(一一)中阿含業相應品鹽喻經第一
(11)中阿含経 業対応品 塩の喩え経 第一
我聞如是:
私はこのように聞きました。
一時,佛遊舍衛國,在勝林給孤獨園。
ある時、お釈迦さまは舎衛国に滞在され、勝林給孤独園におられました。
爾時,世尊告諸比丘:「隨人所作業則受其報。如是,不行梵行不得盡苦,若作是說,隨人所作業則受其報。如是,修行梵行便得盡苦。所以者何?若使有人作不善業,必受苦果地獄之報。云何有人作不善業,必受苦果地獄之報?謂有一人不修身、不修戒、不修心、不修慧,壽命甚短,是謂有人作不善業,必受苦果地獄之報。猶如有人以一兩鹽投少水中,欲令水鹹不可得飲。於意云何?此一兩鹽,能令少水鹹叵飲耶?」
その時、世尊は比丘たちに告げられた。
「人はその行いに応じて、その報いを受ける。このように、清らかな行い(梵行)を修めなければ、苦しみを尽くすことはできない。また、『人はその行いに応じて、その報いを受ける』と言われる通り、清らかな行いを修めれば、苦しみを尽くすことができる。
なぜか。もしある人が不善の業を行えば、必ず苦い果報として地獄の報いを受ける。では、どのような人が不善の業を行い、必ず苦い果報として地獄の報いを受けるのか。それは、ある人が自らを修めず、戒めを守らず、心を修めず、智慧を修めず、寿命が非常に短い者である。そのような人が不善の業を行えば、必ず苦い果報として地獄の報いを受ける。
例えば、ある人が一両の塩を少量の水に投じ、その水を塩辛くして飲めなくしようとするようなものだ。あなた方はどう思うか。この一両の塩は、少量の水を塩辛くして飲めなくすることができるだろうか。」
答曰:「如是。世尊!所以者何?鹽多水少,是故能令鹹不可飲。」
答えました。「その通りです、世尊。なぜなら、塩が多く水が少なければ、そのために飲めないほど塩辛くなるからです。」
「如是,有人作不善業,必受苦果地獄之報。云何有人作不善業,必受苦果地獄之報?謂有一人不修身、不修戒、不修心、不修慧、壽命甚短,是謂有人作不善業,必受苦果地獄之報。」
このように、不善の業をなす者は、必ず苦しみの報いとして地獄に落ちる。
では、なぜ不善の業をなす者は、必ず苦しみの報いとして地獄に落ちるのか?
それは、ある人が身を修めず、戒を修めず、心を修めず、智慧を修めず、寿命が非常に短いからである。
このようにして、不善の業をなす者は、必ず苦しみの報いとして地獄に落ちるのである。
「復次,有人作不善業,必受苦果現法之報。云何有人作不善業,必受苦果現法之報?謂有一人修身、修戒、修心、修慧,壽命極長,是謂有人作不善業,必受苦果現法之報。猶如有人以一兩鹽投恒水中,欲令水鹹不可得飲。於意云何?此一兩鹽,能令恒水鹹叵飲耶?」
また、ある人が不善の業(悪い行い)をなせば、必ず苦しみの報いを現世で受けることがある。では、どのような人が不善の業をなして、必ず現世で苦しみの報いを受けるのか。それは、ある人が身を修め、戒めを修め、心を修め、智慧を修め、寿命が極めて長い者である。このような人が不善の業をなせば、必ず現世で苦しみの報いを受けるのである。
たとえば、ある人が一両(約37.5グラム)の塩をガンジス川に投げ入れ、「この水を塩辛くして飲めなくしたい」と思っても、どうであろうか。この一両の塩で、ガンジス川の水を塩辛くして飲めなくすることができるであろうか。
答曰:「不也。世尊!所以者何?恒水甚多,一兩鹽少,是故不能令鹹叵飲。」
答えて言う。「いいえ、世尊よ。なぜならば、ガンジス川の水は非常に多く、塩ひとつまみはごくわずかです。ですから、水を飲めないほど塩辛くすることはできません。」
「如是,有人作不善業,必受苦果現法之報。云何有人作不善業,必受苦果現法之報?謂有一人修身、修戒、修心、修慧、壽命極長,是謂有人作不善業,必受苦果現法之報。
