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title: "地藏本願經科註 · 如來讚歎品第六"
description: "地藏本願經科註由清代高僧靈椉輯錄，是對《地藏菩薩本願經》的權威註解。該經為佛教重要經典，宣揚地藏菩薩的大願與救度眾生的慈悲精神。靈椉的科註系統梳理經文義理，結合禪淨思想，深入闡釋地藏法門的修行要旨。清代佛教注重實踐與經典研究，此註解反映了當時學風，兼具理論與實修價值。在漢傳佛教中，地藏經被視為超度亡靈、消災祈福的根本經典，靈椉科註則成為後世研習的重要參考，影響深遠。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cm9w3pmjb04x2js0vdz1jxohp"
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△大章第三，明度脫緣分。二。初、化主放光讚歎；二、閻王興問讚歎。寶雨經云：云何菩薩能令稱歎？善男子！如月出現，能使人間城邑聚落諸剎帝利、婆羅門等，若男若女，悉皆稱讚。菩薩如是如月出現，為一切世間天、人、阿素洛、健達縛等，悉皆稱讚。初又二。初、世尊讚歎功德；二、地藏利益存亡。今初，先品題。

> 大章第三、解脱への縁分を明らかにする。二つに分ける。初めは、教化の主（釈尊）が光明を放って称賛する。二つ目は、閻魔王が問いを起こして称賛する。 『宝雨経』に説かれている。どうすれば菩薩は称賛されるようになるのか。善男子よ、月が現れるように、人間の町や村に住む剎帝利や婆羅門など、男も女も皆が称賛する。菩薩もまた、月が現れるように、すべての世間の天、人、阿修羅、乾闥婆などから、皆が称賛される。 初めの部分はさらに二つに分かれる。初めは、世尊がその功徳を称賛する。二つ目は、地蔵菩薩が生きている者も亡き者も利益する。今は初めの部分、まず品題について。

如來讚歎品第六

> 如来讃歎品第六

△二、品文，二。初、如來歎慈悲事；二、普廣請利益事。初二。初、敘光聲稱歎。

爾時，世尊舉身放大光明，徧照百千萬億恒河沙等諸佛世界，出大音聲，普告諸佛世界一切諸菩薩摩訶薩及天龍鬼神人非人等：聽吾今日稱揚讚歎地藏菩薩摩訶薩，於十方世界，現大不可思議威神慈悲之力，救護一切罪苦之事。

> その時、世尊は全身から大いなる光明を放ち、百千万億の恒河沙の数の諸仏世界をあまねく照らし、大いなる音声を発して、すべての仏世界の一切の菩薩摩訶薩、および天龍鬼神、人と非人たちに告げられました。 「今日、わたしが地蔵菩薩摩訶薩を称揚し、讃歎することをよく聞きなさい。十方世界において、この菩薩は大いなる不可思議な威神と慈悲の力を現し、すべての罪苦に苦しむ者たちを救い護っておられるのです。」

上明能化主，及所化機，正畢。世尊乘時讚歎，以明度脫之緣。故言爾時舉身放光者，顯大地同成智地，會羣生咸入無生。如大品：從足下千輻相輪中，放六百萬億光明；足十指、兩踝、膝、󰈷䏶、腰、腹、背、臍、心、胸、肩、臂、指、項、口、齒、鼻孔、眼、耳、毫相、肉髻，各各放六百萬億光明。從是諸光，出大光明，遍照十方如恒河沙等諸佛世界。若眾生遇此光者，必得阿耨菩提。今所放光，亦復如是。故云舉身放大光明，遍照萬億沙界。大音聲，乃三十二相梵聲相。新婆沙論云：如來梵聲，佛喉藏中，有妙大種，能發悅意和雅梵音，如羯羅頻迦鳥，及發深遠雷震聲，如帝釋鼓。大論云：如梵天王五種聲，而從口出。一、甚深如雷，二、清徹遠聞，聞者悅樂，三、入心敬愛，四、諦了易解，五、聽者欲聞無厭。故云出大音聲。告諸菩薩者，為流通是經。告天龍等，為擁護是經也。聽者，耳之力。人之外誘，接於目為多，然不若耳之入人深，益人多也。何也？視散而聽收。古人妙契是理，制字从耳、从壬古挺字、从悳。耳氣一提，則所聽者，德心為之主矣。故須收視返聽。

> 上なる教化主（仏陀）と、その教化を受ける衆生の縁が整ったことを示し、世尊はこの時を捉えて讃嘆し、智慧による解脱の因縁を明らかにされました。そこで「その時、全身より大光明を放たれた」とあるのは、大地すべてが智慧の地となり、あらゆる生きとし生けるものがことごとく無生（生死を超えた境地）に入ることを表しています。 『大品般若経』には次のように説かれています。足の裏の千輻輪相から六百万億の光明を放ち、足の十指、両くるぶし、ひざ、ふともも、腰、腹、背、へそ、心臓、胸、肩、腕、指、首、口、歯、鼻孔、眼、耳、白毫相、肉髻、それぞれからも六百万億の光明を放たれました。それらの光からさらに大光明が現れ、十方の恒河の砂の数ほどの諸仏世界を遍く照らしました。もし衆生がこの光に触れるならば、必ずや阿耨多羅三藐三菩提（無上の正覚）を得るでしょう。今、放たれた光もまた同じであるゆえ、「全身より大光明を放ち、万億の沙界を遍く照らされた」と説かれているのです。 「大音声」とは、三十二相の一つである梵声相（清浄な声の相）を指します。『新婆沙論』にはこうあります。如来の梵声は、仏の喉の奥に微妙な大種（元素）があり、それによって心を喜ばせ、和やかで清らかな梵音、あるいは迦陵頻伽鳥のような声、さらに深く遠く響く雷のような声、帝釈天の太鼓のような音を発する、と。『大智度論』には、梵天王の五種の声のように口から出されると説かれています。一には雷のように深遠、二には澄んで遠くまで聞こえ、聞く者を悦楽せしめる、三には心に深く入り敬愛の念を起こさせる、四には明瞭で理解しやすい、五には聞く者が飽きることなく聞きたくなる、と。それゆえ「大音声を出された」とあるのです。 「諸菩薩に告げられた」のは、この経典を広く流通させるためであり、「天龍などに告げられた」のは、この経典を擁護させるためです。 「聴く」というのは、耳の力です。人は外からの誘いを目で受け取ることが多いですが、耳ほど人の心深くに入り、多くの利益をもたらすものはありません。なぜでしょうか。視覚は散漫になりがちですが、聴覚は集中して受け止めるからです。古人はこの道理を深く悟り、「聴」という字を「耳」「壬（古くは挺の字）」「悳（徳）」から成らせました。耳の気を引き締めれば、聴く内容は徳を心の主とします。ですから、目を外に向けるのをやめ、耳を内に向けて聴くことが必要なのです。

聽吾今日稱揚讚歎。現者，起也。雖知諸法無性，佛種却從緣起。眾生以此因而感，地藏以此緣而應。大者，其性廣博，多所含容，大師子吼大益凡聖也。不可思議者，體相用三，皆叵思議。徒欲言之，言則傷其實；徒欲思之，思則喪其真。何也？既言諸法無性，則無四性計矣。而又佛種從緣，令得四悉檀益。此則用從體起，用還冥理。體藉用彰，體自空寂。即體即用，任運與拔。體用即非體用，與拔即非與拔，此唯圓教悉檀之益，故曰：大不可思議、威神之力，但慈悲之道，救拔為先；菩薩之懷，愍濟為用。常應遍遊地獄，代其受苦。故云：救護一切罪苦之事。

> 今日、私が称揚し、賛嘆することを聞きなさい。 「現」とは、起こるということです。諸法には実体がないと知りながらも、仏の種は縁によって起こります。衆生はこの因によって感じ、地蔵菩薩はこの縁によって応じます。 「大」とは、その性質が広大で、多くを含み容れることです。大師子吼は、凡夫も聖者も大いに利益します。 「不可思議」とは、本体・相状・作用の三つが、いずれも思いはかることのできないことです。ただ言葉にしようとすれば、言葉はその実態を損ない、ただ考えようとすれば、思考はその真実を失います。なぜでしょうか。諸法に実体がないと言うならば、四つの実体を計ることもありません。それでもなお、仏の種は縁によって起こり、四つの悉檀の利益を得させます。これは、作用が本体から起こり、作用が理に帰するということです。本体は作用によって明らかになり、本体は自ら空寂です。本体がそのまま作用であり、自然に与え、抜き取ります。本体と作用は本体と作用ではなく、与えることと抜き取ることは与えることと抜き取ることではありません。これは円教の悉檀の利益にほかならず、それゆえに「大いなる不可思議、威神の力」と言われるのです。 しかし、慈悲の道は救いと抜き取りを第一とし、菩薩の心は哀れみと救済をその働きとします。常に地獄を遍く巡り、その苦しみに代わって苦を受けるべきです。それゆえに「一切の罪苦の事を救護する」と言われるのです。

△二、令方便護經。

> 二、方便護経を説く。

吾滅度後，汝等諸菩薩大士及天龍鬼神等，廣作方便，衛護是經，令一切眾生證涅槃樂。

> 我が滅度の後、汝ら諸菩薩大士及び天龍鬼神らは、広く方便を施し、この経を守護し、一切衆生が涅槃の安楽を証得するようにせよ。

大經謂如來實不畢竟入於涅槃。今言吾滅度後，何也？葢以機薪盡而應火亡，順波旬而現滅也。方便言廣作者，方便乃菩薩二利之器，不可須臾暫離。故維摩云：無方便慧縛，有方便慧解。謂不以愛見心，莊嚴佛土，成就眾生，於空無相無作法中，以自調伏而不疲厭，是名有方便慧解。不，則縛矣。勸衛護是經者，以是眾生之良藥。譬如栴檀，能療人病。一切眾生，莫不願得。有人大得栴檀香樹，束薪賣之，無有買者。此經能令人得道，無不度者。吾般泥洹後，留在世間，無有視者，亦如旃檀束薪賣之，無買者也。故須廣作方便，衛護流通，令一切罪苦眾生，塞無明源，拔生死根，出三塗之惡道，證三德之寂光。庶不負大士威神慈悲之力，救護罪苦之心也。

> 大経には、如来は実に畢竟涅槃に入ることはないと説かれています。今ここに「我が滅度の後」とあるのは、どういうことでしょうか。これは、衆生という薪が尽きれば応現の火も消えるように、波旬に順じて滅を現じる方便だからです。 方便の広作を勧めるのは、方便こそ菩薩が自利利他を行うための器であり、一瞬たりとも離れてはならないものだからです。故に維摩経には「方便なき慧は縛、方便ある慧は解」とあります。愛見の心をもって仏土を荘厳し、衆生を成就するのではなく、空・無相・無作の法の中にあって自らを調伏し、疲れ厭うことのないこと、これを方便ある慧解と言います。そうでなければ、縛られるのです。 この経を守護せよと勧めるのは、これが衆生の良薬であるからです。ちょうど栴檀が人の病を癒すように、一切の衆生はこれを得たいと願わない者はありません。しかし、もし人が大いなる栴檀の香木を得ながら、それを薪に束ねて売っても、買う者がいないとしたらどうでしょう。この経は人をして道を得させ、度さない者はないのです。我が般泥洹の後、この経が世に留まっても、これを見る者がないならば、それはまさに栴檀を薪に束ねて売っても買い手がないのと同じです。 ですから、広く方便を施し、この経を守護し流通させ、一切の罪苦の衆生が無明の源を塞ぎ、生死の根を抜き、三塗の悪道を出で、三徳の寂光を証するようにしなければなりません。そうしてこそ、大士の威神慈悲の力と、罪苦を救護しようという御心に背かずに済むのです。

△二、普廣請利益事，二。初、當機請說。

> 第二、普広が利益の事を請うこと、二つ。初めは、機に応じて説法を請う。

說是語已，會中有一菩薩，名曰普廣。合掌恭敬而白佛言：今見世尊讚歎地藏菩薩，有如是不可思議大威神德。唯願世尊為未來世末法眾生，宣說地藏菩薩利益人天因果等事，使諸天龍八部及未來世眾生頂受佛語。

> この言葉を終えられると、会座の中に普広という名の菩薩がおられました。合掌して恭しく仏陀に申し上げます。 「今、世尊が地蔵菩薩を称えられ、このような計り知れない大いなる威徳と神通力をお持ちであると讃嘆なさるのを拝見いたしました。どうか世尊、未来世の末法の衆生のために、地蔵菩薩が人や天に利益をもたらす因果などの事柄をお説きください。それによって、諸天や竜、八部衆、そして未来世の衆生が、仏陀のお言葉を謹んで受け止めることができますように。」

