ご支援淨心禪堂すべての経典
メインコンテンツにスキップ
  1. 自在王菩薩経 (自在王菩薩經)
  2. 第一 (第一)
  3. 第一 (第一)
←と→
矢印キーでページをめくれます

自在王菩薩経 (自在王菩薩經)

「自在王菩薩經」について

姚秦 · 底本の訳者:鳩摩羅什

1.6 万字 · 約 52 分

自在王菩薩経は鳩摩羅什により姚秦時代に翻訳された重要な仏教経典であり、大乗仏教典籍に属する。本経は自在王菩薩と仏陀との対話を核心とし、菩薩修行の境地と智慧を闡明し、般若空性を通じて自在解脱に至ることを強調する。経文の内容は菩薩道の修行方法、菩提心の実践、および諸法実相の体悟を包含する。鳩摩羅什の訳本は言語精錬、義理深遠であり、中国仏教思想の発展に深遠な影響を与えた。この経典は大乗仏教において重要な地位を占め、修行者に究竟解脱の理論的根拠と実践指導を提供し、菩薩思想と般若空観を研究する重要な文献の一つである。


自在王菩薩經卷上

自在王菩薩経 上巻

姚秦三藏鳩摩羅什譯
如是我聞:
一時,佛在舍衛城祇陀樹林給孤獨園,與大比丘眾二萬人俱,菩薩摩訶薩皆是一生補處,其名曰:彌勒菩薩、得大勢菩薩、師子意菩薩、師子相菩薩、大相菩薩,如是上首一萬人俱。爾時世尊,大眾圍繞恭敬,為發大乘意眾生演說經典。

ある時、お釈迦様は舎衛城の祇陀林にある給孤独園におられました。そこには二万人の大比丘たちが共におり、また一生補処の菩薩摩訶薩たちも集まっていました。その中には、弥勒菩薩、得大勢菩薩、師子意菩薩、師子相菩薩、大相菩薩など、一万の上首の菩薩たちがおられました。

その時、世尊は大勢の人々に囲まれ、敬われながら、大乗の心を起こした衆生のために教えを説かれました。

爾時,眾中有菩薩名自在王,從坐而起,偏袒右肩,右膝著地,合掌白佛言:「世尊!欲有所問,若蒙聽許乃敢發言。」

その時、会衆の中に自在王という名の菩薩がおられました。座から立ち上がり、右肩をあらわにし、右ひざを地につけて、合掌して仏に申し上げました。 「世尊よ、お尋ねしたいことがございます。もしお聞き入れいただけますならば、ようやく申し上げることができます。」

佛告自在王:「諸有所問,佛無不聽,隨意所問,當為汝說,令汝得解。」

仏は自在王に告げた:「汝が尋ねたいことは何であれ、仏は聞き入れないことはない。心のままに問うがよい、汝のために説き、汝に理解を得させよう。」

自在王菩薩得蒙聽許喜悅無量,白佛言:「世尊!云何菩薩摩訶薩,於大乘法中得自在行,而能為人演說此法,以自在力,摧伏諸魔增上慢者,及諸外道有所見得諸貪著者,令住大乘具足大願成就戒行,得阿耨多羅三藐三菩提?」

自在王菩薩はお許しを得て、無量の喜びに満ち、仏に申し上げました。「世尊よ、菩薩摩訶薩はどうすれば大乗の教えの中で自在に行じ、人々にこの法を説き示すことができるでしょうか。自在の力をもって、諸々の魔や増上慢の者、また諸々の外道で執着を持つ者を打ち破り、彼らを大乗に安住させ、大願を具足させ、戒行を成就させ、阿耨多羅三藐三菩提を得させることができるのでしょうか。」

佛告自在王菩薩:「善哉!善哉!汝能問佛是義,當為汝說,一心諦聽善思念之。諸菩薩云何能令眾生得住大乘,具足大願成就戒行,得阿耨多羅三藐三菩提。」自在王菩薩受教而聽。

仏は自在王菩薩に告げられた。「善きかな、善きかな。そなたが仏にこの意義を問うたことを。そなたのために説こう、一心に諦聴し、善く思念せよ。諸菩薩はいかにして衆生をして大乗に安住せしめ、大願を具足し、戒行を成就させ、阿耨多羅三藐三菩提を得させることができるか。」自在王菩薩は教えを受け、聴き入った。

佛告自在王:「菩薩摩訶薩有四自在法,以是法故,能自在行,令諸眾生得住大乘。何等四?一者戒自在;二者神通自在;三者智自在;四者慧自在。戒自在者,菩薩摩訶薩行具足戒,不毀、不缺、不穿、不濁、不有所得、不悔不訶、不有熱惱、智所稱讚、隨順道戒、教眾生戒、護法戒、歡悅戒、不依生處戒、住定戒、隨慧戒、信解深法戒、不退神通戒、空無相無作戒、寂滅戒、攝佛法戒、說佛法戒、不捨一切眾生戒、慈護戒、大悲根本戒、信淨戒、不轉儀式戒、頭陀細行戒、隨順福田戒、畢竟淨戒、不斷佛種戒、護法種戒、示聖眾戒、安住菩提心戒、助六波羅蜜戒、修四念處戒、修四正勤四如意足五根五力七菩提分八聖道分戒、能生一切助菩提法戒。自在王!若菩薩摩訶薩能持如是戒,戒則具足,所願皆得。若菩薩持如是淨戒者,三千大千世界劫盡燒時,願欲滅火,言火當滅,火即為滅;欲令三千大千世界皆變為水,欲令三千大千世界普雨眾華,欲令三千大千世界皆為珍寶,欲令如恒河沙世界諸須彌山合為一山,欲令如恒河沙世界大海合為一海,即皆如意無不成者,持戒力故所願皆得,所為神力無不稱意。菩薩安立如是戒中,得如是自在力,持淨戒故深願畢成,得阿耨多羅三藐三菩提。

仏は自在王に告げられた。「菩薩摩訶薩には四つの自在法があります。この法によって自在に修行し、多くの衆生を大乗に安住させることができるのです。その四つとは何でしょうか。第一は戒の自在、第二は神通の自在、第三は智の自在、第四は慧の自在です。

戒の自在とは、菩薩摩訶薩が具足戒を実践し、それを破らず、欠けず、穴が開かず、濁らず、執着せず、後悔せず、非難せず、煩わされず、智慧によって称賛され、道に随順した戒、衆生を教える戒、法を護る戒、歓喜の戒、生まれに執着しない戒、定に安住する戒、慧に随順する戒、深い法を信解する戒、神通を退けない戒、空・無相・無作の戒、寂滅の戒、仏法を摂する戒、仏法を説く戒、一切の衆生を見捨てない戒、慈しみ護る戒、大悲を根本とする戒、清浄な信仰の戒、形式に固執しない戒、頭陀の細行戒、福田に随順する戒、究竟清浄の戒、仏種を断たない戒、法種を護る戒、聖なる僧衆を示す戒、菩提心に安住する戒、六波羅蜜を助ける戒、四念処を修める戒、四正勤・四如意足・五根・五力・七菩提分・八聖道分を修める戒、一切の菩提を助ける法を生じさせる戒を実践することです。

自在王よ、もし菩薩摩訶薩がこのような戒を持てば、戒は具足し、願うことはすべて成就します。もし菩薩がこのような清浄な戒を持つならば、三千大千世界が劫末に焼け尽きる時、火を消そうと願い、『火よ消えよ』と言えば、火はすぐに消えるでしょう。三千大千世界をすべて水に変えようと願い、三千大千世界に花を降らせようと願い、三千大千世界をすべて珍宝に変えようと願い、ガンジス川の砂の数ほどの世界の須弥山を一つの山に合わそうと願い、ガンジス川の砂の数ほどの世界の大海を一つの海に合わそうと願えば、すべて思いのままに成就し、叶わないことはありません。戒を持つ力によって願いはすべて成就し、神通力による行いはすべて意にかなうのです。

菩薩はこのような戒の中に安住し、このような自在力を得、清浄な戒を持つことによって深い願いを成就し、阿耨多羅三藐三菩提を得るのです。」

「自在王!乃往古世過無量阿僧祇劫,有佛名淨明光王如來、應、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、佛、世尊。爾時有菩薩比丘,名金剛齊,得持戒力,行淨戒故常在閑處林中經行,欲具佛法故修習正行。修正行已作如是念:『不得一切法是則名戒;不貪一切法是則名戒;滅一切結是則名戒;觀身如鏡中像是則名戒;於諸言辭如呼聲響是則名戒;觀心相如幻是則名戒;善不善法無二無別是則名戒;為貪欲故觀身不淨是則名戒;為瞋恚故生於慈心是則名戒;以智慧破癡網是則名戒;不得貪恚本是則名戒;於法無觀無想分別是則名戒;無我見、無眾生見、無壽者見、無人見、無常見、無滅見是則名戒;於一切法不作不起是則名戒;心無所畏是則名戒;不依三界是則名戒;信無生法是則名戒;信解無生法忍是則名戒;不貪利養是則名戒;於諸法空心不驚畏,壞離諸相蠲除諸願是則名戒;心無所念是則名戒;不自高不輕彼是則名戒;不著諸入是則名戒;不起五欲是則名戒;了知諸陰同於法陰是則名戒;了知諸性同於法性是則名戒;樂無諍訟是則名戒;於善法中不捨勤行是則名戒;知一切法必寂滅相而以身證是則名戒。』