このように、不善なる業を作った者は、必ずその苦果を現世で受ける報いがある。では、どのような人が不善なる業を作り、必ずその苦果を現世で受ける報いがあるのか。それは、ある人が身を修め、戒を修め、心を修め、慧を修め、寿命が極めて長い場合である。これが、不善なる業を作った者が必ずその苦果を現世で受ける報いである。
「復次,有人作不善業,必受苦果地獄之報。云何有人作不善業,必受苦果地獄之報?謂有一人不修身、不修戒、不修心、不修慧,壽命甚短,是謂有人作不善業,必受苦果地獄之報。猶如有人奪取他羊。云何有人奪取他羊?謂奪羊者,或王、王臣,極有威勢,彼羊主者,貧賤無力,彼以無力故便種種承望,叉手求索而作是說:『尊者!可見還羊,若見與直。』是謂有人奪取他羊。如是,有人作不善業,必受苦果地獄之報。云何有人作不善業,必受苦果地獄之報?謂有一人不修身、不修戒、不修心、不修慧,壽命甚短,是謂有人作不善業,必受苦果地獄之報。
また、ある人が不善の業を作り、必ず苦果の地獄の報いを受けることがある。では、どのような人が不善の業を作り、必ず苦果の地獄の報いを受けるのか。それは、ある人が身を修めず、戒を修めず、心を修めず、慧を修めず、寿命が非常に短い場合である。これを、ある人が不善の業を作り、必ず苦果の地獄の報いを受ける、という。
例えば、ある人が他人の羊を奪い取るようなものだ。では、どのような人が他人の羊を奪い取るのか。羊を奪う者とは、王や王の臣下で非常に勢力のある者である。その羊の主人は貧しく賤しく力がない。そのため、力のない主人は、いろいろとへつらい、手を合わせて羊を請い求め、こう言う。「尊者よ、羊をお返しください。あるいは代金をお支払いください」と。これを、ある人が他人の羊を奪い取る、という。
このように、ある人が不善の業を作り、必ず苦果の地獄の報いを受けることがある。では、どのような人が不善の業を作り、必ず苦果の地獄の報いを受けるのか。それは、ある人が身を修めず、戒を修めず、心を修めず、慧を修めず、寿命が非常に短い場合である。
「復次,有人作不善業,必受苦果現法之報。云何有人作不善業,必受苦果現法之報?謂有一人修身、修戒、修心、修慧,壽命極長,是謂有人作不善業,必受苦果現法之報。猶如有人雖竊他羊,主還奪取。云何有人雖竊他羊,主還奪取?謂竊羊者貧賤無勢,彼羊主者或王、王臣,極有威力,以有力故收縛竊者,還奪取羊。是謂有人雖竊他羊,主還奪取。如是,有人作不善業,必受苦果現法之報。云何有人作不善業,必受苦果現法之報?謂有一人修身、修戒、修心、修慧,壽命極長,是謂有人作不善業,必受苦果現法之報。
また、ある者が不善の行いをなせば、必ずその苦の報いを現世で受けることがある。どうして不善の行いをなせば、現世で苦の報いを受けるのか。それは、ある人が身を修め、戒を修め、心を修め、慧を修め、寿命が極めて長い場合である。これが不善の行いをなせば、必ず現世で苦の報いを受けるということであろう。
ちょうど、ある人が他人の羊を盗んでも、持ち主が取り戻すようなものである。どうして盗んだ羊を、持ち主が取り戻すのか。それは、羊を盗む者が貧しく身分も低く力がなく、羊の持ち主が王や大臣など、非常に力のある者であるからである。その力によって盗人を捕らえ、羊を取り戻すのである。これが、盗んだ羊を、持ち主が取り戻すということである。
このように、ある者が不善の行いをなせば、必ずその苦の報いを現世で受けることがある。どうして不善の行いをなせば、現世で苦の報いを受けるのか。それは、ある人が身を修め、戒を修め、心を修め、慧を修め、寿命が極めて長い場合である。これが不善の行いをなせば、必ず現世で苦の報いを受けるということであろう。
「復次,有人作不善業,必受苦果地獄之報。云何有人作不善業,必受苦果地獄之報?謂有一人不修身、不修戒、不修心、不修慧,壽命甚短,是謂有人作不善業,必受苦果地獄之報。猶如有人負他五錢,為主所縛,乃至一錢亦為主所縛。云何有人負他五錢,為主所縛,乃至一錢亦為主所縛?謂負債人貧無力勢,彼貧無力故,負他五錢,為主所縛,乃至一錢亦為主所縛。是謂有人負他五錢,為主所縛,乃至一錢亦為主所縛。如是有人作不善業,必受苦果地獄之報。云何有人作不善業,必受苦果地獄之報?謂有一人不修身、不修戒、不修心、不修慧,壽命甚短,是謂有人作不善業,必受苦果地獄之報。