文分二節。初經家敘威儀。今見下，述讚請利益。有一菩薩，即承命衛經之人，其名曰普廣。從心發智，智彌法界，曰普。以智導行，行滿虗空，曰廣。心是境體，普廣是用。心即法身，普即般若，廣即解脫。由此大士，久證三德，廣濟羣生，雖用不離體，而體藉用彰。故從用立名。若廣明其事，即同觀音十普云云。今見下，先述前所歎威德。大論問：諸佛出於三界，不著世間，無有我及我所，視外道、惡人、菩薩、阿羅漢，一等無異，云何讚歎菩薩？答：佛雖無吾我，無有憎愛，於一切法，心無所著。憐愍眾生，以大慈悲心，引導一切。故分別善人，而有所讚；亦欲破惡魔所願。以佛讚歎故，無量眾生，愛樂菩薩，恭敬供養，後皆成就佛道。是故諸佛讚歎菩薩。云何讚歎？以地藏菩薩，久遠劫來，能觀諸法畢竟空，亦能於眾生有大慈悲，行生忍，不見眾生；行法忍，不著諸法。雖知涅槃是無上實法，而不取證；雖知眾生如幻如化，而能起身口意業，可謂志願弘曠有大悲心，行如是事，甚為希有。今既已見世尊讚歎其不可思議大威神德已，然利益天人，因果等事，更願垂於未來。故請說之。世尊說法，不出施論、戒論、生天論。正修名因，已得名果。下文章章約人天以明因果。若表別教、三賢、十地，詳今家教部。天龍等，能頂受之人；佛語，所頂受之法。領納於心名受。人身以頂為尊，今云頂受，敬之極，信之深也。佛語不受，何言可受耶！

> 文は二つの節に分かれます。最初に経典の編纂者が威儀を記し、今ここで下に見えるように、讃嘆と請願の利益を述べています。ある菩薩がおられ、すなわち経典を守護する使命を受けた方で、その名を普広といいます。心より智を発し、智が法界に満ちることを普といい、智をもって行いを導き、行いが虚空に満ちることを広といいます。心は境の本体であり、普広はその作用です。心はすなわち法身であり、普はすなわち般若であり、広はすなわち解脱です。この大士は、久しく三徳を証し、広く衆生を済度されます。作用は本体から離れず、本体は作用によって顕わになります。ゆえに、作用に基づいて名を立てるのです。もし詳しくその事を明らかにすれば、観音の十普<note>云云</note>と同じです。今ここで下に見えるように、まず前に讃嘆された威徳を述べています。大論に問うて言います。諸仏は三界を出で、世間に執着せず、我および我の所有というものもなく、外道・悪人・菩薩・阿羅漢を視ること、すべて平等で異なることがない。それなのに、どうして菩薩を讃嘆するのか。答えて言います。仏は我というものなく、憎愛もなく、一切の法に対して心に執着するところがない。しかし、衆生を憐れみ、大慈悲の心をもって一切を導かれる。ゆえに善人を分別して、讃嘆するところがある。また悪魔の願いを破ろうとされる。仏が讃嘆されるゆえに、無量の衆生が菩薩を愛楽し、恭敬供養し、後に皆仏道を成就する。それゆえ諸仏は菩薩を讃嘆されるのです。どのように讃嘆するのか。地蔵菩薩は久遠劫より、諸法が畢竟空であることを観じ、また衆生に対して大慈悲を行じ、生忍を行じて衆生を見ず、法忍を行じて諸法に執着しない。涅槃が無上の実法であることを知りながら、それを取って証することなく、衆生が幻のごとく化のごとくであることを知りながら、身口意の業を起こすことができる。これは志願が広大で大悲心があり、このようなことを行うことは、まことに稀有であると言えます。今すでに世尊がその不可思議なる大威神徳を讃嘆されたのを見ましたが、しかし天人の利益や因果などの事柄について、さらに未来に向かってお示しくださることを願います。ゆえに説法を請うのです。世尊の説法は、施論・戒論・生天論を出ません。正しく修めることを因といい、すでに得たものを果といいます。以下の文章は、章ごとに人天について因果を明らかにしています。もし別教・三賢・十地を表すならば、今の教えの部類に詳しくあります。天龍などは、頂受することができる人々であり、仏語は頂受されるべき法です。心に受け入れることを受といいます。人の身においては頂が最も尊いものであり、今ここで頂受と言うのは、敬いの極みであり、信の深さです。仏語を受け入れなければ、何の言葉を受け入れるというのでしょうか。

△二、世尊垂答，二。初、如來正答。分三。初、誡聽許說。

> △二、世尊が答える、二。初めに、如来の正しい答え。三つに分ける。初めに、よく聞くように戒めて説くことを許す。

爾時，世尊告普廣菩薩及四眾等：諦聽！諦聽！吾當為汝略說地藏菩薩利益人天福德之事。

> その時、世尊は普広菩薩と四衆の方々にお告げになりました。「よく聞きなさい。よく聞きなさい。これから、地蔵菩薩が人々や天界の者たちに恵みをもたらし、福徳を授けることを、簡潔にお話ししましょう。」

誡諦聽者，以是不思議威神慈悲事也。福者，天道佑善也。善則順天，和氣日相湊泊。从示，从畐，會其意耳。悳者，固有之善也。直心為悳。性命本來之正，學問易簡之功。洪範陳五福。福壽、富貴、康寧、好德、考終。論語示五德：溫、良、恭、儉、讓。若吾教中，準四天王經，於六齋日，使者、太子、天王，勤伺眾生，施行吉凶。若於此日，淨心守齋，歸敬禮供地藏菩薩。諸天為遣善神，營衛門戶。凶疫眾邪，陰謀消滅，夜無惡夢。縣官盜賊，水火灾變，終而不害。臨其尋終，迎其魂神，上生天上。天上福德，所願自然，七寶宮殿，在意所之。壽終，下生侯王之家，顏色煒煒，見者心懽。逢佛值法，必得泥洹。斯皆五戒十善，斂情攝欲，六齋使然。五利益人天福德事也。

> よく聞きなさい。これは、計り知れない威徳と慈悲の働きによるものです。 「福」とは、天の道が善を助けることです。善を行えば天に順い、和やかな気が日に日に集まってきます。示偏に畐と書くのは、その意味を表しているのです。 「悳（徳）」とは、元々備わっている善のことです。まっすぐな心が徳です。命の本来の正しさであり、学問の易しい功徳です。 『洪範』には五福が述べられています。長寿、富貴、健康と平安、良い徳、天寿を全うすることです。 『論語』には五徳が示されています。穏やか、善良、恭しい、倹約、譲り合いです。 わが教えにおいては、『四天王経』に基づけば、六斎日（月に六回の斎戒日）には、使者、太子、天王が、人々の行いを入念に見守り、吉凶を施します。 この日に心を清め斎戒を守り、地蔵菩薩を敬い礼拝供養すれば、諸天は善神を遣わして家を守り、疫病や邪悪な陰謀は消滅し、夜も悪夢を見ることはありません。 役人の迫害、盗賊、水害火災などの災変も、ついには害をなすことができません。 命の終わりに臨んでは、その魂を迎え取り、天上に生まれさせます。 天上の福徳により、願うことは自然に叶い、七宝の宮殿も思いのままです。 天上の寿命が尽きれば、今度は王侯の家に生まれ、輝くばかりの容姿は見る者を喜ばせます。 仏に逢い、法に値い、必ず涅槃を得るに至ります。 これらはすべて、五戒十善を守り、情欲を制し、六斎を実践することによってもたらされるものです。五つの利益、人と天の福徳の事柄なのです。

△二、承旨願聞。

> 二、ご教示を承り、お聞かせ願いたく存じます。

普廣白言：唯然，世尊！願樂欲聞。

> 普広は申し上げます：「はい、世尊よ。どうかお聞かせください。」

如文。

> そのとおりです。

△三、廣明利益，二。初、教主說利益；二、普廣請經名。初又二。初、廣說利益之事；二、總結威神之力。益事中，復分二。初、通示聞名等益；二、別示久病等益。初又二。初、供養得福；二、譏毀獲報。得福分四。初、聞名讚禮福。

> 三、広く利益を明らかにする、二つ。初めに、教主が利益を説く。二つ目に、普広が経の名を請う。初めはまた二つ。初めに、広く利益の事を説く。二つ目に、威神の力を総結する。利益の事の中、さらに二つに分ける。初めに、通じて聞名などの利益を示す。二つ目に、別に久病などの利益を示す。初めはまた二つ。初めに、供養して福を得る。二つ目に、譏り毀して報いを受ける。福を得ることを四つに分ける。初めに、名を聞き礼賛する福。

佛告普廣菩薩：未來世中，若有善男子、善女人，聞是地藏菩薩摩訶薩名者，或合掌者、讚歎者、作禮者、戀慕者，是人超越三十劫罪。

> 仏は普広菩薩に告げられた： 「未来の世において、もし善男子・善女人が、この地蔵菩薩摩訶薩の名を聞き、 あるいは合掌し、あるいは讃歎し、あるいは礼拝し、あるいは慕い敬うならば、 その人は三十劫の罪を超越するであろう。」

修善者，稱善男女；作惡者，稱惡男女。如閻羅王誨勑罪人云：汝等今去，為人家作子，當念孝順，報父母恩，曼年盛時，當忍惡為善，篤信三尊，守戒奉道，修諸功德。莫復作惡，還來至此。夫善，人性之天然精粹者也，其發恰好，美若不可勝言，無一不由中出者，故从美，轉注以心，示人，天根之學。復从二言者何？言，心聲也。出言善，人亦以善應之。人心同處，可以見天心也。今言由聞地藏之名而合掌等，得其善名也。葢大士之名，萬行萬德莊嚴。自最初一念救母孝思，便為六道救苦發心根源，已深廣無涯際矣！迨今十一大劫已來，若欲分別，窮劫不盡。故合掌等，皆超劫罪。如耆婆攬草，無非藥者，普能愈病。一切具足，如如意珠，盡滿其願。

> 善を行う者は、善男善女と呼ばれ、悪を行う者は、悪男悪女と呼ばれる。これはちょうど、閻魔大王が罪人を戒めて言うようなものだ。「お前たちはこれから人間界に生まれ変わり、人の子となる。親孝行を心がけ、父母の恩に報いるのだ。若く元気なうちは、悪を耐え忍んで善を行い、三宝を篤く信じ、戒めを守り、仏道を修行し、さまざまな功徳を積みなさい。二度と悪を繰り返し、ここに戻ってきてはならない」 そもそも善というものは、人間の本性に天然に備わった精粋なものであり、それが発現するときは、ちょうどよい加減で、その美しさは言葉では言い尽くせない。一つとして心の内から出ないものはない。だから「美」という字を基にし、心を加えて転注し、人に示す。これが天の根源を学ぶ道である。さらに「二つの言」を加えるのはなぜか。言葉は心の声である。善い言葉を発すれば、人もまた善で応える。人の心が同じところにあれば、天の心を見ることができるのだ。 今、「地蔵の名を聞いて合掌するなど」と言うのは、その善い名を得るためである。そもそも菩薩の名は、あらゆる行いとあらゆる徳によって荘厳されている。最初の一念、母を救おうとする孝行の思いから、六道の苦しみを救う発心の根源となり、すでに深く広く果てしがない。今に至るまで十一大劫の間、もし詳しく分けようとしても、劫を尽くしても語り尽くせない。だから、合掌などの行いは、すべて劫の罪を超えることができる。ちょうど名医・耆婆が草を摘めば、すべて薬となり、あらゆる病を癒すように。一切が具わっており、如意宝珠のように、すべての願いを満たすのである。

合掌，表權、實一體；九界是權，佛界是實，今既開顯，生佛一體。此身業供養。或讚相好微妙，或歎功德深洪，此口業供養。稽首著地，五輪俱圓，了性空寂，感應道交，乃三業普供。眷戀係慕，心心無間，或想菩薩之威德，或申自己之悲哀，此意業供養也。是人，點上聞名合掌等者，均能超越三十劫之重罪，此非不思議威神慈悲之力歟！

