲異樂。此中何者甚深阿毘達磨。謂空無我及如實覺。所以者何。以彼外道恒妄計我。空無我性非彼所及。又如佛告鄔陀夷言。汝是愚夫盲無慧目。云何乃與上座苾芻共論甚深阿毘達磨。此中何者甚深阿毘達磨。謂滅定退及如實覺。又如佛告阿難陀言。我有甚深阿毘達磨。謂諸緣起。難見難覺不可尋思非尋思境。唯有微妙聰叡智者。乃能知之。此中何者甚深阿毘達磨。謂因緣性及如實覺。又契經說。我有甚深阿毘達磨。謂緣性緣起此處甚深難見難覺。不可尋思非尋思境。唯有微妙聰叡智者。乃能知之。復有甚深阿毘達磨。謂一切依皆永捨離。愛盡離染寂滅涅槃。此最甚深難見難覺。廣說如前。此中何者甚深阿毘達磨。謂因緣性及彼寂滅并如實覺。又如佛告阿難陀言。復有甚深阿毘達磨。謂有餘法相似甚深我於其中自覺正說。此中何者甚深阿毘達磨。謂諸見趣及如實覺。又契經說。我有甚深阿毘達磨。謂一切法甚深故難見。難見故甚深。此中何者甚深阿毘達磨。謂一切法性及如實覺。雖此等經中隨別意趣作種種異說。然阿毘達磨勝義自性唯無漏慧根。即由此故發起世間修所成慧。謂煖頂忍世第一法。以能別觀四聖諦故。亦得名為阿毘達磨。又由此故發起殊勝思所成慧。謂不淨觀持息念等。以能別總觀諸蘊故。亦得名為阿毘達磨。又由此故發起殊勝聞所成慧。分別諸法自相共相建立諸法自相共相。害實物愚及所緣愚。以於諸法不增減故。亦得名為阿毘達磨。又由此故發起殊勝生處得慧。以於三藏十二分教能受能持思量觀察不謬轉故。亦得名為阿毘達磨。復由如是資糧攝持無漏慧根轉得明盛。是故亦名阿毘達磨。
また契経に説かれています。この筏蹉氏、および善賢外道、ならびに梵寿婆羅門は、みな長い間、その性格は素直でへつらうことがなく、偽りがありません。問われることについては、すべて理解するために問い、乱すために問うのではありません。そこで私は、甚深の阿毘達磨について、彼らの意のままに問わせました。ここで何が甚深の阿毘達磨でしょうか。それは無漏の慧根です。
また、仏が西儞迦に告げられたように、「私には甚深の阿毘達磨がある。見がたく覚りがたく、尋思することはできず、尋思の領域ではありません。ただ微妙で聡明な叡智ある者のみが、これを知ることができます。あなたの浅い智慧で及ぶところではありません。なぜなら、あなたは長い間、異なる見、異なる忍、異なる欲、異なる楽を持っているからです」と。ここで何が甚深の阿毘達磨でしょうか。それは空と無我、および如実の覚りです。なぜなら、あの外道は常に我があると妄執していますが、空・無我の性質は彼の及ぶところではないからです。
また、仏が鄔陀夷に告げられたように、「あなたは愚か者で、盲いて慧の目がありません。どうして上座の苾芻とともに甚深の阿毘達磨を論じることができるでしょうか」と。ここで何が甚深の阿毘達磨でしょうか。それは滅定からの退と、如実の覚りです。
また、仏が阿難陀に告げられたように、「私には甚深の阿毘達磨がある。それは諸々の縁起です。見がたく覚りがたく、尋思することはできず、尋思の領域ではありません。ただ微妙で聡明な叡智ある者のみが、これを知ることができます」と。ここで何が甚深の阿毘達磨でしょうか。それは因縁の性と、如実の覚りです。
また契経に説かれています。「私には甚深の阿毘達磨がある。それは縁性・縁起であり、ここは甚深で見がたく覚りがたい。尋思することはできず、尋思の領域ではない。ただ微妙で聡明な叡智ある者のみが、これを知ることができる」と。さらに甚深の阿毘達磨があります。それは一切の依りどころを永遠に捨て離れ、愛が尽き、染みを離れ、寂滅した涅槃です。これが最も甚深で、見がたく覚りがたいのです。詳しくは前述のとおりです。ここで何が甚深の阿毘達磨でしょうか。それは因縁の性と、その寂滅、ならびに如実の覚りです。
