天台止觀有四本:一曰《圓頓止觀》,大師於荊州玉泉寺說,章安記為十卷;二曰漸次止觀,在瓦官寺說,弟子法慎記,本三十卷,章安治定為十卷,今《禪波羅蜜》是;三曰不定止觀。即陳尚書令毛喜請大師出,有一卷,今《六妙門》是;四曰小止觀,即今文是,大師為俗兄陳鍼出,寔大部之梗概,入道之樞機,曰止觀、曰定慧、曰寂照、曰明靜,皆同出而異名也。若夫窮萬法之源底,考諸佛之修證,莫若止觀。天台大師靈山親承,承止觀也;大蘇妙悟,悟止觀也;三昧所修,修止觀也;縱辯而說,說止觀也。故曰說己心中所行法門。則知台教宗部雖繁,要歸不出止觀。舍止觀不足以明天台道,不足以議天台教,故入道者不可不學,學者不可不修。奈何叔世寡薄馳走聲利,或膠固於名相,或混肴於闇證,其書雖存,而止觀之道蔑聞於世,得不為之痛心疾首哉。今以此書命工鏤板,將使聞者見者皆植大乘緣種,況有修有證者,則其利尚可量耶!予因對校乃為敘云。時紹聖二年仲秋朔,餘杭郡釋元照序。
天台止観には四つの版本があります。第一は『円頓止観』で、大師が荊州の玉泉寺で説かれ、章安が記録して十巻としました。第二は漸次止観で、瓦官寺で説かれ、弟子の法慎が記録しました。原本は三十巻ありましたが、章安が整理して十巻とし、現在の『禅波羅蜜』がこれにあたります。第三は不定止観で、陳の尚書令・毛喜が大師に請うてまとめられた一巻であり、現在の『六妙門』がこれです。第四は小止観で、すなわちこの文書のことです。大師が俗家の兄である陳鍼のために説かれたもので、大部の概要を収め、悟りへの道の要とも言えます。「止観」と呼ばれようと、「定慧」「寂照」「明静」と呼ばれようと、すべて同じものを異なる名前で表しているにすぎません。
万物の根源を極め、諸仏の修行と悟りを究めるには、止観に勝るものはありません。天台大師は霊鷲山で直接仏陀から受け継がれましたが、それが止観です。大蘇山で妙なる悟りを開かれましたが、それも止観によってです。三昧を修められたのも、止観を修められたのです。縦横に弁じて説かれたのも、止観を説かれたのです。ゆえに「自らの心の中で行じている法門を説いた」と言われるのです。これにより、天台教学の宗派は多岐にわたるものの、その要点はすべて止観に帰することがわかります。止観を離れては天台の道を明らかにすることも、天台の教えを論じることもできません。したがって、悟りを求める者は学ばざるを得ず、学ぶ者は修めざるを得ないのです。
嘆かわしいことには、末法の世にあっては人々は浅はかで、名声や利益に奔走し、あるいは名相に固執し、あるいは暗証を混同しています。その書物は存在するものの、止観の道が世に知られなくなってしまったのは、痛恨の極みと言わねばなりません。今、この書を木版に彫らせ、聞く者、見る者すべてが大乗の縁の種を植えることができるようにしました。ましてや、これを修め、証する者がいれば、その利益は計り知れるでしょうか。
私は校合のため、この序文を記します。時は紹聖二年八月朔日、余杭郡の沙門元照が序す。
修習止觀坐禪法要(一曰童蒙止觀,亦名小止觀)
『修習止観坐禅法要』(童蒙止観、亦名小止観)
天台山修禪寺沙門智顗述
天台山修禅寺沙門智顗 述
諸惡莫作,眾善奉行,自淨其意,是諸佛教。
悪いことをせず、善い行いを積み、自らの心を清らかにする——これがすべての仏の教えです。
若夫泥洹之法,入乃多途。論其急要,不出止觀二法。所以然者,止乃伏結之初門,觀是斷惑之正要;止則愛養心識之善資,觀則策發神解之妙術;止是禪定之勝因,觀是智慧之由藉。若人成就定慧二法,斯乃自利利人,法皆具足。故《法華經》云:「佛自住大乘,如其所得法,定慧力莊嚴,以此度眾生。」當知此之二法,如車之雙輪,鳥之兩翼;若偏修習,即墮邪倒。故經云:「若偏修禪定福德,不學智慧,名之曰愚。偏學智慧,不修禪定福德,名之曰狂。」狂愚之過,雖小不同,邪見輪轉,蓋無差別;若不均等,此則行乖圓備,何能疾登極果?故經云:「聲聞之人,定力多故,不見佛性。十住菩薩,智慧力多,雖見佛性,而不明了。諸佛如來,定慧力等,是故了了見於佛性。」以此推之,止觀豈非泥洹大果之要門,行人修行之勝路,眾德圓滿之指歸,無上極果之正體也!