自在王よ。遥か遠い昔、無量阿僧祇劫を過ぎた時代に、浄明光王如来という仏がおられました。その時、金剛斉という名の菩薩比丘がいました。彼は戒律を保つ力を得て、清らかな戒を実践していたため、常に閑静な林の中で経行していました。一切の教えを具えようと、正しい行いを修めていたのです。

正しい行いを修めた後、彼はこのように考えました。

「一切の法を得ないこと、それが戒である。 一切の法に貪りを起こさないこと、それが戒である。 一切の煩悩を滅すること、それが戒である。 身体を鏡に映った像のように観ること、それが戒である。 あらゆる言葉を呼び声の響きのように観ること、それが戒である。 心のありようを幻のように観ること、それが戒である。 善い法も悪い法も、二つでもなく別でもないと知ること、それが戒である。 貪欲のために身体を不浄と観ること、それが戒である。 瞋恚のために慈しみの心を起こすこと、それが戒である。 智慧をもって愚痴の網を破ること、それが戒である。 貪りや怒りの根源を得ないこと、それが戒である。 法に対して観ずることもなく、想いもなく、分別しないこと、それが戒である。 我という見解も、衆生という見解も、寿命という見解も、人という見解も、常住という見解も、滅尽という見解も持たないこと、それが戒である。 一切の法に対して作らず、起こさないこと、それが戒である。 心に恐れがないこと、それが戒である。 三界に依らないこと、それが戒である。 無生の法を信じること、それが戒である。 無生法忍を信じ解すること、それが戒である。 利養に貪らないこと、それが戒である。 諸法が空であることに心驚かず畏れず、諸々の相を壊し離れ、諸々の願いを除き去ること、それが戒である。 心に何も思い留めないこと、それが戒である。 自らを高くせず、他を軽んじないこと、それが戒である。 諸々の入り(感官と対象)に執着しないこと、それが戒である。 五欲を起こさないこと、それが戒である。 諸々の蘊(五蘊)が法の蘊と同じであることを了知すること、それが戒である。 諸々の性(諸法の性質)が法の性と同じであることを了知すること、それが戒である。 諍いを好まないこと、それが戒である。 善い法の中にあって、勤勉な行いを捨てないこと、それが戒である。 一切の法が必ず寂滅の相であることを知り、それを自らの身をもって証すること、それが戒である。」

「自在王!金剛齊比丘如是安住於戒,修習聖法正念無倒。時有魔子名曰障礙,見金剛齊比丘如是持戒,修習聖法正念無倒,與八萬四千諸魔及其眷屬,貫鉀持兵來到其所,自隱其身,觀是比丘心在何行?千歲隨逐乃至不見一念心散可得惱壞。於是魔子及與眷屬現其魔身,執持刀鉾,在比丘前欲以相怖。比丘見魔大眾兵仗欲以相怖,作是誓言:『若我戒淨,習於聖法正行不倒,以是緣故,魔眾兵仗皆當變成青黃赤白雜色蓮華、須曼那華、婆梨師華、奇妙名華以為瓔珞,是時魔子與其眷屬,形色儀法皆如我身。』

自在王よ、金剛斉比丘はこのように戒律に安住し、聖なる法を修習し、正しい念いを保ち、誤りなき境地にあった。その時、障礙という名の魔の子が、金剛斉比丘がこのように戒律を保ち、聖なる法を修習し、正しい念いを保っているのを見て、八万四千の諸魔とその眷属を率い、鎧を着て武器を持ち、彼の居所にやって来た。彼らは自らの姿を隠し、この比丘の心がどのような行いに在るかを観察した。千年にわたって付き従っても、一瞬たりとも心が乱れ、悩まされ損なわれる様子を見ることはできなかった。そこで魔の子とその眷属は、魔の姿を現し、刀と矛を手に、比丘の前に立ち、彼を脅そうとした。比丘は、大勢の魔の軍勢が武器を持って脅そうとしているのを見て、このような誓いを立てた。「もし私の戒律が清らかで、聖なる法を修習し、正しい行いに誤りがないならば、この縁によって、魔の軍勢の武器はすべて、青、黄、赤、白の雑色の蓮華、須曼那華、婆梨師華、奇妙な名の華となり、瓔珞とならん。そしてこの時、魔の子とその眷属の形と色、儀礼と法は、すべて我が身の如くならん。」

「自在王!金剛齊比丘說是語時,魔眾兵仗即皆變成妙色之華,殊妙香潔以為瓔珞。一切諸魔皆自見身如此比丘,剃除鬚髮著染袈裟。魔子見比丘現大神力,怪未曾有發希有心,與其眷屬俱禮其足,作如是言:『汝得何法乃有是力?』比丘言:『此力不從有所得生,亦不依於身口意及一切法生,是力不以住相故生,以無住處故。』魔言:『比丘!我於千歲求汝心行不能知處。』比丘言:『汝若以恒河沙劫求之,亦不能得。何以故?是心不在內不在外不在中,汝寧能得幻化人心所行處不?』答言:『幻化之人尚無有心,況心行處。』比丘言:『如來說一切法空皆如幻化,此中亦無心無思。』魔言:『若不得心、不得思,云何有來去、有言說?』比丘言:『幻人去來言說,我去來言說亦如是。』

自在王よ、金剛斉比丘がこの言葉を語った時、魔の軍勢の武器はすべてたちまち美しい色の花に変わり、その香りは殊勝で清らかであり、瓔珞のようになった。すべての魔たちは、自らの姿がこの比丘のように、髭や髪を剃り落とし、染められた袈裟をまとっているのを見た。魔の子らは比丘が大いなる神通力を現わすのを見て、かつてない不思議に感じ、希有な心を起こし、その眷属たちと共に彼の足を礼拝し、このように言った。「あなたはどんな法を得て、このような力を持つのですか。」

比丘は言った。「この力は、何かを得ることから生じるのではなく、また身・口・意や一切の法に依って生じるのでもない。この力は、住む相によって生じるのではなく、住むところがないからである。」

魔は言った。「比丘よ、私は千年の間、あなたの心の行いを求めても、その在り処を知ることができなかった。」

比丘は言った。「あなたが恒河の砂の数ほどの劫をかけて求めても、やはり得ることはできない。なぜなら、その心は内にも外にも中にも存在しないからだ。あなたは幻化の人の心の行いの在り処を得ることができるだろうか。」

魔は答えた。「幻化の人にはそもそも心が無いのに、ましてや心の行いの在り処などあるはずがない。」

比丘は言った。「如来は、一切の法は空であり、すべて幻化のようであると説かれている。その中にも心はなく、思うこともない。」

魔は言った。「もし心も得られず、思うことも得られないなら、どうして来たり去ったり、言葉を語ることがあるのか。」

比丘は言った。「幻化の人が去来し言葉を語るように、私の去来や言葉もまた同じである。」

「魔言:『汝以是進行住於持戒,修習聖法為何所趣?』比丘言:『趣無所趣。』魔言:『云何趣無所趣?』比丘言:『是中無先去、無今去、無當去,無所趣者,即是無作脫門。汝問:「以是進行安於戒修習聖法,何所趣?」者,我不趣色生、不趣色滅、不趣色住、不趣受想行識滅、不趣受想行識住,於一切法,亦不趣生、亦不趣滅、亦不趣住,是名正趣。魔子!正趣者名不取色,不取受想行識,無所見法是我所趣。我所趣者,不取色、不取受想行識,我所趣者是諸聖所趣。』魔言:『比丘!於是法中云何有趣?』比丘言:『諸凡夫法及諸佛法,同是一法無二無別;學法、阿羅漢法、辟支佛法、佛法,同是一切法無二無別;若過去法、若未來法、若現在法,同是一法無二無別;無出無生以等相故。不捨如是諸法等相者,欲以是法示眾生故而為說法,如是趣者名為正趣。魔子!夫正趣者,不趣欲界、不趣色界、不趣無色界。住等法者,於法實相不動不退,是名正趣。如如趣,一切法趣亦如是;如法性趣,一切法趣亦如是;如實際趣,一切法趣亦如是。求如是趣者,亦不念不著諸趣,是名正趣。』

魔が言った。「あなたは戒律を保ち、聖なる教えを修めることで、いったいどこへ向かおうとしているのですか?」 比丘は答えた。「向かう先などありません。」 魔が尋ねた。「向かう先がないとは、どういうことですか?」 比丘は言った。「そこには、過去に行ったことも、今行こうとしていることも、未来に行くこともありません。向かう先がない、それが『無作解脱門』なのです。あなたが『戒律を保ち、聖なる教えを修めて、どこへ向かうのか』と問うならば、私は色(物質)の生起にも、色の消滅にも、色の安住にも向かわない。受・想・行・識(精神作用)の消滅にも、それらの安住にも向かわない。一切の法についても、生起にも消滅にも安住にも向かいません。これが『正しい向かい方』です。魔よ、正しい向かい方とは、色を執着せず、受・想・行・識を執着せず、『これが私の向かう先だ』と見定めるべき対象がないことです。私の向かう先とは、色を執着せず、受・想・行・識を執着しないこと。これこそが、すべての聖者たちの向かう先なのです。」 魔が言った。「比丘よ、この法において、どうすれば向かうと言えるのか?」 比丘は答えた。「凡夫の法も諸仏の法も、同じ一つの法であり、二つでも別々でもありません。学ぶ者の法、阿羅漢の法、辟支仏の法、仏の法も、すべて同じ一つの法であり、二つでも別々でもありません。過去の法も、未来の法も、現在の法も、同じ一つの法であり、二つでも別々でもありません。そこには出現も生起もなく、すべてが平等の相だからです。このような諸法の平等の相を離れない者が、衆生にこの法を示すために説法をする。このような向かい方を、『正しい向かい方』といいます。魔よ、正しい向かい方とは、欲界にも、色界にも、無色界にも向かわないことです。平等の法に安住する者は、法の実相に対して動揺せず退転せず、これが正しい向かい方です。『如如』(ありのまま)に向かうように、一切の法に向かうこともまたそのとおりです。『法性』(法の本性)に向かうように、一切の法に向かうこともまたそのとおりです。『実際』(究極の真理)に向かうように、一切の法に向かうこともまたそのとおりです。このような向かい方を求める者は、また、いかなる向かい方にも執着せず執着しない。これが正しい向かい方です。」

