正修行第六
正修行 第六
修止觀者,有二種:一者、於坐中修,二者、歷緣對境修。
止観(しがん)を修行する者には、二つの方法があります。第一に、座って修すること。第二に、様々な縁や境(状況や対象)に臨んで修することです。
一、於坐中修止觀者,於四威儀中,亦乃皆得;然學道者坐為勝,故先約坐以明止觀。略出五意不同:
第一に、座って止観を修行する場合、四つの威儀(行・住・座・臥)のいずれにおいても修められます。しかし、仏道を学ぶ者にとっては座ることが最も勝れているため、まず座ることについて止観を明かします。大まかに五つの異なる意味を挙げます。
一、對治初心麁亂修止觀,所謂:行者初坐禪時,心麁亂故,應當修止以除破之。止若不破,即應修觀。故云對破初心麁亂修止觀。
**一、初心者の粗い心の乱れを対治するための止観の修行**
修行者が初めて坐禅をする時、心が粗く乱れているため、まずは「止」(心を静める修行)を行って、その乱れを除き破るべきです。もし「止」で破れなければ、次に「観」(物事をありのままに見る智慧の修行)を行うべきです。そのため、「初心者の粗い心の乱れを対治するための止観の修行」と言われています。
今明修止觀有二意:
ここで、止と観の修行について、二つの大切な意味があります。
一者、修止,自有三種:一者、繫緣守境止,所謂繫心鼻端臍間等處,令心不散故。經云:「繫心不放逸。亦如猿著鎖。」二者、制心止,所謂隨心所起即便制之,不令馳散。故經云:「此五根者,心為其主;是故汝等,當好制心。」此二種皆是事相,不須分別。三者、體真止,所謂隨心所念一切諸法,悉知從因緣生,無有自性,則心不取。若心不取,則妄念心息,故名為止。如經中說云:
一つに、「止」を修することには、自ずから三つの種類がある。 一つ目は、「繫縁守境止(けいえんしゅきょうし)」である。これは、心を鼻先や臍のあたりなどに集中させ、心を散らさないようにするものである。経典にはこうある。「心を繫ぎ止めて放逸にせず、まるで猿が鎖につながれているかのようにせよ。」 二つ目は、「制心止(せいしんし)」である。これは、心に浮かぶ思いが起こるたびに、それを抑え、散り散りにならないようにするものである。経典にはこうある。「この五根(ごこん)は、心をその主とする。それゆえ、あなたがたは心をうまく制御せよ。」この二つはいずれも事柄の表面に過ぎず、わざわざ区別する必要はない。 三つ目は、「体真止(たいしんし)」である。これは、心に思うあらゆる現象は、すべて因縁(さまざまな原因と条件)から生じたものであり、独立した本性(本質)はないと知り、それによって心が執着しなくなることである。心が執着しなければ、妄念(迷いの思い)は静まり、これを「止」と名付ける。経典にこう説かれている。
「一切諸法中, 因緣空無主。
息心達本源, 故號為沙門。」
一切の存在は、因と縁によって成り立っていて、空であり、永遠の主はありません。心の働きを静めて宇宙の本質を悟る者こそ、沙門(修行者)と呼ばれるのです。
行者於初坐禪時,隨心所念一切諸法,念念不住,雖用如上體真止,而妄念不息,當反觀所起之心,過去已滅,現在不住,未來未至,三際窮之,了不可得。不可得法,則無有心。若無有心,則一切法皆無。行者雖觀心不住,皆無所有,而非無剎那任運覺知念起。又,觀此心念,以內有六根、外有六塵,根塵相對,故有識生;根塵未對,識本無生。觀生如是,觀滅亦然,生滅名字,但是假立。生滅心滅,寂滅現前,了無所得,是所謂涅槃空寂之理;其心自止。《起信論》云:「若心馳散,即當攝來住於正念。是正念者,當知唯心,無外境界。即復此心亦無自相,念念不可得。」謂初心修學,未便得住;抑之令住,往往發狂。如學射法,久習方中矣。
修行者が最初に坐禅をする時、心に浮かぶあらゆる思いや現象は、刹那ごとに留まることがない。先ほどの「体真止」という方法を用いても、妄想の念は尽きることがない。そのような時は、心に生じた念を観察し直すべきである。過去の念はすでに消え去り、現在の念も留まらず、未来の念はまだ来ていない。この三つの時点を徹底的に追求しても、結局それをつかまえることはできない。つかまえられないものには、心という実体はない。もし心という実体がなければ、すべての現象もまた実体がないのである。