> 合掌は、仮（権）と真実（実）が一体であることを表します。九界（衆生の世界）は仮の姿、仏界は真実の姿ですが、今、それが開かれて明らかになり、衆生と仏は一体であることが示されます。これが身業（身体による）供養です。 あるいは、仏の姿の美しさや微妙さをほめ、その功徳の深さと広大さをたたえる。これが口業（言葉による）供養です。 額を地につけて礼拝し、五体（両膝・両肘・額）がすべて円く地に触れる。そのとき、一切の性は空しく寂しいものであることを悟り、仏の慈悲と衆生の信心が通じ合う。これが身・口・意の三業による普遍的な供養です。 心に慕いを抱き、思いを絶やすことなく、あるいは菩薩の威徳を思い、あるいは自らの悲しみを申し上げる。これが意業（心による）供養です。 このように、たとえわずかでも仏の名を聞き、合掌するなどの行いがあれば、三十劫という重い罪をも超えることができるのです。これはまさに、計り知れない威神と慈悲の力

△二、塑畵形像福。

> 二、仏像を造り、絵を描く功徳

普廣！若有善男子、善女人，或彩畵形像，或土石膠漆、金銀銅銕，作此菩薩。一瞻一禮者，是人百返生於三十三天，永不墮於惡道。假如天福盡故，下生人間，猶為國王，不失大利。

> 普廣よ、もし善男子や善女が、絵に描かれた姿であれ、土や石、膠や漆、金や銀、銅や鉄で作られた像であれ、この菩薩の姿を一目見て、一礼するならば、その人は百回も三十三天に生まれ、決して悪道に堕ちることはありません。たとえ天の福が尽きて人間界に生まれ変わったとしても、なお国王となり、大きな利益を失うことはないのです。

初修因。彩畵等，即法華云：若人為佛故，建立諸形像云云。彩，色也。用五色縇染百福之相也。土石膠漆者，或以淨土範塑為相，或以堅石巧琢為形。準優婆塞戒經，不許用膠此土有牛皮、魚腸二膠，得失意罪。而此經用者，外國用樹膠耳白芨之類。有言大荳汁本草黑荳也，可代膠清。若光宅聽許用牛皮膠，終是不淨之物，後得不淨果報。葢以畵相無膠，色久脫落；灰布無漆，身不堅牢。此像設之斷不可闕者。金銀銅銕，價雖貴賤不同，體乃堅剛不異。鎔鑄為像，永遠莊嚴。修䟦拏，翻金。準大論，出山石沙赤銅中。說文云：金有五色，黃金為長，久埋不變，百陶不輕。阿路巴，翻銀。準大論：出燒石中。爾雅：白金謂之銀。銅，赤金，銀之次也。阿嚕力經云：多唎路訶，注云三金。謂金、銀、銅。从金从同，色與金相似，而德大有間矣。古文取意制字，示不可以貌取人也。銕，黑金也。从夷，取常銕為意。常銕鍊久而得其精純，雖百鍊而不耗，謂之真剛。銕於金品最下，而致用為多，民利不可闕也。已上明造像。準戒經：不淨錢，不任造像，可換取如法淨錢造像。又不許造半身像。善相不起，墮落生死。

> 初めての修行の因として、彩色画などがあります。これは法華経に「もし人が仏のために、さまざまな形像を建立するならば」とある通りです。彩とは色のこと。五色を用いて百福の相を染め描くことです。 土、石、膠、漆については、あるいは清浄な土で型取り塑像を作り、あるいは堅固な石を巧みに彫刻して形とします。優婆塞戒経に基づけば、膠の使用は許されず（この土地には牛皮膠と魚腸膠の二種類があります）、これを用いると失意罪を得るとされます。しかしこの経典で用いられているのは、外国では樹脂を用いるからです（白芨の類です）。大豆の汁（本草では黒豆です）で膠の代用ができるという説もあります。もし光宅が牛皮膠の使用を許すとしても、それは結局不浄の物であり、後に不浄の果報を受けることになります。彩色画に膠がなければ、色はやがて剥落し、漆がなければ、像の身は堅牢ではありません。この像を設ける際に、どうしても欠かせないものなのです。 金、銀、銅、鉄は、価格こそ貴賤の差はありますが、その体は堅固で剛直である点は変わりません。溶かして鋳造し像とすれば、永遠に荘厳なものとなります。修䟦拏は金と訳されます。大論によれば、山の石や砂、赤銅の中から産出されます。説文解字には、金には五色あり、黄金が最も優れ、長く土中に埋もれても変わらず、百回焼いても軽くならないとあります。阿路巴は銀と訳されます。大論によれば、焼いた石の中から産出されます。爾雅には、白金を銀というとあります。銅は赤金で、銀に次ぐものです。阿嚕力経には、多唎路訶とあり、注釈に三金とあります。これは金、銀、銅を指します。銅の字は金と同から成り、色は金に似ていますが、その徳には大きな隔たりがあります。古文では意味を取って字を作り、外見で人を判断してはならないことを示しています。鉄は黒金です。夷から取られ、常に鉄であることを意味します。常に鉄を鍛錬し続けて精純を得れば、百回鍛えても消耗せず、真の剛さと言えます。鉄は金の品の中では最も下位ですが、用途は最も多く、民の利益に欠かせないものです。 以上が像を造ることについての説明です。戒経に基づけば、不浄なお金では像を造ることはできず、如法の清浄なお金に換えて像を造るべきです。また、半身像を造ることも許されません。善相が現れず、生死に堕ちるからです。

作此菩薩，一瞻一禮者，他人以此眾物作地藏菩薩勝相，或有善男女等見之，或但瞻而不禮，或有瞻而禮者。此明修因甚少，下明得果極大。是人即作像瞻禮者，皆百返生於三十三天，且永不墮惡道之中。以造像本是天業，故感生天上。造像功德經云：若人臨終，發言造像，乃至如麥󰎣古猛切，大麥也，能除三世八十億劫生死之罪。有十一功德：一、世世眼目清潔。二、生處無惡。三、常生貴家。四、身如紫磨金色。五、豐饒珍玩。六、生賢善家。七、生得為王。八、作金輪王。九、生梵天。十、不墮惡道。十一、後生還能敬重三寶。故下即云假如天福等。妙樂云：豈是欲界人天善根。故後賢講是經者，斷不可準正法念經所列忉利之三十三，必依吾所引灌頂呪經者，此千古不磨之定案也。不失大利，通言之，謂雖生人中作王，猶不失作像瞻禮之大利。若深推其意，必以成佛為大利。如經云：如是諸人等，漸漸積功德，具足大悲心，皆已成佛道，是也。故妙樂云：今經欲收無始微善，咸趣菩提，若已發心，隨有毫善，莫非緣因。今經既同法華，福利自叵思議。

> この菩薩像を造り、一目見て一礼する者、あるいは他の人がこれらの多くの物で地蔵菩薩の優れた姿を作り、あるいは善男善女などがそれを見て、ただ見るだけで礼拝しない者、あるいは見て礼拝する者がある。ここに修める因は非常に少ないが、下には得られる果が極めて大きいことを明らかにする。この人はすなわち像を作り、見て礼拝する者であり、皆三十三天に百回生まれ、かつ永遠に悪道に堕ちることはない。像を造ることは本来天の業であるから、天に生まれることを感ずるのである。造像功德経に云う：もし人が臨終に際し、像を造ると発言すれば、たとえ麦󰎣<note>古猛切、大麦なり</note>ほどのものでも、三世八十億劫の生死の罪を除くことができる。十一の功德がある：一、世々眼目清潔。二、生ずる所に悪無し。三、常に貴家に生まる。四、身は紫磨金色の如し。五、珍玩豊饒。六、賢善の家に生まる。七、生まれながら王となる。八、金輪王となる。九、梵天に生まる。十、悪道に堕ちず。十一、後生にてなお三宝を敬重す。故に下には即ち、もし天福の如きと云う。妙楽に云う：豈に欲界の人天の善根であろうか。故に後世の賢者がこの経を講ずる者は、断じて正法念経に列する忉利の三十三に準じてはならず、必ず我の引く灌頂呪経によるべきである。これは千古不磨の定案である。大利を失わず、広く言えば、たとえ人中に生まれて王となっても、なお像を作り見て礼拝する大利を失わない。もし深くその意を推せば、必ず仏となることを以て大利とす。経に云う：かくの如き諸人等は、漸く功德を積み、大悲心を具足し、皆すでに仏道を成ぜり、これなり。故に妙楽に云う：今の経は無始の微善を収めて、皆菩提に趣かしめんと欲す。もしすでに心を発せば、毫の善あるごとに、これ縁因に非ざるはなし。今の経は既に法華と同じければ、福利自ら思議すべからず。

△三、厭女供像福，二。初、厭女身供像轉報；二、厭醜病禮像獲福。初分二。初、明供像。

> △三、女の身を厭い、仏像を供養する功徳について、二つに分けて説く。初めに、女の身を厭い仏像を供養して転報を得ることを明かし、次に、醜病を厭い仏像を礼拝して福を得ることを明かす。初めはさらに二つに分ける。初めに、仏像供養のあり方を明かす。

若有女人，厭女人身，盡心供養地藏菩薩畵像及土石膠漆銅銕等像。如是日日不退，常以華香飲食衣服繒綵幢旛錢寶物等供養。

> もし女性が、女性の身であることを厭い、心を尽くして地蔵菩薩の絵像や、土・石・膠・漆・銅・鉄などで作られた像を供養するならば、こうして日々怠ることなく、常に花・香・飲食・衣服・絹織物・幢幡・金銭・宝物などをもって供養するならば。

初二句興供意。厭女身故，同藥師願中，若有女人，為女百惡之所逼惱，極生厭離，願捨女身。葢女人因淫業，而致乘愛心而來，陷人之坑阱，積穢之丘陵。超日月經明示五礙：一、不得作梵天王，清淨、垢染不同故。二、不得作帝釋，少欲、多欲差殊故。三、不得作魔王，剛強、懦弱相異故。四、不得作轉輪王，仁慈、嫉妬逈絕故。五、不得作佛身，萬德、煩惱各別故。玉耶經中：大彰十惡，一、初生父母不喜。二、舉養視無滋味。三、心常畏人。四、父母憂嫁。五、父母生離。六、畏夫喜怒。七、懷產甚難。八、少為父母檢錄。九、中為夫壻禁制。十、老為兒孫所呵。故女中智者，常生厭離也。盡心下，供養法。蘇悉地經，廣明供事不同。凡供養門，乃普賢毗首羯磨所作，出虗空庫藏法中。依大圓鏡智及成所作智而為之也。

> 第二句は供養の心を起こすことについて述べています。女性の身を厭う理由は、薬師如来の誓願の中にあるように、もし女性が女であることの百の苦しみに悩まされ、強く厭離の心を起こし、女身を捨てたいと願うことと同じです。女性は淫業によって愛執の心を生じ、人を陥れる落とし穴となり、穢れを積む丘陵となるからです。 『超日月経』には、女性の五つの障りが明示されています： 一、梵天王になれない。清浄と垢染が異なるため。 二、帝釈天になれない。少欲と多欲が大きく異なるため。 三、魔王になれない。剛強と懦弱が違うため。 四、転輪王になれない。仁慈と嫉妬が全く異なるため。 五、仏身になれない。万徳と煩悩がそれぞれ別であるため。 『玉耶経』には、十の悪が大きく示されています： 一、生まれた時、父母が喜ばない。 二、育てられても愛着がわかない。 三、常に人を恐れる。 四、父母が嫁ぎ先を心配する。 五、父母との別れが生じる。 六、夫の喜怒を恐れる。 七、出産が非常に困難である。 八、幼い時は父母に厳しく束縛される。 九、中年では夫に制限される。 十、年老いては子孫に叱られる。 だからこそ、女性の中でも智者は常に厭離の心を起こすのです。 最後に、供養の法について述べます。『蘇悉地経』には、さまざまな供養の方法が広く説かれています。供養の門は、普賢菩薩と毘首羯磨によって示され、『虚空蔵法』から出ています。大円鏡智と成所作智に依って行われるものです。