「魔子語金剛齊比丘:『汝以是正行為得何法?』答言:『我以是正行得離諸法分別,以是無念無分別故,具足等相。汝問:「得何法?」者,是正行中無有得相,無增上慢,以是正行於法無所得,正行者即是無行義。』魔子問金剛齊比丘:『汝以此戒當得何法?』答言:『我以此戒當得阿耨多羅三藐三菩提,乃至小法不可得故。』魔子言:『云何得菩提?』比丘言:『色等則是得菩提,受想行識等則是得菩提,一切法等則是得菩提。』魔子言:『如是菩提於何處求?』比丘言:『當於我見性中求。』魔子言:『云何而求?』比丘言:『求時不起菩提見。』

魔の子が金剛斉比丘に問うた:「あなたはこの正しい行いによって、いかなる法を得たのですか?」比丘は答えた:「私はこの正しい行いによって、あらゆる法の分別を離れました。この無念無分別のゆえに、平等の相を具足するのです。あなたが『何の法を得たか』と問うのは、この正しい行いの中には得るという相がなく、増上慢もないからです。この正しい行いによって法には何も得るものはなく、正しい行いとはすなわち行わないという意味なのです。」

魔の子が金剛斉比丘に問うた:「あなたはこの戒によって、いかなる法を得るつもりですか?」比丘は答えた:「私はこの戒によって阿耨多羅三藐三菩提を得るつもりです。なぜなら、小さな法さえも得ることはできないからです。」魔の子が言う:「どうやって菩提を得るのですか?」比丘は言う:「色などがすなわち菩提を得るのであり、受・想・行・識などがすなわち菩提を得るのであり、一切の法などがすなわち菩提を得るのです。」魔の子が言う:「では、そのような菩提はどこに求めるのですか?」比丘は言う:「我見の性の中に求めるべきです。」魔の子が言う:「どのように求めるのですか?」比丘は言う:「求める時に菩提という見解を起こさないことです。」

「魔言:『比丘!汝師是誰?誰所教誨辯乃如是?』比丘言:『不壞我見性而得菩提,是則我師;不在垢不在淨,是則我師;若識不在有為不在無為,是則我師;若不從他聞於諸法,不住不捨能度諸流,是則我師;若遍知一切法而不至一切法,是則我師;若一切所說音聲言辭,於不可說諸法相中而不動轉,是則我師;若一切法不生不起不出,而能轉聖法輪,是則我師;不住此岸不在彼岸不在中流,是則我師;若一切法不生故生,是則我師;若一切法不滅故滅,是則我師。我隨如是師教,故辯如是。』

魔が言いました。「比丘よ、あなたの師は誰ですか?誰の教えを受けて、このように雄弁に語れるのですか?」

比丘は答えました。「『我見』の本性を壊さずに悟りを得る、それが私の師です。汚れにも清らかさにもとどまらない、それが私の師です。もし認識が有為にも無為にもとどまらないなら、それが私の師です。もし他から聞いた諸法にとどまらず、捨てず、すべての流れを渡ることができるなら、それが私の師です。もし一切の法を遍く知りながら、一切の法に至らないなら、それが私の師です。もし一切の音声と言葉が、説きがたい諸法の相の中で動揺しないなら、それが私の師です。もし一切の法が生じず、起こらず、現れず、しかも聖なる法輪を転じることができるなら、それが私の師です。此岸にも彼岸にも中流にもとどまらない、それが私の師です。もし一切の法が生じないゆえに生じるなら、それが私の師です。もし一切の法が滅びないゆえに滅びるなら、それが私の師です。私はこのような師の教えに従っているからこそ、このように語れるのです。」

「魔子言:『如來以何而轉法輪?』答言:『如來於色不轉不還;色如、色法、色空、色無相、色無作、色滅、色離、色無生、色相、色性,亦不轉不還;受想行識不轉不還,識如、識法、識空、識無相、識無作、識滅、識離、識無生、識相、識性,亦不轉不還;如來以是一切法不轉故,轉於法輪。如是法輪若轉若不轉,於無量法性終不出過。若能解此轉法輪者,是人則能轉於法輪。』

魔の子が言いました。「如来は何をもって法輪を転じるのですか?」

お答えします。「如来は色について転じず、還らず。色の如、色の法、色の空、色の無相、色の無作、色の滅、色の離、色の無生、色の相、色の性についても、転じず還らず。受・想・行・識について転じず還らず。識の如、識の法、識の空、識の無相、識の無作、識の滅、識の離、識の無生、識の相、識の性についても、転じず還らず。如来は、この一切の法が転じないことをもって、法輪を転じるのです。このような法輪が転じようと、転じまいと、無量の法性を超えることは決してありません。もしこの法輪を転じる意味を理解できるなら、その人は真に法輪を転じることができるのです。」

「爾時魔子及其眷屬,皆為金剛齊比丘作弟子,發是言:『我從今日歸依於師。』比丘言:『汝莫歸依我,當歸依淨明光王佛,我所說者是佛所教。』魔子言:『可共詣佛。』時金剛齊比丘,與魔子及八萬四千魔眾,俱詣淨明光王佛所,頭面禮佛足,合掌恭敬在一面立。淨明光王佛,因其淨戒及聖法行,為說如是法,皆得不退於阿耨多羅三藐三菩提。

その時、魔王の子とその眷属たちは、みな金剛斉比丘の弟子となり、こう言いました。「私は今日から師に帰依いたします」と。比丘は言いました。「私に帰依してはなりません。浄明光王仏に帰依しなさい。私が説いているのは、仏が教えられたことなのです」と。魔王の子は言いました。「どうか一緒に仏のもとへ参りましょう」と。その時、金剛斉比丘は、魔王の子と八万四千の魔衆と共に、浄明光王仏のもとへ赴き、頭を地に付けて仏足を礼拝し、合掌して恭しく一かたわらに立ちました。浄明光王仏は、彼らの清らかな戒律と聖なる法の行いによって、このような法を説かれ、彼らはみな阿耨多羅三藐三菩提から退転することがなくなりました。

「自在王!彼時金剛齊比丘豈異人乎?汝身是也。障礙魔子者,持地菩薩是。自在王!是名菩薩摩訶薩戒自在。菩薩得是戒自在者,能示眾生不思議願力,教化無量眾生於阿耨多羅三藐三菩提,亦能自降魔怨,疾成阿耨多羅三藐三菩提。」

自在王よ、あの時の金剛斉比丘は、はたして別人であっただろうか。それはあなた自身である。障礙魔の子は、持地菩薩である。自在王よ、これが菩薩摩訶薩の戒の自在というものである。菩薩がこの戒の自在を得たならば、衆生に不思議な願いの力を示し、無量の衆生を阿耨多羅三藐三菩提へと教化することができる。また自ら魔の怨敵を降伏させ、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することができるのである。

佛告自在王:「何謂菩薩摩訶薩神通自在?謂天眼、天耳、他心智、宿命智、如意足。自在王!何謂菩薩天眼自在也?若菩薩眼根不為牆壁山林須彌鐵圍,世界中間之所障礙,是名天眼自在。菩薩以是無礙眼根,見十方無量阿僧祇佛土,為一佛土。何以故?空相無別異故,而諸佛土彼此雖別而不合不異。又見諸佛大眾圍遶皆為一佛,以法性不壞相故。以見一佛淨故見一切佛淨,以一切佛淨故見自身淨,自身淨故見一切法淨,於自身淨諸淨之中不生二相。又見諸佛弟子,不異見佛淨,菩薩以見弟子正見見佛,以見佛正見見弟子。又菩薩於十方無量阿僧祇世界,所有眾生,若地獄、若畜生、若餓鬼、若人、若天,除無色界,即以天眼,悉皆能見生死所趣善惡之處,又知眾生行業及報。菩薩雖見眾生不取眾生相。何以故?信無我際故。雖見行業及報,而知一切法無業無報。菩薩以是天眼,見一切色皆無色相,信一切法無所有故,知諸形色皆是虛妄,本來不生故,是名菩薩天眼。菩薩得是天眼智力故,隨所能見,或見有數色,或見無數色,或無所不見,菩薩雖在百千萬種眾生之中,而能入於禪定背捨三昧,乃至不見有一眾生。何以故?菩薩達諸法無我如故。是菩薩於色界諸天淨妙形前,為現其身令諸天子見,而是菩薩亦見諸天身;菩薩又能令諸天見其身,而諸天不自見身;或令諸天自見其身,而不見菩薩身。自在王!是名菩薩天眼自在。