しかし、修行者は心が留まらず、すべて実体がないと観じても、刹那のうちに自然と働く心の気づきや念の発生がまったくないわけではない。さらに、この心の念を観察すると、内には六根(感覚器官)があり、外には六塵(感覚の対象)がある。根と塵が相対するからこそ認識(識)が生まれるのであり、根と塵が相対していなければ、認識はもともと生じないのである。このように生じることを観じ、消滅することも同様に観じるならば、「生じる」「消える」という言葉も、ただ仮に立てられたものにすぎないとわかる。生滅の心が消えれば、静かな悟りの境地が現前し、つかまえるものは何もない。これが涅槃の空であり、静けさの真理である。その時、心は自然に止まるのである。
『大乗起信論』にはこうある。「もし心が散り乱れたなら、すぐにそれを引き戻して正念にとどめよ。この正念とは、すべてが心のみによって現れ、外に実在の対象はないと知ることである。さらに、その心自体にも固有の形はなく、瞬間瞬間の念もとらえられないのである。」
初心者が修行を学ぶ時、すぐに心を静めることはできない。無理に押さえつけて止めようとすれば、しばしば混乱を引き起こすことがある。弓を射る技術を学ぶようなもので、長く練習して初めてうまくいくのである。
二者、修觀,有二種:一者、對治觀:如不淨觀對治貪欲,慈心觀對治瞋恚,界分別觀對治著我,數息觀對治多尋思等,此不分別也。二者、正觀:觀諸法無相,並是因緣所生;因緣無性,即是實相。先了所觀之境一切皆空,能觀之心自然不起。前後之文,多談此理,請自詳之。如經偈中說:
第二に、観想の修習には二種類ある。一つは、対治法としての観想である。例えば、不浄観は貪欲を対治し、慈心観は瞋恚を対治し、界分別観は自己への執着を対治し、数息観は様々な妄想を対治するなどである。これらは分別を伴うものである。二つ目は、正しい観想である。すなわち、すべての法は実体がなく、因縁によって生じたものであると観じる。因縁によって生じたものには本質がないゆえ、それがそのまま真実の姿である。まず観察の対象である世界がすべて空であると理解すれば、観察する心も自然に生じなくなる。経典の前後の文には、この道理が多く説かれている。どうか自らよく吟味されたい。経典の偈頌にはこうある。
「諸法不牢固, 常在於念中;
已解見空者, 一切無想念。」
この世のすべてのものは、けして不変でなく、 つねに私たちの心の働きのうちにある。 すでに「空」の真理を悟り、見極めた人は、 すべてのものにとらわれることがないのだ。
二、對治心沈浮病修止觀。行者於坐禪時,其心闇塞,無記瞪瞢,或時多睡,爾時應當修觀照了。若於坐中其心浮動,輕躁不安,爾時應當修止止之。是則略說對治心沈浮病修止觀相。但須善識藥病相對用之,一一不得於對治有乖僻之失。
二、心が沈んだり浮いたりする病を対治するための止観の修行。修行者が座禅をしているとき、心が暗く塞がり、意識がぼんやりとして澄み切らず、あるいは眠気に襲われることがあります。そのような時には、観(観察・明察)を修して、はっきりと見通すべきです。また、座っているときに心が浮ついて落ち着かず、ざわざわと不安定になることがあります。そのような時には、止(心を静めること)を修して、それを鎮めるべきです。これが、心の沈みや浮きの病を対治するための止観の修行の概略です。ただし、薬と病の関係を正しく見極め、それぞれに応じて適切に用いなければなりません。その対治において、誤った使い方をしてはならないのです。
三、隨便宜修止觀。行者於坐禪時,雖為對治心沈故,修於觀照,而心不明淨,亦無法利,爾時當試修止止之。若於止時,即覺身心安靜,當知宜止,即應用止安心。若於坐禪時,雖為對治心浮動故修止,而心不住,亦無法利,當試修觀。若於觀中,即覺心神明淨,寂然安隱,當知宜觀,即當用觀安心。是則略說隨便宜修止觀相。但須善約便宜修之,則心神安隱,煩惱患息,證諸法門也。