また、仏が阿難陀に告げられたように、「さらに甚深の阿毘達磨がある。それは他の法であり、甚深に似ており、私がその中で自ら覚って正しく説いたものである」と。ここで何が甚深の阿毘達磨でしょうか。それは諸々の見趣と、如実の覚りです。
また契経に説かれています。「私には甚深の阿毘達磨がある。それは一切の法が甚深であるから見がたく、見がたいから甚深である」と。ここで何が甚深の阿毘達磨でしょうか。それは一切の法の性と、如実の覚りです。
これらの経の中で、それぞれの意趣に従って種々に異なる説がなされていますが、しかし阿毘達磨の勝義の自性は、ただ無漏の慧根だけです。まさにこのことによって、世間の修所成の慧が起こされます。それは煖・頂・忍・世第一法です。四聖諦を個別に観ることができるから、阿毘達磨とも名づけられます。またこのことによって、殊勝な思所成の慧が起こされます。それは不浄観・持息念などです。諸々の蘊を個別に、また総じて観ることができるから、阿毘達磨とも名づけられます。またこのことによって、殊勝な聞所成の慧が起こされます。諸法の自相・共相を分別し、諸法の自相・共相を建立し、実物に対する愚かさと所縁に対する愚かさを害します。諸法に対して増減がないから、阿毘達磨とも名づけられます。またこのことによって、殊勝な生処得の慧が起こされます。三蔵十二分教に対して、受け保ち、思量し観察して、誤りなく転じるから、阿毘達磨とも名づけられます。また、このような資糧に摂持されて、無漏の慧根は転じて明盛となります。それゆえ、阿毘達磨とも名づけられるのです。
問若阿毘達磨唯無漏慧根為自性者。何故此論復名阿毘達磨。答阿毘達磨具故亦名阿毘達磨。如處處經中於彼彼具立彼彼名。此亦如是。謂如於樂具立以樂名。如伽他說。
問い:もし阿毘達磨がただ無漏の慧根のみを自性とするならば、なぜこの論はまた阿毘達磨と名づけられるのですか。
答え:阿毘達磨を具えているから、それもまた阿毘達磨と名づけられます。あちこちの経の中で、それぞれの具に対してそれぞれの名を立てているのと同じです。これもまたそのとおりです。たとえば、楽の具に対して楽という名を立てるようなものです。伽他(偈)に説かれているとおりです。
食所乞食樂衣隨得衣樂
經行山林樂栖隱巖窟樂
托鉢で得た食べ物を食べることに喜びを感じ、得たままの衣をまとうことに喜びを感じ、 山林を経行することに喜びを感じ、岩窟にひっそりと住むことに喜びを感じます。
飲食衣等體實非樂。勝義樂者謂諸樂受。或有說者。亦輕安樂。然衣食等是樂具故。於伽他中亦說為樂。又如於垢具立以垢名。如伽他說。
飲食や衣服などは、その本体が実際に楽であるわけではありません。勝義の楽とは、もろもろの楽受をいいます。あるいは、軽安の楽もまた楽であるとする説もあります。しかし、衣食などは楽の用具であるため、伽他(偈)の中でも楽であると説かれています。また、垢の用具に垢という名を立てるのと同じです。伽他に説かれているとおりです。
女是梵行垢女損害眾生
苦梵行所淨非由水能洗
女は梵行の垢であり、女は衆生を損ないます。 苦行による梵行によって清められるのであり、水によって洗われるのではありません。