仏は自在王に告げられた。「菩薩摩訶薩の神通自在とは何か。それは天眼・天耳・他心智・宿命智・如意足である。自在王よ、菩薩の天眼自在とは何か。もし菩薩の眼根が、壁や山林、須弥山や鉄囲山、世界の間にあるものによって妨げられることがなければ、これを天眼自在という。菩薩はこの妨げのない眼根をもって、十方の無量阿僧祇の仏国土を見て、一つの仏国土とする。なぜか。空の相には違いがないからである。しかし、諸々の仏国土は互いに別れていても、合わず異ならない。また、諸仏が大衆に囲まれているのを見て、すべて一仏とする。法性は壊れる相がないからである。一仏の清浄を見るゆえに一切の仏の清浄を見、一切の仏の清浄を見るゆえに自身の清浄を見、自身の清浄を見るゆえに一切の法の清浄を見、自身の清浄と諸々の清浄の中に二つの相を生じない。また、諸仏の弟子たちを見ても、仏の清浄を見るのと異ならない。菩薩は弟子を見る正しい見方によって仏を見、仏を見る正しい見方によって弟子を見る。また、菩薩は十方の無量阿僧祇の世界にいるすべての衆生、地獄・畜生・餓鬼・人・天(無色界を除く)を、天眼をもってことごとく見ることができ、生死の趣く善悪の処を知り、また衆生の行業とその果報を知る。菩薩は衆生を見ても衆生の相を取らない。なぜか。無我の境地を信じるからである。行業と果報を見ても、一切の法には業も果報もないことを知っている。菩薩はこの天眼をもって、一切の色を見てすべて色の相がなく、一切の法が無所有であることを信じ、諸々の形色がすべて虚妄であり、本来生じないことを知る。これを菩薩の天眼という。菩薩はこの天眼の智力を得るゆえに、見ることができる範囲に従って、あるいは有数の色を見、あるいは無数の色を見、あるいは見えないものはない。菩薩は百千万種の衆生の中にいても、禅定・背捨・三昧に入ることができ、ついには一衆生も見ないに至る。なぜか。菩薩は諸法が無我であることを悟っているからである。この菩薩は色界の諸天の清浄で妙なる形の前に身を現し、諸天子に見させることができ、また菩薩自身も諸天の身を見る。菩薩はまた、諸天に自分の身を見させながら、諸天は自分の身を見ることができず、あるいは諸天に自分の身を見させながら、菩薩の身を見ないようにすることもできる。自在王よ、これを菩薩の天眼自在という。」

「自在王!何謂菩薩摩訶薩天耳自在?若菩薩得是天耳,於十方無量阿僧祇世界,所有諸聲,天聲、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦樓羅、緊那羅、摩睺羅伽、人非人聲,悉皆得聞。聞是聲時,於諸聲中無所分別,信一切聲是不可說相。又聞是聲,不生我相、眾生相、及音聲相,達一切聲本來不可說相,信知是聲無有住時。菩薩耳性、耳識性無有礙故,聞是聲時解其實義者,一切聲不可說,是滅相故。以是實義,而依於義不依於聲,一切法無生相故。又聞十方無量阿僧祇現在諸佛之所說法,而無有礙,如所聞能持,持已不忘。何以故?菩薩乃至無有一句不知而滅。菩薩有所問法,若有漏若無漏、若有為若無為、若世法若出世法、若善若不善、若有罪若無罪、若聲聞乘、若辟支佛乘、若佛乘,能令是法入一性味,謂離自性,雖有所問不著六塵,雖復聞法不住諸相。菩薩貴法,依法不依非法。何等為法?法名離染、法名無相、法名無為、法名無歸處、法名無生無起無得、法名無比,於是法中以相分別,取捨戲論是名非法。

自在王よ、何を菩薩摩訶薩の天耳自在というのか。もし菩薩がこの天耳を得たならば、十方の無量阿僧祇世界に存在するすべての音声――天の声、夜叉の声、乾闥婆の声、阿修羅の声、迦樓羅の声、緊那羅の声、摩睺羅伽の声、人と非人の声を、ことごとく聞くことができる。これらの声を聞くとき、あらゆる音声の中に分別を起こさず、すべての声が言い表せない相であると信じる。また、これらの声を聞いても、我という相、衆生という相、そして音声そのものという相を生じず、すべての声が本来、言い表せない相であることを悟り、この声にはとどまる時がないと信じて知る。菩薩の耳の性質、耳識の性質には妨げがないゆえに、声を聞くとき、その真実の意味を理解する。すなわち、一切の声は言い表せず、それは滅の相であるからだ。この真実の意味によって、声に依らず義に依る。一切の法は生じる相がないからである。

さらに、十方の無量阿僧祇の現在の諸仏が説かれる法を、妨げなく聞き、聞いた通りに保持し、保持したことを忘れない。なぜなら、菩薩には一句たりとも知らずに滅することはないからだ。菩薩が問う法は、有漏であれ無漏であれ、有為であれ無為であれ、世間法であれ出世間法であれ、善であれ不善であれ、罪ありであれ罪なきであれ、声聞乗であれ、辟支仏乗であれ、仏乗であれ、それらの法を一つの性味に帰入させることができる。すなわち自性を離れることである。問うことはあっても六塵に執着せず、法を聞いてもあらゆる相にとどまらない。菩薩は法を尊び、法に依って非法に依らない。何が法か。法とは染め離れること、法とは相なきこと、法とは無為なること、法とは帰する処なきこと、法とは生ぜず起こらず得ることなきこと、法とは比べるものなきことである。この法において相によって分別し、取捨や戯論をなすことを非法という。

「自在王!菩薩依於義不依語,不離語入義心聽法。云何名入義心?不墮空義見、無相義見、無作義見,是名入義心。菩薩以是入義心聽法,依於義,是義不可得,不可得亦不可得。又自在王!菩薩若能如是聽諸佛法,依了義經,不依不了義經。了義經者,一切諸經皆是了義。以依義故,一切法不可說故,菩薩如是名為依了義經。若人於一切經,不能如是依義,是名不了義。何故名不了?是人不了義故,行塵垢道常為所牽。為誰所牽?為聲所牽。了義者不隨於聲。何以故?其義不可說故,菩薩知一切法離諸邊非了相。自在王!依如是義趣法者,一切諸經皆是了義,不如是依者,一切諸經皆是不了義。又自在王!菩薩於諸佛所聽受法時,依於智不依識。何以故?菩薩知識虛妄,如幻離相,無性無色無形無對不可識,如是知識相即名為智,不名為識。菩薩依智故不隨識,知他識亦不是識,是故不著,識如故說智如。自在王!依智菩薩不住於識,能知他說而為說法。

自在王よ、菩薩は義に依って語に依らず、語を離れることなく義の心に入って法を聴くのです。どのようにして義の心に入るのでしょうか。空の義の見解に堕ちず、無相の義の見解に堕ちず、無作の義の見解に堕ちないこと、これを義の心に入るといいます。菩薩はこのように義の心に入って法を聴き、義に依るのです。その義は得ることができず、得られないこともまた得られません。

また自在王よ、菩薩がもしこのように諸仏の法を聴くことができれば、了義経に依り、不了義経に依らないのです。了義経とは、一切の諸経はすべて了義であるということです。なぜなら、義に依るからであり、一切の法は説くことができないからです。菩薩がこのようにすることを、了義経に依るといいます。もし人が一切の経について、このように義に依ることができなければ、それは不了義と呼ばれます。なぜ不了というのでしょうか。その人は義を了知しないからであり、塵垢の道を行い、常に何かに引きずられるからです。誰に引きずられるのでしょうか。声に引きずられるのです。了義の者は声に従いません。なぜなら、その義は説くことができないからです。菩薩は一切の法がすべての辺見を離れ、了知の相ではないことを知っています。

自在王よ、このような義の趣きに依って法を求める者にとっては、一切の諸経はすべて了義であり、このように依らない者にとっては、一切の諸経はすべて不了義なのです。

また自在王よ、菩薩が諸仏のもとで法を受け聴くとき、智に依って識に依らないのです。なぜでしょうか。菩薩は識が虚妄であり、幻のようで相を離れ、自性なく、色なく、形なく、対するものなく、識ることができないことを知っているからです。このように識の相を知ることが、すなわち智と呼ばれ、識とは呼ばれません。菩薩は智に依るので識に従わず、他者の識もまた識ではないことを知り、それゆえ執着せず、識の如くであるから智の如くであると説くのです。

自在王よ、智に依る菩薩は識にとどまらず、他者の説くことを知りながら、そのために説法することができるのです。

「又自在王!菩薩說法時,雖說眾生名,而依於法不依眾生。何以故?若於我法中實有眾生者,終無淨無解。是故自在王!一切法畢竟無我無眾生,如來以世法故說有眾生,諸法實無眾生,是故菩薩依於法不依眾生。法者即是法性義,法性者是不生性義,不生者是畢竟不起不作義,義者是不可說義。何以故?以語說法,法不在語中。是故以語示義,有所示說皆非語非說。有所分別,有所說者,即非佛法;無分別無所說即是佛法,是故言無說是佛法。若人欲入佛法應如是入,而以語說眾生。若說法不應生見。若有二者不名佛語,無二無分別即是佛語。若有言聲即非佛法,若有論說亦非佛法,若無言聲亦無論說是名佛法。是故自在王!若菩薩入佛法中,則得如是天耳,以一切聲,隨諸法實相行,能得阿耨多羅三藐三菩提。自在王!是名菩薩天耳自在。