三、状況に応じた止観の修行。修行者が座禅をしているとき、心の沈みを対治するために観照を修めても、心が明らかに清まらず、また法の利益も得られない場合は、その時に止を修めてみるべきである。もし止を修めたときに、身も心も安らかで静かだと感じるならば、止が適していると知るべきであり、すなわち止を用いて心を安らかにするのである。もし座禅をしているときに、心の動きを対治するために止を修めても、心が落ち着かず、また法の利益も得られないならば、観を修めてみるべきである。もし観の中で、心の神が明らかに清まり、静かで安らかだと感じるならば、観が適していると知るべきであり、すなわち観を用いて心を安らかにするのである。これが状況に応じた止観の修行の相を簡略に述べたものである。ただ、巧みに状況に応じて修めるならば、心の神は安らかで、煩悩の苦しみは消え去り、諸々の法門を証得するのである。
四、對治定中細心修止觀。所謂行者先用止觀對破麁亂,亂心既息,即得入定。定心細故,覺身空寂,受於快樂,或利便心發,能以細心取於偏邪之理。若不知定心止息虛誑,必生貪著,若生貪著,執以為實;若知虛誑不實,即愛見二煩惱不起,是為修止。雖復修止,若心猶著愛見,結業不息,爾時應當修觀,觀於定中細心。若不見定中細心,即不執著定見。若不執著定見,則愛見煩惱業悉皆摧滅,是名修觀。此則略說對治定中細心修止觀相。分別止觀方法,並同於前,但以破定見微細之失為異也。
五、為均齊定慧修止觀。行者於坐禪中,因修止故,或因修觀,而入禪定。雖得入定,而無觀慧,是為癡定,不能斷結。或觀慧微少,即不能發起真慧,斷諸結使,發諸法門。爾時應當修觀破析,則定慧均等,能斷結使,證諸法門。行者於坐禪時,因修觀故,而心豁然開悟,智慧分明,而定心微少,心則動散,如風中燈,照物不了,不能出離生死,爾時應當復修於止。以修止故,則得定心,如密室中燈,則能破暗,照物分明。是則略說均齊定慧二法修止觀也。行者若能如是於端身正坐之中,善用此五番修止觀意,取捨不失其宜,當知是人善修佛法;能善修故,必於一生不空過也。
五、定慧を均しくするために止観を修する。行者が坐禅の中で、止を修するゆえに、あるいは観を修するゆえに、禅定に入ることがある。定に入ることができても、観慧がなければ、これは痴定であり、煩悩の結びを断ち切ることはできない。あるいは観慧がわずかであれば、真の智慧を発起することができず、諸々の結使を断ち、諸々の法門を現すことができない。その時には観を修して分析し破るべきである。そうすれば定慧は均等になり、結使を断ち、諸々の法門を証することができる。行者が坐禅の時に、観を修するゆえに、心が豁然として開悟し、智慧は明らかになるが、定心が乏しく、心は動揺し散乱する。それは風の中の灯りのようなもので、物を照らし出してもはっきりしない。生死を出離することはできない。その時には再び止を修すべきである。止を修するゆえに、定心を得ることができる。それは密室内の灯りのようなもので、闇を破り、物を照らし出して明らかにするのである。これが定慧の二法を均しくして止観を修することを略説したものである。行者がこのように端身正坐の中で、この五番の止観を修する意をうまく用い、取捨の際にその適切さを失わなければ、この人は仏法をよく修めていると知るべきである。よく修めるゆえに、必ず一生を空しく過ごすことはないのである。
復次,第二、明歷緣對境修止觀者。端身常坐,乃為入道之勝要;而有累之身,必涉事緣。若隨緣對境而不修習止觀,是則修心有間絕,結業觸處而起,豈得疾與佛法相應?若於一切時中,常修定慧方便,當知是人必能通達一切佛法。
次に第二に、縁に歴(ふ)れ境に対(のぞ)んで止観を修することを明らかにする。身体を端(ただ)しくして常に坐ることは、道に入るためのすぐれた要法である。しかし、煩わしい報いを持つこの身は、必ず様々な事柄や縁に携わらざるを得ない。もし縁に従い境に向かって止観を修習しなければ、これは心の修養に途切れが生じ、煩悩や業が触れるところに起こってくる。どうしてすみやかに仏法と相応することができようか。もしあらゆる時の中で、常に定と慧の方便を修するならば、この人は必ず一切の仏法を通達することができると知るべきである。
