例言
例言
- 是經梁昭明太子標為三十二分,然細繹段落,恐不止是每分,標題亦未盡賅。且如推窮四果,漸至如來,正緊接然燈佛所一段,何割截屬下莊嚴?爾時慧命須菩提問說法信心,雖承接上文,究另有所請,不得併為一分。其餘宜分宜合,不一而足。是編段落,彚合諸家,折衷至當,非敢臆說也。然三十二分相沿已久,未可抹煞。茲將每分所標名目,列於眉端。
- 是經當分看,憨山辨為上下兩卷,甚當。然自從大眾起,至即見如來止,統是大乘正宗。蓋安住降伏,不著形相,全經大旨已竟。自後善現問實信,則示以清淨。問經名,則示以般若。問信解受持,則示以離相發心。層層闡發,意旨淵深。後又贊歎是經之妙,勸人受持讀誦,直至不可思議止,俱是談般若法,以洗發住降之義,是為上卷。須菩提聞佛所說,深解義趣,至於涕淚悲泣,豈有復昧住降之理。再為啟請後人註解,謂前言粗執,後言細執,前為初發心者言,後為已發心者言,均屬非是。蓋善現恐後世未能親承佛語之善男女發菩提心者,無所遵行,欲佛立一法以普示將來,佛故以實無有法破之。以後節節申解上卷未盡之義,俱有妙旨,各不相承。末揭出不取於相,如如不動為全篇,總結住降之旨,洞徹無遺,是為下卷。金剛經無前半部,則演說不開。無後半部,則搜括不盡。
- 是經當合看,一卷如一章,一章如一句,一句如一字。何為一字?昔趙洲禪師每遇學人入室,令參無字為話頭。這一無字,函蓋乾坤,包羅萬象,識得金剛經無相宗旨,全經可作一字讀也。
- 是經解義分註論講三字,仿石註本也。註者將正文字句逐一破解也,論者將本文精義辨析論斷也,講者順如來善現口氣以為演發也。至每段綱領脈絡承接界畫處,則參以彚解數語,條分縷析,段落分明,不至字比句櫛,依文解義,可比其所採錄,先止四五家,後得孫述甫彚纂一書,搜羅甚富,共有數十家,復加刪訂,彚成一冊,諸家姓氏不備書者,緣參雜成文,不便註明,非掠美也。
- 是經阿難結集語句用尖,須菩提語句用點,如來語句用圈以別之。通篇扼要關鍵處用雙圈,一節精深微妙處用連圈,功效處用連點,前後關照及眉目處用連尖以醒之。
須菩提!若人言:佛說我見、人見、眾生見、壽者見。須菩提!於意云何?是人解我所說義不?不也,世尊!是人不解如來所說義。何以故?世尊說我見、人見、眾生見、壽者見,即非我見、人見、眾生見、壽者見,是名我見、人見、眾生見、壽者見。須菩提!發阿耨多羅三藐三菩提心者,於一切法應如是知、如是見、如是信解,不生法相。須菩提!所言法相者,如來說即非法相,是名法相。
須菩提よ、もし人が「仏は我見・人見・衆生見・寿者見を説いた」と言ったならば、どう思いますか。その人は私の説いた意味を理解しているでしょうか。いいえ、世尊。その人は如来の説いた意味を理解しておりません。なぜなら、世尊が説かれた我見・人見・衆生見・寿者見は、すなわち我見・人見・衆生見・寿者見ではないのであり、それゆえに我見・人見・衆生見・寿者見と呼ばれるのです。須菩提よ、阿耨多羅三藐三菩提の心を起こした者は、すべての法について、このように知り、このように見、このように信解して、法相を生じてはなりません。須菩提よ、法相と言われるものは、如来が説くところのすなわち法相ではなく、それゆえに法相と呼ばれるのです。
註: 見與相不同,見猶未成相,有見而後有相,見在相前一層。相者,法所現也。見者,心所取也。相粗而見精,四相乃經中所遣之執,而四相又成於四見。蓋至見歸真見,而相亦無相矣。如來真性中,無此四見,故云即非。對有我說無我,其名假立,故云是名。如是,指上須菩提之三疊言,此近脈也。如來說應如是住,如是降伏其心,今結云如是知見信解,此之謂住,不生法相,此之謂降伏,此遠脈也。壽者見上,破我相。發菩提下,破法相。經中屢言無相,於此作一大歸結矣。