また自在王よ、菩薩が説法するとき、たとえ衆生の名を説くことがあっても、法に依拠して衆生に依拠することはありません。なぜならば、もし我が法の中に実在する衆生があるならば、ついに清浄も解脱もありえないからです。それゆえ自在王よ、一切の法は究極的に我もなく衆生もないのです。如来は世間の法に従って衆生があると説きますが、諸法の実相には衆生は存在せず、それゆえ菩薩は法に依拠して衆生に依拠しないのです。

法とはすなわち法性の意味であり、法性とは不生の性質を意味します。不生とは、究極的に起こらず作られないことを意味し、その意味は言葉で表せないものです。なぜならば、言葉で法を説いても、法は言葉の中にはないからです。それゆえ言葉で意味を示すことはできても、示されるものも説かれるものも、言葉や説法そのものではありません。

もし区別があり、何かを説くならば、それは仏法ではありません。区別がなく、何も説かないことが仏法です。それゆえ、何も説かないことが仏法であると言われます。人が仏法に入ろうとするならば、このように入るべきであり、言葉で衆生を説くことになりますが、説法するときは見解を生じてはなりません。

もし二つに分けるならば、それは仏の言葉とは言えません。二つに分けず、区別しないことが仏の言葉です。もし言葉や音声があれば、それは仏法ではありません。もし論議や説法があれば、それも仏法ではありません。言葉や音声がなく、論議や説法もないことが、仏法と呼ばれます。

それゆえ自在王よ、もし菩薩が仏法の中に入るならば、このような天耳を得ることができます。一切の音声を、諸法の実相に従って行じ、阿耨多羅三藐三菩提を得ることができるのです。自在王よ、これが菩薩の天耳自在と呼ばれるものです。

「自在王!何謂菩薩摩訶薩他心智自在?若菩薩得他心智自在者,以己心知他心,所至之處為眾說法先觀眾心,知是眾生有何深心,何行何因何相隨而為說。菩薩自心淨故,入一切眾生心淨。自在王!譬如明鏡照諸形色,相貌長短大小麁細,隨其本形皆有像現,不增不減鏡無分別,以明淨故能示諸像。菩薩亦如是,以自心淨法性照明故,眾生所起心心數法,皆能得知而無所礙。若是眾中有多欲者,能知其心,亦見離欲相。何以故?心相非染故。若眾中有多恚多癡,有能知其心,亦見離恚離癡相。何以故?心相非恚非癡故。若眾中有樂聲聞乘者,知其行道法性不作小;若眾中有樂辟支佛道者,知其行道法性不作中;若眾中有樂大乘者,知其行道法性不作大。菩薩隨知眾生心性,而為說法,不取心相,雖知諸乘而為說法,不壞法性,不壞法性故不壞一切性,而知眾生所行。菩薩自以心觀他心,自心他心無違無順,亦知眾生心相續生,又知心性即是法性。自在王!是名菩薩他心智自在,以是自在故,於天上人中無不知識。

自在王よ、菩薩摩訶薩の他心智自在とは何か。もし菩薩が他心智自在を得たならば、自らの心をもって他者の心を知り、赴くところで衆生に説法する前にまず衆生の心を観察し、この衆生がどのような深い心を持ち、どのような行いをし、どのような因縁によって、どのような相に従っているかを知って、それに応じて説くのである。菩薩は自らの心が清浄であるがゆえに、一切の衆生の心の清浄に入ることができる。

自在王よ、ちょうど明鏡が諸々の形や色を映し、相貌の長短・大小・粗細を、その本来の形のままに像として現わし、増えも減りもせず、鏡は分別することなく、明らかで清らかであるがゆえに諸々の像を示すことができるように、菩薩もまた同じである。自らの心が清浄であり、法性によって照らし出されるがゆえに、衆生が起こす心と心の働きを、すべて知ることができて何ら妨げられることがない。

もし衆生の中に欲望の多い者がいれば、その心を知ることができ、また欲望を離れた相をも見る。なぜなら、心の相は染まることがないからである。もし衆生の中に怒りや愚かさの多い者がいれば、その心を知ることができ、また怒りや愚かさを離れた相をも見る。なぜなら、心の相は怒りでも愚かさでもないからである。

もし衆生の中に声聞乗を喜ぶ者がいれば、その行道の法性は小さくならないことを知る。もし衆生の中に辟支仏道を喜ぶ者がいれば、その行道の法性は中道にならないことを知る。もし衆生の中に大乗を喜ぶ者がいれば、その行道の法性は大きくならないことを知る。菩薩は衆生の心の性質に従って知り、それに応じて説法し、心の相に執着しない。諸々の乗を知りながらも説法し、法性を壊すことなく、法性を壊さないがゆえに一切の性質を壊さず、衆生の行うところを知るのである。

菩薩は自らの心をもって他者の心を観じ、自心と他心に違うも順うもなく、また衆生の心が相続して生じることを知り、さらに心の性質がすなわち法性であることを知る。

自在王よ、これを菩薩の他心智自在という。この自在によって、天上と人間の間に知らないものはないのである。

「自在王!何謂菩薩摩訶薩宿命智自在?若菩薩得宿命智自在,以念力強故、定根利故,憶本所生自身他身恒沙劫事,而為他說,我於彼處如是種類姓名壽命,受如是苦樂。又知眾生宿世所種善根,有因力者,有緣力者,是人有聲聞因,是人有辟支佛因,是人有大乘因,知其先世所因,如是隨其所應而為說法。菩薩得是宿命智故,自知本生於諸佛所種諸善根,若先世有善根,而不迴向阿耨多羅三藐三菩提者,今當以是善根迴向。菩薩雖知宿命,亦知先世法無有來者,不見法從先世至後世,亦不見今世至先世,知一切法無所從來亦無所去。又念先際不生先見,亦不生後際中見邊見,知一切法無邊無中。菩薩雖念眾生宿命,亦知先際色離相,知先際受想行識離相,先際五陰離相即是後際五陰離相,後際離相即是現在離相。菩薩知先際一切法性空,知現在一切法性空,知後際一切法性空。

自在王よ、何を菩薩摩訶薩の宿命智自在というのか。もし菩薩が宿命智自在を得るならば、念力が強く、定根が鋭いゆえに、自他の身に起こった恒河の砂の劫数ほどの出来事を思い起こし、他者に語ることができる。「私はあの場所で、このような種類の者として、このような姓名・寿命を持ち、このような苦楽を受けた」と。また、衆生が宿世に種をまいた善根を知る。因の力による者もいれば、縁の力による者もいる。この人は声聞の因を持ち、この人は辟支仏の因を持ち、この人は大乗の因を持つ。その先世の因を知り、それに応じて法を説くのである。

菩薩はこの宿命智を得るゆえに、自らの本生において諸仏のもとで種々の善根をまいたことを自ら知る。もし先世に善根がありながら、それを阿耨多羅三藐三菩提に回向していなかったならば、今、その善根をもって回向するのである。菩薩は宿命を知りながらも、先世の法には来るものがないことを知り、法が先世から後世へと至るのを見ず、また今世が先世へと至るのをも見ない。一切の法には来るところもなく、去るところもないことを知るのである。

また、先際を念じても先の見解を生ぜず、後際の中にも辺見を生じない。一切の法には辺もなく中もないことを知る。菩薩は衆生の宿命を念じながらも、先際の色が相を離れていることを知り、先際の受・想・行・識が相を離れていることを知る。先際の五蘊が相を離れていることは、すなわち後際の五蘊が相を離れていることであり、後際が相を離れていることは、すなわち現在が相を離れていることである。菩薩は先際の一切法の性が空であることを知り、現在の一切法の性が空であることを知り、後際の一切法の性が空であることを知るのである。

「自在王!菩薩如是知宿命時善根增長,先世罪業因緣滅盡。何以故?菩薩達一切法相無新無故,成如是智已,信解一切有為法皆空如夢。自在王!譬如夢中見生死苦樂,菩薩信解一切有為法亦如是。如是信解者,往來生死心不疲倦,於眾生中而生悲心,於一切法生假作相。菩薩作是念:『如我若干千萬億劫生死往來,皆虛妄無所有,一切眾生亦如是,生死往來虛妄不實,實名不起四大,四大是虛妄法。』自在王!菩薩見宿命時,諸有為法皆是虛妄。何以故?菩薩念先世轉輪王樂,皆悉無常變異之相;念帝釋樂,亦皆無常變異之相。亦見諸佛嚴淨世界,聲聞眾嚴淨,菩薩眾嚴淨,所用諸物嚴淨,亦念諸佛色身具足而轉法輪,皆悉無常變異之相。如是念時,於有為法無所貪惜。何以故?菩薩作是念:『如是淨土諸佛色身無常滅盡,況我所著。』即入無我無我所法中。依於無常變異之相,作如是念:『諸有為法皆悉無常,眾生於此而生常想。』即於眾生生大悲心,於一切法生放捨想。自在王!是為菩薩宿命智自在。菩薩得是自在,信一切法無常,而為成眾生故受身,為不受故受,為不取故取,但為教化一切眾生故。

自在王よ、菩薩がこのように宿命を知る時、善き根が成長し、前世の罪業の因縁は滅び尽きます。なぜなら、菩薩は一切の法の相に新たなものも古いものもないことを悟り、そのような智慧を得た後、一切の有為法が皆、夢のように空であると信解するからです。