盡心二字，須玩。下諸供物，皆事，財施也。若不離自心，竭盡為之，則一切法趣事、趣財，是趣不過，則事全是理，財即是法矣。像設如前。如是日日不退，可謂心心堅固、念念精勤。華香、飲食、衣服義如前明。繒綵，即五色綵縀。繒字有二音：咨登切，音增，與矰同。繒繳以射鳧雁，箭有綸者。古詩：未必逢矰繳。是也。慈陵切，音情，帛也。贈神曰繒。今從情聲。幢，梵語脫闍資，中翻幢。熏聞引爾雅云：闍謂之臺，而言脫者，積土脫落也。今所不取，葢是梵語。但名義集，既以寺塔壇幢聯貫而立，則臺義非謬。然說文云：幢，旌旂之屬。輔行又云：旛者，旌旗之總名。今佛法供具相狀似彼，故云旛。則幢旛一類。旛之大者為幢，幢，翳也、容也。施之車葢，童童然以隱蔽形容，則似車之葢。故楚曰幬，關東西曰幢。凡造旛法，切不得安佛菩薩像，及名號等。旛是供具，供於所供，如何復以像名為之。錢寶物等，眾生之性命，切己難忘，能捨命財，心無悋惜，內息慳貪，獲福無量矣。

> 「尽くす心」という二文字は、よく味わう必要があります。以下に挙げる様々な供物は、すべて事相であり、財施です。もし自らの心を離れず、心を尽くして行うならば、一切の法は事相に向かい、財施に向かいます。これらを超えるものはなく、事相はそのまま理であり、財施はそのまま法なのです。像の設えは前述の通りです。 このように日々退転せず行うならば、心は堅固に、念は精勤であると言えます。華香、飲食、衣服の意味は前に述べた通りです。繒綵とは、五色の綵織りの絹のことです。「繒」という字には二つの読み方があります。一つは「咨登切」で音は「増」、これは「矰」と同じです。矰繳（矢に糸をつけたもの）で鳧や雁を射ることを指し、矢に糸がついているものです。古詩に「必ずしも矰繳に逢わず」とあるのはこれです。もう一つは「慈陵切」で音は「情」、帛（絹織物）を意味します。神に贈るものを「繒」と言います。ここでは「情」の音に従います。 幢は、梵語で「脱闍資」と言い、中国語では「幢」と訳します。『熏聞』が『爾雅』を引いて「闍はこれを臺と謂う」とし、「脱」と言うのは積み上げた土が脱落することだと説明していますが、今はこれに従いません。これは梵語です。ただ『名義集』では、寺・塔・壇・幢を連ねて立てるとしているので、臺の意味も間違いではありません。しかし『説文解字』では「幢は旌旂の属なり」とあります。『輔行』にも「旛は旌旗の総名なり」とあります。今、仏法の供具の形状はこれに似ているので、旛と言います。つまり幢と旛は同類です。旛の大きいものを幢と言い、幢は「翳（かくす）」や「容（かたち）」を意味します。車の蓋に施し、童童然として形を隠す様子は、車の蓋に似ています。そのため楚では「幬」と言い、関東西では「幢」と言います。 旛を作る法としては、決して仏菩薩の像や名号などを付けてはいけません。旛は供具であり、供える対象に供えるものです。どうして再び像や名号をそれに用いることができましょうか。銭や宝物などは、衆生の命のようなもので、切実に忘れがたいものです。その命や財を捨てることができ、心に惜しむことがなければ、内に慳貪を鎮め、無量の福を得ることができるのです。

△二、轉報果，三。初、明轉女身。

> 二、果報を転ずる、三。初めに、女身を転ずることを明かす。

是善女人，盡此一報女身，百千萬劫，更不生有女人世界，何況復受。

> この善き女性は、この一つの女身の報いを尽くせば、百千万劫もの間、再び女性の世界に生まれることはなく、ましてや再び女身を受けることなどありえません。

轉報事難，惟在精誠，今既盡心供養，而又日日不退，故畢此一期果報之身，從斯百千萬劫，更不生有女人世界。即指西方極樂，一向無有女人。何況復來三界受女身耶！

> 報いを伝えることは難しいが、ただ誠実さにこそある。今、心を尽くして供養し、しかも日々退かずに続けている。ゆえに、この一期の果報の身を終えたならば、これより百千万劫の間、再び女人の世界に生まれることはない。これはすなわち、西方極楽世界を指す。そこには一向に女人は存在しない。ましてや、再び三界に戻って女身を受けることなどありえない。

△二、願不轉女。

> 二、女の身に生まれ変わらないことを願う。

除非慈願力故，要受女身，度脫眾生。

> 慈悲の願いの力がなければ、女性の身を受け、衆生を救い導くことは叶わない。

如摩耶夫人，以大幻願智法門，永為千佛之母。此以順愛法門，度眾生也。又婆須密多女，說離欲際法門，一切眾生隨類見我，令得一切三昧，此以逆愛法門，度眾生也。竝以慈受三昧，誓願之力，示為女身。先以欲鈎牽，後令入佛智，正此意也。

> 例えば摩耶夫人は、大幻願智の法門によって、永遠に千仏の母となられました。これは順愛の法門によって衆生を救うものです。また婆須密多女は、離欲際の法門を説き、一切の衆生がその類に応じて私を見る時、一切の三昧を得させます。これは逆愛の法門によって衆生を救うものです。いずれも慈受三昧と誓願の力によって、女性の姿を示されたのです。まずは欲望という鉤で引き寄せ、後に仏の智慧に入らせる、まさにこの意味なのです。

△三、結不受女。

> 三、女性の姿に惑わされない。

承斯供養地藏力故及功德力，百千萬劫不受女身。

> この供養の功徳と地蔵菩薩の力により、百千万劫の間、女身を受けることがありません。

供養地藏，乃現行精進及功德力，是善習熏起，種現交熏，功業成辦，故於百千萬劫永不受女人身。

> 地蔵菩薩を供養する者は、現在の精進と功徳の力によって、善い習慣が育ち、種子と現行が互いに影響し合い、功徳の業が成就します。そのため、百千万劫の間、永遠に女性の身を受けることがありません。

△二、厭醜病禮像獲福，三。初、瞻禮。

> 二、醜い病を厭い、礼拝する像に福を得る。三。初めに、拝観し礼拝する。

復次普廣，若有女人，厭是醜陋，多疾病者。但於地藏像前，志心瞻禮，食頃之間。

> また普広よ、もし女人が、この醜さや多くの病に悩まされていることを厭うならば、ただ地蔵菩薩の像の前にて、真心を込めて拝み礼拝し、わずか一食ほどの間を過ごすだけでよい。

醜，臭穢也。陋，鄙惡也。此方黃帝時，有嫫母；齊國有無鹽女，梁鴻之妻孟光，皆天下之醜女，而賢慧者也。準業報差別經：以十業故，得醜陋報：一好行忿怒，二好懷嫌恨，三誑惑於它，四惱亂眾生，五於父母所無愛敬心，六於賢聖所不生恭敬，七侵奪賢聖資生田業，八於佛塔廟斷滅燈明，九見醜陋者毀訾輕賤，十習諸惡行。亦以十業得多病報：一好喜打拍一切眾生，二勸他令打，三讚歎打法，四見打歡喜，五惱亂父母，六惱亂賢聖，七見怨病苦心大歡喜，八見怨病愈心生不樂，九於怨病所與非治藥，十宿食未消而復更噉。以是二十種業，感此醜病。女身相貌醜陋，為夫君之嫌憎，遭眾士之譏呵；身多疾病，致自心之憂苦，招眷屬之輕陵。三惡竝集，一世多愁，寧不長懷厭棄乎！能感之機，識此之由。但於下明修因。食頃，一飯食時，以少顯多，以短形長耳。

> 醜いとは、見た目が汚らわしく、醜悪なことです。醜いとは、見た目が粗末で、醜悪なことです。この世では、黄帝の時代に嫫母がおり、斉国には無塩女がおり、梁鴻の妻の孟光がおり、これらは皆、天下の醜女でありながら、賢く聡明な人々でした。『業報差別経』によれば、十の業によって醜い報いを受けるとされています。一に、怒りを好んで行うこと。二に、恨みや憎しみを抱くこと。三に、他人を欺き惑わすこと。四に、衆生を悩ませ乱すこと。五に、父母に対して愛敬の心がないこと。六に、賢聖に対して恭敬の心を抱かないこと。七に、賢聖の生活を支える田畑や財産を侵奪すること。八に、仏塔や寺院の灯明を消し断つこと。九に、醜い者を見て軽蔑し貶すこと。十に、さまざまな悪行を習い行うことです。また、十の業によって多くの病気の報いを受けるとされています。一に、すべての衆生を打ち叩くことを好むこと。二に、他人に打つことを勧めること。三に、打つ方法を賞賛すること。四に、打たれるのを見て喜ぶこと。五に、父母を悩ませ乱すこと。六に、賢聖を悩ませ乱すこと。七に、怨みを持つ者が病気で苦しむのを見て心から喜ぶこと。八に、怨みを持つ者が病気から回復するのを見て心が楽しまないこと。九に、怨みを持つ者の病気に対して適切でない薬を与えること。十に、前の食事がまだ消化していないのにさらに食べることです。これら二十種類の業によって、この醜さと病気を引き起こすのです。女性の身でありながら容貌が醜いと、夫から嫌われ憎まれ、多くの人々から嘲笑され非難されます。身体に多くの病気があると、自らの心に憂いと苦しみをもたらし、家族から軽んじられ侮られます。三つの悪が集まり、一生涯に多くの憂いが生じ、どうして長く厭わしく思わずにいられるでしょうか。このような結果を招く機縁を知り、その原因を理解することです。ただし、以下では修行の因について明らかにします。食事の間、一食の時間、少ないもので多いことを示し、短いもので長いことを形作るのです。

△二、轉報，二。初、相貌圓滿。

> 二、転報（てんぽう）について、二つに分けて説きます。初めに、相好円満（そうごうえんまん）について。

是人千萬劫中所受生身，相貌圓滿。

> この人は、千万劫の間で受けた生身であり、その相貌は円満である。

此顯暫時瞻禮之功，不可思議。圓則無喎邪之惡相，滿則尠窊曲之醜形。相貌既得圓滿，身軀自無疾病。

> これは、一時的に礼拝することの功徳が、計り知れないことを示しています。円満であれば、歪んだ邪悪な相はなく、満ちていれば、窪んだ曲がった醜い形はほとんどありません。相貌が円満を得れば、身体は自然に病気から遠ざかります。

△二、貴姓受生。

> 二、あなたの姓と生まれについて。

是醜陋女人，如不厭女身，即百千萬億生中常為王女，乃及王妃，宰輔大姓、大長者女，端正受生，諸相圓滿。

> この醜い女は、もし女身を厭わなければ、百千万億の生を経る中で、常に王の娘となり、あるいは王妃となり、大臣や大姓、大長者の娘として、端正な姿で生まれ、諸々の相が円満に備わるでしょう。

不厭女身，情愛未忘；瞻禮之功，纖毫不爽。故於萬億生中，常為王家之女。如波斯匿之勝鬘，阿闍世之術達矣。王妃，妃，合也，嬪御之貴，次於后者。又天子後宮、嫡庶皆稱妃。如末利、韋提希是也。宰輔大姓，乃天子股肱，元勳阿衡；或生剎帝利大姓，或婆羅門大姓；長者女，如須達多之有蘇曼；維摩詰之有月上也。端正等，梵名阿波羅提目伽，此言端正。別行疏云：女人端正，七德之初。但端正無相者，或早孤少寡，相祿不佳。今明貌與相相扶，彌顯其德。端則招夫寵愛，相則招於祿敬。若愛帶慢，何謂為德；愛而敬之，故是相也。今既端正圓滿，相彌妙矣。

> 女の身を厭わず、情愛を忘れず。礼拝の功徳は、わずかでも欠けることはない。それゆえ、幾千万の生まれ変わりの中でも、常に王家の娘として生まれる。たとえば、波斯匿王の勝鬘や、阿闍世王の術達がそうである。王妃とは、妃が王に合うこと、つまり后に次ぐ高貴な身分の女性を指す。また、天子の後宮では、正室も側室も皆、妃と呼ばれる。末利夫人や韋提希夫人がその例である。宰相や名門の家柄は、天子の手足となり、大きな功績を立てる者たち。あるいは剎帝利の名門に生まれ、あるいは婆羅門の名門に生まれる。長者の娘としては、須達多の娘である蘇曼や、維摩詰の娘である月上が挙げられる。端正とは、サンスクリット語で「アパラティムカ」といい、姿形が整っていることを意味する。別の経典の注釈には、「女性の端正さは、七つの徳の最初にある」とある。しかし、端正であっても福相に恵まれない者は、早くに親を失ったり、若くして寡婦になったり、禄や運に恵まれないことがある。ここでは、容貌と福相が互いに支え合い、その徳をより一層明らかにすることを説く。端正であれば夫の寵愛を招き、福相があれば禄と尊敬を招く。もし愛に慢心が伴えば、それは徳とは言えない。愛され、かつ敬われることが、真の福相である。今、端正さが円満であれば、その福相はますます優れたものとなる。