云何名歷緣修止觀?所言緣者,謂六種緣:一、行,二、住,三、坐,四、臥,五、作作(下祖臥切),六、言語。云何名對境修止觀?所言境者,謂六塵境:一、眼對色,二、耳對聲,三、鼻對香,四、舌對味,五、身對觸,六、意對法。行者約此十二事中修止觀故,名為歷緣對境修止觀也。
ここでいう「縁に歴(わた)って止観を修する」とは、どのようなことを指すのでしょうか。ここでいう「縁」とは、六つの縁を指します。一つ目は行くこと、二つ目は立つこと、三つ目は座ること、四つ目は卧(ふ)すこと、五つ目は何かを作業すること、六つ目は言葉を話すことです。また、「境に対して止観を修する」とは、どのようなことを指すのでしょうか。ここでいう「境」とは、六つの境、すなわち六塵(ろくじん)の境を指します。一つ目は眼が色に対して、二つ目は耳が声に対して、三つ目は鼻が香りに対して、四つ目は舌が味に対して、五つ目は身が触れるものに対して、六つ目は意が法に対してです。修行者は、この十二の事柄において止観を修するからこそ、「縁に歴って境に対して止観を修する」と呼ぶのです。
一、行者。若於行時,應作是念:「我今為何等事欲行?為煩惱所使,及不善無記事行,即不應行。若非煩惱所使,為善利益如法事,即應行。」云何行中修止?若於行時,即知:因於行故,則有一切煩惱善惡等法,了知行心及行中一切法,皆不可得,則妄念心息,是名修止。云何行中修觀?應作是念:「由心動身,故有進趣,名之為行。因此行故,則有一切煩惱善惡等法。」即當反觀行心,不見相貌。當知行者及行中一切法,畢竟空寂,是名修觀。
一、歩行している時、行者はこのように心に思うべきです。「私は今、何のために歩こうとしているのか。もし煩悩に動かされており、善でもなく有益でもない事柄のためなら、歩くべきではない。もし煩悩に動かされているのではなく、善く有益で正しい事柄のためなら、歩いてよい。」では、歩行中にどのように「止」を修するのか。歩いている時、そのまま知るのです。歩行ということがあるからこそ、あらゆる煩悩や善悪の法が存在するのだと。歩行する心も、歩行の中のあらゆる法も、すべて実体として捉えられないと理解すれば、妄想の心は自然と静まり、これを「止」の修習と呼びます。では、歩行中にどのように「観」を修するのか。このように心に思うべきです。「心が身体を動かすことによって進み行くことがあり、それを歩行と呼ぶ。この歩行があるからこそ、あらゆる煩悩や善悪の法が生じるのだ。」そして、歩行する心を内省すると、その姿や形は見えません。歩く者も、歩行の中のあらゆる法も、究極的には空しく静かであると知るべきです。これを「観」の修習と呼びます。
二、住者。若於住時,應作是念:「我今為何等事欲住?若為諸煩惱及不善無記事住,即不應住。若為善利益事,即應住。」云何住中修止?若於住時,即知:因於住故,則有一切煩惱善惡等法,了知住心及住中一切法,皆不可得,則妄念心息,是名修止。云何住中修觀?應作是念:「由心駐身,故名為住。因此住故,則有一切煩惱善惡等法。」則當反觀住心,不見相貌。當知住者及住中一切法,畢竟空寂,是名修觀。
二、「立っている時」について。もし立っている時に、このように心にとどめるべきです。「私は今、何のために立とうとしているのか。もし煩悩や善ではない無駄な事柄のために立とうとするならば、立つべきではない。もし善い利益のある事柄のためならば、立つべきである」と。
どのように立っている時に「止」を修行するのか。もし立っている時に、そのまま知るべきです。立ち止まることによって、あらゆる煩悩や善悪の法があることを。そして、立っている心も、立っている中にあるすべての法も、すべて実体として得るものはないと理解すれば、迷いの心は自然に静まります。これを「止」の修行と呼びます。