自在王よ、たとえば夢の中で生死の苦楽を見るように、菩薩は一切の有為法もまたそのように信解します。このように信解する者は、生死を往来しても心に疲れがなく、衆生の中にあって悲心を生じ、一切の法に対して仮の相として捉えます。

菩薩はこう思います: 「私が幾千万億劫にもわたって生死を往来したことが、すべて虚妄であり実体がないように、一切の衆生もまた同じく、生死の往来は虚妄で実在しない。実在する名は、四大(地・水・火・風)が起こらないことである。四大は虚妄の法である。」

自在王よ、菩薩が宿命を見る時、すべての有為法は虚妄であると知ります。なぜなら、菩薩は前世の転輪王の楽しみを思い、それがすべて無常で変化する相であると知り、帝釈天の楽しみを思い、それもすべて無常で変化する相であると知るからです。

また、諸仏の荘厳清浄な世界を見、声聞衆の清らかさ、菩薩衆の清らかさ、用いられる諸物の清らかさを見、諸仏の色身が具足して法輪を転じる様を思い、それらもすべて無常で変化する相であると知ります。

このように思う時、有為法に対して貪り惜しむ心はありません。なぜなら、菩薩はこう思うからです: 「このような清浄な土も、諸仏の色身も無常で滅び尽きる。ましてや私が執着しているものなど、なおさらである。」

そして、無我・無我所の法に入ります。無常で変化する相に依って、こう思います: 「すべての有為法は皆無常である。にもかかわらず、衆生はこれに常なる想いを抱いている。」

そこで、衆生に対して大いなる悲心を生じ、一切の法に対して放捨の想いを抱きます。

自在王よ、これが菩薩の宿命智自在です。菩薩はこの自在を得て、一切の法が無常であると信じながらも、衆生を成じさせるために身を受け、受けないために受け、取らないために取ります。ただ一切の衆生を教化するためだけに。

「自在王!何謂菩薩摩訶薩如意足自在?若菩薩心自在故,從聖相生如意足欲力、進力、斷行信解力,菩薩得是信解如意足,非作非起,若欲普至恒沙世界,一念之頃皆能得至,彼諸眾生皆見其來,而自於先本處不動,彼見說法而於此處說法不絕,自在王!是名菩薩如意足自在。菩薩以是如意足自在力,若有眾生應以如意足度者,以如意足度之。若諸天人著常相者,示其劫燒,是諸眾生見三千大千世界普皆燒盡,而是世界無所損減。若有眾生慢心自大,則作執金剛神,執火焰金剛杵而以示之,令生恐畏除其慢心自歸禮敬。若有眾生樂轉輪王形者,以轉輪王身而為說法;若有眾生樂釋提桓因形者,以釋提桓因身而為說法;若有眾生樂梵天王形者,以梵天王身而為說法;若有眾生樂魔王形者,以魔王身而為說法;若有眾生樂見佛身者,則現佛身而為說法;菩薩或為眾生住於空中結加趺坐,身放光明而為說法;或有眾生樂嚴淨世界者,則為莊嚴三千大千世界,懸繒幡蓋竪諸幢幡,以寶羅網遍覆其上,燒諸名香作眾伎樂,然後說法;或為眾生現三千大千世界為一海水,青紅赤白種種蓮華遍覆其上,於其水中現師子坐,身處其上而為說法;或為眾生自現其身,坐須彌山頂而為說法,聲至梵天;或為眾生不現其身,但以音聲而為說法;或為眾生現乾闥婆身,以眾樂音而為說法;或為眾生現龍王身,起雲雷震放大電光,又霔大雨而為說法;或有眾生飢渴逼切,則與天食身得充滿,具足悅樂而為說法;若有地獄眾生苦惱逼迫,而以神力滅地獄火,以天精氣令其毛孔皆得安樂而為說法;若有盲者,如意神力以天眼與,令得開明而為說法;若有聾者,如意神力與其耳根,令得聞聲而為說法;若有種種病,自以神力令其除愈而為說法;若有犯罪送至死處,如意神力化人代之,令得免罪心得安樂而為說法;若有眾生,刖足斬手刓截耳鼻形殘醜陋,常自愧恥而心退沒,如意神力皆令完具而為說法;若有眾生,在於胎中藏血屎尿不淨之處,如意神力化作寶臺樓閣令處其中,亦成意識而為說法;若其始生諸根未成,如意神力令其具足,堪任聽受而為說法。自在王!是名菩薩成如意足,以如是等種種不思議神力,而為說法。菩薩如意神力故,為度奉事日月眾生,以三千大千世界置其右掌遠擲他方無量世界,令諸人眾皆見其去,而此世界本處不動;又以恒河沙世界,入一毛孔舉至梵天,擲置他方無量世界,令諸眾生無去來想;若恒河沙無量世界劫盡火燒,能一吹令滅;或以兩手障蔽日月,身出光明照諸世界而為說法。

自在王よ、何を菩薩摩訶薩の如意足自在というのですか?もし菩薩が心自在であるがゆえに、聖なる相から生じる如意足の欲力・進力・断行信解力を得て、菩薩がこの信解の如意足を得たならば、それは作られるものでも起こされるものでもありません。もし恒河の砂の数ほどの世界に遍く至ろうと欲するならば、一念の間にことごとく至ることができ、それらの衆生はみなその来臨を見るでしょう。しかし菩薩自身はもとの場所から動くことなく、彼らが見て説法を聞くその一方で、こちらの場所でも説法を絶やすことはありません。自在王よ、これを菩薩の如意足自在といいます。菩薩はこの如意足自在の力によって、もし如意足によって度すべき衆生がいれば、如意足をもってそれを度します。

もし諸天や人々が常住の相に執着する者があれば、劫の焼ける様を示します。これらの衆生は三千大千世界がことごとく焼き尽くされるのを見るでしょうが、この世界は少しも損なわれることはありません。もし慢心で自らを偉大と思う衆生がいれば、執金剛神となり、炎の金剛杵を執って示し、畏怖を生じさせてその慢心を除き、自ら帰依し礼拝させます。もし転輪王の姿を好む衆生がいれば、転輪王の身をもって説法し、帝釈天の姿を好む衆生がいれば、帝釈天の身をもって説法し、梵天王の姿を好む衆生がいれば、梵天王の身をもって説法し、魔王の姿を好む衆生がいれば、魔王の身をもって説法し、仏身を見ることを好む衆生がいれば、仏身を現じて説法します。

菩薩はあるいは衆生のために空中に住し、結跏趺坐して身より光明を放ち、説法することもあります。あるいは浄らかな世界を荘厳することを好む衆生がいれば、三千大千世界を荘厳し、絹の幡や蓋を懸け、諸々の幢幡を立て、宝の羅網をもって上を覆い、さまざまな名香を焚き、多くの伎楽を奏で、それから説法します。あるいは衆生のために三千大千世界を一つの海水と現じ、青・紅・赤・白の種々の蓮華がその上を覆い、その水中に師子座を現じ、自らその上に坐って説法します。あるいは衆生のために自らの身を現じ、須弥山頂に坐って説法し、その声は梵天にまで至ります。あるいは衆生のために身を現さず、ただ音声をもって説法します。あるいは乾闥婆の身を現じ、多くの楽音をもって説法します。あるいは龍王の身を現じ、雲を起こし雷を震わせ、大きな電光を放ち、また大雨を降らせて説法します。

あるいは飢えと渇きに迫られる衆生がいれば、天の食物を与えてその身を満たし、十分な喜びと楽しみを得させて説法します。もし地獄の衆生が苦悩に迫られているならば、神力をもって地獄の火を消し、天の精気をもってその毛孔をことごとく安楽ならしめて説法します。もし盲者がいれば、如意の神力をもって天眼を与え、目が開かれて明らかになるようにして説法します。もし聾者がいれば、如意の神力をもってその耳根を与え、声を聞くことができるようにして説法します。もし種々の病があるならば、自らの神力をもってそれを除き癒やして説法します。もし罪を犯して死の場所に送られる者がいれば、如意の神力をもって人を化現して代わりとし、罪を免れ、心に安楽を得させて説法します。

もし手足を断たれ、耳や鼻を削がれ、形が残り醜く、常に恥じ入って心が挫けている衆生がいれば、如意の神力をもってことごとく完全な体にし、説法します。もし胎中にあり、血や屎尿の不浄なところにいる衆生がいれば、如意の神力をもって宝の台や楼閣を化現し、その中に住まわせ、また意識を成り立たせて説法します。もし生まれたばかりで諸根が未熟ならば、如意の神力をもってそれを具足させ、聴受に堪えられるようにして説法します。

自在王よ、これを菩薩が如意足を成じるというのです。このようなさまざまな不思議な神力をもって、説法するのです。菩薩は如意神力によって、日月を奉事する衆生を度すために、三千大千世界を右の掌に置き、他方の無量世界へ遠く投げ、多くの人々にその去る様を見させながら、この世界はもとの場所から動くことはありません。また恒河の砂の数ほどの世界を一つの毛孔に入れ、梵天まで挙げて他方の無量世界に投げ置き、多くの衆生に去来の想いを起こさせません。もし恒河の砂の数ほどの無量世界が劫の終わりに火で焼かれても、一吹きで消すことができます。あるいは両手で日月を覆い隠し、身より光明を出して諸世界を照らし、説法します。

