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  1. 観音経持験記 (觀音經持驗記)
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観音経持験記 (觀音經持驗記)


No. 1542-A觀世音持驗紀序

No. 1542-A 観世音菩薩霊験記 序

觀音大士。佛法之廣大教化主也。過去已成正法明如來。逆來示菩薩相。立大願。不度盡眾生。誓不成佛。菩薩云者。言覺有情也。菩薩摩訶薩者。言大覺有情也。稱觀世音者。謂觀世間。眾生稱名。悉蒙救拔離苦。從他機而立名也。又稱觀自在者。謂一身現千手眼。隨類應化。圓融無礙。從自行而立名也。楞嚴云。由我觀聽圓明。故觀音名。徧十方界。能以眼根作耳根佛事。故名觀世音自在無礙。此菩薩具十四無畏.三十二應.諸神通種種。左右彌陀。則為極樂之親臣。顯化娑婆。則為世尊之良弼。楊枝一滴。遍灑大千世界。尤與我東土眾生最有緣。凡至心持其名號及經呪等。隨獲感應。不獨慈雲偏覆南海一隅而已。雖然。眾生當苦難時。輒呼菩薩求救。須思救苦救難之前。有大慈大悲四字在。菩薩不救度眾生。何名菩薩。然不具大慈悲。將視眾生苦難。如秦越人肥瘠。漠焉無關。何肯圖救。眾生徒口菩薩之號。而不能心菩薩之心。則不慈不悲。己先不能自救。況欲感菩薩之慈悲。救其苦難。有是理乎。故人無傾險好殺心。則己之刀山滅矣。人無慘毒心。則己之湯火消矣。人無不忠不孝及淫貪不廉貞心。則己之地獄枯竭矣。人無慳悋嫉妬心。則餓鬼之火息。無傲狠驕慢心。則修羅之惡調。無頑悍不靈心。則畜生之途遠矣。大悲呪云。唯除不善。除不至誠。則誦持之需善與誠可知。篤哉。唐別駕之言也。曰。凡䖍奉觀音者。其人必深信因果。生平不與惡事為緣。所以惡報可滅。吾恐世之人。徒知求救苦難。而不求諸慈悲之心。一有不驗。遂曰。大士弗予應。是豈大士之感應。果虗而無徵也哉。故編成。而書此意。以為之序。庶使世人誦持觀音共聞之。

観音大士は、仏法を広く教え導く主でございます。過去においてすでに正法明如来として悟りを開かれましたが、あえて菩薩の姿でこの世に現れ、大いなる誓いを立てられました。「すべての衆生を救い尽くさねば、私は仏とはならない」と。

菩薩とは「覚有情」、すなわち悟りを求める有情(衆生)を意味します。菩薩摩訶薩とは「大覚有情」、大いなる悟りを求める有情を意味します。観世音と称されるのは、世間を観じ、衆生がその名を称えれば、すべて苦しみから救い出されることから、衆生の縁に応じて立てられたお名前です。また観自在と称されるのは、一つの身に千の手と眼を現し、それぞれの機根に応じて自在に姿を変え、円満融通して何ものにも妨げられないことから、ご自身の修行の徳に基づいて立てられたお名前です。

『楞厳経』には、「我が観る力と聞く力が円満明らかなるがゆえに、観音の名は十方世界に遍く満ち、眼の根をもって耳の根の仏事をなすことができる。ゆえに観世音自在無礙と名づく」と説かれています。

この菩薩は十四の無畏、三十二の応化身、さまざまな神通力を具えておられます。阿弥陀如来の傍らにあっては極楽浄土の側近として、この娑婆世界に姿を現しては釈迦世尊の良き補佐として、その御力を発揮されます。楊柳の枝の一滴の水は大千世界に遍く注がれ、特に私たち東アジアの衆生との縁は深いものがあります。心を込めてその名号や経典・真言などを唱えれば、必ずや感応を得ることができるのです。その慈悲の雲は、単に南海の一隅を覆うだけのものではありません。

しかしながら、衆生は苦難に遭うと、ただ「菩薩さま、お救いください」と叫びます。そのとき、救苦救難の前に「大慈大悲」という四文字があることを思わねばなりません。菩薩が衆生を救わなければ、どうして菩薩といえましょう。けれども、大いなる慈悲心がなければ、衆生の苦難をまるで遠い国の他人事のように、冷淡に無関心で眺めているだけで、どうして救おうと図るでしょう。

衆生がただ口先で菩薩の名号を唱えるだけで、菩薩の心を自分の心とすることができなければ、それは不慈不悲であり、まず自分自身を救うことさえできません。ましてや菩薩の慈悲を感じて、その苦難を救ってもらおうなどという道理があるでしょうか。

ですから、もし人が陰険で殺傷を好む心がなければ、その人にとっての刀山は消え去ります。残酷で毒のある心がなければ、その人にとっての湯火は消え去ります。忠孝を尽くさず、淫らで貪欲で廉潔でない心がなければ、その人にとっての地獄は枯れ果てます。物惜しみや嫉妬の心がなければ、餓鬼道の業火は鎮まります。傲慢で強情な慢心がなければ、阿修羅の悪しき心は調伏されます。頑なで道理に暗い心がなければ、畜生道への道は遠ざかります。

『大悲心陀羅尼経』には、「ただ不善なるものと、至誠ならざるものを除く」とあります。唱え持つには善と誠が必要であることがわかります。唐の別駕の言葉は実に的を射ています。「観音を真心から信奉する者は、その人は必ず因果を深く信じ、生涯悪事に縁を結ばない。それゆえに悪報も滅することができるのだ」と。

私は世の人々が、ただ苦難からの救いを求めるだけで、自らの慈悲の心を求めようとしないことを恐れます。一度でも願いが叶わないことがあれば、「大士は私に応じてくださらない」と言うでしょう。これは果たして、大士の感応が空虚で証拠のないものだというのでしょうか。

こうした思いから、この書を編み、この意を記して序とします。どうか世の人々が観音を誦持する際、共にこのことを心に留められますように。

順治己亥夏杪。荊溪淨業弟子周克復齋沐譔

順治帝の己亥年、夏の終わり。荊溪の淨業弟子、周克復が、斎戒沐浴して謹んで記す。


No. 1542-B 勸流通觀音持驗引

CBETA コード: X1542

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