どのように立っている時に「観」を修行するのか。このように心にとどめるべきです。「心が身体をとどまらせることによって、『立つ』と名づける。この立つことによって、あらゆる煩悩や善悪の法が生じる」と。そして、その立っている心を反対に観察すれば、その姿や形を見ることはできません。立つ者も、立つ中にあるすべての法も、結局は空しく静かであると知るべきです。これを「観」の修行と呼びます。
三、坐者。若於坐時,應作是念:「我今為何等事欲坐?若為諸煩惱及不善無記事等,即不應坐。為善利益事,則應坐。」云何坐中修止?若於坐時,則當了知因於坐故,則有一切煩惱善惡等法,而無一法可得,則妄念不生,是名修止。云何坐中修觀?應作是念:「由心所念,壘脚安身,因此則有一切善惡等法,故名為坐。」反觀坐心,不見相貌。當知坐者及坐中一切法,畢竟空寂,是名修觀。
三、座ることについて。もし座っている時、このように思うべきである。「私は今、何のために座ろうとしているのか。もし煩悩や不善、無記の事柄のためならば、座るべきではない。善い利益の事柄のためならば、座るべきである。」どのように座っている時に止(し)を修するのか。もし座っている時には、座るということによって、一切の煩悩や善悪などの法があることを了知しなければならない。しかし、一つの法も得るべきものはなく、妄念が生じないならば、これを止を修すると名付ける。どのように座っている時に観(かん)を修するのか。このように思うべきである。「心が念じることによって、足を組み、身を安んじる。このことによって一切の善悪などの法がある。それゆえに座ると名付ける。」座っている心を反観すると、相貌は見えない。座っている者および座中における一切の法は、畢竟(ひっきょう)空寂であると知るべきである。これを観を修すると名付ける。
四、臥者。於臥時,應作是念:「我今為何等事欲臥?若為不善放逸等事,則不應臥,若為調和四大故臥,則應如師子王臥。」云何臥中修止?若於寢息,則當了知:因於臥故,則有一切善惡等法,而無一法可得;則妄念不起,是名修止。云何臥中修觀?應作是念:「由於勞乏,即便昏闇,放縱六情,因此則有一切煩惱善惡等法。」即當反觀臥心,不見相貌。當知臥者及臥中一切法,畢竟空寂,是名修觀。
四、臥について。臥している時には、次のように心に念じるべきである。「私は今、何のために臥そうとしているのか。もし不善や放逸などの事柄のためであれば、臥すべきではない。もし四大を調和させるために臥すのであれば、師子王のように臥すべきである。」どのように臥の中に止を修するのか。もし休息のために臥すならば、その時に知るべきである。臥することによって、一切の善悪などの法があるが、一つの法も得ることはできない。それならば妄念は生じない。これを止を修するという。どのように臥の中に観を修するのか。次のように心に念じるべきである。「疲れや倦みによって、すぐに昏く暗くなり、六情を放縦にする。それによって一切の煩悩や善悪などの法がある。」そこで直ちに臥している心を反観して、その相貌を見ない。知るべきである。臥している者と臥の中の一切の法は、究極的には空しく寂滅している。これを観を修するという。
五、作者。若作時,應作是念:「我今為何等事,欲如此作?若為不善無記等事,即不應作。若為善利益事,即應作。」云何名作中修止?若於作時,即當了知:因於作故,則有一切善惡等法,而無一法可得,則妄念不起,是名修止。云何名作時修觀?應作是念:「由心運於身手,造作諸事,因此則有一切善惡等法,故名為作。」反觀作心,不見相貌。當知作者及作中一切法,畢竟空寂,是名修觀。