△三、結成。

> 三、結論。

由志心故，瞻禮地藏菩薩，獲福如是。

> 志しを持つ心によって、地蔵菩薩を拝み礼拝すれば、このように福徳を得ることができる。

志心二字，義深意重，貫於前後，勿輕看過。夫人之轉報，誠非易事。譬耕夫之忽臨帝座，如溷者之俄登天府，平地之福，匪伊所思。今所獲福，誠由志心。志者，心之所至也。其醜女以瞻禮而感，地藏以慈力而應，均是心也。若各各性計不忘，則能所條然，凡聖岐矣，安能感應道交，轉報獲福耶！惟瞻禮之際，了能所之皆空，故感應之時，致假中之叵議。則醜婦與地藏，無二無別，功竝由於志心。故增一阿含云：若欲禮佛者，當來及過去，當觀空無法，是名禮佛義。勒那三藏七種禮，不可不知。

> 「志心」という二文字は、その意味が深く重く、前後の文脈を貫くものであり、軽く見過ごしてはなりません。人が業報を転じることは、誠に容易なことではありません。それは、農夫が突然皇帝の座に臨むようなもの、また穢れた者が突如として天の府に登るようなものであり、平地に突然現れた福は、思いもよらないものです。今、得られる福は、まさに「志心」によるものです。 「志」とは、心が至るところを指します。醜女が礼拝によって感応し、地蔵菩薩が慈悲の力によって応じるのも、すべてはこの「心」によるものです。もしそれぞれが自性に執着して忘れなければ、能（主体）と所（対象）がはっきりと分かれ、凡夫と聖者の区別が生じてしまいます。それではどうして感応道交し、業報を転じて福を得ることができるでしょうか。 ただ、礼拝する際に、能と所がともに空であることを悟るからこそ、感応する時に、仮の存在と真実の中に議論の余地のない境地が現れるのです。そうすれば、醜女と地蔵菩薩は、二つでもなく別でもなく、その功徳はともに「志心」によるものとなります。 したがって、『増一阿含経』にはこう説かれています。 「もし仏を礼拝しようとするならば、未来と過去を観じ、空であり実体のない法であると観ずることが、仏を礼拝する真の意味である」 また、勒那三蔵の説く七種の礼拝についても、知っておくべきです。

△四、伎樂讚供福。

> 四、伎楽を奏でて供養し、福徳を積む。

復次，普廣！若有善男子、善女人，能對菩薩像前，作諸伎樂及歌詠讚歎，香華供養，乃至勸於一人、多人，如是等輩，現在世中，及未來世，常得百千鬼神日夜衛護，不令惡事輒聞其耳，何況親受諸橫。

> さらに、普広よ、もし善男子・善女があって、菩薩の像の前で、さまざまな音楽を奏で、歌をうたい、讃嘆し、香や花を供養し、さらに一人あるいは多くの人々に勧めるような人々は、現在世においても、また未来世においても、常に百千の鬼神が日夜守護し、悪い事が耳に入ることもなく、ましてや実際に災難を受けるようなことは決してないでしょう。

文分二節：初能供之機。如是下，所獲之福。能者，信善之實。信而不實者，不能為之矣。伎字，說文从女支聲，婦人小物樂工也；从人支聲，訓與也。樂者，天子之要事，可以觀風考俗，使民蕩穢滌邪，故禮樂不可須臾去身。若禮記云：夔始制樂以賞諸侯。自黃帝咸池以下，代制於樂，不過據此土言之耳。歌詠者，尚書云：詩言志，歌永言。詩序曰：情動於中而形於言；言之不足，故嗟歎之；嗟歎之不足，故詠歌之。歌者，樂之聲也，直陳其德也。準山海經：帝俊八子，始為歌。若吾教中即梵唄也。尋西方之有唄，猶東國之有讚。讚者從文，以結章；唄者短偈，以流頌。比其事義，名異實同。今既作五聲八音之樂矣，及申歌詠讚歎之頌矣，復陳香華供養之物矣，不惟信心自為，更以普勸他作，或一或多，隨緣轉化。如是之人，自應獲福，故即云如是等輩云云。然作樂供像，何以得鬼神衛護耶？準禮記曰：禮樂之行乎陰陽，通乎鬼神。漢書云：夫樂者，聖人所以感天地、通鬼神，況乾闥、緊那皆天帝樂神，今既伎樂歌詠於地藏，寧不感帝釋，遣乾、緊，令人衛護耶。然惡事不聞耳者，又從何致乎？曰：不聞禮云：夫樂，清明象天，廣大象地，終始象四時，周旋象風雨，今既作樂供像，自感天地清明氣象，四時和焉，風雨時焉，安有惡事輒聞於耳。故曰樂者，樂也，君子樂得其道，小人樂得其欲；況今獲福，實從信心得來，何況親身受諸橫哉。若準法華：妓樂頌德，開人天業，自應早成佛道矣。

> 文は二節に分かれる。初めは供養を行う者の条件、『如是』以下は得られる福徳についてである。 「能」とは、信心が真実であることを指す。信心があっても真実でなければ、供養を行うことはできない。 「伎」の字は、『説文解字』によれば「女」に従い「支」の声を持つ字で、婦人の小さな楽器や楽人を意味する。また「人」に従い「支」の声を持つ字で、「与える」と訓じられる。 楽とは、天子の重要な事柄であり、風俗を観察し、民の穢れを洗い清め、邪を除くことができる。ゆえに礼楽は片時も身から離してはならない。『礼記』に「夔が初めて楽を制して諸侯を賞した」とあるように、黄帝の咸池以来、代々楽が作られてきたが、これはこの国土に限った話である。 歌詠について、『尚書』には「詩は志を言い、歌は言を永くする」とある。『詩序』には「情が中に動き、言葉に形づくられる。言葉で足りなければ嘆息し、嘆息で足りなければ歌詠する」とある。歌とは楽の声であり、その徳を直ちに述べるものである。『山海経』によれば、帝俊の八人の子が初めて歌を作った。わが教えにおいては、すなわち梵唄である。 西方に唄があるのは、東国に讃があるのと同じである。讃は文によって章を結び、唄は短い偈によって頌を流す。その事柄と意義を比べれば、名は異なれど実は同じである。 今、五声八音の楽を作り、歌詠讃歎の頌を述べ、香華供養の物を陳べた。ただ信心をもって自ら行うだけでなく、広く他を勧めて行わせ、一つでも多く、縁に随って転化させる。このような人は、自ら福を得るにふさわしい。ゆえに『如是等輩<note>云云</note>』と説かれるのである。 しかし、楽を作って像を供養するだけで、どうして鬼神の守護を得られるのか。『礼記』によれば「礼楽は陰陽を行い、鬼神に通ず」とある。『漢書』には「楽とは、聖人が天地を感応し、鬼神に通じるために用いるもの」とある。ましてや乾闥婆・緊那羅はみな天帝の楽神である。今、地蔵菩薩に対して伎楽歌詠を行えば、帝釈天を感応させずにおられようか。乾闥婆・緊那羅を遣わして人を守護させるのである。 では、悪事を耳にしないというのは、どこから来るのか。『礼記』に「楽は清明にして天に象り、広大にして地に象り、終始は四時に象り、周旋は風雨に象る」とあるではないか。今、楽を作って像を供養すれば、自ずと天地の清明な気象を感応し、四時は和らぎ、風雨は時にかなう。どうして悪事が耳に入ることがあろうか。 ゆえに「楽は楽しみなり」と言われる。君子はその道を得て楽しみ、小人はその欲を得て楽しむ。まして今、福を得るのは実に信心から来るのである。ましてや自らが諸々の横難を受けることがあろうか。 『法華経』に照らせば、妓楽をもって徳を讃え、人天の業を開けば、自ずと早く仏道を成じるであろう。

△二、譏毀報獲，二。初、正示；二、結況。示中二。初、示譏毀相。

> 二、そしりそしられる報い、二。初、正しく示す；二、結んで況す。示す中二。初、そしりそしられる相を示す。

復次，普廣！未來世中，若有惡人及惡神、惡鬼，見有善男子、善女人歸敬供養讚歎瞻禮地藏菩薩形像，或妄生譏毀，謗無功德及利益事，或露齒笑，或面背非，或勸人共非，或一人非，或多人非，乃至一念生譏毀者。

> さらに、普広よ。未来の世において、もし悪人や悪神、悪鬼が、善男子や善女が地蔵菩薩の像を敬い、供養し、賛嘆し、礼拝するのを見て、あるいは根拠なくあざけりそしり、功徳も利益もないと誹謗し、あるいは歯をむき出して笑い、あるいは面と向かって、あるいは陰で非難し、あるいは人をそそのかして共に非難させ、あるいは一人で非難し、あるいは多くの人で非難し、ほんの一瞬でもあざけりそしりの心を起こすならば。

初舉譏毀之類，次明譏毀之相。梵名鳩那羅，此云惡人，亦云不好人。惡神，大即指波卑夜，正翻云惡；小即指岳凟山川內惡者一流。惡鬼，大指鳩槃荼等，小即指倚艸附木，妄作威福之類。夫惡有三種：一曰惡，二曰大惡，三曰惡中惡。此之三類，各有三惡云云。見有等，明造毀之端。佛言：清濁異流，明愚異趣，忠󰦇相讐，邪常嫉正。故著欲之人，不好我無欲之行。於是惡類遂生嫉心。所以嫉之者，惡人恐以彼善，形我之惡也；惡神恐其出界，失我之眷屬也；惡鬼恐其齋戒，失我之血肉也。懷私雖異，為惡是同。曾子云：人之好善，福雖未至，去禍遠矣；人之為惡，凶雖未至，去禍近矣。辯魔書云：見善養育，如雨露之被草木；遇惡勦絕，若鷹鸇之逐鳥󳭋，人何不努力修善，而甘為惡人、惡神、惡鬼哉！譏者，嘲誚之言；毀者，謗壞之事。譏生忌嫉之心；毀起貪恨之念。故知心為起惡之源，口乃召禍之本。徒謗聖賢，枉壓良善，從虗妄以搆詞，自無端而肆毒：初乃輕言譏激，後遂重語讟誣。自作闡提，撥無因果。宣言此輩，徒竊善名，歸供讚禮，實無功德，唐喪資財，何有利益？那知泥木靈像，遠有所表，敬誠殷禮，獲福無邊。輕心毀謗，招罪彌劫，愚癡無知，阻退善根。或露齒而輕笑，或面是而背非，自己非之，復勸人共非；或勸得一人，或再勸多人，而共非之。此言多譏毀惡。乃至一念，言少譏毀惡。那知眾罪，皆從此起。譬夫決江之流，濫觴於甕口；叅天之樹，發蘖乎毫芒。唇口是弓，心慮如弦，音聲如箭，一念如機。長夜空發，徒染身口，顧斯後報，可不慎哉！

