正法念處經敘
正法念処経 序
夫域中之名四等,道之所生萬殊,名蓋眾名之假,生非有生之實。然則修促共盡,小大同期,而金字絲編、緗交素篆,分途列道、門張戶設,既昧斷惑之境,未接息言之路,詎能探神測妙,苞總無邊?有聖將應,靈因曠遠,志遺髮膚,施單城國。及繁星駐彩,夕馬騰空,出四門以結念,處三夜而圓果,十力在己、八解俱照,智兼一切、慈洽萬方,既而法吼傍震,甘露降灑:鷲山、祗樹之下,鹿苑、連河之地。眾出恒沙,徒繁林竹,反窮迷于升極,啟重昏于鐙炬。雖鵠林興慕,檀薪已然,教義不忘,風聲逾被。壽陵仰丹素之工,清臺寫金玉之質,水骨流暉,園閭加等,遺契餘旨,薄傳前載,幽宗絕唱,方備茲辰。使持節大將軍領中書監攝吏部尚書京畿大都督渤海王世子高公,道風虛邁,神衿峻遠,負日月于中衢,擊雷霆于上路,德表生民,作舟梁于夷夏,器含群物,制天淵于廟堂,殊流共委,酌而不竭,異軫同騖,仰以知歸。黃扉南闢,鈴閤東啟,則有高士通才、幽人偉器,懱其漢爵之重,鄙其南岳之游,曳裾高步,自得門下,俱申前趣之禮,竝應却行之眷。蓋以書奏多方,術呈異等,或披卷而止,或一貫獨得,每留神釋典、洞叩玄門,以夫照壁瀉瓶,遺文必舉,非徒九部,寧止十二。逷矣西方,路超百宿,精力苦心,不憚重繭,故能法藏流行,異聞俱湊。爰有舍城妙說時將感通,法螺良藥響授斯在。從善業之本,極身念之際,標品有七、明義者五,至如違俗絕世,託想菩提,眷彼天人,深嗟鬼畜,鑒茲因果,冥心是緣,篤誠修行,又悟前旨,載懷依仰,形殊理一,大覺下臨,昭然獨曉,四攝六通,網羅群智,贊揚妙德,事屬斯文。直以風殊俗舛,詞翰乖絕,傾耳注目,隔若山河,將恐靈教有虧,玄旨多墜。有婆羅門人瞿曇流支,比丘曇林、僧昉等,竝鉤深索隱,言通理接,延居第館,四事無違,乃譯明茲典,名「正法念處」。起自興和歲陽玄默,終于武定淵獻之季,條流積廣,合七十卷。微言不昧,弘之在我,大崇覺典,尅宣靈迹。此乃濟四部于法橋,刷六塵于定水,心殷業重,無德而言。雖龍樹不追、馬鳴日遠,申法尊道,夫豈異昔?所以緇素擊節,雅俗傾首,義有存焉,永法三界。云爾。
仏教における「世界」の呼び名には四つの等級がある。道が生み出すものは無数であり、「名」とは様々な仮の呼び名に過ぎず、「生」には実体としての生はない。それゆえ、長短も共に尽き、大小も同じ時期を迎える。しかし、金文字の経典や、絹に書かれた書物、青や白の文字で記された教えは、それぞれに道を分け、門を設けており、煩悩を断つ境地を曖昧にし、言葉を超えた道に至る道筋を示していない。どうして神妙な真理を探り、尽きることのないものすべてを包括できるだろうか。
聖者が応現される時、その因縁は広大で遠く、その志は身体や髪の毛を捨てることに留まらず、国や城を施すにまで及ぶ。そして、星々がその輝きを留め、夕方には馬が虚空を駆ける中、四つの門を出て心を定め、三夜の修行の後に悟りを円満にされた。十の力が己に備わり、八つの解脱が全てを照らし、智慧はあらゆるものを兼ね、慈愛はあらゆる方角に及ぶ。その後に、法の説法の声が響き渡り、甘露の雨が降り注いだ。鷲山や祇園精舎の下、鹿野苑や連河の地において、無量の衆生が集まり、竹林は繁った。しかし、迷いの極みから悟りへと導き、深い闇を灯明によって開くのである。