五、作業之時。もし作業するならば、このように念じるべきである:「私は今、何のためにこのように行おうとしているのか。もし不善や無記などのことであれば、行うべきではない。もし善や利益になることであれば、行うべきである。」どのように作中に止を修するのか。もし作業する時に、ただちに了知すべきである:作業のゆえに、一切の善悪などの法があるが、一つの法も得ることはなく、妄念が生じなければ、これを止を修すると名づける。どのように作時に観を修するのか。このように念じるべきである:「心が身や手を動かして、諸々の事を造り出す。このゆえに一切の善悪などの法があるので、これを作ると名づける。」作業する心を反観すると、その相貌を見ることができない。作者および作業の中の一切の法は、畢竟、空しく寂滅であると知るべきである。これを観を修すると名づける。
六、語者。若於語時,應作是念:「我今為何等事欲語?若隨諸煩惱,為論說不善無記等事而語,即不應語。若為善利益事,即應語。」云何名語中修止?若於語時,即知因此語故,則有一切煩惱善惡等法,了知語心及語中一切煩惱善不善法,皆不可得,則妄念心息,是名修止。云何語中修觀?應作是念:「由心覺觀,鼓動氣息,衝於咽喉、唇、舌、齒㗁,故出音聲語言。因此語故,則有一切善惡等法,故名為語。」反觀語心,不見相貌。當知語者及語中一切法,畢竟空寂,是名修觀。
六、話すことについて。もし話す時には、このように念じるべきである。「私は今、何のために話そうとしているのか。もし煩悩に従い、不善や無記などの事柄について論じ語るのであれば、話すべきではない。もし善い利益のためのことであれば、話すべきである。」 何をもって「話すことにおける止の修行」というのか。もし話す時に、この話すことによって一切の煩悩や善悪などの法が生じることを知り、話す心および話す中にある一切の煩悩や善不善の法は、すべて得るべからざるものであると了知すれば、妄念の心は息む。これを「止の修行」という。 何をもって「話すことにおける観の修行」というのか。このように念じるべきである。「心の覚観によって、気息が鼓動し、喉・唇・舌・歯・顎に衝かって、音声や言葉が出る。この話すことによって、一切の善悪などの法が生じる。だから『話す』というのである。」 そして話す心を反観すると、その相貌は見えない。話す者および話す中にある一切の法は、畢竟して空しく寂滅していると知るべきである。これを「観の修行」という。
如上六義修習止觀,隨時相應用之;一一皆有前五番修止觀意,如上所說。
以上六つの意味での止観(しゃかん)の修習は、時と場合に応じてそれぞれに活用するものである。そして、その一つ一つに、前述した五つの段階の止観の修行の意義が含まれており、それは先に述べた通りである。
次,六根門中修止觀者:
次に、六根の門において修する止観とは、次の通りである。
一、眼見色時修止者。隨見色時,如水中月,無有定實。若見順情之色,不起貪愛;若見違情之色,不起瞋惱;若見非違非順之色,不起無明及諸亂想,是名修止。云何名眼見色時修觀?應作是念:「隨有所見,即相空寂。所以者何?於彼根塵空明之中,各無所見,亦無分別,和合因緣,出生眼識,次生意識,即能分別種種諸色。因此則有一切煩惱善惡等法。」即當反觀念色之心,不見相貌。當知見者及一切法,畢竟空寂,是名修觀。
一、目で色を見るときに修止(心を静める修行)をするとは、色を見るたびに、それを水中の月のように観じ、実体のないものと知ることです。もし心にかなう色を見ても、貪りの愛着を起こさず、心にかなわない色を見ても、怒りや悩みを起こさず、どちらでもない色を見ても、無明やさまざまな妄想を起こさないこと、これを修止といいます。
では、目で色を見るときに修観(智慧を働かせる修行)をするとは、どういうことでしょうか。このように念じるべきです。「何かを見るとき、その見えるものはすべて、本来は空であり静かなものである。なぜなら、その眼根と色の対象、そして空間と光明の中には、それぞれに見るものもなく、分別もない。これらが縁によって和合し、眼識が生じ、次に意識が生じて、はじめてさまざまな色を分別できるようになる。そのために、あらゆる煩悩や善悪の法が生じるのである」と。
そして、その色を見る心をかえって観察し、そこに実体の姿のないことを見極めるべきです。こうして、見る者も、見られるすべての法も、ついに空であり静かであると知ること、これを修観といいます。