> まず、そしり誹る者たちの種類を挙げ、次に、そしり誹る様相を明らかにする。 梵語で「鳩那羅」というのは、悪しき人、あるいは良からぬ人を意味する。 悪神とは、大は波卑夜（悪魔）を指し、正しく訳せば「悪」となる。小は、山岳や河川に棲む悪しき者たちを指す。 悪鬼とは、大は鳩槃荼（鬼王）などを指し、小は草や木に憑いて、妄りに威福を振るう類いを指す。 そもそも悪には三種ある。第一は悪、第二は大悪、第三は悪中悪である。この三類には、それぞれ三つの悪がある（詳細は別途）。 「見有等」とは、誹謗をなす端緒を明らかにするものである。 仏は言われた。「清きものと濁れるものは流れを異にし、明らかな者と愚かな者は志を異にする。忠と佞は互いに仇とし、邪は常に正を嫉む」 それゆえ、欲望に執着する者は、我が無欲の行いを好まない。そこで悪しき者たちは嫉妬の心を生ずるのである。 なぜ嫉むのか。 悪人は、相手の善が己の悪を際立たせることを恐れるから。 悪神は、相手が自らの領域から出て行き、眷属を失うことを恐れるから。 悪鬼は、相手が斎戒を守り、己が血肉を得られなくなることを恐れるから。 私心を抱く内容は異なっても、悪をなす点では同じである。 曾子は言う。「人が善を好めば、福はまだ至らなくても、禍から遠ざかる。人が悪をなせば、凶はまだ至らなくても、禍に近づく」 『弁魔書』にはこうある。「善を見ればこれを養い育つこと、雨露が草木を潤すがごとく。悪に遇えばこれを討ち絶つこと、鷹や鷂が小鳥を追うがごとし」 人はなぜ努めて善を修めず、甘んじて悪人・悪神・悪鬼となるのか。 「譏」とは、嘲りそしる言葉。「毀」とは、謗り損なう行い。 譏は嫉妬の心から生じ、毀は貪り恨む念いから起こる。 ゆえに知るべし、心は悪を起こす源であり、口は禍を招く根本であると。 いたずらに聖賢を謗り、むやみに良善を圧す。 虚妄より言葉を捏ね上げ、端なくも毒を振るう。 初めは軽い言葉で嘲りそしり、後には重い言葉で罵り誣す。 自ら一闡提（断善根者）となり、因果を撥無する。 「この輩は、いたずらに善の名を窃み、供養や礼讃を集めるが、実は功徳なく、資財を空しく費やすだけで、何の利益があろうか」などと宣言する。 しかし、泥や木の霊像が遠くに表徴するもの、敬い誠う心からの礼拝が無辺の福をもたらすことを知らない。 軽々しく誹謗すれば、劫を超える罪を招く。愚かで無知な者は、自らの善根を阻み退ける。 あるいは歯を露わにして軽く笑い、あるいは面では是としながら背では非とする。 自らが非とするだけでなく、さらに人を勧めて共に非とさせる。 あるいは一人を勧め得、あるいはさらに多くの人を勧めて、共に非とさせる。 これが多くのそしり誹る悪である。 わずか一念に至るまでが、少ないそしり誹る悪である。 衆罪が皆ここから起こることを知らない。 譬えば、江河を決する流れも、甕の口から溢れる一滴に始まり、 天に届く大樹も、毫末の芽から萌え出る。 唇と口は弓のごとく、心の思いは弦のごとし。 音声は矢のごとく、一念は発射の機（引き金）のごとし。 長き夜空にむなしく放たれ、ただ身と口を汚すのみ。 この後の報いを顧みれば、慎まざるべけんや。

△二、顯譏毀報，二。初、直墮阿鼻。

如是之人，賢劫千佛滅度，譏毀之報，尚在阿鼻地獄，受極重罪。

獧音喧，輕也頑成性，估侸上音顛，下音孺，輕薄也為情，不知佛道，正真弘深，而以世間輕薄淺近之言，欲設嫉心，謗毀道根。如是之人，如折翅鳥，不能飛行。當知是輩，於未來世，永不能至人天善處矣。梵名劫簸，秦言分別時節。󰉈陁，秦翻為賢，以多賢人出世，故名賢劫也。此現在賢劫，共有千佛出世，今我釋迦，方是第四佛。餘有九百六佛，一一出而滅，可謂歲月彌之矣。今言千佛滅度已，而譏毀之報，尚在阿鼻大獄，受極重之罪，終無底止矣。興起行經云：世人所作行，或作善惡事，此行還歸身，終不朽敗亡。以謗法之人，極大罪業，墮三惡道，難可出離，可不慎哉！

△二、轉生惡道。

過是劫已，方受餓鬼；又經千劫，復受畜生；又經千劫，方得人身。縱受人身，貧窮下賤，諸根不具，多被惡業來結其心。不久之間，復墮惡道。

歷劫沉淪，永失生天之路；隨緣受報，竟無出苦之期。謗無法味，感報枵虗之餓鬼；不識正道，受形旁背之畜生。梵名闍黎哆，云餓鬼。此道徧在諸趣，以諂誑心意，作下品五逆十惡，感此道身。梵名底栗車，云畜生。此道亦遍諸處，以愚癡貪欲，作中品五逆十惡，感此道身。此二道中，經劫長遠，方始為人。言方言縱，亦非必定之辭，縱然得復人身，餘業猶然未盡。由昔斷滅法財，今感貧窮之報；因曩毀敬尊容，此招下賤之身；兼復諸根殘闕，以致九結纏心。從冥入冥，隨苦至苦。大乘論，堅意菩薩云：誹謗大乘法，決定墮惡道，焚燒甚苦痛，業報罪信爾。若從地獄出，復受餘惡報，諸根常缺陋，永不聞法音，設使得聞者，復生於謗法，以謗法因緣，還墮於地獄。噫！可不誡歟！

△二、結况。

是故普廣，譏毀他人供養，尚獲此報，何況別生惡見毀滅。

是故二字，緊承永墮阿鼻，彌劫經生而況出也。善人供養，惡輩譏毀，尚獲彌劫之殃，況別生惡見！如彌犁車毀滅佛法，其罪有甚於此矣。故寶雨經云：若誹謗者，是名愚人，墮於惡處，受諸苦惱，又為一切世間天、人、阿素洛等之所輕賤故。知誹謗之罪，實居眾罪之先。

△二、別示久病等益，五。初、久病惡相乃至五齋誦感報。初分三。初、示病中惡相。又二。初、示相。

復次，普廣！若未來世，有男子、女人，久處牀枕，求生求死，了不可得；或夜夢惡鬼，乃及家親，或遊險道；或多魘寐，共鬼神遊；日月歲深，轉復尫瘵，眠中叫苦，慘悽不樂者。

佛說毉經云：人身中，本有四病，一地、二水、三火、四風。智論云：四大為身，常相侵害。一一大中，百一病起。冷病有二百二，水、風起故；熱病有二百二，地、火起故。葢由四大難調，六腑更反，以有報身，忽嬰疚疾。今乃連年累月，枕臥牀蓆，不能起居，乃殺戮之餘殃，致病惱之久迫。求生而勢不能生，求死而事難即死。

夢惡鬼等，因病迫心，神思瞀亂，夜多惡夢，驚悸重增。唯識論明四夢：一、無明習氣，二、善惡先徵，三、四大偏增，四、巡遊舊識。今夢惡鬼，惡相先徵也。及見家親，巡遊舊識也。遊險道，則四大偏增。鬼神遊，乃無明習氣也。烏蘇慢，此云厭。眠內不祥，伏合人心。論衡曰：臥厭不寤，故曰魘寐。久寐不醒，鬼神共遊，綿歷歲深，形骸困劣。尫音汪，弱也，即瘠病之人；瘵音債，勞瘵，即五勞七傷之類。眠中叫苦等者，以身為苦器，陰是坯瓶，四大浮虗，互相乖反，稟形人世逢穢濁之時；受質偽身，居怖畏之境。幽冥無量鬼神，以及家親眷屬，依房依廟，附岳附丘，凡有含靈，竝皆祗響，致使神爽冥昧，識慮昏茫，至於寤寐多有恐怖。所以眠內不安，晨昏叫苦，心中煎迫，動靜慘悽，皆病中之苦相也。

△二、釋意。

此皆是業道論對，未定輕重，或難捨壽，或不得愈，男女俗眼，不辯是事。

此釋久病惡相，由業道之冤對耳。故佛告阿闍世王：一切諸法，皆為緣對。世人所為作，各自見其行。行善得善報，行惡得惡報。是故大王，當捨惡從善。今既業緣對至，將非性命無逃；但未定其罪之輕重，豈便判其人之死生。故應死者，或難即時捨壽。未應死者，尚爾淹滯難愈。恐是五音呪詛，或招三世冤优字彙補音尤，出道藏，魂繫陰司，災生陽世。人間俗陋之眼，焉能辯此業對之事哉。

△二、明修福脫罪，二。初、正示方軌；二、況顯利益。初分三。初、對像讀經。

但當對諸佛菩薩像前，高聲轉讀此經一徧。

夫人節宣不謹，感於寒熱等證，世醫藥餌，可能療治。今是惡業報病，須藉法力方祛。葢諸佛心者，慈悲為體，能作毉王，善療眾生身心之病。經是法藥，菩薩是瞻病之人。故須對像讀經。然祇轉一徧者，金丹一粒，點銕成金，至理一言，革凡成聖，何俟多轉乎。

△二、為病捨物。

或取病人可愛之物，或衣服寶貝莊園舍宅，對病人前，高聲唱言：我某甲等，為是病人，對經像前，捨諸等物。或供養經像，或造佛菩薩形像，或造塔寺，或然油燈，或施常住。

世人之病有二種：四大是身病，三毒是心病。身病可用藥，心病須修福。法句經云：人作善惡，殃福隨人；雖更生死，不可得免。故須經福以禳之。可愛物華美而貴重者，今割其愛，斷病之根也。衣服著以嚴身，寶貝蓄而致富，莊園供遊玩之觀，舍宅安子孫之所，竝我受用，不可闕少，此明所捨之物。對病人下，宣唱捨物。對病高唱者，令知代施功德，憶持在心不忘。經云：一切諸物悉皆分散，唯此願王，不相捨離。是也。梵語那莽，此云某甲。甲是天干之首，第一之數，不妨乙丙行列也。或供下，修福之法：供經像者，法是佛母，佛從法生，三世如來，皆供養法。像是世尊遺容，雖泥木塑刻，見者皆生佛想，與真無異，故供者得福。造佛菩薩形像者，準造像福報經：功德殊多，今略舉一二。經云：天下人民，能作佛形像者，世世所生之處，眼目淨潔，面貌端正，身體手足，常好柔軟。生於天上，亦復淨潔，諸天中勝，紫磨金色，端正無比。作菩薩像，功德亦爾。塔寺如前，襍寶藏經云：造立塔寺，命終生忉利天。然油燈者，施燈經：佛告舍利弗：有人於塔廟形像，奉施燈明，乃至以少燈炬，如此福德，唯佛能知。成佛一人，可愛物等，總施招提，供養眾僧。此言隨行一種，即感勝報，非事事要做也。

△三、脫罪知命。

如是三白病人，遣令聞知。假令諸識分散，至氣盡者。乃至一日、二日、三日、四日至七日已來，但高聲白，高聲讀經。是人命終之後，宿殃重罪，至於五無間罪，永得解脫，所受生處，常知宿命。

代病捨物，必三白令聞知者，欲令洞聞於心，深知我有如是功德也。假令者，謂藉斯施福，病去身安，何善如之。借使大限難逃，世緣永絕，當諸識分散，氣絕之時，亦應七日之中，高聲唱施讀經，其人必解脫重罪，而超昇矣。諸識分散者，處胎經云：爾時世尊將欲示現識所趣向：道識、俗識、有為識、無為識、有漏識、無漏識、華識、果識、報識、無報識、天識、龍識，乃至人非人識，上至二十八天識，下至無救地獄識文。此泛指也，若的就一人，應指八箇識神為諸識也。氣盡者，所謂風先火次，魂神去矣，身虗體冷，形骸蕭索也。

宗鏡問：諸根壞日，識遷離時，捨此故身，別受餘質，去來之識，相狀云何？答：顯識經云：佛告賢護，識之運轉，遷滅往來，猶如風大，無色無形，不可顯現，而能發動萬物，示眾形狀云云。是人下，明轉障託生。宿殃重罪，五無間罪，永得解脫。正顯施福殊勝，三寶功深。不惟脫罪受生，且能常知宿命。自然深知因果，罪福分明，從明入明，必階佛果已。

△二、況顯利益。

何況善男子、善女人，自書此經，或教人書，或自塑畵菩薩形像，廼至教人塑畵，所受果報，必獲大利。

況者，譬擬也。謂代其捨施，獲福尚爾，矧自行之，何可比擬。中邊分別論明大乘修行，有十：第一是書寫。涅槃云：於惡世中，書寫經卷，亦勸他人令得書寫，具足能解，盡其義味。塑畵形像，造像經云：作佛菩薩形像，其福無量，無窮盡時，不可稱數。如是四天下江河海水，尚可升量，作佛形像，其福其多，多四天下江河海水，過出十倍。後世所生，常護佛道，作佛形像，死後不復入於地獄、畜生、餓鬼諸惡道中。故所得果報，必獲大利也。