女實非垢。勝義垢者謂貪瞋癡。然伽他中說女為垢。是垢具故。又如於漏具立以漏名。如說七漏是損害是燒然是苦惱。根等實非漏。是漏具故立以漏名。勝義漏唯三。謂欲漏有漏無明漏。又如於隨眠具立隨眠名。如契經說。苾芻當知。色是隨眠隨增隨死。若隨增即隨死。若隨死即隨取。若隨取即隨縛。色非隨眠。勝義隨眠唯有七種。然經說色是隨眠者。隨眠具故。又如於味具立以味名。如契經說。苾芻當知。眼味妙色。色是魔鉤。眼實非味。勝義味者謂所生愛。然契經說。眼味色者是味具故。又如於欲具立以欲名。如契經說。欲者是何。謂五妙欲。又如頌言。
女は実に垢ではありません。勝義の垢とは、貪・瞋・癡をいいます。しかし伽他の中では、女を垢と説いています。垢の具(ぐ)であるからです。また、漏の具に漏という名を立てるのと同じです。たとえば、七漏は損害であり、焼然であり、苦悩であると説かれます。根などは実に漏ではありません。漏の具であるから、漏という名を立てるのです。勝義の漏はただ三つです。すなわち、欲漏・有漏・無明漏です。また、随眠の具に随眠という名を立てるのと同じです。契経に説かれているとおりです。「苾芻よ、知るべきです。色は随眠であり、随増し、随死します。もし随増すればすなわち随死し、もし随死すればすなわち随取し、もし随取すればすなわち随縛されます。」色は随眠ではありません。勝義の随眠はただ七種あるだけです。しかし経が色を随眠と説くのは、随眠の具であるからです。また、味の具に味という名を立てるのと同じです。契経に説かれているとおりです。「苾芻よ、知るべきです。眼は妙色を味わいます。色は魔の鉤です。」眼は実に味ではありません。勝義の味とは、生じた愛をいいます。しかし契経が眼は色を味わうと説くのは、味の具であるからです。また、欲の具に欲という名を立てるのと同じです。契経に説かれているとおりです。「欲とは何か。五妙欲をいいます。」また頌に言うとおりです。
如是五妙欲可愛可欣樂
可意欲所牽能令心染著
その五つの妙欲は、愛らしく、欣ばれ、楽しまれ、 心にかなって人の心を引き、心を染め著かせるものです。
色等非欲。勝義欲者。謂於彼愛然經頌說。彼是欲者是欲具故。又如於退具立以退名。如契經說。有五因緣令時解脫阿羅漢退。一營事業。二樂戲論。三和諍訟。四好遠行。五遇長病。非營事等是能退體。勝義退者。謂一切不善有覆無記法。然契經中說營事等是能退者。謂退具故。又如於業具立以業名。如契經說。有三種意。故思惡不善業。若作增長感非愛異熟。謂貪欲瞋恚邪見。非貪欲等是實意業勝義意業。謂意俱思。然契經中名意業者。謂是不善意業具故。又如於異熟因具立異熟因名。如彼尊者無滅所說。我由一食異熟因故。七生天上七生人中。於最後身得盡諸漏。非即一食是異熟因。勝義異熟因者。謂諸不善善有漏法。然彼尊者即說一食為異熟因。是彼具故。如於此等處處經中以彼彼名說彼彼具。此論亦爾。是阿毘達磨具故亦名阿毘達磨。如是勝義阿毘達磨自性。唯是無漏慧根。一界一處一蘊所攝。若兼相應及取隨轉三界二處五蘊所攝。餘資糧等皆是世俗阿毘達磨。是名阿毘達磨自性。如說自性我物自體相分本性。應知亦爾。