「自在王!是菩薩或坐諸佛前,若欲供養佛,以一掬華如須彌山散佛身上,華至半身,又三千大千世界一切草木皆成為炬,遍滿世界火落如雨。自在王!是菩薩隨諸眾生所貴形色,皆悉為現,若釋若梵若聲聞形,若辟支佛形,是名菩薩神通自在。謂天眼見無礙故;得天耳聞無障故;得他心智達一切心心心法故;證宿命智憶過去無量阿僧祇劫故;得如意足於一切形色隨意示現故。

自在王よ、この菩薩は、あるとき諸仏の前に坐し、もし仏を供養しようと願えば、一掬いの花を須弥山のようにして仏の御身に散らすことができます。その花は仏の半身にまで届き、さらに三千大千世界のあらゆる草木がすべて松明となり、世界に満ち渡って火の雨のように降り注ぎます。

自在王よ、この菩薩は、あらゆる衆生が尊ぶ姿や形に応じて、すべてを現じることができます。帝釈天の姿であれ、梵天の姿であれ、声聞の姿であれ、辟支仏の姿であれ、自在に示現するのです。これが菩薩の神通自在と呼ばれる所以です。

つまり、天眼を得て何ものにも妨げられず見通すこと。天耳を得て何ものにも妨げられず聞き通すこと。他心通を得て一切の心と心の働きを悟り通すこと。宿命通を得て過去無量阿僧祇劫を思い起こすこと。如意足を得て一切の姿や形に応じて自在に示現すること。これらによって、菩薩は神通自在を具えるのです。

「自在王!神通自在者,能以一切佛事示諸眾生,亦能了達分別眾生諸根利鈍,能以聲聞乘度眾生、辟支佛乘度眾生、大乘度眾生故,於生死中眾所知識;成眾生故眾所知識;於善法中出家行道故眾所知識;以方便力故眾所知識;檀波羅蜜迴向故眾所知識;尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禪波羅蜜、般若波羅蜜迴向故眾所知識;降伏諸魔令種善根故,名為神通自在。

自在王よ、神通自在なる者は、あらゆる仏の行いを衆生に示すことができ、また衆生の諸根の利鈍を明らかに見分けることができる。声聞の乗り物で衆生を救い、縁覚の乗り物で衆生を救い、大乗で衆生を救うゆえに、生死の世界で人々に知られ、敬われる。衆生を導くゆえに人々に知られ、善なる法の中で出家し道を歩むゆえに人々に知られ、巧みな力を持つゆえに人々に知られる。布施波羅蜜を回向するゆえに人々に知られ、戒波羅蜜、忍辱波羅蜜、精進波羅蜜、禅定波羅蜜、智慧波羅蜜を回向するゆえに人々に知られる。諸々の魔を降伏させ、善根を植えさせるゆえに、神通自在と名づけられる。

「又自在王!菩薩得是神通自在故,色身之力、名聞稱讚、家姓財物、眷屬人民,普皆殊勝眾所知識,是故名為神通自在。又自在王!菩薩得是神通自在故眾所知識,謂諸天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、緊那羅、迦樓羅、摩睺羅伽、人非人、帝釋、梵王、諸護世者、諸佛正遍知者皆所知識,是故說名多識。自在王!菩薩以是神通不退本誓,而能示現一切眾事。

また自在王よ、菩薩がこの神通自在を得たことにより、その色身の力、名声と称賛、家柄と財産、眷属と民衆、すべてが優れ、広く人々に知られるようになる。これゆえに神通自在と名づけられるのです。

また自在王よ、菩薩がこの神通自在を得たことにより、多くの者に知られるようになる。すなわち、諸天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、緊那羅、迦樓羅、摩睺羅伽、人非人、帝釈天、梵天王、諸護世者、諸仏の正遍知者たち、すべてに知られるようになる。これゆえに多識と説かれるのです。

自在王よ、菩薩はこの神通をもって、本来の誓願を退かず、あらゆる衆生の事柄を示現することができるのです。

「自在王!何謂菩薩摩訶薩智自在?謂陰智、性智、入智、因緣智、諦智。自在王!何謂陰智?色前際空,後際空,中亦空;受想行識前際空,後際空,中亦空;五陰畢竟空,是名陰智。

自在王よ、何を菩薩摩訶薩の智自在というのですか。それは陰智、性智、入智、因縁智、諦智を指します。自在王よ、何を陰智というのですか。色は過去において空であり、未来においても空であり、現在においても空である。受・想・行・識も、過去において空であり、未来においても空であり、現在においても空である。五陰は究竟において空である。これを陰智と名づけます。

「自在王!何謂性智?地性是法性,水性是法性,火性是法性,風性是法性。何以故?四性入於法性皆為一性,謂之空性。空性法性同一無性,此中無地性、無水性、無火性、無風性。何以故?不壞性是法性,無二性是法性,無生性是法性,無垢性是法性,無淨性是法性。如法性,壽性、眾生性、生死性,涅槃性亦如是。如涅槃性,欲性、色性、無色性、有為性、無為性亦如是;如是性智不隨他得,是名性智。

自在王よ、何を性智というのか。 地の性質は法の性質であり、水の性質は法の性質であり、火の性質は法の性質であり、風の性質は法の性質である。 なぜならば、四つの性質は法の性質に入り、すべて一つの性となるからである。これを空性という。 空性と法性は同じく無性であり、ここには地の性質もなく、水の性質もなく、火の性質もなく、風の性質もない。 なぜならば、壊れない性質は法の性質であり、二つでない性質は法の性質であり、生じない性質は法の性質であり、汚れない性質は法の性質であり、清浄でない性質も法の性質であるからだ。 法性と同じように、寿命の性質、衆生の性質、生死の性質、涅槃の性質もまた同様である。 涅槃の性質と同じように、欲望の性質、色の性質、無色の性質、有為の性質、無為の性質もまた同様である。 このような性智は他に従って得られるものではなく、これを性智と名づけるのである。

「自在王!何謂入智?眼從本來,不生不起無有作者;耳鼻舌身意從本已來,不生不起無有作者。自在王!眼無有主,是中無有見者;耳無有主,是中無有聽者;鼻無有主,是中無有嗅者;舌無有主,是中無有甞者;身無有主,是中無有覺者;意無有主,是中無有識者。自在王!眼性不能見色,耳性不能聽聲,鼻性不能嗅香,舌性不能知味,身性不能覺觸,意性不能識法。何以故?眼無所作,與草木土石無異;耳鼻舌身意亦無所作,與草木土石無異。自在王!眼不染不離,耳鼻舌身意不染不離。何以故?眼從本來是離相,耳鼻舌身意從本已來是離相。自在王!若能如是知一切入則能離欲,是名入智。自在王!菩薩如是知諸陰性入不生不起,以畢竟滅,滅已而受生退沒,雖受陰性入,而不捨陰性入智,是名智自在。謂知陰性入,知陰性入相,而能不捨,現於三界而不住諸結,示有生滅而不生不滅,是名智自在。

自在王よ、何を「入智」というのか。眼はもとより、生ずることなく起こることなく、作り手もない。耳・鼻・舌・身・意も、もとより、生ずることなく起こることなく、作り手もない。自在王よ、眼には主がなく、その中に見る者もない。耳には主がなく、その中に聞く者もない。鼻には主がなく、その中に嗅ぐ者もない。舌には主がなく、その中に味わう者もない。身には主がなく、その中に感じる者もない。意には主がなく、その中に識る者もない。自在王よ、眼の本性は色を見ることができず、耳の本性は声を聞くことができず、鼻の本性は香りを嗅ぐことができず、舌の本性は味を知ることができず、身の本性は触れを感じることができず、意の本性は法を識ることができない。なぜか。眼は何も為さず、草木土石と異ならない。耳・鼻・舌・身・意もまた何も為さず、草木土石と異ならない。自在王よ、眼は染まらず離れず、耳・鼻・舌・身・意も染まらず離れない。なぜか。眼はもとより離れた相であり、耳・鼻・舌・身・意ももとより離れた相であるからだ。自在王よ、もしこのように一切の入を知ることができれば、欲を離れることができる。これを入智という。自在王よ、菩薩はこのように諸々の陰・性・入が生ぜず起こらないことを知り、畢竟して滅し、滅した後に生を受け退没するが、陰・性・入を受けながらも、陰・性・入の智を捨てない。これを智自在という。すなわち、陰・性・入を知り、陰・性・入の相を知りながら、捨てず、三界に現れながらも諸々の結びに住まず、生滅があることを示しながらも生ぜず滅しない。これを智自在という。