△三、結勸修功德。

是故普廣，若見有人讀誦是經，乃至一念讚歎是經，或恭敬者，汝須百千方便，勸是等人，勤心莫退，能得未來現在千萬億不可思議功德。

承上功德，故言是故。對經名讀，以未熟故；背本名誦，以文熟故。根有利鈍，時有久近耶。是經者，地藏經也。言是者，以全體即是，更無二故。今家六即顯是。以全心是經，經外無心；全經是心，心外無經。故曰：是經一念讚歎者。前以一念譏毀供養，尚獲彌劫之殃；一念讚歎是經，必感多生之福。恭敬讀誦者，獲福與讚歎同功。汝須下，佛勸誡普廣，應須以百千方便，勸是等讀誦讚歎恭敬者。如大方廣總持經云：佛滅度後，若有法師，善隨樂欲，為人說法，能令菩薩學大乘者，及諸大眾，有發一毛歡喜之心，乃至暫下一滴淚者，當知皆是佛之神力。以此證知其讀誦讚歎恭敬者，安知非佛神力，故須方便勸之。勤心莫退者，如堅意經，佛告阿難：其有好心善意之人，聞佛明法，一心而聽。能，一日可；不能一日，半日可；不能半日，一時可；不能一時，半時可；不能半時，須臾可。其福不可量、不可訾也。汝當廣為諸比丘僧、比丘尼、優婆塞、優婆夷、白衣人民說之，暫聽尚爾，況恭敬乎？況讚歎乎，況讀誦乎。故勸勤心莫退，能得不可思議功德於現未故也。

△二、夢寐見鬼，三。初、夢見惡境；二、勑遣讀經；三、存亡得益。初分三。初、示相。

復次，普廣！若未來世諸眾生等，或夢或寐，見諸鬼神，乃及諸形，或悲或啼，或愁或歎，或恐或怖。

此中之夢，與前夢不同。前是自身業對，此為遠屬陰纏，皆實夢也。孫真人云：凡夢皆緣，夢魂役物，其神至於軀體，不能流通，夜則魂夢虗爭，將吉以報吉，將凶以報凶。故東萊呂氏云：形接為事，神遇為夢。今乃形接而神遇，故有夢事也。周禮占六而夢，夢之吉、凶、平居、驚愕，思念覺時道之喜悅、恐懼之六夢也。寐者，昧也，目閟神藏也。莊子云：其寐也，魂交是矣。見諸鬼神，此係多生親屬，託夢現形，乃平居正夢也。諸形者，男女老少不同，人鬼面貌不一，悲啼等，即驚愕、恐懼之夢。準毉書，乃陰氣所乘，故見鬼神。肺氣盛，則夢哭泣、飛揚；心氣盛，則夢喜笑、恐畏。今是親屬致感，非關陰陽虗實。悲啼愁歎，親鬼乞憐之狀也。

△二、釋意。

此皆是一生、十生、百生、千生過去父母、男女、弟妹、夫妻眷屬，在於惡趣，未得出離；無處希望福力救拔，當告宿世骨肉，使作方便，願離惡道。

多生眷屬，故現諸形。未接生前，安能念及乎。父母男女，如前。弟，第也，相次第而上也。妹，昧也。猶日始入，歷時少，尚昧也。夫妻，匹敵之義也。士庶人曰妻，妻齊也。夫賤，不足以尊稱，故齊等言也。在於惡趣等，或沉地府，或墜鬼倫。經歷長途，出離寡助。既失望福救之處，乃遠告多世之親，此鬼神無聊之極思有求之苦境也。故知，為過去父母等作福，如餉遠人。然正法念經云：若為亡人修福行布施。生鬼道者，鬼容得福，以鬼知悔，前身慳貪，故為施時，彼則歡喜。若生餘道，多無得力。今此輩求作方便，願離惡道，恐是餓鬼之類耶。

△二、勑遣讀經。

普廣！汝以神力，遣是眷屬，令對諸佛菩薩像前，志心自讀此經，或請人讀，其數三徧，或七徧。

何故令普廣以神力遣眷屬讀經耶？以世間愚人識恩分者少，生前六親尚有不顧，況隔數世之親乎。即有念及者，既未識面，縱形夢寐，想不及此。故勑普廣以神力冥資，速令憶念，使恭對佛菩薩像前，或自讀經，或請人讀。其經數至三、七者何？皆陽數也。三乃天地人之數。自一而再重之，三才備矣。一之二，陽生陰也；二生三，陰陽參和也。三生萬物，生生無窮矣。七，少陽之數也。此亦二三變體，二得五成七，進得乎九，則為老陽。轉獄鬼於陰司，生人天之陽世，故唯取三、七之數，不取六、八者，以陰數坎陷，非超冥之道耳。

△三、存亡得益。

如是惡道眷屬，經聲畢是徧數，當得解脫。乃至夢寐之中永不復見。

解脫者，離惡道也。或生天上人間，或進三乘聖道，亡親既獲超昇，自不現形夢寐矣。

△三、下賤求悔，三。初、標能懺人。

復次，普廣！若未來世，有諸下賤等人，或奴或婢，乃至諸不自由之人，覺知宿業，要懺悔者。

下賤等，辯意經云：五事常生卑賤，為人奴婢。一、憍慢不敬二親，二、剛強無恪心，三、放逸不禮三尊，四、盜竊以為生業，五、負債逃避不償。然下賤對尊貴言奴婢。對大家言，各有不同。若以四方言之，北󳬂單越，無僕使之殊，故無貴賤。餘三方有貴賤，以有君臣民庶之別，大家僕使之殊，故有貴賤別類也。總束貴賤，合有六品：一、貴中之貴，謂輪王等；二、貴中之次，謂粟散王等；三、貴中之下，謂百僚等；四、賤中之賤，謂臺奴豎子等；五賤中之次，謂僕隸等；六賤中之下，謂姬妾等。麤束如是，細分難盡。諸不自由者，非下賤奴婢之流，乃皂隸門舘之類。月有請受，日藉資生。聞呼喚而來，仰其鼻息；聽發遣而去，承其聲光，身不自從，非丈夫矣。宿業者，佛告波斯匿王，凡人處世，尊卑貴賤，貧富苦樂，皆由宿行而致斯果。若世之愚頑無覺知者，抑豈甘之，且謂得之。若稍黠慧有覺知者，豈惟哀之，誠欲脫之。若欲離脫，必須懺摩，滌盪悔過𠍴尤。光明云：繫屬於他，常有怖畏，不得自在，而造諸惡。故須行懺悔也。梵語懺摩，此云悔過，華梵雙標也。輔行云：懺悔秪是三善業耳。

△二、釋所悔法。

志心瞻禮地藏菩薩形像，乃至一七日中，念菩薩名，可滿萬徧。

一七者，世數，極於七也。如一日念之不應，念之七日，必遂所求。故十輪經云：一日稱地藏，功德大名聞，勝俱胝劫中，稱餘智者德。能解諸眾生，一切煩惱縛，故須稱名。滿萬徧者，表祛萬惡，集萬善也。

△三、結轉報益。

如是等人，盡此報後，千萬生中，常生尊貴。更不經三惡道苦。

此正顯地藏大威神力。如佛告辯意：有五事，得為尊貴，眾人所敬。一、施惠普廣，二、禮敬三寶及眾長者，三、忍辱無有瞋恚，四、柔和謙下，五、博聞經戒。今七日稱名，豈止千萬生中尊貴，不經惡道，即佛果必可期也。

△四、新產獲福，二。初、舉種類新產。

復次，普廣！若未來世中，閻浮提內，剎利、婆羅門、長者、居士，一切人等及異姓種族，有斯產者，或男或女。

但舉南洲者，北洲產於樹下，亦無惡露苦惱。東西二洲，欲事既少，生育應稀。唯有南洲，女人多產多苦。以一切諸眾生母，欲生子時，身體遍痛，受大苦惱，數坐數起，不能自安。故特標閻浮人耳。剎利等人，雖貴賤不埒，生時善惡誰知？三十八箇七日滿足，必須胎產男女。此由宿業因緣，以隨陰陽變化，故周易八卦，乾陽為父，坤陰為母，生震坎艮之三男，巽離兌之三女，化生萬物也。準增一阿含，若當為女，於母左脇，倚脊向腹而住；若當為男，於母右脇，倚腹向脊而住。故知男女皆乘愛而生，以婬慾而正性命也。

△二、示經名利益，二。初、誦經念名。

七日之中，早與讀誦此不思議經典，更為念菩薩名，可滿萬徧。

何故早與讀經稱名耶？準護諸童子呪經：如來初成正覺，有一大梵天王來詣佛所，作禮說偈，言：有夜叉羅剎，常喜啗人胎，能令人無子，傷害於胞胎。男女交會時，使其意迷亂，懷妊不成就，及生時奪胎。皆是諸惡鬼，為其作嬈害，我今說彼名，願佛聽我說。第一名彌酬迦，乃至第十五名藍婆。此十五鬼神，常遊行世間為嬰孩小兒，作於恐怖，及說恐怖形相云云。今故早讀本願經，及與地藏名，則令善神擁衛門戶，惡鬼自遠遁矣。

△三、脫殃增壽。

是新生子，或男或女，宿有殃報，便得解脫，安樂易養，壽命增長。若是承福生者，轉增安樂及與壽命。

文分二節：初轉宿報。宿殃報者，準瑜伽論云：又於胎藏中，或由先業力故，或由母不避不平等力所生，隨順風故，令此胎藏，或髮、或毛、或皮、及餘支分，變異而生。今既誦經稱名，便令新生男女，宿殃之報，盡得解脫也。安樂易養者，胎藏極成滿時，其母不堪持此重胎，於第四日，內風便發，生大苦惱。又此胎藏，業報所發生分風起，令頭向下，足便向上，胎衣纏褁，而趣產門。其正出時，胎衣遂裂，分之兩腋，出產門時，名正生位。生後名觸，謂眼觸等。但生時有多種不同，或順生，或逆生，甚有一足先下，謂之踏蓮生，母腸同出，謂之盤腸生。此最險惡，命在須臾。今既誦經念名，則安然快樂，生養甚易。

壽命增長者，大梵復白佛言：此諸女等，欲求子息保命長壽者，常當繫念修行善法。於月八日、十五日，受持八戒，清淨洗浴，誦我所說陀羅尼呪者，所生童子，安隱無患，盡其形壽，命不中夭。今既誦經稱名，自不為惡鬼嬈害，故得壽命增長也。

若是下，增現福。承福生者，修行道地經云：人行不純，或善或惡，至三十八七日，在母腹中，隨其本行，自然風起。宿行善者，便有香風，可其身意，柔輭無瑕，正其骨節，令其端正。莫不愛敬。又母腹風起，或上或下，轉其兒身，而令倒懸，頭向產門。其有福者，時心念言：我投浴池，水中遊戲，如墮高牀華香之處也。惡者反是。今又早為誦經稱名，又承宿福而生，故應安樂者，轉增安樂；應壽命者，重增壽命矣。

△五、齋誦感報，二。初、標齋日之意。

復次，普廣！若未來世眾生，於月一日、八日、十四日、十五日、十八日、二十三、二十四、二十八、二十九日乃至三十日，是諸日等，諸罪結集，定其輕重。

世之持齋者，有三長齋、月六齋、十齋不同。今先定齋日之數。準文殊菩薩善惡宿曜經：每月一日，梵云鉢闍底下唐言梵王，是建名日。宜為善業，苦節修行布施等事，竝吉。八日、二十三日，是力戰日，婆娑善神下，宜力用之事。十四日、二十九日，是勇猛日，藥蒭神下。二十四日，是凶猛日，嚕達囉尼神下。二十八日，是最勝日，鉢折底神下唐云天魔神。十五日、三十日，是吉相日，必多盧神下唐云魂靈神，宜祭先亡，及布施供養父母、尊者、諸天，持齋戒施食，及諸祭祠吉。故取此十日為齋日也。但乃至二字，自古講者，皆云超略之辭。今日數已至二十九，而又超至三十日，譯師不通甚矣。非也。含蓄深意，人不知也。余考乃字古訓為難意，而用為語辭之難心之難，不可象也。故象口氣逶迤上出，難之又難也。其字，示人以意：今言一日至三十日，如是十日無間，至難至難也。若不信此解，若為通此二字乎？是諸下三句，明是日意。準佛祖統記，引提謂經，明三長齋。佛謂提謂長者曰：四時交代，歲終，三覆以校，一月六奏，諸天帝釋、太子、使者，閻羅鬼神，俱用正月、五月、九月、旦日，案行王、民、龍、鬼、鳥、獸，為善惡者。與四王，一月六奏，使無枉錯，覆校眾生罪福多少。福多者，勑司命下閻羅五官，除罪增祿。故使持是三長齋。

引四天王經，明六齋。帝釋勑四王，各治一方。白月八日，遣使者案察眾生善惡；十四日，遣太子；十五日，王親臨。黑月三日亦如是。若王親下，星宿鬼神俱時隨從。如遇修行齋戒，諸天相慶，即為注祿增算。