二、耳聞聲時修止者。隨所聞聲,即知聲如響相。若聞順情之聲,不起愛心;違情之聲,不起瞋心;非違非順之聲,不起分別心;是名修止。云何聞聲中修觀?應作是念:「隨所聞聲,空無所有,但從根塵和合,生於耳識;次意識生,強起分別。因此即有一切煩惱善惡等法,故名聞聲。」反觀聞聲之心,不見相貌。當知聞者及一切法,畢竟空寂,是名為觀。
第二に、耳で音を聞くときに「止」を修行する方法についてです。聞こえてくる音に対して、それがすべて「響き」のようなものであると知ります。心地よい音を聞いても、執着する心を起こさず、不快な音を聞いても、怒りの心を起こさず、どちらでもない音を聞いても、分別する心を起こしません。これを「止」の修行と呼びます。
では、音を聞く中で「観」を修行するにはどうするのでしょうか。次のように考えます。「聞こえてくる音は、本来は空であり、実体はない。ただ耳と音が触れ合うことによって、耳の認識が生まれ、さらに心の認識が生じて、強く分別を起こすのだ。その結果として、さまざまな煩悩や善悪の心が現れるのだ」と。そして、音を聞いているその心を振り返って見つめると、そこには何の形も見つけることができません。このようにして、聞いている心も、すべての現象も、究極的には空しく静まり切っていると知ることを「観」の修行と呼びます。
三、鼻嗅香時修止者。隨所聞香,即知如焰不實,若聞順情之香,不起著心;違情之臭,不起瞋心;非違非順之香,不生亂念,是名修止。云何名聞香中修觀?應作是念:「我今聞香,虛誑無實。所以者何?根塵合故,而生鼻識;次生意識,強取香相。因此則有一切煩惱善惡等法,故名聞香。」反觀聞香之心,不見相貌。當知聞香及一切法,畢竟空寂,是名修觀。
三、鼻で香りを嗅ぐときに「止」を修行する方法について説明します。嗅ぐところの香りが、陽炎のように実体のないものであると知ることです。好ましい香りを嗅いでも、執着する心を起こさず、嫌な臭いに対しても怒りの心を起こさず、好悪のない香りに対しても雑念を生じさせないこと、これを「止」の修行と呼びます。
では、香りを嗅ぐ中で「観」を修行するとはどういうことでしょうか。このように考えるべきです。「私が今嗅いでいる香りは、虚ろで偽りであり、実体がない。なぜなら、鼻の器官と香りの対象が合わさることで鼻の認識が生じ、さらに心の認識が生じて、強く香りの形を捉えるからだ。そのために、あらゆる煩悩や善悪などの現象が生じてくるのである。だから香りを嗅ぐということも、実体がないのである」と。
そして、香りを嗅ぐその心そのものを振り返って観察すると、その姿や形は見当たりません。このように知るべきです。香りを嗅ぐこと、そしてあらゆる現象は、結局のところ空であり、静かで捉えどころがないのです。これを「観」の修行と呼びます。
四、舌受味時修止者。隨所受味,即知如於夢幻中得味。若得順情美味,不起貪著;違情惡味,不起瞋心;非違非順之味,不起分別意想,是名修止。云何名舌受味時修觀?應作是念:「今所受味,實不可得。所以者何?內外六味,性無分別。因內舌根和合,則舌識生。次生意識,強取味相。因此則有一切煩惱善惡等法。」反觀緣味之識,不見相貌。當知受味者及一切法,畢竟空寂,是名修觀。
四、舌で味を受け取るときに止を修するとは、その受け取る味に随って、ただちにそれが夢や幻の中で味わいを得るようなものであると知ることです。もし心にかなう美味を得ても、貪りの執着を起こさず、心に逆らう悪い味に対しても、瞋りの心を起こさず、順でも逆でもない味に対しても、分別の思いを起こさないこと、これを止を修するといいます。では、舌で味を受け取るときに観を修するとは何でしょうか。このように念ずべきです。「今受け取る味は、実に得ることはできない。なぜなら、内外の六種の味は、その性質に分別がないからである。内の舌根と和合するゆえに、舌の識が生じる。次に意識が生じて、無理に味の相を取り、それによって一切の煩悩や善悪などの法がある。」と。味を縁とする識をかえりみて、その相貌を見ないこと、受味者および一切の法は究極的に空しく寂滅していると知ること、これを観を修するといいます。