註:見と相は異なります。見はまだ相となっていないもので、見があってのちに相があり、見は相より一層手前にあります。相とは、法が現れたものです。見とは、心が取るものです。相は粗く、見は精細です。四相は経典の中で除かれる執着であり、しかも四相は四見によって成り立ちます。思うに、見が真実の見に帰すれば、相もまた無相となります。如来の真性の中には、この四つの見はありません。それゆえ「即非」と言うのです。我があるのに対して無我を説くのは、その名を仮に立てたものにすぎません。それゆえ「是名」と言うのです。「如是」とは、上述の須菩提の三度にわたる言葉を指しており、これは近い脈絡です。如来は「応に如是に住すべし、如是にその心を降伏すべし」と説かれましたが、今ここで「如是に知り、見、信解す」と結ばれており、これがすなわち「住」であり、法相を生じないことがすなわち「降伏」です。これは遠い脈絡です。「寿者見」の上では我相を破り、「発菩提」の下では法相を破ります。経典の中でたびたび無相が説かれていますが、ここで一つの大きなまとめとしています。
論: 此申言無四相,并無法相,意收拾一部經文也。前言菩薩無四相,眾生無四相,如來無四相,盡乎人矣。言一切法無四相,盡乎法矣。此言佛說無四見,蓋合人、說、法三者盡,而無相之義始全。於是復標發菩提心者,以結前問。應如是知,通達無我法,知一切法無我是也。如是見,不以色相見如來,以行正道見如來是也。如是信解,聞章句則信,說是法則信,種種解所說義是也。不生法相,離一切相是也。一切修持,俱攝成此,心無兩生,不生法相,則生如是心矣。又言法相即非法相,以結實無有法發菩提心之意。
論では、このように四相がないと述べ、また法相もないと述べているのは、一部の経文全体をまとめているのです。前に菩薩には四相がなく、衆生には四相がなく、如来には四相がないと述べたのは、人について尽くしたものです。すべての法に四相がないと述べているのは、法について尽くしたものです。ここで仏が説いた四見がないと述べているのは、人と説と法の三者を合わせて尽くし、それによって無相の意味がはじめて完全になるからです。そこで再び菩提心を発す者を標し、前の問いを結んでいます。このように知り、無我の法を達するとは、すべての法に無我であることを知ることです。このように見るとは、色相によって如来を見ず、正道を行じて如来を見ることです。このように信解するとは、章句を聞けば信じ、この法を説けば信じ、説かれた義を種々に解することです。法相を生じないとは、すべての相を離れることです。すべての修持は、ともにこれを成じ収め、心に二つを生じず、法相を生じなければ、すなわちこのような心を生じるのです。また法相はすなわち非法相であると述べているのは、実に法があって菩提心を発すという意味はないことを結んでいるのです。
講。 佛告須菩提曰:若人言:我曾說我、人、眾壽四見,是解我所說義否?須菩提曰:佛之所說,是人多不解其義。何以故?世尊所說我、人等四見,滯於形迹之私,流為物化之累,所見皆虗妄也。若真性中般若之妙,如大明當空,洞達無礙,即非我、人、眾壽之妄見,但虗名為我、人、眾壽見耳。佛曰:須菩提!若能發無上菩提之真心者,於一切事不起四見,識自本心,見自本性,應如是真知,如是真見,如是信受解悟,則無上菩提渾然具吾天真內,凡在外有
佛は須菩提に告げて言いました。「もし人が、『私が我・人・衆生・寿者という四つの見を説いた』と言うならば、それは私の説いた意味を理解していると言えるでしょうか。」
須菩提は言いました。「仏が説かれたことを、その人はよく理解していないでしょう。なぜなら、世尊が説かれた我・人などの四つの見は、形にとらわれた私的なものであり、物に流される煩わしさとなるもので、その見るものはすべて虚妄だからです。もし真実の本性における般若の妙が、大きな光明が空に輝き、隅々まで遮るものなく通じているようなものであれば、それは我・人・衆生・寿者という妄見ではなく、ただ仮に我・人・衆生・寿者の見と名づけているだけなのです。」
仏は言いました。「須菩提よ、もし無上の菩提の真心を起こす者があれば、すべてのことにおいて四つの見を起こさず、自らの本心を識り、自らの本性を見るならば、まさにこのように真に知り、このように真に見、このように信じ受け、解り悟るべきです。そうすれば無上の菩提は、おのずと我が天真の内に具わり、外にあるものは」