たとえ鶴林において人々が慕い悲しみ、栴檀の薪がすでに燃え尽きても、教えの義は忘れられることなく、その教化の風はますます広がる。寿陵は丹青の業を仰ぎ、清台は金や玉の像を写し、水や骨にもその光は流れ、園や里は格別に扱われた。遺された教えの趣旨は、かろうじて前代の記録に伝えられ、幽玄な宗派の絶唱が、今こそ備わろうとしている。
使持節・大将軍・中書監・吏部尚書・京畿大都督・渤海王世子である高公は、その道風が虚しく超え、精神は峻厳で遠大である。中道において日月を背負い、大道において雷霆を撃つ。その徳は生民に表れ、夷狄や中国に橋や船となる。その器量はあらゆるものを受け入れ、朝廷において天と淵を制する。様々な流れが集まって注がれても汲んでも尽きず、異なる車が同じ方向に進むようであり、仰いで帰依する先を知る。黄色の扉は南に開かれ、鈴の門は東に開かれ、そこには高邁な士や深遠な才能、隠れた傑物たちが集まり、漢の爵位の重みを軽んじ、南岳への遊びすらも卑しんで、衣の裾を曳いて高歩し、自ら門下に集う。皆、前に進む礼を尽くし、引き下がるのもまた恩恵に応えるのである。
それは、多くの方法を奏上し、様々な術を示すことにある。ある者は書物を披いて止まり、あるいは一つの道理を独り得る。常に仏典に心を留め、玄妙な門を深く叩く。壁を照らし、瓶に注ぐように、遺された文は必ず挙げられる。ただ九部のみにとどまらず、十二部にも及ぶ。はるか西方の道は、百の宿を越える。精力を尽くし苦心して、幾重ものたこを厭わないからこそ、法蔵は流布し、珍しい説がすべて集まるのである。
ここに、舎城の妙なる説法があり、時に感じ応じて通じる。法螺と良薬の教えが、ここに授けられている。善業の根本から、身と念の極みに至るまで、標目に七つがあり、義を明らかにするものが五つある。世俗を離れ、人の世を超え、菩提に心を寄せ、天や人を顧み、鬼神や畜生を深く悲しみ、因果を明らかにし、心をこれらの縁に沈め、誠実に修行し、また、かつての教えを悟り、心から帰依して仰ぐ。姿形は異なれども、その道理は一つである。大いなる覚者は下り臨み、明らかにして独りで悟る。四摂法と六神通は、あらゆる智慧を網羅し、妙なる徳を称賛することは、まさにこの文に属する。
ただ、風俗が異なり、言葉や文章が乖離しているため、耳を傾け目を凝らしても、山河の隔たりのようである。恐らくは、霊妙な教えに欠けるところがあり、玄妙な趣旨が多く失われるであろう。そこに、バラモンの瞿曇流支、比丘の曇林、僧昉らがいて、いずれも深く探り隠れた義を求め、言葉は通じ、道理はつながった。彼らを邸宅の館に招き、四つの施しを欠かさず、ついにこの経典を翻訳し、「正法念処」と名付けた。興和の歳、陽の玄黙の年に始まり、武定の淵献の年、終わりに終わる。条理は積み重なり広がり、合わせて七十巻となる。微細な言葉は曇ることなく、これを広めるのは我らにある。大いに覚りの経典を尊び、よく霊妙な跡を宣べ伝える。これは、四部の衆を法の橋で済度し、六塵を定の水で洗い清めるものである。心は厚く、業は重く、徳を言うまでもない。龍樹は追いかけることができず、馬鳴も日々遠ざかるが、法を申し、道を尊ぶことは、昔とどうして異なろうか。ここに、僧も俗も節を打ち、雅も俗も首を傾ける。義はここに存し、永遠に三界を法とする。かくのごとし。
正法念處經卷第一
正法念処経 巻第一
元魏婆羅門瞿曇般若流支譯
元魏の婆羅門瞿曇般若流支訳