色などは欲ではありません。勝義の欲とは、それらに対する愛をいいます。しかし経の頌には「それらは欲であり、欲の具であるからである」と説かれています。また、退の具に退という名を立てる場合があります。たとえば契経に「五つの因縁によって時解脱の阿羅漢は退する。一には事業を営むこと、二には戯論を楽しむこと、三には諍訟を和すること、四には遠行を好むこと、五には長病に遭うことである」と説かれています。事業を営むことなどが退の本体なのではありません。勝義の退とは、すべての不善と有覆無記の法をいいます。しかし契経の中で事業を営むことなどを退とするのは、退の具であるからです。また、業の具に業という名を立てる場合があります。たとえば契経に「三種の意がある。思って悪不善の業を作し、增长させて非愛の異熟を感ずる。すなわち貪欲と瞋恚と邪見である」と説かれています。貪欲などが実の意業なのではありません。勝義の意業とは、意と俱なる思をいいます。しかし契経の中で意業と名づけるのは、不善の意業の具であるからです。また、異熟因の具に異熟因という名を立てる場合があります。かの尊者無滅が説いたように、「私は一食の異熟因によって、七たび天上に生まれ、七たび人中に生まれ、最後の身において諸漏を尽くすことができた」と。すなわち一食が異熟因なのではありません。勝義の異熟因とは、もろもろの不善と善の有漏法をいいます。しかしかの尊者は一食を異熟因と説きました。それはその具であるからです。このように、これらの所々の経の中で、かのかの名をもってかのかの具を説いています。この論もまた同様です。阿毘達磨の具であるから、また阿毘達磨と名づけられます。このように、勝義の阿毘達磨の自性は、ただ無漏の慧根のみです。一界と一処と一蘊に摂められます。もし相応および随転を兼ね取るならば、三界と二処と五蘊に摂められます。その余の資糧などは、すべて世俗の阿毘達磨です。これを阿毘達磨の自性と名づけます。自性・我物・自体・相分・本性と説かれる場合も、同じように理解すべきです。
已說自性。所以今當說。以何義故名阿毘達磨。阿毘達磨諸論師言。於諸法相能善決擇能極決擇故。名阿毘達磨。復次於諸法性能善覺察能善通達故。名阿毘達磨。復次能於諸法現觀作證故。名阿毘達磨。復次法性甚深能盡原底故。名阿毘達磨。復次諸聖慧眼由此清淨故。名阿毘達磨。復次能善顯發幽隱法性故。名阿毘達磨。所知法性無始幽隱。離此無有能顯發故。復次所說法性無有乖違故。名阿毘達磨。若有能於阿毘達磨自相共相極善串習。必無有能如法問難。令於法性有少違故。復次能伏一切外道他論故。名阿毘達磨。阿毘達磨諸大論師。邪徒異學無能敵故。尊者世友作如是說。常能決擇契經等中諸法性相故。名阿毘達磨。復次於十二支緣起法性善覺了故。名阿毘達磨。復次以能現觀四聖諦法故。名阿毘達磨。復次善說修習八聖道法故。名阿毘達磨。復次能證涅槃故。名阿毘達磨。復次能於諸法以無量門數數分別故。名阿毘達磨。大德說曰。於雜染清淨繫縛解脫流轉還滅法。以名身句身文身次第結集安布分別故。名阿毘達磨。脇尊者言。此是究竟慧。此是決斷慧。此是勝義慧。此是不謬慧故名阿毘達磨。尊者妙音作如是說。求解脫者修正行時。能為分別所未了義。謂此是苦此是苦因。此是苦滅此是趣滅道。此是加行道。此是無間道。此是解脫道。此是勝進道。此是向道。此是得果。能正分別如是等義故。名阿毘達磨。法密部說。此法增上故。名阿毘達磨。如有頌言。
自性についてはすでに説きました。そこで今から説くことにします。どのような意味があるので阿毘達磨と呼ばれるのでしょうか。阿毘達磨の論師たちは次のように言います。諸法の相をよく決択し、きわめてよく決択することができるから、阿毘達磨と呼ばれます。次に、諸法の性をよく覚察し、よく通達することができるから、阿毘達磨と呼ばれます。次に、諸法を現観して証することができるから、阿毘達磨と呼ばれます。次に、法性は甚深であり、その源底を尽くすことができるから、阿毘達磨と呼ばれます。