また、ある人が不善の業(行い)を行えば、必ず苦しい結果として地獄に落ちる報いを受けます。では、なぜある人が不善の業を行えば、必ず苦しい結果として地獄に落ちる報いを受けるのでしょうか?それは、ある人が身体を修めず、戒めを修めず、心を修めず、智慧を修めず、寿命が非常に短いからです。これが「ある人が不善の業を行えば、必ず苦しい結果として地獄に落ちる報いを受ける」ということです。
たとえるなら、ある人が他人に五銭(せん)の借りをしていて、そのために債権者に捕らえられるようなものです。たとえ一銭の借りであっても、同様に捕らえられます。では、なぜある人が五銭の借りで債権者に捕らえられ、一銭の借りでも捕らえられるのでしょうか?それは、その借金をした人が貧しくて力がないからです。貧しくて力がないために、五銭の借りでも債権者に捕らえられ、一銭の借りでも捕らえられるのです。これが「ある人が五銭の借りで債権者に捕らえられ、一銭の借りでも捕らえられる」ということです。
このように、ある人が不善の業を行えば、必ず苦しい結果として地獄に落ちる報いを受けます。では、なぜある人が不善の業を行えば、必ず苦しい結果として地獄に落ちる報いを受けるのでしょうか?それは、ある人が身体を修めず、戒めを修めず、心を修めず、智慧を修めず、寿命が非常に短いからです。これが「ある人が不善の業を行えば、必ず苦しい結果として地獄に落ちる報いを受ける」ということです。
「復次,有人作不善業,必受苦果現法之報。云何有人作不善業,必受苦果現法之報?謂有一人修身、修戒、修心、修慧,壽命極長,是謂有人作不善業,必受苦果現法之報。猶如有人雖負百錢,不為主所縛,乃至千萬亦不為主所縛。云何有人雖負百錢,不為主所縛,乃至千萬亦不為主所縛?謂負債人產業無量,極有勢力,彼以是故,雖負百錢,不為主所縛,乃至千萬亦不為主所縛。是謂有人雖負百錢,不為主所縛,乃至千萬亦不為主所縛。如是,有人作不善業,必受苦果現法之報。云何有人作不善業,必受苦果現法之報?謂有一人修身、修戒、修心、修慧,壽命極長,是謂有人作不善業,必受苦果現法之報,彼於現法設受善惡業報而輕微也。」
また、ある人が不善の業を行っても、必ずその苦しみの報いを現世で受けるとは限りません。では、どのような人が不善の業を行っても、必ずその苦しみの報いを現世で受けるのでしょうか。それは、ある人が身を修め、戒めを修め、心を修め、慧を修め、寿命が極めて長い場合です。このような人が不善の業を行うと、必ずその苦しみの報いを現世で受けます。
たとえば、ある人が百銭の借金をしていても、債主に捕らわれないことがあります。さらに千銭や万銭の借金があっても、やはり債主に捕らわれないことがあります。では、どのような人が百銭の借金をしていても債主に捕らわれず、千銭や万銭の借金があっても債主に捕らわれないのでしょうか。それは、借金をしている人が無量の財産と大きな勢力を持っている場合です。そのため、百銭の借金があっても債主に捕らわれず、千銭や万銭の借金があっても債主に捕らわれないのです。
このように、ある人が不善の業を行っても、必ずその苦しみの報いを現世で受けるとは限りません。では、どのような人が不善の業を行っても、必ずその苦しみの報いを現世で受けるのでしょうか。それは、ある人が身を修め、戒めを修め、心を修め、慧を修め、寿命が極めて長い場合です。このような人が不善の業を行うと、必ずその苦しみの報いを現世で受けます。しかし、その報いは現世において受ける善悪の業報であっても、ごく軽微なものとなります。
佛說如是。彼諸比丘聞佛所說,歡喜奉行。
このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。
鹽喻經第一竟(千三百五十一字)
『塩のたとえ経』第一終わり