引十齋經，明十齋。每月十齋日，持佛菩薩號，乞福滅罪。於六齋日加月旦等四日，如本經。今國律，令諸州十直日，不得行刑，正據此義。又淨度三昧經云：八王日立春、春分、乃至立冬、冬至，諸天帝釋鎮臣三十二人、四鎮大王、司命、司祿、五羅大王、八王使者，盡出四布覆行。復值四王，十五日、三十日所奏，案校人民立行善惡。地獄王，亦遣輔臣小王，同時俱出，有罪即記。前齋八王日犯過，福強有救，安隱無他，用福原赦。到後齋日重犯，罪數多者，減壽條名，剋死歲月日時，關下地獄。地獄承文書，即遣獄鬼錄名，獄鬼無慈，死日未到，強催作惡，令命促盡。福多者，增壽益算，天遣善神，營護其身。移下地獄，拔除罪名。除死定生，後生天上。已上齋法，各出佛經，各宜遵奉，永處福堂，毋得故違，自取殃咎。故詳示於此。

△二、釋讀經之益，三。初、舉閻浮罪狀。

南閻浮提眾生，舉止動念，無不是業，無不是罪。何況恣情殺害、竊盜、邪婬、妄語，百千罪狀。

南洲之人，心識無定，況意根中，善、惡、無記三性，生成法則。但凡夫之人，起惡念時多。舉，即是動；止，即是靜，動靜之間，念起不一。安般經云：一彈指頃，心有九百六十轉。仁王經云，一念有九十剎那，一一剎那中，復有九百生滅。菩薩處胎經云：一彈指頃，有三十二億百千念，念念成形，形形有識。一念善，有無量善果報；一念惡，有無量惡果報。故云舉止動念，無不是業。但凡夫造業，凡動身口，皆由心使。若心不善，方能損物；若內有善，方能順福。雖復損益不同，然三業之本，以心為源。故動念成業，念善是福，念惡成罪，然檢點自心，於二六時中，大約罪多於福也。何況縱恣六情，任造三業耶！遺教經云：縱此心者，喪人善事。譬之駑馬，極力控制，尚難調伏。若縱其奔逸，損物無疑。殺害、竊盜、邪淫身三惡業，妄語該口四業，如前。百千罪狀，即一殺業，有上中下；乃至貪嗔癡，亦有上中下，細舉不勝。故總云百千。須知結罪由心，業有輕重，如嗔重則罪重，嗔輕則罪輕。成論云：或以事重，故有定報；或以心重，故有定報。如人以深厚纏毒，殺害蟲蟻，重於輕心殺人。若心無嗔，雖殺上境，乃至父母，亦不成逆。故知諸業，例有輕重，雖分輕重，然受報時，纖毫不爽，可恣任其情乎。

△二、示齋日讀經。

能於是十齋日，對佛、菩薩、諸賢聖像前，讀是經一遍。東西南北，百由旬內，無諸災難。當此居家，若長若幼，現在未來，百千歲中，永離惡趣。

六齋、十齋，增減不同。大論六十五云：六齋日，諸天來觀人心。十五日、三十日，上白諸天。又六齋日是惡日，令人凶衰，若有是日受八戒持齋布施聽法，是時諸天歡喜，小鬼不得其便，利益行者。故止觀取齋日建首，有以也。但持齋法，稍有不同。闡義引祭統云：齋之為言，齊也。齊不齊，以致齊者也。及其將齋也，防其邪物，訖其嗜欲，耳不聽樂。今釋氏以不過中食為齋，亦取其防邪訖欲，齊不齊之義也。故請觀音疏云：齋者，只是中道也。中後不得食者，表中道法界外，更無別法也。故若在釋門，緇素皆過午不食為齋。近世通行，白衣唯不茹葷飲酒為齋，故不同也。法句經云：祠祀種禍根，日夜長枝條，唐苦敗身本，法齋度世仙。故於六十齋期，應持齋布施，讀誦本願經耳。此正明讀經，下明利益。讀經中，初明方無災難。若有一人，果於齋日，每讀經一遍，則使四方百由旬境內，竝無災難。地反物為󱻘音幺，天反時為災，所謂蠲除󱻘災是也。次明家離惡趣。讀經秪一徧耳，何獲報之殊勝耶？正顯地藏不思議利益事也。然今非無讀經者，竟不獲報，何也？曰：此有二意，一、方內之人，及居家之屬，前生罪惡深重，則是定業難逃；二、誦經者，心或不同，志心者，誦經得力，故能轉宿殃；不志心者，誦力既淺，福不勝罪，故難轉也。

△三、釋現世福利。

能於十齋日，每轉一遍。現世令此居家，無諸橫病，衣食豐益。

橫病者，乃疫癘流行，福衰忽染，雖是惡鬼妄作禍福，即係自無善力所招。今既誦經，永絕橫病，衣食豐益，最是要事。光明云：依因衣食，諸結惱熱。藥師云：為衣食故，造諸惡業，今因齋日轉經，故感豐饒之報，不惟無業，亦且增福。即使貧無衣食者，亦致豐益之報矣。經之利益，可思議耶！說利益事竟。

△二、總結威神之力，二。初、正結地藏利益。

是故普廣，當知地藏菩薩，有如是等不可說百千萬億大威神力利益之事。

結如是等一句。顯上所明者，乃舉其槩耳，如地藏十輪及占察善惡二經，廣詳其事。

△二、別示閻浮有緣，二。初、略示有緣。

閻浮眾生，於此大士，有大因緣。

因緣，秪是感應異名。大者，皆欲令其開、示、悟、入佛之知見，大事因緣也。故大士金口親云：但於佛法中，所為善事，一毛一渧，一沙一塵，我漸度脫，使獲大利。大利者，即法華所謂無量珍寶，不求自得，即菩提涅槃也。如是大因緣，非始今日。於無量阿僧祇劫來，於閻浮提，隨機化物，種熟脫三。時時不廢。譬子墮水火，父母騷擾救之；子有疾病，父母心偏愛之。以南洲眾生，罪業偏重故也。故南洲眾生，亦獨於大士，信心不置。故上下貴賤，緇素男女，無一不從地藏菩薩，求其救拔水火，療治疾病，譬如磁石吸銕，應感同時，有大因緣，深可省悟。

△二、廣明聞益。

是諸眾生，聞菩薩名，見菩薩像，乃至聞是經三字五字，或一偈一句者，現在殊妙安樂，未來之世，百千萬生，常得端正，生尊貴家。

此言聞名見像者，明旋復之功也。原夫生佛同一覺體，覺海之性澄圓，圓澄之覺元妙，不覺無明風動，妄分見覺聞知。局於區宇，隔別成礙。於是見不超色，聞不出聲。今旋其妄聞，聞菩薩之名；旋其妄見，見菩薩之像。則令所聞之名，契入真空之境，名亦無名。所見之像，會同法性之身，像何可像？名無名，而真聞了了；像無像，而真見昭昭。如是，則隨拈經中或三箇字，當下破三惑，消三障，成三智，證三德，顯三身。或拈五箇字，隨處破五住，出五道，立五根，長五力，成五分也。一偈則一門超出，一句則一性圓明。如是二四六八，隨行增數。現在則獲殊妙安樂，念念與本願同流，心心共菩薩俱現。未來之世，常得相好，端嚴清正。在處恒生尊貴之家。如佛告波斯匿王云：仁慈謙順，敬長愛小，則為貴人。凶惡強梁，憍恣自大，則為賤人。又曰：三界輪轉，無有定品，積善仁和，生於豪尊，習惡放恣，便生卑賤。以此觀之，人不可作惡，應自修之。世尊說利益竟。

△二、普廣請經名，二。初、結顯請意。

爾時，普廣菩薩聞佛如來稱揚讚歎地藏菩薩已，胡跪合掌，復白佛言：世尊！我久知大士，有如此不可思議神力，及大誓願力，為未來眾生，遣知利益，故問如來。唯然頂受。

初、經家敘儀，次、陳所請意。胡跪者，音義指歸云：不合二胡跪。葢梵世遺種，居五竺間，葱嶺之北，諸戎羌□。今經律多翻互跪，以三處翹渠遙切聳，故名互跪，即右膝著地也。以右膝有力，跪能久，起止便故，著地令安。若女尼體弱，佛聽長跪也。言久知者，則普廣亦地藏一流人，自具有不思議神力，及大誓願力，故能知之。既知而又問者，正冀如來於大會宣揚，令未來眾生，知地藏菩薩利益如此，故問之耳。唯然，乃應答無疑之速辭。近指上文，遠則照映前文，汝等諸菩薩，當記是經，廣宣流布之語。然彼時定自在王，但承命流通，不請經名者，審知地藏神力之事未竟。一也。逆知普廣復有請詳利益之事，二也。故知主賓酬唱，更互發𫾻，譬之砧磓相扣，上下相應。故下唯然頂受之語。

△二、正請經名，二。初、請。

世尊！當何名此經，使我云何流布。

當何、云何，皆設疑之詞。自說經以來，讚歎地藏功德，除佛一人，無能及者。夫名之所以為名，召其實者也。今地藏實德既言不可思議，則不以名而名之矣。故云：當何名此經？名既不立，使我等又依何法門而流布耶！故云：使我云何流布？周禮：泉行曰布，言世間之錢，如泉水之流通而散布也。經之流布，亦如是耳。

△二、答，二。初、答經名。

佛告普廣：此經有三名：一名地藏本願，亦名地藏本行，亦名地藏本誓力經。

經名，如綸貫。又解本願者，心所欲得名願。視欲為深且專。願乎外，盡人欲也；惟天理，為性之欲，乃人本心，从原。教人反求其本，欲其可欲之善也。而从頁胡結切，何也？心求得之，俯首以停思。不，則貪也已矣，癡也已矣。此雖儒釋，然地藏之本願，亦豈外於是乎。無非欲人復還本元覺性，同歸祕藏。是大士本時之願也。

本行，即本昔之行。故吾約此，準妙玄本門十妙，以明本地十不思議，文義始暢。方顯中間近成種種不思議事，皆迹中之願行也。

本誓力者，梵語僧那，此云弘誓。一云僧那大誓，僧涅自誓。僧那言鎧，僧涅言著，名著大鎧，正言𦙽那訶，翻甲。𦙽蘇于切捺陀，翻被，翻衣，謂被甲衣甲。密部中明三十二甲云云。即大品大誓莊嚴也。梵名娑羅，此云力。陰持入經云：彼力，應以何為義？答：無能壞為力義，有所益為力義，有膽為力義，能得依為力義。今地藏自元初發心以來，不為天魔沮壞，一力也；在所利益眾生，二力也；有膽偏化地獄，三力也；能為六道得依，四力也；此地藏本時誓願之力，故名本誓力經。

△二、結流布。

緣此菩薩久遠劫來，發大重願，利益眾生。是故汝等，依願流布。

此顯地藏之名，亦從本願而立。因大願故，利益眾生。是故汝等亦應依其本願，而流布之。故集家單以本願立題，深有以也。

△二、普廣禮退。

普廣聞已。合掌恭敬，作禮而退。

恭敬二字，每見講家置論，使後生末學，不知何所取義乎，今略明制字之原，以見心學之在是也。古恭字，敬德之容。手容主恭，故指兩手交為義。人之平居，散其手，其心放，貌以之惰。斂其手，其心必收；貌以之莊，內外合者也。俗書，不知即此是心。復加以心作恭，是謂心有內外也古敬字，主一也。古人聚精會神之學。貌而敬者，彊捉於外。其中竊發，將不能自持。口云敬者，其行必惰，空言胡能勝實惡！若何而致力耶？曰：勿忘，勿助長也。从󴕌己力切，音急，行之亟也者，教之以勿忘也。緩則無功，裁覺昏沉，速自喚醒。裁覺散亂，速自絕斷。久者，教之以勿助長也。急則拘迫，胸中有物礙之，血氣弗舒，何以能久！心，吾形之主也。敬者非它，吾心自為主也，何待別借一心，來治此心。雖畏勿畏，雖休勿休，綿綿若存，天德周流，心常活而毋死。悚為起敬，戒為持敬，畏為克敬，肅為嚴敬，穆為玄敬，欽為聖敬。一敬德之生，孰淺深也。茲惟聖學囦原，觀古人之心畵，則知其心學矣，何可為文字之學，障性靈，塞悟門，竟不一究心焉。那知字學，誠能豁性靈，開悟門，故略示之，毋謂余好搜冥索隱而衒奇也。

## 地藏菩薩本願經卷中科注卷之三