次に、もろもろの聖なる慧眼はこれによって清浄になるから、阿毘達磨と呼ばれます。次に、幽隠なる法性をよく顕発することができるから、阿毘達磨と呼ばれます。所知の法性は始まりがなく幽隠であり、これなくしては顕発できるものがありません。次に、説かれる法性に乖違がないから、阿毘達磨と呼ばれます。もし阿毘達磨の自相・共相をきわめてよく串習する人があれば、必ず法にかなった問難によって法性に少しの違(たが)いを生じさせるものはありません。次に、すべての外道の他論を伏することができるから、阿毘達磨と呼ばれます。阿毘達磨の大論師たちは、邪徒・異学には敵う者がありません。尊者世友はこのように説かれました。常に契経などのうちの諸法の性相を決択することができるから、阿毘達磨と呼ばれます。次に、十二支縁起の法性をよく覚了するから、阿毘達磨と呼ばれます。次に、四聖諦の法を現観することができるから、阿毘達磨と呼ばれます。次に、八聖道の法を修習することをよく説くから、阿毘達磨と呼ばれます。次に、涅槃を証することができるから、阿毘達磨と呼ばれます。次に、諸法を無量の門によって数々分別することができるから、阿毘達磨と呼ばれます。大徳は説かれました。雑染と清浄、繋縛と解脱、流転と還滅の法について、名身・句身・文身によって次第に結集し安布し分別するから、阿毘達磨と呼ばれます。脇尊者は言われました。これは究竟の慧です。これは決断の慧です。これは勝義の慧です。これは不謬の慧です。それゆえ阿毘達磨と呼ばれます。尊者妙音はこのように説かれました。解脱を求める者が正行を修するとき、いまだ了(さと)られていない義を分別することができます。すなわち、これが苦です、これが苦の因です、これが苦の滅です、これが滅に趣く道です、これが加行道です、これが無間道です、これが解脱道です、これが勝進道です、これが向道です、これが得果です。このようなもろもろの義を正しく分別することができるから、阿毘達磨と呼ばれます。法密部は説きます。この法が増上であるから、阿毘達磨と呼ばれます。
慧於世間尊能決擇趣向
以正了知故老死盡無餘
慧によって世間尊は趣向を決択することができます。 正しく了知するがゆえに、老死は尽きて余りがありません。
化地部說。慧能照法故。名阿毘達磨。如契經說。一切照中我說慧照最為上首。譬喻者說。於諸法中涅槃最上。此法次彼故。名阿毘達磨。聲論者言。阿謂除棄。毘謂決擇。此法能除棄決擇故。名阿毘達磨。何所除棄。謂結縛隨眠隨煩惱纏。何所決擇。謂蘊界處緣起。諦食及沙門果菩提分等。尊者佛護作如是說。阿毘者。是助言顯現前義。此法能引一切善法。謂諸覺分皆現在前故。名阿毘達磨。尊者覺天作如是說。阿毘者。是助言顯增上義。如增上慢者名阿毘慢。增上覺者。名阿毘覺。增上老者名阿毘老。此亦如是。此法增上故。名阿毘達磨。尊者左受作如是說。阿毘助言顯恭敬義。如恭敬稽首者名阿毘稽首。恭敬供養者名阿毘供養。此亦如是。此法尊重可恭敬故。名阿毘達磨。
化地部の説では、慧が法を照らすので、これを阿毘達磨と名づけます。契経に説かれている通りです。「一切の照らすものの中で、慧の照らすことが最もすぐれていると私は説く」と。譬喩者たちの説では、もろもろの法の中で涅槃が最もすぐれており、この法はそれに次ぐので、阿毘達磨と名づけます。声論者たちの言葉では、阿とは除き捨てることであり、毘とは決め選ぶことです。この法は除き捨て、決め選ぶことができるので、阿毘達磨と名づけます。何を除き捨てるのかといえば、結縛・随眠・随煩悩・纏です。