○杭州靈隱妙峰之善禪師
劉氏子。世居彭城。後徙吳興。高曾大父父皆登膴仕。師生紈綺中。姿性高潔。年十三即辭家祝髮。受業德清齊政院。其師教以經論。一覧輙了大意。乃徧參諸大老。時佛照唱道鄮山。師往參禮。以風幡話悟旨。蒙印可。贈以偈曰。今日與君通一線。斬釘截鐵起吾宗。自是辯慧泉涌。然不以此自足。入康廬妙高峰下面壁坐十年。身隱而名彌彰。學者尊之曰妙峰禪師。出世於台之慧因鴻福萬年諸剎。退皋(與臯同)亭劉寺者又十餘年。大略如在妙峰時。其徒推迫不已。復領明之瑞巖蘇之萬壽常之華藏。晚至靈隱亦非所樂。露隱密邇于闕。輪蹄湊集。師掩戶若不聞一無所將迎。公卿貴人或見之寒溫而已。會天童虗席。時鄭清之秉鈞軸謂非師莫宜居。因勉師行。師答曰。老僧年踰耄矣。尚夜行不休乎。鄭公高之。僧問如何是不入眾流句。師曰烏龜鑽破壁。僧云如何是妙體無私句。師曰百疋馬中一頭驢。僧云如何是瞬目揚眉句。師曰花雨巖前石點頭。僧問如何是奇特事。師云紫薇花下紫薇郎。僧云學人不會。師云三十年後。上堂。以拂子擊禪床左邊云。這裏是鑊湯爐炭。擊右邊云。這裏是劒樹刀山。前面是觀音勢至。後面是文殊普賢。中間一著還知落處麼。又擊云。毗婆尸佛早留心。直至如今不得妙。上堂。久參高士。眼空四海。鼻孔遼天。見也見得親。說也說得親。行也行得親。用也用得親。只是未識老僧拄杖子在。何故。將成九仞之山。不進一簣之土。上堂。談玄說妙事如麻。添得時人眼裏花。赤骨律窮挨得人。潑浪潑賴是生涯。懸羊頭。賣狗肉。喫私酒。臥官街。笑倒籬根破草鞋。上堂。舉雲門普請般柴次。乃拋下柴片云。一大藏教只說者箇。師拈云。雲門只見錐頭利。不見鑿頭方。師喜誘其徒未甞厲聲色。然一經指授輙心融神化。充然皆有得。將示寂。澡身趺坐書偈云。來也如是。去也如是。來去一如。清風萬里。遂逝。實端平二年九月二十八日。壽八十四。臘七十一。塔靈隱之西岡。鄭公銘其塔。
劉氏の子は、代々彭城に住み、後に呉興に移った。高祖父・曾祖父・祖父・父はいずれも高位の官職に就いた。師は裕福な家に生まれ、姿も性質も清らかで高潔であった。十三歳で早くも家を離れて出家し、徳清の斉政院で学んだ。師匠から経論を教えられると、一度見ただけで大意を理解した。その後、各地の高僧を遍歴して参禅した。
当時、仏照禅師が鄮山で法を説いていた。師は参拝に行き、「風幡」の公案によって悟りを開き、印可を受けた。仏照は偈を贈って言った。「今日、君と一線を通ず。釘を断ち鉄を截って、我が宗を起こす」。以来、師の弁舌と智慧は泉のごとく湧き出たが、それで満足することはなかった。廬山の妙高峰の下に入り、十年間、壁に向かって坐禅した。身は隠れても名声はますます高まり、学ぶ者たちは師を「妙峰禅師」と尊称した。
その後、台州の慧因寺、鴻福寺、万年寺などの寺院を住持した。皋亭の劉寺に退いてからも十余年、おおむね妙峰にいた時と変わらぬ生活を送った。弟子たちの強い要請により、再び明州の瑞巖寺、蘇州の万寿寺、常州の華蔵寺の住職を務めた。晩年に霊隠寺に至ったが、これも好んでしたことではなかった。霊隠寺は都に近く、車馬の往来が激しかったが、師は戸を閉めてまるで聞こえないふりをし、一切の出迎えもしなかった。公卿や貴人が会いに来ても、軽い挨拶だけですませた。
天童寺の住職が空席になった時、政権を執っていた鄭清之は、師以外にふさわしい者はないと考え、赴任を勧めた。師は答えて言った。「老僧はもう八十を超えています。まだ夜道を歩き続けなければならないのでしょうか」。鄭公はその言葉を立派だと思った。
僧が尋ねた。「衆流に入らない句とは如何なるものですか」。師は言った。「亀が壁を破って鑽る」。僧が言った。「妙体無私の句とは如何なるものですか」。師は言った。「百匹の馬の中の一頭の驢馬」。僧が言った。「瞬目揚眉の句とは如何なるものですか」。師は言った。「花の雨、巖の前、石が頭を点ず」。僧が尋ねた。「奇特なる事とは如何なるものですか」。師は言った。「紫薇花の下の紫薇郎」。僧が言った。「学人は理解できません」。師は言った。「三十年後」。
上堂して、払子で禅床の左を打って言った。「ここは鑊湯炉炭だ」。右を打って言った。「ここは剣樹刀山だ」。前は観音・勢至。後ろは文殊・普賢。中間の一着は、落ちる所を知っているか」。また打って言った。「毘婆尸仏、早くより心に留む。直至如今、妙を得ず」。
上堂して言った。「久しく参究した高士は、眼は四海を空し、鼻孔は天に届く。見るにも親しく見、説くにも親しく説き、行うにも親しく行い、用いるにも親しく用いる。ただ、老僧の杖子をまだ識らない。何故か。九仞の山とならんとし、一簣の土を進めず」。
上堂して言った。「玄を談じ妙を説く事、麻の如し。時に人の眼裏に花を添う。赤骨律窮、人に挨拶す。潑浪潑頼、是れ生涯。羊の頭を懸けて、狗の肉を売る。私酒を喫し、官街に臥す。笑って倒る、籬の根の破れ草鞋」。
上堂して、雲門禅師の「普請で柴を運んでいた時、柴の一片を投げ下ろして言った『一大蔵教は只これと言う』」という因縁を挙げた。師は拈提して言った。「雲門は只、錐の頭の利なるを見て、鑿の頭の方なるを見ず」。
師は弟子を導くことを喜び、一度も声を荒げたり顔色を変えたりすることはなかった。しかし、一度指導を受ければ、たちまち心は融け神は化し、充実して何かを得たように満たされた。
示寂を前に、身を清め結跏趺坐し、偈を書いた。「来も亦た是の如し、去も亦た是の如し。来去一如、清風万里」。そして静かに逝った。実に端平二年九月二十八日、世寿八十四、僧臘七十一。塔は霊隠寺の西岡に建てられた。鄭公がその塔に銘を刻んだ。