五、身受觸時修止者。隨所覺觸,即知如影,幻化不實。若受順情樂觸,不起貪著;若受違情苦觸,不起瞋惱;受非違非順之觸,不起憶想分別,是名修止。云何身受觸時修觀?應作是念:「輕重、冷煖、澁滑等法,名之為觸;頭等六分,名之為身。觸性虛假,身亦不實;和合因緣,即生身識。次生意識,憶想分別苦樂等相,故名受觸。」反觀緣觸之心,不見相貌。當知受觸者及一切法,畢竟空寂,是名修觀。
五、身体が対象に触れるときに止を修めるとは、次のとおりです。感じ取る触れにしたがって、それは影のようであり、幻のように実体がないと知ります。もし気に入った快い触れを受けてても、貪りと執着を起こしません。もし不快な苦しい触れを受けても、怒りと悩みを起こしません。不快でも快でもない触れを受けても、思い巡らして分別しません。これを止を修めるといいます。どのように、身体が対象に触れるときに観を修めるのでしょうか。次のように考えるべきです。「軽い・重い、冷たい・暖かい、ざらざら・すべすべなどの性質を、触れと呼びます。頭など六つの部分を、身体と呼びます。触れの本性は仮のものであり、身体もまた実体がありません。これらの因縁が和合することによって、身識が生じます。次に意識が生じて、苦や楽などの相を思い巡らして分別します。それゆえ触れを受けると呼ぶのです。」触れを縁とする心を振り返って見ても、その姿かたちは見えません。触れを受ける者も、すべての法も、究極的には空寂であると知るべきです。これを観を修めるといいます。
六、意知法中修止觀相,如初坐中已明訖。
第六、意知法中修止觀之相,如同最初安坐時已說明完畢。
自上依六根修止觀相,隨所意用而用之,一一具上五番之意,是中已廣分別,今不重辨。
上に述べたように、六根に基づいて止観を修める相について、それぞれの意を用いて修行します。一つ一つに上記の五番の意味が含まれており、ここですでに詳しく説き明かしましたので、今ここで再び述べることはいたしません。
行者若能於行住坐臥見聞覺知等一切處中修止觀者,當知是人真修摩訶衍道。如《大品經》云:「佛告須菩提:『若菩薩行時知行、坐時知坐,乃至服僧伽梨,視眴一心,出入禪定,當知是人名菩薩摩訶衍。』」復次,若人能如是一切處中修行大乘,是人則於世間最勝、最上、無與等者。釋論偈中說:
修行者が、歩く・立つ・座る・寝るといった動作や、見る・聞く・感じる・知るといったすべての場面で止観(サマタとヴィパッサナー)を実践できるなら、その人は真に大乗の道を修行していると知るべきです。『大品般若経』にこうあります。「仏が須菩提に告げられた。『もし菩薩が歩くときに歩いていると知り、座るときに座っていると知り、さらに袈裟を着るときも、目を動かすときも、心を一つに保ち、禅定に入ったり出たりするときも同様であるなら、その人は菩薩摩訶衍(大乗の菩薩)と名づけられるべきである。』」また、もし人がこのようにすべての場面で大乗の修行を行うなら、その人はこの世で最も優れ、最も尊く、比べる者のない存在となります。『大智度論』の偈にこう説かれています。
「閑坐林樹間, 寂然滅諸惡,
憺怕得一心, 斯樂非天樂。
人求世間利, 名衣好床褥,
斯樂非安隱, 求利無厭足。
衲衣在空閑, 動止心常一,
自以智慧明, 觀諸法實相;
種種諸法中, 皆以等觀入,
解慧心寂然, 三界無倫匹。」
林間に静かに座り、 すべての悪を寂滅させれば、 心は一つに定まり穏やかとなる―― この楽しさは、天界の楽しみにも勝る。 人は世間の利益を追い求め、 名高い衣や上等な寝具を欲しがる。 しかし、その楽しみは真の安らぎではなく、 利益への欲求には際限がない。 粗末な衣をまとい、静かな場所にいて、 動きの中でも止まりの中でも、心は常に一つ。 自らの智慧の光をもって、 すべての法の真実の姿を観じる。 あらゆる法の中にあっても、 すべてを平等な視点で見通し、 智慧を解き放てば心は静かに、 三界において比べる者はいない。