何を決め選ぶのかといえば、蘊・界・処・縁起、諦・食、および沙門果・菩提分などです。尊者仏護はこのように説いています。阿毘とは、助言葉であって現前にあらわれる意味を表します。この法は一切の善法を引き起こすことができます。すなわち、もろもろの覚分がみな現前にあらわれるからです。それゆえ阿毘達磨と名づけます。尊者覚天はこのように説いています。阿毘とは、助言葉であって増上の意味を表します。たとえば、増上慢の者を阿毘慢と名づけるようなものです。増上の覚を阿毘覚と名づけ、増上の老を阿毘老と名づけます。これもまた同じです。この法は増上であるから、阿毘達磨と名づけます。尊者左受はこのように説いています。阿毘という助言葉は恭敬の意味を表します。たとえば、恭敬して稽首する者を阿毘稽首と名づけ、恭敬して供養する者を阿毘供養と名づけるようなものです。これもまた同じです。この法は尊重すべきであり恭敬すべきであるから、阿毘達磨と名づけます。
問何故此論名發智耶。答諸勝義智。皆從此發此為初基。故名發智。復次此論應名智安足處。諸勝義智此為根本依此而立。是故名為智安足處。復次諸勇健智此最能發。發勇智緣故名發智。復次諸智彼岸依此能到故名發智。開發諸法自相共相。無有能如此論者故。復次世出世智。皆依此發智之妙門故名發智。
問う、何のゆえにかこの論を発智と名づけるのか。答える、もろもろの勝義の智は、みなこの論から発し、これが最初の基(もとい)となります。それゆえ発智と名づけます。また、この論は智安足処と名づけるべきです。もろもろの勝義の智はこれを根本とし、これに依って成立します。それゆえ智安足処と名づけます。また、もろもろの勇健なる智は、この論が最もよく発(おこ)します。勇(ゆう)の智を発すは、これを縁とするがゆえに、発智と名づけます。また、もろもろの智の彼岸(ひがん)は、これに依って到ることができるがゆえに、発智と名づけます。もろもろの法の自相と共相とを開発(かいほつ)すること、これに如(し)くものはありません。この論のゆえです。また、世間と出世間との智は、みなこれに依って発します。智の妙門(みょうもん)であるがゆえに、発智と名づけます。
問此論勝利其相云何。答隨順解脫斷除繫縛。順空無我違我我所。顯無我理遮數取趣開覺意息昏迷。遣愚癡生智慧。斷疑網與決定。背雜染向清淨。訶流轉讚還滅。捨生死得涅槃。摧破一切外道邪論。成立一切佛法正論。此論勝利其相如是。
この論の功徳とは、どのようなものでしょうか。それに答えると、解脱に随順し、束縛を断ち除きます。空と無我に順い、我と我所に背きます。無我の理を明らかにし、数取趣を遮り、覚りを開き、迷いを鎮めます。愚かさを除き、智慧を生じます。疑いの網を断ち、決定を与えます。雑染に背を向け、清浄に向かいます。流転を呵し、還滅を讃えます。生死を捨て、涅槃を得ます。一切の外道の邪論を打ち砕き、一切の仏法の正論を成立させます。この論の功徳とは、このようなものです。
說一切有部發智大毘婆沙論卷第一
説一切有部発智大毘婆沙論 巻第一
顯慶元年七月二十七日於長安大慈恩寺翻經院三藏法師玄奘奉 詔譯弘法寺沙門嘉尚筆受大慈恩寺沙門明珠證義大慈恩寺沙門惠貴證義大慈恩寺沙門法祥證義西明寺沙門慧景證義大慈恩寺沙門神泰證義大慈恩寺沙門普賢證義大慈恩寺沙門善樂證義大慈恩寺沙門拪玄綴文大慈恩寺沙門靜邁綴文西明寺沙門慧立綴文西明寺沙門玄則綴文大慈恩寺沙門義褒正字大慈恩寺沙門玄應正字西明寺沙門神察執筆大慈恩寺沙門辯通執筆同州魏伐寺沙門海藏筆受大慈恩寺沙門神昉筆受西明寺沙門嘉尚筆受大慈恩寺沙門大乘光筆受