「自在王!何謂緣智?無明緣行,無明不作是念我起行;行緣識,行不作是念我起識;識緣名色,識不作是念我起名色;名色緣六入,名色不作是念我起六入;六入緣觸,六入不作是念我起觸;觸緣受,觸不作是念我起受;受緣愛,受不作是念我起愛;愛緣取,愛不作是念我起取;取緣有,取不作是念我起有;有緣生,有不作是念我起生;生緣老死,生不作是念我起老死;老死緣憂悲苦惱,老死不作是念我起憂悲苦惱。自在王!若菩薩能如是觀十二緣者,不墮諸見,若斷見、若常見。菩薩作是念:『法屬眾緣,推求眾緣則不可得。』即於十二緣而得真智。何謂真智?知十二緣生法同於無生,無生同空無相無作,空無相無作同眾緣生法,如來所用等得一切法,是法同十二緣生法。十二緣生法無有法生,是故說應見十二緣生無生,十二緣無生智即是十二緣生智。自在王!明無明無二,知如是者則知緣生法;行非行無二,知如是者則知緣生法;識非識無二,知如是者則知緣生法;名色非名色無二,知如是者則知緣生法;六入非六入無二,知如是者則知緣生法;觸非觸無二,知如是者則知緣生法;受非受無二,知如是者則知緣生法;愛非愛無二,知如是者則知緣生法;取非取無二,知如是者則知緣生法;有非有無二,知如是者則知緣生法;生非生無二,知如是者則知緣生法;老死非老死無二,知如是者則知緣生法。從緣生者無有是處,從緣生則是無我,則是空也,從緣生者則是無來無去,從緣生者則非真實,從緣生者則無一相,從緣生者則無所行,如是知者是名緣生智。見緣法者不見無明、不見行、不見識、不見名色、不見六入、不見觸、不見受、不見愛、不見取、不見有、不見生、不見老死,若不見如是法者,是名見緣生法,若見緣生法是名見法。云何見法?見離染法。云何離染?行者於一切法離染見故名為離染,是故說見離染法。云何為見不為增不為減?如是見如,不動不著;如是見如,不壞法性,亦不見合。如與法性不壞不合,如是見者不毀實際,如是見者亦不見,非以肉眼見,非以天眼見,非以慧眼見。何以故?肉眼無無作故不見,天眼作起相故不見無為法,慧眼無分別相,無分別故不見。自在王!若菩薩能如是見一切法,則能見佛。不以色故見,不以受想行識故見,不以諸相故見,不以法故見,不以戒故見,不以定、慧、解脫、知見故見,不以過去故見,不以未來現在故見,如是見者是名見佛。」

自在王よ、縁起の智慧とは何でしょうか。

無明が縁となって行が生じますが、無明は「私が行を起こす」とは思いません。行が縁となって識が生じますが、行は「私が識を起こす」とは思いません。識が縁となって名色が生じますが、識は「私が名色を起こす」とは思いません。名色が縁となって六入が生じますが、名色は「私が六入を起こす」とは思いません。六入が縁となって触が生じますが、六入は「私が触を起こす」とは思いません。触が縁となって受が生じますが、触は「私が受を起こす」とは思いません。受が縁となって愛が生じますが、受は「私が愛を起こす」とは思いません。愛が縁となって取が生じますが、愛は「私が取を起こす」とは思いません。取が縁となって有が生じますが、取は「私が有を起こす」とは思いません。有が縁となって生が生じますが、有は「私が生を起こす」とは思いません。生が縁となって老死が生じますが、生は「私が老死を起こす」とは思いません。老死が縁となって憂悲苦悩が生じますが、老死は「私が憂悲苦悩を起こす」とは思いません。

自在王よ、菩薩がこのように十二縁起を観察するならば、断見にも常見にも陥りません。菩薩はこう思います。「すべての法は縁によって成り立っている。その縁を求めても実体は得られない」と。こうして十二縁起において真の智慧を得るのです。

真の智慧とは何でしょうか。十二縁起によって生じる法が、実は生じていないことと同じであると知ることです。生じていないことは、空であり、形がなく、作られていないことと同じです。空であり、形がなく、作られていないことは、縁によって生じる法と同じです。如来が用いる平等の智慧はすべての法を得ますが、この法は十二縁起によって生じる法と同じです。十二縁起によって生じる法には、実体として生じる法はありません。だからこそ、十二縁起は生じていないと見るべきだと説かれるのです。十二縁起が生じていないという智慧こそが、十二縁起が生じるという智慧なのです。

自在王よ、明と無明は二つではありません。このように知る者が、縁によって生じる法を知るのです。行と非行は二つではありません。このように知る者が、縁によって生じる法を知るのです。識と非識は二つではありません。このように知る者が、縁によって生じる法を知るのです。名色と非名色は二つではありません。このように知る者が、縁によって生じる法を知るのです。六入と非六入は二つではありません。このように知る者が、縁によって生じる法を知るのです。触と非触は二つではありません。このように知る者が、縁によって生じる法を知るのです。受と非受は二つではありません。このように知る者が、縁によって生じる法を知るのです。愛と非愛は二つではありません。このように知る者が、縁によって生じる法を知るのです。取と非取は二つではありません。このように知る者が、縁によって生じる法を知るのです。有と非有は二つではありません。このように知る者が、縁によって生じる法を知るのです。生と非生は二つではありません。このように知る者が、縁によって生じる法を知るのです。老死と非老死は二つではありません。このように知る者が、縁によって生じる法を知るのです。

縁から生じるものに実体があるということはありえません。縁から生じるものは無我であり、空なのです。縁から生じるものは来ることも去ることもありません。縁から生じるものは真実ではありません。縁から生じるものは一つの相もありません。縁から生じるものは行うところもありません。このように知ることを、縁によって生じる智慧といいます。

縁起の法を見る者は、無明を見ず、行を見ず、識を見ず、名色を見ず、六入を見ず、触を見ず、受を見ず、愛を見ず、取を見ず、有を見ず、生を見ず、老死を見ません。このような法を見ないことが、縁によって生じる法を見ることです。縁によって生じる法を見ることが、法そのものを見ることです。

法を見るとはどういうことでしょうか。それは染まりから離れた法を見ることです。染まりから離れるとはどういうことでしょうか。修行者が一切の法において染まりの見解を離れることを、染まりから離れるといいます。だからこそ、染まりから離れた法を見ると説かれるのです。

増えもせず減りもしない見方とはどういうことでしょうか。そのような見方は、真如のままに動かず執着せず、真如のままに法性を壊さず、また合一も見ません。真如と法性は壊れることも合一することもありません。このように見る者は真実の境涯を損なわず、また見ることもありません。肉眼で見るのでもなく、天眼で見るのでもなく、慧眼で見るのでもありません。なぜなら、肉眼には無為の作用がないので見えず、天眼は生起の相を作るので無為の法を見ず、慧眼には分別の相がなく、分別がないので見ないからです。

自在王よ、菩薩がこのように一切の法を見ることができれば、仏を見ることができます。色によって見るのでもなく、受・想・行・識によって見るのでもなく、あらゆる相によって見るのでもなく、法によって見るのでもなく、戒によって見るのでもなく、定・慧・解脱・知見によって見るのでもなく、過去によって見るのでもなく、未来・現在によって見るのでもありません。このように見ることが、仏を見ることなのです。

自在王菩薩白佛言:「世尊!頗有所緣,菩薩見如是諸法,而能見佛耶?」

自在王菩薩が仏に申し上げました。「世尊よ、何か縁となるものがあって、菩薩がこのような諸法を見て、仏を見ることができるのでしょうか。」

佛言:「有!何以故?色是盡相,性無生故,能見色如是,是名見如來;受想行識是盡相,性無生故,能見識如是,是名見如來;戒是無為無作無起相,能見戒如是,是名見如來;定慧解脫知見等亦如是,是名見如來。自在王!我於過去燃燈佛時,得見佛淨,我於爾時,見緣生法故見法,以見法故見如來。」

仏は言われた。「あります。なぜでしょうか?色は尽きる相であり、その本性は生じることがないからです。色をこのように見ることができれば、それを如来を見るといいます。受・想・行・識も尽きる相であり、その本性は生じることがないからです。識をこのように見ることができれば、それを如来を見るといいます。戒は無為・無作・無起の相であり、戒をこのように見ることができれば、それを如来を見るといいます。定・慧・解脱・知見なども同様であり、それを如来を見るといいます。自在王よ、私は過去の燃燈仏の時に、仏の清浄さを見ることができました。その時、私は縁起の法を見たゆえに法を見、法を見たゆえに如来を見たのです。」

自在王言:「於燃燈佛已前,云何見諸佛?」

自在王が尋ねました。「燃燈仏以前には、どのようにして諸仏を拝見されたのですか?」

佛言:「以色身相見故見,不以不二法身見故見。今為汝說。我從初發心未曾見佛。何以故?不以色相見故,名為見佛。是故自在王!若菩薩欲得見佛,應如我見燃燈佛,以諸法一相故。云何一相?如我身,燃燈佛身亦如是,如燃燈佛身,亦如是,一身故。以不二不別入一法相,是名見緣生法,以見緣生法名為見法,以見法故名為見佛。若菩薩能於一切念中,證滅而不實滅,生死不可得而以方便智故示,是名菩薩智自在。

仏は言われた。「色身の相をもって見るから見えるのであり、不二の法身をもって見るから見えるのではない。今、汝のために説こう。私は初発心の時から、いまだかつて仏を見たことがない。なぜなら、色相をもって見ないからこそ、仏を見ると言うのである。ゆえに、自在王よ、もし菩薩が仏を見ようと願うなら、私が燃燈仏を見たようにすべきである。それは諸法が一相であるからである。いかに一相であるか。我が身の如く、燃燈仏の身もまたかくの如し。燃燈仏の身の如く、我が身もまたかくの如し。一身であるからである。不二不別にして一法相に入ることを、これ縁起の法を見ると名づける。縁起の法を見ることを、法を見ると名づける。法を見ることを、仏を見ると名づける。もし菩薩が一切の念において、滅を証しながらも実に滅せず、生死は得られないと知りながらも方便の智をもって示すことができるなら、これを菩薩の智自在と名づけるのである。」

自在王菩薩經卷上

自在王菩薩経 上巻


第二

CBETA コード: T0420

© AI 帮你读佛经 - 如是我闻

この文書は個人学習専用です。商業目的での使用は禁止されています。

訪問 rushiwowen.co

著作権:原文は CBETA
AI 翻訳は参考文献のみで、権威あるものではありません