さて、涅槃に至る道には多くの入り口があるが、その中でも最も重要で欠かせないものは、この「止」と「観」の二つの修行法をおいて他にない。なぜなら、「止」は心の煩悩を鎮める最初の門であり、「観」は迷いを断ち切るための最も大切な方法だからである。「止」は心と精神を育み、愛する心を養う善い助けとなり、「観」は神のような悟りを開く妙なる術を導き出す。「止」は禅定を得るためのすぐれた因であり、「観」は智慧(プラジュニャー)を得るための基盤である。
もし人がこの「定」と「慧」の二つの法を成就すれば、それは自らを利し、他者をも利するものであり、全ての教えが完全に備わることとなる。ゆえに『法華経』にはこうある。「仏は自ら大乗の教えに安住し、その得たる法の如く、定と慧の力をもって自らを荘厳し、これをもって衆生を救い導く」。この二つの法は、ちょうど車の両輪、鳥の両翼のようなものである。もし一方に偏って修行すれば、たちまち邪な見解に陥ってしまう。ゆえに経典にはこうある。「もし禅定や福徳の修行に偏り、智慧を学ばなければ、これを『愚か』という。逆に智慧ばかりを学び、禅定や福徳を修めなければ、これを『狂っている』という」。狂いと愚かさの過ちは、その形は少し異なっていても、誤った見解に輪廻し続けるという点では、実は何の違いもない。もしこの二つを均等に修行しなければ、その行いは円満な完成から遠ざかり、どうして速やかに最高の悟りの果報に至ることができようか。
ゆえに経典にはこうある。「声聞(しょうもん)の者は、定の力が強いために仏性を見ることができない。十住の菩薩は、智慧の力が強いために、仏性を見ることはできても、はっきりとは見極められない。しかし、諸仏如来は定と慧の力が等しいがゆえに、仏性を明らかに見通すことができるのだ」。このことから考えれば、「止」と「観」こそが、涅槃という偉大な果報を得るための重要な門であり、修行者が歩むべき最上の道であり、あらゆる徳が円満に成就する究極の帰着点であり、この上ない悟りの真髄そのものであることがわかるのである。
若如是知者,止觀法門實非淺,故欲接引始學之流輩,開矇冥而進道,說易行難,豈可廣論深妙!今略明十意,以示初心行人,登正道之階梯,入泥洹之等級;尋者當愧為行之難成,毋鄙斯文之淺近也。若心稱言旨,於一眴間,則智斷難量,神解莫測;若虛搆文言,情乖所說,空延歲月,取證無由;事等貧人數他財寶,於己何益者哉!
このように知るならば、止観の法門は決して浅いものではありません。ですから、学び始めた人々を導き、迷いを開いて道へ進ませたいと願い、易しく説いて行い難いことを述べるのです。どうして深遠で微妙なことを広く論じることができましょうか。ここでは簡潔に十の意味を明らかにして、初心の修行者に正しい道への階段と、涅槃に入る段階を示します。尋ねる人は、行いを成し遂げることの難しさを恥じるべきであり、この文の浅近さを軽んじてはなりません。もし心が言葉の趣旨と一致するならば、一瞬のうちに智慧と断ち切る力は測り知れず、神妙な理解は推し量れません。もし虚しく言葉を飾り、心が説かれたことと食い違うならば、空しく歳月を延ばすだけで、証りを得る方法はありません。それは貧しい人が他人の財宝を数えるようなもので、自分にとって何の益があるでしょうか。
具緣第一 訶欲第二 棄蓋第三調和第四 方便第五 正修第六善發第七 覺魔第八 治病第九證果第十
今略舉此十意,以明修止觀者,此是初心學坐之急要。若能善取其意而修習之,可以安心免難,發定生解,證於無漏之聖果也。
具緣第一
夫發心起行,欲修止觀者,要先外具五緣:
第一、持戒清淨。如經中說:「依因此戒,得生諸禪定,及滅苦智慧。」是故比丘應持戒清淨。然有三種行人持戒不同:
一者、若人未作佛弟子時,不造五逆;後遇良師,教受三歸五戒,為佛弟子。若得出家,受沙彌十戒,次受具足戒,作比丘、比丘尼。從受戒來,清淨護持,無所毀犯;是名上品持戒人也。當知是人修行止觀,必證佛法;猶如淨衣,易受染色。
二者、若人受得戒已,雖不犯重,於諸輕戒,多所毀損。為修定故,即能如法懺悔,亦名持戒清淨,能生定慧。如衣曾有垢膩,若能浣淨,染亦可著。
三者、若人受得戒已,不能堅心護持,輕重諸戒多所毀犯。依小乘教門,即無懺悔四重之法;若依大乘教門,猶可滅除。故經云:「佛法有二種健人:一者、不作諸惡,二者、作已能悔。」
夫欲懺悔者,須具十法,助成其懺:一者、明信因果;二者、生重怖畏;三者、深起慚愧;四者、求滅罪方法;所謂大乘經中,明諸行法,應當如法修行;五者、發露先罪;六者、斷相續心;七者、起護法心;八者、發大誓願,度脫眾生;九者、常念十方諸佛;十者、觀罪性無生。
若能成就如此十法,莊嚴道場,洗浣清淨,著淨潔衣,燒香散花,於三寶前,如法修行,一七、三七日,或一月、三月,乃至經年,專心懺悔所犯重罪,取滅方止。云何知重罪滅相?若行者如是至心懺悔時,自覺身心輕利,得好瑞夢;或復覩諸靈瑞異相;或覺善心開發;或自於坐中覺身如雲如影,因是漸證,得諸禪境界;或復豁然解悟心生,善識法相,隨所聞經,即知義趣,因是法喜,心無憂悔。如是等種種因緣,當知即是破戒障道罪滅之相。從是已後,堅持禁戒,亦名尸羅清淨,可修禪定,猶如破壞垢膩之衣,若能補治浣洗清淨,猶可染著。
若人犯重禁已,恐障禪定,雖不依諸經修諸行法,但生重慚愧,於三寶前,發露先罪,斷相續心,端身常坐,觀罪性空,念十方佛。若出禪時,即須至心燒香禮拜,懺悔誦戒,及誦大乘經典,障道重罪,自當漸漸消滅。因此尸羅清淨,禪定開發。故《妙勝定經》云:「若人犯重罪已,心生怖畏,欲求除滅,若除禪定,餘無能滅。」是人應當在空閑處,攝心常坐,及誦大乘經,一切重罪悉皆消滅。諸禪三昧自然現前。
第二、衣食具足者:衣法有三種:一者、如雪山大士,隨得一衣,蔽形即足;以不遊人間,堪忍力成故。二者、如迦葉常受頭陀法,但畜糞掃三衣,不畜餘長。三者、若多寒國土,及忍力未成之者,如來亦許三衣之外,畜百一等物,而要須說淨,知量知足;若過貪求積聚,則心亂妨道。
次,食法有四種:一者、若上人大士,深山絕世,草果隨時,得資身者。二者、常行頭陀,受乞食法。是乞食法,能破四種邪命,依正命自活,能生聖道故。邪命自活者:一、下口食,二、仰口食,三、維口食,四、方口食。邪命之相,如舍利弗為青目女說。三者、阿蘭若處檀越送食。四者、於僧中結淨食。有此等食緣具足,名衣食具足。何以故?無此等緣,則心不安隱,於道有妨。
第三、得閑居靜處。閑者,不作眾事,名之為閑。無憒鬧故,名之為靜。有三處可修禪定:一者、深山絕人之處。二者、頭陀蘭若之處;離于聚落極近三四里,此則放牧聲絕,無諸憒鬧。三者、遠白衣住處,清淨伽藍中。皆名閑居靜處。
第四、息諸緣務。有四意:一、息治生緣務,不作有為事業。二、息人間緣務,不追尋俗人朋友親戚知識,斷絕人事往還。三、息工巧技術緣務,不作世間工匠技術、醫方禁呪卜相書數算計等事。四、息學問緣務,讀誦聽學等悉皆棄捨。此為息諸緣務。所以者何?若多緣務,則行道事癈,心亂難攝。
第五、近善知識。善知識有三:一、外護善知識,經營供養,善能將護行人,不相惱亂。二者、同行善知識,共修一道,互相勸發,不相擾亂。三者、教授善知識,以內外方便禪定法門,示教利喜。
略明五種緣務竟。