顕慶元年七月二十七日、長安の大慈恩寺翻経院において、三蔵法師玄奘が詔を奉じて訳しました。弘法寺の沙門嘉尚が筆受し、大慈恩寺の沙門明珠が証義し、大慈恩寺の沙門恵貴が証義し、大慈恩寺の沙門法祥が証義し、西明寺の沙門慧景が証義し、大慈恩寺の沙門神泰が証義し、大慈恩寺の沙門普賢が証義し、大慈恩寺の沙門善楽が証義し、大慈恩寺の沙門拪玄が綴文し、大慈恩寺の沙門静邁が綴文し、西明寺の沙門慧立が綴文し、西明寺の沙門玄則が綴文し、大慈恩寺の沙門義褒が正字し、大慈恩寺の沙門玄応が正字し、西明寺の沙門神察が執筆し、大慈恩寺の沙門弁通が執筆し、同州魏伐寺の沙門海蔵が筆受し、大慈恩寺の沙門神昉が筆受し、西明寺の沙門嘉尚が筆受し、大慈恩寺の沙門大乗光が筆受しました。
夫物情斯感。資于教悟。大聖貽則。寔啟疑徒。而先匠譯辰。篾爾無紀。爰使後學積滯疑懷。今故具書。以彰來信。願傳寫之儔。與余同志。庶幾彌劫。永無惑焉。
人々の心はこの教えに感応し、教えによって悟りを得ます。大聖である釈尊が残された規則は、まさに迷える者たちを導くものです。しかし、先の師たちが翻訳された際、その記録は詳しく残されませんでした。そのため、後の学び手は長く疑問を抱えたままでした。そこで今、ここに詳しく記し、後に信じる人々のために明らかにします。どうか写し伝える人々が、私と同じ志を持ち、長い劫を経ても永遠に迷うことがありませんように。
大唐中大夫內侍護軍佛弟子觀自在。敬寫西域新翻經論。願畢此餘生。道心不退。庶以流通未聞之所。竊以佛日西沈。正法玄謝。慧流東漸。像教方傳。希世之符。奧義宣於貝葉。非常之寶。至賾發於龍宮。挹其沖源。截暴河而遐逝。遊其玄閫。出朽宅而長驅。玄奘法師者。釋門之龍象。振旦之鶖鷺。逾蔥山而勵學。齎梵文而旋止。殺青甫就永事。流通士方涯多。幸預聞正法。植因或爽。稟質不全。今罄茲寸祿。繕斯奧旨。片言隻字。具經心目。親蒙口決。庶無乖舛。以斯福祉。奉福
大唐の中大夫内侍護軍である仏弟子観自在は、西域で新たに翻訳された経論を謹んで写しました。この余生を終えるまで、道心が退かないようにと願い、これによってまだ聞いたことのないところに流通させたいと存じます。ひそかに思いますに、仏の日は西に沈み、正法は玄く謝えてしまいました。しかし智慧の流れは東に漸く及び、像教が今まさに伝わろうとしています。世にも希な符が、奥義を貝葉の上に宣べ、非常の宝が、最も深い理を龍宮から発き出しました。その沖源を酌み取れば、暴河を截って遥かに逝き、その玄閫を遊べば、朽宅を出て長く駆け巡ることができます。玄奘法師は、釈門の龍象であり、振旦の鶖鷺であります。葱山を越えて学に励み、梵文を齎して還り止まりました。殺青がまさに成り、永く流通の事業を為そうとしています。士方涯は多く、幸いに正法を聞くことに預かりましたが、因を植えることに或いは爽い、質を稟けることが全うでありません。今、この寸禄を尽くして、この奥旨を繕いました。片言隻字、具に心目に経、親しく口決を蒙り、ほぼ乖舛がないであろうと存じます。この福祉を以て、福を奉げます。
太宗文皇帝。即御 皇帝王公卿士。六姻親族。凡厥黎庶。及跂行喘息。平等熏修。乘此勝基。方升正覺。
太宗文皇帝をはじめ、皇帝・王・公・卿・士、六親の縁者、すべての民、そして歩むものも息づくものも、平等に功徳を積み、このすぐれた土台に乗って、まさに正しい覚りへと昇っていきます。